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私もメーカーサービスの経験がありまして、もう5年くらいあとのことになりますのでだいぶIC化が進んでましたが、補修用性能部品の最低保有年数が8年という通産省の指針がありましたので、この時代の製品もけっこう治しました。もちろんお客様宅で故障部品を特定して交換するのが基本でした。ですのでテスターだけでは限界があり、小型のオシロスコープは車に積んでました。それでも原因が特定できないとか、手持ちの部品がない、となると預かり修理になるわけですが、また届けに来る手間がかかるのでできれば避けたいわけです。モジュールごととか基板まるごと交換という形になっていったのは、空中配線がすっきりなくなった平成ごろからかと思います。昭和の基板はまだ高価で、交換したら製品買えるくらいの費用がかかりましたし。当時は毎日修理やってましたので、鼻が利くというか勘が鋭いというか原因特定は速かったですが、今は腕も錆び付きました。😅趣味レベルでいいやとか思っちゃってますし。
ええー サービスマンやられていたのですか 尊敬します。こどものころから 家電のサービスマンのお兄さんは憧れの的でした。みんなインテリぽくって、七三の横分けで黒い眼鏡人がなぜか多くて ポマードで黒光りの髪の毛 憧れました 制服もかっこよかったそうですか まだこのころはユニット基板じゃなかったんですねまあ ユニットになっていてもワイヤラッピングとか けっこう外すのに難儀しそうですね
あぁそうだ!紺色の制服着てましたそういえば。言われて思い出しました。ん~懐かしい。ありがとうございます!でも七三ではなく六四くらいでしたし髪は洗いざらしで黒ぶちメガネではなく銀縁でした。まだ若造でした。あーじじいになった今も白髪が増えて毛量は減ったけど特に変わってないや。😅でも愛機をピシッと治して、修理代をいただいて、感謝もしてもらえるという仕事はちょっと誇りを感じられる面はありました。😊
流石ですね。私はバイトで知識ないんで、社長について回ったりで言われるがまま作業してました。様々なお客様宅で故障も様々ですが、症状を見て原因を特定して直してしまう社長を間近で見てましたので、サービスマンさんの凄さが理解できます。自宅のビデオデッキの修理で松下から来ていただき交換してもらったプロアモヘッドは、見た目の綺麗さから今でも記念に持ってますwコメント欄にもお仲間さんが沢山居られて嬉しいですね。
そうそう、平成になってから工具かばんから半田ゴテやオイル差し(メカ部品も多かった)が消えドライバーの種類が増えトロックスなど星形レンチ等々の特殊工具に変わって行きました。
回転ヘッド考えた人、天才ですよね~!👍️確かにミクロンレベルで調整されたヘッドが高い真円度で削り出された光輝く軽量アルミドラムに取り付けられている様は美しいかも。
子供の頃故障したテレビを訪問修理で直してくれた近くの電気屋さんの活躍を見て。「俺も家電の修理屋さんになる!」なんてほざいていたのですが、その線に全く乗れず今は全く違った仕事です。今は少なくなったものの近くに電気屋さんがいてくれてますので、自分ではなかなかできないエアコンの付け替えなど大きなことでお世話になっています。いてくれてありがと。
わたしもTVサービスマン憧れて 勉強しましたが 数学だめで文系でした
昔の街の電気屋さん、結構技術力あったんですね。子供の頃、扱っている商品とは関係ない鉄道模型のパワーパックが壊れて、近所の日立チェーンストールに持っていったらちゃんと修理してくれました。セレン整流器が交換されて旧部品も渡してくれて、へー、こんな部品なんだと小学生ながら感心したものです。
いまでは考えられないですね 量販店なら絶対なしですね
昔、会社勤務していた頃、松下幸之助氏の弟子のかたによる3日研修センター缶詰状態のCS研修を受けさせて頂いたことがありました。早朝地域清掃が基本、人のお役に立って喜んでいただく事で生かし生かされる事を商売の心の基本に据えましょうという内容でした。きめ細かく修理店を展開して、アフターサービスを重視している松下スピリット時代の象徴的ケースですね(^^)
そうですね 結局メーカー系列で最後まで頑張っているのはパナソニックだけですね もう損得なしにやっている感じしますねパナソニックは
昔、親の知り合いが三菱のショップをやっていて、テレビの故障で修理に来てもらった時、こういうケースからテスターを出して計測して、トランジスタを交換してくれたのを思い出しましたなかなか面白かったです
こどものころは サービスマンは神様みたいでしたね
そうそうテレビのチャンネルつまみがなくて触ったら感電、ありましたね。😂親父の実家が富山にありまして、小5の時分、お盆に親族で能登半島の旅館に泊まりに行ったとき、食堂のテレビのつまみがなかったんです。やってた番組がつまらなくて誰も見てなかったので、こっそり回してやろうと触ったら、ズキン!!と来まして、しばらく肩から先が動かなくなり、それはそれは焦りました😰😰😰そのときはいたづらがバレると思って誰にも言えず、腕がなおるのか不安と戦いながら陰に隠れて15分くらい悶えてました。後日、中学生になって100Vに感電した😅感覚から考えると300Vくらいあったのかな、と思います。トランスレスはトラウマです。😅
感電ってこわいですよね 特に左右の手で感電するとまさに心臓を取っていく感じで・・・
心臓止まっちゃったらまずいですね😰意識が遠のきそうになったら、もう一度触ればAEDの代わりになるかも?😅😅
昔のテレビに良く トランスレスのため 点検調整時は感電に注意してくださいなんて書かれていませんでした???あと 初歩のラジオとかの広告で 入力100V 出力100V のトランスを見かけて 当時まだ子供だった私は???????何にこんなもん使うんだ?と思ってました
@@NTTWEST3 あー見ました初歩のラジオのトランス広告。私もトランジスタ世代なので意味がわかりませんでした。😅
1:1のトランスは当時感電対策出来ると言われて、部品屋さんで購入し未だに持ってますよ。
子供の頃すごく憧れました電気屋さんのアタッシュケース!自分はヤフオクで落札したIC・トランジスタの詰め合わせがケースに入ったのを持っていますがハンダが付いていたりピンが折れていたりで明らかに交換したパーツとわかるのが何個かあります
ケースにのこる古い交換済みのTrみるのもたのしみですね
懐かしい部品ですね私も高校卒業後まちの電気屋さんに就職しました。先輩に付いて色々勉強しましたね、真空管交換、トランジスタ交換です多かったのは、横一の症状電源入らず、その後基盤交換スルホール半田不良で再半田で治る、東芝の店でした。メーカーのサービス研修にも出ました。松下、東芝、エアコン取り付け、洗濯機の修理冷蔵庫の修理等々しました、東芝の修理の県大会に出た事があります、エアコンの取り付けの競争、テレビの修理、でしたね治らないのは預かり修理でメーカー依頼して修理、当時はCRTも交換しました、コンバジェンす、の調整鏡を見ながら調整しますね今はブロック毎に交換ですね、懐かしく思いました。
当時の修理技術ってすごいですよね この箱の中にいろいろ手書きのメモがありましたが びっくりする内容ですね まさに電子立国日本のサービスマンたちだったんですね
当時のTV故障で多かったのは、確かに半田不良の横一ですね。時々垂直IC不良も有りました。電源不良はSW電源を採用してからが多かったですね。それとCRT交換は私も良くやらされました。3電子ビームコンバーバーゼンス調整は、なかなかピッタリ合わなくて苦労した思い出が有ります。
先日洗濯機のフタがロックして開かなくなり量販店で聞いたら寿命ですとか言われ新品を勧められました。諦めきれず、街の電気やさんに相談してみたら10,000円で治りますと言われ電源基盤交換で治るそうです。お願いして安く直ったので冷蔵庫買い替えをお願いしました。
そうそう! 意外と修理ってやすくできることありますねわたしも洗濯機のモーター壊れて 普通に修理頼んだら 8千円くらいで やすくて驚きました
母方の実家が昭和45年当時までナショナル(panasonicでは無かった頃)の特約店でした。技術者も数人在籍していて子供心に修理技術のマジックに取りつかれたものでした。当然今回特集のジュラルミンケースも店に有り、祖父が廃業した時に私の宝箱となりました。とても懐かしい映像でした。その後大学在学中は秋葉原のラジオデパート3階のジャンク屋でアルバイトしたり、今は無き三洋電機で契約のサービスマンとして修理技術を習得しました。昔のパーツは見るだけで何に使われるものか分かりやすかったですよね!
わたしもぜひこのアルミとらんく レストアして宝箱にします
昔はTVをばらして部品取りにしました。2重軸ボリューム、スイッチ付ボリュームなど今では手に入らないものがあって、それを使っていろいろ作りました。この補修部品にはバーコード付きの新しいものも含まれていますね。TVやラジオには回路図が裏ブタなどに付属していましたし、アマチュア無線機でも説明書に書かれていたし、CQ誌にもとじ込み的にあったのでファイルしていました。今の時代は回路はブラックボックス化(サービスマニュアルにはあるのだろうけど)、ましてや修理はユニット単位になるのでしょう。昔は町の電気屋さんが修理、今はメーカーのサービス、時代も変わってきました。
そうですね もう最近の家電店の二代目なんて ほとんど修理なんてできないでしょうねこれじゃ 後継者もすくなくなりますね
懐かしい!70年代に家電修理をしていました。当時テレビはTRとICの複合回路でしたが年々集積化していったのを覚えています。金属パッケージのトランジスターは水平出力?でしょうかね。まだ市場に真空管のテレビも残っていたので、工具箱と別に真空管用のケースも持ち歩いていました。パナは販売店修理が中心なので修理がしやすいと聞いたことがあります。、、、アナログがデジタルになり、この半世紀の変化に驚くばかりです。
そうですね 70年代の真空管式のTVサービスマンの鞄という動画もありますので ぜひごらんください
昔の家具みたいなステレオやテレビの調子が悪くなったらバタコ(オート3輪)で部品交換や修理に来てくれましたね。 今はそんなサービス抜きで1エ円でも安くと通販でなんでも買う貧しい時代になったものです。 店に行くと奥さんが店番、息子さんが外回り、爺さんが店の奥でラジオの修理・・・昭和は豊かでした。
そうですね もう今はネットショッピングにほとんど変わってしまいましたね修理も しない時代・・・ まあクルマもモジュール交換ですね
楽しい動画でした😂今でもパナソニックショップを見ます。いい時代でした。😊人情に溢れた時代でした。
ほんと昭和のいい時代でしたね
昭和50年代前半だと小学生の私が自転車で動ける範囲で日立チェーンストール1件、三洋薔薇チェーン1件、東芝ストア1件がありました。皆さんお店をたたんだ後は立派な一戸建てに建て替えられてましたね。オットーとかオーレックスとかローディーとかオーディオのブランドの看板はカッコ良かったですね。
そういえば オーディオも家電系が強かったですね
あの頃はヤマハもあったし サンスイもトリオ(ケンウッド)もありましたねエコーが原始的な バネ式!
私は産業機械の工場勤務で、ラインや協力工場や市場返品のロジック基板の修理を何年かやってました。慣れてくると現象から交換部品が判るようになり流れ作業の様でした。市場返品の基板は、部品が劣化していたり、液体によるリーク、焼損、基板割れ等、判定が難しかったです。なつかしいなぁ~ スチロールコンは半田ごてで溶かしちゃったこともあるなぁ~(^^ゞ
そういえばスチコン けっこうはんだこて当たると 溶けましたね なつかしいです
1980年代に入ってもこんなしっかりしたサービスマニュアルが配布されていたという事が驚きΣ(・□・;)もうこの頃は現地修理なんてほとんどなく、故障したら家電量販店からメーカー送り返しがほとんどのような気がします。
そうですね 昭和50年代は もう家にTV修理やくるような時代ではなくなっていましたね。
町の電気屋が元気だったのは昭和だったように思います。バブルの頃から大型量販店が勢力を伸ばし今では大型量販店の時代かと・・・修理も昔はコンデンサーやトランジスタを交換して直してましたが今は基板ごと交換が普通ですからね。しかも、お店では直せなくてメーカーに送らないと直せなかったりもしますから。まあ、部品がLSIやICの塊になりコンデンサーなんかも小さなものが基板に乗ってる状態ですからね。とはいえ、最近は大型量販店から卸しのような契約をしたり配送・修理・エアコンの取り付けの下請けを契約したりで頑張っているところもあるようです。それでも、一般では見る事が無いモノで古き良き時代(昭和)の遺産と言えるかもしれません。
クルマもおなじようなもんですね もう修理はできないメカニックばかり アッセンブリー交換。そして診断はコンピューターがないとできない。 いまではポイント交換できない整備士が多いです
真空管テレビの時代は、よく故障していた記憶があります。 故障する度に電気屋さんが自宅に来て、こういったトランクを開けると何やら取り出して修理して貰えた記憶がありますね。当家の最初のテレビは家具調パナカラーでしたが、故障したら修理して使うのが当たり前でしたね。 最近は故障したら即買い替えで、価格も安価になって、何か有難みが無くなってしまいましたね。
家に来る アタッシュケースのTV修理マンはかっこよかったですね
目玉焼きのTO-3も懐かしいですが、40年近く前に会社で使用していたスチロールコンデンサがとても懐かしいです。有極性ではないのですが、巻き始めと巻き終わりがあって、特性を細かく配慮しなければならないアナログ回路のフィルター類の疑似線路(Building Out Network)は方向に注意していたのを思い出しました。部品のリードが腐食しているのがとても少ないのが、驚きですね。試作用部品のリードが腐食していたのを結構見ていたので。(課税対象というのは時効として)チャンネルを回すという言葉は過去のもので、20~30代は知らないのでしょう。
そういえば CR類の足はけっこうきれいですね このかばんも気密がよかったのかもしれません
アメリカの電話会社向けの製品に「BON」が付いていました。接続するケーブルの先でのデジタルのパルス波形を一定の範囲内に調整する回路でした。スチコンもついに製造終了だそうです。3、4年前までは秋葉原の海神無線でオーディオ用部品として売られていたと思いますが。
家電メーカーのサービスの手伝いをしたことがありましたが、昔はよく修理をしていましたね。一度、冷蔵庫の修理に同行したことがありましたが、「最近冷えないのだけれど」というお宅に行き、当時フロンガスの補充をしていました。溶接機を使って切断や溶接をしながらガスの充てんをしていたようです。今じゃ考えられませんね。
そうそう クルマも毎年夏になるとエアコンのガスを充てんしえちましたねいまではカーエアコンも10年間はなにもしなくても問題なしですね
一番売れたのが20インチの仏壇みたいな家具調TVでしたね、二十数万でしたね。中古自家用車なみの値段でしょうか。三洋ズバコンなんいう初のリモコンTVも出たりして超話題でしたねw
ズバコン! ありましたありました
昔のテレビ・・・後ろに洗面器みたいなブラウン管の電子銃のカバー生石灰の入ってる乾燥剤修理説明書の袋もう見かけなくなりましたねあと 昔の家電屋は大体ゴミ屋敷っぽい所が多かった!部品取り 修理キャンセル 修理待ち 小型のお届前商品あとお決まりのストーブの点火ヒータと豆電球のぶら下げパッケージの奴
そういえば 電器店ってごちゃごちゃしているところほど 腕が良かったような・・・
昔はPanasonicショップにHITACHI、TOSHIBA、MITUBISHI、SONY、SHRAP、Victor等メーカーごとにショップ見ましたが、今時はかなり減りましたね!
