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吉良義央(吉良上野介)って家系が三河松平氏の烏帽子親の家系にして足利将軍家の分家にして戦国大名今川家の本家筋で喜連川家より足利将軍家を相続できる序列は高く、 家康公が三河を武力で実効支配するまでは松平家と吉良家の主従が逆だった... という家柄なので、それはそれは綱吉公もご立腹になるわけですよねぇ...
喜連川の扱いが良かった理由が「前の天下人の一族が、徳川の戦勝祝いの使いを出した、つまり徳川の天下を認めた」という流れにするためと言うのが幕府を開いたりするための正当性として利用された部分があるんですな。室町の名門を大名並みの待遇の高家として扱う理由が、様々な背景があると考えるとまた興味深いです。
臣下ではなく客分扱いだから軍役である参勤交代も免除なんだよね
喜連川藩は足利一族だった故に待遇が高かったんですねまあ、それだけでなく喜連川藩主自身も宿場町でおもてなしするくらい頑張ってましたね。中には幕末のどさくさに紛れて石高粉飾した高家大沢家の堀江藩と言う悪い例もありますが。
ありがとうございます!
配信お疲れさまでした。最初、表中の1425石の吉良家と4000石の吉良家は誤植じゃないかと思っていたら、本家は吉良上野介で断絶していたけど吉良の分家は明治維新まで残っていたんですね。
ついに150まできたんだ
大河ドラマの元禄繚乱で吉良上野介が京都に所用で行った際、京都の公家に「吉良様は公家の典礼に詳しいが公家ではない、武家ではあるが大名でもない、まるでコウモリのようなお方ですな」と嫌味を言われるシーンがあったな。
ここでのストレスと饗応においての浅野とのすれ違いが最悪の事態となる・・・
吉良はその事で相当コンプレックス拗らせてたんだろうな…
喜連川は子爵、交代寄合からも8家(石高直しで万石超えた6家、動画にも出てきた岩松家など南朝への奉仕実績から2家)男爵になれているのに・・・高家からは0(石高粉飾した大沢家だけ一時期華族になっているけど正式な華族令の五爵には任命されず)・・・明治時代には高家だけ冷遇されているという
公家・諸侯を華族とすると定められているので武家ならば大名でなければ華族になれないのが原則ですからねまぁ薩長の足軽が侯爵や伯爵になってるのはチャンチャラおかしいですけど
@@honda10102004そんなこと言い出したら松平が将軍になってるのがおかしいってなるわけだから勝った奴が正しい
色々な面で徳川幕府って上手いよなあ鎌倉や室町の失敗を学んでる
失敗というよりはやろうと思ってもできなかったことかなと思います それを可能にしたのはその二つと戦国と織豊時代を越えて武家の在り方が大きく変化したことが大きいと思います
鎌倉/室町幕府が平和を維持出来なかったのは広大な領地と強大な軍事力を将軍家が保持していなかったのが大きい。逆らえば滅ぼされる怖さが鎌倉/室町幕府に無かった。
@@supremegarbage9796室町は気に食わない大名を結構滅ぼしてるけど、その後名籍を復活させてたりするから😅
喜連川の動画はあちこちのチャンネルでやってるけど、このチャンネルで視聴するとなんかシックリと面白いんだよなあ😊
事件の原因は迷宮入りだが、浅野が当たり屋にしか見えなくなった。そして、忠臣蔵は登場人物全員がバッドエンドに終わってしまった。特に吉良家。
喜連川藩の財政が火の車とは知っていましたが、今日にも通用するトップセールスを駆使して領民には善政を行っていたことは初めて知りました。
参勤交代の大名行列が通りかかると御所様自らいそいそと釣りに出かけます。そして街道筋の橋の下で釣りをして、大名行列はやんごとなきお方の頭越しに通るわけにもいかず、金品を包んでお戻りいただく、と言ったことをしてたらしいです。
@@anaisno1 あと夜には移動しないというのを利用して足止めして本陣へら…ゲフンゲフン何故か喜連川でご一泊することになるのはもはや定番で最大のお得意様はやっぱり仙台の伊達家御一行。なお諸般の事情で立ち寄ることができなかった年にはわざわざ江戸城まで出向いてご挨拶(穏当な表現)までして営業してたとかww
