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津軽と南部は仲が悪いと言われますが、これはTVなどのメディアが視聴率を稼ぐ目的で対立を煽ったことが大きな原因でもあります。津軽人(南部人)が嫌いと言っている人もいますが、上記による先入観から来るものが多かったり、たまたま知り合った人と馬が合わなかっただけというのがほとんどですね。多少の好き嫌いは誰にでもあるものでしょうし、仕事柄、県内全域の人間と接しますが、どの地域にも優しい人も居れば不親切な方も居ます。それに今の若者はそんなことは気にしていない印象です。この動画を拝見をするに、津軽と南部が不仲というよりも、南部同士の不仲の方が目立ちますねw親兄弟で争うのは戦国時代ではよくあることなので、南部が特に不仲だとは思いませんが。青森の歴史はあまり紹介される事がないので、今回取り上げて頂き大変嬉しく思います。また違う時代の青森もいつか取り上げて頂ける事を願っております。ありがとうございました。
コメントありがとうございます!貴重な地元情報ありがとうございます^ ^ 参考になります!違う時代は検討中です!特に幕末の野辺地戦争あたりは面白そうですね^ ^
同感です津軽と南部が仲が悪いというのは現代ではあまり聞きません、年配の方や偏見持った方がたまにそういった発言しますが、今では津軽だ南部だと争うことはほとんどありません。今となっては何百年も前の「歴史」のお話。
「TVなどのメディアが視聴率を稼ぐ目的で対立を煽ったことが大きな原因」?江戸期の檜山騒動や相馬大作事件、幕末の野辺地戦争はスルーですか?連綿と続いた確執が、近年になってようやく薄れたというだけのことです
津軽為信は実に上手く立ち回ったようで南部との独立戦争も秀吉に取り入って(息子を秀吉の子供の小姓に)さらに家康にも取り入って(同じように)当然関ヶ原でも東軍。その後息子信枚の正室に家康の養女満天姫を迎えた。その関係性からか弘前城築城の際に作業員の派遣を徳川家から支援してもらった可能性があるらしく、さらに弘前城天守に落雷があり、爆発炎上喪失した時は本来再建は認められにくい江戸時代に(辰巳櫓の改築)の名目で認められたのも徳川家との関係性からでは?と推察される方もいます。
あと、どうやって取り入ったのか近衛家から牡丹の家紋を貰ったり…
青森県人です。チャンネル登録しました。今なお続く 津軽と南部の諍いの根源が分かった気がします。また見直すつもり😊秋田県がアップされるの楽しみに待ってます!
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^ 来月から東北シリーズを開始予定なので、秋田県も近くアップしたいと思います!
政宗でしか奥州を知らないと南部を軽視しがちだけど、存在感あったんだなぁ。ほんと勉強になります。
コメントありがとうございます!奥州を代表する大勢力ですよね!幕末まで続くのもまた偉大です^ ^
津軽藩の本拠地である弘前市と南部藩の本拠地である盛岡市とは、新幹線が盛岡駅止まりだった時代に東北自動車道経由の新幹線リレーバスが高頻度で運転されていたことが縁でかなり身近な存在となって、関係も改善された感があります。一方、津軽氏と八戸南部氏の間では過去に大きな戦は起きていないにもかかわらず、弘前市と八戸市とでは未だに目に見えない対立が続いている感がぬぐえません。
コメントありがとうございます!なるほど、新幹線リレーバスは盲点でした…!とても参考になります^ ^
というか交流がない。南部バスと弘南バスが高速バス運行してたけど結局なくなってしまった今の軋轢は戦後構築されたもんじゃないかな。一部の年寄りは別として、だ新幹線とか県知事のハコ物行政とか。守男は特に酷いとは思ったw
津軽の石川城の地下は、地下道が掘られていて最近まで地下道を探検できた。九戸の乱では、東北諸藩の武将が勢ぞろいしている。前田利家、前田利長、石田三成、佐竹義重、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信とちょっと前まで戦闘をしていた武将が集まっているから壮観だったに違いない。
コメントありがとうございます!石川城に地下道があったんですね!!前回行った際は、広大な城域で回り切れなかったのでまたチャレンジしたいです^ ^
@@maya-wd5qo 石川城の地下道のレポートは「山さいがねが」の「隧道レポート 大仏公園 謎の穴」で詳しくレポートされています。想像以上に縦横無尽に地下道が張り巡らされています。今は入口が封鎖されているようですが。
南部氏は名前しか知らず津軽氏との遺恨も何となくでしか知りませんでしたが、なるほどとても分かりやすい動画でした!毎回楽しみにしてます
コメントありがとうございます!今回津軽氏の登場時間は僅かでしたが、インパクト大でしたね^ ^
チャンネル登録しました!東北の戦国時代は知らなかったことばかりだったので大変勉強になりました!参考文献も豊富で凄いです!次回も楽しみです!
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^ チャンネル登録もありがとうございます!!年内は東北地方の動画を中心にアップ予定です^ ^
三戸の出身です。先祖が戦の功績で新恩給与として賜ったのが生家の土地なのだそうで、その地名が苗字になっています。その時代の事が分かり興味深く拝見致しました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます!なんと!とても気になります!! ご視聴頂きありがとうございます^ ^
岩手生まれ岩手育ち青森在住ですが自分の地域の戦国時代をあまり知らなかったのでとても為になりました!地元を扱っていただけるの本当ありがたいです!
コメントありがとうございます!地元の方に楽しんで頂けてとても嬉しいです^ ^
信長の野望やってたりするけど南部氏がこんな感じだとは知らなかった めっちゃ勉強になるな
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです! 南部氏は少しマイナーな印象ですが、その権力体制は独特でとても面白い大名ですよね^ ^
十戸(とうのへ)=遠野、の説あり。根城•南部氏(八戸)が当主を2代続けて毒殺された挙句に叔父の三戸•南部氏との戦を避けて、残された姫は金山や良港のあった八戸を追われ伊達との境の遠野に移った。(里中真知子 漫画「かたづの!」、原作 中島京子 王様のブランチ ブックアワード2014、歴史時代作家クラブ賞)より。
コメントありがとうございます!江戸時代に八戸氏が根城から移ったことも由来の一つと言われているようですね^ ^
見易い、わかりやすい、聴きやすい最高の歴史チャンネル❗️ひとつだけ、吹き出しの中の文字を大きくして欲しい(笑)
コメントありがとうございます!励みになります!! 吹き出し改善しますね^ ^
素晴らしいコンテンツですね!いわゆるドアナンバーと言われる「のへ」が、今でも青森県と岩手県にまたがって一戸~九戸が点在している中で、「4」だけは忌番として無いと聞いたことがあり、先日の「さんま御殿」でも王林ちゃんにそう紹介されていましたが、何と八戸の南側に四戸櫛引として存在していたのに、滅んでしまっただけだったんですね!しかもその櫛引という姓は、現在もこの地域や津軽方面にも比較的多く残っているようです。四戸という名の自治体としては残っていなくても、どこかの地区名とか部落名などとして、残っていないのかなぁ。
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^他地域でも四戸の地区名は見つけられなかったですね… 気になります…!
櫛引という姓は、母方の祖母の母の旧姓です。櫛引から仙台になり、今の姓になりました。つながっているのだろうか?亡き母は平川市出身です。私は青森県民ではなく、海峡のむこう側にいます。
タメになった。信長の野望でおなじみの武将たちですがそれぞれの関係は知りませんでしたのですごく勉強になりました。
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです! 九戸政実や津軽為信など個性的な武将が多いのも北奥の戦国史の魅力の一つですよね^ ^
凄いですね❗勉強させていただきました😊‼️
武将名と地名との合致が面白いですね!
コメントありがとうございます!青森県は特にその傾向が強いですね^ ^
私は青森県民で、信長の野望好きで歴史通を気取ってましたが、知らないことばかり。南部氏も一枚岩じゃなかったんですね。◎戸が多いこと(笑)勉強になりました。😆
コメントありがとうございます!本当に「戸」が多いですね!笑 一部の「戸」は現代に地名が残っていない点もまた興味深いです^ ^
@@rekishitravel 苗字には残ってるんですがねぇ…やはり九戸の乱で族滅してしまったのも原因なのかもしれないですね
国ごとの全体の歴史に興味があったので、面白く興味深いです!是非、石川県の歴史についてリクエストお願いします!
コメントありがとうございます!石川県も特集予定です!リクエスト感謝です^ ^東北編が落ち着いたら(一旦東京挟みます)、北陸・東海に展開予定です^ ^
いや~今回も面白かった。三戸(南部)氏の支配力浸透や外交の切れ味。大浦氏のおとぎ話のような急成長。南部信直の振り回されっぷり。楽しく学べて素晴らしい。
コメントありがとうございます!毎度感謝です! 為信、信直が登場する後半の怒涛の展開はまさに北奥戦国史の醍醐味ですね^ ^
攻められまくってた八戸氏が、なんだかんだと生き残ってるのが興味深いですね。
コメントありがとうございます!仰る通りですね^ ^ 八戸氏が三戸氏に対抗していたら、三戸氏の存続も怪しかったでしょうね…
南部地域在住。いまだに津軽衆、南部衆と言いますよね。県庁所在地が青森市(津軽側)にあるので、県知事は南部から出すようにと選挙でも戦いが続いていますよ。〇戸氏の数w現在、地名で残っているのは、岩手県北部に一戸、二戸、九戸、青森県に、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸。四戸は、地名としては現在はないのですが、現在の八戸市の一部(櫛引八幡宮、根城地区等)を当時は四戸と呼んでいたそうです。上記の地名は、名字としても現在使われていて、私の友人では 一戸、二戸、三戸、七戸、八戸、四戸さんがいますw
コメントありがとうございます!ご友人の方勢揃いですね!笑 一堂に集まる機会を見てみたいです!笑
戦国ゲームでは東北は伊達家まででプレイする食指が止まっていたので、新鮮な情報で楽しめました。この時代の地方統一の難しさ、抱えた勢力の結束の要を対外戦争とする考え方に至れない間にとうとう秀吉が来てしまう絶望感を青森の歴史から学べた気がします。
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^ 秀吉の登場によって奥羽の地域権力が中央政権の枠組みに組み込まれていくあたりは、特に流れが激しく面白いですね!
