拓馬さん、配信ありがとうございました。私も長年の間、教会には行きませんでした。なぜなら、正しい教えをしている牧師がいないように思えたからです。もちろん私もよくはわかっていませんでした。私が気付いたのは、牧師が正しく聖書を教えているかが分かるには、自分なりに聖書を読んでいないとわからないと思ったからです。四苦八苦しながら聖書を読んでいくうちに、聖霊が働いてくださり、良き聖書の先生方に巡り合い、今では世界中の良き兄弟姉妹に出会うことができました。まずは、真の福音を聖霊の力によって、信じられる信仰を育てることだと思います。それには神様の恵みと憐みによって、真の悔い改めに導かれ、自分に死に自分を墓に葬り、イエス様とともに復活し聖霊をいただくことを(ボーンアゲイン)体験しないと、いつまでも善悪の木の実を食べながらでの聖書の学び、討論になってしまいますね。私たちは、善悪の木の実と命の木の実を見分けられる力は、イエス様の霊をいただかなければ無理です。それを選べることが本当の自由ですね。真の福音が世界中に届きますよう、お祈りしています。拓馬さんのお働きの為にもお祈り申し上げます。Peace in Christ
日曜礼拝が偶像礼拝とは…。Sunday、確かに。
私は教会へ行けなくなってもう10年は経過しています。献金、奉仕、伝道とやらねばならないことがたくさんある教会でした。全ての礼拝に欠かさず出た人しか聖歌隊に参加できず、歌が好きという理由では無理でした。教えていることは間違いなかったけれど、私は息が詰まってしまい、パニック症も起きたので行くことをやめました。
こちらの牧師さんのお話を友人が送ってくれました。気持ちが楽になりました。ありがとうございます。そして、そうやっていつも私を励まして下さる神様に感謝いたします。
ソレは、傷ついてしまいましたね、本当にイエス様が望む信仰とは考えますねー
イエスは書物ではなく、共同体を残されたという言葉があります。
こんばんは。
メッセージありがとうございます。
私はクリスチャンですが、教会に行く意味がわからなくなってしまい、教会には長い間行っていません。
ですが、神様の事は大好きですし感謝しています。
今こうして毎日を当たり前のように過ごせるのは、神様の恵みのおかげで、必要な全を与えて下さっているからです。
先日、教会員の方に偶然会い、神様の喜ぶ事をしないといけないと言われました。
教会に行かない事が神様の喜ぶ事ではないのかと悩んでいましたが、この動画のメッセージを聞いて、気持ちが軽くなりました。
本当にありがとうございます。
[行って]は[言って]に訂正します。
本当にその通りだと思います。
私もずーっとそのように思っていました。
なかなか言えないことですが、発信してくださり感謝します。
一人でも多くの方々が福音を知り、救われますように✨
嫁ちゃんが日曜に仕事の時は、孫と教会に行くのですが、子どものクラスがなくて、孫が退屈して困っていました。たくまさんの話を聞いて、毎週教会に行かなきゃという考えを改めました。日曜に孫が来たら、教会は休んで家でばあちゃん日曜学校をやろうと決めました!孫と楽しい時間にしたいです。私は、毎日がクリスマスでイエス・キリストを讃えていいと考えていたのでたくまさんの毎日が礼拝ですに大賛成です❤これからも色々教えて下さい。いつかたくまさんとともみんさんにも会いたいです❤ありがとうございます❤
めっちゃ賛同します‼️ありがとうございます‼️
サービス業がほぼほぼになってきた昨今て、サービス業に就いてる人たちはどうなるのかと常々ずっと疑問でした。
私自身もそうです。
こちらの動画を拝聴してとても安心できました‼️
勿論コイノニア(クリスチャン同士の集まり交わり)は必要ですので、行けるところに行くという感じでいます。
やはり個人個人の日々の主との交わりが一番大事ですよね。
スッと府に落ちました。励まされます!本当にありがとうございます‼️
クラウドチャーチもこっそり見に行きますね😊
救い を、単に個人の魂の救済であると捉え、信仰を個人的なことと捉えている人々の間では、教会を便宜的な集いと捉える傾向があります。教会の集いによって、個人個人の信仰が励まされ、強められるということが教会の存在の目的であると考えられるのです。
教会の集いによって個人個人の信仰が励まされ強められることは確かです。しかし、そのこと自体が教会の存在の目的ではありません。これは、私たちの信仰 の理解にとってとても大切なことですが、キリストのからだである教会は、神さまの創造の御業とその回復としての救済の御業のご計画の中に、中心的な使命を 委ねられた契約共同体として存在しています。
個人個人の信仰が励まされ強化されることは、教会がその存在の意味と目的にそって存在しているなら、必ず、”そ の結果として”生まれてくるものです。また、信仰をお互いに励まし合い、強化する必要がなくなるであろう、キリストの再臨後の新しい天と地においても、キリストのからだである教会は、意味あるもの、目的を持つものとして、存在し続けます。
「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」ということは、 天地創造の御業によって造り出された最初の状態に回復されるのではなく、その完成の状態に至ることを意味しています。言うまでもなく、それは、終りの日に 再臨される栄光のキリストによる再創造の御業によって造り出される「新しい天と新しい地」(黙示録二一章、二二章)として実現する世界のことを指していま す。この「新しい天と新しい地」において完成する歴史は、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった御霊のお働きによって、すでに始まっています。その”中心にあるのが、栄光のキリストのからだとしての教会の存在”です。
「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ人への手紙1章22節、23節
私はこの通りに信じています。
小林さん、ありがとうございます。私が行っている教会の牧師は、日曜礼拝は、優先順位を一番にするように、言われ、一年行かれない姉妹は、名簿からはずされてしまいました
献金袋は、送られてくるそうです。おかしいですよね😢
私は日曜日教会行くの好きですよ。行きたいから行く。毎日でも行きたいけど仕事や家庭があるし、家にこられても家庭集会なんてできないから日曜日の礼拝がありがたいと思います。大切なのは神様を信じて従って歩むことですよねー
私の教会にも日曜日教会に行くの好き毎日でも教会に行きたいくらいって言ってた人が、教会に来るのが辛いって言う人の気持ちが分からないって言ってるのを聞きました。
怖すぎる。
前々から思ってることを代弁いただき、ありがとうございます!