tera senさま。今回も動画制作編集作業アップロードありがとうございます。今回は高家や交代寄合、寄合などやんごとなき幕臣旗本のお話ですね。喜連川家が特に優遇されたものの元古河公方としての誇りは明治維新まで持ち続けていた事が良く分かりました。松平家の本貫三河国松平郷を護った松平太郎左衛門家は、終始一貫百五十石程度で、参勤交代も免除された単なる寄合格だった筈ですね。せいぜい書簡の取り交わし程度で幕府には何ら影響力は及ぼせなかったとか…。以後はIf storyになってしまいますが、豊臣秀頼が母親淀殿の口出しをキッパリと排除して大坂城から自ら退出、武装した恩顧の家臣との縁を表面上では切って、伏見城で家康に完全なる臣従を誓って単独拝謁したら、そして秀忠の実子である千姫との間に首尾よく豊臣家と德川家との血を併せ持った男子を儲けていたら?意外と今回の話題同様に参勤交代義務を持たない寄合格身分で、秀吉の故郷尾張中村の豊国神社宮司か久能山東照宮の宮司辺りに遇されていたのでは無いかと想像しています。もちろん実際には江戸時代には豊国神社は設立を許されませんでしたがそこは妄想という事で…。秀頼と千姫との実子一族は神官なので所領からの年貢取り立てでは無く、千姫の血筋を盾に徳川幕府から代々蔵米拝領であらゆる労役が免除される代わりに、ひたすら德川家の安寧を祈祷する神官扱いで、武家たる幕臣としての要職には就けないとか…。まあIf storyには与しないtera senさまの動画制作方針に反しますから、妄想たわごとはこの程度で止します。tera senさま。興味深い動画の資料集めから、プロット制作作業、実際の動画制作作業、編集作業、アップロード作業とお疲れ様でした。次なる動画アップロードを楽しみにしています。ありがとうございました。
締めのごきげんようがホントに好き。
会津松平家に取り立てられた、只見(伊北郷)の山内氏、南郷(伊南郷)の河原田氏も、似たような感じだったのかな~などと思いました。山内氏、河原田氏は、会津若松の蘆名氏、南会津の長沼氏と並び、「会津四家」と呼ばれた有力な戦国武将の一族で、蘆名氏が伊達政宗により滅ぼされ、長沼氏が伊達氏に服従して仙台へ行った後も、この二家は会津に残り続け、江戸時代に会津松平家の家臣となり、幕末の戊辰戦争では戦国以来の家臣団を率い、西洋軍装を独自に調達し、尾瀬方面などで加賀藩を国境まで追い返すなど、随分と大活躍したと聞いたことがあります。
家康公にとって今川氏の血筋が入っている長男・信康の存在って結構大きかったと認識
産まれたばかりの秀忠の乳母や傅役衆なんかも今川出身者で占められてましたね。
岩松家の猫の絵は群馬県太田市にある新田荘歴史資料館で見た世良田東照宮の隣にあります
第1回から全部見てます。いつもありがとうございます。改竄された何だかわからないものを誇りにして、250年以上体制を保つってすごいですね。これからも応援します!
そろそろゆっくり藩のお殿様、お姫様観たいな〜
舘山寺から出てる浜名湖遊覧船に乗ると、石高粉飾高家の堀江藩の事を自慢気に説明してましたね陣屋跡にあった、某鉄道会社経営の高級旅館もお取り潰しの憂き目を見てますから、歴史は繰り返す…というか、何かに取り憑かれているんじゃないかと疑いたくなります
知らなかった。今度乗船しに行こう❤
@@user-kattak 様「廃藩置県の時に今の静岡県にあったのは『静岡県』と『堀江県』だけだったのです」とか抜かしてました『韮山県』はどうなるんだよとか、万石事件には触れてなかったりとかいろいろ突っ込みたくなる内容でしたけど…最後に乗ったのはまだ九重があった頃だし、今はどうなっているやら
メンドクサイ制度だけど、それを守る事が表向きの太平に繋がったんだよな
人は皆身の程を知れ草の葉の露も重きは落つるものかは
どなたの句ですか?。
鎌倉以来の武家以上に足利一族の江戸時代での零落ぶりが半端ない😢肥後細川は足利の血筋ではない説もあるし。
殿様が営業マンというパワーワード()
隠密同心のボスの旗本寄合席は今回の交代寄合と同じなのかな?