ほんと もうパナソニック一択みたいですね
@@miyazin-shoten たまにSONYショップは見ますけど、後は滅多に見なく成りましたし、Panasonicショップも減ってますが、リフォームや何かで頑張ってるショップもたまに拝見しますね!
素敵な宝箱ですね!
そうですね 玉手箱じゃなくて 宝箱ですね
懐かしいです。亡父は電気屋ではなかったのですが、工具箱にきちんと抵抗、コンデンサ、トランジスタなどをまとめて、ご近所のお家の修理もしてました。でも、当時の電気屋さんは正に作業しやすいようにして、修理されていたのですね。部品が真空管からトランジスタに移行時期の部品なのですね。懐かしいです。宮甚さん、貴重な良いモノを頂きましたねwww
そうですね トランジスタも比較的初期のころで むしろ今は真空管より貴重かもしれませんね
うちは昭和53年まで足付き家具調の白黒真空管テレビでしたね。電源を入れてしばらくすると音だけ先に出て、5分くらいするとじわーっと画像が浮き出てくる。その後SONYのカラーTVが家に来ましたが、5年おきくらいに金属缶のパワートランジスタらしきものが壊れて、家に修理の人が来てはんだ付けして直してました。そのテレビを15年くらい使って、液晶になりましたので初のブラウン管のカラーテレビは液晶の世代まできっちり役目を果たしてくれたと言えます。そういえば昭和53年頃と言えば、新し物の親戚の叔父が、これは使い物にならない、とモノラルのカセットテープレコーダーを置いて行ったのを覚えています。15cmx25cmくらいの大きさのスピーカー一体型でママボイスとか書いてあったので伝言用かな。当時音楽録音用と言ったらオープンリールデッキで、あれがくるくる回りながらスピーカーから音が出てくるの子供心ながらかっこいいと憧れました。
そういえばわたしも最後のブラウン管はSONYの24インチのトリニトロンでした BOSEの SPがついていて 結婚したとき このtVをみた嫁さんが 大画面はすごいと言っていました いまでは24インチはPCモニタでも小さいですね
この頃はテレビの画面インチ数で価格が決まっていた時代ですね。20インチで20万円とかでしたね。
吋あたり1万円ですね
50年代まだまだ真空管テレビの修理依頼は結構ありました。アタッシュケースの蓋側が真空管収納になっていました、懐かしいですね。
今回はトランジスタ鞄ですが 以前真空管TV修理動画つくりましたので ぜひみてください
ICが登場するあたりまではテレビの技能講座なんてのが放送されていました。テレビに回路図が映されテスター一つで故障箇所を絞っていくというシュールな番組。「自分の部屋にテレビが欲しいだと?拾ってきて直すんだよ!」そんな時代でした。😅
懐かしい まだ小学生だからちんぷんかんぷんだけれど、見てました😂
そういえば NHKなんかでもラジオやTVの修理講座みたいのありましたねすごい時代ですねそういえばパソコンのBASICもあったような
おお! 私も良くやってた。東芝は簡単でした 画面が横一列になっちゃう奴200円ぐらいで直せた
ちょうど昭和54年ごろの正月にテレビの上に花瓶を置いていて、それを誰かがひっくり返し水が流れて、正月早々、テレビが壊れると言う大惨事がありました(笑)正月明けて、近所の電気屋さんがIC交換して修理してるのを見てめっちゃ尊敬しました。オシロとか使ってなく、確かアナログテスターだけで、故障箇所を追い込む電気屋さんに憧れたものです。今思い返したら垂直同期用のICの様な気がします。画面が段々細長くなって、糸見たいに見えていました😅ちなみに私は10歳からラジオ作ってました😊
ほんと TVサービスマンに憧れて電気を職業にした人多かったでしょうね
はい、まさに私は新卒でオーディオメーカー、AVメーカーに転職後、ジプシーを経て今はソフトやってます😅そういえば、私の母方のお父さんは、戦前松下の砲弾ランプの塗装をする会社の社長だったらしく、松下の会社規模の1/10くらいだったのですが、戦時増産で寝ずに働いた影響で、電気マッサージをして心臓麻痺で亡くなって会社はジ・エンドになったらしいです😬
昭和51年頃だったか、ナショナルの地元の電器屋さんにテレビの画像が乱れたのを治して貰いました、テレビの裏についている電気図面を見て、真空管が店にあるので戻って取りに行くと一旦取りに帰って真空管を交換していました。アルミのフレームに黒いソケットが10個くらい取り付けてあって真空管が刺さってる構造でした。子供だったのでそれ以上は覚えていませんが直ぐに治ったことは記憶しています。
もう家庭にきて修理というのは いまでは洗濯機と冷蔵庫くらいでしょうか?
30年程前の1990年代前半頃、オーディオ趣味からの興味で町の電気屋さんでバイトしてました。お客さんから修理依頼を貰って軽トラでテレビを預かり、店に持帰ってから電源スイッチやらの壊れ易い可動パーツとかの半田クラックやらをコテで修理やパーツ交換してました。車の代車みたいに代わりの貸し出しテレビを持って、入れ替えたりもしてました。意外と平成になっても90年代までは普通に、宮甚さんの仰る昔ながらの修理をしてましたね。エアコンの取付やアンテナの設置や交換、自治会に頼まれて電柱登って町内の街灯の蛍光灯及び明暗センサー交換とか、地域に根付いた感じで色々やりました。団地とかは大体5階建てなのでエレベーターも無く、冷蔵庫の搬入とか辛かったです。TVアンテナのワイヤー固定で屋根の端に行ったり、街灯交換で電柱登るのが怖かったです。懐かしい思い出が蘇りました。有難う御座います。
そうそう 町内会とは 地元ですからかなり通じていましたね!電氣やの親父が かならず町内会には一人いたし・・・
懐かしいですね。 テレビが映らなくなったときにメーカーから来て修理してくれました。 2回ありましたけど、とちらも真空管式のカラーテレビでした。
まだ真空管時代は 家にきて修理してくれましたね
なつかしいですね、1958年はじめてわが家にテレビがやってきてナショナルショップ(現パナソニック)のおじさんがアンテナを上げテストパターンを映して調整してました。その後故障して修理に来たそのおじさんが持ってきたのがそのスーツケース、真空管を抜き差しして直してくれました。当時はテレビを1台売れば三か月は遊んで暮らせると言われてました。しかし板厚から見てジュラルミンじゃなくブリキ製の手作り感あふれるものですね、中学生だった私にはジェームズボンドの秘密兵器に見えましたよ。
当時のTVは10万円ちかくしたでしょうから いまなら100万近い家電だったかもですね 先日かった 東芝のレグザ 55吋 8万円弱でした!
いつも楽しく拝見しております。私の親父がナショナルショップで働いていたので、家のロッカーにテレビのサービスマニュアルがずらっと並んでいました。古いテレビのマニュアルは、故障原因を調べるためにここではオシロスコープがこの波形となる・・・とようなのが書かれていたと思います。古い製品はマニュアルがしっかりしていましたが、新しいものになるとだんだん簡素になってましたね。店の倉庫を片付けたときに今回のようなケースとかがやはり出て来て、中から謎の部品や何やらが出て来たのを覚えています。もう処分してしまったわけですが、真空管は結構あったのに勿体なかったなあ・・・今ならいろいろ遊べたと思うのですが。
わたしの商店街の電気屋さんも年に一回は倉庫整理で 真空管とか古いものもってきてくれます
懐かしいですね。チャンネルつまみを抜かれたときはペンチで回した記憶があります。古くなるとチャンネル切り替えの部分が接触不良を起こして正しい位置で映らず。少しずらすと映ったりして。4本足がついたテレビはお茶の間の中心でした。
ペンチやりました やりました これも感電しましたね
今ほどプラスチック部品は少なかったから~構わず556をブチ込んでいました・・大体それでグリスが溶けて復活してた😌
確かに、昭和はサービスマンのスキルで現場修理してましたよね。部品取り寄せで、再修理に来たりしてその間テレビ見れなかったりw仕事では営業でしたから、修理はしませんでしたがサービスマンの修理の師匠に、色々教わったりしましたが既に、ユニット交換、基板交換でスピード優先の時代に。交換したものは事務所に帰ってから予備のユニットとして師匠は部品単位で修理してストックにしてましたね。(生産中止品とかでも対応するために)
やはり だんだん そうした修理法に変わっていったんですね貴重な情報ありがとうございます
🎵あーなたの街の電気屋さん…ってやつですね。懐かしい
いいコピーですね
@@miyazin-shoten って言うか、CMで歌が流れてませんでした?
動画ありました。🎵わーたしの街の電気屋さんは…でした。
1970年に我が家に来た14インチカラーテレビは約14万円でした。ブラウン管以外のスペースはディスクリート部品で埋め尽くされていて凄い重さでした。家族会議の結果、親子3人東京から大阪まで万博を見に行くのをやめて買いました。故障した時は正にこのケースを抱えた電気屋さんが来てくれました。
そうですね 東京オリンピックで白黒 EXPO70でカラーTVというのが 一般的でしたね。当時の14万円 すごい価値ですね先日かったビックカメラの 東芝レグザ55吋 約8万円! 技術革新すごいですね
宮甚先輩、正倉院宝物展並のワクワクご紹介をありがとうございます!
ありがとうございます。
懐かしいです。子どもの頃(小・中生)テレビは当時の流行り「家具調・三菱高雄」でして、娯楽の中心がテレビだった時代、真空管のトラブルが度々ありました。急に映らなくなると親父が○○電気さんに電話。オジサンがトランクを持つてきました。中には、真空管がギッシリ。故障はほぼ同じで、真空管切れ!子供だった私は、興味深々w交換作業をみて感動!見事にテレビが映るようになりました。懐かしい・・・楽しい動画、いつもありがとうございます。('ω')ノ
TVの修理屋さんの後ろ姿に憧れて電子技術者になった人は数多く これが日本の電子立国をささえたんでしょうね
よぉ~、そんなもん残っていましたね。それを運んできてくれるお友達をお持ちの宮甚商店さんの顔の広さに驚きます。ブランドの「宝山」ではないですか。スチコンにもお世話になりました。古の時代を、感じさせて頂きました。
ありがとうございます。スチコン ほんとなつかしいですよね なんかこれ使うと音が良く感じました
床の間にあった4本足の白黒テレビ、壊れては修理を頼むのですがいつも同じおじさん?お兄さん?が来てくれて修理を見ていたので、テレビが壊れるのが楽しみだった程です。そのテレビと言えば、親戚のおばあさんが決まってテレビの前に陣取って大声でプロレスの応援をしていたのが懐かしく思い出されます。
そういえば白黒TV時代は なぜか野球よりプロレスでしたね
@@miyazin-shoten そうかもですね。カメラの性能が悪かったのでしょうか?