現代でも青森県の言葉は難解ですね。戦国時代も中央から派遣された武将は意思疎通に苦労していたのかな
コメントありがとうございます!興味深いですね!今後の参考にさせて頂きます^ ^
津軽為信は梟雄かも知れないけど石田三成の遺族を保護しています。同じく梟雄の伊達政宗も真田信繁(幸村)の遺族を保護していて両者とも義理堅い一面もあるんですよね。ちなみに弘前では南部せんべいは津軽せんべいの名前で売っています。
コメントありがとうございます!せんべいのお話面白いですね🍘 基本的な味は一緒なのでしょうが、是非食べ比べしてみたいです^ ^
はて?長年弘前在住てすが、津軽煎餅なるものは殆ど聞かないですね…。一方ここ弘前でも南部煎餅はポピュラーで、胡麻やらピーナッツやら、最近ではチョコ掛けまで有って、多種類が売られていますよ。
毎回、面白くて分かりやすい解説です
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^ 毎度感謝です!
この時期の津軽の裏切りと幕末の秋田の裏切りで未だに北東北は仲が悪い。裏切られてばかりの岩手は真面目すぎるが故の代償なのでしょうかね
コメントありがとうございます!幕末も劇的な展開で見所が多いですね^ ^いずれ幕末シリーズも取り上げたいと思います!
いつも楽しみに見てます。高知も待ってますね!
コメントありがとうございます!いつもご視聴頂き感謝です^ ^ 少し時間がかかると思いますが、高知もいずれアップします!
青森県は大きな市がたくさんあるかんじ。津軽と南部という区切りだけじゃなくて、青森市、弘前市、八戸市、三沢市、むつし、五所川原市、下北半島とか、それで、ねぶたひとつとっても違うみたいなので、それぞれ違う文化があるような。統制するのメッチャ難しそう。青森県に行けばそこら辺説明してくれるところあるのかしら? 来年青森県旅行に行くので、ちょっと知りたい。
コメントありがとうございます!青森県旅行うらやましいですね^ ^ 私も知りたいです!弘前城と根城の隣に立派な博物館がありましたので参考になるかもしれません^ ^
大河ドラマ 津軽為信が見たいな。
コメントありがとうございます!面白そうですね!前半をどう描くかが気になります^ ^
クズだよね
とても面白くためになります。チャンネル登録させて頂きました。秋田県民なのですがぜひ秋田もやって頂きたいです。私事ですが佐竹氏が常陸国から秋田へお国替えをして来た時に一緒に来た多賀谷家の血筋に縁のあるものです。詳しく歴史などを唯一知っていた祖父も教えてくれる前に無くなってしまい自分で調べるだけでは深いところまでは調べるところができません。なので是非秋田もお願いしたいです。
コメントありがとうございます!はい!来月から東北シリーズを開始しますので秋田編もアップ予定です^ ^
いいですね、海を隔てた北海道は戦国時代は完全に蚊帳の外でした。戦国時代のオンラインゲームをやっても、知らない武将ばかりでした…みんな詳しいな。
コメントありがとうございます!北海道もいずれはチャレンジしたみたいですね!時間は掛かってしまうかもですが…^^;
南部氏の陪臣九戸直実が随分面白い人だったと高橋克彦先生の「天を衝く」で読みました。
コメントありがとうございます!九戸氏面白いですよね^ ^ 岩手編の動画では九戸政実の乱をクライマックスにする予定です!
まとめて頂きありがとうございます。蒲生氏郷が来たのが興味深い。前田慶次郎も仕置にきたそうです。✝弾圧後流刑地でもあり。蓋をしてしまって語る人もいない。なかなか手強い青森の歴史。表に出すとヤバいのか?。四天王の本多家や山鹿流の子孫、三成の子孫、那須与一の子孫等、なんで辺境に来たのか?。禅林街の本当の役割は?。面白いけど怖い青森の歴史。
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^ いずれ他の時代も特集したいと思います!
近代に入ってからは、旧来からの津軽地方と南部地方の対立に加えて、同じ津軽地方である青森と弘前が公共機関、教育機関などの設置を巡って対立を深めている感があります。県庁:当初は弘前に置かれたものの、ほどなくして青森に移転。旧制県立尋常中学校:当初は青森に置かれたものの、開校から数年で弘前に移る。そのため開校の順番では現在の弘前高校が旧制青森一中、八戸高校が旧制青森二中、青森高校が旧制青森三中という関係に。旧制官立高等学校:青森と弘前での誘致合戦の結果、弘前に設置され、これが現在の国立弘前大学の母体となる。旧制師範学校、旧制医学専門学校:両校とも青森に設置されたが、校舎を戦災で焼失したため、戦災に遭わなかった弘前に一時的に移転して学校機能の維持と授業を継続する手筈に。しかし戦後の社会の混乱と学制改革の渦などに巻き込まれて、青森に戻ることは叶わず、青森師範学校は弘前大学教育学部に、青森医学専門学校は弘前医科大学を経て弘前大学医学部となる。旧制師範学校、旧制医学専門学校を失ったことは青森にとって大きなダメージとなり、昭和43年に青森山田学園が青森大学を開学するまで県庁所在地なのに国公立ばかりか私立の四年制大学すら無いという状態が続きました。
コメントありがとうございます!勉強になります!ご丁寧に説明ありがとうございます^ ^
元々南部氏は甲斐源氏義光流加賀美遠光の三男光行が甲斐国南部郡に居を構えた事が始まりなので青森土着の氏族では無いです。じゃあいつ八戸に来たのか、それは南北朝時代の当主南部師行が北畠顕家と共に奥州に赴任した際、南朝から糠部郡を貰い入部しました。これ以降南部氏は糠部郡八戸一体を本拠地とします。(分家の一部は甲斐に残るも信玄の時代に武田氏に取り込まれている)
五所川原市飯詰に住む親類が法事の際に酔った時「弘前の人間が嫌い。津軽為信は飯詰を攻めた時、女子供まで皆殺しにしたから」と言ってた。父が弘前出身だし私自身青森市在住で八戸市にも住んでいたから複雑。
コメントありがとうございます!現代にまで受け継がれているのはとても興味深いです…!貴重な情報頂きありがとうございます^ ^
そう思われても当然でしょうね。津軽は口車が上手く、都合よく歴史を書き換えたのでしょうね。まぁ南部もそうでしょうけど。
南部人こっちまで移住して来てますー。タメの子が南部性でその末裔でした。そいつんちでジイ様から東北からの逃避行を昔話に聞いたことあります。口伝らしいですが、相当に南部が食い詰めたので二千家族くらいが逃げ出したということです。南部鉄器も伝えられましたし、東北の刀鍛冶も連れて来てますし、護衛に伊達の腕コキも連れて南を目指したそうです。故郷捨てて逃げ出さなだめなくらい食い物が死に絶えたそうで武士も農民も平等に食べれなかったみたいですね。応仁のすぐあとくらいだと言うことなので文永くらいの時代なのかな?と今思い出しました。この大移動ほんとに可能なのかな?と思いはしますが実際南部鉄器が伝えられて鍛冶レベルが地元は凄く上がって刀も強くなったそうなので南部人来たんだろーなとは思うんですけどね。大量大移動って兵站大変だろーに…
コメントありがとうございます!貴重なお話ありがとうございます^ ^
動画ありがとうございました。東北の特に北側は信頼性の高い一次史料があまり無いので、今後さらに研究が発展すれば良いですね。それから差し支えなければ参考資料の中でも特におすすめの資料や論文があれば教えていただきたいです。
コメントありがとうございます!信義以前は特に史料が残っていないので、研究の発展を祈るばかりですね!概要欄の参考資料の中では、『戦国大名南部氏の一族・城館』が個人的におすすめです。城跡見学の際にも参考になりました!
面白い。青森県は南部と津軽の違いがよく分からなかったので勉強になりました。津軽地方、津軽為信氏の弘前城統制の歴史が知りたいです。ねぶたやねぷた祭りの起源なども戦国時代の戦いにかかわりがあるのでしょうか?
コメントありがとうございます!奥羽仕置後から弘前城築城までの動乱期も面白いのでいずれ動画にしてみたいです^ ^ ねぶたの起源については調べた限り戦国時代との関連性は見つからなかったですね…>_
@@rekishitravel ありがとうございました。弘前城はどうして津軽城としなかったのか?弘前という珍しい名前をつけたのはどこからとったのでしょうか?弘前氏という人物が存在したのかなど知りたいです。それとやはりねぶたの絵が歌舞伎のような強面で、戦国時代の人物ばかりのようなので関連性が気になります。
誰かの動画で、ねぶたは坂上田村麻呂が蝦夷制圧したのが基になっているって言ってたなぁ。
南部氏の内紛は詳しくは知らなかったためどの様なものかと思っていましたが、かなり凄まじいですね。😅そういえば、南部氏は秀吉の廃城令で破却した城の数が北東北の大名の中でもかなり多かったらしいが、元からあった城を含めると北東北の中でもかなりあったのかな?(当然用途は一族争い)
コメントありがとうございます!破棄した城数は約36のようで多いですね^ ^いかに南部氏の領域が広大であったか…!
南部氏の南部は、例えば、東北南部の南部と同じアクセントでいいのですか?