以前にいた大きな教会は、仲良しグループのサロンみたいで、当時は教会内で自分を発信しようとしていた罪もあったのですが、神さまを静かに礼拝するよりも、他人の目や評価が気になって、いつの日か苦しい場所になり、そこから離れて十年くらいになります。ただ、出勤前に職場近くの別教会の早天祈祷(3人くらいで静まれる)には継続的に通っており、日々の仕事においては、祈りの中に主のご臨在と助けをますます実感しています。
サマリアの女がイエスさまと会話したように、この山でもエルサレム神殿でもない、どこでも霊と真をもって父を礼拝するのが、私たち本来のクリスチャンの姿です。
神さまを畏れつつ、誤解がないように申し上げますと…私は天国を目指す地上人生の旅の途上にあるわけですが、以前の所属教会に通っていた頃も、そこを離れてこれまでに様々な教会を巡っている間も、公同礼拝での賛美や説教から大いに励まされ、慰められ、恵みを頂いてきました。礼拝の奉仕者を備えられる主に感謝しています。
ただ、「おらが教会が一番」だと誇らしげにして、人前の奉仕や会話相手探しに苦労して疲弊し、御前に静まって心を注ぎ、御声を聞くという肝心な事を忘れてしまっている、本末転倒な、何か勘違いしてるような傾向には、強い違和感を覚えてきました。
また、信徒をたくさん獲得して教会を大きくすることも、福音拡大は主の望みですが、営業成績のように数字ばかりを追い求めて霊的ケアがない中身が伴わないことや、教会財政は善き管理人として大切なことですが、「主に捧げなさい」という牧師の号令のもと、信徒たちが過度な伝道や奉仕に追い詰められる話も聞いたりします。こういう傾向にはカルト的なものを感じます。
そこに、天の父から心を離そうと、サタンの計略があるのでしょう。
聖なる普遍の教会とは、世俗的な慈善団体でも営利団体でもありません。
みんな、御言葉に励まされて、神さまと一対一で繋がってほしいです。
イエスさまを知らない世の人たちといろんな場面で交わって、証をもって主御自身と自分の喜びを現したいです。
拓馬さんのこの動画の主旨の1つは、「日曜日の礼拝は悪いことではなく、集まれるのはむしろ良いこと」であり、
「日曜日の礼拝が絶対だとしている教えが間違い」だと私は解釈しています。17:48
思い出しましたが、
私が行っていた教会は、
「日曜日に行う主日礼拝は、神様からの特別な祝福がいただける日。来た人には更に大きな祝福がある」
として、日曜日に(体調不良でも用事があっても)来れない信者に罪の意識を負わせ、更に皆の前でも明に暗に批判をしていました。
本来の礼拝は、霊と真をもって神様に捧げていくことだと思っています。
が!現実は厳しく、私の生き方とはいうと、本来の礼拝からは程遠いと思う毎日です。14:06
定期的に神の宮(教会堂でもネット教会でも✨)集まれる環境があれば、そこで神に集められた人々と共に礼拝を捧げられることは本当に素晴らしいことだと思います。場所や方法、曜日は関係なく☺️
神様のこのような真の教会が用いられ、この終わりの時に救われる方々にどんどん広まっていくことを祈り続けます。
アーメン!
同感です。もし教会に行かなければクリスチャンではないと思う人がいたら、それは「技による救い」になってしまいます。イエス様の死だけでは完全ではないと言っているようなものですからね
心が軽くなりました。牧師さんにあなたの賜物は?と聞かれ、クリスチャンとして賜物を社会に活かしていくことかと思えば、教会の中で活かす意味で聞かれたのだと悟った時、大きな違和感を感じました。自分がクリスチャンになったのは教会のためじゃない。
モヤモヤが晴れました!ありがとうございました。
みことばに、忠実に説明を感謝します!アーメン!同感です。集まってもクラウドで参加しても共にみことばを受け取り隣人と繋がりを持てる場所にして行きたい、そう思います。
動画みて、納得です。
日曜日礼拝厳守で仕事とのやりくりで苦労しました。
組織化していてプログラムにそって礼拝がすすめられ 自分も含めてですが疲れていないのかなとおもっていました。
毎日が聖霊によって礼拝、賛美、祈りがあります。
礼拝が守れない事が信仰が有り無しとか、堕落しているとか熱心さがない、他人のつまづきになるなど人が人を裁くことにならないようになる事もねがっています。
解説を感謝します。
ALL納得アーメンです🎉素晴らし過ぎる 拓馬さん通して熱く聖霊が語ってると感じますけど、これまた確実に教会牧師先生方に危険人物視されますねw 日曜礼拝を否定されてない 負担に感じてる方には救いのメッセージと思います いい天気の日曜日に建物に閉じこもるより散歩したほうが健康的ですわ まぁ、今からは暑くなる季節なので散歩も熱中症注意やけど 拓馬さんみたいなジーザス熱中症はキモチいい ハレルヤ!!
今晩は、拓馬さん あらら教会に(建物)喧嘩売ってますね(笑)それは上端ですが、多くのキリスト教会は日曜礼拝が当たり前だと思っている中で本当の事を言うのは素晴らしい事だと思います。どうか語り続けて下さい。応援していますよ☆
全く同感です!
真理過ぎて、笑っちゃいました😅
目から鱗。毎週日曜日に教会に行くことを神聖視し過ぎない事と休む事を大事だと認識しました。
逆に日曜日の礼拝は絶対行かないといけない。部活とか仕事を強制的に休む事は異端の始まりかも知れません。
私は聖書が好きで教会に通い始め、バプテスマは受けてない一般の者です。私はSDAの土曜と日曜の教会に通っています。私は教会へ通うことは楽しみで苦にならないタイプですが、前々から教会員の方々があの人が来てないとから言って、心配していることに不思議でした。その人は、その人の仕事などの都合もあるのにと。それから教会によっては奉仕が忙し過ぎて、参加したいのに聖書勉強会に参加できない人もいたり、わざわざ教会へ行くために、そこは土曜日が休みだからと言って、きつい仕事がやめられなくて続けている人がいたり不思議でした。何でそこまでやるの?と。一般人の私から見ると教会は不思議だらけですよ。聖書を勉強して、神に祈り、聖書に立ち返って生きて行く。そしてたまには信者同士で信仰を励まし合う。それだけじゃダメなのかな?と思っていました。
月曜日から土曜日まで仕事して働いてクタクタで日曜日は朝から礼拝、昼ごはんはさんで午後からの集会、終わったら夕方とかを以前はやってました。若かったからできたかもでしたが本当はしんどかった。安息日はどこにあるんだろう?と心の中で思ってましたが言い出せる雰囲気はないですよね~
こんにちは🤗
いつも参考になる動画をありがとうございます!
