Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
車田先生、まさに私が最近考えていたことを明確化して下さり、ありがとうございます。私はクラシック音楽を聴き続けて50年近くになりますが、若い頃は自己主張の強い演奏者が力を込めてグイグイと弾くのを喜んで聴いていました。しかし、年を重ねるにつれてそのような演奏を聴くと疲れるようになってきました。そして最近、ある若い演奏者が音楽に誠実に向き合いつつ、その曲の本質に迫る演奏をするのを聴き「ああ、この曲はこういう曲だったのか!」と目が開かれるような体験をしました。私は気づきました。「音楽を通して自己主張する演奏者」と「音楽に献身している演奏者」がいることに。そして私が本当に好きなのは後者だということに。
私は、奏者として現役バリバリの時は酷い奏者だったと思います。「上手いだろう?」「凄いだろう?」「君たちにはこんな演奏できないだろう?」今思うと恥ずかしい黒歴史です。自ら音を出さない指揮者という立場になったとき、その自己顕示欲の強い音がいかに音楽の邪魔になるかに気が付きました。上手いだけでつまらない演奏というものが世の中にたくさんあることも知りました。この夏の吹奏楽コンクールの本番直前に私は奏者たちにこう伝えました。「他の団体より上手く演奏したい、〇〇に勝ちたい、より良い賞を取りたい。それも結構なことだけど、我々のやるべきことは常により良い演奏をすること。作品の持つ感情を聴衆に伝えること。作品の素晴らしさを聴衆に伝えること。それ以外の感情はある意味全て雑念だと思います。」と。奏者として全体の調和よりも自分の自己顕示欲を優先してきた酷い奏者だったことの反省として、今自分の指揮で音を出す奏者たちにはより音楽に対して作品に対して真っ直ぐであってほしいと願い、かつての。自分のように承認欲求を満たすために演奏している人たちと戦っています。
吹奏楽コンクールなどには絶対に出ない、その決意を伝えるべきですね。音楽を楽しみましょう。
音楽好きですが、自分の高校の吹奏楽部の演奏を聴くのは苦痛でした。演奏者にも指導者にも「金賞受賞」以外の目標はなく、校舎に受賞の垂れ幕を掲げるために演奏しているのか?と思えるほどだったからです。そうでない指導者もいるということを知って、嬉しく思います。でも正直を言うと、他の方もコメントしているように、吹奏楽コンクールなど辞めれば良いのにと思ってしまいます。佐渡裕さんも、自書の中で、吹奏楽コンクールの評価の無意味さを語っていましたね〜
私はクリスチャンです。学生時代からピアノを長く習っていたので教会でも奏楽奉仕を行っています。いかに弾くか悩みながらも自己顕示欲が表れていた酷い音を弾いていたと思います。先日、教会でオルガンに向かい合って5時間ずっと悩みながら曲をいかに美しく弾くか・どのように弾くかしばらく悩んでいました。しばらくして牧師が来て話していく中で自分を出さずに会衆全てをしたから支える音はどんな音かを考えてみてくださいと言われました。杖をつきながらやっとの思いで来られた高齢の方、ご家族を亡くされたばかりの方、辛い思いを持つ方等様々な方の癒しのために弾く音を削ぎ取りながらシンプルで良いんだと気付きました。華やかな音を自分よがりで出すのは意味がなく、自己満足になる。何のために、どのような場所で弾くのかを考えて音楽と向き合っていきたいと考えています。今回の話はまさにこの件と繋がっている気がしましたのでコメントしました。
@@user-cy4mp9iw8f 私も、ずっと以前に教会で、奏楽の奉仕をしていたことがあります。その時、牧師さんから言われたことは、奏楽は、自分のためでも、礼拝に集まる人のためでもなく、神様のために、神様に音楽を捧げる気持ちで弾きなさい、と言われたことを思い出します。
読ませていただき、映画「シャコンヌ」を思い出しました。
何かしら舞台に出て表現をすれば自己顕示欲が強いという視点から逃れる訳にはいきません。しかしながら何かを表現する時には作曲家の魂や意図を乗り移らせる必要があると感じます。霊的媒体として技術を磨きお客様に生きた感動を伝える。そのバランスを欠いた時、自己顕示欲が強いと解釈されてしまうのでは無いでしょうか?舞踊家や女優には何かしら人を惹きつける天性が必要です。その人間が歌に転向した途端、審査員などに受け入れ難く感じられてしまう理由や誤解が今回の先生のお話しで解った気がします。後は個々の天性の輝きをどう捉えられるかですね。天性の目立つ魅力は逆に潰されやすく脆いものですし輝いてしまうものは早いうちに芽を摘まれ潰されるのがこの世の残酷さです。輝くからにはそれにふさわしい内面,技術、あるいは人脈やサポートが必要なんですね。専門家にやお客様にどう取られるにせよ先ずは基礎技術と鍛錬、謙虚さと媒体としての在り方を磨いてまいります。ありがとうございます。 星みゆきフラメンコ
バリバリの…アマチュアです😂 …もちろん技巧は大切ですけれど…あるUA-camの動画で土木作業員のかたで「ノクターンをどうしても弾きたい」という動機でなんと光るキーボードで練習で一曲仕上げてしまいました。その音が本当に心を打つのです。「この曲が好きだ。どうしても自分手で弾いてみたい」という純な動機がこの音を出してるようです。…私もクラシックに関わらず「心から愛する曲」があり、コレを弾きたい、自分に聴かせたい…そう思って練習してます😢ストリートピアノにはあまり興味ありません。どんな場所のピアノでも一番の聴衆は「わたし」なのです😮
先生、いつも良いこと言うなーと思って聞いてます。各項、共感しかありません。
私もそうおもいます。
飾らない拙い演奏なのに聴いていてとても心打たれる演奏に出会うことがあります。時にバッハの音楽においてそのような瞬間に立ち会うことが多く感じたりしますが、それはきっと演奏法を取っ払ったある意味幼い音楽性の中にバッハが本来伝えたかった「誰かを思いやり、その誰かがしあわせでありますように、と、心の深い安寧を一身に祈る気持ち」に出会えたからなのかもしれません。幼い子の描く絵や拙い演奏に私たちが心惹かれるのは、そうした魂のシンコペーション、ジャズ的なバイブレーションに最も障壁なく繋がりあえる何かがある、と思うのです
興味深いお話をありがとうございます。やはり演奏者の承認欲求が強くナルシシズムを感じると聴衆は白けてしまいますよね。朝比奈隆さんが“愚直”という言葉を好んだことを思い出しました。
あなたの演奏を聞いてこの曲が好きになりました。もしくは、あなたの演奏を聴いてこの作曲家の作品をもっと聴きたくなりました,というのがクラシックの演奏家として最高の褒め言葉だと思ってきました。承認欲求を満たしたいなら作曲家になったらいいと思います。クラシックの世界は作曲家の前には演奏家も聴衆も対等ですから。
良いお話をありがとうございます🌟私も演奏する者として、曲の素晴らしさを伝えることが出来るように、自分と音楽の関わりを良く見つめていきたいと思いました✨🙏
私はアマチュア演奏家です。たいぶ前に、或、上手と言う評判が高いアマチュアオーケストラの演奏会に行ったことが有ります。それは、同じアンサンブルで演奏している方が所属しているオーケストラ。勿論、その方もかなり吹ける方。聞けばそのオーケストラはレペルを維持する仕組みがルール化されている。厳しいですがレベルの高さに納得でした。その方からチケットを頂き聞きました。確かマーラーだったと思います。どんな演奏をするのだろうか。とても楽しみにして客席に座りました。しかし、終演後の感想には悩みました。確かにステージ上の皆さん、お上手とは思いますが音楽が何も来ないのです。こんな感覚を持った事に自分の感覚が変かもしれない。だって、とても上手と言う評判が高いオケなのです。そこで、もう次の演奏会にもチケットを頂き行きました。その理解不能な感想の原因を探るために。そして解りました。そのオケ、団員の方々は皆さんとても上手。しかし、ステージから聞こえたメッセージは「私たち上手だから聞いて。どう上手でしょ!」でした。それが解った瞬間に興味を失いました。そんな経験を思い出しました。
その通りだと思います 私はそんな演奏は耐えられないのでアマのオケは感動したことはないので、行く理由がない限り基本行きません。笑顔でも作った笑顔より自然と笑った笑顔やオリンピックで金メダルを取った人の笑顔の方が数百倍魅力的なのと似ていると思います
いつもながら、わかりやすくて丁寧なお話。私は藤田真央さんのモーツァルトのソナタの演奏を聴いて、モーツァルトも藤田真央さんも好きになりました。(推し?) 彼のエッセイを読むと、恩師の野島稔さんから自分をよく見せるためにピアノを弾いてはいけないと言われたエピソードにジンときました。そんなことを思い出しながらお話を聞きました。チョコレート美味しそう😅私はワインでいただきたいです🎉
ここのコメント欄とても素敵ですね。本質的にはなぜ自己顕示欲や承認欲求が好ましくないのか。というテーマだと思います。人はみな自我を最終的には手放したいと思っているからだと思います。なぜなら苦しみは自我が作っているからです。承認欲求や自己顕示欲を経てやがてそれは苦しみに変わり、そこからの解き放ちを望む。やがて自我は鎮まり、自我ではなく真我からの音を演奏するのではなく、演奏させられるようになる。これと似たような音楽家の方沢山いらっしゃるように思います。素晴らしいテーマをありがとうございます。バッハは天才過ぎますよね。笑
大人の発表会など聴きに行くと、技術的には拙い中にも光る部分が必ずあり心打たれますね。その作品が好きな気持ちって必ず表れるし、作品そのものの美しさは確かにあるからですね。
まさに!ここ数年モヤモヤしていたワタシの思いをはっきりと言語化していただけて、スッキリしました。でも、この内容を一番理解してもらいたい、自己顕示欲の強い演奏家さんには一生理解してもらえないだろうな…とも思います。素晴らしい演奏技術を持っているのに、なんてもったいないことだろう…といつも残念に思います。素人のワタシには技術は伴わないものの、せめて曲や作曲家へのリスペクトに溢れた演奏を目指したい、と改めて思いました。ありがとうございました。
自分は承認欲求が人一倍強く、若い頃から色んな人にたしなめられてきました。自分の不徳の致すところには違いないですが、今思い返せばそうやってわざわざ非難してきた人ほど自分と同じように承認欲求が強かったように思います。まさに同族嫌悪という言葉どおりです(もちろん車田さんのことを言っているのではありません)。話は変わって、承認欲求の強さを指摘されても心掛けレベルでは根本的に変えることが難しいから困ったものです。行きつくところは幼少期の親との関係性なのかなと思っています。人によってはこの動画をきっかけに自分の心の中を探求することになるかもしれないと思いながら拝見させていただきました。
今日のお話は演奏家にとって耳の痛いことも多い内容だったのではないでしょうか。演奏家がどのように解釈し表現しようとも、200、300年前の音楽が、長い年月を経て今も演奏されているということは、作品が素晴らしいからのひと言に尽きると思います。
深いお話ですね、私もとどのつまりはやはり自身の承認欲求・親からしっかりと受け止めてもらえなかったものが、こうした演奏だったりパフォーマンスへの賞賛を受けたい強い気持ちになっていくと思っています。作曲者、作品曲の素晴らしさを感じながら弾ける喜びに感謝しながら謙虚に弾いていきたいと思います。
約1年前に楽器の演奏を辞めた者です。やっていて何か限界を感じていましたが正に自己顕示欲・承認欲求でやってきたことで感じた限界だったと改めて気が付きました!辞めた今は逆に気楽に、仕事をするときはまずはコツコツ、普段の生活はとにかく樂しくという姿勢になり自分で自分を少しずつ認めながら地道に気楽に生きられるようになりました!改めて気づかせてくれてありがとうございます。