コメントありがとうございます!イントネーションは杜撰なところがありますね…改善します>_
青森県に自衛隊基地が置かれている理由は、「津軽 為信(つがる ためのぶ)」が石川城攻めの時の「乱取り」が原因で、津軽と南部に因縁が起き、それが現在まで続き、「青森県を割らないため」だったりします。時系列は「石川城攻め」→「豊臣の小田原征伐(津軽はうまくやった)」→「檜山騒動(ひのきやま そうどう)」→「相馬大作事件」→今でも因縁が続く、となってます。
コメントありがとうございます!石川城はやはり重要拠点ですね^ ^ りんご農園の現況とのギャップはありますが…笑
8:25 の津軽統一図が津軽弁と南部弁の境目になってますね。あと一戸から九戸の行政区分ですが四戸がないのが未だに気になる。wikiでも死を連想するなど曖昧な情報しかないですし。名字として残っているのに死を連想するとか失礼な気がするんですが・・・
コメントありがとうございます!四戸が地名として残っていないのは、やはり不思議ですよね…櫛引氏滅亡に関わるものなど諸説ありますが、あまりピンと来ないですし…
しかし、津軽と南部の争いが現代まで引きずっていて、今でも「南部だ」「津軽だ」と諍いがある事を、青森県は青森市と八戸市のそれぞれに勤務して実感したものです。一例ですが、あるラジオコマーシャルで「南部も津軽もねぇ」と。これはウラを返すと「諍いはあるんです」とも取れ、青森市赴任時には「南部衆は」と。八戸市赴任時には「津軽衆は」と、何かあるにつけ互いに言っていた事を思い出します。そして言葉は旧藩境の野辺地という所から津軽弁と南部弁にはっきり分かれていて、南部(父)と常陸(母)のハーフの自分には南部弁は理解できましたが、津軽弁に慣れるのは一苦労したものです。そして、なんでこんなに文化も言葉も違う地域を同じ県にしたんだろう、と赴任していた頃を思い出します。
コメントありがとうございます!とても参考になります!現代にも色濃く残っているのですね… 貴重な情報ありがとうございます^ ^
ご返信いただきありがとうございます。九戸政実の乱の際、蒲生氏郷率いる豊臣軍に津賀為信と南部信直も参戦していましたが、互いに機会あれば、としていたらしく、それを杞憂してか蒲生氏郷は津軽と南部の陣を離して布陣したらしいです。(川を挟んでの布陣になっています)この九戸政実の乱をして戦国時代は終わりを告げましたが、九戸政実軍5,000に対し豊臣軍70,000。その大軍をもっても九戸城を落とすことは困難を極め、策略、そう九戸政実が信頼する僧侶を騙して政実に「降伏するなら一命と領地の安堵する」と説得させ、政実がそれに応じて開城した所へ攻め込み女子供まで皆殺し状態にしたとか。しかし、この九戸政実の乱、豊臣軍が派遣した将兵の数と高名な武将の面々からして、歴史に残る戦いであったにもかかわらず、なぜか歴史の片隅に追いやられています。近年の研究で、どうやら豊臣軍にしてみれば、あの程の大軍を田舎武将の平定に送ったのに平定は困難を極め(蒲生氏郷の嫡男も討死)仕方なく謀略をもって収めた事が、いわばカッコ悪いのであまり表に出さなかったのでは、という見解があります。
弘前市出身です
たけんのもそうだけど地域別(特化)なら「戦国時代の何々県」ではなく「何々県の戦国時代」の方が日本語として正しい気がします。
次は北海道もお願いします
コメントありがとうございます!はい!時間は掛かってしまうかもですが、いずれアップ予定です^ ^
大変よい動画でした!ただ情報量が多いのでもう少しテンポゆっくりめでお願いしたいです😅(firetvだと再生速度0.75がないのでちょうど良い速度に調整できなくて。。)
まさか47都道府県やってくれるのか!?山形と秋田がめちゃくちゃ気になる!砂越氏とか浅利氏とかよく分からん氏族がいてなんやこいつら!って学生の時戦国大名の勢力地図見て思ってたのよね〜
コメントありがとうございます!47都道府県チャレンジしたいと思います!山形は来月初旬にはアップ予定です^ ^
最近に成って、某キャンプマンガとアニメに登場する山梨県の南部町と言う地名に興味を持ったんですけど、調べたら奥羽の南部家と関係があったんですね。
分かりやすくて面白いはずなのに…何だろうこのグダグダ感はw
コメントありがとうございます!泥沼の抗争劇ですね^ ^笑
明治36年(1903年)に旧南部藩士の手によって作られた『南部史要』は天正10年(1582年)死亡説を唱えている。 それに対して元亀3年(1572年)死亡説を採っているのは文久元年(1861年)に編纂された『三戸南部系図』であり、これは南部藩士・星川正甫が藩主に謹呈された緒家系譜を頼りに南部氏一門の系図を作成したものである。前述のように晴政と信直の不和は明確である。また、信直とその支持者によって三戸城を攻められて、晴継ともども殺害されたとの説がある。信直派が謀反を隠すために晴政没年を10年ずらしたと考えられる。という晴政殺害説もあるようです。
コメントありがとうございます!晴政、晴継の死は様々な説があるようですね!なんだかんだで信直は実権をスムーズに確保しているのを見ると、信直による殺害も十分あり得そうですね…!
晴政って信長の野望だと毎回陸奥統一するけど史実だと苦難の連続やな、、
コメントありがとうございます!後継者問題や安東氏との抗争など多方面で衝突が多かったですね…>_
為信公のあの髭は関羽に憧れていたらしい津軽弁南部弁があるのはこういうことがあったからですw
コメントありがとうございます!そうだったんですね!!笑 木像でも濃い髭をしっかり表現できているのがびっくりです^ ^笑
歴史の後知恵になりますが、津軽為信を中国地方か九州辺りに領地替えしておけば良かったかも…………
とてもわかりやすかったです。ありがとうございます。弘前出身の友人によれば、未だに青森県では津軽系と弘前系での対立が一部では残ってるという話でした。まあどこでも同じような話はあるのですが、長い歴史を知ることでその土地柄や人柄が見えてくるので面白いです^^
コメントありがとうございます!まさに仰る通りですね! 歴史を学ぶ魅力の一つですよね^ ^
それって、恐らく津軽系と南部系の対立のことではないのでしょうか?弘前って津軽系だと思いますから。とは言え、結局津軽も元はと言えば三戸南部から派生して、独立したようですが。💦
南部と津軽は、一生仲悪いと思うよ。
私の友人の父上は津軽で母上は南部だそうですが、とても仲の良い家族で羨ましいくらいでした。まぁ、対立と言っても結局は人と人。個人レベルで見れば、様々な関係性があって当然でしょう。
久慈平蔵改め大浦為信になった経緯がよくわからん。
コメントありがとうございます!今回の動画では為信の出自はノータッチでしたね…! やはり大浦守信の子ではなく、久慈氏から出奔して大浦氏の婿養子になったのでしょうか…!
岩手はかわいそうなのかw岩手は南部と伊達が上と下にいたから、今でも県の上と下でちょっと色が違うって聞いたことある
戦国時代に青森に裏切られ、幕末には秋田に裏切られる岩手隣国に恵まれないかわいそうな日本の縮図のような県
コメントありがとうございます!岩手県はその成り立ちからして複雑な県ですよね…>_
個人的に津軽為信は戦国最強の一角と思ってます。地の利こそ恵まれなかっただけで、伊達政宗より推したい。弘前城は東北随一の高さを誇る6層天守閣を持ってたんですよね。落雷で出火した火災で失った後に、今の天守は櫓として幕府から許可がおりた代理天守。ねぶたには金魚がよくあるけど、津軽為信が金魚が大好きだったとの事。民衆にも愛されたと言われてます。
コメントありがとうございます!津軽為信の金魚好きは存じ上げませんでした!戦国を代表する名将ですね^ ^
南部から畿内や上洛って何日かかるんだろ。。😮
コメントありがとうございます!南部利直が秀吉に謁見した時は約2ヶ月間かかった模様です!
解説とても解りやすかったです。しかし、何で源氏の名門って毎回一族で内ゲバするんでしょうか(´д`|||)?大体、親兄弟で殺り合って弱体化してきますね。
コメントありがとうございます!武田氏、佐竹氏…どの地域も親子で争ったり、宗家と庶家に分かれて主導権争いが泥沼化しますね…!
山形もお願いします
コメントありがとうございます!脚本構成中です^ ^ 来月前半までにアップします!
幕符の影響力がよく届かなかったので独自勢力の歴史が多かったのか?
コメントありがとうございます!仰る通りだと思います!南奥と違って鎌倉府の影響力が小さかったのも一つの要因ですね^ ^
@@rekishitravel 返事ありがとうございます。まぁ、全体的には小さな日本史かも知れないけど興味深いです。
国が違うのに無理やり一緒にしたもんだから仲悪いんだけど、今時津軽だ南部だ言ってる連中はねぇ…若い人たちは気にしてない人が多いですね。
コメントありがとうございます!貴重な情報ありがとうございます^ ^ 青森出身の友人も同じような感覚でしたので、徐々に風化してるのでしょうか….!
