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祖父が相馬の出身です。相馬氏は伊達政宗でも屈服させられなかった大名ですね。昔から「わが相馬は伊達勢に屈しなかった兵(つわもの)だ!」と相馬野馬追いに騎馬兵として参加していた祖父から祭りのたびに聞かされたものです。図書館に当時の歴史資料あって図書館の方からもお話しを伺いましたし、郷土資料館で学芸員or職員の方にもその話しを熱く語られましたね。相馬は伊達兵の侵攻を許した事がない、というのが相馬のアイデンティティみたいなところあります。
下越後のそれも揚北(羽越)を東北枠にしてるのは素晴らしい。秋田(安東)氏の空気感がすごいなぁとても渡島半島まで支配していた家とは思えんくらい話題が無い。
南部と津軽の対立は戦国時代以降も゙続く、それが今は青森県まとめられているのも興味深い。是非、九州版もお願い致します。
相馬氏「俺らは屈服されてないぞ」
領土の色分けが滅茶苦茶わかりやすくて凄すぎです
斯波と畠山って全盛期はイケイケだったのにな。
伊達種宗の長男は晴宗じゃなくて岩城親隆だった気がします 2:12
相馬は唯一制服されなかった大名じゃ
だんだん都道府県の形になっていくのが面白い
会津の人々からしたら大変な目にあってるよな。幕末しかりでなぜ歴史の大舞台に憂き目に合わねばならんのか。会津の人達は大変良き人が多い。みんなで会津の人々に敬意を持って守っていこうではないか。
口調が魔理沙と霊夢、逆な気がする…
確かこのころの関東は氏政が率いて里見との長年の敵対関係を終わらせて同盟関係になってたんだっけか?古河公方のせいとはいえ東北地方の諸大名に何度かかき回されてた時もあったからな特に蘆名とか佐竹とかな
あれ、関ケ原のあとで佐竹が秋田に転封になってなかったっけ…
15代は晴宗で16代が輝宗では?
100万石の約束のやつは上杉領を切り取ったらその分を与えるという約束のことで切り取り次第では100万石もありゆるというだけで、別に東軍につけば無条件で100万石になるわけではなかった。そういう意味では南部領での一揆扇動は関係ない
安藤氏が安東氏では⁉️
九戸「納得いかねえ」
九戸氏の子孫は津軽にいます
上杉景勝の転封で海に面しているのが庄内だけは辛いな。せめて岩船と新潟などの下越は欲しかった。
相馬は屈服してないけど、、、
相馬屈服してない
信長の野望シリーズだと、為信スタートは最難関レベルなんだよなぁ。野望ではかなり評価されてるけどマイナーな大名という。地元のラジオで津軽為信のピックアップ番組、卍の城の物語では津軽平定後、色々な一揆や裏切り、南部氏との対立や政治判断など詳しく語られていて面白かった。
20年以上前に転勤で弘前に住んでいた頃に毎日営業車で聴いてたよ。『お耳がピン♪』のRABラジオだよね。大相撲をより面白く観る方法とか、米長邦雄・人生爽やか流も聴いてた。月曜ラジオバザールには、良く電話で出演する投稿職人だったよ。懐かしいなぁ。
由利地方は大名不在で豪族しか居なかったのね、全国でも珍しい地域ですね。
地図に色分けだけじゃなくて、どこの領地かも書いておいてほしいです
伊達家も中央で「国衆」扱いの史料もあったりなのに奥州探題まで家の格が跳ね上がるという家格秩序の崩壊が感じ取れる事件もあったり…(足利一門の大崎氏涙目)各々が律令時代から根付いてきた武士団を保有してるから一門に組み込む待遇で惣領としての優位性固めたりその武士団を丸々囲うことが求められたし、そんな中まだるっこしい一門網(家中に敵と血縁持ちとかザラ)に構わず拡大路線を見せた政宗は「洞」秩序の挑戦者だったし、「一家」・「一門」等の洞時代の主従関係の残滓は後々伊達騒動等にも尾を引く…
秀吉の奥州仕置は従属大名(独立してるけど独自外交は駄目含む)の整理っぽいよね津軽(大浦)が「うちは独立大名っす」を上方に言い張ったりしてるし
津軽為信は何故髭そのまま肖像画を描いたのか。それは三国志の劉備義兄弟の関羽に憧れていたそうです。秋田は、後に独眼龍のライバル佐竹氏が転封処分にやって来ます。独眼龍がもし早く秀吉会談すれば領地没収しなくて済んだけどなぁ。
冷静に見ると、伊達政宗はピンチの時はめちゃくちゃ強運だが、基本的な拡大路線は裏目に出て失敗する人間だな...。それ以外で領地を確保に成功した大名は南部と津軽と最上ぐらいかな...?それ以外は領地保持に成功した感じ?