量販店が台頭してきたのは80年代初頭かと思いますかがヨドバシカメラの名を冠せたのは1975年と小学生の時代だったとはですがたまたま地元には城南電気がありましてそれほど大きな売り場ではありませんが1Fは家電となど全般で店外から入る狭い階段を上がると2Fは薄暗い雰囲気の中のある丸ごとオーディオルームになっており何度となく通ってました片chで10種類ほどのスピーカーを揃えており売るための展示ってより趣味で飾ってるだけみたいな印象でしたここに客が居たことは見た事がありません高いスピーカーを買う立場でないため試聴は頼んだことないですが見て満足していましたあのベントレーに乗って立ち寄った宮地社長やミスターXも見かけたトキもあります城南電気は残って欲しかったですね
まさか 新宿のヨドバシカメラが家電をあつかうとは・・・・
成る程…興味深い動画でした、勉強に成ります。今回も愉しい動画を有り難う御座います。
こちらこそありがとうございます
まさに宝箱ですね。昔のテレビの回路図を持っています。なんの役にも立たないですが、眺めるだけで楽しくて捨てるに捨てられません。うちの近所のパナソニックショップは最近店主が亡くなってシャッターが閉まったままになりました。後継者不在なんでしょうね。自分と同じ苗字なだけに気になるところです。
そうそう TVの回路図って よくわからないですが 見ていてたのしいですよねラジオは理解できますが わからない回路って新鮮でおもしろいですね
近所にSANYOのお店があって、家電品はなんでもそこから買っていました。今でも実家新築時に購入した冷蔵庫と全自動洗濯機(サンヨーひまわり70)ファンヒーター3台、掃除機が20年すぎても現役で動いています。14型の白黒からカラーテレビ18型ブラウン管ステレオを大奮発して月賦で父が買ったのを思い出します…。テレビ台付きにするか祖父祖母合わせ家族会議していました😂コンデンサー壊れて時々映らなくなり、近所のオジサン来ては修理していたな〜テレビ裏側の乾いた独特の匂いが懐かしい✨
昔はなんでも電気屋が家にきて修理していましたが クルマもセールマンが家にあがって注文書かいていましたね まさに昭和の風物詩です
スチコンに付いてる三角の松下のマークがなつかしい
昔の松下電器産業の時代って 中身ほとんど内製出来てたんですねICがAN型番のアナログ全盛期時代は東芝顔負けの半導体ラインナップでしたデジタル主体のMN型番が主体になってから段々と自社調達できなくなってしまった!ちなみに松下の半導体ってほとんどパーツ屋には並ぶ事が無かったですね3端子レギュレータ サージアブソーバぐらいかな 一方 松下の抵抗やコンデンサはパーツ屋の主力商品でした
真空管の小売りも秋葉原では少なかったですが 一番信頼性があったような感じがします
アルミのケース持ってました。家電ではありませんが、昔は電気関係は結構こわれ現場で部品交換が一般的でしたね。回路の精密化や部品の発達で、そもそも故障が激減、現場処理は主に基板交換に変化しましたね。
そうですね いまTVが壊れるなんて経験しないですね最近買い替えましたが 20年つかったTV液晶画面を割って交換で まだまだ元気でした
昭和45年頃だったか、ご近所に先駆けて19型カラーテレビを親父が買ってきて、夕方になると「テレビ見せて下さい」と近所の子供が集まって来ていました。そのカラーテレビが、多分真空管式の最後の世代だったのかな?。そいつが引退した後には、自分の良いオモチャ(部品取り)になってました。今では抵抗のカラーコードすら覚えていませんが、中高生当時は放送部所属で、ラジオペンチ・ニッパー・ドライバーセット・ビニールテープを、いつも学生服のポケットに入れて持ち歩いていました。今になって思えば、周りからはかなり痛い奴と見られていたのでしょうね。
当時 19型のカラーTVなんて お坊ちゃんですね!
@@miyazin-shoten さん、小6で引っ越すまで、狭い村営住宅で暮らししていました。土日しか帰ってこない親父が、巨人軍の試合見たさで買ってきただけです。その後UHFコンバーターが別途必要になっても、何年も頑として買わなかったのですが、UHFで野球中継がある事を知った途端、電気屋に電話する、自分の欲望に忠実なク〇親父でした。
第1回東京オリンピック前後からテレビのカラー化が加速し、カラーテレビを持っている家のアンテナには色が塗ってあったのを記憶しています。あ!あの家にはカラーテレビがあるんだ!と小学生の私は友達とカラーテレビアンテナ捜しをしましたよ。アンテナに色なんざ付ける必要はないのでしょうが、当時はたいへん高価な家電でしたから、さぞや購入した人は屋根上の色付きアンテナが誇らしかったことでしょう。
我家も実は けっこう爺さんや親父が商売でうまくいっていたので 東京オリンピックは家の大きな筐体のTVでみました 学校では小さな白黒TVだったので なんだか優越感全開のいやな子供でした。
アンテナの色違い、初めて知りました。知っていたら探したかった。
ご返信ありがとうございます。私の最も古い記憶は日本TVの「鳩の休日」のアニメです。日本でのテレビ放送開始からまだ間もない1950年代後半だと思います。親父はサラリーマンでしたが大企業の営業職のコネでかなり初期にテレビを手に入れてました。ずいぶん長い間活躍してくれたTVでした。故障するたびに電器屋さんが真空管のたくさん入ったトランクを下げてやってきて直してくれましたっけ。
とても面白く拝見させていただきました。自分はワインの木箱をトランクにしてブルートゥーススピーカーを自作して お世話になった方々にプレゼントしています。今回のアルミのトランクぜひエンクロージャーにしてスピーカーにしてほしいです。
そうか! スピーカーって手もありますね あるみっぽい音 よさそうですね 笑
ダイソーアンプ内蔵でポータブルですね!
どこでも、なんでも、スピーカー良いですね
小学生時代、テレビの不調でよく電気屋さんが来て、修理しているのを電気屋さんの後ろからずっと集中して見ていましたね。三菱の真空管テレビで、右or左斜め45度でぶっ叩いて急場を凌いでいたのを思い出します。学校卒業後にコンピュータ系の仕事から転職し、大手家電店でワンフロア店舗の売場担当になって、サービス員と話すことが多かったですね。当時、T芝のテレビの故障が異常に多く、大概店のサービス室に持ち込んでは基板ごと交換していましたね。
たしかに叩いてなおすのって 昭和の定番ですね
照明の買い替えとかだと、電気工事が必要だったりして街の電気屋さんは頼りになります。生き残ってほしいものですが、ついヨドバシの通販で買ったりしてしまいます。当時はまだ増幅回路がディスクリートだったんで、トランジスタの交換で直ったんですね。自分で修理できたケースは、電解コンデンサの故障ばかりです。
ほんと 便利な街のでんきやさんも 減ってしまいましたね
子供の頃テレビが故障したら家に修理に来てくれて、裏蓋開けて部品交換とかしてくれてましたね。その場で直らないと持ち帰りになるのですが、修理が完了するまで代わりのテレビを持ってきてくれてました。懐かしいです。。 町の電気屋さんはこんな感じで各家庭のお茶の間に上がり込んで作業することになるので、どこどこの美人の奥さんとあそこの電気屋さんはいけない関係になってひと騒動あった。。なんて、大人になってうちの母親から聞いたことがあります。もうひとつ思い出したのは、たしかキドカラー。。リモコンでチャンネル操作できるのがありましたね。リモコンにもあの回すチャンネルツマミが付いていたような気がします。 友達の家にキドカラーがあって、テレビの前で小銭をジャラジャ撒いたりするとチャンネルが変わるんだ―なんて言って小銭ばら撒いてました。。日立でなくてサンヨーだったかな。。あれどういう仕組みになっていたんだろ。。
なんか そんな色事情の話 よくありましたね
超音波で制御していたと思います。
私は小学生の頃ドリフの全員集合が見たいために捨ててあったTVを拾って適当に弄って直してたのが電子工作の原点です。それにしてもスチコンは懐かしいです。余談ですが足立区加平にある樫木総業というパーツ屋さんは古い部品もあってオススメです。
樫木総業はディスコンのトランジスタで有名ですね わたしも無線機用のトランジスタ何個か買いました
渋谷の青山学院大学の近くにあって「藤商電子」だったときに一度行ったことがあります。当時はスイッチなどのパーツも安かったです。
電子パーツ屋初めて行ったのは 日立のお店で教えてもらった札幌の梅澤無線でした初めて見た時は感激しました! 何てきれいな部品だろ!って
懐かしいです。街の電気屋さん修理に来てくれると、じ〜と後ろで見てました。ある日失敗してテスタリードでショートして部品が飛んじゃったんですが、証人がいるので代替い機無償、修理代も少し安くしてくれたと記憶しています。その後何故か回路図を手に入れ自分で修理する様になりました。予備の部品揃えて日々修理を楽しんでました(多分中学生)。しかしある日、高圧系が不調でおっかなびっくり修理をしてました。そして、パワトラのケース(コレクタ)とシャシーを持ってしまい、気絶しました。しばらくして、気がつくと後ろ向きに倒れてました。倒れなっかったら、タヒんでたかも知れません。青春の1ページです。長々と失礼しました。
あるあるですね! 私も真空管は気をつけるのですが 数年前 真空管アンプの安定化電源にトンジスタつかって 同じように トランジスタだから大丈夫と甘い考えでケースを触り 危うく気絶でした。 こわいですね
昔は町の電気屋さんの仕入先となるサービスショップがあってメーカーの保守パーツや回路図などを提供してくれました。子供の頃によく利用しました。パナソニック・ソニーなどメーカーにより対応が違いましたが概ね子供の私にも親切でしたね。トランジスタ・ICだけでなくカセットデッキの中のゴムベルトやらピンチローラーやら色々お世話になりました。物によっては資料は無償で戴いたものもありました。パナのトランジスタテレビの水平だったか垂直だったか出力トランジスタはよく故障して取り替えてました。恐らくは規格ギリギリの設計だったのでしょうね。
サービスショップ・・・ そういえばホンダのバイクも メーカーの部品の卸センターで 個人のバイク少年が行っても売ってくれました 配線図みせてもらったり しかも安くしてくれて ・・・いまでは考えられないですね
宮甚さん。コメントバックありがとうございます。バイクでもありましたか。私も従兄弟が事故死していなければ無線&バイクが趣味になっていたかも知れません。それはさておき。本当の意味でECOな時代でしたね。修理して使うことに対してのインフラが充実してましたから。こう言うのがなくなって似非ECOで生活が貧しくなるのは困ったものです。
もう今から35年前だから平成の初頭は 三菱電機だと サービスセンターに工場ごとのファイルがあり 京 電 馬 電 静 電 とかこれが何冊も本棚にあり 年式 型番ごとに工場が発行した修理資料 パーツリストが綴られていて コピー取ってサービスマンが持ち出していました時々 マツヤ電器様向けとかダイエー様向け とかの注釈がついてたモデルも!あの資料見たら 明らかに ここをヒューズ代わりの設計なんだろ!みたいな診断方法が満載でした。(当時は菱電系の仕事してたので!)
@@NTTWEST3さん。コメントバックありがとうございます。昔のサービスエンジニアの方はレベル高かったですよね。今はチェンジニアなんて揶揄されていますけれど・・・。部品交換で修理出来るのは精々QFP辺りまででしょうかね。BGAなんかになったらほぼお手上げ状態です。そう言えば三菱さんには余りお世話になった記憶はないですねぇ〜。保守用と言えども汎用品も多かったので秋葉原などになかなか行けないこともあり,汎用の部品も調達しに行ったりしてましたね^^。
ブラウン管カラーテレビはしばらく「1インチ1万円」と言われていました。ブラウン管は大気圧の関係で38インチ(だったかな?)以上は作れないと聞いたことがあります。
そういえば 会社に入ってすぐボーナスで買った SONYの24インチ 20万円以上しました
三菱電機は下請けのホンジョ―と協力して100インチのブラウン管テレビ作って工場で展示してましたよ
テレビのブラウン管じゃないですけど、その昔、東大小柴研のカミオカンデに20インチの光電子増倍管が使われていました。水中に沈めてあったので、1個割れると衝撃波で他の管も道連れで割れたそうです。僕は残念ながら水を抜いたときに行っていないので、カミオカンデの内部は見る事はできませんでした。仕事で見る事が出来たのは外に繋がっている装置と構内に放置してあった切れた管だけw
カミオカンデってあのアイランプ(投光器の反射電球)みたいな奴ですね京都の青少年科学センターに隅っこでひっそり展示されてます
@@NTTWEST3そうなんですか。でっかいですよねー
私もテレビを販売していた大手電機メーカーだったので、サービスセンター研修が有りました。研修ですから、サービスセンターのベテラン・エンジニアと同行してユーザー宅で修理のお手伝いでした。ベテランともなると経験とテスター位で故障部品を特定し、交換していましたが、部品交換修理が出来たのは、ブラウン管テレビと初期の液晶&プラズマテレビ位までで、その後は部品が表面実装になり外しての交換は無理。基板単位での交換へと変わっていきましたね。
そうですよね もう電気だけでなく クルマも ユニット交換修理の時代ですね
子供の頃、ナショナル坊やが絵書かれたダットラかサニトラがいつもやって来てました!回路図を見てテスターをあてる姿に釘付けになり自分もエンジニアの道に進みましたが時代と共にチェンジニアになってしまいました。と言うよりかされてしまいましたね。手間よりスピードと効率だけを企業が求めた結果が現代の結果ですね?
そうそう 電気屋は昭和50年ごろまで ほとんどサニトラでしたねしばらくサニトラの独壇場でしたが 平成5年頃惜しまれながら 生産中止し パナソニックはほとんど軽トラにいきましたねわたしはいまでもサニトラもっているので こんど看板いれようかと思っています
15年程前まで近所の日立のお店に角目のサニトラがありました。廃業と同時に無くなってしまいました。。。
@@Kaya999999 サニトラは旧車でも人気が有りますよね!
