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搾取されてるイメージが強いけどその気になった民衆が権力者の首を落としうる事実に、やっぱり数の暴力こそが原始的だけどシンプルに強いんだなぁって.......
長島一向一揆のあたりを随分さらっと扱ったのは意外。
一向一揆と来れば田中角栄やわ!
30万人が城に攻めてくるのはやばい コミケのオタクが全員押し寄せるようなもんでしょ
お坊さんはジャニーズばりの美形が多かったみたいからアイドルオタクが家族誘って参加してたかも
そのコミケ集団が今の国会に殺意を込めて攻めたら1時間と立たず終わりそうだな
このとき攻められた冨樫政親は高尾城で自害し、一族の一部は17騎程で現在の秋田県神宮寺にむかった。
浄土真宗の僧侶です。ひたすら南無阿弥陀仏と唱えるのは浄土宗の方ですね。
宗教と武力は一緒にあるといけないかも…。かと言って、非武装が善とは思えないし…。何の為にあるのか、まず考えるべきかな?あと、先導した人達の思想や当時の風潮が影響しているんだろうね。本日も貴重な分析と解説、ありがとうございました🙇♂️
この頃の寺院勢力はコミュニティとしての働きもあるから武力は持たないといけないとこあるからなぁ
@@1honshitsuka 中世から近世への過渡期なんもんで自力救済社会だから寺社も武力装置を持たねばの延長線上かなとは思うくらい
一向一揆。当時戦国の恐るべきテロリストであり、本願寺顕如は信長にとって極めて強力な扇動者で宿敵だったのですね。その後一向宗などは武力を失い、家康ら幕府が作ったした寺社奉行は『一線を越えた凶行は許さないけど、おとなしく信仰生活するなら快く認める』と厳しくクールに見て平和的な僧侶の信頼を得られたのですね。ありがとうございました!
大名も死後は極楽浄土に行きたいでしょうからね~~いまは「極楽」に行けるなどとは思わない人も多いので日本は宗教観がドライになってきた。まだまだ心酔してしまう人もいるがそれでも死後より、現生の幸せを願っての事でしょうし・・・
あのー話はそんなに簡単じゃないんだ、足利、北畠、毛利、林(大内氏分家)、河野、武田(安芸武田氏を含む)、浅井、朝倉、村上、雑賀、名だたる各地の大名や武家や水軍の関係者が、結婚もできて子孫が残せるから、信長としては、めちゃくちゃ悔しかったらしい河野氏からは、河野稔麿師、河野孫栄師、ベトナム平和運動やフリーチベットで活躍した河野文雄師親子、(一体なんヶ国語喋れんねんというくらい頑張ってる法栄寺河野氏)浅井長政のとこからは、浅井成海師朝倉忠景からは、朝倉顕祥師中央仏教学院の前の校長は、北畠師、教師には毛利氏、村上氏、学生には安芸武田氏の方がいたなまあ、戦国大名の駆け込み寺として機能した浄土真宗は、今はのんびりしたものです。ただ、多田等閑ニズムを継承した上山大峻門下の人たちによる、チベット解放のために頑張ってる若手がいます。がんばれみんなby田舎の門徒より
@@arusuno99 さん、あれに祈ってもうまくいかん、あれはこの前は効果があったのに、今の私を助けない、とか、たんなるパワースポットの使い倒しみたいな拝み方も問題があると思います。
@@arusuno99いくら現世でお金持ちになれても、地震や交通事故があると一発だけどね
イスラム教に、似てるところがありますね。織田信長が、弾圧するのもわかります。
信長が石山本願寺を攻め続けた理由の一つは、大阪そのものが欲しかったのも理由でしょうね。大阪という地の価値は歴史が証明していますし、信長ほどの人物ならば大阪の価値を正確にわかっていたでしょうから。
浄土真宗の坊さんは出家しないし肉食妻帯OKだから、寺にして菩提寺にしとけば家督争いにならないし、主家のサブ血統として、武家の二男や三男を住職に建てられた寺が多く、またその寺院は支城や砦としての機能が強化されている。なんで、その勢力発展において、元々戦闘集団としての機能を内包するような形になっている。
徳川家康がキリスト教を厳禁にした理由もわかります。家康自身も一向一揆に巻き込まれて、手練れの部下達を切り捨てざるを得なくなってしまいました。
