聞信如来弘誓願【正信偈038】

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  • Опубліковано 6 вер 2024

КОМЕНТАРІ • 5

  • @user-yl5ow2qm7y
    @user-yl5ow2qm7y 2 роки тому +1

    如来様の、許しを表す手の印と
    蓮華の花が美しくて好きです。

  • @furumichikazuya
    @furumichikazuya 2 роки тому +1

    お説法って面白いですよね。
    キリスト教でも神の予定説という考え方があります。天国に行ける人は予め決まっていて人の努力では変えられないということになります。これは一見不条理ですけど論理的に突き詰めるとこうなると私も思います。
    ところが仏教はさらにその思想を超えて全ての人がいつかは救われるとしています。これは革新的にすごい考え方だと思います。普段から考えていることですが、今日のお説法を聞いてまた思い出しました。
    同じような話を何度も何度も聞くのが楽しいです。

    • @user-kt9ro9wi8x
      @user-kt9ro9wi8x  2 роки тому

      神のみぞ知るですね。その上で神様はこんな人を救うはずだと善に赴くところに、キリスト教の信仰心の凄まじさを感じます。ありがとうございます!

  • @user-bv7pl4bg2l
    @user-bv7pl4bg2l 2 роки тому +3

    今小路様、おはようございます。
    どのような者であれ(信じていようが信じていまいが)救うとするのが阿弥陀仏さまの本願なら、何故、親鸞様のみ教えに始まり、蓮如様も、重ねて「一心一向に」「余の方へ思いを振らず」『仏助け賜へ』と申すべきなのか。
    既に救われている、しかもそれが阿弥陀仏さまの本願に叶っているのなら、上記のように称名念仏をお勧めになられるのか、何時もそこで躓いている私がいます。
    この一見矛盾したベクトルが対称的ではない論理を先人の善智識様方はどのように解決なされたのでしょうか。
    お教え賜りたく、よろしくお願い申し上げます。
    親鸞様のみ教えに触れ、また、蓮如様の御文章を読誦させて頂く度に躓く私が居ます。申し訳ございません。        北畑宏道 拝

    • @user-kt9ro9wi8x
      @user-kt9ro9wi8x  2 роки тому +2

      以前にお尋ねいただいた二種深心の問題と同じ部分かと思います。蓮如上人の表現では、意図的、意思的に阿弥陀仏に心を向けるように受け止めれてしまうところが厄介ですね。確かに入口、きっかけはそのような部分があるかもしれませんが、結論からすると阿弥陀仏から賜る信心ですので、疑いの余地がなくなるものかと思います。阿弥陀仏の救いを疑わなく「なる」のではなく、阿弥陀仏の救いに疑いの余地がないことを「知る」「聞く」というといかがでしょうか?