家の近所でもPanasonic(National)の加盟店は大半が廃業して、残っていても電気工事の専門店になったりしてます。
ほんとざんねんですよね 時代の流れでしょうか
意外とお宝があるのではないでしょうか現在製造や販売されていない物がありそうですねメンテナンス作業には最高のものですね
トランジスタがかなり古いのはいっていたので 案外真空管よりレアなのがあります
懐かしいの一言。中学から高校にかけてお小遣いは初ラ、ラ製、トラ技、CQ誌の4冊でほぼ消えていきました。それで部品とかも買えずいろんな理由をつけて親を説得してたのが昨日のようです。
そうそう 本買ってもらうだけでも大変だった時代ですね
あの頃はまだまだ分厚い初歩のラジオでしたね。東芝ラジオ教室なるアナログICの新製品紹介?みたいな明らかに対メーカ向けな記事もありましたね
@@miyazin-shoten それで田舎だったこともあってか、捨てられてたいろんなテレビとかラジオとか拾ってきて部品取ってました。親にはガラクタばっかり拾ってきてって煙たがられてましたね。
@@NTTWEST3 本の発売日はもう朝からワクワクが止まらなくて学校でもソワソワしてましたw そういえば、初ラの後ろの方にアイデア等を投稿するコーナーがあって、そこに2回ほど掲載されて、薄謝として3000円だったか5000円だったかが現金書留で送られてきて大喜びしてました。大したものじゃなかったですがよほど投稿者が少なかったんだろうなと。😂
@@broca24 さん 私も掲載されて1971年に二千円もらえてすごく嬉しかったです。小遣いが少なかったので。掲載された号ももらえたのですが、すでに買ったあとでした。
まずは叩いてみて治らなければ電気屋さんを呼んでました。家族で一番うまく叩けるのは私でした。
そうそう 叩くって けっこういまでも真空管アンプはいけますねあとはんだの不良って けっこう叩くとわかりますね
「町の電器屋」ことアトム電器が加盟店を増やしていますね。本部の一括仕入れで量販店とあまり変わらない価格で買えるようですね。
あたらしい流れかもしれませんね
宮甚さんが楽しそうに箱を開けていたのが印象的です、こちらもワクワクしながら観てました。昔のテレビは故障すると、よく叩いてましたよね。先輩からブラウン管は、数万ボルトだから素人修理は、絶対するなと言われてましたので、叩くのみでした。
いやー ほんと探検みたいでわくわくしました
アルミのアタッシュケースが、まるでタイムカプセルの様ですね。近くの電気屋さんは少なく成りましたが、近所の商店街に一軒だけ営業をしているパナソニックの店舗が有ります。
がんばってほしいですよね!町の電気屋さん
よかった~www わたしでも分かる内容に嬉しさ100倍です。そうそう、昔自宅近くにテレビ病院というのがあって、頼むと真空管の詰まったジュラルミンケースを持ってきて、白黒テレビの真空管を交換してくれました。映ったときは嬉しかったです。このケースみたら当時を思い出しました。父は中々最新式購入してくれませんでした。白黒の真空管テレビ、温まらないと画面が映らなかったですね。白黒で見ていたのに...頭の映像では何故かカラー。( ´艸`)
そういえば白黒にかぶせるカラースクリーンってありましたね全然カラーじゃないけど 白黒よりマシってのが・・・
@@miyazin-shoten さんへ そういえば!!! 思い出しました。( ´艸`)
テレビではありませんが、トランスレスラジオの故障で町の電気屋さんで低周波真空管を買いました。昔は売ってたんです。
@@mrd-adj さん 田舎町では修理やさんで真空管も売っていましたが、6GW8 などテレビやラジオに使わない球は「今度便利屋さんが名古屋へ行くときに買ってきてもらう」と言って注文に応じてくれました。6GW8 は定価の600円でした。
おばあちゃんちにフレネルレンズありました!画面が少しだけ大きく見えましたw
4時5分々 楽しいテレビを見るためにー♪ この頃のHKはちゃんと国営放送してたんですよねー
うちの親父も TVもラジオもNHKしかみせてもらえませんでした
テレビ高かったから自分で直した時代が懐かしい回路図も90年代初頭まで付属してましたしね大体水平出力部のトランジスターがやられるのとブラウン菅がへたって色ムラがでるので姿見眺めて調整してました・・貧乏だったのでしょうね😌
そうですか! わたしは修理できるのはラジオどまりでした。 画像となるとまったく手におえず・・・
修理の現場では数十年前の部品や道具が出てくる事も珍しくないですね。車輌や機械の部品は処分が大変だから次の世代に託してしまう人もいます。
そうなんです まだつかえると捨てられなくて・・・
半導体は再生産が効かないから~プレミア価格😌オーディオ転用できるモノに限るが・・
各メーカーの部品は箱をみれば仕入れ値が分かる様になってました、メーカーにより味方が異なってましたよ。TVとかその場で修理するのですがお茶が出たら安くするとか、でも治らない時は冷や汗が出てました。
つい最近までサンヨーは整理番号が反対から読むと定価と家電屋向け卸価格が解るようになってましたね
学生時代、サンヨーのサービスでバイトしてた時、仕入れ値の読み方を教わりましたね。数字のコードを逆さに読む形式でした。
大型量販店は確かに安いけど、設置、廃棄含めての価格を比較すると、町の電機屋さんが、結果的に安いし、アフターサービス安心。
そうですね 意外と設置料と廃棄量高いですよね あと保証対応がやっぱり町の電気屋さんにかないません なによりメンドクサイ顔しないのが量販店と違うところ これがいちばん大事だと思います
子供の頃、近くには日立しかなくてキドカラーの鳥がいました。でも、家のテレビは格安の新日本電気だったです。
昔は 電機メーカー系列の店って多かったですよね
真空管テレビが時々不調な時は父親がポンと叩き復帰させていました。父親だけの特技でした♪父ちゃんの威信満々って感じてしたね。
はんだクラックとか 真空管ピンとか 意外と接触不良があって これには有効でしたねわたしは真空管アンプ派なので いまでも叩いています
懐かしいなぁ。フライバックトランス、何回替えに来てもらったかな?
そういえば わたしも マッキントッシュのコンパクトマックのフライバックトランス何度か変えました たしかSONYのだったような
トランジスタやICがあって真空管時代の物ではないのかな。電気屋さんがたまに修理に来ていましたがこういうものを持っていたか記憶にはないです。
真空管時代のTVサービスマンの動画は以前つくりました。ご興味あればどうぞ
おー懐かしい。実はσ(^^♪の実家、電気店でこんなアルミトランク2個ありました。うち1個は半田ごてテスターとか修理工具、もう1個はジュラルミン製で内装がスポンジでTV修理に必要な真空管1X2Bとか6AW8Aとかいろんな真空管で良くボケるのを親父が入れていました。ちなみに日立のロゴ入りでした
そうですね 前回もらったのは昭和40年ごろの真空管TVオンリー部品 そして今回50年代になるとトランジスタに全部変わっていました!たしかに私が無線の免許とったときは全部試験問題真空管でした
@@miyazin-shoten いやー尊敬する宮甚様からのコメントに感激です。σ(^^♪は電気屋の長男坊で保育園の頃から半田ごて握ってました。工業高校電気科へ通いアマチュア無線開局その頃、戸塚の日立TV工場へTV修理研修へも行きました。現在はリタイアして電子工作を趣味の一つとして楽しんでおります。
いいですよね 定年後の電子工作 わたしも毎日たのしみです
結構古いパーツは欲しい人いますよね。ぽんとヤフオクとかに出すと良い値段になったり。レコードの針、カートリッジとか転売もいますしね。大手の電気屋って親切丁寧とか言ってるけど、全然そんな事ないですね。「いらっしゃいませ、ありがとうございました」も言わないとこありますから。買う気しない。
最近は役所のほうが お客様あつかいしますね 笑
各チェーショップに1台づづ在庫すれば、最初から量産効果あるロットが流せる。松下幸之助のマーケティングなのです。
なるほど 商売人ですね
ヤマダも最初はパナソニックショップだったそうですねそしてコジマとエディオンが日立だったと聞いてますNECのショップはあったんでしょうか?昔家電もやってたと聞いているので
下剋上ですね
この お道具箱には、鏡ついていますか?
これはもう客の家庭で調整する時代ではなくなったので 鏡はないです
あれ?アタッシュケースに鏡が付いていない?
もう昭和50年代は筐体も薄くなっていたんでしょうね
あっ!歯医者さんが歯の裏を見ような鏡ですよね?僕のカバンにも入っていました。
おじいちゃんと観ました。TO-3トランジスタはてテレビの中にも入っていたんでしょうか?また松下はテクニクスブランドを擁していますがアンプはじめ低周波の修理なんかもやっていたのでしょうか?
もうテクニクスのアンプくらいの年代だと 家に出向いて直すっていうのはなくなっていたのでは?と思います
TO-3のトランジスタが普通に使われていた時期もありました。
「0.47μFコンデンサー」なんて言っても部品センターでは、受け付けてくれません。製品形式と部品ナンバーで管理してますから。・・・サービスサポート部門に詳しいのがいると、助かってましたがね。(笑)昭和50年くらいですと、オニューはトランジスタ全盛ですが、修理する機種は真空管TVだと記憶してます。持ち帰り修理はほとんどありませんでした。客先修理でしたね。B管、帯電高圧に感電したのは数え切れません(笑)
そうですね ちょうと昭和45~50年くらいに真空管とトランジスタの過渡期ですね
博物館行きくらいのお宝が出てきてビックリです。中身はそのままにして、保管しましょうよ。
いやー もう置き場所が…笑
少し前の家電商品って コンデンサーと 上質の半田が有れば 9割治せるって 今はコストと量産重視だから 基板自体が一枚仕上げで 叩いて治すって 夢物語
真空管アンプも コンデンサーと 上質の半田が有れば ほぼ100%治せます
箱の番号から仕入れ値が分かりますよ、見方は忘れましたけど
そうですか パナソニックらしいですね
HOLA, PUEDES DIGITALIZAR LOS LIBROS Y COMPARTIRLOS?
Plse Write English or Japanes。
@@miyazin-shoten こんにちは、本をデジタル化して共有してもらえますか?
すいません もう処分してしましました
基本、自宅に行ってその場で修理してました、
当時は家電修理も家庭訪問でしたが クルマの商談も家庭でしたね
量販店では、直ぐに対応出来無いよね
はっきり言って修理業務では利益が出ません。 給料代が出ません。よって量販店ではほぼすべてメーカー修理に出すのです。そこでいくつかの量販店ではまずメーカー修理会社の標準修理代金を叩きます。 メーカー修理会社はもっと利益が出なくなります。その上いくつかの量販店は修理代金をメーカー修理料金にいくらかふっかけて見積もりします。買い替えを促すために。結局、量販店で買うのは良いけれど修理はメーカー修理会社に持ち込むのが一番です。 量販店より安くなります。日本の家電業界が衰退した原因の1つが仕入れ料金に無理な値引きを強引にした量販店によるものだとも言えます。家電業界を壊して自分の首を絞めて建築・増改築業界に手を出している量販店が見受けられます。長文失礼しました。
まさに 量販店の裏舞台そのとおりでしょうねなんだか悲しくなってきますね
秋葉原電気街の衰退につながりますね。
昔はメーカーのサービスセンターが各地にあったので、修理に持ち込むことができましたが、今は全滅ですね。やっているところを探すのがたいへん?
チャンネルつまみ。すっぽ抜いてチャンネル固定(笑)。足で回してオヤジに怒られるんだが、オヤジもコッソリ、器用に回している(笑)。
足指で回す・・・ありましたありました!
そういえば、昔も似た動画 上げてましたよね、「黒い鞄」、、チョロット探してたら、「朱里エイコのプレイリスト」っていやぁ 、どこまて闇が深いんでしょうか!! 謹んで、ご拝聴いたしました。 『 優勝 』。。
以前のは真空管時代のTVサービスマンの鞄でした
またコメントUA-camに消された。
過激な内容なんじゃないですか ? 笑
@@miyazin-shoten :私的には普通の内容だと思いますよ???。家にも同じ様なTV回路図集の本が、2冊有るとコメントしただけですからね。まっ2SD198がトランスレス出力管の代替に使えたよとも書きましたけどさ・・・。
youtube の AI が〇ランスジぇンダ□の話題と勘違いしたのではないでしょうか?