参勤交代をやらせて貰えるか貰えないかの違いですけど、その違いというのが結構でかいのですよ
高野山が猫禁止(猫は可愛いから猫にのめりこんで修行の妨げになる)とか殿様が猫の絵をかいて…とか日本人は昔から猫が好きだったんだな
喜連川家は羽柴秀吉から『鎌倉殿』と呼ばれて以来客分という扱いを受けました江戸時代にも徳川将軍家から家臣ではなく客分として優遇されました鎌倉幕府を開いた源頼朝の子孫が徳川将軍家を認めている という事実が重要でした徳川将軍家と御恩と奉公の関係になく年始の将軍家御礼の必要はありませんので家臣ではないのです上屋敷地を将軍家に賜るように願い出たが断られたので江戸市外の池之端に私的に購入し維持しました、見栄ですね年始御礼の義務がないのに江戸城に押し掛けていました、当初は御三家並みの大廊下席でしたが柳の間にまで下げられます因みに徳川将軍家は源姓詐称に当たって足利傍流の吉良家に非常に大きな借りがあったので潰すチャンスを狙っていた側面もあります吉良をはじめ高家の晴れ舞台は将軍家代変わりの将軍宣下の儀式を取り仕切る事この礼金により裕福でした『蒔田』は『まいた』と読みます
横浜市南区の「蒔田」が由来ですかね?
@@アウトローという者さん横浜の蒔田は吉良の領地でしたよね、確か蒔田城があったはず蒔田氏は吉良氏の分家です喜連川氏も吉良氏も源将軍家の末裔ですからね
@@honda10102004様 神奈川県と言うと桓武平氏のイメージが強かったんですが、蒔田に足利氏ゆかりの一門が居たなんて!🤩ちなみに僕は横浜の南太田住まいです😁
足利義昭同様、秀吉からは家臣扱いだったはず。
そんな中でも、江戸時代、蜂須賀家の客将扱いにされ、様々な不遇を囲った足利義維の子孫の平島公方家⋯
熊本の細川を足利の支流というのは合っているのだろうか…家格的にはいいのか…?
蝦夷の松前氏は1719年に1万石格を認められて諸侯に列せられるまで交代寄合扱いだった。
喜連川家の話になると、もし当主が将軍の肩を叩いて「よう徳ちゃん元気ぃー?」って言ったら切腹なのか咎めなしなのかいつも気になる
アホくさ いくら対等とはいえ今より法律が厳しいのにするわけないやん
面子と対面を何よりも重んじる武家がそんな事する訳も無く…
取引先の社長とかにやってみればいい。今だって法のもとに平等なんだし。
ヨーロッパ各国にも儀典長とかいた(今もいる)けど、意外とヨーロッパのシステムと日本のシステムって似てるんよね
確か喜連川藩は幕末まで一揆がなかったとか
松平自体は賀茂氏の系統が正しいみたいだけど
150まできてるのか
喜連川家は、日本版の禅譲、とでも言いたいのかな。真意が奈辺にあるにせよ、これら高家が、スケープゴートの一種に見えるのはわたしだけかな。
やっぱ足利姓ははばかったんかな?
トップセールスは優秀な殿様がやらないと、下々が苦労する。秋田の殿様も、そろそろ隠居を考えた方がいいんじゃないかな。。。
あの人は佐竹の家臣筋(北家)の出で正確には“殿様”ではないんですがね記憶が確かであれば、昔、滋賀の彦根市の市長に井伊家の当主だった方(井伊直愛氏)が在任したのが最後、だと思いますが⋯
来年で隠居みたいです
喜連川家って鎌倉公方家(足利家)の末裔だったんですよね……。
吉良義央(吉良上野介)って家系が三河松平氏の烏帽子親の家系にして足利将軍家の分家にして戦国大名今川家の本家筋で喜連川家より足利将軍家を相続できる序列は高く、 家康公が三河を武力で実効支配するまでは松平家と吉良家の主従が逆だった... という家柄なので、それはそれは綱吉公もご立腹になるわけですよねぇ...