ありがとうございました。正直、東北地方ってイマイチ歴史も地理もよく分かっていなかったのですが、なぜ?津軽と南部が仲が悪いのかよく分かりました(最初、津軽と南部もよく場所が分かりませんでした)。堀氏って全く知りませんでしたが、酒田の辺りなのでしょうか?
伊達政宗て、武田信玄の孫と同い年ですからね。
単純な支配地域を1色で塗った図では戦国大名の領域支配の実力を把握することは困難です。とりわけ南部氏においては分治を担う一門格の独立的な傾向が強く、有力な石川・九戸氏は直系断絶後に後継者をそれぞれ擁立し、石川(南部)信直が南部当主となりますが、政治的な混乱は収束せず、後継者擁立の過程で対立した他の一門格や国人領主との散発的な内乱(ただし晴政時代にもあった)に発展しました。豊臣政権による九戸氏討伐はこの混乱の延長上にあり、津軽(大浦)氏は唯一大名として独立することに成功した例です。ぜひ北東北の戦国沼へ!
津軽家については、石田三成が好きな人は知ってるかもしれんな関ケ原後に三成の息子、娘を連れて帰ったり、為信の息子は正室が家康の娘、側室が三成の娘だったり本領安堵の恩もあってか弘前城にあった祠に秀吉の像があったりなかなか面白いぞ
弘前市民です🙋私の母校の歴代塾長(校長)に石田三成の子孫がいます
幕末の悲劇ばかり強く強調されて戦国以前の時代は無視される 結局娯楽性とスターが欲しいんだな
相馬と磐城は屈服してないな
九戸政実…
津軽為信は豊臣秀吉、徳川家康に取り入って南部からの独立を認めさせ、家康の養女を息子の嫁に迎え徳川家の遠戚になり弘前城建造の支援、落雷焼失の時は「辰巳櫓の再建」名目で天守再建を認めてもらった。
最上家、伊達家と江戸からそう遠くないところに強力な勢力が2つ出来たのは徳川家にとっては目の上のたんこぶだったんだろう。ブラタモリで紹介されていたが、最上家の山形城は日本で5番目に大きい城だったそうな。そんな最上家がお家騒動をやらかしてくれたことに乗じて取り潰して北の憂いを取り払ったんだろう。
佐竹の事について触れていませんよ?
いうても関東、東北は基本的に相手を服従させて終わりだし近畿、九州みたいな完全に相手を滅ぼすほどの戦いは無かった
九州もいうて滅んでるわけではないけどもねぇ(大内と少弐は滅んだけど大友や龍造寺、有馬、秋月等なんだかんだ九州征伐後もちらほら生き残るし伊東も大名家として復活)
九州も滅ぼしてない定期
派手な見た目のわりにやることが毎回せこい伊達政宗くん
上杉と最上は慶長出羽合戦の前から庄内で激しく対立し、庄内の大宝寺氏に養子を送り込んだ本庄繁長が庄内を制圧し山形城近くの東根まで攻め込みました。結果秀吉の裁定で庄内は上杉の支配が認められました。
津軽と八戸が今だに仲悪いし青森はその両方から「ぽっと出」扱いされてる
青森は城下町ありきの新興外港都市が発展したものですしねえ。
重箱の隅をつつくコメント欄って感じですね
改めて見ると伊達政宗ってDQNなんだよな。でも上手く綱渡りしてる。
伊達稙宗とかいう戦国チート爺東北代表
東北ぐるっと回ってみると、あんな辺鄙な所になぜ城が……って言う所は大抵「独眼竜が落とせなかった!難攻不落!!」って言う事を売りにしていたりする。馬と人足だけでやり過ぎだろ……
伊達は山の向こうで観ていただけ。
本当に10年政宗が早く産まれてたら天下争えたかどうか…。
祖父が相馬の出身です。相馬氏は伊達政宗でも屈服させられなかった大名ですね。昔から「わが相馬は伊達勢に屈しなかった兵(つわもの)だ!」と相馬野馬追いに騎馬兵として参加していた祖父から祭りのたびに聞かされたものです。図書館に当時の歴史資料あって図書館の方からもお話しを伺いましたし、郷土資料館で学芸員or職員の方にもその話しを熱く語られましたね。相馬は伊達兵の侵攻を許した事がない、というのが相馬のアイデンティティみたいなところあります。