@@ikaros-3:さんへ。なるほど。〇ランスジぇンダなんて言う言葉が有るんですね。初めて知りました。今の時代はコメント投稿も難しいですね。教えて頂き有難う御座いました。
私の動画やコメントではトランスレスは かなり使っているのでたぶん大丈夫だとおもいますが?わたしの場合 アンチの視聴者に対して 口汚くののしってコメントで応戦すると 結構消されます 笑
テレビ修理屋さんの時代ですね。0:40過ぎのメタルCANのトランジスタがカチンとぶつかった時の音が懐かしく感じました。
もうTVを家庭に出向いて修理する最後のキットでしょうねしかし すごい技術力ですね いまの街のでんきゃさんでは 液晶TVの修理なんてできないでしょうから
私もメーカーサービスの経験がありまして、もう5年くらいあとのことになりますのでだいぶIC化が進んでましたが、補修用性能部品の最低保有年数が8年という通産省の指針がありましたので、この時代の製品もけっこう治しました。
もちろんお客様宅で故障部品を特定して交換するのが基本でした。
ですのでテスターだけでは限界があり、小型のオシロスコープは車に積んでました。
それでも原因が特定できないとか、手持ちの部品がない、となると預かり修理になるわけですが、また届けに来る手間がかかるのでできれば避けたいわけです。
モジュールごととか基板まるごと交換という形になっていったのは、空中配線がすっきりなくなった平成ごろからかと思います。昭和の基板はまだ高価で、交換したら製品買えるくらいの費用がかかりましたし。
当時は毎日修理やってましたので、鼻が利くというか勘が鋭いというか原因特定は速かったですが、今は腕も錆び付きました。😅
趣味レベルでいいやとか思っちゃってますし。
ええー サービスマンやられていたのですか 尊敬します。
こどものころから 家電のサービスマンのお兄さんは憧れの的でした。みんなインテリぽくって、七三の横分けで黒い眼鏡人がなぜか多くて ポマードで黒光りの髪の毛 憧れました
制服もかっこよかった
そうですか まだこのころはユニット基板じゃなかったんですね
まあ ユニットになっていてもワイヤラッピングとか けっこう外すのに難儀しそうですね
あぁそうだ!紺色の制服着てましたそういえば。言われて思い出しました。ん~懐かしい。ありがとうございます!
でも七三ではなく六四くらいでしたし髪は洗いざらしで黒ぶちメガネではなく銀縁でした。まだ若造でした。あーじじいになった今も白髪が増えて毛量は減ったけど特に変わってないや。😅
でも愛機をピシッと治して、修理代をいただいて、感謝もしてもらえるという仕事はちょっと誇りを感じられる面はありました。😊
流石ですね。
私はバイトで知識ないんで、社長について回ったりで言われるがまま作業してました。
様々なお客様宅で故障も様々ですが、症状を見て原因を特定して直してしまう社長を間近で見てましたので、サービスマンさんの凄さが理解できます。
自宅のビデオデッキの修理で松下から来ていただき交換してもらったプロアモヘッドは、見た目の綺麗さから今でも記念に持ってますw
コメント欄にもお仲間さんが沢山居られて嬉しいですね。
そうそう、平成になってから工具かばんから半田ゴテやオイル差し(メカ部品も多かった)が消えドライバーの種類が増えトロックスなど星形レンチ等々の特殊工具に変わって行きました。
回転ヘッド考えた人、天才ですよね~!👍️
確かにミクロンレベルで調整されたヘッドが高い真円度で削り出された光輝く軽量アルミドラムに取り付けられている様は美しいかも。
子供の頃故障したテレビを訪問修理で直してくれた近くの電気屋さんの活躍を見て。「俺も家電の修理屋さんになる!」なんてほざいていたのですが、その線に全く乗れず今は全く違った仕事です。今は少なくなったものの近くに電気屋さんがいてくれてますので、自分ではなかなかできないエアコンの付け替えなど大きなことでお世話になっています。いてくれてありがと。
わたしもTVサービスマン憧れて 勉強しましたが 数学だめで文系でした
昔の街の電気屋さん、結構技術力あったんですね。子供の頃、扱っている商品とは関係ない鉄道模型のパワーパックが壊れて、近所の日立チェーンストールに持っていったらちゃんと修理してくれました。セレン整流器が交換されて旧部品も渡してくれて、へー、こんな部品なんだと小学生ながら感心したものです。
いまでは考えられないですね 量販店なら絶対なしですね
昔、会社勤務していた頃、松下幸之助氏の弟子のかたによる3日研修センター缶詰状態のCS研修を受けさせて頂いたことがありました。早朝地域清掃が基本、人のお役に立って喜んでいただく事で生かし生かされる事を商売の心の基本に据えましょうという内容でした。きめ細かく修理店を展開して、アフターサービスを重視している松下スピリット時代の象徴的ケースですね(^^)
そうですね 結局メーカー系列で最後まで頑張っているのはパナソニックだけですね もう損得なしにやっている感じしますねパナソニックは
昔、親の知り合いが三菱のショップをやっていて、テレビの故障で修理に来てもらった時、こういうケースからテスターを出して計測して、トランジスタを交換してくれたのを思い出しました
なかなか面白かったです
こどものころは サービスマンは神様みたいでしたね
そうそうテレビのチャンネルつまみがなくて触ったら感電、ありましたね。😂
親父の実家が富山にありまして、小5の時分、お盆に親族で能登半島の旅館に泊まりに行ったとき、食堂のテレビのつまみがなかったんです。
やってた番組がつまらなくて誰も見てなかったので、こっそり回してやろうと触ったら、ズキン!!と来まして、しばらく肩から先が動かなくなり、それはそれは焦りました😰😰😰
そのときはいたづらがバレると思って誰にも言えず、腕がなおるのか不安と戦いながら陰に隠れて15分くらい悶えてました。
後日、中学生になって100Vに感電した😅感覚から考えると300Vくらいあったのかな、と思います。
トランスレスはトラウマです。😅
感電ってこわいですよね 特に左右の手で感電するとまさに心臓を取っていく感じで・・・
心臓止まっちゃったらまずいですね😰
意識が遠のきそうになったら、もう一度触ればAEDの代わりになるかも?😅😅
昔のテレビに良く トランスレスのため 点検調整時は感電に注意してください
なんて書かれていませんでした???
あと 初歩のラジオとかの広告で 入力100V 出力100V の
トランスを見かけて 当時まだ子供だった私は???????
何にこんなもん使うんだ?と思ってました
@@NTTWEST3 あー見ました初歩のラジオのトランス広告。私もトランジスタ世代なので意味がわかりませんでした。😅
1:1のトランスは当時感電対策出来ると言われて、部品屋さんで購入し未だに持ってますよ。
子供の頃すごく憧れました電気屋さんのアタッシュケース!
自分はヤフオクで落札したIC・トランジスタの詰め合わせがケースに入ったのを持っていますがハンダが付いていたりピンが折れていたりで明らかに交換したパーツとわかるのが何個かあります
ケースにのこる古い交換済みのTrみるのもたのしみですね
懐かしい部品ですね私も高校卒業後まちの電気屋さんに就職しました。先輩に付いて色々勉強しましたね、真空管交換、トランジスタ交換です多かったのは、横一の症状電源入らず、その後基盤交換スルホール半田不良で再半田で治る、東芝の店でした。メーカーのサービス研修にも出ました。松下、東芝、エアコン取り付け、洗濯機の修理冷蔵庫の修理等々しました、東芝の修理の県大会に出た事があります、エアコンの取り付けの競争、テレビの修理、でしたね
治らないのは預かり修理でメーカー依頼して修理、当時はCRTも交換しました、コンバジェンす、の調整鏡を見ながら調整しますね今はブロック毎に交換ですね、懐かしく思いました。
当時の修理技術ってすごいですよね この箱の中にいろいろ手書きのメモがありましたが びっくりする内容ですね まさに電子立国日本のサービスマンたちだったんですね
当時のTV故障で多かったのは、確かに半田不良の横一ですね。
時々垂直IC不良も有りました。
電源不良はSW電源を採用してからが多かったですね。
それとCRT交換は私も良くやらされました。
3電子ビームコンバーバーゼンス調整は、なかなかピッタリ合わなくて苦労した思い出が有ります。
先日洗濯機のフタがロックして開かなくなり量販店で聞いたら寿命ですとか言われ新品を勧められました。諦めきれず、街の電気やさんに相談してみたら10,000円で治りますと言われ電源基盤交換で治るそうです。お願いして安く直ったので冷蔵庫買い替えをお願いしました。
そうそう! 意外と修理ってやすくできることありますね
わたしも洗濯機のモーター壊れて 普通に修理頼んだら 8千円くらいで やすくて驚きました
母方の実家が昭和45年当時までナショナル(panasonicでは無かった頃)の特約店でした。技術者も数人在籍していて子供心に修理技術のマジックに取りつかれたものでした。当然今回特集のジュラルミンケースも店に有り、祖父が廃業した時に私の宝箱となりました。とても懐かしい映像でした。その後大学在学中は秋葉原のラジオデパート3階のジャンク屋でアルバイトしたり、今は無き三洋電機で契約のサービスマンとして修理技術を習得しました。昔のパーツは見るだけで何に使われるものか分かりやすかったですよね!
わたしもぜひこのアルミとらんく レストアして宝箱にします
昔はTVをばらして部品取りにしました。2重軸ボリューム、スイッチ付ボリュームなど今では手に入らないものがあって、
それを使っていろいろ作りました。この補修部品にはバーコード付きの新しいものも含まれていますね。
TVやラジオには回路図が裏ブタなどに付属していましたし、アマチュア無線機でも説明書に書かれていたし、CQ誌にもとじ込み的にあったのでファイルしていました。
今の時代は回路はブラックボックス化(サービスマニュアルにはあるのだろうけど)、ましてや修理はユニット単位になるのでしょう。
昔は町の電気屋さんが修理、今はメーカーのサービス、時代も変わってきました。
そうですね もう最近の家電店の二代目なんて ほとんど修理なんてできないでしょうね
これじゃ 後継者もすくなくなりますね
懐かしい!70年代に家電修理をしていました。当時テレビはTRとICの複合回路でしたが年々集積化していったのを覚えています。金属パッケージのトランジスターは水平出力?でしょうかね。まだ市場に真空管のテレビも残っていたので、工具箱と別に真空管用のケースも持ち歩いていました。パナは販売店修理が中心なので修理がしやすいと聞いたことがあります。、、、アナログがデジタルになり、この半世紀の変化に驚くばかりです。
そうですね 70年代の真空管式のTVサービスマンの鞄という動画もありますので ぜひごらんください
昔の家具みたいなステレオやテレビの調子が悪くなったらバタコ(オート3輪)で部品交換や修理に来てくれましたね。 今はそんなサービス抜きで1エ円でも安くと通販でなんでも買う貧しい時代になったものです。 店に行くと奥さんが店番、息子さんが外回り、爺さんが店の奥でラジオの修理・・・昭和は豊かでした。
そうですね もう今はネットショッピングにほとんど変わってしまいましたね
修理も しない時代・・・ まあクルマもモジュール交換ですね
楽しい動画でした😂
今でもパナソニックショップを見ます。いい時代でした。😊人情に溢れた時代でした。
ほんと昭和のいい時代でしたね
昭和50年代前半だと小学生の私が自転車で動ける範囲で日立チェーンストール1件、三洋薔薇チェーン1件、東芝ストア1件がありました。皆さんお店をたたんだ後は立派な一戸建てに建て替えられてましたね。
オットーとかオーレックスとかローディーとかオーディオのブランドの看板はカッコ良かったですね。
そういえば オーディオも家電系が強かったですね
あの頃はヤマハもあったし サンスイもトリオ(ケンウッド)もありましたね
エコーが原始的な バネ式!
私は産業機械の工場勤務で、ラインや協力工場や市場返品のロジック基板の修理を何年かやってました。
慣れてくると現象から交換部品が判るようになり流れ作業の様でした。
市場返品の基板は、部品が劣化していたり、液体によるリーク、焼損、基板割れ等、判定が難しかったです。
なつかしいなぁ~ スチロールコンは半田ごてで溶かしちゃったこともあるなぁ~(^^ゞ
そういえばスチコン けっこうはんだこて当たると 溶けましたね なつかしいです
1980年代に入ってもこんなしっかりしたサービスマニュアルが配布されていたという事が驚きΣ(・□・;)
もうこの頃は現地修理なんてほとんどなく、故障したら家電量販店からメーカー送り返しがほとんどのような気がします。
そうですね 昭和50年代は もう家にTV修理やくるような時代ではなくなっていましたね。
町の電気屋が元気だったのは昭和だったように思います。
バブルの頃から大型量販店が勢力を伸ばし今では大型量販店の時代かと・・・
修理も昔はコンデンサーやトランジスタを交換して直してましたが今は基板ごと交換が普通ですからね。
しかも、お店では直せなくてメーカーに送らないと直せなかったりもしますから。
まあ、部品がLSIやICの塊になりコンデンサーなんかも小さなものが基板に乗ってる状態ですからね。
とはいえ、最近は大型量販店から卸しのような契約をしたり配送・修理・エアコンの取り付けの下請けを契約したりで
頑張っているところもあるようです。
それでも、一般では見る事が無いモノで古き良き時代(昭和)の遺産と言えるかもしれません。
クルマもおなじようなもんですね もう修理はできないメカニックばかり アッセンブリー交換。そして診断はコンピューターがないとできない。 いまではポイント交換できない整備士が多いです
真空管テレビの時代は、よく故障していた記憶があります。 故障する度に電気屋さんが自宅に来て、こういったトランクを開けると何やら取り出して修理して貰えた記憶がありますね。
当家の最初のテレビは家具調パナカラーでしたが、故障したら修理して使うのが当たり前でしたね。 最近は故障したら即買い替えで、価格も安価になって、何か有難みが無くなってしまいましたね。
家に来る アタッシュケースのTV修理マンはかっこよかったですね
目玉焼きのTO-3も懐かしいですが、40年近く前に会社で使用していたスチロール
コンデンサがとても懐かしいです。有極性ではないのですが、巻き始めと巻き終
わりがあって、特性を細かく配慮しなければならないアナログ回路のフィルター
類の疑似線路(Building Out Network)は方向に注意していたのを思い出しました。
部品のリードが腐食しているのがとても少ないのが、驚きですね。試作用部品の
リードが腐食していたのを結構見ていたので。(課税対象というのは時効として)
チャンネルを回すという言葉は過去のもので、20~30代は知らないのでしょう。
そういえば CR類の足はけっこうきれいですね このかばんも気密がよかったのかもしれません
アメリカの電話会社向けの製品に「BON」が付いていました。接続するケーブルの先でのデジタルのパルス波形を一定の範囲内に調整する回路でした。スチコンもついに製造終了だそうです。3、4年前までは秋葉原の海神無線でオーディオ用部品として売られていたと思いますが。
家電メーカーのサービスの手伝いをしたことがありましたが、昔はよく修理をしていましたね。
一度、冷蔵庫の修理に同行したことがありましたが、「最近冷えないのだけれど」というお宅に行き、当時フロンガスの補充をしていました。溶接機を使って切断や溶接をしながらガスの充てんをしていたようです。
今じゃ考えられませんね。
そうそう クルマも毎年夏になるとエアコンのガスを充てんしえちましたね
いまではカーエアコンも10年間はなにもしなくても問題なしですね
一番売れたのが20インチの仏壇みたいな家具調TVでしたね、二十数万でしたね。
中古自家用車なみの値段でしょうか。三洋ズバコンなんいう初のリモコンTV
も出たりして超話題でしたねw
ズバコン! ありましたありました
昔のテレビ・・・
後ろに洗面器みたいなブラウン管の電子銃のカバー
生石灰の入ってる乾燥剤
修理説明書の袋
もう見かけなくなりましたね
あと 昔の家電屋は大体ゴミ屋敷っぽい所が多かった!