キリスト教については少し状況が異なります。最初にバテレン追放令を出したのは豊臣秀吉当時大名などの権力者が火薬など武器を海外から輸入する為に人や土地を売買しており、秀吉が気付いたときには長崎が丸々イエズス会のものとなり、5万人の人間が既に奴隷として売られてる状況でした。(当時の日本人の25人に1人が奴隷として売られた、と考えると凄いですよね)日本の奴隷というものは主人であっても奴隷を殺せば死罪など厳しい成約がありましたが海外は主人が奴隷に何をしようとも自由。裸同然の数百人の日本人が端金で売られ不衛生な船底に押し込められてる状況に激怒したとされています。秀吉はキリスト教を追放すれば、宣教師のみを追放しましたが実際は商人が宣教師だった為無意味で奴隷貿易は続いていました。家康は豊臣秀吉にとっての右腕のような存在で1番の家臣だったので秀吉の隣でその様を見ていました。日本が侵略されないように鎖国をしたのは当然の流れだったのだと思います。
@@手水舎-k1r 火薬に関しては銀取引の書状もあったり、その銀儲ける手段として硫黄等あったりで金銭的に割と余裕ある大名がやるケースはあまりない(やるのは海外側でヒトカドイと呼ばれる捕虜を売る人買いや倭寇が主で、期限ありの丁稚奉公もとい小銭稼ぎのバイト感覚で自発的に売り込むケースもある)宣教師も人身売買に関しては難しい立場(商人の商売の許可証は出す立場、戸籍登録・教会法による保護を売られた人にかけるために改宗という形で携わるが商売内容には介入できない)で「こんなのが横行してたら布教の意味がない」と訴訟も起こしたりしてるフランシスコ会とかドミニコ会とかの国家事業とズブズブで現地適応拒否するタイプの会派が来日してた時期(イエスズ会は原則現地人の風俗に合わせて活動する国家に非協力的な組織だったから後に弾圧される)、イエスズ会からの訴訟から発令した日本人売買禁止勅令を出したポルトガル国王が戦死して侵略色強いスペインのフェリペ二世が継いだ時期と被った結果なとこある(サンフェリペ号事件とか…)
越前では重税で一揆内一揆がおきてたのですね('ω')
教団の組織化の天才がいたんだよなぁ
@@1honshitsuka 組織化が進んだのは蓮如の時代よってキリスト教は関係無いかなぁ
@@1honshitsuka 室町期から大問題なんすよ彼ら
坊官と云う戦闘管理者がいた、僧兵の指揮官。
本願寺は今でも創価学会以上に政治に力を持っている。2016年の宗教年鑑の数字で西本願寺の門徒総数が約792万人東本願寺の門徒総数が約320万人、特定の政党を支援してはいないけど個別の政治家に選挙応援という形で影響を及ぼしている、都市部で十数万票の固定票があれば当確ラインに乗るし政党内でも影響力を出せる。亡くなった元総理大臣の竹下登氏は一時期西本願寺の門徒総代だったことがある。
西は12000か寺、東は9000か寺日本の寺院数は75000カ寺だから相当数。
確か、当時の興福寺もかなり強かったんだよね。(正式な大和国守護を置けなかったほど)
大和の武士団は興福寺や春日大社の支配下ですもんね(なお言うことあまり聞かない模様
最終的に羽柴秀長が入ってようやく治まった
@@あぼぼです ケチだなんだ言われる秀長氏
一揆勢は勝利条件が成立しづらいので皆殺し覚悟しないといけないですからねえ。
一向宗て戒律が他と比べて厳しくなく、坊さんなのに長髪でいたら一向宗と見て間違いないそうです。🤔😳
竹槍などで武装した一揆が登場するのは、ほとんど明治時代。明治6年の筑前竹槍一揆など。のちに竹やり以外も銃器を使い多くの人間の命を奪う騒動となり、「百姓一揆」は問題となる。明治10年ごろから減り始め、古い形の武力闘争として減るが、昭和に起こった学生運動も「一揆」と言えばそうなのかもしれない。本人らは「革命」としているが。現代では「事件」「運動」なのだろう。「一揆」としては扱われないのか・・・・
織田信長は武田・上杉にびびって弱いやつばっかり相手にしてたw なんて言われるけどこの一向一揆だけみてもそんなこと口が裂けても言えんわ。下手したら武田・上杉なんかよりもよっぽどめんどい相手だろ
その上杉謙信も祖父が一向一揆に殺されてる上に、本人自らも一向宗に散々苦しめらますね。逆に武田は足利義昭による対織田包囲網の一環として連携していた訳で。
上杉謙信も1575年に武田勝頼が織田信長徳川家康に長篠設楽原合戦で大敗後に謙信と勝頼が和睦して、1576年に本願寺顕如と毛利輝元と上杉謙信で同盟をくみ第三次信長包囲網を作ってるよ。それで謙信は加賀一向一揆を味方につけて1577年の手取川合戦で織田軍に勝利した。
逆に浄土真宗のおかげで両国経営が成功したのが、大内氏と毛利氏
九頭竜川で30万集まったとしても宗滴おじいちゃんに蹴散らされてますけどね
死んでも極楽があるから大丈夫という考え怖いな
一向衆の識字率は半端じゃ無いよ!
