【毛利元就解説】第二十話・大寧寺の変【豪族達と往く毛利元就の軌跡】
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- Опубліковано 8 вер 2024
- #毛利元就 #ゆっくり解説 #東方project
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初めましての人は初めまして、しかかくと申します。
今回は中国地方戦国史最大のターニングポイント、大寧寺の変について解説いたします。大寧寺の変の原因については下記の補遺にて解説していますのでどうぞご覧ください。
大寧寺の変 諸説検証~通説から最新説まで 【豪族達と往く毛利元就の軌跡・補遺05】
• 大寧寺の変 諸説検証~通説から最新説まで 【...
・参考文献
「毛利元就卿伝」「新裁軍記」「萩藩閥閲録」「大内義隆記」
光成準治編『戦国武将列伝9 中国編』
新名一仁編『戦国武将列伝11 九州編』
河合 正治『安芸毛利一族』
藤井 崇 『大内義隆ー類葉武徳の家を称し、大名の器に載る』
岸田 裕之『毛利元就ー武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』
長谷川博史『大内氏の興亡と西日本社会』
魚屋 翔平「陶晴賢の改名時期について」
和田 秀作「陶氏の奉書署判者について」
西田 智洋「大内義隆の官位に関する一考察」
萩原 大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」
中原 健 「陶隆房と大寧寺の変について」
・使用楽曲
針の音楽: / @harimusic896
『音降る神霊廟』『やまとごはん』『音降る幻想郷』より
(アレンジ:白鷺ゆっきー 様)
唯道是真 「音降る神霊廟」より
斑鳩の伽藍 「やまとごはん」より
ひび割れた金魚鉢 「音降る神霊廟」より
夢の後 「音降る幻想郷」より
不咲蕾未咲蕾 「音降る神霊廟」より
ひび割れた金魚鉢 「音降る神霊廟」より
大和に散らばる不思議な森 「やまとごはん」より
・使用サムネイル
『豪族達の神楽祭』(絵:友部キヌコ 様)
/ kinuk
・使用立ち絵
豊聡耳神子・物部布都・蘇我屠自古
(原作:東方project、 絵:真田源次郎ベル助 様)
/ berusuke_sanada
・地図:国土地理院
・他イラスト:イラストAC
・効果音:効果音ラボ
NicoNico; www.nicovideo.....
Twitter; / squaredeerhorn
大内義隆が陶隆房にひたすら甘かった理由として、以前は男色説や文弱説がよく取り沙汰されていた。しかしもっとシンプルに、大内家の軍事を取り仕切っていた陶の能力と動員力がなければ大内家に未来はない、と覚悟していたからではないか。それだと義隆がひたすら陶との融和に努める理由も理解できる。対決したところで勝ち目はないと思っていたのではないか
大内義隆は最後の最後で人の良いおぼっちゃん的な所が仇になってしまったように見える
大寧寺の変は大友の二階崩れがかなり関わってそうなんですよね…。敵を失うと内輪揉めするのは尼子に限らない気が…
この濃さの動画を月一で上げられるのすごいと思う
更新お疲れ様です、変はかなり用意周到に準備された計画だったのですね。吉見氏が抵抗してますがまさかこれが陶の命取りになるとは思わなかったでしょう。
元就の選択の正しさ機会を逃さない
決断力が最大限発揮された形になりましたね。隆元の絡みもあり義隆生存時から大内家は毛利贔屓が強かったから元就の決断で安芸と備後は治ってしまった。ここが最大の転機かな
義隆は家臣を信じる素振りをすることで謀反の流れを食い止めようとしてたのかな・・
今回もありがとうございます。陶、問田のことのように知らなかったことを知ったりとか、あるいは知っていたことだけど結びついていなかったことが結びついたりとかできて楽しく見ております。おさいの方。大河ドラマで演じていた川越美和さんの悲しい最後がかぶってしまって胸に重いものがのしかかってくるような思いがします。
補遺でも色々な変の原因となった説を解説していましたが、いずれにしてもこれだけの規模の根回しがあり、かつ割と事前にバレていても実行しきれてしまったあたり、大内家は詰んでいたんでしょうね。
義隆も平和な時代に生まれていれば、きっと名君だったでしょうね。朝倉義景とかもそんな感じします。