どんな演奏家が演奏したとしても、もとの曲が素晴らしいから感動する。もとの曲のよさが伝わる…とのお話に、救われた気がしました。私は好きな曲を弾きたくて弾きますが、自分の演奏の欠点にばかり目がいって、いやになってしまいます。けれども、この動画のお話を聞いて、これからは、作品の良さを味わって、作品を自分を通して表現させて頂いているんだという気持ちで演奏するように心がけたいと思いました。もともと上手くない上にブランクがあるので、なかなか思うようには弾けませんが、、自分が弾いているという意識をちょっと脇に置いて、作品の素晴らしさを少しでも表現できたら…それを耳で聴いている自分を少しでも幸せだと思えるように弾きたいと思います。結局、自分は、自己肯定感が低い人間なので、他者に認められたいんだとは思います。それが承認欲求なんでしょうね。自分を脇に置いて、作品を中心に持ってくるように心がけたいです。
ずっと疑問視していたことでした。音大卒を誇示した奏者が、素人を相手に知識をひけらかしてみたり、弾いて驚かせてみた!的なものをよく目にするようになりましたが、こちらまで恥ずかしくなります😞。
これ音楽だけじゃなくて他の分野においてもめっちゃ言えることだと思う完全に一緒ではないかもしれないけど、写真とかプラモデル制作とか、絵画とか工芸作品とか…
とても大切な視点を与えていただけました。そして、常々モヤモヤしていた部分への回答もいただけたと感じました。作品の素晴らしさを受けとめられる感受性を育てていこうと思います。ありがとうございます🌼
私は演奏の場では、人からどう見られるか、下手に思われるんじゃないか、音を外したら下手だと思われるに違いない、などの恐怖でいつも緊張でガチガチです。「演奏会に行った」という話になるとみんな「上手い」か「下手」かという話ばかりです。だからそんな目のなかで演奏するのは毎回恐怖です。。。共感する人いるかなあ
間違ったって 良いじゃない 機械じゃないんだもの✨ あるピアニストが言いました。私も 正しいより伝えたい表現を最高に演奏出来るように 音に入り込みたいと思っております✨
私が生演奏で感じた中には、音楽が心に響かない事が何度かありました。それは演奏家の承認欲求とか自己顕示欲以外の場合もあったと思います。その演奏が「事務的」に思えて音楽が聞こえてこない と言う場合です。その時の私の感情は「あんたら、やる気あるの?」でした。音楽が流れているだけで、心に入ってこない。こう言うのは何て言うんでしょうかね。 自分も演奏者も人間同士、人間は感情の動物ですから、すれ違う事もあるんでしょうね。 感動しない演奏会、ごく稀にあります。
先生のお話し、お一つお一つとても納得できました。私自身も知らず知らずにピアノの先生や周りから「褒められたい」が演奏目的になってしまっていました。そうではないのですね。演奏者のネームバリューで「素晴らしい演奏」と思い込んでしまう事もあるかと思います。見つめ直すきっかけになりました。ありがとうございました。ブランドに惑わされず、真実を見る目(耳)を大事にしたいと思いました。
数多のピアニストの演奏を聴いていて、同じ曲でも感動するピアニストと感動しないピアニスト、何が違うのかな……と考えていた事があります。前者は作品の魅力を伝える事に注力していて、後者は自分が目立つ事に注力している事に気が付きました。(心の中は分かりませんが😅)自己顕示欲が強い演奏って、他のコメントにもありましたが聴いていて白けてしまうんですよね。私も愛好家ではありますが、作品の魅力を伝える事に集中したいと改めて思いました。いつもありがとうございます😊
いつも音楽のみならず、生活していく上でのヒントにもなり、やはり視点の凄さにいつも感動しています😍やっとやっと作曲家の凄さに気付き始めたばかりですが😅いつも勉強させて頂くことばかりで、こんなに音楽の世界を知りたい自分が素直に好きです😊
ありがとうございます。私にとってタイムリーなお話でした。作品が素晴らしいから感動する。レストランの演奏をしていて感動して下さったお客様がいらっしゃったけれど、作品が素晴らしいから。と心の底から感じました。感動は嬉しいですが、私の心はやっぱアンドレ・ギャニオン凄いわぁ❤でした。これからも、作品の良さを知っていただく演奏を心がけていこう!と改めて思いました☺️
ああ、これは神社や祭壇の前での神とのやりとりと一緒ですね。一対一の関係ですから。本気の素の自分を出すわけですね。自分だけをよく見せたくて、なんとか祝詞をあげたり、ご利益や恩恵を受けたいという邪な気持ちが承認欲求の演奏となるわけですね。神様との一対一の真剣勝負なわけで、今の自分を見てもらう。そこからの最大の感謝の気持ちを伝える。それだけですね。一期一会ともいえます。人は神との中継地点、依代となるわけです。人柱、人=カガミです。きっと演奏においてもそういうことが言えるのでしょうね。
車田先生、素敵なお話をありがとうございました。👏🏻わたしは、田園交響曲が大好きで、週に何回でも聞いています。💿ベームやアバドにクライバーと、様々な指揮者で聞きます。🎵誰のCDで聞いても、ベートーベンの田園の素晴らしさを思い、感動しています。🦜自分も、もっともっと、いろいろな音楽を好きになりたいです。😊
おやじバンドをやってます。先生のこの動画、身に染みて、初心に戻ります。そうですね、いつの間にか、自身の劣等感、自己顕示欲に覆われてしまう。いつのまにか、好きでやっているはずの音楽が、苦痛になる。作曲家先生、歌謡曲であれ、クラシックの巨匠であれ、いがいにここで違う方向に行ってしまうのかも。有名な芸能人、タレント、歌手、なんかやはり芸能、芸術肌は、ここを自己管理しないといけない、楽しめなくなると、改めて思いました。ありがとうございます。また、また、動画拝見させていただきます。頑張ってください。
コンクールの優勝に興味をあまり感じなくなりました。他人の評価だし、必ずしも伸びないし、そもそも音楽を楽しみで聴くのに順番関係ないし。一方どんな形でも生活に音楽がある人には親近感を覚えます。
私は単なるクラシック音楽ファンですが、このような課題について自分なりに考えてきて、これまでいろんな本を読んだり音楽評論家の解説などに接してきましたが、これほど本質を見極めた、客観的でしかも素人にも分かり易い明快な解説は初めてです。車田氏のこの解説ですべて腑に落ちました。ありがとうございます。
車田氏の言語化能力に感動しました。いつも良いお話をありがとうございます。アドラー心理学の考え方が好きで、息子が人前で演奏するときはいつも、自分と楽器の関係性、自分がその曲と向き合った関係性だけ大事すればいいよ。と伝えています。「良い曲だなあ」って人に思ってもらえる演奏ができたらガッツポーズですね♪
あるユーチューバーたちの演奏にどうもモヤモヤしていたのは、こういうことだったのですね。
音楽の在り方を考えさせられる、素晴らしい内容でした。
最近、演奏ボランティアを経験して、音楽を聴く人のための演奏とはどういうものかを考えていました。そんな時にこの動画をみて、すごくためになりました。ありがとうございます😊
すごく興味深いお話しでした。私も好きな演奏家がいますが、音楽というのは曲自体の素晴らしさありきだと思います。ただ、他の方が弾いてるときにはその曲の良さが分からなかったのに、違う方が弾いた時にはその良さが分かったと言う時が私にはあります。そのことで、その曲が好きになり、よりいろんな演奏家のを聞いて、その曲を深く知りたいと思う時があります。音楽そのものを理解するのは難しいなとつくづく思うとともに、それでも聴きたくなる魅力が音楽にはあるという事実が何より素晴らしいと思います。見当違いなことを書いていたらすみません🙇♀️
フジコヘミング さん の 逸話は胸の疲れがスッキリとれた気がしました ありがとうございます。極論すれば歌なんかどうでもいいから俺のうまさを見てくれみたいな演奏は、辟易としてしまいます。そのような戒めを感じて、動画の再生ボタンタップしました。ジャズなどのようなコンポーザー 演奏者が混沌としている音楽ではプレーヤーの人間性が音楽で表現される事が多くあり、チックコリアが好きと、音楽を通して彼が感動の対象になりうる事とも有ります。アドリブプレーヤーの承認欲求、自己顕示欲のあり方は創作と演奏の分業が進んだクラシックとは違うアプローチが必要とも感じました。恵示を感謝致します。
クラシックを聴く側にも承認欲求がある気がします。SNSやネットでクラシック音楽の批評をよく見かけますが、お話にあった通りその情報を発信している自分を知ってほしいだけなのかなと感じてしまいます。
あまり、褒めてもらえるような環境ではなかったですけれど、音楽を続けられたのは、やはり好きだったからだと思います。自己顕示欲が強い人と、純粋に好きでやっている人の違い、何となくわかります。どちらが良い、とか、そういう問題ではありません。自己顕示欲がなければ、プロの音楽家は生きていけないかもしれません。でも、もっと違う世界があるのではないか、と、音楽をたしなむものとして、しばしば感じる者です。
良い演奏は精神浸透性が高く、繰り返し聴きたくなります。嫌な事があった時に、その演奏を聴いて癒しを感じるとか、感動を感じます。それは作品の素晴らしさを伝える事が成功しているという事ですよね。
興味深いお話でした。と同時にいろいろ考えさせる難しい内容だったように思います。自己顕示欲の強い演奏に私自身がシラケてしまったとしても、その会場につめかけた聴衆が演者のファンだった場合、その自己顕示欲の強い演奏に陶酔し熱狂することの人が大多数!ということはよくあります。シラケた自分の方がカヤの外...ということになります。そうなると、そういう演奏の方が正義なのかー、自分に聴く耳がないのかーと思ってしまったり。まあ、答えはひとつではないですからね。そういった演奏や場面も楽しめる余裕があればいいのかなと思ったりもします。
ショパンの有名過ぎて聴き飽きた例の「ノクターン」・・昔、別に特別ピアノが巧くもない甥っ子の生演奏(一応ノーミス)を聴いた時、改めて楽曲の素晴らしさを再認識し、特にピアノが上手でなくても、この曲が好きで弾いた甥っ子の熱演に素直に感動した事を思い起こしました・・
演奏家として、終演後に「素晴らしい作品だ」と言われるのが一番嬉しいですね。我々はあくまで作品の素晴らしさを人々に伝えるフィルターであり、先人から受け継いだ技術や解釈を次の世代に伝える伝統の担い手です。演奏家個人の魅力をアピールすることなど、全くどうでもよい。もちろん聴衆がそれに魅力を感じてくれたら嬉しいですが、それは全く目的であるべきではありません。
クラシック音楽の演奏動画のコメント欄を見ていると、外国人の視聴者が、その演奏家に対して「素晴らしいプレゼンテーション」と言っているのを時々見かけます。最高の褒め言葉だったのですね‼︎貴方の益々のご活躍を、心よりお祈り申し上げます💐💐💐😊🎵
海外より日本人のジャズピアニストが好きで学生時代から繰り返し聴いてました。共通の記憶体験があるからかも知れません。多くの日本人ミュージシャンを聴いていて感じるのは「上手すぎる」ことです。全くミスをしないことです。日本では主にジャムセッションに通ってましたがその後海外に住み米国人のアマチュアピアニストとDUOをした時初めてタイミングが合ったという感じを得ました。上手くはありませんしミスも多いのですがそれよりこちらのモチベーションを上げてくれるのが日本では無かったこたです。
知人のリサイタル(ピアノ講師)に誘われて行きました。その時半分ほどラヴェルで、なんか世界に入りすぎているのか気持ち悪い感じで、それ以降ラヴェルが苦手に😢3000円も払ったのに残念です。今年悩んだけど、好きなピアニストなのでチョソンジンのAll ラヴェルのリサイタルへ。驚くくらい素敵でラヴェルのとりこに。何でだろうと思っていた答えがでました!
