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費禕と姜維の対立は玄徳時代からあった名士とタカ派の対立を引きずる形になりましたよね
どれほど才能ある人物がいても、協力できなきゃ国は滅ぶんだな・・・
以前費禕をリクエストしたので、費禕を取り上げていただき嬉しいです。個人的には蒋琬がトップに立ち費禕が内政、姜維が軍事を司りバランスをとる体制以外蜀漢が僅かながらも勝機を掴む可能性はなかったように思うので、仮に費禕が凶刃に倒れる事なく鍾会鄧艾の侵攻まで存命だったとしても滅亡の結果は変わらなかったように思います。
諸葛瑾に引き続き自分の好きな費禕の話題をピックアップしていただけて個人的に嬉しいです。諸葛亮没後の北伐について自分は「当初」費禕と同じ理由で反対派でした(人材を含む国力的に)。でも皇帝劉禅の意思、国是として姜維の考えや戦績を見るとこちらも正しい、と思えたのが本動画の感想です。あと仕事を為すには一定の地位(権力)が必要であることも再認識出来ました。超人的なエピソードに見られる仕事ぶりだけでなく高いコミュ力は長所ですがそれが仇となったのがあっけなく残念です。
蜀の四相の中じゃ黒い人なんだけど本人も想定してなかったタイミングでしんぢゃったとこに人間味を感じる
天才タイプの政治家の全てが詰まってるって感じがします(*'ω'*)
ちなみに孫権が費禕に対しやった嫌がらせの「酒に酔わせていろいろ聞いてみる」は諸葛亮大先生のベストセラー著作『将苑』でもおススメのやり方だぞ😃
いつも楽しく拝見しています^ ^蜀漢が1番好きなので、とても楽しく拝聴しました(*゚∀゚*)費禕のワークバランス能力が羨まし過ぎて嫉妬してしまいました笑
僕もメリハリつけてバリバリ仕事がこなせる人になりたい…
正直諸葛亮や姜維と比較すると消極的に見えるだけで、費禕は常識的な判断をしたという気がします。実際の行動を見ると別に完全に北伐に反対している訳ではなく、国力を超えた無茶はしないというだけですし。蔣琬の東征が未遂に終わった理由として動画で述べていたのに加えて、荊州(特に襄陽)の所有権について呉と同意が形成できなかったのではないかと考えています。
諸葛瑾頼りの外交ルートですから、不安定で信頼に乏しく、話がまとまらなかったというのもたしかにありそう。
まぁ現地で暮らしてたら姜維より費禕のほうを支持しそうだけど。
江南三大名楼の一つで呉の孫権が築いた黄鶴楼には費禕が黄色い鶴に乗って飛来し、ここで休んだという伝説がある。
「国是」って取り扱いが難しい。。。ただ、どのキーパーソンも嫌いではない。若くして才気煥発なんて本当にありがたい。彼らがいたからこそ、結果はわかっていても蜀漢を最後まで見届けたい気持ちになっているのかも。
その国が興った理由。建国神話みたいなものですしね。それがなければ国が存続する意味もないと考えるのか、それが無くても国を存続させられればそれで良いと考えるか。難しい話ですよね。
「建国神話」。なるほどですm(_ _)m
孔明存命中の費禕の官職で最も重要なのは「中護軍(護軍)」。軍隊内に限った警察長官みたいなものだが、実際には指揮権も握っていた?魏では夏侯淵や曹真、蜀では黄権や李厳などが任命されているので要注目です。
諸葛亮の早逝による北伐中断を内心誰よりも喜んでそう。
費禕先輩やないですか。個人的に好きな人物だし嬉しいですまぁ。。腹黒いイメージはありますが(汗)もうちょい長生きしてたらなと思いますが蜀の滅亡が少し長くなっただけかもだがそんな世界を見たかった
蜀単独の軍事行動ではこれまでと変わらない魏を討つには呉と連携して二方面同時侵攻しかないだからその時が来るまで蜀も呉も国力回復に努めるというのが最善の策だったと思う費禕が生きていたならその機会があったかも