喜連川の扱いが良かった理由が「前の天下人の一族が、徳川の戦勝祝いの使いを出した、つまり徳川の天下を認めた」という流れにするためと言うのが
幕府を開いたりするための正当性として利用された部分があるんですな。
室町の名門を大名並みの待遇の高家として扱う理由が、様々な背景があると考えるとまた興味深いです。
臣下ではなく客分扱いだから軍役である参勤交代も免除なんだよね
喜連川藩は足利一族だった故に待遇が高かったんですね
まあ、それだけでなく喜連川藩主自身も宿場町でおもてなしするくらい頑張ってましたね。
中には幕末のどさくさに紛れて石高粉飾した高家大沢家の堀江藩と言う悪い例もありますが。
ありがとうございます!
配信お疲れさまでした。
最初、表中の1425石の吉良家と4000石の吉良家は誤植じゃないかと思っていたら、本家は吉良上野介で断絶していたけど吉良の分家は明治維新まで残っていたんですね。
ついに150まできたんだ
大河ドラマの元禄繚乱で吉良上野介が京都に所用で行った際、京都の公家に
「吉良様は公家の典礼に詳しいが公家ではない、武家ではあるが大名でもない、まるでコウモリのようなお方ですな」と嫌味を言われるシーンがあったな。
ここでのストレスと饗応においての浅野とのすれ違いが最悪の事態となる・・・
吉良はその事で相当コンプレックス拗らせてたんだろうな…
喜連川は子爵、交代寄合からも8家(石高直しで万石超えた6家、動画にも出てきた岩松家など南朝への奉仕実績から2家)男爵になれているのに・・・高家からは0(石高粉飾した大沢家だけ一時期華族になっているけど正式な華族令の五爵には任命されず)・・・明治時代には高家だけ冷遇されているという
公家・諸侯を華族とすると定められているので武家ならば大名でなければ華族になれないのが原則ですからね
まぁ薩長の足軽が侯爵や伯爵になってるのはチャンチャラおかしいですけど
@@honda10102004そんなこと言い出したら松平が将軍になってるのがおかしいってなるわけだから勝った奴が正しい
色々な面で徳川幕府って上手いよなあ
鎌倉や室町の失敗を学んでる
失敗というよりはやろうと思ってもできなかったことかなと思います それを可能にしたのはその二つと戦国と織豊時代を越えて武家の在り方が大きく変化したことが大きいと思います
鎌倉/室町幕府が平和を維持出来なかったのは広大な領地と強大な軍事力を将軍家が保持していなかったのが大きい。逆らえば滅ぼされる怖さが鎌倉/室町幕府に無かった。
@@supremegarbage9796室町は気に食わない大名を結構滅ぼしてるけど、その後名籍を復活させてたりするから😅
喜連川の動画はあちこちのチャンネルで
やってるけど、このチャンネルで視聴すると
なんかシックリと面白いんだよなあ😊
事件の原因は迷宮入りだが、浅野が当たり屋にしか見えなくなった。そして、忠臣蔵は登場人物全員がバッドエンドに終わってしまった。
特に吉良家。
喜連川藩の財政が火の車とは知っていましたが、今日にも通用するトップセールスを駆使して領民には善政を行っていたことは初めて知りました。
参勤交代の大名行列が通りかかると御所様自らいそいそと釣りに出かけます。
そして街道筋の橋の下で釣りをして、大名行列はやんごとなきお方の頭越しに通るわけにもいかず、金品を包んでお戻りいただく、と言ったことをしてたらしいです。
@@anaisno1 あと夜には移動しないというのを利用して足止めして本陣へら…ゲフンゲフン
何故か喜連川でご一泊することになるのはもはや定番で最大のお得意様はやっぱり仙台の伊達家御一行。
なお諸般の事情で立ち寄ることができなかった年にはわざわざ江戸城まで出向いてご挨拶(穏当な表現)までして営業してたとかww
tera senさま。今回も動画制作編集作業アップロードありがとうございます。今回は高家や交代寄合、寄合などやんごとなき幕臣旗本のお話ですね。喜連川家が特に優遇されたものの元古河公方としての誇りは明治維新まで持ち続けていた事が良く分かりました。
松平家の本貫三河国松平郷を護った松平太郎左衛門家は、終始一貫百五十石程度で、参勤交代も免除された単なる寄合格だった筈ですね。せいぜい書簡の取り交わし程度で幕府には何ら影響力は及ぼせなかったとか…。
以後はIf storyになってしまいますが、豊臣秀頼が母親淀殿の口出しをキッパリと排除して大坂城から自ら退出、武装した恩顧の家臣との縁を表面上では切って、伏見城で家康に完全なる臣従を誓って単独拝謁したら、そして秀忠の実子である千姫との間に首尾よく豊臣家と德川家との血を併せ持った男子を儲けていたら?
