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15年前くらいに前に学校帰りの呉線で、広島駅から一緒に乗って向かいに座ってるおじいちゃんがめっちゃ気さくに話しかけてくれて、元気なおじいちゃんだなと思って話していたら大和の乗組員だったらしく最後に呉に向かう途中だったそうな。呉に着くまで大和の話しを色々と聞かせてくれました。今思えば貴重な体験をさせてもらった。終点の三原までずっと話し聞いていたかったです。もう当時の話しを聞かせてくれる人なんて全国に数人しかおられないんだろうなと。
2023年98歳の大和の乗組員が最後の生存者が亡くなりました
自分が昭和56年に海自に入隊した頃はギリギリ、旧海軍出身の元士官や下士官兵の方が存在しました。色んな話を聞いておきたかったですが、訓練に慣れるのが忙しく、すぐに修行。各学校に巣立ちました。ちなみに呉教育隊です。休日には大和慰霊碑を探索したり短艇では油の浮く呉元軍港を漕艇しました。
@@青田清一 天一号作戦の時の?
@@青田清一様へ御冥福をお祈りします、フィクションまじえて大和最後の事書いた生存者いましたがそれは戦死者への冒涜ですよね。有賀幸作艦長は戦闘艦橋羅針盤を白手袋で押さえているのに羅針盤に身体縛り付けたとその場にいない人(吉田満さん)が本にかきましたよ。
@@零戦太郎-h7v様へ戦艦大和生存者の方が海上自衛隊勤務のお孫さんの結婚式のスピーチで私達がだらしなくご迷惑お掛けしますとスピーチしたは海上自衛官の方々がすっ転ぶ勢いで立ち敬礼されおじい様も返礼さたれコメント見ましたよ。それにしても3332名の内の生存者276名のお一人のお孫さんが自衛隊なんて凄すぎますね。
小さい時、元海軍のひいおじいちゃんが戦争の話をしてくれたけどその時は話半分に聞いてた今改めて戦争のことを知りたいと思った時にはもうお墓の中、、、
失礼ながらまだ当時の乗員が在命だと言うことに驚いた……。
語り継いでいきたいですし、今のうちに聴いておきたいですね
@@むにむにムニエル長門 ですね、大和ミュージアムで元乗員が回顧する特別展とかあったら是非ともお話を聞きに伺ってみたいところです。
あと数年もすれば、生存者の方々から聞くことができなくなる…。しっかり次の世代に語り継いでいかないといけませんね。貴重な証言有り難うございます。😂
@@sh1nz01sGOD様へ昔の話ですが、学徒動員の吉田満さん(大和生き残り)の本には有賀艦長が羅針盤に身体を縛ったと書かれましたが可燃物の多くは呉でおろしているから有り得ない話ですよ、水虫の為に雪駄で最後まで指示されて大和傾斜してから皆さん海に飛び込まれましたよ。
日本にはもう明治生まれの男性がいないらしい
大和をその足で感じた人がまだ残っている。すごいことや。
流石戦艦乗り御歳98でありながら座る姿勢もシャンとしている
大和の元乗組員でご存命の方は、あと何名いらっしゃるのでしょうか?祖父は武蔵乗組員でしたが、今年100歳を迎えました。いつまで元気でいてくれるのだろう。
そうですよね…僕が存じ上げる方は八杉康夫さんですね…八杉康夫さんは2005年に『男たちの大和』が角川映画になった際は、反町隆史などの出演俳優さん達に、高射砲の撃ち方などを実技指導したりしてましたね。実際に身を持って撃ち方を知れたのはとても光栄だと思いますその時は「娯楽映画だから主砲をぶっ放したのは仕方がないかな』と笑ってたそうです。 他にも1980年代に「大和探し」が始まり、調査三回目の1982年5月、指南役になり鹿児島県坊ノ岬沖に沈む大和をNHKスタッフらと探し当てた。戦後長く沈没位置は徳之島沖とされていた。「大和はそこまで到達しないうちに沈んだ。おかしい、という説はありましたが、毎年、徳之島で慰霊祭をやってきた地元出身の有力代議士の力でそのままになっていたんです」などしかし八杉康夫さんは92歳元戦艦大和乗組員)11日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなられましたね。僕の八杉さんの好きな名言はよく「日本は平和ボケ」などと言われますが、毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか? 確かに昔も殺しはありました。しかし、「殺してみたかった」などと、意味もなく殺すことは考えられませんでした。
@@vabyii567 小さい頃は祖父が隣家だった為に、よく遊びに行き、戦時中の話も沢山してくれました。今となっては、大変貴重なことだったんだと思います。武蔵の艤装員を務めた時のことや艦内での役割、戦闘時の体験、沈没時の恐ろしさ、陸上げ後のフィリピンでの苦労等…。私に話してくれていることは、ほんの一部だと思いますが、書籍では記されていないような生々しい出来事の数々を私の子供達にも出来る範囲で伝えたいと思います。
@@a183ce9acz4a そうだったのですか…私の祖父は第二次世界大戦(亡くなった為に詳しくは誰も知らない)に行ったそうで最近父から聞いて驚いてます。実際空を見上げたら戦闘機が100機飛んでくるなんてその場に居た人しか分からない恐怖心で今の時代それを聞いて中々想像出来ない事だと思います。私は不謹慎ですが戦争に興味があり、普段から想像しますそれをその方から直接聞くことはとても言葉では表せません「未来の日本お願いします」今至る所で戦争が起きてる中彼らが残した名誉を深く持ち胸を張って生きようと強く思いました。
戦艦大和の生存者は2010年20人ほどいましたが、2023年で全て亡くなりました 最後の生存者98歳だったそうです
大和会とか武蔵会とか、大和や武蔵の生き残りの集いみたいなのがあったのだが生き残った乗員の多くが亡くなり。さらに生きている人も高齢化したものだからもう十年以上も前に解散しているからな。動画に出ている石上さんは、現在は九十でも、当時は十代の少年水兵だろうし最後の一人でも不思議はないな
まだ生存者様が御存命だったのですね。少年兵でしょうが、あの轟沈の中を生き残って証言されるのは貴重な話です。自分の母親は鹿児島で大和轟沈の爆音を聞いたそうです。桜島の噴火?と思ったそうですが、湾の向こうだったそうで。当時は大和は機密だったので、戦後海軍から復員した叔父に聞いて大和と言う巨大戦艦が鹿児島沖で沈んだと初めて知ったそうです。
