Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
家康は〇〇家に従っていたのではなく、今川義元、織田信長、豊臣秀吉と言う武将に従っていただけ。
家ではなく人に従う戦国時代の武将としては一般的な性格といえる仕えて代を重ねてる訳でもないしね
当主(今川義元、織田信長、豊臣秀吉)が存命中は下手に出て裏切っていないそれだけな気がする🤔
「やりすぎ接待」のくだりの所、東洋経済ON LINEに掲載されてる記事の内容と一言一句同じなんですが、もしかして主さんが書かれた記事ですか?
岡崎の桜は綺麗すぎる。夜桜も見れて本当に綺麗すぎる
わろた
ちなみに今川を裏切ったというけど、氏真と子孫を旗本(高家)として庇護してる。むしろ信玄は、氏真を頃そうとしている。豊臣も、臣下として、大和郡山に転封に応じれば庇護するつもりでいた。それを拒否したのは、茶々姫と秀頼だしな。
信玄は氏真を生かして遠江から退去させたことに関して約束と違うってブチ切れてるけどね
豊臣家もプライドより存続を志向し、国替して江戸への参勤していればおそらく家康公は許しただろうし一応、二代続いた関白家として当面は外様の大大名の1つとして幕府に厚遇されたとおもいます。
信玄の家格からしたら今川庇護する意味少ないからというのもある
家康はたしかに豊臣家を残そうとはしてたと思う。 ただ先に国替えを要求したのは冬の陣のあとの秀頼の方です。 この案は伊勢大和辺りで纏まりそうでしたが、家康の「負けたわけではないのに相手の要求は飲めない」という決断で破談に。 その後は知っての通り、国替え、人質、牢人問題不問のかわりに城割り(堀埋め)で決着します。 家康が大和へ国替えを要求したのはもう掘埋めが終わったあとです。(これを勘違いしてる人が多い) 国替え不問で和睦したのに、国替えを要求されたので秀頼は「家康信置けず」と激怒して、大阪夏の陣が始まることになります。
大名はともかく足利氏ですら高家として残してるから、豊臣も高家として喜連川氏並みの大名として存続してた可能性もあるかと思う。
アメリカがあと数年で建国250年というのを考えると264年続いた江戸幕府の凄さを実感する。本人はそこまで予測していたとは思えないけどそんな幕府を創設したという事実だけでも家康って偉人だと思う。
そもそも日本の歴史は二千年だからね…
5:15 大名としては滅亡だけど、氏真は徳川の家臣として生き延びて1614年12月すなわち大坂冬の陣の講和と同じ頃まで生きたし、今川滅亡は明治に没落して当時の当主の後継ぎが亡くなって養子を迎えず当主が亡くなって断絶した。
幕末には、若年寄となって、朝廷と交渉してるんだけどね。
史料にはないが、織田信長と家康には深い信頼があったのだと思う。
桶狭間後に駿府へ帰らない事は氏真から許可貰った上での事ですね
確か織田の追撃を岡崎で防衛線張ってたらしいね、何年間は織田と小競り合いしてたよね。
要は人に従っていたという事なんでしょうね。義元死んだら信長、信長死んだら秀吉、秀吉死んだら…あれ?従う人いないやん⇒幕府開府
信長の偉いところは家督の問題をきちんと自分の勢力だけで終わらせたことだと思うわ下手に外の勢力から力を借りてたら後々面倒になってたと思う
家督は継承させてたし、甲州征伐で信忠は信長の後継者として文句ないほどの戦果をあげた惜しむらくは、そんな後継者が父親と共に死んじゃったこと父親の逃げることを学べなかったことが痛恨
あまり言われないけど幼少期に家康は信長の父の信秀に命を助けられているんだよなあ。織田家に捕らえられて父広忠は家康を見捨てたのに信秀は利用価値の無くなった家康を切らなかった。それを恩に感じる時が家康にはあったのではないかと思う。
元服したときの諱も本来なら父親から一字もらうのが一般的なのにそれを飛び越して祖父清康の「康」の字を選ぶくらいだもんなー
