秀吉と景勝の実際の関係性を考察する

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  • Опубліковано 1 сер 2024
  • 今回の歴史の細道は、『秀吉と景勝の実際の関係性を考察する』について紹介していこうと思います。
    ~目次~
    0:00 オープニング
    1:08 秀吉と景勝の臣従までの関係性
    3:20 信頼というよりも贔屓にしていた
    5:39 いうほど贔屓ではないとの説
    8:30 景勝よりも直江兼続を気に入っていた説
    10:28 まとめ
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    ナレーション:真加藤沙織
    脚本・監修:歴史の細道
    #歴史の細道
  • Розваги

КОМЕНТАРІ • 45

  • @user-takeda.nobushige.
    @user-takeda.nobushige. 2 роки тому +17

    名のある大名で真っ先に臣従ですから、他大名への影響含め悪い気はしない。御館時の当家への接触同様に多分景勝ではなく兼続の助言で秀吉へ臣従を選択したのでしょう。会津転封は上杉には迷惑だったでしょうけど。

  • @kurita1201
    @kurita1201 Рік тому +3

    上杉景勝は、"自分に正直"に生きたと思います。何だかんだいって世渡り上手だと思います。秀吉、利家死後、家康に理不尽な要求?を突きつけられ前田利長は屈服したんですが、上杉景勝は、屈服しませんでした。理不尽な事を突きつけられ、頭を下げたくない景勝の気持ちは分かります。

  • @user-th8bi9ib8s
    @user-th8bi9ib8s 2 роки тому +9

    秀吉のお気に入りの武将といえば
    小早川隆景、直江兼続、立花宗茂、本多忠勝・・・。
    秀吉ならではの深謀遠慮があったのでしょうね。

    • @user-kq4sd3jh2b
      @user-kq4sd3jh2b 2 роки тому +1

      島津の伊集院、伊達の片倉と、 大大名の重臣にちょっかいを出して家中を疑心暗鬼にさせて結束を阻害する…。

  • @user-cd4bx6lo8e
    @user-cd4bx6lo8e 2 роки тому +3

    いろいろ説がありますが、豊臣天下の大きな力となったのは確かですね。だからこそ、豊臣の傲りを削っていきたい家康が上杉に対してプレッシャーかけたのは当然です。ありがとうございました!

  • @daioh_gtonburi9204
    @daioh_gtonburi9204 2 роки тому +5

    秀吉の場合、"お気に入りだから" ・・・ と言うのは有りそうだなぁ・・・・・・

  • @user-ue5tc3mo1w
    @user-ue5tc3mo1w Рік тому +1

    豊臣秀吉に最も先に臣従したのは、上杉景勝ということだが、小早川隆景が、いるんじゃないかな?
    さおりさん、今回も、美しいよ!!

    • @user-or4lk1bx9k
      @user-or4lk1bx9k 9 місяців тому

      仰っしゃる通り。しかも、講和の時に毛利の旗印を渡してますからね。明智は、秀吉軍の中に、毛利の旗印があるのを見て、毛利まで秀吉に付いたかと、愕然として指揮が弱まったと聞いています。

  • @user-do4yq2zz8n
    @user-do4yq2zz8n 2 роки тому +3

    農民の出である秀吉には、宿老がいない。
    名門、上杉家の臣従はありがたかったはず。
    上杉家にとっても、家存亡の危機に間接的であっても助けてくれた恩人は秀吉であって恩義を忘れない家柄です。
    関ヶ原まで、その関係性は続いています。

  • @shivt3014
    @shivt3014 2 роки тому +3

    こういうガチの歴史好きしか食いつかないような動画好き
    景勝は一番好きな大名でよく資料や本漁ってるけど動画の通り上杉家は家中の団結力も強く秀吉にとって軍事的に利用価値が高かったことに加えある程度の信頼関係もあったと個人的には思う ただ兼続がどうたらこうたらってのは違うと思う あくまで秀吉が好きもしくは利用したかったのは上杉家という軍団そのものだと思います

    • @user-or4lk1bx9k
      @user-or4lk1bx9k 9 місяців тому

      その通りです。戦国時代という騙し合いや、勝てば官軍みたいな時代に、損得で動かない義の軍団。他にそんな大名いませんからね。前田慶次を見ても良く分かります。

  • @user-qo4dm4zl4x
    @user-qo4dm4zl4x 2 роки тому +6

    天正壬午の乱後に徳川と北条は和睦する
    小牧・長久手の戦いでは秀吉の命で景勝は北条牽制のために信濃出兵している
    更に第一次上田合戦では真田の後詰めをしている
    上杉と徳川の関係が悪いことが秀吉が景勝を重用する決め手になったと思う