私も、チョ・ソンジンのオールラヴェルプログラムを聴きました。ただただ、圧倒されました😮。
ベルリンフィルの演奏は各パートの音が細部まで鮮やかに聞こえながら、アンサンブルはみずみずしく立体的にホールに響き渡ります。現在はペトレンコ氏やコンマス(ミス)の個性もあるでしょうが古典派であっても全体が波打つように一人一人全身を使って演奏し、音楽に生命力を与えているようです。日本人指揮者が活躍するようになりコンマスも奏者の個性も千差万別ですが、個人主義であり伝統を生み出す場でもある欧米と、枠を超えた調和を重んじ繊細な手技を用いる日本とでは、自己顕示・承認欲求の在り方と表現方法の関係もどこか違うような気がします。
今日のテーマは、自分のこととして、よくよく考えてみたいと思います。若い時はまず親に認められることで、かなり満足していました。もちろん音楽、ピアノが好きだったのはもちろんでしたが。
身に心に染み入りました良いお話ありがとうございました
遥か昔師事していた先生が楽譜と音を読んで作曲家が何を言いたいのかよーく理解するんだよと今更ながら今日のお話と繋がる内容でとても理解しやすかったです。気を引き締めて練習したいと思います。とても共感出来るお話しでした。ありがとうございました。
本当にうまいけど音楽を感じない音楽家はいますね。ところで昔コードの周波数の共鳴の周期を調べてみたことがあるのですが、美しいコードやメロディーラインは長期的で複雑な周期を持っていました。それから何年かたって、フィボナッチ数で構成される金星と地球の周回軌道を幾何学的に表した美しい図形を見ました。美しいものいろいろな力が複雑に絡み合いながら奇跡的に美しい形を保っています。美しいコードの周期と美しさの本質は長い周期で交わるようで交わらないドーパミンが聞きたい追いかけたい、と感じさせるものだと思います。音楽の好き嫌いは人それぞれですしタイミングもありますがやはり普遍的なパラメーターはあると思います。
なかなか難しい問題ですね。承認欲求や自己顕示欲が全くない、そんな音楽家がいるとは思えないので、やはり程度の問題ではないでしょうか。作品を離れ、単なる技巧のひけらかしであれば悪い自己顕示欲の表れとすぐわかりますが、実際にはその線引きはなかなか難しいように思います。一般的にロマン的な演奏をする音楽家は、自己顕示ととられかねないすれすれのところで音楽を作っている印象がありますが、むしろ作品、音楽がそれを要求しているように感じることもあります。フルトヴェングラーが最高の例ですし、リヒテルやアニー・フィッシャーにもそういったものを感じることがあります。この作品はこういうものだったのか、と理解が深まったような気分になるんですね。もちろん、常に成功するとは限りませんが。自己顕示欲といえば、カラヤンなど映像作品を作る際は自分だけが目立つようにしていた自己顕示欲の塊みたいな人ですが、例えば晩年の「薔薇の騎士」とか、作品の素晴らしさを最大限に感じさせてくれる演奏も残していますし、私がファンであるミケランジェリのピアノなど、一体どう表現したらいいのかわからなくなります。彼がシェルヘンの指揮で弾いたモーツァルトのコンチェルトなど、まるで妖刀村正のようなピアニズムで、およそモーツァルトらしからぬ演奏でありながら、どうしようもなく惹きつけられる自分がいます。
私はグールドの演奏が好きです。かなり個性的な演奏ですから、バッハが作った音楽表現そのものとは違うと思うのですが、そこにはバッハの精神性が表現されているから、素晴らしいと感じるのかなと思いました。忠実に音符を辿るのでなくても、音楽の素晴らしさは伝わりますよね。
最近、バックハウスのベートーヴェンソナタをよく聞くのですが、バックハウスの演奏には自己顕示欲なんて1mmも感じません。ただひたすらに職人のようにベートーヴェンや音楽に対する敬愛を表現している方だと思います。
同感です。初めて聴いたベートーベンがホロヴィッツだったので、最初は素っ気なく感じたのですが、聴けば聴く程、高貴で良い意味でたんたんとベートーベンやブラームスの音楽を堪能できる気がします。結局落ち着く所は正統派、バックハウスの演奏、今では1番のお気に入り、宝物になっています😊♪(車田さんのバックハウスの動画をまた観たくなりました♪)
確かにバックハウスはまるで求道者のようですものね。「余暇には何をされますか?」という質問に対して「ピアノを弾きます」と答えたことが印象的でした。
心がふっと軽くなりました。もとは作曲者が凄いから、感動する。入りは演奏家からだとしても、最終的にはその作曲家の他の作品が聴きたくなるような演奏をしてくれる人が凄いのでしょうね。そこは人の好みと縁。私はミケランジェリ氏の美学に魅了されてマズルカに興味が向くようになりました。またグールド氏のバッハは合わず、ケンプ氏のフランス組曲で一気にバッハの凄さがわかりました。演奏家は聴衆と作曲家のつなぎをしてくれる点では、演奏家も素晴らしいと私は思います。
本当に素晴らしいですよね😊それプラス、例え自己顕示欲が垣間見えたとしても、好みの演奏でなかったとしても、その方の練習に費やしてきた時間と努力はどれ程のものなのかと考えると。そこは、想像するしかないのですが…。
音楽をやる動機に『異性にモテたい』というのもあるようですね。『承認欲求が強い』という言い回しはSNSで相手を批判したり、こき下ろしたりする場合に使われているケースが多いような気がするので、私はなるべく使わないようにしています。演奏家の方々は聴衆とのコミュニケーションが大切だといわれますが、それのどこまでが『承認欲求』か、そもそもそういう概念でくくることに意味があるのか難しいですね。確かに、演奏家によっては自己陶酔が透けて見える決めポーズをする人がいて、聴く方が醒めてしまうこともありますけれど。車田さんの仰るようにバランスというのは大切ですね。演奏側だけでなく、鑑賞側でも、好きな作曲家、演奏家がいて、どれだけ傾倒しているか熱弁を振るうのはいいのですが、返す刀で、特定の作曲家、演奏家を貶める人がいらっしゃいますね。これも困りものです。フジコ・ヘミングさん、確かにラ・カンパネルラについてはこんな弾き方もあるのかと興味深く聴かせていただきました。特に私にとってリストはジョルジュ・シフラ氏のような超絶技巧を連想する作曲家でしたから。ただ、NHKが彼女を特集した番組を何度も再放送して凄い大家に祭り上げ、普段はそのような音楽とは無縁であろう聴衆がコンサートに詰めかけるという『現象』にはちょっと違和感を感じました。フジコ・ヘミングさんをきっかけに音楽が好きになる人が増えることはとても好ましいことであることは確かですが、そうなるかというと私は疑問に思っています。それにしても、飼われていた約20匹いたといわれる保護猫がどうなったか気になります。
ピアノを人前で弾いた時に上手と言われれば嬉しいけどそれより「いい曲ですね」と言われる方が嬉しく思います。ニレジハージの演奏は賛否両論で非難されるのも多いけど、周りの声を気にせず独自の演奏するニレジハージのピアノが心に響いてきます。
おっしゃることに全面的に賛同いたします。演奏者は、プロアマ問わず、演奏する作品の価値を聴衆のこころに届けることが本義であって、弾いてる自分を目だたせよう、などナンセンスです。しかしわたしがこういうと、「それはきれいごとだ」と冷笑するひとがたいへん多い。わたしはきれいごとだとは思いません。たとえば、ショパンの幻想即興曲。あの出だしを、「ぼくはこんな曲も弾けるんだよ」とばかりに得意になって弾いたら、少なくともショパン好きの人は不快な気分になることでしょう。なによりショパン自身が、「おねがいだから止めてくれ、そんな曲として作ったのではない」とおもうことでしょう。アマチュアが発表会とかでじぶんの技量に比べてやたらむつかしい曲を弾きたがるのも、よくないと思います。ああいうのは自己満足どころか、聴いてるひとには罰ゲーム。いくら発表会でも。そんなのを「こんなむつかしい曲よくがんばって練習しましたね、えらいえらい」なんておだてるのは止めてほしい。こういうことの積み重ねで、ひとのこころから音楽がすり抜けていく。わたしは、よく発表会に出ますが、聴いてくださった方から、曲に関する感想を聞けたら良し。私の演奏に関する感想を聞かされたら(たとえ誉め言葉でも)演奏は失敗だった、と思っています。曲が印象に残ったら、私に関してでなく、曲についての感想が口から出るはずですから。
自分のこととして戒めてピアノに向き合いたいと思います。演奏効果を基準に派手な曲ばかり選曲していましたが、原点に戻って音楽とは何かを考えていきたいです。目からウロコで、気付かされました。ありがとうございます。
私は自己顕示欲が無さすぎてか、抑圧されていてかわかりませんが、音楽は大好きで練習もたくさんしますし、聴衆のために愛を持ってピアノを弾きたい心も強くあるのにも関わらず、引っ込み思案なので自分から進んで演奏の機会を作ることはまずありません。こんな私に一言アドバイスをいただけたら嬉しいです。
車田先生の、ご意見ごもっともで、納得できます。私は、アマチュアですが、オペラアリアを、指導者に、10年以上、習っていて、発表会とか、何度も人前で、歌ってきました。出来のいい時、悪い時もありましたが、それなりに楽しく歌っています❤あまり、難しい事は、考えず、達成感があるので、今まで、続けてきました。確かに、作品が、褒められた時は、満足感ありましたね❤これからも、作品に向かい合い、苦しみながらも、歌って行きたいです
私は既に78歳なのですが、小学校に入る前から部屋に寝転がってハーモニカで唱歌などを延々と吹いていました。私は孤独だったので自分のために吹いていたのです。後に大学の時にクラシックギターを弾くようになっても演奏は全く自分のためにやっていました。人に請われて演奏することはありましたが、根本的な動機は「自分が弾いて自分で楽しむ。」でした。現在は、チェロの先生が作っているチェロアンサンブルに加わって演奏したり、地元の芸術系大学の「オペラ講座」に通ってオペラの重唱などを歌ったりします。これらは、発表会などがあって必然的に人に聴かせることになりますが、私個人的にはやはり自分のために演奏し歌います。それが楽しく面白いという動機だけです。そもそも、私は人前で何かをするということが幼少期から非常に嫌で、学校では前で何かをやらされそうになると逃げ回っていました。今の私が舞台で演技しながらオペラの重唱を歌っていることなど、子供時代にはおよそ考えられない事態です。自分のためということは自己満足の世界なので、自分さえ気持ち良ければ下手な演奏でも良いという訳で自分の基準に達すればそれ以上の上達は望めないです。「自己顕示欲」がある方が上達の可能性は高いという意味で自己顕示欲も全くダメという訳ではないかなと考えています。
ステキなコメントで嬉しくなりました。…全く同じ動機の初心者です。音楽の感動は…超個人的なものです。また個人の思い出や記憶と密接に関わっていますよね。私が愛する曲が他の方にとっても愛する曲であるかどうかは解りません。「心から愛する曲を自分で演奏する喜び」は自己顕示欲とは、違うものであると思いました。
@@りも-s4l 同じような事を感じていらっしゃる方も多いと思います。> 「心から愛する曲を自分で演奏する喜び」正に、それですね。私自身、素人なので、演奏の好みはあっても、どれが「自己顕示欲」による演奏か、「作曲者を大事にした」演奏なのか、更には「正しい」演奏なのか、など全くわかりません。一般的な話をしますと、そもそも、ある芸術作品、特に器楽曲などの抽象的な作品の演奏などから、それをどう受け取るかは受け取る人の経験、環境などで大きく異なるものであり、それが作品を作った人の思いと一致するということはほとんど期待できないことであると思っていますし、自己顕示欲満々の演奏であってもそれに感動する人もいると思います。芸術作品は、それを受けた人の心の中でその人の知識・経験・状況によって形を成す(再創造される)ことによって初めて芸術作品として意味を持つものだと思います。一旦、演奏されて音になってしまえば音楽は聴き手により如何様にも受取り得る、その意味で演奏者がどんな動機で演奏しているかは聴き手にとっては本質的な意味を持たないと思います。
とても興味深いお話で深く考えさせられました。私自身ずっとモヤモヤしていたテーマでしたが、少し霧が晴れてきたような気がします。ありがとうございます。
私は若い頃は、演奏も楽しめましたが、病気になってからは、もっぱら聴くことがほとんどになってます。まぁ、元々、いろんな曲に、巡り合えることが楽しみですので、改めて、今まで、聴いたことがなかった曲も、聴いてみて、気に入った曲があれば、何回も聴いています。今は、ベルリンフィルのデジタルコンサートホールをよく観ておりますが、いろんな曲や演奏があり、楽しいですね。最近の演奏はもちろん、世界初演の曲もあり、昔の巨匠の演奏もあり、ドキュメンタリーもあり、団員紹介もあり、多彩で見応えがあると思います。ウィーンフィルもこの様な、チャンネルがあればいいなぁと思います。作品が素晴らしいから感動する、なるほどですね。車田さん、ベルリンフィルの演奏会、出られるといいですね。期待しております。この間、マティアスゲルネさんの、マーラーの子供の不思議な角笛、聴きました。良いですね。お菓子、美味しそうですね。
とても面白いテーマでした。ありがとうございます。私はクラシック音楽に明るくないのですが、作品に対するイデア論的な考え方に西欧の伝統を深く感じました。勉強になります。
確かに、社会人として生きていて、自分だけを見られることは、なかなか無いですね。音楽の心と向き合うこと。作品が素晴らしいと、どの人が演奏しても届く。時々関係を見直してみます。
車田先生の視点、とても、考えさせられます。私は、オペラソロを、指導者から習っています。自分なりに、ドンドン、うまくなるのが楽しいですが、時に、なかなか、思うような声が出ず、悩む日もあります。段階をクリアするに連れ、ドンドン楽しくなってきています
心に響かない代表はストリートピアノの演奏だと思っています うまいけど自分のために弾いている人や、凄いでしょと見せびらかしている演奏ばかり
リストやラフマニノフなど、ピアノの技術を見せつけるようなカデンツァが有名ですが、矢印が周りに向いているのは大きな違いですね
私はバレエをよく見に行くのですが、置き換えるならば「このダンサーが見たいから、舞台を見に行く」と、いうことも実際にあります。動画もきっかけとしてはいいと、思います。でも、生で見たときに「綺麗だし、テクニックもすごいけど、なんだか薄っぺらいな」と、感じたら次は見に行かないと思います。やはり作品に真摯に取り組む人でないと感動は生まれないと。
自分はカラオケをするのが好きですが、歌う曲を創った人やその歌手への尊重を一番において楽しみたいと思います。とっても素敵なお話をありがとうございました
はじめまして。音痴で音楽と縁遠い者ですが、サムネイルに惹かれて視聴し、いろいろ思い出しました。若かりし頃、横浜の会員数の多い教会に若いイケメンのピアニスト(学生)がいて、ちょっとした有名人でした。しかし、同世代のアコースティックギターでの弾き語りと作詞作曲を趣味にしている男性が、彼の演奏は技巧をひけらかしていて気障だと言いました。普段ネガティブなことを言わない人でしたから、私はちょっと驚きました。後に、横浜の教会の牧師が珍しく満面の笑みで彼の話をなさいましたが、彼は試練に遭い、信仰が成長し、演奏が変わったとのことです。東京都内の、もっと会員数の多い教会には、プロ・アマ両方ともミュージシャンが大勢いました。しかし、多くの普通の会員からもミュージシャンの会員からも支持され、礼拝や聖歌隊やコンサートでの演奏、曲作りや指導などに選ばれるのは、上手・下手ではなく、音楽に対する姿勢のような内面的なもので、それが誰の目にも耳にも明らかだったそうです。また、音楽から逸れますが、抹茶ブームで日本の抹茶文化が廃れてしまうと宇治市のお茶農家さんたちが大変な危機感を覚えているとのことを思い出しました。スイーツに使われている質の悪い抹茶や、着色料・香料などの添加されたものが抹茶だと思われてしまい、そのうちお点前用にも安物が出回り、本物の抹茶が売れなくなってしまうということを危惧なさっているそうで、私もそうなりかねないと思いました(母が茶道の師範で、幼い頃から本物に親しんでおりまして)。承認欲求も自己顕示欲も個人の自由ですが、行き過ぎて音楽を破壊しないでほしい、リスナーも気をつけねば、と思いました。ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。
抹茶のお話、興味深く拝読しました。実は、これとよく似た問題がクラシック音楽の世界でも起きているのです。それについて深く言及した解説動画がこのチャンネルにあるので紹介させていただきます。[大切な話] 芸術がビジネス化?音楽など芸術を広める事が本当に良い事なのか? (2022.2.8配信)これは、どのような分野にも当てはまる話で、車田先生の深い洞察力に裏打ちされた、情熱に溢れる本当に深みのある良いお話です。是非、聴いてほしい‼︎そして、もし宜しければ、こちらもお薦めです。音楽談話88 プロ・アマ問わず増え続ける演奏動画(2023.9.13配信)どの世界でも悩みは同じですね😮💨私も、なるべく本物のお茶を求めるようにします。実は、私は関西に住んでいるので、時々宇治へ行って、お抹茶と和菓子を楽しむんですよ🍵🍡🌸
自分は聴く専門ですが、とても考えさせられたお話でしたありがとうございました
久しぶりに基本的の需要さをきかされてうれしいです。ありがとうございました。😮
面白いテーマですね!音楽は自己顕示欲が出やすい表現媒体ですね!とても良い話しです
すごく興味深いテーマですね!そういう角度があったかー😮とうなってしまいました。生活環境に余裕が出て久しぶりに拝見したら😊音楽も奥が深いっ!
