仏教の心を語る 3 汝自身を知れ 中村元 奈良康明

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  • Опубліковано 6 вер 2024
  • 1988年
    なかむら はじめ(仏教学者) なら やすあき(仏教学者)
    www.nhk-ep.com...

КОМЕНТАРІ • 1

  • @スメラ皇
    @スメラ皇 5 місяців тому +2

    小さい我=私(わたし)
    大きい我=公(おおやけ)
    閉ざされたちっぽけな我に囚われれば囚われるほど、心も身も酸欠になってきて呼吸が乱れてインブリード空間(血が濃すぎる)を創り出し、大抵の出口は厳しくて激しいものになる。己にとって近いものほど血が騒ぎ出すみたいなイメージだな。(己とイデオロギーによる人、事、金)
    逆に、大きな我になればなるほど、心も身も十分に酸素を取り入れて呼吸が安定してアウトブリード空間(血が薄くなる)を創り出し、大抵の出口は緩くて穏やかなものになる。己にとって遠いものほど血は鎮まるみたいなイメージだな。(己と自然の一部による人、事、金)
    愛は実践的に与えるものであり、愛を唱えても、実践的な愛は芽生えない。
    つまり、それは稔りあるものではなく形骸的なものである。
    つまり抜け殻の愛にエネルギーはない。洗脳されることはあっても身命には響かない。
    今の情報化社会全体に言えるよね。
    このことはZ世代以降は気づいているんじゃないかな。