基本的に弱者が強者を倒すのは、臥薪嘗胆し、富国強兵し、相手の国が乱れた時に初めて軍事行動を起こすべきだと思う。魏が乱れ、内乱を始めるまで、とにかく専守防衛するのが良いとは思う。費禕の方針は正しいとは思う。
内容のリクエストです。出師表について、中身を詳しく解説して欲しいです!よろしくお願いします
蜀漢末期は三国の中でも一番劣っていたためどう挽回するのか鍵だが、防御力は高く攻められる心配は少ないにしても国是が打倒魏王朝のため北伐は不可欠ではあった。費禕は蒋琬・姜維とも考えが違うため難しい立場ではあったし、国内の勢力争いに巻き込まれた感じはありますね魏の降将である郭循に命を奪われたことで蜀漢の寿命も縮まった。
費禕が「(後に)司馬になった」とあるのはおそらく魏延傳の「(230年)功績をあげ帰還して(丞相府司馬から)前軍師に昇進した」とあるのとパラレルな関係ですので費禕が就任した司馬は『丞相府司馬』で間違いないはずですつまり魏延の後任に丞相府で階位を進めたという関係ですね(同時期に楊儀は丞相府長史(長官)に昇進していますので230年ぐらいにまとまった丞相府での人事があったかと思われます)楊儀「ワシが一番偉い✌😗✌
特に魏延の立場がややこしい🫠
@@KOUMEI_NO_WANADA 新右衛門さんと一休さんと桔梗屋さんの三つ巴の法則😗(※別名『三国志の中の小さい三つ巴』)
諸葛亮は亡き友の影を費禕に見たのかもなあ
諸葛亮が蒋琬、費褘の後に誰がいる?ってるから、費褘が暗殺された時点で、蜀は滅亡に向かってカウントダウンを始めた。
三国志で一番好きな人物ありだてぇ
大雑把に解釈すれば諸葛亮没後蔣琬トップの時期約10年、費禕トップの時期約10年、費禕死後10年で蜀漢は滅亡した。
荊州の人材は優れているがアクが強い。荊州に流れ着いた諸葛亮では荊州前と益州以降の名士派閥や軍部のギスギスをまとめる力は無かった。(シカタナイネ)この為昇進させて政治の中心から外したり、1から10まで監視するディストピア体制で縛る方法を使った。(デントー)費イは方針を切り替える大鉈を奮った。(北伐閉廷。解散)だがアクの強さは変わらなかった。(アッー!)
意外と初めてなんですね。
蒋琬と費禕がいたから蜀は孔明没後も30年ほどもつことができた。費禕の死後に有能な後継者が不在ではどうしようもなかった。
費イは実戦経験はあったのかな?
・董允はキョセイが開く葬儀だから馬車でも”虚勢”が張りたかったんでしょうね(ドヤ顔)・『黄門侍郎(こうもんじろう)』って漢字変換して『肛門痔瘻』になりがち(知らんけど)・穏健派(費禕)を暗殺してむしろ積極派(姜維)を台頭させてしまうのはなんか安重根と伊藤博文みたいだと思いました(ネトウヨ並感)
一番乗り。姜維の北伐で蜀サイドの人物と言えば費禕を無視できまい。この動画でも言われるように彼の言い分にも理はある。それでも、自分は姜維の方を支持する(「段谷の戦い」での大敗は痛すぎたが)。費禕は事務処理は超優秀なスーパー官僚ではあったが、その一方、北伐に消極的で諸葛亮の遺言を守るのに汲々とするのみで蜀の先を見据えた展望を持っていたように見えない。また、酔って刺殺されるガードの甘さはうかつにも程がある。
大国の魏を相手に併呑されない具体的なビジョンが彼の中にあったかどうかはわからないが、かといって難しい状況の中で一生懸命に国家を維持し、そこに住まう数百万の民の生活と生命に対しての責任を果たそうとしていたのは間違いない。実際の政治はゲームと違う。このまま行ってもゲームオーバーだから、ワンチャン狙ってギャンブルかますようなことを統治者の立場の人間は絶対にやってはいけない。まあ郭徇に暗殺されてしまったというのは彼自身が予期していない事故みたいなもんだが。
費禕の暗殺に姜維はかんでなかったのかなー