部品取り 修理キャンセル 修理待ち 小型のお届前商品
あとお決まりのストーブの点火ヒータと豆電球のぶら下げパッケージの奴
そういえば 電器店ってごちゃごちゃしているところほど 腕が良かったような・・・
昔はPanasonicショップにHITACHI、TOSHIBA、MITUBISHI、SONY、SHRAP、Victor等メーカーごとにショップ見ましたが、今時はかなり減りましたね!
ほんと もうパナソニック一択みたいですね
@@miyazin-shoten たまにSONYショップは見ますけど、
後は滅多に見なく成りましたし、Panasonicショップも減ってますが、リフォームや何かで頑張ってるショップもたまに拝見しますね!
素敵な宝箱ですね!
そうですね 玉手箱じゃなくて 宝箱ですね
懐かしいです。亡父は電気屋ではなかったのですが、工具箱にきちんと抵抗、コンデンサ、トランジスタなどをまとめて、ご近所のお家の
修理もしてました。
でも、当時の電気屋さんは正に作業しやすいようにして、修理されていたのですね。
部品が真空管からトランジスタに移行時期の部品なのですね。懐かしいです。
宮甚さん、貴重な良いモノを頂きましたねwww
そうですね トランジスタも比較的初期のころで むしろ今は真空管より貴重かもしれませんね
うちは昭和53年まで足付き家具調の白黒真空管テレビでしたね。電源を入れてしばらくすると音だけ先に出て、5分くらいするとじわーっと画像が浮き出てくる。その後SONYのカラーTVが家に来ましたが、5年おきくらいに金属缶のパワートランジスタらしきものが壊れて、家に修理の人が来てはんだ付けして直してました。そのテレビを15年くらい使って、液晶になりましたので初のブラウン管のカラーテレビは液晶の世代まできっちり役目を果たしてくれたと言えます。そういえば昭和53年頃と言えば、新し物の親戚の叔父が、これは使い物にならない、とモノラルのカセットテープレコーダーを置いて行ったのを覚えています。15cmx25cmくらいの大きさのスピーカー一体型でママボイスとか書いてあったので伝言用かな。当時音楽録音用と言ったらオープンリールデッキで、あれがくるくる回りながらスピーカーから音が出てくるの子供心ながらかっこいいと憧れました。
そういえばわたしも最後のブラウン管はSONYの24インチのトリニトロンでした BOSEの SPがついていて 結婚したとき このtVをみた嫁さんが 大画面はすごいと言っていました
いまでは24インチはPCモニタでも小さいですね
この頃はテレビの画面インチ数で価格が決まっていた時代ですね。20インチで20万円とかでしたね。
吋あたり1万円ですね
50年代まだまだ真空管テレビの修理依頼は結構ありました。アタッシュケースの蓋側が真空管収納になっていました、懐かしいですね。
今回はトランジスタ鞄ですが 以前真空管TV修理動画つくりましたので ぜひみてください
ICが登場するあたりまではテレビの技能講座なんてのが放送されていました。
テレビに回路図が映されテスター一つで故障箇所を絞っていくというシュールな番組。
「自分の部屋にテレビが欲しいだと?拾ってきて直すんだよ!」
そんな時代でした。😅
懐かしい まだ小学生だからちんぷんかんぷんだけれど、見てました😂
そういえば NHKなんかでもラジオやTVの修理講座みたいのありましたね
すごい時代ですね
そういえばパソコンのBASICもあったような
おお! 私も良くやってた。
東芝は簡単でした 画面が横一列になっちゃう奴
200円ぐらいで直せた
ちょうど昭和54年ごろの正月にテレビの上に花瓶を置いていて、それを誰かがひっくり返し水が流れて、正月早々、テレビが壊れると言う大惨事がありました(笑)
正月明けて、近所の電気屋さんがIC交換して修理してるのを見てめっちゃ尊敬しました。
オシロとか使ってなく、確かアナログテスターだけで、故障箇所を追い込む電気屋さんに憧れたものです。
今思い返したら垂直同期用のICの様な気がします。画面が段々細長くなって、糸見たいに見えていました😅
ちなみに私は10歳からラジオ作ってました😊
ほんと TVサービスマンに憧れて電気を職業にした人多かったでしょうね
はい、まさに私は新卒でオーディオメーカー、AVメーカーに転職後、ジプシーを経て今はソフトやってます😅
そういえば、私の母方のお父さんは、戦前松下の砲弾ランプの塗装をする会社の社長だったらしく、松下の会社規模の1/10くらいだったのですが、戦時増産で寝ずに働いた影響で、電気マッサージをして心臓麻痺で亡くなって会社はジ・エンドになったらしいです😬
昭和51年頃だったか、ナショナルの地元の電器屋さんにテレビの画像が乱れたのを治して貰いました、テレビの裏についている電気図面を見て、真空管が店にあるので戻って取りに行くと一旦取りに帰って真空管を交換していました。アルミのフレームに黒いソケットが10個くらい取り付けてあって真空管が刺さってる構造でした。子供だったのでそれ以上は覚えていませんが直ぐに治ったことは記憶しています。
もう家庭にきて修理というのは いまでは洗濯機と冷蔵庫くらいでしょうか?
30年程前の1990年代前半頃、オーディオ趣味からの興味で町の電気屋さんでバイトしてました。
お客さんから修理依頼を貰って軽トラでテレビを預かり、店に持帰ってから電源スイッチやらの壊れ易い可動パーツとかの半田クラックやらをコテで修理やパーツ交換してました。
車の代車みたいに代わりの貸し出しテレビを持って、入れ替えたりもしてました。
意外と平成になっても90年代までは普通に、宮甚さんの仰る昔ながらの修理をしてましたね。
エアコンの取付やアンテナの設置や交換、自治会に頼まれて電柱登って町内の街灯の蛍光灯及び明暗センサー交換とか、地域に根付いた感じで色々やりました。
団地とかは大体5階建てなのでエレベーターも無く、冷蔵庫の搬入とか辛かったです。
TVアンテナのワイヤー固定で屋根の端に行ったり、街灯交換で電柱登るのが怖かったです。
懐かしい思い出が蘇りました。
有難う御座います。
そうそう 町内会とは 地元ですからかなり通じていましたね!
電氣やの親父が かならず町内会には一人いたし・・・
懐かしいですね。 テレビが映らなくなったときにメーカーから来て修理してくれました。 2回ありましたけど、とちらも真空管式のカラーテレビでした。
まだ真空管時代は 家にきて修理してくれましたね
なつかしいですね、1958年はじめてわが家にテレビがやってきてナショナルショップ(現パナソニック)のおじさんがアンテナを上げテストパターンを映して調整してました。その後故障して修理に来たそのおじさんが持ってきたのがそのスーツケース、真空管を抜き差しして直してくれました。当時はテレビを1台売れば三か月は遊んで暮らせると言われてました。しかし板厚から見てジュラルミンじゃなくブリキ製の手作り感あふれるものですね、中学生だった私にはジェームズボンドの秘密兵器に見えましたよ。
当時のTVは10万円ちかくしたでしょうから いまなら100万近い家電だったかもですね
先日かった 東芝のレグザ 55吋 8万円弱でした!
いつも楽しく拝見しております。
私の親父がナショナルショップで働いていたので、家のロッカーにテレビのサービスマニュアルがずらっと並んでいました。古いテレビのマニュアルは、故障原因を調べるためにここではオシロスコープがこの波形となる・・・とようなのが書かれていたと思います。古い製品はマニュアルがしっかりしていましたが、新しいものになるとだんだん簡素になってましたね。
店の倉庫を片付けたときに今回のようなケースとかがやはり出て来て、中から謎の部品や何やらが出て来たのを覚えています。もう処分してしまったわけですが、真空管は結構あったのに勿体なかったなあ・・・今ならいろいろ遊べたと思うのですが。
わたしの商店街の電気屋さんも年に一回は倉庫整理で 真空管とか古いものもってきてくれます
懐かしいですね。
チャンネルつまみを抜かれたときはペンチで回した記憶があります。
古くなるとチャンネル切り替えの部分が接触不良を起こして正しい位置で映らず。少しずらすと映ったりして。
4本足がついたテレビはお茶の間の中心でした。
ペンチやりました やりました これも感電しましたね
今ほどプラスチック部品は少なかったから~構わず556をブチ込んでいました・・大体それでグリスが溶けて復活してた😌
確かに、昭和はサービスマンのスキルで現場修理してましたよね。
部品取り寄せで、再修理に来たりしてその間テレビ見れなかったりw
仕事では営業でしたから、修理はしませんでしたがサービスマンの
修理の師匠に、色々教わったりしましたが既に、ユニット交換、基板交換で
スピード優先の時代に。交換したものは事務所に帰ってから予備のユニットとして
師匠は部品単位で修理してストックにしてましたね。(生産中止品とかでも
対応するために)
やはり だんだん そうした修理法に変わっていったんですね
貴重な情報ありがとうございます
🎵あーなたの街の電気屋さん…ってやつですね。懐かしい
いいコピーですね
@@miyazin-shoten って言うか、CMで歌が流れてませんでした?
動画ありました。🎵わーたしの街の電気屋さんは…でした。
1970年に我が家に来た14インチカラーテレビは約14万円でした。ブラウン管以外のスペースはディスクリート部品で埋め尽くされていて凄い重さでした。家族会議の結果、親子3人東京から大阪まで万博を見に行くのをやめて買いました。故障した時は正にこのケースを抱えた電気屋さんが来てくれました。
そうですね 東京オリンピックで白黒 EXPO70でカラーTVというのが 一般的でしたね。
当時の14万円 すごい価値ですね
先日かったビックカメラの 東芝レグザ55吋 約8万円! 技術革新すごいですね
宮甚先輩、正倉院宝物展並のワクワクご紹介をありがとうございます!
ありがとうございます。
懐かしいです。子どもの頃(小・中生)テレビは当時の流行り「家具調・三菱高雄」でして、娯楽の中心がテレビだった時代、真空管のトラブルが度々ありました。急に映らなくなると親父が○○電気さんに電話。オジサンがトランクを持つてきました。中には、真空管がギッシリ。故障はほぼ同じで、真空管切れ!子供だった私は、興味深々w交換作業をみて感動!見事にテレビが映るようになりました。懐かしい・・・楽しい動画、いつもありがとうございます。('ω')ノ
TVの修理屋さんの後ろ姿に憧れて電子技術者になった人は数多く これが日本の電子立国をささえたんでしょうね
よぉ~、そんなもん残っていましたね。
それを運んできてくれるお友達をお持ちの宮甚商店さんの顔の広さに驚きます。
ブランドの「宝山」ではないですか。スチコンにもお世話になりました。
古の時代を、感じさせて頂きました。
ありがとうございます。スチコン ほんとなつかしいですよね なんかこれ使うと音が良く感じました
床の間にあった4本足の白黒テレビ、壊れては修理を頼むのですがいつも同じおじさん?お兄さん?が来てくれて修理を見ていたので、テレビが壊れるのが楽しみだった程です。
そのテレビと言えば、親戚のおばあさんが決まってテレビの前に陣取って大声でプロレスの応援をしていたのが懐かしく思い出されます。
そういえば白黒TV時代は なぜか野球よりプロレスでしたね
@@miyazin-shoten
そうかもですね。カメラの性能が悪かったのでしょうか?