確かに、たくまさんの
言う日曜日でも働く人が
いるから、バスや電車で
教会に足を運ぶ事が出来ます💦今やほとんどの教会や集会は日曜礼拝です。
私は大きいキリスト教会から小さいキリスト集会へと移りましたが、そこも日曜礼拝です。日曜礼拝の理由を聞くと、日曜はイエス様が十字架の死から復活され
たから、その日を祝う気持ちで礼拝するそうです。
金曜土曜の安息日関係は
クリスチャンはこだわら無くてよいと言われました。
それに対し反論はしません
でしたが、要は教会も集会
日曜礼拝は日本も含め世界的な規模で行われいるのでしょう。けれど私は絶対に
日曜礼拝行くべきとは
思っていませんので
日曜も休みたい時は休むようにしています😅
ありがとうございます!
スパチャありがとうございます!!
素晴らしい👏
わかりやすい&的確。
異論の余地なし。
礼拝を休むとレースを脱落したと思われる。悲しくなることある。
礼拝日を休む🟰肉体的にも本当の安息日では?
体調が悪ければお休みになっても良いし、遊びに行っても良いと思います。何故、レースから脱落したと思われるのか?不真面目だと思われているからですね。
神様を感じる事は何も教会に行ったから感ずる訳ではないという事はご存知ですよね。
しかし礼拝の意義は?私は説教をなさる方は神様がお立てになった方だと考えますのでその方を通して御言葉を受ける事は非常に大事だと思います。 今は小林さんの様にオンラインで語られる方も当然多いですよね、時代的な恩恵を誰でも受けようと思えば直ぐ受けれます。しかし教会という所は皆さんが良く祈る場所で有るからして清められていると思うし守られている場所でもあると思います。一歩外に出れば俗界ですからね(笑)
しかし現在は良くも悪くも多様化がどうのこうのの時代なので負債を負わないで無理なく自分を開放して軽く歩むようになされば良いと思います。横の関係でそう感じるのか牧師様から感じるのか分かりませんが率直に牧師様にお話しすればいいですよ。横の関係は全く気にする必要ありません。
神様と貴方の関係ですからツールを使っていると思えば気持ちも楽になる。
今の時代に生きているということは凄いですよね。歴史的な瞬間にもしかしたら立ち会えるのかもしれないのですから。神様は既に勝利されているのかも。歴史の終わりが来ているのですから。でも再臨主はまだいらっしゃってないから勝利はしていないのかな!
@@聖槍エヴァ 返信していただきありがとうございます。私が休むと、まさにあなたのように、「横の関係でそう感じるのか、牧師様から感じるのか分かりませんが、率直に牧師様にお話しすればいいですよ。」と言われるのです。あなたのような人間がいるので、そう思ったのです。頼まれてもいないのに、出席をとるようなことをすべきではないと思います。
私は、横の関係にも牧師にもつまづいていません。
小林拓馬さんありがとうございます😊
あたしも日曜の話は聖書に書いていないと言ったら怒られました(笑)安息日が日曜に変わったとか…呆れてその教会から離れました。
けっこう大きなグループの教会です。
仕事の都合で、「クリスチャンにあるまじき」と自責してる人を見てきたので、悪くない動画だと思います。
すげえ!
よく勉強されてますね。
おっしゃる通りですね!大変賛同させて頂きました
本当にそうですね。聖書に書いてない事にこだわりすぎるのはもはや...ですね。神様の本質に立ち返りたいと思います
凄くよく分かりました。有難うございます。
逆にイエス様が亡くなられた日、ペンテコステの日が日曜日だと言うことを失念しておりました。お恥ずかしいです。
そして日曜日の礼拝は、単純に安息日だからかと。
今日の配信を拝聴し、目から鱗が取れたようです。
感謝致します。
全世界の教会と信徒のお働きが神様に喜ばれますように。私の信仰が外れていきませんように🙏
全世界の牧会者の方々が神様の御言葉を正しく噛み砕き述べ伝えられるよう祝福されますように。
私の父が開拓した教会では、日曜日以外の土曜日、火曜日にも教会員のニーズに合わせた礼拝を設けています。
確かに!私が教会で他の信徒さんに、「私は今年になって一度も教会を休んでません」と自慢げに話すと少し皮肉混じりに「信仰とは何かを達成することではないですよ」と言われました。恥ずかしかったです。教会に欠席しなくても神様から花マルをもらえるわけじゃあるまいし、、、。w😅
ジョン・ウェスレーは教会で待っているのではなく自分から貧困層に出ていったけどな
主日礼拝は教会の運営の為だと思います。礼拝献金の収入が目的だと思います。たくまさん詳しい解説ありがとうございます。どなたがコメントしていらっしゃいますがあちこちの教会で友人ができたとのこと、素晴らしいです。
日曜日に教会に出ればいい。みたいな逆に免罪符化してるよね。週の1/7さえクリスチャンぶってればアイデンティティ肯定できるもんね。
自分が週の7/7礼拝できるように祈ります。
私がずっと疑問に思っていた事が確信に変わりました。日曜日に集まることは悪いことでは無いですが日曜日に集える事は日曜日に働いてくれている方のおかげですよね。
私も日曜日に仕事してたので教会からは烙印を押されました。
家族の運動会を優先すると否定されました。日本にクリスチャンが少ない理由がわかりました。
中々教会にいけなくてすみませんと、うちの牧師さんに言ったら「いいんですよ、礼拝はどこにいてもできますから」って言ってくださいました。
私は冬が苦手過ぎて冬の期間や、梅雨は雨の中行きづらくいけてないことが多かったのですが今はUA-cam礼拝もありますからねw
外に出て福音宣教
これは高校時代に日曜日午前の礼拝終了後の午後必ず路傍伝道として実行しておりました。街の中心部に出向いて通行中の皆様に聖書の御言葉を語りかけて
イエスキリストの救いを伝えておりました。楽しい日曜日でした。
土曜日は小学生の子どもたちの集会を集会所以外の場所に出て行って行っておりました。金曜日は聖書の学び会、木曜日は早天祈祷会、
水曜日は青年集会、火曜日は福音集会、月曜日休み。一週間で月曜日だけ休みでした。月曜日以外は交わりや祈り、そして聖書の学び会と集まっていました。教会を移ってからは毎朝集会してから出勤ということも経験しました。兄弟姉妹が家を解放して出勤途中に寄って集会と交わり食事してから毎日ある人は会社へある人は学校へ行ってました。初代教会に近い生活。素晴らしい日々でした👍