石上さん。98歳というご高齢でここまでしっかりと歩かれ、お話をして素晴らしい。歯もおそらくご自身のもので、生命力の強いお方だと存じます。想像だにできないほどのご苦労の青年時代だったと思います。大変貴重な証言をして下さり、ありがたいことです。
令和の今に大和の乗組員が生きておられるとは。
元乗組員が生きていたんだね。あと1年で80年なので、ぜひ生きてほしいね。
幼少の頃は大和やゼロ戦のプラモデルを作ってそのカッコよさだけに酔っていた。しかし大人になった今はその誕生の経緯と最期を知る事により設計者、兵士、大戦での経緯など考えさせられる事も多い。一番大切なのは戦争で亡くなった多くの若者達を現代に生きる我々が想ってあげる事。
大和はまだ分かるが、零戦はダサいわ。
@@大祐綾田貴方のカッコイイと思う戦闘機を教えて欲しい
考えさせられる、とコメントする人は、なぜか考えているその中身の話はしない人ばかりなんです。考えて感傷にふけっているけれど、歴史の事実を見ているか、一次資料を探したか、そういう文献、発信者を辿ったかというと、そういう作業はしていない人が圧倒的でした。
想ってあげるって上からやな。うすっぺらいわ。
ダサいとは思いません。私には零式艦上戦闘機どころか、零戦を構成している一つ一つの部品。部品の詳細な寸法を記した設計図すら製図できないです。零戦を制作した技術者の人達を尊敬します。私には、プロペラに機銃の弾が当たらない機械的な仕組み自体理解できない。
大和の最期を知る人はもう居ないのか。八杉康夫さんの講演会に1度でいいから行ってみたかった。
護衛の駆逐艦の乗組員の人もいないのかな?
@@ばねっさ-b1l 数年前に駆逐艦雪風で大和と武蔵の最期を看取った二人の元乗組員の方が鮮明な記憶のもとインタビューを受けるドキュメント番組がありましたが、お二人とも亡くなられたそうです。坊ノ岬沖海戦に参加して今もご存命な方は居るとは思いますが詳細は分かりません。
@@ばねっさ-b1l探せばいるけどもうほとんどかなり少ない。零戦パイロットさえ少ないから
私も2005年頃に八杉氏の著書を購入しました。素晴らしい本でした。
たしかに戦争は良くない家族とも別れ悲しい結末を生むだけ。しかしこの戦争は日本を守るために戦ったのである訳で現代の日本人は占領教育を受けているからして戦争はいけないが対話で解決できない相手にどう立ち向かうのかを何も考えていない。戦争を起こしてはいけない核を持ってはいけないと強く世界にアピールできない理由も知っておくべきでしょう。日本を愛し家族を愛して戦った先人方に敬意を
戦争には負けたけど、この時の日本があるから今の日本があるんだよな!
ほんと戦争に負けず軍が解体されなかったらと思うとゾッとするわ
当時の国家予算の3%を一様3隻建造した当時の日本の工業力……
英米独ソ除けば、日本単独で全世界の兵器生産超えた国日本。
なおアメリカとソ連
今の日本に作る技術があるかどうかも怪しいし作る金も無いと言う事実この頃は一般庶民は戦火で大変な生活だったらしいけどアメリカに追いつけ追い越せで活気はあったんだろーな
@@taigaow1995まあ技術なんてそんなもの、F14tomcatだって今やロストテクノロジーだし
@@tazan2694 作れなくなったのは仕方ないにしても金すら無いのはまじで悲しいよな当時の日本だってアメリカに比べたら貧乏も貧乏だったけど金欠の中絞り出して予算付けて、大和作ったのに今の日本の財布にそこまでする余裕無いよ
今の護衛艦でもデカく感じるから大和は相当大きかっただろうな
近所のおじいさんが同じ様に配置換えで作戦前に大和を降りた人がいました。玄関の土間に1メートル以上ありそうな大和の模型を飾っていました。私が幼い頃、砲身の中に入って掃除した経験が怖かったと話してくれたのをなんとなく覚えていますが実際に中に入って掃除できたのかは10年程前に亡くなられたのでもう確かめ様がないですが
男のロマンですよ大和は大和乗組員がこういう貴重なお話は次の世代に語り継がなきゃいけない
こういう取材は、大変立派です。ありがとう。
98とは思えないくらいしっかりしてて肌の艶も良く、、、かっこいいお爺さんだ。
昨年度、仕事の関係で石上さんの講演会の準備に参加出来たことは私の誇りです。
大本営の机に ふんぞり返って無茶苦茶な作戦を立てた連中、、、、何も分からずに沈んでいった若者、、、、不条理だね。
時代にそぐわなくなった大和だけどそれにしても悲しいほど格好良いなぁ…
時代にそぐわなかったのは大本営やら海軍首脳が戦艦の扱いを間違ったため艦隊決戦などと日露戦争から進歩しない思考ではなく米海軍のように空母や輸送船の護衛や上陸作戦の支援と正しく扱えば活躍の場はあったはず。なぜミズーリ級が戦後も活躍したのか、それは運用方法が適切であったからです。
@@akibanokitune最初はそのつもりで編隊組んでたけどミッドウェー海戦で根こそぎ空母持って行かれてオワコンになってんまあどの道長丁場になれば負ける道しかないねんけどな
ほんまそれな。古今東西全ての艦艇の中で大和型が圧倒的にカッコイイと思う。不謹慎と言われても、そこは自分に正直で良いと大人になってから強く思う。その方がむしろこの艦の建造・運用された背景や、この艦を舞台に起こったことが心に突き刺さるんですよ。
@@akibanokitune マッカーサーも回顧録で語っていますが、戦艦大和が作戦通りレイテ湾に突入していればアウトレンジ戦法で米艦隊に多大な被害与える活躍ができたはずです。開戦時、日米両国海軍の空母保有数は日本が9隻、米国が7隻で日本が多く所有していました。そして日本は更に4隻の空母を建造中でした。1921年ワシントン海軍軍縮条約で日本の戦艦・航空母艦等の保有数を制限され不利になったこともありました。日本の問題は、敵のスパイ、米内光正、永野修身、山本五十六、瀬島龍三、源田実・・・らが軍内部に浸透し日本が負ける作戦を実行したからです。仲小路彰氏は、山本五十六は敵のスパイと喝破しております。現在の日本も同じ状況かと。
@@Aランチ-d9m 大和は死に場所を間違えましたね。たとえ小沢艦隊の囮が失敗したとしても航空機に一方的にやられ放題で攻撃されるようなメジメな最後にはならなかったと思います。
もうすぐ大東亜戦争に参戦した人も居なくなってしまう、何だか切ないな
地球上に生きている人間全員に、必ず寿命がある。大東亜戦争の経験者が一人残らずいなくなるのは自然な事だ。
大和の3番艦、当時世界最大空母、信濃も忘れないで…
武蔵と信濃のミュージアムとかできないのかな?