家康はむしろ義理堅いというか、色々と堅苦しい程大義名分を重視していると思うけど。
大義名分がなければ民心や諸大名の支持を得られないって心得てたんだろうねそのための根回しとか謀略はほんと政治家って感じする
今川や豊臣を裏切った!と言うよりは、今川に関しては『離れた』という表現が正しいと思うし、豊臣に関しては平和りに解決しようとしていた提案を蹴られた!という表現が正しいでしょうね。今川にも豊臣にも厳密には屈服された訳で、臣下にしてくださいと家康から望んだ訳ではないのでね。秀吉が織田家に自ら望んで仕官し最終的に織田家を乗っ取るような事態を裏切りというのだと思います。
秀吉も家康も同じような簒奪だと思います。家康は大坂の陣まで秀頼に国替えや人質を要求していません。要求したのは、二条城での臣下の礼。関白就任白紙。江戸城不審。20以上の神社仏閣再建。堺や4つの金銀鉱山譲渡などです。秀頼はこれらの要求全てに従っています。信雄のように、新年の挨拶を要求されただけで秀吉派の重臣を殺して挙兵したわけではありません。14年以上均衡が保たれたのは家康が滅ぼす気はなく、秀頼も家康死ぬまでは牙を隠してたからではないでしょうか?イメージと違うかもしれませんが、秀頼は方広寺の一件まで揉めることはあっても最終的には家康の全ての命令に従っています。
今川義元や豊臣秀吉が死んだら裏切った。織田信長が死んだら一旦信雄の味方をしたけど結局豊臣に臣従した。特に違いは感じられない。
家康を裏切って勝手に降伏したのは信雄の方で、家康は守り通す気だったと思われる。豊臣への臣従も家康が自分から従ったのではなく、秀吉の方が望んだことであり、最後の最後まで拒否した。全く違うよ
@@hayakawamikan信雄の伊勢尾張の城落とされまくってて全然守れてないんだよなあ加えて天正地震なかったらほぼ確実に討伐されてたし秀吉との仲介を頑張ってくれたのも信雄だったりする
今川が打たれた後織田と戦ってなかったらただの織田の家来になってたかもな戦ってたから独立大名の格がついたのかも
豊臣家を裏切ったと言えるが、秀吉だって織田家を裏切ってるからな結局秀吉が自身が死んだとしてもなんの問題もない様な体制を作れなかったのが問題だったわけだろだからこそ家康は秀忠に将軍の座をわずか2年で譲り、更に義直、頼宣、頼房に将軍家に万一のことを考えて血を残すことを徹底させた
今川家は太原雪斎が亡くなった時点で詰んでたんだよなぁ
家康は東国に進出したいわけで背後の安心は買っておきたいわけで律儀なのは家康に頼んだらある程度の結果を出すところが元だろうな家康は大軍でも少ない兵でも結果を出してるぞ
信長は信康と築山殿の処遇には関与してなくて、家康に一任したってのが最近の説なんだよなぁ
裏切る前に信長が死んじゃった!それだけ😅
この時代の中部地方、熱い‼️激ってる‼️
家康は愚直で上に従うような自信のない性格だったからこそ癖の強い日本人には神輿として担ぎやすかったんだろう😊
家康かわいいやつよのぉw
信長時代は裏切れなかっただけ。
信長は裏切れば踏み潰されるということもあるが、信長の庇護がなければ周りの怪物に食い殺されるから、裏切るに裏切れないだろうね。
武田側(信長包囲網)につくという選択肢もあった。三方ヶ原の時に信長が申し訳程度の援軍しか送らなかったのを受けて武田について共同して織田領を蹂躙しましょう何ていう声が上がったなんて話もある実際武田派みたいなのが出来てそれに担がれてた正妻と長男は家康が処分しなければいけない状況にまでなった
家康が裏切ったとかいう考え自体が後世の創作で家康がそういう人間だと思い込んでるから考えが偏る岡崎城に入ったのも今川側の要請であって2年近くも最前線で戦う家康があっさり裏切ったなどとても言えないし裏切られたのは家康のほう
