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こんなレベルの低いコメントが多いとは中野さんも辛いね。広辞苑には「諸刃の剣」の項目に、「諸刃の刃(やいば)とも」と載せているよ。当然、「頭痛が痛い」ではないよ(笑)
コメントしようとしたら、諸刃の刃《やいば》を知らずに意気揚々と自爆している恥ずかしい人がいっぱいでびっくりした。
歴史で言うと普仏戦争を経てドイツが統一した流れが該当しそうだと思いました。バラバラだったドイツ内で一強だったプロイセンはドイツの内側から見れば脅威だけど、外敵との戦争を経て頼もしい存在に転換しました。
4か月前にUPされた中野信子×石津智大「なぜ人は美を必要とするのか」を拝見した者です。お二人のお話しを伺っていて「美」の認知って、もしかしたら脳機能や心に余裕のある人、キャパシティの豊富な人たちの持ち物的認知、特権のような気がしてきました。僕は一般人の凡人でありながら人のパーソナリティに、酷く興味を持ってしまい、人間観察は僕の「悪趣味」になってしまいました。動画のタイトル「美と倫理」。決して人間としては好ましくないと認知されている「悪意」。 僕の出会った人々、パーソナリティに問題があるなと感じた人たちの中で、最悪と思ったパーソナリティ障害は「自己愛」が最悪でした。個人的には脳機能の働きは勿論分かりませんが、どれも、心の根底には「劣等感」が強烈に抑圧されていると感じました。他人への攻撃的な「無意識の転移」はどのパーソナリティ障害にも見受けられましたが、自己愛パーソナリティ障害の人は「他人の不幸を、まるで餌のようにして、そこで生まれてしまったエネルギーは、既に悪の概念はひっくり返しに倒錯化されているために、悪い事、極めて他人を不快にしている。または自分の為だけに利用してしまっている自分に気付かないのですよね・・・。転勤によってシャレになっていない経験に遭遇しました。 善人ぶって他人の批判ばかりを繰り返してみても、攻撃的な凡人にすぎないので、カミングアウトすると、僕は過去に4回の大うつ病を患ってしまい、自分なりに原因究明に奔走した時期がありました。30才代は、ほぼそれに時間を費やしてしまいました。突き止めた原因は、自分が太宰治や尾崎豊がそうであったと推定されている境界性パーソナリティ障害であったが、得られた結論でした。そこには「嬉しい、哀しい」の感情の分からない自分、アレキシサイミアと言う現実だけが待っていました。幼児期に身に受ける事柄に措いて、無視されたり我慢の苦痛だけが強いられてしまった場合には感情が壊れてしまって失感情症になるしかないことを自己体験にて確信したような気がしました。 幸いにして30歳の頃かな、片思い恋によって「完全投影していた、新しいお母さんの奇跡的出現」によっての感情の回復。ジョン・ボウルビィの説くセキュアベースの獲得に成功した時には、こんな世界が存在するのか・・・とショックのあまり7年間、ほぼ言葉を失くすという僕なりの地獄を見ました。 僕個人的には劣等感を植え付けやすい、現状日本の競争教育が要因であり悪いと判断しています。順位を付けてしまう義務教育を受けていない国民は、殆どいませんから。(別の方法、提案など持ち合わせていません)。カール・グスタフ・ユングの主張のように巨悪の根源は無意識の中に抑圧されている「劣等感」だと思いますし、人間が生きていく為にプログラムされて備わったものだから、これがまた強烈に強固で、厄介なんだよな~。
中野さんと東浩紀さんは同じようなことに関心持ってる気がするから対談を見てみたいな
言葉は自身の鏡。一度良く自分の心を見つめ直して見ては。
大人しいカリス
グレン・グールドなんですが芸術家(本人はそう思ってない)でありながら美的判断をせずに作品を道徳的基準で価値判断するとしていました。驚くほど美しく清潔な音を出したりするので、美を扱いつつも距離を取るという珍しい人物だと思います。単純に生来の外見で人を判断するのは今流行りのルッキズム批判につながりますし、不道徳とも言えます。でも見た目を判断する能力が道徳心を生み出しているのは一見不思議ですね。思考が視覚的に美しくスッキリして清潔に見えるという事が道徳的という事なのでしょうか?悪とされる軍国主義も清潔といえば清潔ですし、禍々しい蛾にも美しさを感じる。美は本質的に善でも悪でもないのでしょう。