信濃のビジュ大好き
@@ただのワイルドベタ好き大和ミュージアムを拡大して、武蔵と信濃の展示資料室を作って欲しいな
難しいやろうな。武蔵は建造後、一度しか戦ってない。初陣となるレイテ沖海戦の最中、シブヤン海にて沈んだ。一方の信濃は進水後、艤装工事の為に呉へ移動中、バラオ級潜水艦アーチャーフィッシュに攻撃されて沈没。どちらも名前の割に、活躍が少ないんだよ。大和だって実を言うと、作戦に参加しても実際にその主砲を放ったことは殆どなかった。
@@onezero7627 死ぬとわかってた人、日本を守ると思ってた人を称える為にはしっかりと後世に残す。その意味で俺は博物館を作って欲しいなぁ
今年も桜が咲いた、、英霊に感謝。
英霊(侵略者軍)
英霊には常に感謝ですよ~靖國神社にお参りした時には感謝の気持ちですよ
その英霊とやらに戦犯として処刑された人も合祀されていることをお忘れなく。
国家の指導層は判断を間違えたらダメって見本だな…そして間違えない様に国民の側も監視をしていないと、また同じ過ちを繰り返す。しかし、残念ながら戦後は右と左が入れ替わっただけで、根本的な問題は戦前となんら変わってないというこの現状…
最後の男のアナウンサー分かってる風で全然分かってないな💦
失礼かもしれませんが、まだ生きている方が居るのは、亡くなった戦友たちが後世に伝えてほしい気持ちで強い魂が宿ってるのではないのかと思います
亡くなった叔父が予科練年少生であった大和最後の出撃乗組員候補に成ったがお前はまだ若いと司令から外されたと聞いたよ
あの時代に現代と同等の前にも横にも突き出ている大和のバルバスバウを見ていると、やはり最先端の造船技術だったんだなあと思ってしまう。
私の祖父も大和特攻に殉ずる予定でした。。前日に鯖の刺身で食あたりになり乗船不可のち陸路で大和に追いつこうとしたのですが間に合いませんでした。それから亡くなるまで鯖は一切食べませんでした。とても怖い人でしたが話は面白いしもっといろんなことを聞けばよかったと思ってます。
大和の乗組員が少なくなってるのは本当に淋しい…
お気持ちに共感しますが、地球に生きている全ての人間に寿命がある。
当時の写真が男前で、98歳になられても面影がありますね
乗組員時代の石上さんなかなかのイケメン
自分の誕生日にこんな残酷なことがあったとは
以前大和の中で作っていたラムネジュースの話を聞いて感動しました!
16歳の少年に国が死ねと言う、、、本当にとんでもない事だ😢
異常ですよね
私の曽祖父がヤマトの乗員でしたよ沖縄への作戦の直前に配置換えされたから生き延びましたが。石上さんとは面識はあったかもしれませんね
戦争はいけない大和の元乗組員と遺族の方たちの言葉が心に響きました
あの戦争の本質的な議論をしない事には、日本が本当の意味で平和になることはないと思います
一隻に三千人も乗っていたのはすごいし沈没したらほぼ全員死ぬのが痛ましい
ある修学旅行の学生が沖縄にて戦没者遺族が語る沖縄戦の悲惨さを伝える講演会で日本軍の集団自決強要や無思慮さ等を恨み辛みながら話していた時突然、立ち上がった別の学生が涙ながらに「俺のじいちゃんは沖縄救援に向かって4んだんだ!」「それを知らないのか!」と訴えたのを目撃したという。彼の祖父は、戦艦大和の乗組員だった。この話が本当かどうかは知らないが沖縄の皆さんには知ってもらいたい。玉砕が目的だった。作戦そのものが無意味だった。そう語る人の声ばかりが大きいが当時の日本は米軍に占領された沖縄に対して何もしなかった訳ではないのも知ってもらいたい。
脱帽😞
美談のように見えて美談でもなんでもなくて草だからなんやねんwで済む話じゃん当事者からしたら
だとしても民間人を大量に死なせたのは事実であって、救援をしようとした事と現地部隊の蛮行とは別の話になってくるんじゃないかね。その学生さんは軍と祖父をごっちゃにしちゃったんだろうか、だからまるで批判された気になってしまったんだろうね。
@@アッハイネコ連隊 日本全国で起こったことでもありますけどね。唯一地上戦が行われた、という差はありますが二発の原爆だけでも約20万人もの民間人が犠牲になってます。(主要都市はほぼすべて通常爆弾での爆撃を受けました)本来なら大量虐32した張本人は米軍なんですが何故か当時の日本のせいにされる風潮が教育の現場で続いています。沖縄は特にその風潮が強いと感じるんです。
少なくとも軍上層部が「沖縄救援」という目的があったとは思えないし、私がその場面に遭遇したならば、そうした発言をした人間を白い目で見るね。
乗り込まなければならなかった方その前に降りられた方それぞれだったんだな 敬礼
幸いな事に大和乗組員の方3名にお話しを伺う事が出来ました。うち3回と最多だったのが、映画『男たちの大和』のモデルとも言われた八杉康夫さんでした。3名に共通していた事はとにかく巨大であったと言う事です。そんな巨大な船でも沈むと言う事。『不沈艦』はあり得ないと言う事です。
国敗れてもあの巨艦を建造した技術は今にも残っていると信じます。