    • @user-or4lk1bx9k
      @user-or4lk1bx9k 9 місяців тому

      その考えもありますね。ただ、秀吉が1番恐れたのは、柴田勝家じゃないですか?上杉も、柴田勝家とは、2度戦ってますし、秀吉が天下を取る為には織田の宿老での地位が欲しかった訳ですから。上杉としても、手取川で快勝し、魚津城を攻め落とされたまま、黙ってるつもりも無いでしょうから。この当時は、家康なんて、織田の与力大名ですからね。

  • @gigaton2
    @gigaton2 2 роки тому +2

    敵の敵が味方になった、ってだけのような気も…

  • @user-ys2hj8qo5f
    @user-ys2hj8qo5f Рік тому +1

    不思議なのは当時上杉に従ってた真田家と真田領が、この時上杉家臣として登録されず独立化してるんだよな。徳川を抑え込む大事な時期に。
    だから単純に臣従が早かっただけではなくどこかの時期に秀吉に信頼されるきっかけがあったとは思う。

    • @user-or4lk1bx9k
      @user-or4lk1bx9k 9 місяців тому

      上杉景勝公と武田勝頼公は、同盟関係にあり、真田昌幸は天正壬午の乱の時にも、上杉謙信公より義を重んじる上杉は攻めて来ない、と言ってますからね。更に、上杉景勝公の正室は勝頼公の妹という事から、旧武田の家臣の領地を奪う事も無いと考えていましたからじゃないですかね?第一次上田合戦の時も、春日山城に泊まらせてますし、その時に真田昌幸は、幸村を人質として春日山城にと言いますが、それも断っていますからね。この時の事を、真田昌幸は一生忘れないと幸村に証してます。後の、会津征伐の時に、真田昌幸は西軍では無く、上杉に付いたんでしょうね。

  • @user-ke3em6bb2z
    @user-ke3em6bb2z 2 роки тому +6

    景勝の腹心の兼続と三成が、
    親密なのでその線で、
    上杉と豊臣は良好な一因だったのかも
    知れませんね。

  • @fieldl4783
    @fieldl4783 2 роки тому +4

    佐渡は佐渡本間氏が統治していて、景勝の頃最上、蘆名と連携して上杉にちょっかいだし初めたことから上杉が、秀吉に願い出て佐渡に討伐したってのが流れで。
    本間家が金山銀山の採掘はしていたって書類もないって話だし、実際には徳川時代になってから採掘されたって話もあるしで…佐渡の採掘を上杉がしてたって話も弱いみたいなんですけどこの辺は秀吉が単に佐渡で金銀が採れるのを知らなかっただけな気もする。

  • @user-vn9qj5qx7t
    @user-vn9qj5qx7t 2 роки тому +4

    案内人のさおりさん。好き

  • @atusinoda4602
    @atusinoda4602 2 роки тому

    南冲尋定(なんちゅうえろさだ)の人というイメージ

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk 2 роки тому

    景勝は謙信の甥(姉の子)でもありますな。

  • @bbbaaa7663
    @bbbaaa7663 2 роки тому +2

    本能寺の変が無かったら上杉景勝は間違いなく滅亡していた。羽柴秀吉のおかげで越後の領地を全て回復して、会津120万石という大大名になれたんだから、上杉にとって秀吉への臣従はメリットだらけだったんじゃないかな?

    • @abcdefgghcnok
      @abcdefgghcnok 2 роки тому +5

      会津への移封はむしろマイナスでしょ。
      越後もまだ攻められて無かったし

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 2 роки тому +3

    というか景勝側も秀吉死後は政権業務投げるしなぁ…秀吉の力ありきの関係だったのでは?

    • @user-dg5kx3gd5p
      @user-dg5kx3gd5p 2 роки тому +1

      政権業務は別に放棄したわけではありませんよ。景勝は領国が移ってまもないゆえ、3年間は在国して両国経営に専念してよいという秀吉からの許しがあったみたいですよ。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 2 роки тому

      @@user-dg5kx3gd5p 政権内大大名なのに越後で騒動起こしちゃってるし大々的に浪人は集めるしはどうなんでしょう?

    • @user-dg5kx3gd5p
      @user-dg5kx3gd5p 2 роки тому

      @@matukawatositane え、それが今回の政権業務の放棄と関係あるんですか?