面白かったなぁ~。今日のテーマ最高!
私は音楽はど素人ですが、自己顕示欲がすぎると輝かない響かないというのは、音楽以外のあらゆる分野でもその通りだと思います。
子供の頃から憧れてた楽器、大人の趣味として始めてアマチュアオケも参加したことあるけど、下手すぎて自己顕示欲どころではない・・・!😂が、もし、そこそこ弾けたら「私の演奏聞いて!うまいでしょ?」って気持ちになるのわからんでもないな。もしくは、他にもうまい人いるのがわかりすぎてこじらせるか・・・ところで今まで考えもしなかったけど、多々ある素敵なクラシック音楽に出会った時「作った人天才か――!!」って感動してたんだけど、それはつまり良い奏者たちに良い演奏を聞かせて貰ってたのかもしれないな
そうですか、改めて思い目を覚まされました。ありがとうございます。😅
自分自身に気持ちを向けていつも配慮しながらも、作品の論理や形式、楽曲そのものを信じている演奏家の音楽を、ぼくは聴いています一方、自分自身の感性を信じているほど、作品の論理や形式、楽曲そのものは信じていない、演奏家の感性に従属するためにしか作品が存在していないように見える場合、一種の息苦しさを感じます
趣味でオケをやっている者ですが、とても核心的な話題ですね。スポーツや一般の仕事にも通じるような気がします。
いつも本当にありがとうございます🙇アドラー《嫌われる勇気》名著ですよね!自己顕示欲、承認欲求。大切なテーマですよね!今後ともよろしくお願いいたします🙇
どうもありがとうございます😊
とても同感できる嬉しい動画でした。私は…作曲家ならバッハ、楽器ならヴァイオリンが特に好きなのですが、作品の素晴らしさを伝えようとする透明感ある心に響く演奏に出会うのを楽しみにしています。物凄い練習と作品研究をしながらそれを徒に主張しない演奏は…作品が楽器に乗り移って来ているようで素晴らしいです。私は…最近の日本のヴァイオリン奏者なら…庄司紗矢香さんとか村田夏帆さんの演奏が好きです。
奥深いお話をありがとうございました。子供の頃からピアノと声楽の発表会は自分が一つ上に行くためで、人様に聴いてもらう場とは思っていませんでした。というかストレスでしかなかったです。絶対演奏家になれませんね笑先生の今回のアップで、もしグレングールドが今,生きていたらSNSを利用して世界配信していたかなと思いました。
演奏者とは、「俳優」「声優」の仕事に近いものがあると思います。私はかつてピアノ演奏の道を目指したことがありますが、「1を知って10を知った」気になる、身の程知らずな奢った性格であったためろくに技術も無いくせに、いつも「自分の想い」と「作曲者の想い」の間にジレンマを感じていました。純粋に「自己表現」を求めている自分と、譜面から感じる作曲者の想いがぶつかるからです。それで、自分は作曲家になるべきだとか思ってやってみたりしましたが…まあ、才能無かったですねww何事も、「本質」の所在を、執着の達成にすり替えると上手くいかなくなるものですよね。音楽であれ、食べ物であれ、他の何であれ、世の中に存在しているモノ全てを、「自分の欲求を即座に満たしてくれるためのモノ」とみなす認知の歪みが、「感動」という名の「上澄み」だけを求める、「ドーナッツ化現象」を生じさせているのでしょう。いつも啓発的なお話、ありがとうございます。
UA-camのストリートピアノを聴いてそう思いました。観るようになったきっかけはプロ・アマチュアを問わない作品自体の素晴らしさ。そして最近観なくなった理由は自己顕示欲です。
素晴らしいお話しをありがとうございました。とても学びになりました。
このテーマは現代のJポップアーティストに顕著に表れてると思います。
何だか耳が痛いお話です。😅けれどもその通りだと思います。貴重なお話ありがとうございました😊
楽しい時間 ありがとうございました 次のお話しも楽しみに待ってます
演奏家によって、その音色は元より曲の解釈による演奏が違いそれに魅力を感じながら楽しみ鑑賞している関係は素敵だなぁと思います。この演奏の違いは、楽譜に書かれていないことは勿論されていませんが、これが自分の音楽なんだという強い気持ちで演奏されているはず。車田さんが仰っている程よい自己顕示欲というものはそういったことでもあるのかなぁと思いました。そこが出発点といいますか…何にしろ、豊かな音楽体験について改めて気付かされるお話でした。ありがとうございました。
モチベーションのあり方って大切ですね。最初の原因であり最後の結果でもあります。自己顕示欲も承認願望の満たされなさからくると思いますが、承認欲求を感じること自体何か満たされていないことに気づいてほしいなあと思います。ここを安易にスキップすると承認欲求の奴隷になります。人間の原型にはいろいろなプリミティブな欲求がありますがそういった欲求が昇華される機会を与えてくれるのも音楽の素晴らしいところです。私は小澤征爾の「雑念」の考え方に感心することがよくあります。その「雑念」とは音楽をやっている時に音楽のこと以外全てだそうです。そういう集中力と音楽への心酔はなかなかできるようなものではないですがそういう方向に進んでいきたいとは思います。確かに基礎教育がしっかりしてるなあと思えばかなり幼い時から音楽を始めたとかよくありますが、その時のモチベーションって面白いかお母さんに褒められるくらいしかないですよね。奴隷になり切るという選択肢もありますが論外とすれば(しかし意外に多い)。大きな問題とも言えますが何か意味のある問題なのでしょうね。
人間が善意と悪意の間で生きているとすれば、音楽という文化やコミュニティが淘汰されずに今に伝わるのは、そこに人の善意が込められていたから。そんな今に続く名曲の核心に触れられるかどうかは、演奏する人間の善の心を通してのみであり、それは全人類的な魂の存在と繋がる、大きな自分をどれだけ育んできたかで決まる。自己顕示欲の強い演奏は、文字通り利己主義なので、小さな自分、小さな心が創り出す産物であり、車田先生がおっしゃる通り刹那主義で終わってしまう。人間は様々な境遇で生まれ育つので、一方的な批判はフェアではない。素晴らしい音楽を今に残してくれた大きな心と同様に、またそのような大きな時間軸で、小さな心も見守ってあげたい。車田先生、誠実なお言葉に感動しました。普段は他チャンネルにコメントを残さない人間ですが、私見を書かせて頂きました。次の動画も楽しみにしています。
作品そのものの素晴らしさ、確かにそうなんですよね。
演奏している人の姿を見ているだけで、自己顕示欲を満たそうとしているかどうかがわかる・・・・、車田さんの慧眼に共感出来ます。
男性はそうかもしれないですね、女性は逆に身体見せたいくらいの自己顕示欲承認欲求がないとやっていけない。ライブに来てくれた人だけに演奏の時だけならいいけど、そうじゃないときに毎日のように顔を見せなきゃフォロワーがつかないとかほんと不快で、嫌な時代になりました。
音楽に限らずお絵描きのどんな分野でもいっしょで。
なるほどわかりやすいです認められたい人の演奏や曲は嫌悪感しかなくてまったく聴けず本能で避けてしまっていました
私はどちらかと言えば、というか自分からいうのは恐縮なのですが、音楽に馴染み出したのは、スマホが普及してからです。クラッシックにハマって思うことは、作曲家は、ある意味自分の音楽的美意識を曲にしていると思います。美術とかよりむしろ目には見えないので精神性がストレートに曲になっていると思います。あくまで私の受ける印象だけど、他の作曲家に勝ちたいとか他の作曲家より、注目されたいという気持ちを抱き、その気持ちが支配的になってしまうことは、邪魔になることが多く良い曲が作り難くなると思えます。
連投で申し訳ないですが、フジコ・ヘミングについて。彼女が人を感動させるのは、音楽そのものよりも、その苦難の人生という背景情報のおかげですね。そういう点では、いくつもの奇矯な振る舞いが目立つグレン・グールドは、むしろその素晴らしい演奏以外の点で注目が集っているのも不快ですね。昔、俳優の木村拓哉がドラマでピアニストを演じたとき、グレン・グールドが好きだと発言していましたが、その理由が「弾き方がかっこいい」というのでがっかりしました。
ある大きなホールでピアノ協奏曲を聴いたとき、ファッションショーのモデルさんのようにカッコよくて見目麗しいピアニストが、めちゃ高度な難しい曲を1音も外さずに弾くのを聞いていて、スポーツみたいだと思ったことがあります。音楽が楽しめなかったのです。感動のような情感が湧かず「スゴーイ🤩」という感じでした。ある歌手が、“自分が歌っている” うちはまだまだで、“何かが歌っている (es singt)” という境地にならなければならない、と言っていました。自己顕示的な演奏が好きな聴衆は、自分も自己顕示欲が大きいからなのかもしれませんね。
オペラ歌手も、役になりきって歌っている時って、観客に「今の歌手は〇●ですよ」と意識させないですね。ウィーン国立歌劇場の来日公演で観た「ボリス・ゴドノゥフ」など、マルヤーナ・リポフシェクという美声・美貌の歌手をチョイ役に使っていたけど(涙)、劇の重要な場面を明瞭な歌声で演じていた。※アバド指揮ウィーンフィルの第9でも、歌っています。
色々な音楽があったほうが楽しい。
ベートーヴェンのピアノソナタをベートーヴェン以外の人が弾く事、演奏、演じている幅は色々でしょうね😊ベートーヴェンが作曲した曲を今聞いたり弾ける事に感謝します😊
車田先生、まさに私が最近考えていたことを明確化して下さり、ありがとうございます。
私はクラシック音楽を聴き続けて50年近くになりますが、若い頃は自己主張の強い演奏者が力を込めてグイグイと弾くのを喜んで聴いていました。しかし、年を重ねるにつれてそのような演奏を聴くと疲れるようになってきました。そして最近、ある若い演奏者が音楽に誠実に向き合いつつ、その曲の本質に迫る演奏をするのを聴き「ああ、この曲はこういう曲だったのか!」と目が開かれるような体験をしました。私は気づきました。「音楽を通して自己主張する演奏者」と「音楽に献身している演奏者」がいることに。そして私が本当に好きなのは後者だということに。
私は、奏者として現役バリバリの時は酷い奏者だったと思います。
「上手いだろう?」「凄いだろう?」「君たちにはこんな演奏できないだろう?」今思うと恥ずかしい黒歴史です。
自ら音を出さない指揮者という立場になったとき、その自己顕示欲の強い音がいかに音楽の邪魔になるかに気が付きました。
上手いだけでつまらない演奏というものが世の中にたくさんあることも知りました。
この夏の吹奏楽コンクールの本番直前に私は奏者たちにこう伝えました。