カタログスペックと建造費だけ高い割に大した活躍も無くて建造技術向上したよねくらいしか誇れるものがない言い訳聞こえるのは僕だけだろうか
現在呉では大和クラスのタンカーを何隻も作ってるので、造船技術としてはめちゃくちゃ活躍してるんだなって感動しましたね。
言ってる事は的を外してません。沖縄に辿り着くことすらできなかった大型戦艦大和よりも、目的地に到達して物資の揚陸に成功し、島にいる兵士達に武器・弾薬・食料を送り届けた輸送船の方が、軍事的運用の面で価値があったと思います。
今も架空の存在のように感じる特別な艦。でも確かに存在した。その艦の元乗組員というだけで引き締まる思いがする。もっともっと話を聞く必要があったと思う。皆に伝える必要があると思う。
戦争を起こさないため、内外で「させない努力の徹底」に必要。・中露の攻撃を防ぎきり、諦めさせる軍事力(外交)・軍事力を適切に理解させる教育(内政)
本当に今の内に実際に体験した人の話を聞いときたいな
当時の日本の勢いから見たら政府も国民もイケイケでアメ公なんぞやってしまえ!って感じだったんだろうな‥そりゃ日清日露連戦勝利、チャイナも攻めてて神風だ!って時代よ。第二次大戦期は世界中がイカれてたからなあ‥
片道じゃないヨ。行って帰ってくる燃料は積んでいた。
戦争という目的で造られた悲劇の戦艦。そのシルエットは戦艦の中でも儚く美しい姿だったに違いない。
4:31 それはサマール沖海戦
米護衛空母に栗田艦隊が砲撃した戦いだよね
タフィ3への砲撃
16歳の子供が戦争に駆り出されたのか。恐ろしいな。
海軍特別年少兵と言う制度で今で言う中学生くらいで志願して海軍に入った人達がいましたから、大和に限らず南の島の守備隊で餓死した人や硫黄島で戦死した人などなどたくさんおられました。その中でも艦船に乗艦出来た人は毎食食べられたからある意味恵まれたところがありました。
俺の曾祖父さんと大叔父が海軍らしく戦艦大和ではないけど坊ノ岬沖海戦の参加した船に乗ってたと聞いた記憶があったからいつか聞いてみようと思いました。
毎回の素晴らしい音読ありがとうございます。
戦争はいけない…履き違えてはならない。守らなければならないものがある。
【戦争はいけない】日本では長く百点満点の答えでした。ただし、そこで思考停止してしまうと、次の戦争を呼び込む“場合”もあります。ちょっかい出して来る相手に、「考え直せ」と言う意思表示は必要。
世界最大の射程と155門もの25mm機銃を保有する、防御力も当時世界最強だった大和。
元乗員の証言ではシールド無し機銃は敵機の一波攻撃が終わる頃には戦闘機の機銃掃射で機銃員の大半が戦死したらしい。
@@mr.goldenbatman702 敵戦闘機は20ミリ連装機銃で、いくら大和が25ミリ3連装機銃でも、常時先制攻撃は難しかったでしょう。ほんの100メートル位の優位性しかなかったかも知れません。35ミリ機銃を設置して常に先制迎撃、シールドを多用して戦闘員の死傷を最大限抑制出来ればあと30分は長く戦えたかも知れません。
@@riuUC何の話をし出すんだ。
@@mr.goldenbatman702 そのシールド「主砲衝撃波・風雨避け」であってただの鋼鉄板だけどね(まぁ上部構造の大半も同じだけど)。基本司令塔・煙突・砲塔以外で甲板より上の構造物はほぼ「非装甲」と捉えていい。勿論大和型のみならず他の戦艦も。
アメリカの対空砲は敵機の至近で破裂する優れもの。
当時の大和に搭乗していたわけで現場での経験や見た事を語るのはほんとに価値があるが、あくまでもその現場での体験談が意味があるわけで、その方の政治や歴史や外交の意見が真っ当だとは思う必要がないかなと思う
坊ノ岬沖海戦で大和に乗船されていた方々は全員お亡くなりになってしまったなんて。自然の摂理とはいえ、悲しいです。生還者である八杉康夫さん、坪井平次さんの著書を読みましたが、とにかく凄絶で絶句しました。とても読み易く書かれておりますので、是非読んで頂きたいです。散華された方々、生還し戦後お亡くなりになられた方々の御冥福をお祈り致します。
武蔵の乗組員のその後も辛いものがありました。
いまでこそ大和は有名ですが、日本国民がその存在を知ったのは実は戦後です
ええ、そうなんですか?恐ろしい事ですね。プロパガンダとしてなら絶大な効果はありますが、純粋に兵器として見れば、戦闘機主力の時代ではただ的が大きいだけで、あの巨大戦艦を作ったのであれば馬鹿げてます。戦闘機が何百台造れたことか。
機密保持でね。だから戦艦長門の方が人気が有ったという。
そうなんですか、なんか悲しい気分です。
機銃はめちゃくちゃ当たっていたそうなただ25mmでは威力が低すぎた…
スタンダードな20mm砲より威力あるぞ。40mmVT管より、艦載機が費用対効果で安い。
@@tennouheikabannzai貴方は一瞬で撃ち終わる14発の弾倉を交換し続けられる?戦闘中に、それも弾除けもなく。
それより噴進砲を搭載していれば少しは貢献できたはず