今川氏真とその子孫は、旗本(高家)として、幕末まで庇護してるんだけどね。今川氏滅亡とか誤解してるんだよね。
@@奇囃子キバヤシの都市伝説チ確かに、大名家としての今川家は1568年の武田・徳川による駿河侵攻により滅んだけど、氏真が討死したわけではありませんからね。足利将軍家だって、1573年に義昭が信長によって京都から追放されて滅んだわけではなく、かといって1597年に義昭が死去したことで滅んだわけでもなく、義昭の子・義尋が1605年に死去したことで滅んだことになっています。
1575年信長が権大納言、右大将に任官した時点で武家の棟梁では無くなった。室町幕府滅亡。
強い者に率先して従う家康が秀吉に徹底して逆らったのはなぜだろう
あの頃の秀吉と家康の力関係なら、一度自分の力を秀吉に知ってもらう意味でも戦ったのは正解だったかもしれないし、家康はあくまで織田家の味方をしたのだから、その織田家が先に降伏したら従うしかないよ。
毛利、長宗我部辺りが動けば羽柴包囲網が完成していたし、信雄の要請を受けてのことだから大義名分もあった。しかもこの頃の家康は秀吉より官位も高い。秀吉はまだ織田家家臣団を完全に掌握出来てなかったし、勝機はあったんじゃないかな? というか三河武士やる気ありすぎて中々秀吉に降れなかったという説も……。
家康は辛抱強かったと思う。豊臣は取り巻きが無能過ぎただけであり、今川も高家として遇している。
いやいや、先に裏切ったのは織田信雄やで。とであるりんというチャンネルの動画で、ノッブに詰められて、弁解してたよ。ノッブも、あいつ馬鹿だからなあ😅😅😅と言ってたなあ。
昨今は信雄がアホだから勝手に和睦したってのは否定されてきてるよ
家康は三英傑の中で一番の人格者とも言えるでしょうね。だからこそ関ヶ原でも豊臣恩顧の大名がたくさん家康側についたのかもしれません。
2000騎で25000騎を破ったと言う話を、25000騎全員がやられたと勘違いする人が多いけど、総大将の今川義元1人が討たれたらそれで負け。10万騎いようが100万騎いようが総大将を1人討てば勝ち。今川義元が射たれても、そのまま戦っていたら今川軍が勝っていたでしょう。ただ兵は恩賞目当てで戦っていて、それを与えるのは義元。義元が居なくなったら、頑張っても恩賞が貰えない。だから戦う意味が無くなり、撤退してしまう。そもそも武将達が戦う気でも、下で動く足軽達がやる気を無くして言う事を聞かないし勝手に戦線離脱。結果武将達も撤退せざるを得なくなる。それで「撤退=負け」になる。また両軍の兵数は倍位の差しか無かった可能性が有る。
今川離反はほぼほぼ自発的に選べて居ないし豊臣自壊も流れに乗っただけでしたし信長突然死には離反する機会すらも無くひょっとすると一度も碌に選択して居無かった説😅
AIに読ませてるとは分かってるけど「のぶながこうき」が頻出してきてイライラする
まともすぎたので殺された。と言う話
「強い人に従っていれば良い」 は?じゃあ、なんでさっさと武田に寝返らなかったの?三方ヶ原で惨敗せずに済んだじゃん
武田が戦闘には強いけど、戦争には弱いからじゃない。三方ヶ原は武田が勝ったけど、西上作戦全体では武田の完敗だから。
今日はどうする松潤が無い。
武田の防波堤になったというより信玄が長年の恨みで家康を滅ぼす為に織田との同盟を破棄したんだからそりゃそうなるでしょ残念だが、自業自得
光秀が出撃を命じられたのは中国地方では?なんで秀吉の支援で四国に向かうのか?
今川義元が生きていたら裏切っただろうか?
光秀折檻→本能寺の変→神君伊賀越え、の原因が、家康の信長への過剰な接待だと仮定すると、家康の文字通り神がかり的な伏線回収だわ😂
上杉謙信→天下をとる気が無い武田信玄→若僧信長がやるならと真似しただけ織田信長→天下をとる気があっただから家康は織田信長を裏切らなかった秀吉が生存中も家康は猫をかぶっていた
大丈夫ぅ?