下越後のそれも揚北(羽越)を東北枠にしてるのは素晴らしい。
秋田(安東)氏の空気感がすごいなぁとても渡島半島まで支配していた家とは思えんくらい話題が無い。
南部と津軽の対立は戦国時代以降も゙続く、それが今は青森県まとめられているのも興味深い。
是非、九州版もお願い致します。
相馬氏
「俺らは屈服されてないぞ」
領土の色分けが滅茶苦茶わかりやすくて凄すぎです
斯波と畠山って全盛期はイケイケだったのにな。
伊達種宗の長男は晴宗じゃなくて
岩城親隆だった気がします 2:12
相馬は唯一制服されなかった大名じゃ
だんだん都道府県の形になっていくのが面白い
会津の人々からしたら大変な目にあってるよな。幕末しかりでなぜ歴史の大舞台に憂き目に合わねばならんのか。
会津の人達は大変良き人が多い。みんなで会津の人々に敬意を持って守っていこうではないか。
口調が魔理沙と霊夢、逆な気がする…
確かこのころの関東は氏政が率いて里見との長年の敵対関係を終わらせて同盟関係になってたんだっけか?古河公方のせいとはいえ東北地方の諸大名に何度かかき回されてた時もあったからな特に蘆名とか佐竹とかな
あれ、関ケ原のあとで佐竹が秋田に転封になってなかったっけ…
15代は晴宗で16代が輝宗では?
100万石の約束のやつは上杉領を切り取ったらその分を与えるという約束のことで切り取り次第では100万石もありゆるというだけで、別に東軍につけば無条件で100万石になるわけではなかった。そういう意味では南部領での一揆扇動は関係ない
安藤氏が安東氏では⁉️
九戸「納得いかねえ」
九戸氏の子孫は津軽にいます
上杉景勝の転封で海に面しているのが庄内だけは辛いな。
せめて岩船と新潟などの下越は欲しかった。
相馬は屈服してないけど、、、
相馬屈服してない
信長の野望シリーズだと、為信スタートは最難関レベルなんだよなぁ。
野望ではかなり評価されてるけどマイナーな大名という。
地元のラジオで津軽為信のピックアップ番組、卍の城の物語では津軽平定後、色々な一揆や裏切り、南部氏との対立や政治判断など詳しく語られていて面白かった。
20年以上前に転勤で弘前に住んでいた頃に毎日営業車で聴いてたよ。
『お耳がピン♪』のRABラジオだよね。
大相撲をより面白く観る方法とか、米長邦雄・人生爽やか流も聴いてた。
月曜ラジオバザールには、良く電話で出演する投稿職人だったよ。懐かしいなぁ。
由利地方は大名不在で豪族しか居なかったのね、全国でも珍しい地域ですね。
地図に色分けだけじゃなくて、どこの領地かも書いておいてほしいです
伊達家も中央で「国衆」扱いの史料もあったりなのに奥州探題まで家の格が跳ね上がるという家格秩序の崩壊が感じ取れる事件もあったり…(足利一門の大崎氏涙目)
各々が律令時代から根付いてきた武士団を保有してるから一門に組み込む待遇で惣領としての優位性固めたりその武士団を丸々囲うことが求められたし、そんな中まだるっこしい一門網(家中に敵と血縁持ちとかザラ)に構わず拡大路線を見せた政宗は「洞」秩序の挑戦者だったし、「一家」・「一門」等の洞時代の主従関係の残滓は後々伊達騒動等にも尾を引く…
秀吉の奥州仕置は従属大名(独立してるけど独自外交は駄目含む)の整理っぽいよね
津軽(大浦)が「うちは独立大名っす」を上方に言い張ったりしてるし
津軽為信は何故髭そのまま肖像画を描いたのか。それは三国志の劉備義兄弟の関羽に憧れていたそうです。
秋田は、後に独眼龍のライバル佐竹氏が転封処分にやって来ます。独眼龍がもし早く秀吉会談すれば領地没収しなくて済んだけどなぁ。
冷静に見ると、伊達政宗はピンチの時はめちゃくちゃ強運だが、基本的な拡大路線は裏目に出て失敗する人間だな...。それ以外で領地を確保に成功した大名は南部と津軽と最上ぐらいかな...?それ以外は領地保持に成功した感じ?