人力運用で毎分150発(1回の装弾15発)の短距離防空兵器で足りない話をしているのに、格下口径20mmと比較する意味って?作戦を通じたアメリカ軍機の撃墜数は5(除く被弾52機)。防空駆逐艦が随伴しても、この結果。
@@FTAP46あれは効果的だったみたいだね。伊勢はその噴進砲で米軍機を結構落としていらしい。
1:22 この人歴史秘話ヒストリアに出てたの覚えてる
高校生の時に乗ってた人が今じゃもう90代……戦争を語る人たちがいなくなっていくなぁ……
this is a great story. love Yamato from Vietnamwished I understand what they are saying
この国の平和を維持することそれが現世を生きる我々日本国民の責任。
海の藻屑な訳あるか、現代日本の礎だよ。大和、平和と覺悟の象徴。
私の曾祖父ちゃんは戦艦武蔵乗り組んでいました。艦と共にしました。。武蔵と大和、兄弟艦でありながら大和の話ばかりで 武蔵の事も取り上げてほしい❣❣❣
海底の大和だいぶ朽ちてきてるな
46cm砲の射撃を生で体験した人の話ってすごい貴重だな
元乗組員の言う通り‼️憎しみは憎しみを産み悲しみは悲しみを産むだけと言うように戦争は全く無意味の争い事・・・二度と戦争を起こしては駄目だ(涙)争うのでは無く両国が繋がり合って平和な世界になる事を僕は一生・・祈りたい
本気で平和を望むなら自分たちが勉強して議論してディベートしないといけない。戦争の悲惨さのみを注目しても何も解決しない。
8:25失礼な表現でしょ
大和ミュージアムが2025年2月から一年間の工事で休館。
曽祖父が戦争に行った話は小さい頃聞いてたが戦闘に参加したくないから食糧係やってんって息子の祖父が言ってたけど調べれば調べる程大陸系、ソ連から中国にかけて渡り歩いて戦闘してて更に自分の家のゴタゴタも気にしながら生き残った事実があって今自分達に繋がってるのは奇跡なんだと思った。
沖縄特攻では自慢の主砲も撃つ事も無かったと証言もあったとか、空の護衛も殆ど無く沈んでいった戦艦大和・・もっと活躍して欲しかったです。
最後の対空戦闘は、雲が低く垂れており主砲はおろか副砲による対空射撃の効果も期待できない状況でした。主砲による対空三式弾は時限信管の性能上、3万メートルが限界でそれ以上先の敵艦載機群の大規模編隊を撃破することは不可能でした。3万メートルを切ると艦載機群の大編隊は解かれてしまうため、天候が晴れであっても主砲による対空射撃の機会はせいぜい3回程度で、あとは中距離砲として重宝された副砲と高角砲群、最後は機銃群による対空射撃となりましたね。
八杉さんも何年か前に亡くなりましたよね。
2019年だったか大和を建造した呉の造船所に仕事で行きましたドックを上から見たら自然と敬礼しました国や家族らを守るために戦い故郷に帰れなかった兵士に対しての感謝の気持ちだったのかな
勘違いしてる人いるけどこれは数年前のインタビューで、去年最後の乗組員の方が亡くなったということです く(`・ω・´)
これほど壮大で美しい軍艦なのだから、船員として乗船できた当時の若者は誇らしかっただろう。
因島で男たちの大和のロケセットを見学しましたが、その威容はまさに海に浮かぶ城でした。第二次世界大戦前の大艦巨砲主義時代に大和の存在を世界に公表して現在の核兵器のような戦争抑止力として活用すべきではなかったか。或いは大戦初期に大和、武蔵をもっと活用していれば戦果が上がったのではないかと考えると、温存して戦機を逃した挙げ句特攻で大和と乗組員を消費してしまったことが不憫でなりません。
大和の乗組員インタビューでよく見ていたのは八杉康夫さんという方でしたが、また違う見え方が見えてきますね。
OVAの戦記物「旭日の艦隊」「紺碧の艦隊」では、大型選管は、「ヤマトタケル」1隻に絞り、代わりに艦載攻撃機などで構成される空からの攻撃も想定した潜水艦隊を御ぜの海軍は作りました。こういう海面下からいろいろな作戦ができ、それが現世の第二次大戦に導入されていれば、戦争はもっと早く穏便に講和ができていたと思います。
乗組員の人が語ることは悲しいしそれに加えて軍艦一隻一隻に歴史があるからそれがさらに悲しくさせる、大和は世界三大無用の長物とか大和ホテルとか馬鹿にされてるけど最後まで二水戦と一緒に頑張ってたと思う
毎年4月7日は「男たちの大和」観てます。
男たちの大和の映画は主砲を撃っていますが実は沖繩特攻の大和は主砲一発も撃っていなかった事知っていますか 戦艦大和の乗組員が言っていました
艦橋最上部の主砲射撃指揮所で射撃照準要員を担っていた八杉さんの証言ね。
『男たちの大和』は、劇場にも観に行ったけど、ちょっとしたシーンなんだけど「え〜⁈」ってところが結構あって少し残念な感じになった。まぁ、演者や脚本家等殆どがあの時代を知らない世代になってしまったから仕方がないけどね。
雲が多く敵の飛行機に対して、主砲の砲撃ができなかったとか言ってた気がする。
@@友-e6z 疑問に思うのは、大和の主砲が雲空だと撃てない事知っていてどうして雲空で出撃したのだろう?