意外と今回の話題同様に参勤交代義務を持たない寄合格身分で、秀吉の故郷尾張中村の豊国神社宮司か久能山東照宮の宮司辺りに遇されていたのでは無いかと想像しています。
もちろん実際には江戸時代には豊国神社は設立を許されませんでしたがそこは妄想という事で…。秀頼と千姫との実子一族は神官なので所領からの年貢取り立てでは無く、千姫の血筋を盾に徳川幕府から代々蔵米拝領であらゆる労役が免除される代わりに、ひたすら德川家の安寧を祈祷する神官扱いで、武家たる幕臣としての要職には就けないとか…。
まあIf storyには与しないtera senさまの動画制作方針に反しますから、妄想たわごとはこの程度で止します。
tera senさま。興味深い動画の資料集めから、プロット制作作業、実際の動画制作作業、編集作業、アップロード作業とお疲れ様でした。次なる動画アップロードを楽しみにしています。ありがとうございました。
締めのごきげんようがホントに好き。
会津松平家に取り立てられた、只見(伊北郷)の山内氏、南郷(伊南郷)の河原田氏も、似たような感じだったのかな~などと思いました。
山内氏、河原田氏は、会津若松の蘆名氏、南会津の長沼氏と並び、「会津四家」と呼ばれた有力な戦国武将の一族で、
蘆名氏が伊達政宗により滅ぼされ、長沼氏が伊達氏に服従して仙台へ行った後も、この二家は会津に残り続け、江戸時代に会津松平家の家臣となり、
幕末の戊辰戦争では戦国以来の家臣団を率い、西洋軍装を独自に調達し、尾瀬方面などで加賀藩を国境まで追い返すなど、随分と大活躍したと聞いたことがあります。
家康公にとって今川氏の血筋が入っている長男・信康の存在って結構大きかったと認識
産まれたばかりの秀忠の乳母や傅役衆なんかも今川出身者で占められてましたね。
岩松家の猫の絵は群馬県太田市にある新田荘歴史資料館で見た
世良田東照宮の隣にあります
第1回から全部見てます。いつもありがとうございます。
改竄された何だかわからないものを誇りにして、250年以上体制を保つってすごいですね。
これからも応援します!
そろそろゆっくり藩のお殿様、お姫様観たいな〜
舘山寺から出てる浜名湖遊覧船に乗ると、石高粉飾高家の堀江藩の事を自慢気に説明してましたね
陣屋跡にあった、某鉄道会社経営の高級旅館もお取り潰しの憂き目を見てますから、歴史は繰り返す…
というか、何かに取り憑かれているんじゃないかと疑いたくなります
知らなかった。今度乗船しに行こう❤
@@user-kattak 様
「廃藩置県の時に今の静岡県にあったのは『静岡県』と『堀江県』だけだったのです」とか抜かしてました
『韮山県』はどうなるんだよ
とか、万石事件には触れてなかったりとかいろいろ突っ込みたくなる内容でしたけど…
最後に乗ったのはまだ九重があった頃だし、今はどうなっているやら
メンドクサイ制度だけど、それを守る事が表向きの太平に繋がったんだよな
人は皆身の程を知れ草の葉の露も重きは落つるものかは
どなたの句ですか?。
鎌倉以来の武家以上に足利一族の江戸時代での零落ぶりが半端ない😢肥後細川は足利の血筋ではない説もあるし。
殿様が営業マンというパワーワード()
隠密同心のボスの旗本寄合席は今回の交代寄合と同じなのかな?