毎日集会毎日兄弟姉妹の交わりの中に生きておりました。キリストのからだを意識出来るくらいに素晴らしい教会生活でした。今はこだわることはありません。集まれる時に集まって出て行って福音を伝えて行ければそれで良いと思います。主に感謝します。ハレルヤ🙏
私はアメリカ在住の専業主婦です。パートで仕事をしていた時もありましたが、どっちにしても、日曜日だけが、家庭から離れられ、教会の家族に会える日でした。今は、日本語の礼拝もあり、英語の礼拝も両方あるので、大変ですが、転勤家族なので、次に行く場所は、教会から何マイル離れているのかさえ、怪しい、ド田舎。長年(15年)通ったこの教会を離れるのは辛いのですが、でも神様に期待して確信を持って引っ越そうと😅😅
安息日を聖なるものとせよ、という聖書の言葉って、そういう意味じゃありませんよね。集まるのをやめてはいけない、も。土曜の夜、オンラインで集まるっていい方法ですよね。我が家は日曜の朝、フリマに参加して、公園伝道したりします。
その通りだと思っています。「人が安息日の為にあるのではなく、安息日が人の為にある」と考えています。
私もコロナ禍が始まって以降、日曜日に教会には数回しか行ったことないです。最近は全然行けていません。
その事に罪悪感みたいなものを感じたこともありましたが、悪くはなかったのだと安心しました!
クリスチャンとしては20年ほどなのですが、教会はほぼ通っていませんでした。
なので教会の文化に関して無知だったので、そこまで日曜礼拝を神聖視している
とは知らず、ありがとうございます。
あと日曜日が異教由来だとは知りませんでした。感謝。
日曜日を神聖視することに対しての問題提起は素晴らしいですね。
わたしの教会は特に神聖視するとかは無いので、居心地もよく
通わせてもらっています。
そういう教会ばかりでは無いんですね。聖書に沿った価値観の教会が
増えてくれることを願い、お祈りしていきます。
あと、そうですね教会として伝道をどうして行くのかは私の直近の課題でも
あり考えさせられました。ありがとうございます!
「日曜日に教会に通わなければならない」
偶像礼拝と共に律法主義的ではないでしょうか?その言い方をされるとまさに「疲れた人に重荷を負わせている」あの有名な御言葉と真逆ではないですか?教会内ではそうした事が多々あると思います。
イエスキリストは、アメリカなどではかなりフランクな友人のような存在で、日本の礼拝に来るとめちゃめちゃ崇め奉ってて、びっくりしたなどと聞き、また、三位一体のうち、キリストだけイメージできていなかった僕は、
今年の初旬ごろ、イエス様に自分からアプローチしようと、いろいろ祈ってみた結果、すごい「いいじゃんw」とかいうイエス様像が共にいます。
賛否両論でしょうが、悪鬼も天使の顔をして現れるなどと言うことから、やっとイエス様を感じられてると感謝する一方、もっと「キリスト」として崇める必要があるのか、とこの動画を見ていて思いました。
キリストが犠牲を払ってくれたことへの感謝は必要かもしれませんが、日常的にイエス様に相談する祈りをする・・・これはどうでしょう。
拓馬さん、配信ありがとうございました。私も長年の間、教会には行きませんでした。なぜなら、正しい教えをしている牧師がいないように思えたからです。もちろん私もよくはわかっていませんでした。私が気付いたのは、牧師が正しく聖書を教えているかが分かるには、自分なりに聖書を読んでいないとわからないと思ったからです。四苦八苦しながら聖書を読んでいくうちに、聖霊が働いてくださり、良き聖書の先生方に巡り合い、今では世界中の良き兄弟姉妹に出会うことができました。まずは、真の福音を聖霊の力によって、信じられる信仰を育てることだと思います。それには神様の恵みと憐みによって、真の悔い改めに導かれ、自分に死に自分を墓に葬り、イエス様とともに復活し聖霊をいただくことを(ボーンアゲイン)体験しないと、いつまでも善悪の木の実を食べながらでの聖書の学び、討論になってしまいますね。私たちは、善悪の木の実と命の木の実を見分けられる力は、イエス様の霊をいただかなければ無理です。それを選べることが本当の自由ですね。真の福音が世界中に届きますよう、お祈りしています。拓馬さんのお働きの為にもお祈り申し上げます。Peace in Christ
コメントありがとうございます。「牧師」という存在がなくても、互いに学び合える関係性を構築できるというのが普通になったらいいなぁと思います。
偉そうな言い方ですみません、でも貴方のように残された民がいることに励ましを受けましたので、コメントさせてください。
主の霊は生きていて、今でも聖霊はご自身の民を教え、そして主の羊は羊飼いの声を聞き分けますね。
おっしゃる通り、善悪の知識の木の実を食べながらの討論や論議は無意味です。それは互いに肉を誇るだけで、一方に与し他方に反対することで高慢を生み出し、分派や分裂を起こすのみです。
大事なことはイエスキリストに生きることですね。日々自分の命を否定し、十字架を負い、イエスのくびきを負って一組に繋がれ、イエスから学びながら歩むことこそがいのちの道です。
キリストに従うものは、自分から言葉を話しません。自分の言葉を持たないからです。そして密室で父から聞いたことだけを公で証するのです。それは父がイエスを派遣されたように、イエスから派遣された人でなければ決して起きえない神のみわざです。
私はこう思うのです。愛によって働く信仰こそが大事なのではないかと。なぜならばイエスの生きた信仰のみが、私たちに愛の実を結ばせるからです。そして終わりの日に問われるのは、日々主イエスの言葉に従い、父の愛の実を結ばせたかだけです。
お互い主イエスを愛する者として、目を覚まして祈り、心を尽くして今日もイエス様を礼拝していきましょうね。貴方のうちにある啓示は、まさしく神からのものです。
そして貴方が神から見せてもらっている預言と啓示は、必ず近い将来成就すると感じます。祝福を心からお祈りしています。
@@Family-Jesus-T アーメン!ありがとうございます。とても嬉しいです。ともに主を愛し、ともに励まし合い、教え合い、叱責し合う兄弟姉妹が世界中におられることに感謝いたします。主は生きて私たちの為に働いてくださっていますね。私もお祈りしています。Praise the Lord!!!