話し方もしっかりしてて、98歳とは思えんね。
存命の方は貴重です。祖父は亡くなりましたが、大和の話は一度聞いたことあります。祖父は駆逐艦に乗艦してましたが、トラック島で見た時に同じ艦船とは思えないくらい大きかった事。サーチライトが大きくて浜辺で新聞読めたくらい明るかった。と言ってました。でも、戦艦や空母は乗組員が多いから駆逐艦の方が人間関係が楽だったので、駆逐艦でよかったとも。
どうすれば特攻作戦から生き残れるのか、亡くなる前にその方法が聞きたかった。
あの春の2時23分を忘れない 忘れてはいけない
よりによって国産の戦艦は全て消滅してイギリス製の三笠のみが残ってるんですよね…日本が使ってた戦艦ですけど、やっぱり違うんですよね…あれは古すぎるし小さいし…遺構としても残ってて欲しかったですね…
俺が子供の頃実家のある地元の商店街のお店のおじいさんが大和の乗組員だったと言っていたのを思い出しました。本とかうそかわからないけど。
ひどいなあ! なくなっていった乗り組み員に深い鎮魂と哀悼の誠をささげるのは当たり前だろう。しかし当時の軍上層部は残酷で全く腹が立つ。最後の沖縄水上特攻作戦、航空機の護衛もつけづに沈められるとわかっていて3056名の乗り組み員の戦死者を出してまでやる意味があったの?
神様特別攻撃隊は、考案者や認可した上層部が馬鹿すぎる。
The Yamato was a fearsome battleship...but by the time she was unleashed, she was at great risk from aircraft above...both she and her sistership Musashi shared the same fate and ended up at the bottom of the Pacific Ocean.....
宇宙戦艦の方はもうすぐ50周年やで
国民と国土の主権をかけて、日本人がその固有の力の行使・不行使の法を発揮するのが「戦争」戦艦大和が他の戦艦とともに沖縄に向けて出撃し、たたかい、そして多くの乗組員の方々とともに散ったのは「戦闘」
有り難き貴重な動画チャンネルに😲感動しました。(今、登録済み)姉妹戦艦の大和、素晴らしい戦艦大和を待っておりました🤗!何故?父は海軍志願兵(初め空母「赤城」で真珠湾。次いで高速戦艦「伊勢」でインド洋でイギリス海軍の戦艦撃破。最後は、そう、そうです! 戦艦「武蔵」であります。上等機関兵曹でした。(43サンチ主砲の物凄い音は鼓膜も破ると、父上から…忘れません😊)さて?ところが?天のはからいか?戦艦武蔵ハ上官殿ヨリ、父君二対シ沖縄方面出撃直前、突如降艦命令下達セラル。上官殿ハ武蔵ノ命運悟ラレ父二内地ニテ軍事教員サレヨと。耳にした、その時に父君の目頭が光り、上官への畏敬の念と部下への友愛の心オーラが…鮮明に 神のようでした😮今なお忘れません。あぁ…海軍志願の日本男子父上の純粋な度胸は…また子煩悩の優しい優しい父でありました。我が神日本🇯🇵国家、日本男子我(対米ペリーの安政の大獄は、英語の小野圭次郎の子孫、小野○○と申す者。親族は尊皇の水戸学の武士、教科書にアリ)の誇りですあの野蛮なGHQ 等の感染に絶対に罹らない!死んでも日本男子は日本女子(大和撫子)達と純粋な神の子達を永遠に護る、人の中に絶対在る魂を信じ!敵の心にさえ癒やしの光を灯し、日本人の言行一致は天に通じて永遠を我自ら示す。西郷どんの人を超えて、天を相手にすべてをまとめ(八百万まとめ)中心帰一の天の理(真理)をして神国日本🇯🇵再建!笑って感謝し報恩の無上の歓喜に生きる覚悟で今此処に世界的平和は日本の国民(くにたみ)の使命と…天に神にお誓い奉る。(現在ユーチュ-ブで🇯🇵日本の💙男子❤女子の🏞️自然界との調和の演出と歌唱中、かつては歌手🎤🎶(これ父から得た副業、本業は会社経営です。)として軍歌は時に🇯🇵海軍服等でアップロード中230曲以上動画配信中)毎朝天照皇大神を拝し、教育勅語を溌剌と己れの魂に大声音で朗唱!昭和天皇陛下に最敬礼!天津祝詞、神前にて奏上奉るなり。自慢話か?(笑)😄日本人なら、こんなの当たり前の事(笑)😊合掌、ありがとうございます。 敬礼!🇯🇵🌸
桜が咲き起こるころ、大和は祖国日本のために広島県呉市から本土を離れ沖縄に行こうとしたものの、航空機に押され、鹿児島沖に桜のように散って逝きました。運命にあらがって大和と英霊に感謝と敬礼を。
沖縄では八原たちが奮戦して,アメリカのバックナー中将を戦死させる戦果をあげたりもしていた…
世界中の人々が戦争反対を願っているが・・・世界を牛じる誰かによってやらざるを得ない状況にもっていかれるんでしょ・・・切ないね・・・
作戦がやばいよな。打ち上げて撃てって
限界だったもの
沖縄を見捨てるわけにはいかなかった
本当にひどい作戦だな。仮に沖縄についても、わざと打ち上げ=座礁させて座礁砲台化しようとしていたからな。船が座礁したら、どの道、負ける作戦なのだよ。
@@5v85jfglt 家族が危険に晒された時、無理と分かってても助けに行く、
もう沖縄特攻の生還者が1人もいない時代か...明治生まれの男性が社会から消えたという話もあるだけあって、時代の移り変わり第二次世界大戦がさながら江戸時代や戦国時代のように遠い過去になっていく...そしてそんな歴史は忘れてはいけないことに限って忘れがちになる今の私たち。肌に感じたことがないがゆえとはいえ大切な人やものが理不尽に消し去られ奪われてしまう悲しさを知らないのはこの上なく愚かしいことである。人間は戦うことで強くなってきた。だが戦い自体に意味はない。あるとしたらいずれ必ず潰える存在でありながらも世代を超えてでも継がせ守らせたいなにかが自分の心にあって、生きることでそれを全うするというものであろう。戦争とはその時代における人の在り方や未来を同じ人に問う手段のうち最も過激で大規模なものでしかなくて、多くの人は本来なら話し合いとかで済ませられるならそれが一番だと思ってるのは間違いがないことのはず。だがどういうわけか社会的に偉くなるほどそれを忘れてしまい、排他的な思考や手段で手っ取り早く片付けようとする。急ぎすぎるまねさえしなければ人に対しての絶望なんかしていないだろう。好きな人やものを守りたい気持ちが世界の人の心の光となる日を我々は今も待ち続けなければならないのだ。
15年前くらいに前に学校帰りの呉線で、広島駅から一緒に乗って向かいに座ってるおじいちゃんがめっちゃ気さくに話しかけてくれて、元気なおじいちゃんだなと思って話していたら大和の乗組員だったらしく最後に呉に向かう途中だったそうな。呉に着くまで大和の話しを色々と聞かせてくれました。今思えば貴重な体験をさせてもらった。終点の三原までずっと話し聞いていたかったです。もう当時の話しを聞かせてくれる人なんて全国に数人しかおられないんだろうなと。
2023年98歳の大和の乗組員が最後の生存者が亡くなりました
自分が昭和56年に海自に入隊した頃はギリギリ、旧海軍出身の元士官や下士官兵の方が存在しました。
色んな話を聞いておきたかったですが、訓練に慣れるのが忙しく、すぐに修行。
各学校に巣立ちました。ちなみに呉教育隊です。
休日には大和慰霊碑を探索したり短艇では油の浮く呉元軍港を漕艇しました。
@@青田清一 天一号作戦の時の?