ほんとそう思います。当人同士や両親祖父母くらいの祖先が被害にあったならまだしも、何百年も前の話だし。津軽為信や南部信直の直系の子孫なら多少はわからなくもありませんが、今の青森県民からしたら過去の他人同士の争いを持ち出して相手を嫌うのはどうかと思います。
南部氏と津軽氏(大浦氏)が犬猿の仲になってしまったのは、たった数日の遅れで謀反した大浦氏が堂々と津軽一帯を自分のものだと、豊臣氏(小田原城攻め)に領地安堵のお墨付きをいただいたからである。それは、戦国時代の話ではあるが、戊辰戦争の時、野辺地戦争で明らかになった。津軽藩が返り討ちで南部藩の圧勝であった。そういった風潮は少なからず今でもあります。
コメントありがとうございます!青森県は幕末の動きも激しくて面白いですね^ ^幕末編もいずれ特集したいと思います^ ^
北奥の巨大勢力だったはずの南部氏がなぜ津軽氏に先を越されたのか、その経緯がよくわかりました。話から逸れますがいつの時代も親子・親類はみんないつも仲良く助け合っていかなければいけないなと思いました。もし南部氏がみんな仲が良かったら…と思うと残念でなりません。
コメントありがとうございます!戦国時代ではありがちな問題ですよね…南部氏一門が一致団結していたら…!
九戸氏と秀吉軍との戦いは、秀吉軍が勝てなくて 闇討ち的に九戸氏を殺害した資料がありますね
コメントありがとうございます!九戸政実の乱は見所の多い戦いですよね^ ^近日アップ予定の岩手編でさらに取り上げたいと思います!
それなんてハントーの資料?
そして、南部と津軽は現代まで遺恨が続き、争いがやまないのです。チャンチャン
コメントありがとうございます!エンディング追加したいです^ ^笑
@@rekishitravel 実は八戸出身なので、盛岡藩と兄弟藩である八戸藩ということで南部藩の地域ということもあり色々と知っているんですよ高齢者だけではなく、今でも多方面で続く遺恨が興味深いものなのです。(奥歯に物が挟まったような言い方で申し訳ないw)
だいぶ怨みをかったでしょう。だから、弘前城で行われた慰霊祭で事件は起きたわけだよね。
為信公がぽっと出の扱いなのが…せめて為則の養子として大浦家に婿入りしたところから出して欲しかった
コメントありがとうございます!もう少し早く出すのも良かったですね…!尺の都合もあり泣く泣くカットしてしまいました…>_
為信は津軽を名乗る時、過去の先祖にまつわる資料等殆ど処分した経緯があり、出生はなぞになっている。
令和の時代に津軽が南部がってのはやめましょうよ
津軽地方もいろいろあったのに…軽視してるのかな?津軽と南部の歴史書は違うところ多いのでしっかり説明してほしいですね。南部地方に偏った紹介は津軽地方の人でいい気しない人でてきますから。また津軽氏は奥州藤原氏の藤原基衡の次男の十三秀栄の系統なのでもっと早くから紹介できます。
コメントありがとうございます!今回の動画では尺の都合もあって天文〜永禄期あたりが登場時間短めですね… 天正期以降は津軽をクライマックスとしましたのでご愛嬌ということで^^;
@@京急蒲田-w5h 津軽地方の人間からすれば、南部への偏った紹介自体がイヤミなんですよ。平等に紹介されれば変な言い方しませんよ。
@アメスビルばか >十三秀栄の系統 初めて聞いたからちょっとググってみたけど江戸時代ですでに誰も信じてない系図って情報が出てきたんだけど…
@@ty6842 昔の話だから何個も諸説あり、どれが真実かどれを信じるかは誰もできません。当時から生きている人がいるなら真実は伝えられますが、そんな長生きな人がいません。つまり、私の言った事を真実ととらわれない様に南部方の古文書などには違うことが書かれています。津軽と南部は仲が悪かったので、どちらが本当のことを言っているか誰も正解を導けません。
南部・津軽・下北で文化と言葉の違いが・・・。青森で語れるのが少なくてごめんなさい
コメントありがとうございます!毎度感謝です^ ^ 今回下北の登場時間を泣く泣く削ってしまったのが心残りです…!
九戸の乱には蝦夷の蠣崎氏がアイヌ兵を率いて参戦したみたいですね。アイヌが積極的に中央集権と関わっていたら日本の近代史も変わっていたと思います。
コメントありがとうございます!南部氏とアイヌの交流も興味深いですね^ ^
鹿児島県をやってです
コメントありがとうございます!はい!時間は掛かるかもしれませんが、是非特集したいと思います^ ^
南部八戸藩の最後の藩主は、薩摩島津家から南部八戸藩の養子になった島津信順(のぶゆき)公こと南部信順公です。信順公は島津重豪公の息子です。戊辰戦争の際は、八戸藩が幕府側についたにもかかわらず、藩主が島津家出身だった事が考慮され、戦後仕置きが無かったそうです。対して同じ南部の盛岡藩は厳しい戦後仕置きがあり、盛岡藩に対する処分軽減に南部信順公が新政府に嘆願、尽力しました。
ほぼ全員南部氏だったとは
コメントありがとうございます!その点南部氏はとても個性的な大名ですよね^ ^
南部氏は甲斐源氏なので全てが源氏が治めて居たとと言う事ですね。そして源氏は清和天皇の血筋、つまり朝廷血筋が治めて居た事に成ります。
青森は、へ・・・戸が多くて頭に入りにくいね
コメントありがとうございます!一戸や二戸などは岩手県なので、そこもまた難しいですね^ ^笑
北部の歴史を有難うございます。 血統(肉体:物質)重視の時代があって、「弱肉強食の答え」(強さ→恐怖支配)の中で、右往左往のドラマと、山ほどの「負のエネルギー」が生み出された歴史があります。そして現在、地球全体がその流れの極み(臨界点)にある様です…。 ワンネス愛を宇宙サイズの愛としたならば、順次下がって行って、最も小さく、最も低いレベルにあるのがエゴ愛(自分さえ良ければ…)となります。エゴ愛とは様々な問題の起点でもあります。血統を追いかけて破綻している流れが見えてきます。 例えば、手足が「ケガをしても気づかない様な頭」の構造であった場合、または、身体の半分しか愛せない様な頭であった場合、その肉体組織は破綻します。どれほど巨大化していてもです…。その流れの物語を見せて貰った様な気分です。相応しい頭とは、霊性の高い身魂である事が見えて来ます。 血統→霊統へと回帰する流れの様に見えます。一万年超越の高次元意識(縄文精神)とは、巷でいうアセンションの状態にあったと思われます。天地が繋がっていたのでしょう…。そこに宗教(大陸基準)が流れ込んで、天地の間に蓋(フタ)が形成され、途切れる事になり、代理天(代理光)が生まれ、それへの依存症が加速した流れが見えて来ます。「自立:依存= 点検(光):盲信(闇)」の構造です。 陽光の地(民)は、陽光のお役目があり、月光の地(民)は、月光のお役目があるのだと思います。どちらのお役も大切ですが、混同、混濁、ごちゃ混ぜでは、正しい呼吸ができない流れとなります…。 イキナリ全ての身魂が陽光(成人、自立)の段階へと進む事は不可能なのです。途中までは月光(母性)への依存も必要なのです。しかしその段階を経たならば、自立(成人)する事は命題なのです。それが地球上でいう日本の地(成人する身魂の地)だと言えます。 人類は、感謝の概念を得て精神進化が始まっています。しかし、いつまでも依存症では、母基準という「限定された愛」(エゴ愛)から、抜け出す事はできません。言うなれば、母の感情で一喜一憂する「限定的なマインドコントロール世界」が生まれてしまいます。「共感して→共感せよ→共感しなければならない→共感しないならば敵視」の流れです。ここに「マコト」はありません。柱無しです。故に「強弱の答え」(偽光)を生む事になります。 月光界での、エゴ愛vsエゴ愛、屁理屈vs屁理屈、勢力vs勢力、etcの苦の学びの先に、磨かれた身魂が誕生し、それらの身魂が更に進化する為に、陽の地(依存脱却の地、陽光の地)が必要となる構造だと思われます。 ヒタカミ国(霊高身)とは、その様なお役目を賜っている地域だったのだと思えてならないのです…。
南部さん家仲悪!一族の葬式でも暗殺して来るし怖い一族だな仲の良い北条さん家て凄かったんだなと改めて思いました。
コメントありがとうございます!確かに北条氏とは対照的ですね^ ^ 5代続けて内部争いと無縁なのが凄いです!
九戸城が3日で落城???3か月以上かかり、最後は欺瞞和睦の騙し討ち。さすが、上方の武将はえぐい。
大浦為信は南部に圧政を敷かれていた津軽の民の英雄とも扱われ、今でも津軽民の中には南部を忌み嫌う風潮がある。(諸説あります)青森市出身の親族もそうで彼らとの会話では十和田湖より西だけを青森として話すように気を遣う。
コメントありがとうございます!現代でも風潮が根強く残っているのは興味深いですね!為信の台頭がいかに大きなターニングポイントだったか…!
未だにそういう思考してるんだから仲悪いんですよね。縦にわけて秋田と一緒になられては如何w?
皆さんもお思いでしょうが、〇戸氏⇒いくつまであるんでしょうね🤣!
コメントありがとうございます!本当に多いですね!笑 一戸氏、九戸氏は岩手編の動画でもしっかり取り上げたいと思います^ ^
そりゃ江戸期通じて対立しますわ
コメントありがとうございます!経緯が経緯なだけにですね… 根強い問題ですね>_
青森県青森市の土地2000000坪買いますよ臨時飛行場作りますよ雇用わ青森県民です
南部藩の武士の家でしたので、津軽は狡くて嫌いです。
青森県民は仲が悪い
そっか
コメントありがとうございます!テンポ感は試行錯誤しているのですが、もう少し遅くしたいと思います^ ^ ご指摘ありがとうございます!