オッキーのコーナーの解説わかりやすくて好き
更新お疲れ様です。補遺も含めての大作ありがとうございます。楽しく見れました。🎉
ありがとうございます!本当は他にも大寧寺の変については触れたいことがあったのですが、このシリーズ中では今回で最後となる予定です。
大内義隆は、冷泉隆豊が先手取って誅伐しましょうって言ってんのに内藤、杉が裏切る訳がないとかこの段階でもマジで言ってたんか。お坊ちゃん感あるなあ。
しかかくさんの動画を見ると
義隆は基本的に有能だけど
ちょっと対応が甘いところがあり
それが積もりに積もって謀反に
つながったと感じる
しかかくさん、お疲れ様です。間に合いそうでよかったです。動画を拝見した後、聞きたいことがあります。その時もよろしくお願いいたします。
シカカクさん動画投稿お疲れ様です。
大石義胤を紹介していただきありがとうございます。大石家の家系図を見たのですが、帰農した初期から品川家(品川大膳の帰農した方の子孫)や河野家(伊予河野通直の子孫で、村を開拓した伝承を持つ)と通婚してますね。これはつまり、まわりの帰農した元武家の人々からも大石氏の素性を保障してる証左だと考えられます。
加えて、大石家の大内義隆遺児説はかなり有名だったようで、江戸中期頃の浜田藩藩主松平周防守が当時の大石家当主に大石義胤の母親が持ってたとされる短刀を見せて欲しいと言って来たそうです。
当時の国衆の配下にいた小さな城主はどうやらそこまで主君と同心していたわけじゃないようで、例えば高津頼満の事例とかあります。高津家は元々吉見氏の一族だったのですが、益田家に攻められて臣従した後も、吉見氏とのパイプを維持したみたいです。益田家臣になりながら吉見家臣としか通婚してません。益田家はこれを警戒しなかったんでしょうかね、、、よくわからない時代です。案の定裏切られてます。
城一家も似たような感じだったと思います。
この変のせいで、尼子家に中国地方の守護地位等を軒並み取られたこと考えると、大内氏の凋落は決定的だよなあ
大内という概念から大寧寺の変で失われたものが大きすぎて陶晴賢は誰かに操られたんじゃ無いかと疑いたくなりますね。北九州から明に通じる道が失われて大内家は単なる戦国大名に落ちぶれてしまった
直前になると翻意はバレバレだったのですね。
すぐに処断していればとも思いますが、内乱で大内領国が荒れに荒れた可能性はありますね。
お邪魔します
考証がしっかりしているとやっぱり面白いですね~
ところで、思い出したのですが、大寧寺の変で殺害された公家に三条公頼がいるんですが、
この公家の娘達の嫁ぎ先がちょっと凄くて、長女細川晴元室、次女甲斐武田晴信(のちの信玄)室で三条の方、
三女本願寺顕如室 教光院如春尼と今後の戦国時代を左右する勢力に嫁いでいます、元就は関係ない人脈ですがちょっと熱い。
ついに陶晴賢になったな…
陶の謀反というよりは他の大内家重臣も抱き込んだ当主交代劇
陶には義隆を捕らえて幽閉しておくつもりは無かったのかなあ
主を生かしておいたとしてもその後の顛末は変わりなさそうだけど
大内派で生き残った人だと毛利隆元もだっけ?
確か陶隆房を討ちましょうって、父元就に進言したけど反対されて行動できなかった結果、生き残ったって記憶してる
信長や光秀も当然、知ってたよなこれ・・・
津和野は山口線で1時間程度だから、こんなとこに敵対勢力があったら、陶晴賢政権の正統性が疑われますよね。そうか、陶隆康は海産物おじさんの弟だったのかw
相良頼房が大友家からクレームが来たから「義陽」を名乗るのを遠慮した例があるから、隆房も「晴賢」の名前を将軍家からもらったけど、義隆と同僚の立場があるから「晴賢」を名乗らなかった可能性があるかもしれませんね。
しかかくさんの過去動画、宇喜多直家と浦上宗景によく似ているなぁと思いました。そういえば直家も晴賢も大河ドラマで陣内孝則さんが演じていますね。
太平記の佐々木道誉といい、食えない反逆者を演じると上手ですよね。松永久秀とか明智光秀とか斎藤道三とかもやってほしい。
しかかくさん、投稿お疲れ様でした。今回も本当に楽しく拝見させてもらいました。次回、尼子氏と大内氏の和解編になると思いますが、どんな風になるのか、楽しみです。
次に、動画を見て思ったことなのですが、陶隆康が義隆に与して変にて討死したとおっしゃっていました。ですが、陶隆康は実在の人物ではないのではないでしょうか。『史学研究』254巻の「萩藩士宇野家と陶氏の系譜 -「宇野与一右衛門家文書」の再検討-」に和田秀作先生が書かれていたのですが、宇野与一右衛門家文書に書かれている文書の内容は、陶隆康関連文書や系図ともに、宇野氏が意図的に偽造したとのことです。