量販店が台頭してきたのは80年代初頭かと思いますかがヨドバシカメラの名を冠せたのは1975年と小学生の時代だったとは
ですがたまたま地元には城南電気がありましてそれほど大きな売り場ではありませんが1Fは家電となど全般で店外から入る狭い階段を上がると2Fは薄暗い雰囲気の中のある丸ごとオーディオルームになっており何度となく通ってました
片chで10種類ほどのスピーカーを揃えており売るための展示ってより趣味で飾ってるだけみたいな印象でした
ここに客が居たことは見た事がありません
高いスピーカーを買う立場でないため試聴は頼んだことないですが見て満足していました
あのベントレーに乗って立ち寄った宮地社長やミスターXも見かけたトキもあります
城南電気は残って欲しかったですね
まさか 新宿のヨドバシカメラが家電をあつかうとは・・・・
成る程…興味深い動画でした、勉強に成ります。
今回も愉しい動画を有り難う御座います。
こちらこそありがとうございます
まさに宝箱ですね。
昔のテレビの回路図を持っています。なんの役にも立たないですが、眺めるだけで楽しくて捨てるに捨てられません。
うちの近所のパナソニックショップは最近店主が亡くなってシャッターが閉まったままになりました。後継者不在なんでしょうね。自分と同じ苗字なだけに気になるところです。
そうそう TVの回路図って よくわからないですが 見ていてたのしいですよね
ラジオは理解できますが わからない回路って新鮮でおもしろいですね
近所にSANYOのお店があって、家電品はなんでもそこから買っていました。
今でも実家新築時に購入した冷蔵庫と全自動洗濯機(サンヨーひまわり70)ファンヒーター3台、掃除機が20年すぎても現役で動いています。
14型の白黒からカラーテレビ18型ブラウン管ステレオを大奮発して月賦で父が買ったのを思い出します…。テレビ台付きにするか祖父祖母合わせ家族会議していました😂
コンデンサー壊れて時々映らなくなり、近所のオジサン来ては修理していたな〜テレビ裏側の乾いた独特の匂いが懐かしい✨
昔はなんでも電気屋が家にきて修理していましたが クルマもセールマンが家にあがって注文書かいていましたね まさに昭和の風物詩です
スチコンに付いてる三角の松下のマークがなつかしい
昔の松下電器産業の時代って 中身ほとんど内製出来てたんですね
ICがAN型番のアナログ全盛期時代は東芝顔負けの半導体ラインナップでした
デジタル主体のMN型番が主体になってから段々と自社調達できなくなってしまった!
ちなみに松下の半導体ってほとんどパーツ屋には並ぶ事が無かったですね
3端子レギュレータ サージアブソーバぐらいかな
一方 松下の抵抗やコンデンサはパーツ屋の主力商品でした
真空管の小売りも秋葉原では少なかったですが 一番信頼性があったような感じがします
アルミのケース持ってました。家電ではありませんが、昔は電気関係は結構こわれ現場で部品交換が一般的でしたね。回路の精密化や部品の発達で、そもそも故障が激減、現場処理は主に基板交換に変化しましたね。
そうですね いまTVが壊れるなんて経験しないですね
最近買い替えましたが 20年つかったTV液晶画面を割って交換で まだまだ元気でした
昭和45年頃だったか、ご近所に先駆けて19型カラーテレビを親父が買ってきて、夕方になると「テレビ見せて下さい」と近所の子供が集まって来ていました。そのカラーテレビが、多分真空管式の最後の世代だったのかな?。そいつが引退した後には、自分の良いオモチャ(部品取り)になってました。
今では抵抗のカラーコードすら覚えていませんが、中高生当時は放送部所属で、ラジオペンチ・ニッパー・ドライバーセット・ビニールテープを、いつも学生服のポケットに入れて持ち歩いていました。今になって思えば、周りからはかなり痛い奴と見られていたのでしょうね。
当時 19型のカラーTVなんて お坊ちゃんですね!
@@miyazin-shoten さん、小6で引っ越すまで、狭い村営住宅で暮らししていました。土日しか帰ってこない親父が、巨人軍の試合見たさで買ってきただけです。その後UHFコンバーターが別途必要になっても、何年も頑として買わなかったのですが、UHFで野球中継がある事を知った途端、電気屋に電話する、自分の欲望に忠実なク〇親父でした。
第1回東京オリンピック前後からテレビのカラー化が加速し、カラーテレビを持っている家のアンテナには色が塗ってあったのを記憶しています。
あ!あの家にはカラーテレビがあるんだ!と小学生の私は友達とカラーテレビアンテナ捜しをしましたよ。
アンテナに色なんざ付ける必要はないのでしょうが、当時はたいへん高価な家電でしたから、さぞや購入した人は屋根上の色付きアンテナが誇らしかったことでしょう。
我家も実は けっこう爺さんや親父が商売でうまくいっていたので 東京オリンピックは家の大きな筐体のTVでみました 学校では小さな白黒TVだったので なんだか優越感全開のいやな子供でした。
アンテナの色違い、初めて知りました。知っていたら探したかった。
ご返信ありがとうございます。
私の最も古い記憶は日本TVの「鳩の休日」のアニメです。日本でのテレビ放送開始からまだ間もない1950年代後半だと思います。
親父はサラリーマンでしたが大企業の営業職のコネでかなり初期にテレビを手に入れてました。
ずいぶん長い間活躍してくれたTVでした。
故障するたびに電器屋さんが真空管のたくさん入ったトランクを下げてやってきて直してくれましたっけ。
とても面白く拝見させていただきました。自分はワインの木箱をトランクにしてブルートゥーススピーカーを自作して お世話になった方々にプレゼントしています。
今回のアルミのトランクぜひエンクロージャーにしてスピーカーにしてほしいです。
そうか! スピーカーって手もありますね あるみっぽい音 よさそうですね 笑
ダイソーアンプ内蔵でポータブルですね!
どこでも、なんでも、スピーカー良いですね
小学生時代、テレビの不調でよく電気屋さんが来て、修理しているのを電気屋さんの後ろからずっと集中して見ていましたね。
三菱の真空管テレビで、右or左斜め45度でぶっ叩いて急場を凌いでいたのを思い出します。
学校卒業後にコンピュータ系の仕事から転職し、大手家電店でワンフロア店舗の売場担当になって、サービス員と話すことが多かったですね。当時、T芝のテレビの故障が異常に多く、大概店のサービス室に持ち込んでは基板ごと交換していましたね。
たしかに叩いてなおすのって 昭和の定番ですね
照明の買い替えとかだと、電気工事が必要だったりして街の電気屋さんは頼りになります。
生き残ってほしいものですが、ついヨドバシの通販で買ったりしてしまいます。
当時はまだ増幅回路がディスクリートだったんで、
トランジスタの交換で直ったんですね。
自分で修理できたケースは、電解コンデンサの故障ばかりです。
ほんと 便利な街のでんきやさんも 減ってしまいましたね
子供の頃テレビが故障したら家に修理に来てくれて、裏蓋開けて部品交換とかしてくれてましたね。
その場で直らないと持ち帰りになるのですが、修理が完了するまで代わりのテレビを持ってきてくれてました。懐かしいです。。 町の電気屋さんはこんな感じで各家庭のお茶の間に上がり込んで作業することになるので、どこどこの美人の奥さんとあそこの電気屋さんはいけない関係になってひと騒動あった。。なんて、大人になってうちの母親から聞いたことがあります。
もうひとつ思い出したのは、たしかキドカラー。。リモコンでチャンネル操作できるのがありましたね。リモコンにもあの回すチャンネルツマミが付いていたような気がします。 友達の家にキドカラーがあって、テレビの前で小銭をジャラジャ撒いたりするとチャンネルが変わるんだ―なんて言って小銭ばら撒いてました。。日立でなくてサンヨーだったかな。。あれどういう仕組みになっていたんだろ。。
なんか そんな色事情の話 よくありましたね
超音波で制御していたと思います。
私は小学生の頃ドリフの全員集合が見たいために捨ててあったTVを拾って適当に弄って直してたのが電子工作の原点です。
それにしてもスチコンは懐かしいです。
余談ですが足立区加平にある樫木総業というパーツ屋さんは古い部品もあってオススメです。
樫木総業はディスコンのトランジスタで有名ですね わたしも無線機用のトランジスタ何個か買いました
渋谷の青山学院大学の近くにあって「藤商電子」だったときに一度行ったことがあります。当時はスイッチなどのパーツも安かったです。
電子パーツ屋初めて行ったのは 日立のお店で教えてもらった
札幌の梅澤無線でした
初めて見た時は感激しました! 何てきれいな部品だろ!って
懐かしいです。街の電気屋さん修理に来てくれると、じ〜と後ろで見てました。ある日失敗してテスタリードでショートして部品が飛んじゃったんですが、証人がいるので代替い機無償、修理代も少し安くしてくれたと記憶しています。
その後何故か回路図を手に入れ自分で修理する様になりました。予備の部品揃えて日々修理を楽しんでました(多分中学生)。しかしある日、高圧系が不調でおっかなびっくり修理をしてました。そして、パワトラのケース(コレクタ)とシャシーを持ってしまい、気絶しました。しばらくして、気がつくと後ろ向きに倒れてました。倒れなっかったら、タヒんでたかも知れません。青春の1ページです。
長々と失礼しました。
あるあるですね! 私も真空管は気をつけるのですが 数年前 真空管アンプの安定化電源にトンジスタつかって 同じように トランジスタだから大丈夫と甘い考えでケースを触り 危うく気絶でした。 こわいですね
昔は町の電気屋さんの仕入先となるサービスショップがあってメーカーの保守パーツや回路図などを提供してくれました。
子供の頃によく利用しました。パナソニック・ソニーなどメーカーにより対応が違いましたが概ね子供の私にも親切でしたね。
トランジスタ・ICだけでなくカセットデッキの中のゴムベルトやらピンチローラーやら色々お世話になりました。
物によっては資料は無償で戴いたものもありました。
パナのトランジスタテレビの水平だったか垂直だったか出力トランジスタはよく故障して取り替えてました。
恐らくは規格ギリギリの設計だったのでしょうね。
サービスショップ・・・ そういえばホンダのバイクも メーカーの部品の卸センターで 個人のバイク少年が行っても売ってくれました 配線図みせてもらったり しかも安くしてくれて ・・・いまでは考えられないですね
宮甚さん。
コメントバックありがとうございます。
バイクでもありましたか。
私も従兄弟が事故死していなければ無線&バイクが趣味になっていたかも知れません。
それはさておき。
本当の意味でECOな時代でしたね。
修理して使うことに対してのインフラが充実してましたから。
こう言うのがなくなって似非ECOで生活が貧しくなるのは困ったものです。
もう今から35年前だから平成の初頭は 三菱電機だと サービスセンターに
工場ごとのファイルがあり 京 電 馬 電 静 電 とか
これが何冊も本棚にあり 年式 型番ごとに工場が発行した修理資料 パーツリストが
綴られていて コピー取ってサービスマンが持ち出していました
時々 マツヤ電器様向けとかダイエー様向け とかの注釈がついてたモデルも!
あの資料見たら 明らかに ここをヒューズ代わりの設計なんだろ!みたいな
診断方法が満載でした。
(当時は菱電系の仕事してたので!)
@@NTTWEST3さん。
コメントバックありがとうございます。
昔のサービスエンジニアの方はレベル高かったですよね。
今はチェンジニアなんて揶揄されていますけれど・・・。
部品交換で修理出来るのは精々QFP辺りまででしょうかね。
BGAなんかになったらほぼお手上げ状態です。
そう言えば三菱さんには余りお世話になった記憶はないですねぇ〜。
保守用と言えども汎用品も多かったので秋葉原などに
なかなか行けないこともあり,汎用の部品も調達しに
行ったりしてましたね^^。
ブラウン管カラーテレビはしばらく「1インチ1万円」と言われていました。
ブラウン管は大気圧の関係で38インチ(だったかな?)以上は作れないと聞いたことがあります。
そういえば 会社に入ってすぐボーナスで買った SONYの24インチ 20万円以上しました
三菱電機は下請けのホンジョ―と協力して100インチのブラウン管テレビ作って
工場で展示してましたよ
テレビのブラウン管じゃないですけど、その昔、東大小柴研のカミオカンデに20インチの光電子増倍管が使われていました。
水中に沈めてあったので、1個割れると衝撃波で他の管も道連れで割れたそうです。
僕は残念ながら水を抜いたときに行っていないので、カミオカンデの内部は見る事はできませんでした。仕事で見る事が出来たのは外に繋がっている装置と構内に放置してあった切れた管だけw
カミオカンデってあのアイランプ(投光器の反射電球)みたいな奴ですね
京都の青少年科学センターに隅っこで
ひっそり展示されてます
@@NTTWEST3そうなんですか。でっかいですよねー
私もテレビを販売していた大手電機メーカーだったので、サービスセンター研修が有りました。研修ですから、サービスセンターのベテラン・エンジニアと同行してユーザー宅で修理のお手伝いでした。ベテランともなると経験とテスター位で故障部品を特定し、交換していましたが、部品交換修理が出来たのは、ブラウン管テレビと初期の液晶&プラズマテレビ位までで、その後は部品が表面実装になり外しての交換は無理。基板単位での交換へと変わっていきましたね。
そうですよね もう電気だけでなく クルマも ユニット交換修理の時代ですね
子供の頃、ナショナル坊やが絵書かれたダットラかサニトラがいつもやって来てました!回路図を見てテスターをあてる姿に釘付けになり自分もエンジニアの道に進みましたが時代と共にチェンジニアになってしまいました。と言うよりかされてしまいましたね。手間よりスピードと効率だけを企業が求めた結果が現代の結果ですね?
そうそう 電気屋は昭和50年ごろまで ほとんどサニトラでしたね
しばらくサニトラの独壇場でしたが 平成5年頃惜しまれながら 生産中止し パナソニックはほとんど軽トラにいきましたね
わたしはいまでもサニトラもっているので こんど看板いれようかと思っています
15年程前まで近所の日立のお店に角目のサニトラがありました。
廃業と同時に無くなってしまいました。。。
@@Kaya999999 サニトラは旧車でも人気が有りますよね!