@@ろびん-w8i 大丈夫〜
家康は従っていた。それって家康自身は長生きするぞ!60以上まで生きるぞ! ていう前提があったのかな。寿命から逆算して天下プランを立てたのかな。
んなこと無いやろなぁ
・・・あくまで想像だけど、徳川家康って、織田信長に今川義元の情報を伝えてないか?桶狭間の戦いって今川家の情報が織田に筒抜けだったから、織田信長がピンポイントで今川義元を討てたのでは?そして、仮に今川義元が討たれたら、家臣とともに岡崎城に入城する。今川が討たれる前に周囲の武将を仲間に引き入れる根回しをする。・・・そういうことを、徳川家康か。あるいは周囲の武将、酒井か石川数正あたりが仕組んでいたんじゃないか?当時19歳の徳川家康が、あっさり岡崎城に入るのは謎すぎる。
桶狭間当時の家康は19歳です
@@o10meza サンクス。直したわ。
伝えてはいないけど、家康がいた丸根砦からは桶狭間へ進軍する織田軍を雷雨でも目視できた可能性は高いと言われてますね。
水野と徳川が通じてたんでは?たしか水野信元は家康の叔父だよね
家康は信長や秀吉に従ったわけでは無い。三河の家康にとって、熱田神宮を擁する尾張は、今川時代より喉から手が出るほど欲しかった神域であり港であったが、自らの力で支配するのは不可能であった。そこで家康は、今川義元が密かに手を組もうとしてた尾張生駒家に目をつける。生駒家は織田家の目を欺いて、今川義元が尾張を支配した場合に備えて、未成年の郎党である日吉丸を遠江の頭陀寺城に派遣していた。これが後の秀吉である。この計画は中途で頓挫するが、秀吉の主君である生駒久菴の娘の五徳姫を、家康は嫡男信康の正室とする政略結婚に成功する。この結婚により、家康には信康より五徳姫が重要な存在となる。信康切腹後も、家康は五徳姫と生駒家との関係を大事にしており、これが関ヶ原の勝利の決定打となる。福島正則を家康方につけたのは、久菴の甥で尾張を仕切っていた生駒利豊であり、忠吉の尾張支配は、生駒利豊と生駒家の食客だった肥田孫左衛門で取り仕切られた。これが尾張徳川藩の始まりである。
なんかもう、ずれすぎててまともに見れない。もうちょい動画作る前に勉強して。
強い者には逆らわない、というのが戦国時代の処世術としては最適なのかもしれないけど、その結果が自分の妻の殺害で、築山殿を殺させたことを家康は生涯後悔したと言われてますから、あんまり長いものに巻かれ過ぎるのもいかがなものか。
家康は〇〇家に従っていたのではなく、今川義元、織田信長、豊臣秀吉と言う武将に従っていただけ。
家ではなく人に従う戦国時代の武将としては一般的な性格といえる
仕えて代を重ねてる訳でもないしね
当主(今川義元、織田信長、豊臣秀吉)が存命中は下手に出て裏切っていない
それだけな気がする🤔
「やりすぎ接待」のくだりの所、東洋経済ON LINEに掲載されてる記事の内容と一言一句同じなんですが、もしかして主さんが書かれた記事ですか?
岡崎の桜は綺麗すぎる。夜桜も見れて本当に綺麗すぎる
わろた
ちなみに今川を裏切ったというけど、氏真と子孫を旗本(高家)として庇護してる。むしろ信玄は、氏真を頃そうとしている。
豊臣も、臣下として、大和郡山に転封に応じれば庇護するつもりでいた。それを拒否したのは、茶々姫と秀頼だしな。
信玄は氏真を生かして遠江から退去させたことに関して約束と違うってブチ切れてるけどね
豊臣家もプライドより存続を志向し、国替して江戸への参勤していればおそらく家康公は許しただろうし一応、二代続いた関白家として当面は外様の大大名の1つとして幕府に厚遇されたとおもいます。
信玄の家格からしたら今川庇護する意味少ないからというのもある
家康はたしかに豊臣家を残そうとはしてたと思う。