それこそ道徳的価値観の帰属する集団や個体の差でもあるのではないでしょうか。動画であった内集団と外集団の話から、全ての人が同じ「美」や道徳を共有はしていないですよね。それは”わたし”対”わたし以外”にも言えることで、グレン・グールドにとっての道徳的規準は”わたし”ではなく、広く”わたし以外”の道徳を含んでいたことから、大衆に評価される美を追求できたのではないかなと思いました。”わたし”=個が帰属する内集団 が、どこまでの範囲なのか。あと、個の精神状態にもよると思います。例えば心が傷ついていたり、忙しい状態では、思考の焦点が内側に傾き視野が狭まっているため、外の世界に新な美を発見することが難しい。ただ、ユーミンがいうように、「やさしさに包まれたならきっと 目にうつる全てのことはメッセージ」と捉えられる認知状態にもなれます。経験背景や心的状態と美と倫理も、深く繋がりがあると思いました。
@@NoobNoob-e4n そうですね。グールドは特定宗教を熱心に信仰してませんしアジア人に敬意を抱いてもいたので広い道徳的意識を持っていたでしょう。一方で家庭を持つ夫人に恋愛感情を持ち一家と同居するに至り、生来の攻撃的性格を抑制つつ道徳的に生きる事を課していたのかもしれません。自分のペースで仕事をし続けたのも精神的余裕、思索する時間を必要としていたから。特に表面だけの美しさ、構造的合理性に欠ける美しさ(を持つ音楽)に対して不道徳と言う判断を下していると思われます。その時代に生きる個人や集団毎の合理的判断が美・道徳の関係に強く影響しているのかもしれません。
信子、マジで美人。
諸刃の剣
「美」って言ってもいろんな深さがある気がするんだけど、、、例えば、「腑に落ちる」とか「Gut feeling」みたいなドス~ンとくるものと、印象的に親和性が強いものと、腑にも落ちないけどなぜか自然に導かれてしまうようなものと、いろんなレベルの体験全部が、前頭葉の特化した部位で処理されていると言っていいのかなあ?とも思います。イワシの大群が群れを成して、捕食者から自分たちを守るために一つの形を作り上げるように、意識していないけど集団の中で行動するように仕向けれれている一匹のイワシにとっては(笑)、「美」とまで言わなくても下位の機能として、生存の為の親和性の高いものに導かれる機能があると考えると、脳機能としてとらえることが、もっと局在のない(または、未知の)機能を見る視点があってもいいかなあ?MRIなんかで見る脳の活動は、脳を「現実の象徴」(悪く言うと「現実の(仮想)劣化コピー」的なもの)を拾い出す(抽出する?)部位の変化のを見ているだけ?ただの現象。とも取れないですか?「美」を既成事実(結果)としてみるのは、芸術家の私にとっては少し抵抗はあります。「美」は潜在的に自分の中にあって、その美に触れたい(自分の現実に触れたい!)っていうのが、芸術家だったり、様々な分野で取り組む人間の活動の中で経験も含めてプロセスの中で明らかにされる部分もあるのに、「ここ」がそれやってる!って取り扱われるのは悔しい!笑(そういう単純明快に説明されるのが怖いだけかもしれないけど、、、笑)
長々と書き込んでご苦労さん
”親和性が強いもの”や”腑に落ちる”感覚というのは恐らく、経験や社会背景などから、個人の経験に沿った感覚や思想が肯定されたとき。そして、その時点では何か分からないけれど惹かれるもの="自然に導かれるもの”は、個人の感性的なところで共鳴するもの、それこそ”潜在的”なものの共鳴と思います。そしてその感性的なところを言語化する見識者が評論家で、彼らが芸術を言葉に通訳してくれることで、世界に認知が広がることもあるのだろうと思います。前頭前皮質は言葉にする以前の感覚的部分・情動に反応してくれていて、で、そこから言語処理を行ってくれているのも、他の表現をしてくれているのも、脳です。だから脳って面白い!と、私は思います。
諸刃の刃!