@@青田清一様へ
御冥福をお祈りします、フィクションまじえて大和最後の事書いた生存者いましたがそれは戦死者への冒涜ですよね。
有賀幸作艦長は戦闘艦橋羅針盤を白手袋で押さえているのに羅針盤に身体縛り付けたとその場にいない人(吉田満さん)が本にかきましたよ。
@@零戦太郎-h7v様へ
戦艦大和生存者の方が海上自衛隊勤務のお孫さんの結婚式のスピーチで私達がだらしなくご迷惑お掛けしますとスピーチしたは海上自衛官の方々がすっ転ぶ勢いで立ち敬礼されおじい様も返礼さたれコメント見ましたよ。
それにしても3332名の内の生存者276名のお一人のお孫さんが自衛隊なんて凄すぎますね。
小さい時、元海軍のひいおじいちゃんが戦争の話をしてくれたけどその時は話半分に聞いてた
今改めて戦争のことを知りたいと思った時にはもうお墓の中、、、
失礼ながらまだ当時の乗員が在命だと言うことに驚いた……。
語り継いでいきたいですし、今のうちに聴いておきたいですね
@@むにむにムニエル長門
ですね、大和ミュージアムで元乗員が回顧する特別展とかあったら是非ともお話を聞きに伺ってみたいところです。
あと数年もすれば、生存者の方々から聞くことができなくなる…。しっかり次の世代に語り継いでいかないといけませんね。貴重な証言有り難うございます。😂
@@sh1nz01sGOD様へ
昔の話ですが、学徒動員の吉田満さん(大和生き残り)の本には有賀艦長が羅針盤に身体を縛ったと書かれましたが可燃物の多くは呉でおろしているから有り得ない話ですよ、水虫の為に雪駄で最後まで指示されて大和傾斜してから皆さん海に飛び込まれましたよ。
日本にはもう明治生まれの男性がいないらしい
大和をその足で感じた人がまだ残っている。すごいことや。
流石戦艦乗り
御歳98でありながら座る姿勢もシャンとしている
大和の元乗組員でご存命の方は、あと何名いらっしゃるのでしょうか?
祖父は武蔵乗組員でしたが、今年100歳を迎えました。いつまで元気でいてくれるのだろう。
そうですよね…僕が存じ上げる方は八杉康夫さんですね…
八杉康夫さんは2005年に『男たちの大和』が角川映画になった際は、反町隆史などの出演俳優さん達に、高射砲の撃ち方などを実技指導したりしてましたね。実際に身を持って撃ち方を知れたのはとても光栄だと思います
その時は「娯楽映画だから主砲をぶっ放したのは仕方がないかな』と笑ってたそうです。
他にも1980年代に「大和探し」が始まり、調査三回目の1982年5月、指南役になり鹿児島県坊ノ岬沖に沈む大和をNHKスタッフらと探し当てた。戦後長く沈没位置は徳之島沖とされていた。「大和はそこまで到達しないうちに沈んだ。おかしい、という説はありましたが、毎年、徳之島で慰霊祭をやってきた地元出身の有力代議士の力でそのままになっていたんです」など
しかし八杉康夫さんは92歳
元戦艦大和乗組員)11日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなられましたね。
僕の八杉さんの好きな名言は
よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか? 確かに昔も殺しはありました。しかし、「殺してみたかった」などと、意味もなく殺すことは考えられませんでした。
@@vabyii567
小さい頃は祖父が隣家だった為に、よく遊びに行き、戦時中の話も沢山してくれました。今となっては、大変貴重なことだったんだと思います。
武蔵の艤装員を務めた時のことや艦内での役割、戦闘時の体験、沈没時の恐ろしさ、陸上げ後のフィリピンでの苦労等…。
私に話してくれていることは、ほんの一部だと思いますが、書籍では記されていないような生々しい出来事の数々を私の子供達にも出来る範囲で伝えたいと思います。
@@a183ce9acz4a そうだったのですか…私の祖父は第二次世界大戦(亡くなった為に詳しくは誰も知らない)に行ったそうで最近父から聞いて驚いてます。
実際空を見上げたら戦闘機が100機飛んでくるなんてその場に居た人しか分からない恐怖心で今の時代それを聞いて中々想像出来ない事だと思います。私は不謹慎ですが戦争に興味があり、普段から想像します
それをその方から直接聞くことはとても言葉では表せません
「未来の日本お願いします」
今至る所で戦争が起きてる中彼らが残した名誉を深く持ち胸を張って生きようと強く思いました。
戦艦大和の生存者は2010年20人ほどいましたが、2023年で全て亡くなりました 最後の生存者98歳だったそうです
大和会とか武蔵会とか、大和や武蔵の生き残りの集いみたいなのがあったのだが
生き残った乗員の多くが亡くなり。さらに生きている人も高齢化したものだから
もう十年以上も前に解散しているからな。
動画に出ている石上さんは、現在は九十でも、当時は十代の少年水兵だろうし
最後の一人でも不思議はないな
まだ生存者様が御存命だったのですね。
少年兵でしょうが、あの轟沈の中を生き残って証言されるのは貴重な話です。
自分の母親は鹿児島で大和轟沈の爆音を聞いたそうです。
桜島の噴火?と思ったそうですが、湾の向こうだったそうで。