日曜日に仕事の人がいないと、電車に乗ったりバスに乗って教会に行けません。運転手さんが日曜日に働いてくださってるおかげですよね。安息日厳守と旧約聖書から厳しい言葉で責めるのは違いますよね。
安心しました。日曜日にはいけなかったので悩んていました。每日が信仰。ここの教会をあたしの教会と
します。本当に安心しました。土曜の夜のほうがゆっくりできます。日曜日まで拘束されるのはきつかった。平日働くために掃除したり、買い物にいったり、家族と楽しい時間をすごす大切な日です。よかったです。もやもやが晴れました。
日曜日にこだわらなくて良い事は
目からウロコです。
休む事も必要ですし、
外に行って福音を伝える事は御心ですね。
毎日が礼拝、伝道ですね。
いつもありがとうございます。
琢馬さんこそが真の牧師 (先生) だと思います。
教会で先生と呼ばれている牧師達は
外で福音を伝えないで、
日曜礼拝を守って十分の一を持ってきなさい。と教えています。
そんな牧師達に対して、
イエス様は「知らない」と言われるんですよね。
私も31年前に啓示を受けてから、
多くのキリスト教会を見てきましたが、
心から尊敬できる牧師は非常に少なかったです。
なので今は教会には行かずに、
「悪徳警官撲滅運動で検索!」のホームページを作って、
警察官を中心に個人伝道をしてきましたが、
来年の2025年からは新しい車を作って、
別方面に、『裁き主イエスの再臨』の伝えていく計画中です。
最近、たくまさんの動画を見始めて、たくまさんがしっかりと学び、わかりやすく解説しているので、聖書を味わうことが楽しくなっています。今回の話も、心のうちに完成しつつあった固定観念を完全に打ち壊され、心を純粋にしたリセットした上で、聖書から学び自らの行動をどうするか…考えることができました。ありがとうこざいました。
さて、今回の話とは離れますが…たくまさんが時折、「予言」という漢字を当てていますが、教会では「預言」という漢字が当てられいることが多いのですが、たくまさんはあえて「予言」としているのでしょうか?
もしそうだとすれば、たくまさんがなぜこの漢字を使っているのかしりたいです!
もしかしたら別の動画ではなしてくださったかもですが…よろしくお願いします☺
小林さんこんばんは、
日曜日に教会に集まるとは聖書に書いていなのですね、僕は聖書を完全には読めていないのですが、小林さんの動画はとてもためになります。これからも頑張ってください。
ちなみにあなたの動画がきっかけで岩波訳聖書を買いました。😊
まったく書いていないです。ありがとうございます
聖書を楽しんで下さい!
高原剛一郎に対してのUA-camを見させていただきました。
高原さんは素晴らしい方です。
高原さんは聖書通りの方です。裁くのは神のみだからです。
金子さんも高原も小林さんもみんな素晴らしい神の作品だからです。
だから高原さんは金子さんに対して正しいメッセージをしたと思います。罪人を救うためにキリストはあたし達の罪のために死んでくださった方です。
神が愛だからです。
高原剛一郎さんの批判を聞いて悲しく思いました。
高原さんにたくさんの方が助けられているのですよ!ハレルヤ
かなり好戦的と感じました
そこに神の栄光があるのかね。
もちろん、同感です。
わたくしは現在、教会という“組織”には、興味はありません。
人と人との繋がりにこそ、霊的に惹かれますね!
わたくしには、あちこちの教会で友人が居ます。
礼拝は、毎日、ですよ。
一瞬、一瞬、主と共に友人と語り合うことが、霊的歓びです、
自己満足を砕かれたり、励みを頂けたり、、! ですね。
また、新たにクリスチャンのかたと出逢いたい、、望みは、もちろん、持ってます!