戦国時代は小氷期における農作物の不作から起こったなんていう説もあるから、実は霊夢凄くもっともな事を言っているのでは……?阿弥陀如来を信じるだけでいいという点はイエス・キリストの唱えた「神だけを信じるだけでいい」というキリスト教の根本と似てますね。時代や国を問わずシンプルな宗教は発展するんですね
死後、神(仏)の教えをまもれば天国(極楽)へ行ける、現世より死後の方が重要なのも同じですね。
キリスト教は十字旗を挙げたが、こちらは莚《むしろ》旗を挙げた。
上杉輝虎の父祖父も一向一揆に殺されている
能景はそうだね
石原慎太郎が都知事時代に、江戸の庶民が頭が良かったのは、一向一揆の生き残りが江戸に流れて来たからって言ってましたよ!
「一揆」という考え方は日本特有な事象なのだろうか?「Putsch」はドイツ語だが日本では一揆の訳語になっている。だからヒトラーが起こした「ミュンヘン一揆」という。だがあまり使われない。英訳だとriotかrevolt(レボリューションなどで使われる)しかし騒乱や革命とは一揆は違う物の様に思う。考古学で言う一揆は「日本国内で何かの理由をもとに心を共にした共同体が精神と行動を一つにまとめ目的を達成しようとする行為、または盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団」という認識。宗教革命のような意味もこの一向一揆はない。
ある意味処と言を換えて今も変らず
一揆の怖さというのは、一揆側の人間達が死を恐れていない且つ上にいる者が死んだ時の崇拝者達の結束力がとんでもない。昔から言う、死人の兵は強いと。
親鸞上人は何を思うのか
8:32 白起「一万?そんなの誤差のうちだ」
三河門徒の徳川家臣団は、江戸に寺まで移転させてしまうほど、先祖代々信仰心が篤いです。
昔は5公5民で1期。現在は6公4民だね。
本当は怖いって言うか、怖いイメージしかないんだが。
そら、学会員のしつこさ思い出したら、一向一揆はやばいと思うで、まじw
いつだって宗教と政治と戦争が絡んでいるよう
今も昔も宗教の扇動は脅威でしかないっていうことですね・・・今は義務教育の影響か教育水準上がったから鎌倉お手軽仏教の最たるもの浄土真宗が脅威にはならなくなったけど、その代わりにね・・・〇蓮系とかがねw
一揆と乱は違いますよね?一揆は話し合いみたいなやつ
はえー
天草一揆は例外?
一向は日蓮のことで、天草の方はキリストだからじゃない?
こちらはキリスト教弾圧による反乱。
Wikiのコピペ?時系列と話の流れが酷い。
日本では叡山の山法師。一向一揆ですか。ヨーロッパでも宗教勢力が大きな力を持っていたようですが。中国ではどうだったのですか。またヨーロッパでも、日本でもある時期から国王、将軍の力が。絶対王制ですか?どうしてですか?
ロシアの国民も一揆を起こしてプーチンを討ち取ってくれ〜!