おーい誰か諸刃の剣って教えてやってくれw
諸刃の剣www両刃の刃って、頭痛が痛いやつじゃないですか。
こんなレベルの低いコメントが多いとは中野さんも辛いね。
広辞苑には「諸刃の剣」の項目に、「諸刃の刃(やいば)とも」と載せているよ。当然、「頭痛が痛い」ではないよ(笑)
コメントしようとしたら、諸刃の刃《やいば》を知らずに意気揚々と自爆している恥ずかしい人がいっぱいでびっくりした。
歴史で言うと普仏戦争を経てドイツが統一した流れが該当しそうだと思いました。バラバラだったドイツ内で一強だったプロイセンはドイツの内側から見れば脅威だけど、外敵との戦争を経て頼もしい存在に転換しました。
4か月前にUPされた中野信子×石津智大「なぜ人は美を必要とするのか」を拝見した者です。お二人のお話しを伺っていて「美」の認知って、もしかしたら脳機能や心に余裕のある人、キャパシティの豊富な人たちの持ち物的認知、特権のような気がしてきました。僕は一般人の凡人でありながら人のパーソナリティに、酷く興味を持ってしまい、人間観察は僕の「悪趣味」になってしまいました。動画のタイトル「美と倫理」。決して人間としては好ましくないと認知されている「悪意」。
僕の出会った人々、パーソナリティに問題があるなと感じた人たちの中で、最悪と思ったパーソナリティ障害は「自己愛」が最悪でした。個人的には脳機能の働きは勿論分かりませんが、どれも、心の根底には「劣等感」が強烈に抑圧されていると感じました。他人への攻撃的な「無意識の転移」はどのパーソナリティ障害にも見受けられましたが、自己愛パーソナリティ障害の人は「他人の不幸を、まるで餌のようにして、そこで生まれてしまったエネルギーは、既に悪の概念はひっくり返しに倒錯化されているために、悪い事、極めて他人を不快にしている。または自分の為だけに利用してしまっている自分に気付かないのですよね・・・。転勤によってシャレになっていない経験に遭遇しました。
善人ぶって他人の批判ばかりを繰り返してみても、攻撃的な凡人にすぎないので、カミングアウトすると、僕は過去に4回の大うつ病を患ってしまい、自分なりに原因究明に奔走した時期がありました。30才代は、ほぼそれに時間を費やしてしまいました。突き止めた原因は、自分が太宰治や尾崎豊がそうであったと推定されている境界性パーソナリティ障害であったが、得られた結論でした。そこには「嬉しい、哀しい」の感情の分からない自分、アレキシサイミアと言う現実だけが待っていました。幼児期に身に受ける事柄に措いて、無視されたり我慢の苦痛だけが強いられてしまった場合には感情が壊れてしまって失感情症になるしかないことを自己体験にて確信したような気がしました。
幸いにして30歳の頃かな、片思い恋によって「完全投影していた、新しいお母さんの奇跡的出現」によっての感情の回復。ジョン・ボウルビィの説くセキュアベースの獲得に成功した時には、こんな世界が存在するのか・・・とショックのあまり7年間、ほぼ言葉を失くすという僕なりの地獄を見ました。
僕個人的には劣等感を植え付けやすい、現状日本の競争教育が要因であり悪いと判断しています。順位を付けてしまう義務教育を受けていない国民は、殆どいませんから。(別の方法、提案など持ち合わせていません)。カール・グスタフ・ユングの主張のように巨悪の根源は無意識の中に抑圧されている「劣等感」だと思いますし、人間が生きていく為にプログラムされて備わったものだから、これがまた強烈に強固で、厄介なんだよな~。
中野さんと東浩紀さんは同じようなことに関心持ってる気がするから対談を見てみたいな
言葉は自身の鏡。一度良く自分の心を見つめ直して見ては。
大人しいカリス
グレン・グールドなんですが芸術家(本人はそう思ってない)でありながら美的判断をせずに作品を道徳的基準で価値判断するとしていました。驚くほど美しく清潔な音を出したりするので、美を扱いつつも距離を取るという珍しい人物だと思います。単純に生来の外見で人を判断するのは今流行りのルッキズム批判につながりますし、不道徳とも言えます。でも見た目を判断する能力が道徳心を生み出しているのは一見不思議ですね。思考が視覚的に美しくスッキリして清潔に見えるという事が道徳的という事なのでしょうか?悪とされる軍国主義も清潔といえば清潔ですし、禍々しい蛾にも美しさを感じる。美は本質的に善でも悪でもないのでしょう。