うーん、自分は嚙んでなかったと思っている派閥ですね。確かに結果では姜維が自由になっていますが、一国の宰相を暗殺という手段で排除するという手法はあまりにもリスキーであり、国内が北伐どころじゃなくなる可能性なども大いに考えられます。もしそれが露呈してしまえば反発も避けられませんし。不測の事態が常に起こり得る戦場を知る姜維が、その危険性を考慮しなかったとは考えにくいというか(>_
自分も姜維黒幕説はなかった可能性が高いと思う。北伐では邪魔者だったにせよ、ただでさえ魏より人材不足なのに、いなくなったらまず内政で困るし、兵站などで結局は北伐に響く恐れもあっただろうから。
国政において劉禅はバランスを取ろうとしていたので,北伐反対派で、かつ姜維に言っていた持論を自らにもぶつけていた費禕をかなり信頼していたと思います😅費禕は董允の宮中路線を継いでいたと思われますので,董允にもう少し柔軟性と劉禅へのラポールがあれば、と思ってしまいます😭
ひぃっ 命ばかりは 命ばかりは
費禕は有能だったが、積極性が足りなかった「諸葛亮ができなかったものを、我らが〜」その頃の魏は確実に乱れに入り出していた。上手くやればできた可能性もあった
「儒教の価値観が薄葬」というのは聞いたことがないなあw儒教では「厚葬が正しい」「薄葬が正しい」どちらも言ってるけど(要するにその時の都合による)、普通は厚葬が主流かと。そもそも薄葬が主流になったのは曹操が命じたからで、蜀には関係のない話ですからね。
「当時の流行り」というイメージではありましたが、あくまで魏の中での話だったんですね(;'∀')
僕も詳しいわけではないですけど(汗、まあ「曹操死後の魏では」という補足はいるでしょうね。儒教では『礼記』によって葬儀の規模・格式が決まっています。これが基本。ところがこれをきちんとやろうとしたら、なかなかに大変。喪服を用意すること(当時の服はとても高価)や3年もの喪に服すことは、亡くなった時の服装で葬って喪も短くてよいという立場からすれば豪華というのが一般的な見方でしょうか。三国時代について述べると、曹丕は山林に葬られた堯舜を持ち出して、これこそが儒教の心に従うものであるとしています。つまり「儒教の経典『礼記』」より質素にすべきだと、「儒教の聖人・堯舜」で説明してるわけです。それは当時副葬品が度を超えて豪華だったため、締め付けが必要だったからですね。儒教が厚葬だ薄葬だといっても、なかなか単純ではないのです。
一般レベルでは葬儀は『厚い方がエライ\( 'ω')/』っていう認識が凄くあって儒教原理主義(論語)では『身分から1mmでも「厚すぎても薄すぎてもダメ(※論語『顔回死~』とか参照)」』←まあまあ厳しい・・・まあまあというかかなりだな笑↑故に社会的には「葬儀は(儒教的に)薄くしろよ!コノヤロー!」というベクトルが常に働く
ちなみに後漢時代に葬儀が(儒教が想定するより)厚くなり過ぎた背景には孝廉制度の影響もあり(※ちなみにこれは御他人様の意見です)”清貧”が偉いので金は『再投資”されない”分野に投資する事がエライ』とされ(※資本主義の真逆の思想ですね🙃💦)やはりそれには一番は葬式散財と墳墓への埋葬でした(余談ですが故に群雄はやたら墳墓をあばく)こうすれば『葬式で散財』に自動的に裏ドラの『父母へ孝行(手厚く葬るという民間道徳)』が付いてくるので孝廉ポイントとしては一手で2ポイント付く妙手なのでした😃
顔回については孔子も本心では厚葬にしたかったんですよね。だから弟子たちの行為を見逃したわけで。"孔子の心"と"『礼記』という社会的通念"、どちらに従うのが正しいのだろうか。後漢時代の考え方はこの辺りかな?※ 書いてから気がついたけどauたちの選択みたいだな。
諸葛孔明→勝海舟 姜維→沖田総司 劉備玄徳→坂本龍馬
劉禅→徳川慶喜?