「他の団体より上手く演奏したい、〇〇に勝ちたい、より良い賞を取りたい。それも結構なことだけど、我々のやるべきことは常により良い演奏をすること。作品の持つ感情を聴衆に伝えること。作品の素晴らしさを聴衆に伝えること。それ以外の感情はある意味全て雑念だと思います。」と。
奏者として全体の調和よりも自分の自己顕示欲を優先してきた酷い奏者だったことの反省として、今自分の指揮で音を出す奏者たちにはより音楽に対して作品に対して真っ直ぐであってほしいと願い、かつての。自分のように承認欲求を満たすために演奏している人たちと戦っています。
吹奏楽コンクールなどには絶対に出ない、その決意を伝えるべきですね。音楽を楽しみましょう。
音楽好きですが、自分の高校の吹奏楽部の演奏を聴くのは苦痛でした。
演奏者にも指導者にも「金賞受賞」以外の目標はなく、校舎に受賞の垂れ幕を掲げるために演奏しているのか?と思えるほどだったからです。
そうでない指導者もいるということを知って、嬉しく思います。
でも正直を言うと、他の方もコメントしているように、吹奏楽コンクールなど辞めれば良いのにと思ってしまいます。佐渡裕さんも、自書の中で、吹奏楽コンクールの評価の無意味さを語っていましたね〜
私はクリスチャンです。
学生時代からピアノを長く習っていたので教会でも奏楽奉仕を行っています。
いかに弾くか
悩みながらも自己顕示欲が表れていた酷い音を弾いていたと思います。
先日、教会でオルガンに向かい合って5時間
ずっと悩みながら曲をいかに美しく弾くか・どのように弾くかしばらく悩んでいました。
しばらくして牧師が来て話していく中で自分を出さずに会衆全てをしたから支える音はどんな音かを考えてみてくださいと言われました。
杖をつきながらやっとの思いで来られた高齢の方、ご家族を亡くされたばかりの方、辛い思いを持つ方等様々な方の癒しのために弾く
音を削ぎ取りながらシンプルで良いんだと気付きました。
華やかな音を自分よがりで出すのは意味がなく、自己満足になる。
何のために、どのような場所で弾くのかを考えて音楽と向き合っていきたいと考えています。
今回の話はまさにこの件と繋がっている気がしましたのでコメントしました。
@@user-cy4mp9iw8f
私も、ずっと以前に教会で、奏楽の奉仕をしていたことがあります。その時、牧師さんから言われたことは、奏楽は、自分のためでも、礼拝に集まる人のためでもなく、神様のために、神様に音楽を捧げる気持ちで弾きなさい、と言われたことを思い出します。
読ませていただき、映画「シャコンヌ」を思い出しました。
何かしら舞台に出て表現をすれば自己顕示欲が強いという視点から逃れる訳にはいきません。しかしながら何かを表現する時には作曲家の魂や意図を乗り移らせる必要があると感じます。霊的媒体として技術を磨きお客様に生きた感動を伝える。そのバランスを欠いた時、自己顕示欲が強いと解釈されてしまうのでは無いでしょうか?舞踊家や女優には何かしら人を惹きつける天性が必要です。その人間が歌に転向した途端、審査員などに受け入れ難く感じられてしまう理由や誤解が今回の先生のお話しで解った気がします。後は個々の天性の輝きをどう捉えられるかですね。天性の目立つ魅力は逆に潰されやすく脆いものですし輝いてしまうものは早いうちに芽を摘まれ潰されるのがこの世の残酷さです。
輝くからにはそれにふさわしい内面,技術、あるいは人脈やサポートが必要なんですね。
専門家にやお客様にどう取られるにせよ先ずは基礎技術と鍛錬、謙虚さと媒体としての在り方を磨いてまいります。ありがとうございます。 星みゆきフラメンコ
バリバリの…アマチュアです😂 …もちろん技巧は大切ですけれど…あるUA-camの動画で土木作業員のかたで「ノクターンをどうしても弾きたい」という動機でなんと光るキーボードで練習で一曲仕上げてしまいました。
その音が本当に心を打つのです。
「この曲が好きだ。どうしても自分手で弾いてみたい」という純な動機が
この音を出してるようです。…私もクラシックに関わらず「心から愛する曲」があり、コレを弾きたい、自分に聴かせたい
…そう思って練習してます😢
ストリートピアノにはあまり興味ありません。
どんな場所のピアノでも一番の聴衆は「わたし」なのです😮
先生、いつも良いこと言うなーと思って聞いてます。各項、共感しかありません。
私もそうおもいます。
飾らない拙い演奏なのに聴いていてとても心打たれる演奏に出会うことがあります。時にバッハの音楽においてそのような瞬間に立ち会うことが多く感じたりしますが、それはきっと演奏法を取っ払ったある意味幼い音楽性の中にバッハが本来伝えたかった「誰かを思いやり、その誰かがしあわせでありますように、と、心の深い安寧を一身に祈る気持ち」に出会えたからなのかもしれません。幼い子の描く絵や拙い演奏に私たちが心惹かれるのは、そうした魂のシンコペーション、ジャズ的なバイブレーションに最も障壁なく繋がりあえる何かがある、と思うのです
興味深いお話をありがとうございます。やはり演奏者の承認欲求が強くナルシシズムを感じると聴衆は白けてしまいますよね。
朝比奈隆さんが“愚直”という言葉を好んだことを思い出しました。
あなたの演奏を聞いてこの曲が好きになりました。もしくは、あなたの演奏を聴いてこの作曲家の作品をもっと聴きたくなりました,というのがクラシックの演奏家として最高の褒め言葉だと思ってきました。承認欲求を満たしたいなら作曲家になったらいいと思います。クラシックの世界は作曲家の前には演奏家も聴衆も対等ですから。
良いお話をありがとうございます🌟
私も演奏する者として、曲の素晴らしさを伝えることが出来るように、自分と音楽の関わりを良く見つめていきたいと思いました✨🙏
私はアマチュア演奏家です。たいぶ前に、或、上手と言う評判が高いアマチュアオーケストラの演奏会に行ったことが有ります。それは、同じアンサンブルで演奏している方が所属しているオーケストラ。勿論、その方もかなり吹ける方。聞けばそのオーケストラはレペルを維持する仕組みがルール化されている。厳しいですがレベルの高さに納得でした。
その方からチケットを頂き聞きました。確かマーラーだったと思います。どんな演奏をするのだろうか。とても楽しみにして客席に座りました。しかし、終演後の感想には悩みました。確かにステージ上の皆さん、お上手とは思いますが音楽が何も来ないのです。こんな感覚を持った事に自分の感覚が変かもしれない。だって、とても上手と言う評判が高いオケなのです。そこで、もう次の演奏会にもチケットを頂き行きました。その理解不能な感想の原因を探るために。そして解りました。そのオケ、団員の方々は皆さんとても上手。しかし、ステージから聞こえたメッセージは「私たち上手だから聞いて。どう上手でしょ!」でした。それが解った瞬間に興味を失いました。
そんな経験を思い出しました。
その通りだと思います 私はそんな演奏は耐えられないのでアマのオケは感動したことはないので、行く理由がない限り基本行きません。笑顔でも作った笑顔より自然と笑った笑顔やオリンピックで金メダルを取った人の笑顔の方が数百倍魅力的なのと似ていると思います
いつもながら、わかりやすくて丁寧なお話。
私は藤田真央さんのモーツァルトのソナタの演奏を聴いて、モーツァルトも藤田真央さんも好きになりました。(推し?)
彼のエッセイを読むと、恩師の野島稔さんから自分をよく見せるためにピアノを弾いてはいけないと言われたエピソードにジンときました。
そんなことを思い出しながらお話を聞きました。
チョコレート美味しそう😅
私はワインでいただきたいです🎉
ここのコメント欄とても素敵ですね。
本質的にはなぜ自己顕示欲や承認欲求が好ましくないのか。というテーマだと思います。
人はみな自我を最終的には手放したいと思っているからだと思います。
なぜなら苦しみは自我が作っているからです。
承認欲求や自己顕示欲を経てやがてそれは苦しみに変わり、そこからの解き放ちを望む。
やがて自我は鎮まり、自我ではなく真我からの音を演奏するのではなく、演奏させられるようになる。
これと似たような音楽家の方沢山いらっしゃるように思います。
素晴らしいテーマをありがとうございます。
バッハは天才過ぎますよね。笑
大人の発表会など聴きに行くと、技術的には拙い中にも光る部分が必ずあり心打たれますね。
その作品が好きな気持ちって必ず表れるし、作品そのものの美しさは確かにあるからですね。
まさに!ここ数年モヤモヤしていたワタシの思いをはっきりと言語化していただけて、スッキリしました。でも、この内容を一番理解してもらいたい、自己顕示欲の強い演奏家さんには一生理解してもらえないだろうな…とも思います。素晴らしい演奏技術を持っているのに、なんてもったいないことだろう…といつも残念に思います。
素人のワタシには技術は伴わないものの、せめて曲や作曲家へのリスペクトに溢れた演奏を目指したい、と改めて思いました。ありがとうございました。
自分は承認欲求が人一倍強く、若い頃から色んな人にたしなめられてきました。自分の不徳の致すところには違いないですが、今思い返せばそうやってわざわざ非難してきた人ほど自分と同じように承認欲求が強かったように思います。まさに同族嫌悪という言葉どおりです(もちろん車田さんのことを言っているのではありません)。
話は変わって、承認欲求の強さを指摘されても心掛けレベルでは根本的に変えることが難しいから困ったものです。行きつくところは幼少期の親との関係性なのかなと思っています。人によってはこの動画をきっかけに自分の心の中を探求することになるかもしれないと思いながら拝見させていただきました。
今日のお話は演奏家にとって耳の痛いことも多い内容だったのではないでしょうか。
演奏家がどのように解釈し表現しようとも、200、300年前の音楽が、長い年月を経て今も演奏されているということは、作品が素晴らしいからのひと言に尽きると思います。
深いお話ですね、私もとどのつまりはやはり自身の承認欲求・親からしっかりと受け止めてもらえなかったものが、こうした演奏だったりパフォーマンスへの賞賛を受けたい強い気持ちになっていくと思っています。
作曲者、作品曲の素晴らしさを感じながら弾ける喜びに感謝しながら謙虚に弾いていきたいと思います。
約1年前に楽器の演奏を辞めた者です。
やっていて何か限界を感じていましたが正に自己顕示欲・承認欲求でやってきたことで感じた限界だったと改めて気が付きました!
辞めた今は逆に気楽に、仕事をするときはまずはコツコツ、
普段の生活はとにかく樂しくという姿勢になり
自分で自分を少しずつ認めながら地道に気楽に生きられるようになりました!