ありがとうございました。正直、東北地方ってイマイチ歴史も地理もよく分かっていなかったのですが、なぜ?津軽と南部が仲が悪いのかよく分かりました(最初、津軽と南部もよく場所が分かりませんでした)。堀氏って全く知りませんでしたが、酒田の辺りなのでしょうか?
伊達政宗て、武田信玄の孫と同い年ですからね。
単純な支配地域を1色で塗った図では戦国大名の領域支配の実力を把握することは困難です。
とりわけ南部氏においては分治を担う一門格の独立的な傾向が強く、有力な石川・九戸氏は直系断絶後に後継者をそれぞれ擁立し、石川(南部)信直が南部当主となりますが、政治的な混乱は収束せず、後継者擁立の過程で対立した他の一門格や国人領主との散発的な内乱(ただし晴政時代にもあった)に発展しました。豊臣政権による九戸氏討伐はこの混乱の延長上にあり、津軽(大浦)氏は唯一大名として独立することに成功した例です。
ぜひ北東北の戦国沼へ!
津軽家については、石田三成が好きな人は知ってるかもしれんな
関ケ原後に三成の息子、娘を連れて帰ったり、為信の息子は正室が家康の娘、側室が三成の娘だったり
本領安堵の恩もあってか弘前城にあった祠に秀吉の像があったりなかなか面白いぞ
弘前市民です🙋
私の母校の歴代塾長(校長)に石田三成の子孫がいます
幕末の悲劇ばかり強く強調されて戦国以前の時代は無視される 結局娯楽性とスターが欲しいんだな
相馬と磐城は屈服してないな
九戸政実…
津軽為信は豊臣秀吉、徳川家康に取り入って南部からの独立を認めさせ、家康の養女を息子の嫁に迎え徳川家の遠戚になり弘前城建造の支援、落雷焼失の時は「辰巳櫓の再建」名目で天守再建を認めてもらった。
最上家、伊達家と江戸からそう遠くないところに強力な勢力が2つ出来たのは徳川家にとっては目の上のたんこぶだったんだろう。
ブラタモリで紹介されていたが、最上家の山形城は日本で5番目に大きい城だったそうな。
そんな最上家がお家騒動をやらかしてくれたことに乗じて取り潰して北の憂いを取り払ったんだろう。
佐竹の事について触れていませんよ?
いうても関東、東北は基本的に相手を服従させて終わりだし
近畿、九州みたいな完全に相手を滅ぼすほどの戦いは無かった
九州もいうて滅んでるわけではないけどもねぇ(大内と少弐は滅んだけど大友や龍造寺、有馬、秋月等なんだかんだ九州征伐後もちらほら生き残るし伊東も大名家として復活)
九州も滅ぼしてない定期
派手な見た目のわりにやることが毎回せこい伊達政宗くん
上杉と最上は慶長出羽合戦の前から庄内で激しく対立し、庄内の大宝寺氏に養子を送り込んだ本庄繁長が庄内を制圧し山形城近くの東根まで攻め込みました。結果秀吉の裁定で庄内は上杉の支配が認められました。
津軽と八戸が今だに仲悪いし青森はその両方から「ぽっと出」扱いされてる
青森は城下町ありきの新興外港都市が発展したものですしねえ。
重箱の隅をつつくコメント欄って感じですね
改めて見ると伊達政宗ってDQNなんだよな。
でも上手く綱渡りしてる。
伊達稙宗とかいう戦国チート爺東北代表
東北ぐるっと回ってみると、あんな辺鄙な所になぜ城が……って言う所は大抵「独眼竜が落とせなかった!難攻不落!!」って言う事を売りにしていたりする。
馬と人足だけでやり過ぎだろ……
伊達は山の向こうで観ていただけ。
本当に10年政宗が早く産まれてたら天下争えたかどうか…。