後鳥羽天皇→本多正信→徳川慶喜・・・残念ながら三国志時代までは明かされておりませんでした。
漢王朝末期=徳川幕府の末期と考えるなら、勝海舟も坂本龍馬も倒幕派の人間だよ。天皇=漢の皇帝と考えるなら、逆に姜維が幕府を守ろうとする沖田総司というのがまたおかしくなる。
費禕と姜維の対立は玄徳時代からあった名士とタカ派の対立を引きずる形になりましたよね
どれほど才能ある人物がいても、協力できなきゃ国は滅ぶんだな・・・
以前費禕をリクエストしたので、費禕を取り上げていただき嬉しいです。
個人的には蒋琬がトップに立ち費禕が内政、姜維が軍事を司りバランスをとる体制以外蜀漢が僅かながらも勝機を掴む可能性はなかったように思うので、仮に費禕が凶刃に倒れる事なく鍾会鄧艾の侵攻まで存命だったとしても滅亡の結果は変わらなかったように思います。
諸葛瑾に引き続き自分の好きな費禕の話題をピックアップしていただけて個人的に嬉しいです。
諸葛亮没後の北伐について自分は「当初」費禕と同じ理由で反対派でした(人材を含む国力的に)。
でも皇帝劉禅の意思、国是として姜維の考えや戦績を見るとこちらも正しい、と思えたのが本動画の感想です。
あと仕事を為すには一定の地位(権力)が必要であることも再認識出来ました。
超人的なエピソードに見られる仕事ぶりだけでなく高いコミュ力は長所ですがそれが仇となったのがあっけなく残念です。
蜀の四相の中じゃ黒い人なんだけど本人も想定してなかったタイミングでしんぢゃったとこに人間味を感じる
天才タイプの政治家の全てが詰まってるって感じがします(*'ω'*)
ちなみに孫権が費禕に対しやった嫌がらせの「酒に酔わせていろいろ聞いてみる」は
諸葛亮大先生のベストセラー著作『将苑』でもおススメのやり方だぞ😃
いつも楽しく拝見しています^ ^
蜀漢が1番好きなので、とても楽しく拝聴しました(*゚∀゚*)
費禕のワークバランス能力が羨まし過ぎて嫉妬してしまいました笑
僕もメリハリつけてバリバリ仕事がこなせる人になりたい…
正直諸葛亮や姜維と比較すると消極的に見えるだけで、費禕は常識的な判断をしたという気がします。実際の行動を見ると別に完全に北伐に反対している訳ではなく、国力を超えた無茶はしないというだけですし。
蔣琬の東征が未遂に終わった理由として動画で述べていたのに加えて、荊州(特に襄陽)の所有権について呉と同意が形成できなかったのではないかと考えています。
諸葛瑾頼りの外交ルートですから、不安定で信頼に乏しく、話がまとまらなかったというのもたしかにありそう。
まぁ現地で暮らしてたら姜維より費禕のほうを支持しそうだけど。
江南三大名楼の一つで呉の孫権が築いた黄鶴楼には費禕が黄色い鶴に乗って飛来し、ここで休んだという伝説がある。
「国是」って取り扱いが難しい。。。
ただ、どのキーパーソンも嫌いではない。若くして才気煥発なんて本当にありがたい。
彼らがいたからこそ、結果はわかっていても蜀漢を最後まで見届けたい気持ちになっているのかも。
その国が興った理由。建国神話みたいなものですしね。
それがなければ国が存続する意味もないと考えるのか、それが無くても国を存続させられればそれで良いと考えるか。難しい話ですよね。
「建国神話」。
なるほどですm(_ _)m
孔明存命中の費禕の官職で最も重要なのは「中護軍(護軍)」。
軍隊内に限った警察長官みたいなものだが、実際には指揮権も握っていた?
魏では夏侯淵や曹真、蜀では黄権や李厳などが任命されているので要注目です。
諸葛亮の早逝による北伐中断を内心誰よりも喜んでそう。
費禕先輩やないですか。
個人的に好きな人物だし嬉しいです
まぁ。。腹黒いイメージはありますが(汗)
もうちょい長生きしてたらなと思いますが蜀の滅亡が少し長くなっただけかもだがそんな世界を見たかった
蜀単独の軍事行動ではこれまでと変わらない
魏を討つには呉と連携して二方面同時侵攻しかない
だからその時が来るまで蜀も呉も国力回復に努めるというのが最善の策だったと思う
費禕が生きていたならその機会があったかも
基本的に弱者が強者を倒すのは、臥薪嘗胆し、富国強兵し、相手の国が乱れた時に初めて軍事行動を起こすべきだと思う。
魏が乱れ、内乱を始めるまで、とにかく専守防衛するのが良いとは思う。費禕の方針は正しいとは思う。
内容のリクエストです。
出師表について、中身を詳しく解説して欲しいです!