搾取されてるイメージが強いけどその気になった民衆が権力者の首を落としうる事実に、やっぱり数の暴力こそが原始的だけどシンプルに強いんだなぁって.......
長島一向一揆のあたりを随分さらっと扱ったのは意外。
一向一揆と来れば田中角栄やわ!
30万人が城に攻めてくるのはやばい コミケのオタクが全員押し寄せるようなもんでしょ
お坊さんはジャニーズばりの美形が多かったみたいからアイドルオタクが家族誘って参加してたかも
そのコミケ集団が今の国会に殺意を込めて攻めたら1時間と立たず終わりそうだな
このとき攻められた冨樫政親は高尾城で自害し、一族の一部は17騎程で現在の秋田県神宮寺にむかった。
浄土真宗の僧侶です。
ひたすら南無阿弥陀仏と唱えるのは浄土宗の方ですね。
宗教と武力は一緒にあるといけないかも…。
かと言って、非武装が善とは思えないし…。
何の為にあるのか、まず考えるべきかな?
あと、先導した人達の思想や当時の風潮が影響しているんだろうね。
本日も貴重な分析と解説、ありがとうございました🙇♂️
この頃の寺院勢力はコミュニティとしての働きもあるから武力は持たないといけないとこあるからなぁ
@@1honshitsuka 中世から近世への過渡期なんもんで自力救済社会だから寺社も武力装置を持たねばの延長線上かなとは思うくらい
一向一揆。当時戦国の恐るべきテロリストであり、本願寺顕如は信長にとって極めて強力な扇動者で宿敵だったのですね。その後一向宗などは武力を失い、家康ら幕府が作ったした寺社奉行は『一線を越えた凶行は許さないけど、おとなしく信仰生活するなら快く認める』と厳しくクールに見て平和的な僧侶の信頼を得られたのですね。ありがとうございました!
大名も死後は極楽浄土に行きたいでしょうからね~~いまは「極楽」に行けるなどとは思わない人も多いので日本は宗教観がドライになってきた。まだまだ心酔してしまう人もいるがそれでも死後より、現生の幸せを願っての事でしょうし・・・
あのー話はそんなに簡単じゃないんだ、足利、北畠、毛利、林(大内氏分家)、河野、武田(安芸武田氏を含む)、浅井、朝倉、村上、雑賀、名だたる各地の大名や武家や水軍の関係者が、結婚もできて子孫が残せるから、信長としては、めちゃくちゃ悔しかったらしい
河野氏からは、河野稔麿師、河野孫栄師、ベトナム平和運動やフリーチベットで活躍した河野文雄師親子、(一体なんヶ国語喋れんねんというくらい頑張ってる法栄寺河野氏)
浅井長政のとこからは、浅井成海師
朝倉忠景からは、朝倉顕祥師
中央仏教学院の前の校長は、北畠師、教師には毛利氏、村上氏、学生には安芸武田氏の方がいたな
まあ、戦国大名の駆け込み寺として機能した浄土真宗は、今はのんびりしたものです。
ただ、多田等閑ニズムを継承した上山大峻門下の人たちによる、チベット解放のために頑張ってる若手がいます。がんばれみんな
by田舎の門徒より
@@arusuno99 さん、あれに祈ってもうまくいかん、あれはこの前は効果があったのに、今の私を助けない、とか、たんなるパワースポットの使い倒しみたいな拝み方も問題があると思います。
@@arusuno99いくら現世でお金持ちになれても、地震や交通事故があると一発だけどね
イスラム教に、似てるところがありますね。織田信長が、弾圧するのもわかります。
信長が石山本願寺を攻め続けた理由の一つは、大阪そのものが欲しかったのも理由でしょうね。大阪という地の価値は歴史が証明していますし、信長ほどの人物ならば大阪の価値を正確にわかっていたでしょうから。
浄土真宗の坊さんは出家しないし肉食妻帯OKだから、寺にして菩提寺にしとけば家督争いにならないし、主家のサブ血統として、武家の二男や三男を住職に建てられた寺が多く、またその寺院は支城や砦としての機能が強化されている。
なんで、その勢力発展において、元々戦闘集団としての機能を内包するような形になっている。
徳川家康がキリスト教を厳禁にした理由もわかります。家康自身も一向一揆に巻き込まれて、手練れの部下達を切り捨てざるを得なくなってしまいました。
キリスト教については少し状況が異なります。
最初にバテレン追放令を出したのは豊臣秀吉
当時大名などの権力者が火薬など武器を海外から輸入する為に人や土地を売買しており、秀吉が気付いたときには長崎が丸々イエズス会のものとなり、5万人の人間が既に奴隷として売られてる状況でした。(当時の日本人の25人に1人が奴隷として売られた、と考えると凄いですよね)日本の奴隷というものは主人であっても奴隷を殺せば死罪など厳しい成約がありましたが海外は主人が奴隷に何をしようとも自由。