それこそ道徳的価値観の帰属する集団や個体の差でもあるのではないでしょうか。動画であった内集団と外集団の話から、全ての人が同じ「美」や道徳を共有はしていないですよね。それは”わたし”対”わたし以外”にも言えることで、グレン・グールドにとっての道徳的規準は”わたし”ではなく、広く”わたし以外”の道徳を含んでいたことから、大衆に評価される美を追求できたのではないかなと思いました。
”わたし”=個が帰属する内集団 が、どこまでの範囲なのか。
あと、個の精神状態にもよると思います。例えば心が傷ついていたり、忙しい状態では、思考の焦点が内側に傾き視野が狭まっているため、外の世界に新な美を発見することが難しい。
ただ、ユーミンがいうように、「やさしさに包まれたならきっと 目にうつる全てのことはメッセージ」と捉えられる認知状態にもなれます。
経験背景や心的状態と美と倫理も、深く繋がりがあると思いました。
@@NoobNoob-e4n そうですね。グールドは特定宗教を熱心に信仰してませんしアジア人に敬意を抱いてもいたので広い道徳的意識を持っていたでしょう。一方で家庭を持つ夫人に恋愛感情を持ち一家と同居するに至り、生来の攻撃的性格を抑制つつ道徳的に生きる事を課していたのかもしれません。自分のペースで仕事をし続けたのも精神的余裕、思索する時間を必要としていたから。特に表面だけの美しさ、構造的合理性に欠ける美しさ(を持つ音楽)に対して不道徳と言う判断を下していると思われます。その時代に生きる個人や集団毎の合理的判断が美・道徳の関係に強く影響しているのかもしれません。
信子、マジで美人。
諸刃の剣
「美」って言ってもいろんな深さがある気がするんだけど、、、例えば、
「腑に落ちる」とか「Gut feeling」みたいなドス~ンとくるものと、
印象的に親和性が強いものと、
腑にも落ちないけどなぜか自然に導かれてしまうようなものと、
いろんなレベルの体験全部が、前頭葉の特化した部位で処理されていると言っていいのかなあ?とも思います。
イワシの大群が群れを成して、捕食者から自分たちを守るために一つの形を作り上げるように、意識していないけど集団の中で行動するように仕向けれれている一匹のイワシにとっては(笑)、「美」とまで言わなくても下位の機能として、生存の為の親和性の高いものに導かれる機能があると考えると、
脳機能としてとらえることが、もっと局在のない(または、未知の)機能を見る視点があってもいいかなあ?
MRIなんかで見る脳の活動は、脳を「現実の象徴」(悪く言うと「現実の(仮想)劣化コピー」的なもの)を拾い出す(抽出する?)部位の変化のを見ているだけ?ただの現象。とも取れないですか?
「美」を既成事実(結果)としてみるのは、芸術家の私にとっては少し抵抗はあります。「美」は潜在的に自分の中にあって、その美に触れたい(自分の現実に触れたい!)っていうのが、芸術家だったり、様々な分野で取り組む人間の活動の中で経験も含めてプロセスの中で明らかにされる部分もあるのに、「ここ」がそれやってる!って取り扱われるのは悔しい!笑
(そういう単純明快に説明されるのが怖いだけかもしれないけど、、、笑)
長々と書き込んでご苦労さん
”親和性が強いもの”や”腑に落ちる”感覚というのは恐らく、経験や社会背景などから、個人の経験に沿った感覚や思想が肯定されたとき。そして、
その時点では何か分からないけれど惹かれるもの="自然に導かれるもの”は、個人の感性的なところで共鳴するもの、それこそ”潜在的”なものの共鳴と思います。
そしてその感性的なところを言語化する見識者が評論家で、彼らが芸術を言葉に通訳してくれることで、世界に認知が広がることもあるのだろうと思います。
前頭前皮質は言葉にする以前の感覚的部分・情動に反応してくれていて、で、そこから言語処理を行ってくれているのも、他の表現をしてくれているのも、脳です。だから脳って面白い!と、私は思います。
諸刃の刃!
おーい誰か諸刃の剣って
教えてやってくれw
諸刃の剣www
両刃の刃って、頭痛が痛いやつじゃないですか。