参勤交代をやらせて貰えるか貰えないかの違いですけど、その違いというのが結構でかいのですよ
高野山が猫禁止(猫は可愛いから猫にのめりこんで修行の妨げになる)とか殿様が猫の絵をかいて…とか日本人は昔から猫が好きだったんだな
喜連川家は羽柴秀吉から『鎌倉殿』と呼ばれて以来客分という扱いを受けました
江戸時代にも徳川将軍家から家臣ではなく客分として優遇されました
鎌倉幕府を開いた源頼朝の子孫が徳川将軍家を認めている という事実が重要でした
徳川将軍家と御恩と奉公の関係になく年始の将軍家御礼の必要はありませんので家臣ではないのです
上屋敷地を将軍家に賜るように願い出たが断られたので江戸市外の池之端に私的に購入し維持しました、見栄ですね
年始御礼の義務がないのに江戸城に押し掛けていました、当初は御三家並みの大廊下席でしたが柳の間にまで下げられます
因みに徳川将軍家は源姓詐称に当たって足利傍流の吉良家に非常に大きな借りがあったので潰すチャンスを狙っていた側面もあります
吉良をはじめ高家の晴れ舞台は将軍家代変わりの将軍宣下の儀式を取り仕切る事
この礼金により裕福でした
『蒔田』は『まいた』と読みます
横浜市南区の「蒔田」が由来ですかね?
@@アウトローという者さん
横浜の蒔田は吉良の領地でしたよね、確か蒔田城があったはず
蒔田氏は吉良氏の分家です
喜連川氏も吉良氏も源将軍家の末裔ですからね
@@honda10102004様 神奈川県と言うと桓武平氏のイメージが強かったんですが、蒔田に足利氏ゆかりの一門が居たなんて!🤩
ちなみに僕は横浜の南太田住まいです😁
足利義昭同様、秀吉からは家臣扱いだったはず。
そんな中でも、江戸時代、蜂須賀家の客将扱いにされ、様々な不遇を囲った足利義維の子孫の平島公方家⋯
熊本の細川を足利の支流というのは合っているのだろうか…家格的にはいいのか…?
蝦夷の松前氏は1719年に1万石格を認められて諸侯に列せられるまで交代寄合扱いだった。
喜連川家の話になると、もし当主が将軍の肩を叩いて「よう徳ちゃん元気ぃー?」って言ったら切腹なのか咎めなしなのかいつも気になる
アホくさ いくら対等とはいえ今より法律が厳しいのにするわけないやん
面子と対面を何よりも重んじる武家がそんな事する訳も無く…
取引先の社長とかにやってみればいい。今だって法のもとに平等なんだし。
ヨーロッパ各国にも儀典長とかいた(今もいる)けど、意外とヨーロッパのシステムと日本のシステムって似てるんよね
確か喜連川藩は幕末まで一揆がなかったとか
松平自体は賀茂氏の系統が正しいみたいだけど
150まできてるのか
喜連川家は、日本版の禅譲、とでも言いたいのかな。真意が奈辺にあるにせよ、これら高家が、スケープゴートの一種に見えるのはわたしだけかな。
やっぱ足利姓ははばかったんかな?
トップセールスは優秀な殿様がやらないと、下々が苦労する。
秋田の殿様も、そろそろ隠居を考えた方がいいんじゃないかな。。。
あの人は佐竹の家臣筋(北家)の出で正確には“殿様”ではないんですがね
記憶が確かであれば、昔、滋賀の彦根市の市長に井伊家の当主だった方(井伊直愛氏)が在任したのが最後、だと思いますが⋯
来年で隠居みたいです
喜連川家って鎌倉公方家(足利家)の末裔だったんですよね……。