裸同然の数百人の日本人が端金で売られ不衛生な船底に押し込められてる状況に激怒したとされています。
秀吉はキリスト教を追放すれば、宣教師のみを追放しましたが実際は商人が宣教師だった為無意味で奴隷貿易は続いていました。
家康は豊臣秀吉にとっての右腕のような存在で1番の家臣だったので秀吉の隣でその様を見ていました。
日本が侵略されないように鎖国をしたのは当然の流れだったのだと思います。
@@手水舎-k1r 火薬に関しては銀取引の書状もあったり、その銀儲ける手段として硫黄等あったりで金銭的に割と余裕ある大名がやるケースはあまりない(やるのは海外側でヒトカドイと呼ばれる捕虜を売る人買いや倭寇が主で、期限ありの丁稚奉公もとい小銭稼ぎのバイト感覚で自発的に売り込むケースもある)
宣教師も人身売買に関しては難しい立場(商人の商売の許可証は出す立場、戸籍登録・教会法による保護を売られた人にかけるために改宗という形で携わるが商売内容には介入できない)で「こんなのが横行してたら布教の意味がない」と訴訟も起こしたりしてる
フランシスコ会とかドミニコ会とかの国家事業とズブズブで現地適応拒否するタイプの会派が来日してた時期(イエスズ会は原則現地人の風俗に合わせて活動する国家に非協力的な組織だったから後に弾圧される)、イエスズ会からの訴訟から発令した日本人売買禁止勅令を出したポルトガル国王が戦死して侵略色強いスペインのフェリペ二世が継いだ時期と被った結果なとこある(サンフェリペ号事件とか…)
越前では重税で一揆内一揆がおきてたのですね('ω')
教団の組織化の天才がいたんだよなぁ
@@1honshitsuka 組織化が進んだのは蓮如の時代よってキリスト教は関係無いかなぁ
@@1honshitsuka 室町期から大問題なんすよ彼ら
坊官と云う戦闘管理者がいた、僧兵の指揮官。
本願寺は今でも創価学会以上に政治に力を持っている。2016年の宗教年鑑の数字で西本願寺の門徒総数が約792万人東本願寺の門徒総数が約320万人、特定の政党を支援してはいないけど個別の政治家に選挙応援という形で影響を及ぼしている、都市部で十数万票の固定票があれば当確ラインに乗るし政党内でも影響力を出せる。亡くなった元総理大臣の竹下登氏は一時期西本願寺の門徒総代だったことがある。
西は12000か寺、東は9000か寺日本の寺院数は75000カ寺だから相当数。
確か、当時の興福寺もかなり強かったんだよね。(正式な大和国守護を置けなかったほど)
大和の武士団は興福寺や春日大社の支配下ですもんね(なお言うことあまり聞かない模様
最終的に羽柴秀長が入ってようやく治まった
@@あぼぼです ケチだなんだ言われる秀長氏
一揆勢は勝利条件が成立しづらいので皆殺し覚悟しないといけないですからねえ。
一向宗て戒律が他と比べて厳しくなく、坊さんなのに長髪でいたら一向宗と見て間違いないそうです。🤔😳
竹槍などで武装した一揆が登場するのは、ほとんど明治時代。明治6年の筑前竹槍一揆など。のちに竹やり以外も銃器を使い多くの人間の命を奪う騒動となり、「百姓一揆」は問題となる。明治10年ごろから減り始め、古い形の武力闘争として減るが、昭和に起こった学生運動も「一揆」と言えばそうなのかもしれない。本人らは「革命」としているが。現代では「事件」「運動」なのだろう。「一揆」としては扱われないのか・・・・
織田信長は武田・上杉にびびって弱いやつばっかり相手にしてたw なんて言われるけどこの一向一揆だけみてもそんなこと口が裂けても言えんわ。下手したら武田・上杉なんかよりもよっぽどめんどい相手だろ
その上杉謙信も祖父が一向一揆に殺されてる上に、本人自らも一向宗に散々苦しめらますね。逆に武田は足利義昭による対織田包囲網の一環として連携していた訳で。
上杉謙信も1575年に武田勝頼が織田信長徳川家康に長篠設楽原合戦で大敗後に謙信と勝頼が和睦して、1576年に本願寺顕如と毛利輝元と上杉謙信で同盟をくみ第三次信長包囲網を作ってるよ。
それで謙信は加賀一向一揆を味方につけて1577年の手取川合戦で織田軍に勝利した。
逆に浄土真宗のおかげで両国経営が成功したのが、大内氏と毛利氏
九頭竜川で30万集まったとしても宗滴おじいちゃんに蹴散らされてますけどね
死んでも極楽があるから大丈夫という考え怖いな
一向衆の識字率は半端じゃ無いよ!