改めて気づかせてくれてありがとうございます。
どんな演奏家が演奏したとしても、もとの曲が素晴らしいから感動する。もとの曲のよさが伝わる…とのお話に、救われた気がしました。
私は好きな曲を弾きたくて弾きますが、自分の演奏の欠点にばかり目がいって、いやになってしまいます。
けれども、この動画のお話を聞いて、これからは、作品の良さを味わって、作品を自分を通して表現させて頂いているんだという気持ちで演奏するように心がけたいと思いました。
もともと上手くない上にブランクがあるので、なかなか思うようには弾けませんが、、
自分が弾いているという意識をちょっと脇に置いて、作品の素晴らしさを少しでも表現できたら…それを耳で聴いている自分を少しでも幸せだと思えるように弾きたいと思います。
結局、自分は、自己肯定感が低い人間なので、他者に認められたいんだとは思います。それが承認欲求なんでしょうね。
自分を脇に置いて、作品を中心に持ってくるように心がけたいです。
ずっと疑問視していたことでした。
音大卒を誇示した奏者が、素人を
相手に知識をひけらかしてみたり、
弾いて驚かせてみた!的なものを
よく目にするようになりましたが、
こちらまで恥ずかしくなります😞。
これ音楽だけじゃなくて他の分野においてもめっちゃ言えることだと思う
完全に一緒ではないかもしれないけど、写真とかプラモデル制作とか、絵画とか工芸作品とか…
とても大切な視点を与えていただけました。そして、常々モヤモヤしていた部分への回答もいただけたと感じました。
作品の素晴らしさを受けとめられる感受性を育てていこうと思います。
ありがとうございます🌼
私は演奏の場では、人からどう見られるか、下手に思われるんじゃないか、音を外したら下手だと思われるに違いない、などの恐怖でいつも緊張でガチガチです。「演奏会に行った」という話になるとみんな「上手い」か「下手」かという話ばかりです。だからそんな目のなかで演奏するのは毎回恐怖です。。。共感する人いるかなあ
間違ったって 良いじゃない 機械じゃないんだもの✨ あるピアニストが言いました。私も 正しいより伝えたい表現を最高に演奏出来るように 音に入り込みたいと思っております✨
私が生演奏で感じた中には、音楽が心に響かない事が何度かありました。それは演奏家の承認欲求とか自己顕示欲以外の場合もあったと思います。その演奏が「事務的」に思えて音楽が聞こえてこない と言う場合です。その時の私の感情は「あんたら、やる気あるの?」でした。音楽が流れているだけで、心に入ってこない。こう言うのは何て言うんでしょうかね。 自分も演奏者も人間同士、人間は感情の動物ですから、すれ違う事もあるんでしょうね。 感動しない演奏会、ごく稀にあります。
先生のお話し、お一つお一つとても納得できました。私自身も知らず知らずにピアノの先生や周りから「褒められたい」が演奏目的になってしまっていました。そうではないのですね。
演奏者のネームバリューで「素晴らしい演奏」と思い込んでしまう事もあるかと思います。見つめ直すきっかけになりました。ありがとうございました。ブランドに惑わされず、真実を見る目(耳)を大事にしたいと思いました。
数多のピアニストの演奏を聴いていて、同じ曲でも感動するピアニストと感動しないピアニスト、何が違うのかな……と考えていた事があります。前者は作品の魅力を伝える事に注力していて、後者は自分が目立つ事に注力している事に気が付きました。(心の中は分かりませんが😅)
自己顕示欲が強い演奏って、他のコメントにもありましたが聴いていて白けてしまうんですよね。
私も愛好家ではありますが、作品の魅力を伝える事に集中したいと改めて思いました。
いつもありがとうございます😊
いつも音楽のみならず、生活していく上でのヒントにもなり、やはり視点の凄さにいつも感動しています😍
やっとやっと作曲家の凄さに気付き始めたばかりですが😅
いつも勉強させて頂くことばかりで、こんなに音楽の世界を知りたい自分が素直に好きです😊
ありがとうございます。
私にとってタイムリーなお話でした。作品が素晴らしいから感動する。レストランの演奏をしていて感動して下さったお客様がいらっしゃったけれど、作品が素晴らしいから。
と心の底から感じました。感動は嬉しいですが、私の心はやっぱアンドレ・ギャニオン凄いわぁ❤でした。これからも、作品の良さを知っていただく演奏を心がけていこう!と改めて思いました☺️
ああ、これは神社や祭壇の前での神とのやりとりと一緒ですね。
一対一の関係ですから。本気の素の自分を出すわけですね。
自分だけをよく見せたくて、なんとか祝詞をあげたり、ご利益や恩恵を受けたいという邪な気持ちが承認欲求の演奏となるわけですね。
神様との一対一の真剣勝負なわけで、今の自分を見てもらう。
そこからの最大の感謝の気持ちを伝える。
それだけですね。
一期一会ともいえます。
人は神との中継地点、依代となるわけです。人柱、人=カガミです。
きっと演奏においてもそういうことが言えるのでしょうね。
車田先生、素敵なお話をありがとうございました。👏🏻
わたしは、田園交響曲が大好きで、週に何回でも聞いています。💿
ベームやアバドにクライバーと、様々な指揮者で聞きます。🎵
誰のCDで聞いても、ベートーベンの田園の素晴らしさを思い、感動しています。🦜
自分も、もっともっと、いろいろな音楽を好きになりたいです。😊
おやじバンドをやってます。先生のこの動画、身に染みて、初心に戻ります。そうですね、いつの間にか、自身の劣等感、自己顕示欲に覆われてしまう。いつのまにか、好きでやっているはずの音楽が、苦痛になる。作曲家先生、歌謡曲であれ、クラシックの巨匠であれ、いがいにここで違う方向に行ってしまうのかも。有名な芸能人、タレント、歌手、なんかやはり芸能、芸術肌は、ここを自己管理しないといけない、楽しめなくなると、改めて思いました。ありがとうございます。また、また、動画拝見させていただきます。頑張ってください。
コンクールの優勝に興味をあまり感じなくなりました。他人の評価だし、必ずしも伸びないし、そもそも音楽を楽しみで聴くのに順番関係ないし。一方どんな形でも生活に音楽がある人には親近感を覚えます。
私は単なるクラシック音楽ファンですが、このような課題について自分なりに考えてきて、これまでいろんな本を読んだり音楽評論家の解説などに接してきましたが、これほど本質を見極めた、客観的でしかも素人にも分かり易い明快な解説は初めてです。車田氏のこの解説ですべて腑に落ちました。ありがとうございます。
車田氏の言語化能力に感動しました。いつも良いお話をありがとうございます。アドラー心理学の考え方が好きで、息子が人前で演奏するときはいつも、自分と楽器の関係性、自分がその曲と向き合った関係性だけ大事すればいいよ。と伝えています。「良い曲だなあ」って人に思ってもらえる演奏ができたらガッツポーズですね♪
あるユーチューバーたちの演奏にどうもモヤモヤしていたのは、こういうことだったのですね。
音楽の在り方を考えさせられる、素晴らしい内容でした。
最近、演奏ボランティアを経験して、音楽を聴く人のための演奏とはどういうものかを考えていました。
そんな時にこの動画をみて、すごくためになりました。
ありがとうございます😊
すごく興味深いお話しでした。
私も好きな演奏家がいますが、音楽というのは曲自体の素晴らしさありきだと思います。
ただ、他の方が弾いてるときにはその曲の良さが分からなかったのに、違う方が弾いた時にはその良さが分かったと言う時が私にはあります。
そのことで、その曲が好きになり、よりいろんな演奏家のを聞いて、その曲を深く知りたいと思う時があります。
音楽そのものを理解するのは難しいなとつくづく思うとともに、それでも聴きたくなる魅力が音楽にはあるという事実が何より素晴らしいと思います。
見当違いなことを書いていたらすみません🙇♀️
フジコヘミング さん の 逸話は胸の疲れがスッキリとれた気がしました ありがとうございます。
極論すれば歌なんかどうでもいいから俺のうまさを見てくれみたいな演奏は、辟易としてしまいます。そのような戒めを感じて、動画の再生ボタンタップしました。
ジャズなどのようなコンポーザー 演奏者が混沌としている音楽ではプレーヤーの人間性が音楽で表現される事が多くあり、チックコリアが好きと、音楽を通して彼が感動の対象になりうる事とも有ります。
アドリブプレーヤーの承認欲求、自己顕示欲のあり方は創作と演奏の分業が進んだクラシックとは違うアプローチが必要とも感じました。恵示を感謝致します。
クラシックを聴く側にも承認欲求がある気がします。SNSやネットでクラシック音楽の批評をよく見かけますが、お話にあった通りその情報を発信している自分を知ってほしいだけなのかなと感じてしまいます。
あまり、褒めてもらえるような環境ではなかったですけれど、音楽を続けられたのは、やはり好きだったからだと思います。自己顕示欲が強い人と、純粋に好きでやっている人の違い、何となくわかります。どちらが良い、とか、そういう問題ではありません。自己顕示欲がなければ、プロの音楽家は生きていけないかもしれません。でも、もっと違う世界があるのではないか、と、音楽をたしなむものとして、しばしば感じる者です。
良い演奏は精神浸透性が高く、繰り返し聴きたくなります。
嫌な事があった時に、その演奏を聴いて癒しを感じるとか、感動を感じます。それは作品の素晴らしさを伝える事が成功しているという事ですよね。
興味深いお話でした。と同時にいろいろ考えさせる難しい内容だったように思います。
自己顕示欲の強い演奏に私自身がシラケてしまったとしても、その会場につめかけた聴衆が演者のファンだった場合、その自己顕示欲の強い演奏に陶酔し熱狂することの人が大多数!ということはよくあります。シラケた自分の方がカヤの外...ということになります。そうなると、そういう演奏の方が正義なのかー、自分に聴く耳がないのかーと思ってしまったり。
まあ、答えはひとつではないですからね。そういった演奏や場面も楽しめる余裕があればいいのかなと思ったりもします。
ショパンの有名過ぎて聴き飽きた例の「ノクターン」・・昔、別に特別ピアノが巧くもない甥っ子の生演奏(一応ノーミス)を聴いた時、改めて楽曲の素晴らしさを再認識し、特にピアノが上手でなくても、この曲が好きで弾いた甥っ子の熱演に素直に感動した事を思い起こしました・・
演奏家として、終演後に「素晴らしい作品だ」と言われるのが一番嬉しいですね。
我々はあくまで作品の素晴らしさを人々に伝えるフィルターであり、先人から受け継いだ技術や解釈を次の世代に伝える伝統の担い手です。演奏家個人の魅力をアピールすることなど、全くどうでもよい。もちろん聴衆がそれに魅力を感じてくれたら嬉しいですが、それは全く目的であるべきではありません。
クラシック音楽の演奏動画のコメント欄を見ていると、外国人の視聴者が、その演奏家に対して
「素晴らしいプレゼンテーション」と言っているのを時々見かけます。最高の褒め言葉だったのですね‼︎
貴方の益々のご活躍を、心よりお祈り申し上げます💐💐💐😊🎵
海外より日本人のジャズピアニストが好きで学生時代から繰り返し聴いてました。共通の記憶体験があるからかも知れません。多くの日本人ミュージシャンを聴いていて感じるのは「上手すぎる」ことです。全くミスをしないことです。
日本では主にジャムセッションに通ってましたがその後海外に住み米国人のアマチュアピアニストとDUOをした時初めてタイミングが合ったという感じを得ました。上手くはありませんしミスも多いのですがそれよりこちらのモチベーションを上げてくれるのが日本では無かったこたです。
知人のリサイタル(ピアノ講師)に誘われて行きました。その時半分ほどラヴェルで、なんか世界に入りすぎているのか気持ち悪い感じで、それ以降ラヴェルが苦手に😢3000円も払ったのに残念です。
今年悩んだけど、好きなピアニストなのでチョソンジンのAll ラヴェルのリサイタルへ。驚くくらい素敵でラヴェルのとりこに。何でだろうと思っていた答えがでました!