ただ先に国替えを要求したのは冬の陣のあとの秀頼の方です。
この案は伊勢大和辺りで纏まりそうでしたが、家康の「負けたわけではないのに相手の要求は飲めない」という決断で破談に。
その後は知っての通り、国替え、人質、牢人問題不問のかわりに城割り(堀埋め)で決着します。
家康が大和へ国替えを要求したのはもう掘埋めが終わったあとです。(これを勘違いしてる人が多い)
国替え不問で和睦したのに、国替えを要求されたので秀頼は「家康信置けず」と激怒して、大阪夏の陣が始まることになります。
大名はともかく足利氏ですら高家として残してるから、豊臣も高家として喜連川氏並みの大名として存続してた可能性もあるかと思う。
アメリカがあと数年で建国250年というのを考えると264年続いた江戸幕府の凄さを実感する。
本人はそこまで予測していたとは思えないけどそんな幕府を創設したという事実だけでも家康って偉人だと思う。
そもそも日本の歴史は二千年だからね…
5:15 大名としては滅亡だけど、氏真は徳川の家臣として生き延びて1614年12月すなわち大坂冬の陣の講和と同じ頃まで生きたし、今川滅亡は明治に没落して当時の当主の後継ぎが亡くなって養子を迎えず当主が亡くなって断絶した。
幕末には、若年寄となって、朝廷と交渉してるんだけどね。
史料にはないが、織田信長と家康には深い信頼があったのだと思う。
桶狭間後に駿府へ帰らない事は氏真から許可貰った上での事ですね
確か織田の追撃を岡崎で防衛線張ってたらしいね、何年間は織田と小競り合いしてたよね。
要は人に従っていたという事なんでしょうね。
義元死んだら信長、信長死んだら秀吉、秀吉死んだら…あれ?従う人いないやん⇒幕府開府
信長の偉いところは家督の問題をきちんと自分の勢力だけで終わらせたことだと思うわ
下手に外の勢力から力を借りてたら後々面倒になってたと思う
家督は継承させてたし、甲州征伐で信忠は信長の後継者として文句ないほどの戦果をあげた
惜しむらくは、そんな後継者が父親と共に死んじゃったこと
父親の逃げることを学べなかったことが痛恨
あまり言われないけど幼少期に家康は信長の父の信秀に命を助けられているんだよなあ。織田家に捕らえられて父広忠は家康を見捨てたのに信秀は利用価値の無くなった家康を切らなかった。それを恩に感じる時が家康にはあったのではないかと思う。
元服したときの諱も本来なら父親から一字もらうのが一般的なのにそれを飛び越して祖父清康の「康」の字を選ぶくらいだもんなー
家康はむしろ義理堅いというか、色々と堅苦しい程大義名分を重視していると思うけど。
大義名分がなければ民心や諸大名の支持を得られないって心得てたんだろうね
そのための根回しとか謀略はほんと政治家って感じする
今川や豊臣を裏切った!と言うよりは、今川に関しては『離れた』という表現が正しいと思うし、豊臣に関しては平和りに解決しようとしていた提案を蹴られた!という表現が正しいでしょうね。今川にも豊臣にも厳密には屈服された訳で、臣下にしてくださいと家康から望んだ訳ではないのでね。
秀吉が織田家に自ら望んで仕官し最終的に織田家を乗っ取るような事態を裏切りというのだと思います。
秀吉も家康も同じような簒奪だと思います。
家康は大坂の陣まで秀頼に国替えや人質を要求していません。
要求したのは、二条城での臣下の礼。関白就任白紙。江戸城不審。20以上の神社仏閣再建。堺や4つの金銀鉱山譲渡などです。
秀頼はこれらの要求全てに従っています。
信雄のように、新年の挨拶を要求されただけで秀吉派の重臣を殺して挙兵したわけではありません。
14年以上均衡が保たれたのは家康が滅ぼす気はなく、秀頼も家康死ぬまでは牙を隠してたからではないでしょうか?