津軽と南部は仲が悪いと言われますが、これはTVなどのメディアが視聴率を稼ぐ目的で対立を煽ったことが大きな原因でもあります。
津軽人(南部人)が嫌いと言っている人もいますが、上記による先入観から来るものが多かったり、たまたま知り合った人と馬が合わなかっただけというのがほとんどですね。
多少の好き嫌いは誰にでもあるものでしょうし、仕事柄、県内全域の人間と接しますが、どの地域にも優しい人も居れば不親切な方も居ます。
それに今の若者はそんなことは気にしていない印象です。
この動画を拝見をするに、津軽と南部が不仲というよりも、南部同士の不仲の方が目立ちますねw
親兄弟で争うのは戦国時代ではよくあることなので、南部が特に不仲だとは思いませんが。
青森の歴史はあまり紹介される事がないので、今回取り上げて頂き大変嬉しく思います。
また違う時代の青森もいつか取り上げて頂ける事を願っております。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます!
貴重な地元情報ありがとうございます^ ^ 参考になります!
違う時代は検討中です!特に幕末の野辺地戦争あたりは面白そうですね^ ^
同感です
津軽と南部が仲が悪いというのは現代ではあまり聞きません、年配の方や偏見持った方がたまにそういった発言しますが、今では津軽だ南部だと争うことはほとんどありません。今となっては何百年も前の「歴史」のお話。
「TVなどのメディアが視聴率を稼ぐ目的で対立を煽ったことが大きな原因」?
江戸期の檜山騒動や相馬大作事件、幕末の野辺地戦争はスルーですか?
連綿と続いた確執が、近年になってようやく薄れたというだけのことです
津軽為信は実に上手く立ち回ったようで南部との独立戦争も秀吉に取り入って(息子を秀吉の子供の小姓に)さらに家康にも取り入って(同じように)当然関ヶ原でも東軍。その後息子信枚の正室に家康の養女満天姫を迎えた。その関係性からか弘前城築城の際に作業員の派遣を徳川家から支援してもらった可能性があるらしく、さらに弘前城天守に落雷があり、爆発炎上喪失した時は本来再建は認められにくい江戸時代に(辰巳櫓の改築)の名目で認められたのも徳川家との関係性からでは?と推察される方もいます。
あと、どうやって取り入ったのか近衛家から牡丹の家紋を貰ったり…
青森県人です。チャンネル登録しました。
今なお続く 津軽と南部の諍いの根源が分かった気がします。また見直すつもり😊
秋田県がアップされるの楽しみに待ってます!
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^ 来月から東北シリーズを開始予定なので、秋田県も近くアップしたいと思います!
政宗でしか奥州を知らないと南部を軽視しがちだけど、存在感あったんだなぁ。
ほんと勉強になります。
コメントありがとうございます!
奥州を代表する大勢力ですよね!幕末まで続くのもまた偉大です^ ^
津軽藩の本拠地である弘前市と南部藩の本拠地である盛岡市とは、新幹線が盛岡駅止まりだった時代に東北自動車道経由の新幹線リレーバスが高頻度で運転されていたことが縁でかなり身近な存在となって、関係も改善された感があります。一方、津軽氏と八戸南部氏の間では過去に大きな戦は起きていないにもかかわらず、弘前市と八戸市とでは未だに目に見えない対立が続いている感がぬぐえません。
コメントありがとうございます!
なるほど、新幹線リレーバスは盲点でした…!とても参考になります^ ^
というか交流がない。南部バスと弘南バスが高速バス運行してたけど結局なくなってしまった
今の軋轢は戦後構築されたもんじゃないかな。一部の年寄りは別として、だ
新幹線とか県知事のハコ物行政とか。
守男は特に酷いとは思ったw
津軽の石川城の地下は、地下道が掘られていて最近まで地下道を探検できた。九戸の乱では、東北諸藩の武将が勢ぞろいしている。前田利家、前田利長、石田三成、佐竹義重、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信とちょっと前まで戦闘をしていた武将が集まっているから壮観だったに違いない。
コメントありがとうございます!
石川城に地下道があったんですね!!
前回行った際は、広大な城域で回り切れなかったのでまたチャレンジしたいです^ ^
@@maya-wd5qo 石川城の地下道のレポートは「山さいがねが」の「隧道レポート 大仏公園 謎の穴」で詳しくレポートされています。想像以上に縦横無尽に地下道が張り巡らされています。今は入口が封鎖されているようですが。
南部氏は名前しか知らず津軽氏との遺恨も何となくでしか知りませんでしたが、なるほどとても分かりやすい動画でした!毎回楽しみにしてます
コメントありがとうございます!
今回津軽氏の登場時間は僅かでしたが、インパクト大でしたね^ ^
チャンネル登録しました!
東北の戦国時代は知らなかったことばかりだったので大変勉強になりました!
参考文献も豊富で凄いです!
次回も楽しみです!
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^ チャンネル登録もありがとうございます!!年内は東北地方の動画を中心にアップ予定です^ ^
三戸の出身です。先祖が戦の功績で新恩給与として賜ったのが生家の土地なのだそうで、その地名が苗字になっています。その時代の事が分かり興味深く拝見致しました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます!
なんと!とても気になります!! ご視聴頂きありがとうございます^ ^
岩手生まれ岩手育ち青森在住ですが自分の地域の戦国時代をあまり知らなかったのでとても為になりました!地元を扱っていただけるの本当ありがたいです!
コメントありがとうございます!
地元の方に楽しんで頂けてとても嬉しいです^ ^
信長の野望やってたりするけど南部氏がこんな感じだとは知らなかった めっちゃ勉強になるな
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです! 南部氏は少しマイナーな印象ですが、その権力体制は独特でとても面白い大名ですよね^ ^
十戸(とうのへ)=遠野、の説あり。
根城•南部氏(八戸)が当主を2代続けて毒殺された挙句に叔父の三戸•南部氏との戦を避けて、残された姫は金山や良港のあった八戸を追われ伊達との境の遠野に移った。(里中真知子 漫画「かたづの!」、原作 中島京子 王様のブランチ ブックアワード2014、歴史時代作家クラブ賞)より。
コメントありがとうございます!
江戸時代に八戸氏が根城から移ったことも由来の一つと言われているようですね^ ^
見易い、わかりやすい、聴きやすい最高の歴史チャンネル❗️ひとつだけ、吹き出しの中の文字を大きくして欲しい(笑)
コメントありがとうございます!
励みになります!! 吹き出し改善しますね^ ^
素晴らしいコンテンツですね!
いわゆるドアナンバーと言われる「のへ」が、今でも青森県と岩手県にまたがって一戸~九戸が点在している中で、
「4」だけは忌番として無いと聞いたことがあり、先日の「さんま御殿」でも王林ちゃんにそう紹介されていましたが、
何と八戸の南側に四戸櫛引として存在していたのに、滅んでしまっただけだったんですね!
しかもその櫛引という姓は、現在もこの地域や津軽方面にも比較的多く残っているようです。
四戸という名の自治体としては残っていなくても、どこかの地区名とか部落名などとして、残っていないのかなぁ。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^
他地域でも四戸の地区名は見つけられなかったですね… 気になります…!
櫛引という姓は、母方の祖母の母の旧姓です。櫛引から仙台になり、今の姓になりました。
つながっているのだろうか?亡き母は平川市出身です。
私は青森県民ではなく、海峡のむこう側にいます。
タメになった。信長の野望でおなじみの武将たちですがそれぞれの関係は知りませんでしたのですごく勉強になりました。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです! 九戸政実や津軽為信など個性的な武将が多いのも北奥の戦国史の魅力の一つですよね^ ^
凄いですね❗勉強させていただきました😊‼️
武将名と地名との合致が面白いですね!
コメントありがとうございます!
青森県は特にその傾向が強いですね^ ^
私は青森県民で、信長の野望好きで歴史通を気取ってましたが、知らないことばかり。南部氏も一枚岩じゃなかったんですね。◎戸が多いこと(笑)勉強になりました。😆
コメントありがとうございます!
本当に「戸」が多いですね!笑 一部の「戸」は現代に地名が残っていない点もまた興味深いです^ ^
@@rekishitravel 苗字には残ってるんですがねぇ…やはり九戸の乱で族滅してしまったのも原因なのかもしれないですね
国ごとの全体の歴史に興味があったので、面白く興味深いです!
是非、石川県の歴史についてリクエストお願いします!
コメントありがとうございます!
石川県も特集予定です!リクエスト感謝です^ ^
東北編が落ち着いたら(一旦東京挟みます)、北陸・東海に展開予定です^ ^
いや~今回も面白かった。三戸(南部)氏の支配力浸透や外交の切れ味。大浦氏のおとぎ話のような急成長。南部信直の振り回されっぷり。楽しく学べて素晴らしい。
コメントありがとうございます!
毎度感謝です! 為信、信直が登場する後半の怒涛の展開はまさに北奥戦国史の醍醐味ですね^ ^
攻められまくってた八戸氏が、なんだかんだと生き残ってるのが興味深いですね。
コメントありがとうございます!
仰る通りですね^ ^ 八戸氏が三戸氏に対抗していたら、三戸氏の存続も怪しかったでしょうね…
南部地域在住。いまだに津軽衆、南部衆と言いますよね。
県庁所在地が青森市(津軽側)にあるので、県知事は南部から出すようにと選挙でも戦いが続いていますよ。
〇戸氏の数w
現在、地名で残っているのは、岩手県北部に一戸、二戸、九戸、青森県に、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸。
四戸は、地名としては現在はないのですが、現在の八戸市の一部(櫛引八幡宮、根城地区等)を当時は四戸と呼んでいたそうです。
上記の地名は、名字としても現在使われていて、私の友人では 一戸、二戸、三戸、七戸、八戸、四戸さんがいますw
コメントありがとうございます!
