【名古屋城】徳川家康がここを選んだ理由は?「清州」じゃダメ?すべては地形図を見るとわかります!
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- Опубліковано 7 лип 2023
- 名古屋城は大都会名古屋の中心部に建つお城。誰もが知る観光スポットです。なんといっても有名なのが金の鯱。天守の上でキラキラ輝き存在感は抜群。片方の鯱だけで重さ40キロを超える金が使われているそうです。美しい弧を描いた石垣の上に建つ大小二つの天守。この天守は鉄骨鉄筋コンクリート製の現代の建築物なのですが、江戸時代そのままの姿をしているんですね。空襲で焼けてしまったのですが、それ以前に撮影された写真などが沢山あったとのこと。だから昔の名古屋城天守がどんな姿をしていたのか、詳しく知ることができたんですね。実は名古屋城の天守は江戸時代(1612年)から昭和(空襲1945年)まで、300年以上もの間ずっとこの場所に建ち続けていました。残っていれば世界遺産姫路城と肩を並べる貴重なモノになっていたでしょう。当時の名古屋の人々も、さぞかし誇りに思っていたのでしょうね。さて名古屋城を築いたのは徳川家康です(もともと那古野城があり織田信長が城主となっていたこともあります)が、その築城にあたってちょっと不思議なことがあります。それは清州城という別の城の存在。清州城があったのは名古屋城の北西。現在の清州駅の南あたりということなので、それほど距離は離れていません。若き織田信長が本拠としたことでも有名ですね。信長の死後も濃尾平野を統治する拠点として使われており、人口5万人を超えるにぎやかな城下町も広がっていました。この清州城がそのまま使わていれば、現在の名古屋は清州を中心とした都市になっていたのかもしれません。しかし、家康は清州を廃して名古屋にわざわざ城を築き、城下町もまるごと移転させたのです。どうして家康はそんなことをしたのでしょうか。それは「清州にないものが名古屋にあったから・・」です。
今回も面白かった😂
前回の江戸城編も拝見させて頂きました。
平城は桃山時代末期に権威の象徴として作られた側面が強いと昔習いましたが、いやいやそんなつもり無い、名古屋城も、大阪城も江戸城もバチバチの戦争対策の大要塞として作られたことよくわかりました。
今と違い、当時は海のそばにあり、高台や海や川を上手に利用して、計算して作られたんですね。今では想像つかないな。
そこが当時の先人たちの気概に触れられて浪漫たっぷりで面白い。
家康の街づくりが、今の東京と名古屋の礎を築いたとも言われています。名古屋の広小路通や100メーター道路ができたのは、その時の町割りが元になっています。
徳川家康、浜松、東京、名古屋の街を実質的に造った人といえ
東海道エリアではあまりに功績が大きいですわなほんと
ブラタモリでも特集がありましたね。台地の端に作るのは江戸城と同じなんですね。
コメントありがとうございます。タモリさんが台地の「キワ?」とか「端?」って楽しんでいる気持ちがわかります。
洪水が多いから清州から名古屋に移されたのは割と有名だと思っていた。
秀吉が小牧長久手の後、武力で家康の征討を計画していたけど
それが頓挫したのは天正地震で大垣城など前線基地が壊滅したから
この時、清洲城も液状化現象が発生したんだよね…(1586年)
家康はこの時の記憶が鮮明で、防衛拠点を造るならば強靭な台地に城を築かなければならないと察したと思われる(水害も多い上に城郭も小さい、おまけに地盤も弱いでは拠点たりえない……)
自ら地震という天災に救われたようなもので、同じことが今度は災いになるかもと考えたのは想像に難くない
おはようございます。
来ましたね!名古屋城。
移転の地形的理由がよくわかりました。尾張中心部は高低差の少ない地域ですから、少しでも要害の地に建てたのでしょうね。
ありがとうございました!
コメントありがとうございます。名古屋城です🏯
信長は清洲、家康は名古屋を選択したと見ると面白いなと思いました。地形だけではなくその時の情勢も大いに関係しているのでしょうか。
@@kainosuke-rekishi さん
清洲は元々織田の本家がいた所。信長は分家筋ですから尾張統一を果たした際「本家に代わって尾張を統治する。」ということを示したのかもしれません。
また、信長の尾張統一前の本拠は勝幡城であり、当時の尾張の経済中心地である津島や、蜂須賀氏の本拠に近い場所にあります。勝幡から見ると名古屋は清洲のさらに先(数kmくらいしか違いませんが)にあるので、津島や(蜂須賀氏などの)川並衆との連携が遠くなることを危惧したのかもしれませんね。
大都市名古屋の成立には、家康の深慮遠謀があったんだね。
豊臣家を滅ぼせていなかったら庄内川を堀として一帯を広大な要塞地帯として防御するって話、聞いたことあります
名古屋城を取り上げてくださり本当にありがとうございます。本当に名古屋城は確かに堅城ですけど本丸を守る重要な場所の二の丸周辺の反撃箇所が実質二箇所だけですけどその辺の対策はどうするのでしょうかね?南側の所と東側の所を封鎖されたら反撃が出来なくなりますけど。
清洲は上方勢力にとっての東への抑え。名古屋はその逆
水戸城とはエラい違うねー
デカい!!
いつか御三家の城を制覇するぞ
清洲城の黒と赤色、シックで良いですね♪
信長のイメージカラーなのでしょうか
すぐ横を通っている新幹線から一瞬だけ見えますよ。
清州城 信長 鬼こ〜ろ〜し〜♪
なんて テレビ コマーシャル があった。
低いところに城があると、水攻めされる可能性があるってことだよな。しかも相手が豊臣だし。
水攻めやられそうですね!
豊臣が滅亡したので総構等の作事が中止となった未完成の城ですが、それでも熊本城に次ぐ過剰防衛の堅城です。
清洲は漢字からして水害の危険性が高いですもんね
おかげで肥沃な土地でもあるわけですが
熱田台地の低い位置に、堀川、新堀川を切削。人工的に川を作るのなんて、江戸で川の流れを変えた徳川にはお手の物。
清州城は模擬天守の川向の石垣が正しですね。清州はシャビシャビの柔らかい土地。清州に城があったのは、五条川での物流を重視したんでしょうね。織田は軍事よりも物流重視で、水辺にしか、城を作らなかったですからね。
現在の模擬天守のある場所は、信雄か福島正則の時代に拡張された城域内のようですね。
本来の主郭部分はJRに両断されているし、線路に近すぎて建てられなかったんでしょうw
清洲城から五条川を遡って青木川という支流に入った少し先に、尾張守護の斯波氏の居城の下津城がありました。清洲城は元々は下津城の支城だったそうなので、同じ川筋にあるんでしょうね。
逆に「清洲にあって名古屋にないもの」が川。
福島正則に命じて防御と物流を兼ねた堀川を開削させたことは有名なお話。
d 2:41
清州城ではなく清洲城
「豊臣家 我らこそが天下人」これらの行動が目立ってきたので 徳川家も警戒したんでしょうね。 方広寺鐘銘事件は豊臣側の落ち度でしょう。 文字がものすごく大きな意味合いをもつ時代に 徳川ではなく「家康」の文字がでたのが偶然なら 果たして豊臣の文字がでたのも偶然だろうか? やるべきではなかった事でしょう。徳川家からの落とし所の案も蹴ってることから、
豊臣家として叛旗を翻すのは時間の問題だけだったとおもいます。
X「清州」 → ◎「清洲」又は「清須」