よろしくお願いします
蜀漢末期は三国の中でも一番劣っていたためどう挽回するのか鍵だが、防御力は高く攻められる心配は少ないにしても国是が打倒魏王朝のため北伐は不可欠ではあった。
費禕は蒋琬・姜維とも考えが違うため難しい立場ではあったし、国内の勢力争いに巻き込まれた感じはありますね魏の降将である郭循に命を奪われたことで蜀漢の寿命も縮まった。
費禕が「(後に)司馬になった」とあるのはおそらく魏延傳の「(230年)功績をあげ帰還して(丞相府司馬から)前軍師に昇進した」とあるのとパラレルな関係ですので
費禕が就任した司馬は『丞相府司馬』で間違いないはずです
つまり魏延の後任に丞相府で階位を進めたという関係ですね(同時期に楊儀は丞相府長史(長官)に昇進していますので230年ぐらいにまとまった丞相府での人事があったかと思われます)
楊儀「ワシが一番偉い✌😗✌
特に魏延の立場がややこしい🫠
@@KOUMEI_NO_WANADA 新右衛門さんと一休さんと桔梗屋さんの三つ巴の法則😗(※別名『三国志の中の小さい三つ巴』)
諸葛亮は亡き友の影を費禕に見たのかもなあ
諸葛亮が蒋琬、費褘の後に誰がいる?ってるから、費褘が暗殺された時点で、蜀は滅亡に向かってカウントダウンを始めた。
三国志で一番好きな人物ありだてぇ
大雑把に解釈すれば諸葛亮没後蔣琬トップの時期約10年、費禕トップの時期約10年、費禕死後10年で蜀漢は滅亡した。
荊州の人材は優れているがアクが強い。
荊州に流れ着いた諸葛亮では荊州前と益州以降の名士派閥や軍部のギスギスをまとめる力は無かった。(シカタナイネ)
この為昇進させて政治の中心から外したり、1から10まで監視するディストピア体制で縛る方法を使った。(デントー)
費イは方針を切り替える大鉈を奮った。(北伐閉廷。解散)
だがアクの強さは変わらなかった。(アッー!)
意外と初めてなんですね。
蒋琬と費禕がいたから蜀は孔明没後も30年ほどもつことができた。
費禕の死後に有能な後継者が不在ではどうしようもなかった。
費イは実戦経験はあったのかな?
・董允はキョセイが開く葬儀だから馬車でも”虚勢”が張りたかったんでしょうね(ドヤ顔)
・『黄門侍郎(こうもんじろう)』って漢字変換して『肛門痔瘻』になりがち(知らんけど)
・穏健派(費禕)を暗殺してむしろ積極派(姜維)を台頭させてしまうのはなんか安重根と伊藤博文みたいだと思いました(ネトウヨ並感)
一番乗り。姜維の北伐で蜀サイドの人物と言えば費禕を無視できまい。この動画でも言われるように彼の言い分にも理はある。それでも、自分は姜維の方を支持する(「段谷の戦い」での大敗は痛すぎたが)。費禕は事務処理は超優秀なスーパー官僚ではあったが、その一方、北伐に消極的で諸葛亮の遺言を守るのに汲々とするのみで蜀の先を見据えた展望を持っていたように見えない。また、酔って刺殺されるガードの甘さはうかつにも程がある。
大国の魏を相手に併呑されない具体的なビジョンが彼の中にあったかどうかはわからないが、かといって難しい状況の中で一生懸命に国家を維持し、そこに住まう数百万の民の生活と生命に対しての責任を果たそうとしていたのは間違いない。実際の政治はゲームと違う。このまま行ってもゲームオーバーだから、ワンチャン狙ってギャンブルかますようなことを統治者の立場の人間は絶対にやってはいけない。まあ郭徇に暗殺されてしまったというのは彼自身が予期していない事故みたいなもんだが。
費禕の暗殺に姜維はかんでなかったのかなー
うーん、自分は嚙んでなかったと思っている派閥ですね。確かに結果では姜維が自由になっていますが、一国の宰相を暗殺という手段で排除するという手法はあまりにもリスキーであり、国内が北伐どころじゃなくなる可能性なども大いに考えられます。もしそれが露呈してしまえば反発も避けられませんし。