ご友人の方勢揃いですね!笑 一堂に集まる機会を見てみたいです!笑
戦国ゲームでは東北は伊達家まででプレイする食指が止まっていたので、新鮮な情報で楽しめました。この時代の地方統一の難しさ、抱えた勢力の結束の要を対外戦争とする考え方に至れない間にとうとう秀吉が来てしまう絶望感を青森の歴史から学べた気がします。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^ 秀吉の登場によって奥羽の地域権力が中央政権の枠組みに組み込まれていくあたりは、特に流れが激しく面白いですね!
現代でも青森県の言葉は難解ですね。戦国時代も中央から派遣された武将は意思疎通に苦労していたのかな
コメントありがとうございます!
興味深いですね!今後の参考にさせて頂きます^ ^
津軽為信は梟雄かも知れないけど石田三成の遺族を保護しています。同じく梟雄の伊達政宗も真田信繁(幸村)の遺族を保護していて両者とも義理堅い一面もあるんですよね。ちなみに弘前では南部せんべいは津軽せんべいの名前で売っています。
コメントありがとうございます!
せんべいのお話面白いですね🍘 基本的な味は一緒なのでしょうが、是非食べ比べしてみたいです^ ^
はて?長年弘前在住てすが、津軽煎餅なるものは殆ど聞かないですね…。
一方ここ弘前でも南部煎餅はポピュラーで、胡麻やらピーナッツやら、最近ではチョコ掛けまで有って、多種類が売られていますよ。
毎回、面白くて分かりやすい解説です
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^ 毎度感謝です!
この時期の津軽の裏切りと幕末の秋田の裏切りで未だに北東北は仲が悪い。
裏切られてばかりの岩手は真面目すぎるが故の代償なのでしょうかね
コメントありがとうございます!
幕末も劇的な展開で見所が多いですね^ ^
いずれ幕末シリーズも取り上げたいと思います!
いつも楽しみに見てます。高知も待ってますね!
コメントありがとうございます!
いつもご視聴頂き感謝です^ ^ 少し時間がかかると思いますが、高知もいずれアップします!
青森県は大きな市がたくさんあるかんじ。津軽と南部という区切りだけじゃなくて、青森市、弘前市、八戸市、三沢市、むつし、五所川原市、下北半島とか、それで、ねぶたひとつとっても違うみたいなので、それぞれ違う文化があるような。統制するのメッチャ難しそう。青森県に行けばそこら辺説明してくれるところあるのかしら? 来年青森県旅行に行くので、ちょっと知りたい。
コメントありがとうございます!
青森県旅行うらやましいですね^ ^
私も知りたいです!弘前城と根城の隣に立派な博物館がありましたので参考になるかもしれません^ ^
大河ドラマ 津軽為信が見たいな。
コメントありがとうございます!
面白そうですね!前半をどう描くかが気になります^ ^
クズだよね
とても面白くためになります。チャンネル登録させて頂きました。
秋田県民なのですがぜひ秋田もやって頂きたいです。
私事ですが佐竹氏が常陸国から秋田へお国替えをして来た時に一緒に来た多賀谷家の血筋に縁のあるものです。
詳しく歴史などを唯一知っていた祖父も教えてくれる前に無くなってしまい自分で調べるだけでは深いところまでは調べるところができません。
なので是非秋田もお願いしたいです。
コメントありがとうございます!
はい!来月から東北シリーズを開始しますので秋田編もアップ予定です^ ^
いいですね、海を隔てた北海道は戦国時代は完全に蚊帳の外でした。
戦国時代のオンラインゲームをやっても、知らない武将ばかりでした…みんな詳しいな。
コメントありがとうございます!
北海道もいずれはチャレンジしたみたいですね!時間は掛かってしまうかもですが…^^;
南部氏の陪臣九戸直実が随分面白い人だったと高橋克彦先生の「天を衝く」で読みました。
コメントありがとうございます!
九戸氏面白いですよね^ ^ 岩手編の動画では九戸政実の乱をクライマックスにする予定です!
まとめて頂きありがとうございます。蒲生氏郷が来たのが興味深い。前田慶次郎も仕置にきたそうです。✝弾圧後流刑地でもあり。蓋をしてしまって語る人もいない。なかなか手強い青森の歴史。表に出すとヤバいのか?。四天王の本多家や山鹿流の子孫、三成の子孫、那須与一の子孫等、なんで辺境に来たのか?。禅林街の本当の役割は?。面白いけど怖い青森の歴史。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^ いずれ他の時代も特集したいと思います!
近代に入ってからは、旧来からの津軽地方と南部地方の対立に加えて、同じ津軽地方である青森と弘前が公共機関、教育機関などの設置を巡って対立を深めている感があります。
県庁:当初は弘前に置かれたものの、ほどなくして青森に移転。
旧制県立尋常中学校:当初は青森に置かれたものの、開校から数年で弘前に移る。そのため開校の順番では現在の弘前高校が旧制青森一中、八戸高校が旧制青森二中、青森高校が旧制青森三中という関係に。
旧制官立高等学校:青森と弘前での誘致合戦の結果、弘前に設置され、これが現在の国立弘前大学の母体となる。
旧制師範学校、旧制医学専門学校:両校とも青森に設置されたが、校舎を戦災で焼失したため、戦災に遭わなかった弘前に一時的に移転して学校機能の維持と授業を継続する手筈に。しかし戦後の社会の混乱と学制改革の渦などに巻き込まれて、青森に戻ることは叶わず、青森師範学校は弘前大学教育学部に、青森医学専門学校は弘前医科大学を経て弘前大学医学部となる。
旧制師範学校、旧制医学専門学校を失ったことは青森にとって大きなダメージとなり、昭和43年に青森山田学園が青森大学を開学するまで県庁所在地なのに国公立ばかりか私立の四年制大学すら無いという状態が続きました。
コメントありがとうございます!
勉強になります!ご丁寧に説明ありがとうございます^ ^
元々南部氏は甲斐源氏義光流加賀美遠光の三男光行が甲斐国南部郡に居を構えた事が始まりなので青森土着の氏族では無いです。じゃあいつ八戸に来たのか、それは南北朝時代の当主南部師行が北畠顕家と共に奥州に赴任した際、南朝から糠部郡を貰い入部しました。これ以降南部氏は糠部郡八戸一体を本拠地とします。(分家の一部は甲斐に残るも信玄の時代に武田氏に取り込まれている)
五所川原市飯詰に住む親類が法事の際に酔った時「弘前の人間が嫌い。津軽為信は飯詰を攻めた時、女子供まで皆殺しにしたから」と言ってた。父が弘前出身だし私自身青森市在住で八戸市にも住んでいたから複雑。
コメントありがとうございます!
現代にまで受け継がれているのはとても興味深いです…!
貴重な情報頂きありがとうございます^ ^
そう思われても当然でしょうね。
津軽は口車が上手く、都合よく歴史を書き換えたのでしょうね。
まぁ南部もそうでしょうけど。
南部人こっちまで移住して来てますー。タメの子が南部性でその末裔でした。そいつんちでジイ様から東北からの逃避行を昔話に聞いたことあります。口伝らしいですが、相当に南部が食い詰めたので二千家族くらいが逃げ出したということです。南部鉄器も伝えられましたし、東北の刀鍛冶も連れて来てますし、護衛に伊達の腕コキも連れて南を目指したそうです。故郷捨てて逃げ出さなだめなくらい食い物が死に絶えたそうで武士も農民も平等に食べれなかったみたいですね。応仁のすぐあとくらいだと言うことなので文永くらいの時代なのかな?と今思い出しました。この大移動ほんとに可能なのかな?と思いはしますが実際南部鉄器が伝えられて鍛冶レベルが地元は凄く上がって刀も強くなったそうなので南部人来たんだろーなとは思うんですけどね。大量大移動って兵站大変だろーに…
コメントありがとうございます!
貴重なお話ありがとうございます^ ^
動画ありがとうございました。
東北の特に北側は信頼性の高い一次史料があまり無いので、今後さらに研究が発展すれば良いですね。
それから差し支えなければ参考資料の中でも特におすすめの資料や論文があれば教えていただきたいです。
コメントありがとうございます!
信義以前は特に史料が残っていないので、研究の発展を祈るばかりですね!
概要欄の参考資料の中では、『戦国大名南部氏の一族・城館』が個人的におすすめです。城跡見学の際にも参考になりました!
面白い。青森県は南部と津軽の違いがよく分からなかったので勉強になりました。津軽地方、津軽為信氏の弘前城統制の歴史が知りたいです。ねぶたやねぷた祭りの起源なども戦国時代の戦いにかかわりがあるのでしょうか?
コメントありがとうございます!
奥羽仕置後から弘前城築城までの動乱期も面白いのでいずれ動画にしてみたいです^ ^ ねぶたの起源については調べた限り戦国時代との関連性は見つからなかったですね…>_
@@rekishitravel ありがとうございました。弘前城はどうして津軽城としなかったのか?弘前という珍しい名前をつけたのはどこからとったのでしょうか?弘前氏という人物が存在したのかなど知りたいです。それとやはりねぶたの絵が歌舞伎のような強面で、戦国時代の人物ばかりのようなので関連性が気になります。
誰かの動画で、ねぶたは坂上田村麻呂が蝦夷制圧したのが基になっているって言ってたなぁ。
南部氏の内紛は詳しくは知らなかったためどの様なものかと思っていましたが、かなり凄まじいですね。😅
そういえば、南部氏は秀吉の廃城令で破却した城の数が北東北の大名の中でもかなり多かったらしいが、元からあった城を含めると北東北の中でもかなりあったのかな?(当然用途は一族争い)
コメントありがとうございます!
破棄した城数は約36のようで多いですね^ ^
いかに南部氏の領域が広大であったか…!
南部氏の南部は、例えば、東北南部の南部と同じアクセントでいいのですか?
コメントありがとうございます!