ただ 組織として存在する教会には、それなりの活動、組織でこそ、担える事情はあるだろう、と思いますが。
私は命に係わる事例以外、絶対参加と牧師から言われましたよ。
だから信者が増えないのかなとも思いました。
心の安寧を得るために教会に行くのであり、それが得られないのであれば行く必要はないと思います。人のために信仰があるのであり、信仰(組織維持)のために人が在るわけではありませんので。
NICE!私は、それに心を責められ続けた。そして、一匹狼🐺を批判したメッセージに心を痛めた。
私は教会に入会した当初は
日曜に教会に行く事が楽しみでした
(バブル期仕事が忙しくなり、休日出勤で教会に行けない時は実に残念でした)
···
コロナ期に教会に集まれず
配信映像にて礼拝をしている時、教会の建物が必要なのか?と想わさせられました···
昨今は仕事やライフスタイルの変化に対応した信仰も
必要なのかな~と感じてます。
この動画の見ている途中は極端な内容にちょっとヒヤヒヤしてたけど、最後の方にバランスの取れた言葉を言ってくれて、それが1番大事だと思う。日本の多くの信者は聖書における知識や理解に欠けていると思います。教会から離れ、孤立してしまっては更にその霊的成長の妨げになります。自分で聖書をきちんとした学び方法が出来る人はいいんですが、ほとんどの人はできないのも事実。やはり小林さんのような御言葉の購解の賜物を持っている牧師から教えてもらう事を必要としているクリスチャンはたくさんいます。1番怖いのはそのクリスチャン本人はそれに気づいていないことです。
教会によってつまづいて行かなくなったクリスチャンをたくさん知っていますが、その中に霊的にバックスライドしたり、罪おぼれ、または成長が止まってしまっている者が多い。日曜日じゃなくてもいいんだけど、やっぱり教会に集まることには大事な意味理由があると思う。また、教会の外に出ていき、福音を広めることは僕も大事と思っているけど、現実はその多くは御言葉の知識理解において乏しく霊的枯渇しているため、何も伝えられない者は多くいるのも事実。こういう人たちはまず教会に集まり、御言葉の解き明かしを賜物のある者から学び、互いに励まされ励まし、御言葉を実行して、御言葉における知識に満ち溢れてから外に初めて出て行く必要があると思う。
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
ヘブライ人への手紙 10:25
正に今、自分の大きな悩みに対するメッセージです。数年間、日曜礼拝で定期的に司会等の奉仕をしていたけど、今、ほとんど所属地域教会から離れてしまっています。本当に地理的には近いのに、遠くなってしまった感じです。地域教会所属以前から、また、その後から自分の学びのために継続的にインターネットで礼拝等していたところ(ハーベストタイムとMACF)とは今も繋がりを持っていますが、性格的なところもあって、何かいわゆる「交わり」が決定的に欠けている感じもして、、、
ちなみに、仕事がシフト制で、人手不足、休みもそんなにない状況です。教会からラインが来ると、却って自分が悲しくなることもあります。
私もずっーとそう思っていました、
教会の中だけで、出来上がっていて、奉仕して、自己満足して、その割に交わりが、ないのです、信仰を携えて外に出て行きましょう!
UA-cam見て、きいて、霊性を保ちましょう!
日曜日のとらえ方を幅広く教えてくださり感謝します。また世界に広く述べ伝えるお話も本当にそうだと思いました。私は家庭連合のものですがそのように家庭連合では全世界に出てゆきこのまえJAPANRevivalという集会をもちました。
クリスチャン委員会ごっこをしているクリスチャンは確かにいらっしゃいますよね。日曜学校によって小さい頃から臨在を伝えるには良い機会ですし、罪を許されていることを毎週確認するには良いことでもありますね。
いつも分かりやすい解説ありがとうございます。過去に聖書を3回通読しているのですが、例えば聖書には「恐れてはならない〜」という言葉がたくさん出てきますが、ある意味、その人物(例えばヨシュアなど)だけに語った言葉ように思えます。聖書が、〃我々信徒全員に語っている〃というのがわかる聖書箇所はあるでしょうか?
例えば、ローマ15:4「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです」
テモテ第二3:15-16「また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」
(上記の「聖書」はあくまで「旧約聖書」です)
おっしゃる通り、例えばヨシュア1:6-9の「恐れるな」は、一義的には神がヨシュアに語ったことです。しかし、そこから神が神に従う者をどのように守ってくださるか、神様のご性質を学ぶことはできます。
私たち異邦人は、聖書の言葉から、神様はどのような方であるか、神に従うことの重要性など、普遍的真理を学ぶことができます。一義的に適用するのは、注意が必要ですが、そこから重要な要素を学ぶことはできます。
@@ura.cloudchurch ものすごい分かりやすいご回答、ありがとうございます。
ただ普通に聖書を読んでいただけではダメだということがわかりました。
今後噛み締めて読むようにします。
とても為になる内容で大変勉強になりました。目から鱗です。クリスチャンになったら毎週日曜日の礼拝に参加しなければならないという固定概念がありました。これからのクリスチャン人生をじっくり考え直したいと思いました。
これは自分も同じようなことを思ってましたね。
日曜に教会に来る人が増える=リバイバルなら、仮に国民全員が日曜に教会に集まったら喜ばしいどころかむしろまずいのでは?病院、警察、電気水道ガス、交通、飲食店とか全てストップするけど大丈夫?何なら僕らは教会に行くために日曜日に電車・バス使ったり、日曜日にコンビニとかレストランも利用してたりするよね?
などと考えたことはあります。
確かに僕も日曜に自分の教会で捧げる礼拝は大事にしていますが、教会に来る・来ないにこだわるよりもキリストと共に歩む生き方に目を向けていきたいと思いました。
「集まりを止めないように」とも聖書には書かれていますね。
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互いの励ましなく霊的成長は難しいはず、お互い集まる場と時間を提供すべきではでしょう。
必ず日曜日とは言いませんが。聖書には必ず日曜日でなければとは書かれていません。
1970~1980年頃のアメリカ西部劇、マカロニウエスタン映画などで
日曜日礼拝に行くシーンがよくあり それが西洋の教会だと信じて
現在まで続いているのかも。
何年か前にハーベストタイムのメッセージ、確か3分メッセージで、日曜に礼拝を捧げる事が正しいのではなく、毎日が礼拝だと聞きました!
必ず日曜日でなければとは言いませんが、
日曜日に集まるようになった根本的な理由がわかれば、共通認識がわかるでしょう。
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聖書には日曜日に集まれとのみことばは書かれていませんが、日本においては日曜日に集まりやすいからでしょう。
キリスト教以外で考えも、なぜキリスト教と関係の無い一般社会でなぜ、日曜日が休日と定められたのでしょうか?
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多数の人が日曜日に休まれますよね。集まりやすい理由もあるのでしょうか?