イメージと違うかもしれませんが、秀頼は方広寺の一件まで揉めることはあっても最終的には家康の全ての命令に従っています。
今川義元や豊臣秀吉が死んだら裏切った。織田信長が死んだら一旦信雄の味方をしたけど結局豊臣に臣従した。特に違いは感じられない。
家康を裏切って勝手に降伏したのは信雄の方で、家康は守り通す気だったと思われる。豊臣への臣従も家康が自分から従ったのではなく、秀吉の方が望んだことであり、最後の最後まで拒否した。全く違うよ
@@hayakawamikan
信雄の伊勢尾張の城落とされまくってて全然守れてないんだよなあ
加えて天正地震なかったらほぼ確実に討伐されてたし秀吉との仲介を頑張ってくれたのも信雄だったりする
今川が打たれた後織田と戦ってなかったらただの織田の家来になってたかもな
戦ってたから独立大名の格がついたのかも
豊臣家を裏切ったと言えるが、秀吉だって織田家を裏切ってるからな
結局秀吉が自身が死んだとしてもなんの問題もない様な体制を作れなかったのが問題だったわけだろ
だからこそ家康は秀忠に将軍の座をわずか2年で譲り、更に義直、頼宣、頼房に将軍家に万一のことを考えて血を残すことを徹底させた
今川家は太原雪斎が亡くなった時点で詰んでたんだよなぁ
家康は東国に進出したいわけで背後の安心は買っておきたいわけで
律儀なのは家康に頼んだらある程度の結果を出すところが元だろうな
家康は大軍でも少ない兵でも結果を出してるぞ
信長は信康と築山殿の処遇には関与してなくて、家康に一任したってのが最近の説なんだよなぁ
裏切る前に信長が死んじゃった!それだけ😅
この時代の中部地方、熱い‼️
激ってる‼️
家康は愚直で上に従うような自信のない性格だったからこそ癖の強い日本人には神輿として担ぎやすかったんだろう😊
家康かわいいやつよのぉw
信長時代は裏切れなかっただけ。
信長は裏切れば踏み潰されるということもあるが、信長の庇護がなければ周りの怪物に食い殺されるから、裏切るに裏切れないだろうね。
武田側(信長包囲網)につくという選択肢もあった。三方ヶ原の時に信長が申し訳程度の援軍しか送らなかったのを受けて武田について共同して織田領を蹂躙しましょう何ていう声が上がったなんて話もある
実際武田派みたいなのが出来てそれに担がれてた正妻と長男は家康が処分しなければいけない状況にまでなった
家康が裏切ったとかいう考え自体が後世の創作で家康がそういう人間だと思い込んでるから考えが偏る
岡崎城に入ったのも今川側の要請であって2年近くも最前線で戦う家康があっさり裏切ったなどとても言えないし裏切られたのは家康のほう
今川氏真とその子孫は、旗本(高家)として、幕末まで庇護してるんだけどね。今川氏滅亡とか誤解してるんだよね。
@@奇囃子キバヤシの都市伝説チ確かに、大名家としての今川家は1568年の武田・徳川による駿河侵攻により滅んだけど、氏真が討死したわけではありませんからね。
足利将軍家だって、1573年に義昭が信長によって京都から追放されて滅んだわけではなく、かといって1597年に義昭が死去したことで滅んだわけでもなく、義昭の子・義尋が1605年に死去したことで滅んだことになっています。
1575年信長が権大納言、右大将に任官した時点で武家の棟梁では無くなった。室町幕府滅亡。
強い者に率先して従う家康が秀吉に徹底して逆らったのはなぜだろう
あの頃の秀吉と家康の力関係なら、一度自分の力を秀吉に知ってもらう意味でも戦ったのは正解だったかもしれないし、家康はあくまで織田家の味方をしたのだから、その織田家が先に降伏したら従うしかないよ。
毛利、長宗我部辺りが動けば羽柴包囲網が完成していたし、信雄の要請を受けてのことだから大義名分もあった。
しかもこの頃の家康は秀吉より官位も高い。
秀吉はまだ織田家家臣団を完全に掌握出来てなかったし、勝機はあったんじゃないかな?
というか三河武士やる気ありすぎて中々秀吉に降れなかったという説も……。
家康は辛抱強かったと思う。
豊臣は取り巻きが無能過ぎただけであり、今川も高家として遇している。
いやいや、先に裏切ったのは織田信雄やで。とであるりんというチャンネルの動画で、ノッブに詰められて、弁解してたよ。ノッブも、あいつ馬鹿だからなあ😅😅😅と言ってたなあ。
昨今は信雄がアホだから勝手に和睦したってのは否定されてきてるよ
家康は三英傑の中で一番の人格者とも言えるでしょうね。だからこそ関ヶ原でも豊臣恩顧の大名がたくさん家康側についたのかもしれません。
2000騎で25000騎を破ったと言う話を、25000騎全員がやられたと勘違いする人が多いけど、総大将の今川義元1人が討たれたらそれで負け。
10万騎いようが100万騎いようが総大将を1人討てば勝ち。
今川義元が射たれても、そのまま戦っていたら今川軍が勝っていたでしょう。
ただ兵は恩賞目当てで戦っていて、それを与えるのは義元。
義元が居なくなったら、頑張っても恩賞が貰えない。
だから戦う意味が無くなり、撤退してしまう。
そもそも武将達が戦う気でも、下で動く足軽達がやる気を無くして言う事を聞かないし勝手に戦線離脱。
結果武将達も撤退せざるを得なくなる。
それで「撤退=負け」になる。
また両軍の兵数は倍位の差しか無かった可能性が有る。
今川離反はほぼほぼ自発的に選べて居ないし豊臣自壊も流れに乗っただけでしたし信長突然死には離反する機会すらも無くひょっとすると一度も碌に選択して居無かった説😅
AIに読ませてるとは分かってるけど「のぶながこうき」が頻出してきてイライラする
まともすぎたので殺された。と言う話
「強い人に従っていれば良い」 は?