私も、チョ・ソンジンのオールラヴェルプログラムを聴きました。ただただ、圧倒されました😮。
ベルリンフィルの演奏は各パートの音が細部まで鮮やかに聞こえながら、アンサンブルはみずみずしく立体的にホールに響き渡ります。現在はペトレンコ氏やコンマス(ミス)の個性もあるでしょうが古典派であっても全体が波打つように一人一人全身を使って演奏し、音楽に生命力を与えているようです。日本人指揮者が活躍するようになりコンマスも奏者の個性も千差万別ですが、個人主義であり伝統を生み出す場でもある欧米と、枠を超えた調和を重んじ繊細な手技を用いる日本とでは、自己顕示・承認欲求の在り方と表現方法の関係もどこか違うような気がします。
今日のテーマは、自分のこととして、よくよく考えてみたいと思います。若い時はまず親に認められることで、かなり満足していました。もちろん音楽、ピアノが好きだったのはもちろんでしたが。
身に心に染み入りました
良いお話
ありがとうございました
遥か昔師事していた先生が楽譜と音を読んで作曲家が何を言いたいのかよーく理解するんだよと今更ながら今日のお話と繋がる内容でとても理解しやすかったです。気を引き締めて練習したいと思います。とても共感出来るお話しでした。ありがとうございました。
本当にうまいけど音楽を感じない音楽家はいますね。
ところで昔コードの周波数の共鳴の周期を調べてみたことがあるのですが、美しいコードやメロディーラインは長期的で複雑な周期を持っていました。それから何年かたって、フィボナッチ数で構成される金星と地球の周回軌道を幾何学的に表した美しい図形を見ました。美しいものいろいろな力が複雑に絡み合いながら奇跡的に美しい形を保っています。
美しいコードの周期と美しさの本質は長い周期で交わるようで交わらないドーパミンが聞きたい追いかけたい、と感じさせるものだと思います。
音楽の好き嫌いは人それぞれですしタイミングもありますがやはり普遍的なパラメーターはあると思います。
なかなか難しい問題ですね。承認欲求や自己顕示欲が全くない、そんな音楽家がいるとは思えないので、やはり程度の問題ではないでしょうか。作品を離れ、単なる技巧のひけらかしであれば悪い自己顕示欲の表れとすぐわかりますが、実際にはその線引きはなかなか難しいように思います。
一般的にロマン的な演奏をする音楽家は、自己顕示ととられかねないすれすれのところで音楽を作っている印象がありますが、むしろ作品、音楽がそれを要求しているように感じることもあります。フルトヴェングラーが最高の例ですし、リヒテルやアニー・フィッシャーにもそういったものを感じることがあります。この作品はこういうものだったのか、と理解が深まったような気分になるんですね。もちろん、常に成功するとは限りませんが。
自己顕示欲といえば、カラヤンなど映像作品を作る際は自分だけが目立つようにしていた自己顕示欲の塊みたいな人ですが、例えば晩年の「薔薇の騎士」とか、作品の素晴らしさを最大限に感じさせてくれる演奏も残していますし、私がファンであるミケランジェリのピアノなど、一体どう表現したらいいのかわからなくなります。彼がシェルヘンの指揮で弾いたモーツァルトのコンチェルトなど、まるで妖刀村正のようなピアニズムで、およそモーツァルトらしからぬ演奏でありながら、どうしようもなく惹きつけられる自分がいます。
私はグールドの演奏が好きです。
かなり個性的な演奏ですから、バッハが作った音楽表現そのものとは違うと思うのですが、そこにはバッハの精神性が表現されているから、素晴らしいと感じるのかなと思いました。
忠実に音符を辿るのでなくても、音楽の素晴らしさは伝わりますよね。
最近、バックハウスのベートーヴェンソナタをよく聞くのですが、バックハウスの演奏には自己顕示欲なんて1mmも感じません。ただひたすらに職人のようにベートーヴェンや音楽に対する敬愛を表現している方だと思います。
同感です。初めて聴いたベートーベンがホロヴィッツだったので、最初は素っ気なく感じたのですが、聴けば聴く程、高貴で良い意味でたんたんとベートーベンやブラームスの音楽を堪能できる気がします。結局落ち着く所は正統派、バックハウスの演奏、今では1番のお気に入り、宝物になっています😊♪
(車田さんのバックハウスの動画をまた観たくなりました♪)
確かにバックハウスはまるで求道者のようですものね。「余暇には何をされますか?」という質問に対して「ピアノを弾きます」と答えたことが印象的でした。
心がふっと軽くなりました。
もとは作曲者が凄いから、感動する。
入りは演奏家からだとしても、最終的にはその作曲家の他の作品が聴きたくなるような演奏をしてくれる人が凄いのでしょうね。そこは人の好みと縁。私はミケランジェリ氏の美学に魅了されてマズルカに興味が向くようになりました。またグールド氏のバッハは合わず、ケンプ氏のフランス組曲で一気にバッハの凄さがわかりました。演奏家は聴衆と作曲家のつなぎをしてくれる点では、演奏家も素晴らしいと私は思います。
本当に素晴らしいですよね😊
それプラス、例え自己顕示欲が垣間見えたとしても、好みの演奏でなかったとしても、その方の練習に費やしてきた時間と努力はどれ程のものなのかと考えると。そこは、想像するしかないのですが…。
音楽をやる動機に『異性にモテたい』というのもあるようですね。
『承認欲求が強い』という言い回しはSNSで相手を批判したり、こき下ろしたりする場合に使われているケースが多いような気がするので、私はなるべく使わないようにしています。
演奏家の方々は聴衆とのコミュニケーションが大切だといわれますが、それのどこまでが『承認欲求』か、そもそもそういう概念でくくることに意味があるのか難しいですね。確かに、演奏家によっては自己陶酔が透けて見える決めポーズをする人がいて、聴く方が醒めてしまうこともありますけれど。
車田さんの仰るようにバランスというのは大切ですね。
演奏側だけでなく、鑑賞側でも、好きな作曲家、演奏家がいて、どれだけ傾倒しているか熱弁を振るうのはいいのですが、返す刀で、特定の作曲家、演奏家を貶める人がいらっしゃいますね。これも困りものです。
フジコ・ヘミングさん、確かにラ・カンパネルラについてはこんな弾き方もあるのかと興味深く聴かせていただきました。特に私にとってリストはジョルジュ・シフラ氏のような超絶技巧を連想する作曲家でしたから。
ただ、NHKが彼女を特集した番組を何度も再放送して凄い大家に祭り上げ、普段はそのような音楽とは無縁であろう聴衆がコンサートに詰めかけるという『現象』にはちょっと違和感を感じました。フジコ・ヘミングさんをきっかけに音楽が好きになる人が増えることはとても好ましいことであることは確かですが、そうなるかというと私は疑問に思っています。それにしても、飼われていた約20匹いたといわれる保護猫がどうなったか気になります。
ピアノを人前で弾いた時に上手と言われれば嬉しいけどそれより「いい曲ですね」と言われる方が嬉しく思います。ニレジハージの演奏は賛否両論で非難されるのも多いけど、周りの声を気にせず独自の演奏するニレジハージのピアノが心に響いてきます。
おっしゃることに全面的に賛同いたします。演奏者は、プロアマ問わず、演奏する作品の価値を聴衆のこころに届けることが本義であって、弾いてる自分を目だたせよう、などナンセンスです。しかしわたしがこういうと、「それはきれいごとだ」と冷笑するひとがたいへん多い。
わたしはきれいごとだとは思いません。
たとえば、ショパンの幻想即興曲。あの出だしを、「ぼくはこんな曲も弾けるんだよ」とばかりに得意になって弾いたら、少なくともショパン好きの人は不快な気分になることでしょう。なによりショパン自身が、「おねがいだから止めてくれ、そんな曲として作ったのではない」とおもうことでしょう。
アマチュアが発表会とかでじぶんの技量に比べてやたらむつかしい曲を弾きたがるのも、よくないと思います。ああいうのは自己満足どころか、聴いてるひとには罰ゲーム。いくら発表会でも。そんなのを「こんなむつかしい曲よくがんばって練習しましたね、えらいえらい」なんておだてるのは止めてほしい。
こういうことの積み重ねで、ひとのこころから音楽がすり抜けていく。
わたしは、よく発表会に出ますが、聴いてくださった方から、曲に関する感想を聞けたら良し。私の演奏に関する感想を聞かされたら(たとえ誉め言葉でも)演奏は失敗だった、と思っています。曲が印象に残ったら、私に関してでなく、曲についての感想が口から出るはずですから。
自分のこととして戒めてピアノに向き合いたいと思います。演奏効果を基準に派手な曲ばかり選曲していましたが、原点に戻って音楽とは何かを考えていきたいです。目からウロコで、気付かされました。ありがとうございます。
私は自己顕示欲が無さすぎてか、抑圧されていてかわかりませんが、音楽は大好きで練習もたくさんしますし、聴衆のために愛を持ってピアノを弾きたい心も強くあるのにも関わらず、引っ込み思案なので自分から進んで演奏の機会を作ることはまずありません。こんな私に一言アドバイスをいただけたら嬉しいです。
車田先生の、ご意見ごもっともで、納得できます。私は、アマチュアですが、オペラアリアを、指導者に、10年以上、習っていて、発表会とか、何度も人前で、歌ってきました。出来のいい時、悪い時もありましたが、それなりに楽しく歌っています❤あまり、難しい事は、考えず、達成感があるので、今まで、続けてきました。確かに、作品が、褒められた時は、満足感ありましたね❤これからも、作品に向かい合い、苦しみながらも、歌って行きたいです
私は既に78歳なのですが、小学校に入る前から部屋に寝転がってハーモニカで唱歌などを延々と吹いていました。私は孤独だったので自分のために吹いていたのです。
後に大学の時にクラシックギターを弾くようになっても演奏は全く自分のためにやっていました。人に請われて演奏することはありましたが、根本的な動機は「自分が弾いて自分で楽しむ。」でした。
現在は、チェロの先生が作っているチェロアンサンブルに加わって演奏したり、地元の芸術系大学の「オペラ講座」に通ってオペラの重唱などを歌ったりします。
これらは、発表会などがあって必然的に人に聴かせることになりますが、私個人的にはやはり自分のために演奏し歌います。それが楽しく面白いという動機だけです。
そもそも、私は人前で何かをするということが幼少期から非常に嫌で、学校では前で何かをやらされそうになると逃げ回っていました。
今の私が舞台で演技しながらオペラの重唱を歌っていることなど、子供時代にはおよそ考えられない事態です。
自分のためということは自己満足の世界なので、自分さえ気持ち良ければ下手な演奏でも良いという訳で自分の基準に達すればそれ以上の上達は望めないです。
「自己顕示欲」がある方が上達の可能性は高いという意味で自己顕示欲も全くダメという訳ではないかなと考えています。
ステキなコメントで嬉しくなりました。
…全く同じ動機の初心者です。音楽の感動は…超個人的なものです。
また個人の思い出や記憶と密接に関わっていますよね。
私が愛する曲が他の方にとっても愛する曲であるかどうかは解りません。
「心から愛する曲を自分で演奏する喜び」は自己顕示欲とは、違うものであると思いました。
@@りも-s4l
同じような事を感じていらっしゃる方も多いと思います。
> 「心から愛する曲を自分で演奏する喜び」
正に、それですね。
私自身、素人なので、演奏の好みはあっても、どれが「自己顕示欲」による演奏か、「作曲者を大事にした」演奏なのか、更には「正しい」演奏なのか、など全くわかりません。
一般的な話をしますと、そもそも、ある芸術作品、特に器楽曲などの抽象的な作品の演奏などから、それをどう受け取るかは受け取る人の経験、環境などで大きく異なるものであり、それが作品を作った人の思いと一致するということはほとんど期待できないことであると思っていますし、自己顕示欲満々の演奏であってもそれに感動する人もいると思います。
芸術作品は、それを受けた人の心の中でその人の知識・経験・状況によって形を成す(再創造される)ことによって初めて芸術作品として意味を持つものだと思います。一旦、演奏されて音になってしまえば音楽は聴き手により如何様にも受取り得る、その意味で演奏者がどんな動機で演奏しているかは聴き手にとっては本質的な意味を持たないと思います。
とても興味深いお話で深く考えさせられました。
私自身ずっとモヤモヤしていたテーマでしたが、少し霧が晴れてきたような気がします。ありがとうございます。
私は若い頃は、演奏も楽しめましたが、病気になってからは、もっぱら聴くことがほとんどになってます。まぁ、元々、いろんな曲に、巡り合えることが楽しみですので、改めて、今まで、聴いたことがなかった曲も、聴いてみて、気に入った曲があれば、何回も聴いています。今は、ベルリンフィルのデジタルコンサートホールをよく観ておりますが、いろんな曲や演奏があり、楽しいですね。最近の演奏はもちろん、世界初演の曲もあり、昔の巨匠の演奏もあり、ドキュメンタリーもあり、団員紹介もあり、多彩で見応えがあると思います。ウィーンフィルもこの様な、チャンネルがあればいいなぁと思います。作品が素晴らしいから感動する、なるほどですね。車田さん、ベルリンフィルの演奏会、出られるといいですね。期待しております。この間、マティアスゲルネさんの、マーラーの子供の不思議な角笛、聴きました。良いですね。お菓子、美味しそうですね。
とても面白いテーマでした。ありがとうございます。私はクラシック音楽に明るくないのですが、作品に対するイデア論的な考え方に西欧の伝統を深く感じました。勉強になります。
確かに、社会人として生きていて、自分だけを見られることは、なかなか無いですね。音楽の心と向き合うこと。作品が素晴らしいと、どの人が演奏しても届く。時々関係を見直してみます。
車田先生の視点、とても、考えさせられます。私は、オペラソロを、指導者から習っています。自分なりに、ドンドン、うまくなるのが楽しいですが、時に、なかなか、思うような声が出ず、悩む日もあります。段階をクリアするに連れ、ドンドン楽しくなってきています
心に響かない代表はストリートピアノの演奏だと思っています うまいけど自分のために弾いている人や、凄いでしょと見せびらかしている演奏ばかり
リストやラフマニノフなど、ピアノの技術を見せつけるようなカデンツァが有名ですが、矢印が周りに向いているのは大きな違いですね
私はバレエをよく見に行くのですが、置き換えるならば「このダンサーが見たいから、舞台を見に行く」と、いうことも実際にあります。動画もきっかけとしてはいいと、思います。でも、生で見たときに「綺麗だし、テクニックもすごいけど、なんだか薄っぺらいな」と、感じたら次は見に行かないと思います。やはり作品に真摯に取り組む人でないと感動は生まれないと。
自分はカラオケをするのが好きですが、歌う曲を創った人やその歌手への尊重を一番において楽しみたいと思います。とっても素敵なお話をありがとうございました
はじめまして。音痴で音楽と縁遠い者ですが、サムネイルに惹かれて視聴し、いろいろ思い出しました。
若かりし頃、横浜の会員数の多い教会に若いイケメンのピアニスト(学生)がいて、ちょっとした有名人でした。しかし、同世代のアコースティックギターでの弾き語りと作詞作曲を趣味にしている男性が、彼の演奏は技巧をひけらかしていて気障だと言いました。普段ネガティブなことを言わない人でしたから、私はちょっと驚きました。後に、横浜の教会の牧師が珍しく満面の笑みで彼の話をなさいましたが、彼は試練に遭い、信仰が成長し、演奏が変わったとのことです。
東京都内の、もっと会員数の多い教会には、プロ・アマ両方ともミュージシャンが大勢いました。しかし、多くの普通の会員からもミュージシャンの会員からも支持され、礼拝や聖歌隊やコンサートでの演奏、曲作りや指導などに選ばれるのは、上手・下手ではなく、音楽に対する姿勢のような内面的なもので、それが誰の目にも耳にも明らかだったそうです。
また、音楽から逸れますが、抹茶ブームで日本の抹茶文化が廃れてしまうと宇治市のお茶農家さんたちが大変な危機感を覚えているとのことを思い出しました。スイーツに使われている質の悪い抹茶や、着色料・香料などの添加されたものが抹茶だと思われてしまい、そのうちお点前用にも安物が出回り、本物の抹茶が売れなくなってしまうということを危惧なさっているそうで、私もそうなりかねないと思いました(母が茶道の師範で、幼い頃から本物に親しんでおりまして)。
承認欲求も自己顕示欲も個人の自由ですが、行き過ぎて音楽を破壊しないでほしい、リスナーも気をつけねば、と思いました。
ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。
抹茶のお話、興味深く拝読しました。実は、これとよく似た問題がクラシック音楽の世界でも起きているのです。それについて深く言及した解説動画がこのチャンネルにあるので紹介させていただきます。
[大切な話] 芸術がビジネス化?音楽など芸術を広める事が本当に良い事なのか? (2022.2.8配信)
これは、どのような分野にも当てはまる話で、車田先生の深い洞察力に裏打ちされた、情熱に溢れる本当に深みのある良いお話です。是非、聴いてほしい‼︎
そして、もし宜しければ、こちらもお薦めです。
音楽談話88 プロ・アマ問わず増え続ける演奏動画(2023.9.13配信)
どの世界でも悩みは同じですね😮💨
私も、なるべく本物のお茶を求めるようにします。実は、私は関西に住んでいるので、時々宇治へ行って、お抹茶と和菓子を楽しむんですよ🍵🍡🌸
自分は聴く専門ですが、とても考えさせられたお話でした
ありがとうございました
久しぶりに基本的の需要さをきかされてうれしいです。ありがとうございました。😮
面白いテーマですね!音楽は自己顕示欲が出やすい表現媒体ですね!とても良い話しです
すごく興味深いテーマですね!そういう角度があったかー😮とうなってしまいました。
生活環境に余裕が出て久しぶりに拝見したら😊音楽も奥が深いっ!