戦国時代は小氷期における農作物の不作から起こったなんていう説もあるから、実は霊夢凄くもっともな事を言っているのでは……?
阿弥陀如来を信じるだけでいいという点はイエス・キリストの唱えた「神だけを信じるだけでいい」というキリスト教の根本と似てますね。
時代や国を問わずシンプルな宗教は発展するんですね
死後、神(仏)の教えをまもれば天国(極楽)へ行ける、現世より死後の方が重要なのも同じですね。
キリスト教は十字旗を挙げたが、こちらは莚《むしろ》旗を挙げた。
上杉輝虎の父祖父も一向一揆に殺されている
能景はそうだね
石原慎太郎が都知事時代に、江戸の庶民が頭が良かったのは、一向一揆の生き残りが江戸に流れて来たからって言ってましたよ!
「一揆」という考え方は日本特有な事象なのだろうか?「Putsch」はドイツ語だが日本では一揆の訳語になっている。だからヒトラーが起こした「ミュンヘン一揆」という。だがあまり使われない。英訳だとriotかrevolt(レボリューションなどで使われる)しかし騒乱や革命とは一揆は違う物の様に思う。考古学で言う一揆は「日本国内で何かの理由をもとに心を共にした共同体が精神と行動を一つにまとめ目的を達成しようとする行為、または盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団」という認識。宗教革命のような意味もこの一向一揆はない。
ある意味処と言を換えて今も変らず
一揆の怖さというのは、一揆側の人間達が死を恐れていない且つ上にいる者が死んだ時の崇拝者達の結束力がとんでもない。
昔から言う、死人の兵は強いと。
親鸞上人は何を思うのか
8:32 白起「一万?そんなの誤差のうちだ」
三河門徒の徳川家臣団は、江戸に寺まで移転させてしまうほど、先祖代々信仰心が篤いです。
昔は5公5民で1期。現在は6公4民だね。
本当は怖いって言うか、怖いイメージしかないんだが。
そら、学会員のしつこさ思い出したら、一向一揆はやばいと思うで、まじw
いつだって宗教と政治と戦争が絡んでいるよう
今も昔も宗教の扇動は脅威でしかないっていうことですね・・・今は義務教育の影響か教育水準上がったから鎌倉お手軽仏教の最たるもの浄土真宗が脅威にはならなくなったけど、その代わりにね・・・〇蓮系とかがねw
一揆と乱は違いますよね?
一揆は話し合いみたいなやつ
はえー
天草一揆は例外?
一向は日蓮のことで、天草の方はキリストだからじゃない?
こちらはキリスト教弾圧による反乱。
Wikiのコピペ?時系列と話の流れが酷い。
日本では叡山の山法師。
一向一揆ですか。
ヨーロッパでも宗教勢力が大きな力を持っていたようですが。
中国ではどうだったのですか。
またヨーロッパでも、日本でもある時期から
国王、将軍の力が。
絶対王制ですか?
どうしてですか?
ロシアの国民も一揆を起こしてプーチンを討ち取ってくれ〜!