わたしは、毎週、教会に行ってめぐみをもらわないと生きていけないから、行っています。
行きたいから自主的に日曜日に行くのは良いこと。強制がいけない。
amen。私も教会、牧師先生、信徒さんみんな大好きです。
おっしゃる意味は、よくわかります。礼拝は、どこでも、守られますが、人間は、弱いので日曜家でついテレビ見たりして、気分悪くなったりします。お買い物行ったりすると、物欲も出ます。ある意味信仰生活、教会生活は、誘惑から守られています。将来小林さんも、意見変わるかもしれません。ですからご自分の考えでなく、聖書の言葉を語って、皆さんを励まして下さい。
「~しなければ」という教会は、聖書の中心主題である神さまの恵み&恵みによる無条件の愛から離れ、律法主義に染まってしまう危険性に陥ってしまいますね。
私の父が大阪で開拓した保守的福音派Non−Denomination単立教会は現代でも日曜日に主要となる礼拝を行っていますが、その前提は、大勢が集まりやすいからです。
日曜日、今の私にとって、必要な集まりです。
そして、すべての日が、礼拝の日です。いつでも主を称えることが赦されている、神の祝福に感謝です。
日曜に集う他にも、曜日や時間を決めて色々集まります。場所は教会じゃないです。
地域に建てられているすべての教会は、みんな不完全です。
イエスによる完全な回復の時が与えられるまではこの世のすべては不完全と、みことばから教えられていると認識しています。
主が、私たち一人一人にくださった、自由意思のお与えに感謝しています。
不完全のゆえに、学びが有意義であり、餓え乾きが与えられ、神のあわれみがあり、確かな恵みがわかり、神への信頼や確信と、自分の不完全さや、へりくだりの大切さが、わかること…神の愛を示されている豊かな日々に感謝です。
私は日曜の教会の時間が楽しみです。学びも、交わりも。問題もあるけれど、神様が一緒に居て下さってのこと…これが理解、納得できることもまた、私の手柄ではなく、内に御霊が住んでいてくださる証で、励ましで、インマヌエルの確信です。
この世界で生きるには、バランスが必要だなといつも思います。
自分の目で、自分を見ることはできません。互いが与えられていることの幸いを、本当に、神に感謝しています。
直接顔をあわせてて交わり会える、神の祝福に感謝です。
日曜でも、他の日でも、いつでも、神と共に、福音の種まきに出掛けられる日々が与えられていること、本当に感謝です。
間違いだらけの私です。でも、私の弱いところに、主は現れてくださっていると信じています。
限られた肉体の命の時間を、神様に信頼し続けて生きて行きたいっていつも思い、できることの実行をしてみています。
たくまくんのチャンネルや配信に感謝です。ここに書き込みを赦してくださっていることも。
すべて、ただ主に在って、ありがたいです。
行けるひとは行けばいいし、そうでないひとは自分で信仰すればいいと思います。行けないひとを批判するのがいいことではありません。
安らぎも必要だよね
そう教会あってもね~
バランスも良くないよね
日曜日に教会これないからダメはダメだよね
色々ありがとうございました
クリスマスも異教の祭りとがっちゃんこですね!
おっしゃる通りです。
信者が集まることはヘブル10:25で勧められている事だと思いますよ。でも、おっしゃることの意図はよくわかります。日曜日を絶対視するとか信者の会議のスケジュールでいっぱいになってしまうのでは残念な状態で、それでは大切なことが得られない。私は各自が瞑想する時間やカジュアルなトークができる時間も、大切だと思います。見える事ではなく見えない部分に主の与える本当の価値があるってことかな😊
はい、その通りですね。動画でも言っていますが、集まることは大切だと思います。しかし「毎週絶対」とか「日曜日が聖なる日」というのはおかしいんじゃないの? というのが主旨です。
ちなみにヘブルの記述の背景には、迫害があり、迫害を避けるために集うことをやめてしまう信者が多かったという事実も重要だと思います。例の感染症の時に僕はその言葉を思い出しました。
おお〜❣️
たくまさん、ありがとう😭ちょうど私行くべきなの?って思ってたのー
子どものために行くべき?と悩んでたー
お聞きしたい事があります。
クラウドチャーチでは、賛美🎵はされていますか?
されているとしたら、福音賛美歌?ワーシップ賛美は、捧げておられますか?よろしくお願いします。😊
こんにちは。確かに現在の教会と言う組織、教団、司祭制度や牧師制度、神学校、献金袋など・・、非聖書的な事が多すぎますね。しかし、その様な中にあっても本当に神を愛して奉仕している人は沢山います。
先ず、聖書に教会と訳されている訳は、教会組織の中に属しているクリスチャンの考え方が反映さえれていて、誤訳ですね。正しくは集会=召し出された者の集まりで、決して教会堂を指しません。
小林様が言われる通り礼拝は毎日であって日曜日限りのものではありません。使徒時代初期は毎日信者が集まっていましたが、それは「キリストの再臨がすぐにある」という考えからだと思われます。同時に「パンを割き」使徒2:42にあるように、主イエスの言葉の通りに(ルカ22:19,20)パンと杯をもって主イエスを憶えていました。それが時代の流れと共に日曜日に定着しましたが、そこに特に聖書的な根拠は無く、実際には何曜日でも構わないはずですね。(毎日でも良い)
集会についての考え方は「物理的に集まる⇒時間、空間共に」が基本と考えています。ネットでの集まりも有益ではありますが、ヘブル10:25にあるように、ある程度の定期性をもって実際に集まることはクリスチャンの信仰の維持、成長に不可欠なものではないでしょうか。もちろん強制ではなくあくまでも自発的にです。この集会内部のクリスチャンの必要と、外部の未信者の必要を提供するのが地域集会と言えるでしょう。
集会はパウロの働きを筆頭にしてコリントやガラテヤ、ピリピ、コロサイなど多くの地域に起こされて行きましたが、当時は個人が聖書を持っている筈が無く、パウロ達が教えた事をよく理解した兄弟たちがリーダー的な存在として集会に集まって来た人たちに教えたでしょう。テモテはその一人です。Ⅰテモテ4:13や6:2にあるように、それぞれの集まりでは「聖書の朗読と勧め、健全な教えや戒め、(福音も語られ)」などがされました。牧師のようにひとりではなく、1コリント14:29にあるように、2~3人が代わる代わる神の言葉を取り次ぎました。この神の言葉を取り次ぐ人は信者ならば誰でも良い訳では無く、神の言葉を畏れ、ある程度以上深く理解した者である必要が有ります。聴衆はそれを吟味する責任が有ります。
更にこの集会には神が立てた秩序が有ります。そこはイエスキリストが主権者の集まりで、皆が主イエスに従う心をもって一つ所に集まります。コリント書にも「神の教会=集会へ」とある通りですが、コリントの集会は主なるキリストを追い出して、人間が主権者になっていたため大変混乱していました。それを正すために書かれたのがコリント書です。そこには聖職者制度は微塵もなく、イエスを主とし、長老、監督、牧者という仕える者(複数)をリーダーとし、集会はこのリーダーに従うように教えられています。Ⅰペテ5:5 そして執事という集会に仕える者(複数)も居ました。この様に神が立てた秩序を元に集まる時そこに一致と平和と確かな証がある、それが聖書が示す神の集会ではないでしょうか。
そう!それぞれの召命に素直に応える生き方!