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 2 роки тому

      @@user-dg5kx3gd5p 浪人集めて国内整備をして政権首班の家康とは強調しないって話です
      分かりづらくて申し訳ない

    • @user-dg5kx3gd5p
      @user-dg5kx3gd5p 2 роки тому +2

      @@matukawatositane いやいや全然!こちらこそ理解力なくて申し訳ないです…こうやって平和に話が出来て嬉しいです
      石高が多少ならともかく、大幅に上がってる場合は、浪人を雇う事自体は他の大名家でもやっている事なので(例にあげるなら木村家や徳川家)上杉家が会津に移ってから石高が90万石前後から120万石に上がっているので、30万石も増えたらそれなり人員を増やす事は不自然な点ではないと思いますし、兵糧の件も移り先の領主だった蒲生家も持ち去っているみたいですし。
      家康からの上洛要求自体は上杉家としても上洛する意向は示してますよ!それに領国の仕置については、家康は同意を示す文書が残っていますし、神指城についても家康だけではなく秀忠とも連絡をとりあっていますよ。

  • @user-le7px1ot4c
    @user-le7px1ot4c 2 роки тому

    秀吉は兼続と同じタイプの臣下である石田三成の事を気に入っていましたから、兼続の事を気に入って入れ込んでいたのは確かですね。
    逆に景勝の方は、秀吉からしてみれば兼続を豊臣側へ少しでもつなぎとめる為の「手段」でしかなかったのでしょうが、大坂の陣ではその兼続が積極的に大阪城への攻撃を行う事になったのは、何とも皮肉でしょうね。
    しかもその功績を褒める感状を家康からもらった際は、関係の悪くなった同僚達に皮肉られる程兼続は喜んでいたそうですし、兼続からしてみれば三成のいなくなった豊臣に未練は無かったのでしょうかね。

  • @user-xm6kb4pz2p
    @user-xm6kb4pz2p 2 роки тому +1

    こんばんはです。

  • @phoenityan
    @phoenityan 2 роки тому +1

    地政学上、景勝を軽視できるわけありませんね
    北陸・関東の裏から睨めて東北からのストッパーもできるんだから強くしとかないとw

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk 2 роки тому

    御館は北条景虎のことなので、こっちが反乱を起こしたことになってますな。負けたからしょうがないのか。

  • @MR-ek7km
    @MR-ek7km 2 роки тому +6

    本能寺の変無かったら上杉、毛利、島津滅亡してたと思う。
    上杉と毛利は五大老になったのに島津なれなかったの謎。

    • @abcdefgghcnok
      @abcdefgghcnok 2 роки тому +5

      どうして島津が五大老になれると思いますか?

    • @user-ef1ds9fw5y
      @user-ef1ds9fw5y 2 роки тому +3

      九州で五大老になる可能性があったとすれば大友家なのでは。敗軍の島津は論外

    • @user-dg5kx3gd5p
      @user-dg5kx3gd5p 2 роки тому +4

      島津は無理だと思いますよ。
      堀越祐一氏や矢部健太郎氏の研究にもありますが、豊臣政権の特長に豊臣期武家官位制(羽林諸大夫体制)に特長がありますが、その中でも島津と上杉景勝では官位の差が5つも離れていて(五大老選出前)公家成もしていなく、一方清華成を果たしてる上杉景勝、石高も島津家56万石前後で、上杉家が会津移封前で90万石前後で会津に移ってからは120万石ありますからその差もあります。
      なので官位と石高の差。それと実質当主の義久が豊臣政権に協力的ではなく、しかも朝鮮出兵中に明国と手を結んで謀反の噂まで立ちましたから。これでは五大老選出は難しいでしょう。

    • @user-oh8sb6qx5v
      @user-oh8sb6qx5v 2 роки тому +1

      島津は信長からの大友との和睦要請が
      来た時に信長を上様と認めた上で
      和睦に応じているので
      本能寺が無かった場合は滅亡は無い

    • @user-or4lk1bx9k
      @user-or4lk1bx9k 9 місяців тому

      ​@@user-oh8sb6qx5vその通り!信長を上様ですよね。その段階で、格式が違いすぎます。

  • @user-do4yq2zz8n
    @user-do4yq2zz8n 2 роки тому

    魚津城の騙し討ち。
    柴田勝家や佐々成政と手を組むなど、
    景勝には考えられないこと。
    秀吉に臣従するのは、景勝側の必然。
    会津転付については、蒲生氏郷が
    早世した為であって上杉家にとって
    不運の始まりでしたね。

  • @user-bb7qt3co4r
    @user-bb7qt3co4r 2 роки тому +1

    しかし、上杉景勝の大老任命は一番遅く、会津転封も迷惑だと思います。東北には最上や伊達など徳川に繋がり深い大名ばかり。会津120万石とわいえ、領土は最上領を囲むこと。最上義光としては面白くないです。恐らく、秀吉は東北に信頼できるの大名は(蒲生の後)景勝だけ。しかし上杉家は年贡を無理矢理連れて会津へ。そのあと堀家からも報告されだ。恩賞とは思いませんね。
    五大老の中に前田は旧友、北陆の要。徳川官職や国高は一番上、も関東に任せた。毛利は西国平定の功績あり、宇喜多は養子。それに比べて上杉家は、

  • @user-qm9fp2kv6y
    @user-qm9fp2kv6y 2 роки тому +4

    さおりさんの顔、国宝。
    結婚したかった。。

  • @user-kp4mx9uw8j
    @user-kp4mx9uw8j 2 роки тому

    この話かなりおもしろかづた