不測の事態が常に起こり得る戦場を知る姜維が、その危険性を考慮しなかったとは考えにくいというか(>_
自分も姜維黒幕説はなかった可能性が高いと思う。北伐では邪魔者だったにせよ、ただでさえ魏より人材不足なのに、いなくなったらまず内政で困るし、兵站などで結局は北伐に響く恐れもあっただろうから。
国政において劉禅はバランスを取ろうとしていたので,北伐反対派で、かつ姜維に言っていた持論を自らにもぶつけていた費禕をかなり信頼していたと思います😅
費禕は董允の宮中路線を継いでいたと思われますので,董允にもう少し柔軟性と劉禅へのラポールがあれば、と思ってしまいます😭
ひぃっ 命ばかりは 命ばかりは
費禕は有能だったが、積極性が足りなかった
「諸葛亮ができなかったものを、我らが〜」
その頃の魏は確実に乱れに入り出していた。上手くやればできた可能性もあった
「儒教の価値観が薄葬」というのは聞いたことがないなあw
儒教では「厚葬が正しい」「薄葬が正しい」どちらも言ってるけど(要するにその時の都合による)、普通は厚葬が主流かと。
そもそも薄葬が主流になったのは曹操が命じたからで、蜀には関係のない話ですからね。
「当時の流行り」というイメージではありましたが、あくまで魏の中での話だったんですね(;'∀')
僕も詳しいわけではないですけど(汗、まあ「曹操死後の魏では」という補足はいるでしょうね。
儒教では『礼記』によって葬儀の規模・格式が決まっています。これが基本。
ところがこれをきちんとやろうとしたら、なかなかに大変。
喪服を用意すること(当時の服はとても高価)や3年もの喪に服すことは、亡くなった時の服装で葬って喪も短くてよいという立場からすれば豪華というのが一般的な見方でしょうか。
三国時代について述べると、曹丕は山林に葬られた堯舜を持ち出して、これこそが儒教の心に従うものであるとしています。
つまり「儒教の経典『礼記』」より質素にすべきだと、「儒教の聖人・堯舜」で説明してるわけです。
それは当時副葬品が度を超えて豪華だったため、締め付けが必要だったからですね。
儒教が厚葬だ薄葬だといっても、なかなか単純ではないのです。
一般レベルでは葬儀は『厚い方がエライ\( 'ω')/』っていう認識が凄くあって
儒教原理主義(論語)では『身分から1mmでも「厚すぎても薄すぎてもダメ(※論語『顔回死~』とか参照)」』←まあまあ厳しい・・・まあまあというかかなりだな笑
↑故に社会的には「葬儀は(儒教的に)薄くしろよ!コノヤロー!」というベクトルが常に働く
ちなみに後漢時代に葬儀が(儒教が想定するより)厚くなり過ぎた背景には孝廉制度の影響もあり(※ちなみにこれは御他人様の意見です)
”清貧”が偉いので金は『再投資”されない”分野に投資する事がエライ』とされ(※資本主義の真逆の思想ですね🙃💦)
やはりそれには一番は葬式散財と墳墓への埋葬でした(余談ですが故に群雄はやたら墳墓をあばく)
こうすれば『葬式で散財』に自動的に裏ドラの『父母へ孝行(手厚く葬るという民間道徳)』が付いてくるので
孝廉ポイントとしては一手で2ポイント付く妙手なのでした😃
顔回については孔子も本心では厚葬にしたかったんですよね。だから弟子たちの行為を見逃したわけで。
"孔子の心"と"『礼記』という社会的通念"、どちらに従うのが正しいのだろうか。
後漢時代の考え方はこの辺りかな?
※ 書いてから気がついたけどauたちの選択みたいだな。
諸葛孔明→勝海舟 姜維→沖田総司 劉備玄徳→坂本龍馬
劉禅→徳川慶喜?
後鳥羽天皇→本多正信→徳川慶喜・・・残念ながら三国志時代までは明かされておりませんでした。
漢王朝末期=徳川幕府の末期と考えるなら、勝海舟も坂本龍馬も倒幕派の人間だよ。天皇=漢の皇帝と考えるなら、逆に姜維が幕府を守ろうとする沖田総司というのがまたおかしくなる。