最後に質問になりますが、Wikipediaには、毛利元政が右田氏に養子入りしたとの記述がありますが、この点はどうなのでしょうか。個人的には、この話はないのではと思います。そのような記述がないからです。ですが、本当にそうなのか、しかかくさんのご意見をよろしくお願いいたします。
いつもご視聴いただきありがとうございます。
申し訳ありませんが、「萩藩士宇野家と陶氏の系譜 -「宇野与一右衛門家文書」の再検討-」にそのような内容が書かれていることは今回初めて知ったため、現在大至急で取り寄せております。動画を作る際に元となる「萩藩閥閲録」に記載が確認できたため採用したのですが、お恥ずかしながら偽文書の可能性は頭から抜けておりました。
右田氏については和田先生の「周防右田氏の相伝文書について」以上のことは私も知らないのですが、「萩藩閥閲録」の毛利筑後(右田毛利家)にも右田家の養子になったことは全く書かれていませんし、永禄12年に毛利元政が天野家家督を継ぎ、翌13年に右田才千代丸(元俊)が父隆俊の給地を元就から安堵、天正19年まで存在が確認できることや、才千代丸が幼少期には名代として右田新四郎という人物がいたことを考えると、毛利元政が右田氏に養子入りする隙は無かったと思われます。邪推にはなりますが、元政の子毛利元倶が右田に移り、右田毛利家の祖となったことから逆算して正統性を出すために養子の話ができたのではないかと思われます。
@@SquareDeerHorn しかかくさんのお役に立てて大変光栄です。補足なのですが、山口県史通史編中世にも、やはり隆康がいなかったことが書かれておりまして、陶弘詮・隆満・隆秋三代のことの詳細が書いてありました。ぜひご一読願いたいです。そして、右田氏のことも本当にありがとうございます。元政の右田氏養子入りの話は、やはりないと認識できました。これから益々のご活躍を心よりお祈りいたします。
石見国で帰農した右田隆次の子孫では右田隆次の子が実は大内義隆の子で右田家に養子に来たとなっているようです。
右田家は帰農した後も一目を置かれていたようで津和野藩の家老の娘が江戸時代に嫁いでます
@@user-pg5wu5vl8i そうなんですか!?それは初耳でした。また、津和野藩ということは対立していた尼子氏の家老亀井氏に仕えていたということになるのですね。やはり義隆の子孫はいらっしゃるのですか。詳しい情報、本当にありがとうございます。今後とも、よろしくお願いいたします。
光秀「私と陶の違いは何なんだよ」
変起こす前に根回ししてないじゃん、お前。根回ししてたらバレて失敗したろうが。
どう考えても手に余る領土管理に根回しに根回しを重ねても危うい独立。秀吉、家康と比べても何もしてないレベル。
現実でも会社から独立しようと思うと白髪になるほど酒に付き合ったり根回しが仕事より大変だからな。
同じ日向守でござる
下拵えだけでは。
義隆的には隆房への信頼も残っていたんだろうなぁ。最初は仲良かっただけに悲しいなぁ。隆房も義隆を倒した時は決して気持ちのいいものではなかったろうに
多分答えの一部はこれかなと思ってしまいます。普通の当主と配下守護代の関係とは感情や関係性が違う、或いは義隆はそう誤解していたのかなと。
なんだか義隆も隆房もグダってますね。けっこう生き残るチャンスがあったのに変を許した義隆は、ちょっと残念当主だなぁ
ここの心理は謎めいてますよね。
ついに来たかと。個人的には下向公家への殺意の高さが気になるところです。気分が高まってヒャッハーした結果でも通用するし、何らかの意図があってもおかしくない。もう少し手掛かりがほしいところですね
仙崎まで逃げたなら諦めず風待ちして海上逃亡すればいいじゃないと思えるけど、海も逃げられない状況だったのかしらん。
朝敵に良くならなかったな陶たち
実は陶晴賢・内藤隆世を朝敵とする文書が常栄寺文書79号に残されています(但し偽文書の可能性大:次々回解説予定)。
初めてまして
しかかく様は徳山毛利家14代目当主の毛利就慶(なりよし)さんを御存知ですか?
この方はUA-camもやっておりますのでコラボしたら面白い事になりそうです
義隆が場違いな公家政治を始めたためき現場の武士が置き去りにされて
不満が爆発したと。
北魏の六鎮の乱と似ている。