社会の中に、私達を通して いつでも生きてる御霊を流すこと…天の父はどれ程喜ぶのでょうね🎵
任されたタラントを理解し用いていくのですから。
この件での聖書に基づいた拓馬さんの論理展開は異議なしです。
さて、日本においてはプロテスタント教会が誕生して150年以上になりますが、日曜日に教会に通うことが当たり前として定着しています。
今回の動画ではそれを見直す動機づけとして反響が大きくなりそうですが、日曜日論争以外にもキリスト教教界の伝統自体を見直すことにも繋がっていくのではないかと予想できます。
わかりやすく言うと、日曜日に教会に集まることを目的としているクリスチャンに対して神様は本当に喜んでおられるのか、みこころにかなっているのか。それを考え直すきっかけになっています。
そうなると今までの伝統的な考え方、行動、教会としての枠組み、聖書解釈などさまざまな変革が起きキリスト教教界が混乱しそうです。
もし今までのキリスト教会が間違っていなければもっと福音が広がっているはずだとも思えるし、日本教の人たちは簡単に安易な宗教に騙されない感覚をもっているとも言えます。
この動画をきっかけにそれを提起した側に対しての反発があり、痛みが伴うかもしれませんね。
この発信に地殻変動または創造の大きなエネルギーを感じます。
さてわたしたちは主の日にパンを裂くために集まった。
初代教会の信仰のあとを辿ることはとても大切だと思います。
確かに書いてない。私の仕事では日曜日教会行けないし、日曜日以外に礼拝してる教会近くにない。
何時も有難うございます 感謝です どのようにしたらクラウドチャーチに献金出来ますか?
ありがとうございます。動画の概要欄にご支援のリンクがありますので、そちらからお願いします。
確かにおっしゃるとおり、一応日曜日礼拝をもうけないと人間の都合ドミンゴに休まれたからドミンゴ休みで無かったらキツイ日曜日無し月月火水木金金はきつい、今は土曜日も休み、訪問伝道も考えもん、行かなくていいそれはいい考えだ私はマインドコントロールが溶けたから教会に行ってない無教会主義、江戸時代まで曜日は無かった陰暦、今73歳週二のアルバイトだけ、その考え方悪くはない
そしてもちろん、家族が顔を合わせ、ありのままで交わることのできる教会!
キリストの肢体として頭なるキリストの所に帰る事のできる…慰めと力の源なる教会も、当然必要ですしね。主の知恵は深いし、脱帽です!ハレルヤ!
僕は早くから、日曜に限って集会等があることに疑問を持っていました。そして必然的に毎週日曜に教会に行ける人の中に公務員等恵まれた人たちばかりといういびつなメンバー構成であることに滑稽さを感じていました。ネット等により、同じ仲間と繋がることが大切なのだと思う今日この頃です。
「教会に新しい人を連れてきなさい」と勧める牧師が多いですね。出ていくことをしないで来るのを待っている!神さまの計画にそぐわないことをしているのが、クリスチャンの増えない一つの原因かもしれません。
日曜日を特別な日としている背景の一つは、置換主義神学の影響が大きいと思います。サタンの思うつぼだと思います。
コメントありがとうございます! ちなみに参考までにおうかがいしたいのですが、置換神学と日曜主義はどう関係してくるか教えていただけませんか?
ミッション系の大学に通っていたが、月〜金の大学礼拝には参加して逆に日曜日は教会に行かなかった。
自然に出ていかないと、教会から教会に行けなくならざる得ない状態に。お導きなのですね🖕☺️✝️🙇
最後まで聞きましたが、日曜日に集会することをどうしてそこまで激しく嫌悪するのか理解できませんでした。日曜日に集会することが異教に源を持つことが気に入らないことの一つのようですが、それなら、小林さんはクリスマスも祝わないのですか? あれも異教が元になっています。そこまで肩肘張って、源をたどれば異教が元になっているのは絶対ダメ、という必要はないのではないでしょうか。イエスを頭とする体の部分をなす者として他の信者との交わりは必要です。しかし、アーリーチャーチのように毎日会うのはさすがに無理なのでせめて毎週一日、大多数の信者が集える日に数時間集会するのは妥当だと思います。外に出て福音を広めるべきというのは正しいですが、イエスが使途を二人一組で送り出したように、他の信者とすべきだと考えます。そのためにも他の信者との交わりは必要です。
動画をもう一度ゆっくりお聞き下さい。私が批判しているのは「日曜日の絶対視」です。日曜に集まることは現代の日本では合理的であり、動画の中でも集まるのはいいことだと主張しています。きちんと動画の内容を見て下さい。
ちなみに僕はクリスマスもイースターも祝いません。いずれもおっしゃる通り、異教の祭りです。
「外に出る」という表現の意図をご理解いただけていないようですが、宣教のことだけでなく、教会堂に集まることだけでなく、社会の中に出ていって生きていこうという主旨です。
礼拝の意味について考えさせられるメッセージでした。儀式や形式にとらわれず、365日毎日主を礼拝し、真の礼拝者として霊と誠によって礼拝する者でありたいです。
そうですね。決して強いられてではなく…憐れみ深い神様は、一人一人の状況状態を誰よりもご存知。
それぞれのコンディションにあった色々な方法で神様を賛美し喜び崇めるなら、更に喜びのあまり福音は拡がりますものね🎉
教会へ行って礼拝してもなんの救いもありません
小林拓馬さんありがとうございます。目からうろこです。
そうなんですねー必ず日曜ではないのですね。外に出ていくのですねー🙇🙇🙇✝️✝️
個人預言について取り上げて欲しい。私はこれに縛られて苦しかった。
「礼拝とは生き方である」アーメン!
これはもう 元々のまっとうな考え方だ ただ この静かな福音の世界観にまぎれこんだのが 神より会合が大好きな性格だったり 異常な建築オタクだったりしたのかもしれない わたしは無所属ですが 自分と家族は神によって祝福されています
ありがとうございます!