イントネーションは杜撰なところがありますね…改善します>_
青森県に自衛隊基地が置かれている理由は、「津軽 為信(つがる ためのぶ)」が石川城攻めの時の「乱取り」が原因で、津軽と南部に因縁が起き、それが現在まで続き、「青森県を割らないため」だったりします。
時系列は「石川城攻め」→「豊臣の小田原征伐(津軽はうまくやった)」→「檜山騒動(ひのきやま そうどう)」→「相馬大作事件」→今でも因縁が続く、となってます。
コメントありがとうございます!
石川城はやはり重要拠点ですね^ ^ りんご農園の現況とのギャップはありますが…笑
8:25 の津軽統一図が津軽弁と南部弁の境目になってますね。
あと一戸から九戸の行政区分ですが四戸がないのが未だに気になる。wikiでも死を連想するなど曖昧な情報しかないですし。名字として残っているのに死を連想するとか失礼な気がするんですが・・・
コメントありがとうございます!
四戸が地名として残っていないのは、やはり不思議ですよね…
櫛引氏滅亡に関わるものなど諸説ありますが、あまりピンと来ないですし…
しかし、津軽と南部の争いが現代まで引きずっていて、今でも「南部だ」「津軽だ」と諍いがある事を、青森県は青森市と八戸市のそれぞれに勤務して実感したものです。
一例ですが、あるラジオコマーシャルで「南部も津軽もねぇ」と。
これはウラを返すと「諍いはあるんです」とも取れ、青森市赴任時には「南部衆は」と。
八戸市赴任時には「津軽衆は」と、何かあるにつけ互いに言っていた事を思い出します。
そして言葉は旧藩境の野辺地という所から津軽弁と南部弁にはっきり分かれていて、南部(父)と常陸(母)のハーフの自分には南部弁は理解できましたが、津軽弁に慣れるのは一苦労したものです。
そして、なんでこんなに文化も言葉も違う地域を同じ県にしたんだろう、と赴任していた頃を思い出します。
コメントありがとうございます!
とても参考になります!現代にも色濃く残っているのですね… 貴重な情報ありがとうございます^ ^
ご返信いただきありがとうございます。
九戸政実の乱の際、蒲生氏郷率いる豊臣軍に津賀為信と南部信直も参戦していましたが、互いに機会あれば、としていたらしく、それを杞憂してか蒲生氏郷は津軽と南部の陣を離して布陣したらしいです。(川を挟んでの布陣になっています)
この九戸政実の乱をして戦国時代は終わりを告げましたが、九戸政実軍5,000に対し豊臣軍70,000。
その大軍をもっても九戸城を落とすことは困難を極め、策略、そう九戸政実が信頼する僧侶を騙して政実に「降伏するなら一命と領地の安堵する」と説得させ、政実がそれに応じて開城した所へ攻め込み女子供まで皆殺し状態にしたとか。
しかし、この九戸政実の乱、豊臣軍が派遣した将兵の数と高名な武将の面々からして、歴史に残る戦いであったにもかかわらず、なぜか歴史の片隅に追いやられています。
近年の研究で、どうやら豊臣軍にしてみれば、あの程の大軍を田舎武将の平定に送ったのに平定は困難を極め(蒲生氏郷の嫡男も討死)仕方なく謀略をもって収めた事が、いわばカッコ悪いのであまり表に出さなかったのでは、という見解があります。
弘前市出身です
たけんのもそうだけど地域別(特化)なら「戦国時代の何々県」ではなく「何々県の戦国時代」の方が日本語として正しい気がします。
次は北海道もお願いします
コメントありがとうございます!
はい!時間は掛かってしまうかもですが、いずれアップ予定です^ ^
大変よい動画でした!ただ情報量が多いのでもう少しテンポゆっくりめでお願いしたいです😅(firetvだと再生速度0.75がないのでちょうど良い速度に調整できなくて。。)
まさか47都道府県やってくれるのか!?
山形と秋田がめちゃくちゃ気になる!
砂越氏とか浅利氏とかよく分からん氏族がいてなんやこいつら!って学生の時戦国大名の勢力地図見て思ってたのよね〜
コメントありがとうございます!
47都道府県チャレンジしたいと思います!
山形は来月初旬にはアップ予定です^ ^
最近に成って、某キャンプマンガとアニメに登場する山梨県の南部町と言う地名に興味を持ったんですけど、調べたら奥羽の南部家と関係があったんですね。
分かりやすくて面白いはずなのに…
何だろうこのグダグダ感はw
コメントありがとうございます!
泥沼の抗争劇ですね^ ^笑
明治36年(1903年)に旧南部藩士の手によって作られた『南部史要』は天正10年(1582年)死亡説を唱えている。 それに対して元亀3年(1572年)死亡説を採っているのは文久元年(1861年)に編纂された『三戸南部系図』であり、これは南部藩士・星川正甫が藩主に謹呈された緒家系譜を頼りに南部氏一門の系図を作成したものである。前述のように晴政と信直の不和は明確である。また、信直とその支持者によって三戸城を攻められて、晴継ともども殺害されたとの説がある。信直派が謀反を隠すために晴政没年を10年ずらしたと考えられる。
という晴政殺害説もあるようです。
コメントありがとうございます!
晴政、晴継の死は様々な説があるようですね!なんだかんだで信直は実権をスムーズに確保しているのを見ると、信直による殺害も十分あり得そうですね…!
晴政って信長の野望だと
毎回陸奥統一するけど
史実だと苦難の連続やな、、
コメントありがとうございます!
後継者問題や安東氏との抗争など多方面で衝突が多かったですね…>_
為信公のあの髭は関羽に憧れていたらしい
津軽弁南部弁があるのはこういうことがあったからですw
コメントありがとうございます!
そうだったんですね!!笑 木像でも濃い髭をしっかり表現できているのがびっくりです^ ^笑
歴史の後知恵になりますが、津軽為信を中国地方か九州辺りに領地替えしておけば良かったかも…………
とてもわかりやすかったです。ありがとうございます。
弘前出身の友人によれば、未だに青森県では津軽系と弘前系での対立が一部では残ってるという話でした。
まあどこでも同じような話はあるのですが、長い歴史を知ることでその土地柄や人柄が見えてくるので面白いです^^
コメントありがとうございます!
まさに仰る通りですね! 歴史を学ぶ魅力の一つですよね^ ^
それって、恐らく津軽系と南部系の対立のことではないのでしょうか?
弘前って津軽系だと思いますから。
とは言え、結局津軽も元はと言えば三戸南部から派生して、独立したようですが。💦
南部と津軽は、一生仲悪いと思うよ。
私の友人の父上は津軽で母上は南部だそうですが、とても仲の良い家族で羨ましいくらいでした。
まぁ、対立と言っても結局は人と人。
個人レベルで見れば、様々な関係性があって当然でしょう。
久慈平蔵改め大浦為信になった経緯がよくわからん。
コメントありがとうございます!
今回の動画では為信の出自はノータッチでしたね…! やはり大浦守信の子ではなく、久慈氏から出奔して大浦氏の婿養子になったのでしょうか…!
岩手はかわいそうなのかw
岩手は南部と伊達が上と下にいたから、今でも県の上と下でちょっと色が違うって聞いたことある
戦国時代に青森に裏切られ、幕末には秋田に裏切られる岩手
隣国に恵まれないかわいそうな日本の縮図のような県
コメントありがとうございます!
岩手県はその成り立ちからして複雑な県ですよね…>_
個人的に津軽為信は戦国最強の一角と思ってます。
地の利こそ恵まれなかっただけで、
伊達政宗より推したい。
弘前城は東北随一の高さを誇る6層天守閣を持ってたんですよね。
落雷で出火した火災で失った後に、
今の天守は櫓として幕府から許可がおりた代理天守。
ねぶたには金魚がよくあるけど、
津軽為信が金魚が大好きだったとの事。
民衆にも愛されたと言われてます。
コメントありがとうございます!
津軽為信の金魚好きは存じ上げませんでした!戦国を代表する名将ですね^ ^
南部から畿内や上洛って何日かかるんだろ。。😮
コメントありがとうございます!
南部利直が秀吉に謁見した時は約2ヶ月間かかった模様です!
解説とても解りやすかったです。
しかし、何で源氏の名門って毎回一族で内ゲバするんでしょうか
(´д`|||)?
大体、親兄弟で殺り合って弱体化してきますね。
コメントありがとうございます!
武田氏、佐竹氏…どの地域も親子で争ったり、宗家と庶家に分かれて主導権争いが泥沼化しますね…!
山形もお願いします
コメントありがとうございます!
脚本構成中です^ ^ 来月前半までにアップします!
幕符の影響力がよく届かなかったので独自勢力の歴史が多かったのか?
コメントありがとうございます!
仰る通りだと思います!南奥と違って鎌倉府の影響力が小さかったのも一つの要因ですね^ ^
@@rekishitravel 返事ありがとうございます。まぁ、全体的には小さな日本史かも知れないけど興味深いです。
国が違うのに無理やり一緒にしたもんだから仲悪いんだけど、今時津軽だ南部だ言ってる連中はねぇ…
若い人たちは気にしてない人が多いですね。
コメントありがとうございます!
貴重な情報ありがとうございます^ ^ 青森出身の友人も同じような感覚でしたので、徐々に風化してるのでしょうか….!
ほんとそう思います。当人同士や両親祖父母くらいの祖先が被害にあったならまだしも、何百年も前の話だし。津軽為信や南部信直の直系の子孫なら多少はわからなくもありませんが、今の青森県民からしたら過去の他人同士の争いを持ち出して相手を嫌うのはどうかと思います。
南部氏と津軽氏(大浦氏)が犬猿の仲になってしまったのは、たった数日の遅れで謀反した大浦氏が堂々と津軽一帯を自分のものだと、豊臣氏(小田原城攻め)に領地安堵のお墨付きをいただいたからである。それは、戦国時代の話ではあるが、戊辰戦争の時、野辺地戦争で明らかになった。津軽藩が返り討ちで南部藩の圧勝であった。そういった風潮は少なからず今でもあります。
コメントありがとうございます!