家の近所でもPanasonic(National)の加盟店は大半が廃業して、残っていても電気工事の専門店になったりしてます。
ほんとざんねんですよね 時代の流れでしょうか
意外とお宝があるのではないでしょうか現在製造や販売されていない物がありそうですねメンテナンス作業には最高のものですね
トランジスタがかなり古いのはいっていたので 案外真空管よりレアなのがあります
懐かしいの一言。中学から高校にかけてお小遣いは初ラ、ラ製、トラ技、CQ誌の4冊でほぼ消えていきました。それで部品とかも買えずいろんな理由をつけて親を説得してたのが昨日のようです。
そうそう 本買ってもらうだけでも大変だった時代ですね
あの頃はまだまだ分厚い初歩のラジオでしたね。
東芝ラジオ教室なるアナログICの新製品紹介?みたいな
明らかに対メーカ向けな記事もありましたね
@@miyazin-shoten
それで田舎だったこともあってか、捨てられてたいろんなテレビとかラジオとか拾ってきて部品取ってました。親にはガラクタばっかり拾ってきてって煙たがられてましたね。
@@NTTWEST3
本の発売日はもう朝からワクワクが止まらなくて学校でもソワソワしてましたw
そういえば、初ラの後ろの方にアイデア等を投稿するコーナーがあって、そこに2回ほど掲載されて、薄謝として3000円だったか5000円だったかが現金書留で送られてきて大喜びしてました。大したものじゃなかったですがよほど投稿者が少なかったんだろうなと。😂
@@broca24 さん 私も掲載されて1971年に二千円もらえてすごく嬉しかったです。小遣いが少なかったので。掲載された号ももらえたのですが、すでに買ったあとでした。
まずは叩いてみて治らなければ電気屋さんを呼んでました。家族で一番うまく叩けるのは私でした。
そうそう 叩くって けっこういまでも真空管アンプはいけますね
あとはんだの不良って けっこう叩くとわかりますね
「町の電器屋」ことアトム電器が加盟店を増やしていますね。
本部の一括仕入れで量販店とあまり変わらない価格で買えるようですね。
あたらしい流れかもしれませんね
宮甚さんが楽しそうに箱を開けていたのが印象的です、こちらもワクワクしながら観てました。昔のテレビは故障すると、よく叩いてましたよね。先輩からブラウン管は、数万ボルトだから素人修理は、絶対するなと言われてましたので、叩くのみでした。
いやー ほんと探検みたいでわくわくしました
アルミのアタッシュケースが、まるでタイムカプセルの様ですね。
近くの電気屋さんは少なく成りましたが、近所の商店街に一軒だけ
営業をしているパナソニックの店舗が有ります。
がんばってほしいですよね!町の電気屋さん
よかった~www わたしでも分かる内容に嬉しさ100倍です。そうそう、昔自宅近くにテレビ病院というのがあって、頼むと真空管の詰まったジュラルミンケースを持ってきて、白黒テレビの真空管を交換してくれました。映ったときは嬉しかったです。このケースみたら当時を思い出しました。父は中々最新式購入してくれませんでした。白黒の真空管テレビ、温まらないと画面が映らなかったですね。白黒で見ていたのに...頭の映像では何故かカラー。( ´艸`)
そういえば白黒にかぶせるカラースクリーンってありましたね
全然カラーじゃないけど 白黒よりマシってのが・・・
@@miyazin-shoten さんへ そういえば!!! 思い出しました。( ´艸`)
テレビではありませんが、トランスレスラジオの故障で町の電気屋さんで低周波真空管を買いました。昔は売ってたんです。
@@mrd-adj さん 田舎町では修理やさんで真空管も売っていましたが、6GW8 などテレビやラジオに使わない球は「今度便利屋さんが名古屋へ行くときに買ってきてもらう」と言って注文に応じてくれました。6GW8 は定価の600円でした。
おばあちゃんちにフレネルレンズありました!
画面が少しだけ大きく見えましたw
4時5分々 楽しいテレビを見るためにー♪ この頃のHKはちゃんと国営放送してたんですよねー
うちの親父も TVもラジオもNHKしかみせてもらえませんでした
テレビ高かったから
自分で直した時代が懐かしい
回路図も90年代初頭まで付属してましたしね
大体水平出力部のトランジスターがやられるのと
ブラウン菅がへたって色ムラがでるので姿見眺めて調整してました・・貧乏だったのでしょうね😌
そうですか! わたしは修理できるのはラジオどまりでした。 画像となるとまったく手におえず・・・
修理の現場では数十年前の部品や道具が出てくる事も珍しくないですね。車輌や機械の部品は処分が大変だから次の世代に託してしまう人もいます。
そうなんです まだつかえると捨てられなくて・・・
半導体は再生産が効かないから~プレミア価格😌
オーディオ転用できるモノに限るが・・
各メーカーの部品は箱をみれば仕入れ値が分かる様になってました、メーカーにより味方が異なってましたよ。TVとかその場で修理するのですがお茶が出たら安くするとか、でも治らない時は冷や汗が出てました。
つい最近までサンヨーは整理番号が反対から読むと定価と家電屋向け卸価格が解るように
なってましたね
学生時代、サンヨーのサービスでバイトしてた時、仕入れ値の読み方を教わりましたね。数字のコードを逆さに読む形式でした。
大型量販店は確かに安いけど、設置、廃棄含めての価格を比較すると、町の電機屋さんが、結果的に安いし、アフターサービス安心。
そうですね 意外と設置料と廃棄量高いですよね あと保証対応がやっぱり町の電気屋さんにかないません なによりメンドクサイ顔しないのが量販店と違うところ これがいちばん大事だと思います
子供の頃、近くには日立しかなくてキドカラーの鳥がいました。でも、家のテレビは格安の新日本電気だったです。
昔は 電機メーカー系列の店って多かったですよね
真空管テレビが時々不調な時は父親がポンと叩き復帰させていました。父親だけの特技でした♪父ちゃんの威信満々って感じてしたね。
はんだクラックとか 真空管ピンとか 意外と接触不良があって これには有効でしたね
わたしは真空管アンプ派なので いまでも叩いています
懐かしいなぁ。
フライバックトランス、何回替えに来てもらったかな?
そういえば わたしも マッキントッシュのコンパクトマックのフライバックトランス何度か変えました たしかSONYのだったような
トランジスタやICがあって真空管時代の物ではないのかな。電気屋さんがたまに修理に来ていましたがこういうものを持っていたか記憶にはないです。
真空管時代のTVサービスマンの動画は以前つくりました。ご興味あればどうぞ
おー懐かしい。
実はσ(^^♪の実家、電気店でこんなアルミトランク2個ありました。
うち1個は半田ごてテスターとか修理工具、もう1個はジュラルミン製で内装がスポンジでTV修理に必要な真空管1X2Bとか6AW8Aとかいろんな真空管で良くボケるのを親父が入れていました。
ちなみに日立のロゴ入りでした
そうですね 前回もらったのは昭和40年ごろの真空管TVオンリー部品 そして今回50年代になるとトランジスタに全部変わっていました!
たしかに私が無線の免許とったときは全部試験問題真空管でした
@@miyazin-shoten いやー
尊敬する宮甚様からのコメントに感激です。
σ(^^♪は電気屋の長男坊で保育園の頃から半田ごて握ってました。
工業高校電気科へ通いアマチュア無線開局
その頃、戸塚の日立TV工場へTV修理研修へも行きました。
現在はリタイアして電子工作を趣味の一つとして楽しんでおります。
いいですよね 定年後の電子工作 わたしも毎日たのしみです
結構古いパーツは欲しい人いますよね。ぽんとヤフオクとかに出すと良い値段になったり。レコードの針、カートリッジとか転売もいますしね。大手の電気屋って親切丁寧とか言ってるけど、全然そんな事ないですね。「いらっしゃいませ、ありがとうございました」も言わないとこありますから。買う気しない。
最近は役所のほうが お客様あつかいしますね 笑
各チェーショップに1台づづ在庫すれば、最初から量産効果あるロットが流せる。松下幸之助のマーケティングなのです。
なるほど 商売人ですね
ヤマダも最初はパナソニックショップだったそうですね
そしてコジマとエディオンが日立だったと聞いてます
NECのショップはあったんでしょうか?
昔家電もやってたと聞いているので
下剋上ですね
この お道具箱には、鏡ついていますか?
これはもう客の家庭で調整する時代ではなくなったので 鏡はないです
あれ?アタッシュケースに鏡が付いていない?
もう昭和50年代は筐体も薄くなっていたんでしょうね
あっ!歯医者さんが歯の裏を見ような鏡ですよね?
僕のカバンにも入っていました。
おじいちゃんと観ました。TO-3トランジスタはてテレビの中にも入っていたんでしょうか?
また松下はテクニクスブランドを擁していますがアンプはじめ低周波の修理なんかもやっていたのでしょうか?
もうテクニクスのアンプくらいの年代だと 家に出向いて直すっていうのはなくなっていたのでは?と思います
TO-3のトランジスタが普通に使われていた時期もありました。
「0.47μFコンデンサー」なんて言っても部品センターでは、受け付けてくれません。製品形式と部品ナンバーで管理してますから。・・・
サービスサポート部門に詳しいのがいると、助かってましたがね。(笑)
昭和50年くらいですと、オニューはトランジスタ全盛ですが、修理する機種は真空管TVだと記憶してます。持ち帰り修理はほとんどありませんでした。客先修理でしたね。B管、帯電高圧に感電したのは数え切れません(笑)
そうですね ちょうと昭和45~50年くらいに真空管とトランジスタの過渡期ですね
博物館行きくらいのお宝が出てきてビックリです。
中身はそのままにして、保管しましょうよ。
いやー もう置き場所が…笑
少し前の家電商品って コンデンサーと 上質の半田が有れば 9割治せるって 今はコストと量産重視だから 基板自体が一枚仕上げで
叩いて治すって 夢物語
真空管アンプも コンデンサーと 上質の半田が有れば ほぼ100%治せます
箱の番号から仕入れ値が分かりますよ、見方は忘れましたけど
そうですか パナソニックらしいですね
HOLA, PUEDES DIGITALIZAR LOS LIBROS Y COMPARTIRLOS?
Plse Write English or Japanes。
@@miyazin-shoten こんにちは、本をデジタル化して共有してもらえますか?
すいません もう処分してしましました
基本、自宅に行ってその場で修理してました、
当時は家電修理も家庭訪問でしたが クルマの商談も家庭でしたね
量販店では、直ぐに対応出来無いよね
はっきり言って修理業務では利益が出ません。 給料代が出ません。
よって量販店ではほぼすべてメーカー修理に出すのです。
そこでいくつかの量販店ではまずメーカー修理会社の標準修理代金を叩きます。 メーカー修理会社はもっと利益が出なくなります。
その上いくつかの量販店は修理代金をメーカー修理料金にいくらかふっかけて見積もりします。
買い替えを促すために。
結局、量販店で買うのは良いけれど修理はメーカー修理会社に持ち込むのが一番です。 量販店より安くなります。
日本の家電業界が衰退した原因の1つが仕入れ料金に無理な値引きを強引にした量販店によるものだとも言えます。
家電業界を壊して自分の首を絞めて建築・増改築業界に手を出している量販店が見受けられます。
長文失礼しました。
まさに 量販店の裏舞台そのとおりでしょうね
なんだか悲しくなってきますね
秋葉原電気街の衰退につながりますね。
昔はメーカーのサービスセンターが各地にあったので、修理に持ち込むことができましたが、今は全滅ですね。
やっているところを探すのがたいへん?
チャンネルつまみ。すっぽ抜いてチャンネル固定(笑)。足で回してオヤジに怒られるんだが、オヤジもコッソリ、器用に回している(笑)。
足指で回す・・・ありましたありました!
そういえば、昔も似た動画 上げてましたよね、「黒い鞄」、、チョロット探してたら、「朱里エイコのプレイリスト」って
いやぁ 、どこまて闇が深いんでしょうか!!
謹んで、ご拝聴いたしました。
『 優勝 』。。
以前のは真空管時代のTVサービスマンの鞄でした
またコメントUA-camに消された。
過激な内容なんじゃないですか ? 笑
@@miyazin-shoten :私的には普通の内容だと思いますよ???。
家にも同じ様なTV回路図集の本が、2冊有るとコメントしただけですからね。
まっ2SD198がトランスレス出力管の代替に使えたよとも書きましたけどさ・・・。
youtube の AI が〇ランスジぇンダ□の話題と勘違いしたのではないでしょうか?
@@ikaros-3:さんへ。
なるほど。
〇ランスジぇンダなんて言う言葉が有るんですね。
初めて知りました。
今の時代はコメント投稿も難しいですね。
教えて頂き有難う御座いました。
私の動画やコメントではトランスレスは かなり使っているのでたぶん大丈夫だとおもいますが?
わたしの場合 アンチの視聴者に対して 口汚くののしってコメントで応戦すると 結構消されます 笑
テレビ修理屋さんの時代ですね。
0:40過ぎのメタルCANのトランジスタがカチンとぶつかった時の音が懐かしく感じました。
もうTVを家庭に出向いて修理する最後のキットでしょうね
しかし すごい技術力ですね いまの街のでんきゃさんでは 液晶TVの修理なんてできないでしょうから