面白かったなぁ~。今日のテーマ最高!
私は音楽はど素人ですが、自己顕示欲がすぎると輝かない響かないというのは、音楽以外のあらゆる分野でもその通りだと思います。
子供の頃から憧れてた楽器、大人の趣味として始めてアマチュアオケも参加したことあるけど、下手すぎて自己顕示欲どころではない・・・!😂
が、もし、そこそこ弾けたら「私の演奏聞いて!うまいでしょ?」って気持ちになるのわからんでもないな。もしくは、他にもうまい人いるのがわかりすぎてこじらせるか・・・
ところで今まで考えもしなかったけど、多々ある素敵なクラシック音楽に出会った時「作った人天才か――!!」って感動してたんだけど、それはつまり良い奏者たちに良い演奏を聞かせて貰ってたのかもしれないな
そうですか、改めて思い目を覚まされました。ありがとうございます。😅
自分自身に気持ちを向けていつも配慮しながらも、作品の論理や形式、楽曲そのものを信じている演奏家の音楽を、ぼくは聴いています
一方、自分自身の感性を信じているほど、作品の論理や形式、楽曲そのものは信じていない、演奏家の感性に従属するためにしか作品が存在していないように見える場合、一種の息苦しさを感じます
趣味でオケをやっている者ですが、とても核心的な話題ですね。
スポーツや一般の仕事にも通じるような気がします。
いつも本当にありがとうございます🙇
アドラー《嫌われる勇気》
名著ですよね!
自己顕示欲、承認欲求。
大切なテーマですよね!
今後ともよろしくお願いいたします🙇
どうもありがとうございます😊
とても同感できる嬉しい動画でした。私は…作曲家ならバッハ、楽器ならヴァイオリンが特に好きなのですが、作品の素晴らしさを伝えようとする透明感ある心に響く演奏に出会うのを楽しみにしています。物凄い練習と作品研究をしながらそれを徒に主張しない演奏は…作品が楽器に乗り移って来ているようで素晴らしいです。私は…最近の日本のヴァイオリン奏者なら…庄司紗矢香さんとか村田夏帆さんの演奏が好きです。
奥深いお話をありがとうございました。
子供の頃からピアノと声楽の発表会は自分が一つ上に行くためで、人様に聴いてもらう場とは思っていませんでした。というかストレスでしかなかったです。
絶対演奏家になれませんね笑
先生の今回のアップで、もしグレングールドが今,生きていたらSNSを利用して世界配信していたかなと思いました。
演奏者とは、「俳優」「声優」の仕事に近いものがあると思います。
私はかつてピアノ演奏の道を目指したことがありますが、「1を知って10を知った」気になる、身の程知らずな奢った性格であったため
ろくに技術も無いくせに、いつも「自分の想い」と「作曲者の想い」の間にジレンマを感じていました。
純粋に「自己表現」を求めている自分と、譜面から感じる作曲者の想いがぶつかるからです。
それで、自分は作曲家になるべきだとか思ってやってみたりしましたが…まあ、才能無かったですねww
何事も、「本質」の所在を、執着の達成にすり替えると上手くいかなくなるものですよね。
音楽であれ、食べ物であれ、他の何であれ、世の中に存在しているモノ全てを、
「自分の欲求を即座に満たしてくれるためのモノ」とみなす認知の歪みが、「感動」という名の「上澄み」だけを求める、
「ドーナッツ化現象」を生じさせているのでしょう。
いつも啓発的なお話、ありがとうございます。
UA-camのストリートピアノを聴いてそう思いました。
観るようになったきっかけはプロ・アマチュアを問わない作品自体の素晴らしさ。そして最近観なくなった理由は自己顕示欲です。
素晴らしいお話しをありがとうございました。
とても学びになりました。
このテーマは現代のJポップアーティストに顕著に表れてると思います。
何だか耳が痛いお話です。😅
けれどもその通りだと思います。貴重なお話ありがとうございました😊
楽しい時間 ありがとうございました 次のお話しも楽しみに待ってます
演奏家によって、その音色は元より曲の解釈による演奏が違いそれに魅力を感じながら楽しみ鑑賞している関係は素敵だなぁと思います。この演奏の違いは、楽譜に書かれていないことは勿論されていませんが、これが自分の音楽なんだという強い気持ちで演奏されているはず。車田さんが仰っている程よい自己顕示欲というものはそういったことでもあるのかなぁと思いました。そこが出発点といいますか…何にしろ、豊かな音楽体験について改めて気付かされるお話でした。ありがとうございました。
モチベーションのあり方って大切ですね。最初の原因であり最後の結果でもあります。自己顕示欲も承認願望の満たされなさからくると思いますが、承認欲求を感じること自体何か満たされていないことに気づいてほしいなあと思います。ここを安易にスキップすると承認欲求の奴隷になります。人間の原型にはいろいろなプリミティブな欲求がありますがそういった欲求が昇華される機会を与えてくれるのも音楽の素晴らしいところです。私は小澤征爾の「雑念」の考え方に感心することがよくあります。その「雑念」とは音楽をやっている時に音楽のこと以外全てだそうです。そういう集中力と音楽への心酔はなかなかできるようなものではないですがそういう方向に進んでいきたいとは思います。確かに基礎教育がしっかりしてるなあと思えばかなり幼い時から音楽を始めたとかよくありますが、その時のモチベーションって面白いかお母さんに褒められるくらいしかないですよね。奴隷になり切るという選択肢もありますが論外とすれば(しかし意外に多い)。大きな問題とも言えますが何か意味のある問題なのでしょうね。
人間が善意と悪意の間で生きているとすれば、音楽という文化やコミュニティが淘汰されずに今に伝わるのは、そこに人の善意が込められていたから。
そんな今に続く名曲の核心に触れられるかどうかは、演奏する人間の善の心を通してのみであり、それは全人類的な魂の存在と繋がる、大きな自分をどれだけ育んできたかで決まる。
自己顕示欲の強い演奏は、文字通り利己主義なので、小さな自分、小さな心が創り出す産物であり、車田先生がおっしゃる通り刹那主義で終わってしまう。
人間は様々な境遇で生まれ育つので、一方的な批判はフェアではない。素晴らしい音楽を今に残してくれた大きな心と同様に、またそのような大きな時間軸で、小さな心も見守ってあげたい。
車田先生、誠実なお言葉に感動しました。普段は他チャンネルにコメントを残さない人間ですが、私見を書かせて頂きました。次の動画も楽しみにしています。
作品そのものの素晴らしさ、確かにそうなんですよね。
演奏している人の姿を見ているだけで、自己顕示欲を
満たそうとしているかどうかがわかる・・・・、車田さんの
慧眼に共感出来ます。
男性はそうかもしれないですね、女性は逆に身体見せたいくらいの自己顕示欲承認欲求がないとやっていけない。ライブに来てくれた人だけに演奏の時だけならいいけど、そうじゃないときに毎日のように顔を見せなきゃフォロワーがつかないとかほんと不快で、嫌な時代になりました。
音楽に限らずお絵描きのどんな分野でもいっしょで。
なるほど
わかりやすいです
認められたい人の演奏や
曲は嫌悪感しかなくて
まったく聴けず
本能で
避けてしまっていました
私はどちらかと言えば、というか自分からいうのは恐縮なのですが、音楽に馴染み出したのは、スマホが普及してからです。クラッシックにハマって思うことは、作曲家は、ある意味自分の音楽的美意識を曲にしていると思います。美術とかよりむしろ目には見えないので精神性がストレートに曲になっていると思います。あくまで私の受ける印象だけど、他の作曲家に勝ちたいとか他の作曲家より、注目されたいという気持ちを抱き、その気持ちが支配的になってしまうことは、邪魔になることが多く良い曲が作り難くなると思えます。
連投で申し訳ないですが、フジコ・ヘミングについて。
彼女が人を感動させるのは、音楽そのものよりも、その苦難の人生という背景情報のおかげですね。
そういう点では、いくつもの奇矯な振る舞いが目立つグレン・グールドは、むしろその素晴らしい演奏以外の点で注目が集っているのも不快ですね。
昔、俳優の木村拓哉がドラマでピアニストを演じたとき、グレン・グールドが好きだと発言していましたが、その理由が「弾き方がかっこいい」というのでがっかりしました。
ある大きなホールでピアノ協奏曲を聴いたとき、ファッションショーのモデルさんのようにカッコよくて見目麗しいピアニストが、めちゃ高度な難しい曲を1音も外さずに弾くのを聞いていて、スポーツみたいだと思ったことがあります。音楽が楽しめなかったのです。感動のような情感が湧かず「スゴーイ🤩」という感じでした。
ある歌手が、“自分が歌っている” うちはまだまだで、“何かが歌っている (es singt)” という境地にならなければならない、と言っていました。
自己顕示的な演奏が好きな聴衆は、自分も自己顕示欲が大きいからなのかもしれませんね。
オペラ歌手も、役になりきって歌っている時って、観客に「今の歌手は〇●ですよ」と意識させないですね。
ウィーン国立歌劇場の来日公演で観た「ボリス・ゴドノゥフ」など、マルヤーナ・リポフシェクという美声・美貌の歌手をチョイ役に使っていたけど(涙)、劇の重要な場面を明瞭な歌声で演じていた。
※アバド指揮ウィーンフィルの第9でも、歌っています。
色々な音楽があったほうが楽しい。
ベートーヴェンのピアノソナタをベートーヴェン以外の人が弾く事、演奏、演じている幅は色々でしょうね😊ベートーヴェンが作曲した曲を今聞いたり弾ける事に感謝します😊