じゃあ、なんでさっさと武田に寝返らなかったの?
三方ヶ原で惨敗せずに済んだじゃん
武田が戦闘には強いけど、戦争には弱いからじゃない。
三方ヶ原は武田が勝ったけど、西上作戦全体では武田の完敗だから。
今日は
どうする松潤が無い。
武田の防波堤になったというより信玄が長年の恨みで家康を滅ぼす為に織田との同盟を破棄したんだからそりゃそうなるでしょ
残念だが、自業自得
光秀が出撃を命じられたのは中国地方では?
なんで秀吉の支援で四国に向かうのか?
今川義元が生きていたら裏切っただろうか?
光秀折檻→本能寺の変→神君伊賀越え、の原因が、家康の信長への過剰な接待だと仮定すると、家康の文字通り神がかり的な伏線回収だわ😂
上杉謙信→天下をとる気が無い
武田信玄→若僧信長がやるならと真似しただけ
織田信長→天下をとる気があった
だから家康は織田信長を裏切らなかった
秀吉が生存中も家康は猫をかぶっていた
大丈夫ぅ?
@@ろびん-w8i
大丈夫〜
家康は従っていた。それって家康自身は長生きするぞ!60以上まで生きるぞ! ていう前提があったのかな。寿命から逆算して天下プランを立てたのかな。
んなこと無いやろなぁ
・・・あくまで想像だけど、徳川家康って、織田信長に今川義元の情報を伝えてないか?
桶狭間の戦いって今川家の情報が織田に筒抜けだったから、織田信長がピンポイントで今川義元を討てたのでは?
そして、仮に今川義元が討たれたら、家臣とともに岡崎城に入城する。
今川が討たれる前に周囲の武将を仲間に引き入れる根回しをする。
・・・そういうことを、徳川家康か。あるいは周囲の武将、酒井か石川数正あたりが仕組んでいたんじゃないか?
当時19歳の徳川家康が、あっさり岡崎城に入るのは謎すぎる。
桶狭間当時の家康は19歳です
@@o10meza サンクス。直したわ。
伝えてはいないけど、家康がいた丸根砦からは桶狭間へ進軍する織田軍を雷雨でも目視できた可能性は高いと言われてますね。
水野と徳川が通じてたんでは?
たしか水野信元は家康の叔父だよね
家康は信長や秀吉に従ったわけでは無い。
三河の家康にとって、熱田神宮を擁する尾張は、今川時代より喉から手が出るほど欲しかった神域であり港であったが、自らの力で支配するのは不可能であった。
そこで家康は、今川義元が密かに手を組もうとしてた尾張生駒家に目をつける。
生駒家は織田家の目を欺いて、今川義元が尾張を支配した場合に備えて、未成年の郎党である日吉丸を遠江の頭陀寺城に派遣していた。これが後の秀吉である。
この計画は中途で頓挫するが、秀吉の主君である生駒久菴の娘の五徳姫を、家康は嫡男信康の正室とする政略結婚に成功する。
この結婚により、家康には信康より五徳姫が重要な存在となる。
信康切腹後も、家康は五徳姫と生駒家との関係を大事にしており、これが関ヶ原の勝利の決定打となる。
福島正則を家康方につけたのは、久菴の甥で尾張を仕切っていた生駒利豊であり、忠吉の尾張支配は、生駒利豊と生駒家の食客だった肥田孫左衛門で取り仕切られた。
これが尾張徳川藩の始まりである。
なんかもう、ずれすぎててまともに見れない。
もうちょい動画作る前に勉強して。
強い者には逆らわない、というのが戦国時代の処世術としては最適なのかもしれないけど、
その結果が自分の妻の殺害で、築山殿を殺させたことを家康は生涯後悔したと言われてますから、
あんまり長いものに巻かれ過ぎるのもいかがなものか。