青森県は幕末の動きも激しくて面白いですね^ ^
幕末編もいずれ特集したいと思います^ ^
北奥の巨大勢力だったはずの南部氏がなぜ津軽氏に先を越されたのか、その経緯がよくわかりました。
話から逸れますがいつの時代も親子・親類はみんないつも仲良く助け合っていかなければいけないなと思いました。
もし南部氏がみんな仲が良かったら…と思うと残念でなりません。
コメントありがとうございます!
戦国時代ではありがちな問題ですよね…
南部氏一門が一致団結していたら…!
九戸氏と秀吉軍との戦いは、秀吉軍が勝てなくて 闇討ち的に九戸氏を殺害した資料がありますね
コメントありがとうございます!
九戸政実の乱は見所の多い戦いですよね^ ^
近日アップ予定の岩手編でさらに取り上げたいと思います!
それなんて
ハントーの資料?
そして、南部と津軽は現代まで遺恨が続き、争いがやまないのです。
チャンチャン
コメントありがとうございます!
エンディング追加したいです^ ^笑
@@rekishitravel 実は八戸出身なので、盛岡藩と兄弟藩である八戸藩ということで南部藩の地域ということもあり色々と知っているんですよ
高齢者だけではなく、今でも多方面で続く遺恨が興味深いものなのです。
(奥歯に物が挟まったような言い方で申し訳ないw)
だいぶ怨みをかったでしょう。だから、弘前城で行われた慰霊祭で事件は起きたわけだよね。
為信公がぽっと出の扱いなのが…せめて為則の養子として大浦家に婿入りしたところから出して欲しかった
コメントありがとうございます!
もう少し早く出すのも良かったですね…!尺の都合もあり泣く泣くカットしてしまいました…>_
為信は津軽を名乗る時、過去の先祖にまつわる資料等殆ど処分した経緯があり、出生はなぞになっている。
令和の時代に津軽が南部がってのはやめましょうよ
津軽地方もいろいろあったのに…軽視してるのかな?津軽と南部の歴史書は違うところ多いのでしっかり説明してほしいですね。南部地方に偏った紹介は津軽地方の人でいい気しない人でてきますから。また津軽氏は奥州藤原氏の藤原基衡の次男の十三秀栄の系統なのでもっと早くから紹介できます。
コメントありがとうございます!
今回の動画では尺の都合もあって天文〜永禄期あたりが登場時間短めですね… 天正期以降は津軽をクライマックスとしましたのでご愛嬌ということで^^;
@@京急蒲田-w5h 津軽地方の人間からすれば、南部への偏った紹介自体がイヤミなんですよ。平等に紹介されれば変な言い方しませんよ。
@アメスビルばか >十三秀栄の系統 初めて聞いたからちょっとググってみたけど江戸時代ですでに誰も信じてない系図って情報が出てきたんだけど…
@@ty6842 昔の話だから何個も諸説あり、どれが真実かどれを信じるかは誰もできません。当時から生きている人がいるなら真実は伝えられますが、そんな長生きな人がいません。つまり、私の言った事を真実ととらわれない様に南部方の古文書などには違うことが書かれています。津軽と南部は仲が悪かったので、どちらが本当のことを言っているか誰も正解を導けません。
南部・津軽・下北で文化と言葉の違いが・・・。
青森で語れるのが少なくてごめんなさい
コメントありがとうございます!
毎度感謝です^ ^ 今回下北の登場時間を泣く泣く削ってしまったのが心残りです…!
九戸の乱には蝦夷の蠣崎氏がアイヌ兵を率いて参戦したみたいですね。アイヌが積極的に中央集権と関わっていたら日本の近代史も変わっていたと思います。
コメントありがとうございます!
南部氏とアイヌの交流も興味深いですね^ ^
鹿児島県をやってです
コメントありがとうございます!
はい!時間は掛かるかもしれませんが、是非特集したいと思います^ ^
南部八戸藩の最後の藩主は、薩摩島津家から南部八戸藩の養子になった島津信順(のぶゆき)公こと南部信順公です。信順公は島津重豪公の息子です。戊辰戦争の際は、八戸藩が幕府側についたにもかかわらず、藩主が島津家出身だった事が考慮され、戦後仕置きが無かったそうです。対して同じ南部の盛岡藩は厳しい戦後仕置きがあり、盛岡藩に対する処分軽減に南部信順公が新政府に嘆願、尽力しました。
ほぼ全員南部氏だったとは
コメントありがとうございます!
その点南部氏はとても個性的な大名ですよね^ ^
南部氏は甲斐源氏なので全てが源氏が治めて居たとと言う事ですね。そして源氏は清和天皇の血筋、つまり朝廷血筋が治めて居た事に成ります。
青森は、へ・・・戸が多くて頭に入りにくいね
コメントありがとうございます!
一戸や二戸などは岩手県なので、そこもまた難しいですね^ ^笑
北部の歴史を有難うございます。
血統(肉体:物質)重視の時代があって、「弱肉強食の答え」(強さ→恐怖支配)の中で、右往左往のドラマと、山ほどの「負のエネルギー」が生み出された歴史があります。そして現在、地球全体がその流れの極み(臨界点)にある様です…。
ワンネス愛を宇宙サイズの愛としたならば、順次下がって行って、最も小さく、最も低いレベルにあるのがエゴ愛(自分さえ良ければ…)となります。エゴ愛とは様々な問題の起点でもあります。血統を追いかけて破綻している流れが見えてきます。
例えば、手足が「ケガをしても気づかない様な頭」の構造であった場合、または、身体の半分しか愛せない様な頭であった場合、その肉体組織は破綻します。どれほど巨大化していてもです…。その流れの物語を見せて貰った様な気分です。相応しい頭とは、霊性の高い身魂である事が見えて来ます。
血統→霊統へと回帰する流れの様に見えます。一万年超越の高次元意識(縄文精神)とは、巷でいうアセンションの状態にあったと思われます。天地が繋がっていたのでしょう…。そこに宗教(大陸基準)が流れ込んで、天地の間に蓋(フタ)が形成され、途切れる事になり、代理天(代理光)が生まれ、それへの依存症が加速した流れが見えて来ます。「自立:依存= 点検(光):盲信(闇)」の構造です。
陽光の地(民)は、陽光のお役目があり、月光の地(民)は、月光のお役目があるのだと思います。どちらのお役も大切ですが、混同、混濁、ごちゃ混ぜでは、正しい呼吸ができない流れとなります…。
イキナリ全ての身魂が陽光(成人、自立)の段階へと進む事は不可能なのです。途中までは月光(母性)への依存も必要なのです。しかしその段階を経たならば、自立(成人)する事は命題なのです。それが地球上でいう日本の地(成人する身魂の地)だと言えます。
人類は、感謝の概念を得て精神進化が始まっています。しかし、いつまでも依存症では、母基準という「限定された愛」(エゴ愛)から、抜け出す事はできません。言うなれば、母の感情で一喜一憂する「限定的なマインドコントロール世界」が生まれてしまいます。「共感して→共感せよ→共感しなければならない→共感しないならば敵視」の流れです。ここに「マコト」はありません。柱無しです。故に「強弱の答え」(偽光)を生む事になります。
月光界での、エゴ愛vsエゴ愛、屁理屈vs屁理屈、勢力vs勢力、etcの苦の学びの先に、磨かれた身魂が誕生し、それらの身魂が更に進化する為に、陽の地(依存脱却の地、陽光の地)が必要となる構造だと思われます。
ヒタカミ国(霊高身)とは、その様なお役目を賜っている地域だったのだと思えてならないのです…。
南部さん家仲悪!一族の葬式でも暗殺して来るし怖い一族だな
仲の良い北条さん家て凄かったんだなと改めて思いました。
コメントありがとうございます!
確かに北条氏とは対照的ですね^ ^ 5代続けて内部争いと無縁なのが凄いです!
九戸城が3日で落城???3か月以上かかり、最後は欺瞞和睦の騙し討ち。さすが、上方の武将はえぐい。
大浦為信は南部に圧政を敷かれていた津軽の民の英雄とも扱われ、今でも津軽民の中には南部を忌み嫌う風潮がある。(諸説あります)
青森市出身の親族もそうで彼らとの会話では十和田湖より西だけを青森として話すように気を遣う。
コメントありがとうございます!
現代でも風潮が根強く残っているのは興味深いですね!為信の台頭がいかに大きなターニングポイントだったか…!
未だにそういう思考してるんだから仲悪いんですよね。
縦にわけて秋田と一緒になられては如何w?
皆さんもお思いでしょうが、〇戸氏⇒いくつまであるんでしょうね🤣!
コメントありがとうございます!
本当に多いですね!笑 一戸氏、九戸氏は岩手編の動画でもしっかり取り上げたいと思います^ ^
そりゃ江戸期通じて対立しますわ
コメントありがとうございます!
経緯が経緯なだけにですね… 根強い問題ですね>_
青森県青森市の土地2000000坪買いますよ
臨時飛行場作りますよ
雇用わ青森県民です
南部藩の武士の家でしたので、津軽は狡くて嫌いです。
青森県民は仲が悪い
そっか
大変よい動画でした!ただ情報量が多いのでもう少しテンポゆっくりめでお願いしたいです😅(firetvだと再生速度0.75がないのでちょうど良い速度に調整できなくて。。)
コメントありがとうございます!
テンポ感は試行錯誤しているのですが、もう少し遅くしたいと思います^ ^ ご指摘ありがとうございます!