当時は大和は機密だったので、戦後海軍から復員した叔父に聞いて大和と言う巨大戦艦が鹿児島沖で沈んだと初めて知ったそうです。
石上さん。98歳というご高齢でここまでしっかりと歩かれ、お話をして素晴らしい。歯もおそらくご自身のもので、生命力の強いお方だと存じます。想像だにできないほどのご苦労の青年時代だったと思います。大変貴重な証言をして下さり、ありがたいことです。
令和の今に大和の乗組員が生きておられるとは。
元乗組員が生きていたんだね。あと1年で80年なので、ぜひ生きてほしいね。
幼少の頃は大和やゼロ戦のプラモデルを作ってそのカッコよさだけに酔っていた。
しかし大人になった今はその誕生の経緯と最期を知る事により設計者、兵士、大戦での経緯など考えさせられる事も多い。
一番大切なのは戦争で亡くなった多くの若者達を現代に生きる我々が想ってあげる事。
大和はまだ分かるが、零戦はダサいわ。
@@大祐綾田貴方のカッコイイと思う戦闘機を教えて欲しい
考えさせられる、とコメントする人は、
なぜか考えているその中身の話はしない人ばかりなんです。
考えて感傷にふけっているけれど、歴史の事実を見ているか、一次資料を探したか、そういう文献、発信者を辿ったかというと、
そういう作業はしていない人が圧倒的でした。
想ってあげるって上からやな。うすっぺらいわ。
ダサいとは思いません。私には零式艦上戦闘機どころか、零戦を構成している一つ一つの部品。部品の詳細な寸法を記した設計図すら製図できないです。零戦を制作した技術者の人達を尊敬します。私には、プロペラに機銃の弾が当たらない機械的な仕組み自体理解できない。
大和の最期を知る人はもう居ないのか。
八杉康夫さんの講演会に1度でいいから行ってみたかった。
護衛の駆逐艦の乗組員の人もいないのかな?
@@ばねっさ-b1l
数年前に駆逐艦雪風で大和と武蔵の最期を看取った二人の元乗組員の方が鮮明な記憶のもとインタビューを受けるドキュメント番組がありましたが、お二人とも亡くなられたそうです。
坊ノ岬沖海戦に参加して今もご存命な方は居るとは思いますが詳細は分かりません。
@@ばねっさ-b1l探せばいるけどもうほとんどかなり少ない。零戦パイロットさえ少ないから
私も2005年頃に八杉氏の著書を購入しました。素晴らしい本でした。
たしかに戦争は良くない家族とも別れ悲しい結末を生むだけ。
しかしこの戦争は日本を守るために戦ったのである訳で現代の日本人は占領教育を受けているからして戦争はいけないが対話で解決できない相手にどう立ち向かうのかを何も考えていない。戦争を起こしてはいけない核を持ってはいけないと強く世界にアピールできない理由も知っておくべきでしょう。
日本を愛し家族を愛して戦った先人方に敬意を
戦争には負けたけど、この時の日本があるから今の日本があるんだよな!
ほんと戦争に負けず軍が解体されなかったらと思うとゾッとするわ
当時の国家予算の3%を一様3隻建造した当時の日本の工業力……
英米独ソ除けば、
日本単独で全世界の兵器生産超えた国日本。
なおアメリカとソ連
今の日本に作る技術があるかどうかも怪しいし作る金も無いと言う事実
この頃は一般庶民は戦火で大変な生活だったらしいけどアメリカに追いつけ追い越せで活気はあったんだろーな
@@taigaow1995まあ技術なんてそんなもの、F14tomcatだって今やロストテクノロジーだし
@@tazan2694 作れなくなったのは仕方ないにしても金すら無いのはまじで悲しいよな
当時の日本だってアメリカに比べたら貧乏も貧乏だったけど金欠の中絞り出して予算付けて、大和作ったのに今の日本の財布にそこまでする余裕無いよ
今の護衛艦でもデカく感じるから大和は相当大きかっただろうな
近所のおじいさんが同じ様に配置換えで作戦前に大和を降りた人がいました。玄関の土間に1メートル以上ありそうな大和の模型を飾っていました。
私が幼い頃、砲身の中に入って掃除した経験が怖かったと話してくれたのをなんとなく覚えていますが実際に中に入って掃除できたのかは10年程前に亡くなられたのでもう確かめ様がないですが
男のロマンですよ大和は
大和乗組員がこういう貴重なお話は
次の世代に語り継がなきゃいけない
こういう取材は、大変立派です。ありがとう。
98とは思えないくらいしっかりしてて肌の艶も良く、、、かっこいいお爺さんだ。
昨年度、仕事の関係で
石上さんの講演会の準備に
参加出来たことは私の誇りです。
大本営の机に ふんぞり返って無茶苦茶な作戦を立てた連中、、、、何も分からずに沈んでいった若者、、、、不条理だね。
時代にそぐわなくなった大和だけどそれにしても悲しいほど格好良いなぁ…
時代にそぐわなかったのは大本営やら海軍首脳が戦艦の扱いを間違ったため
艦隊決戦などと日露戦争から進歩しない思考ではなく米海軍のように空母や輸送船の護衛や上陸作戦の支援と正しく扱えば活躍の場はあったはず。
なぜミズーリ級が戦後も活躍したのか、それは運用方法が適切であったからです。
@@akibanokitune
最初はそのつもりで編隊組んでたけどミッドウェー海戦で根こそぎ空母持って行かれてオワコンになってん
まあどの道長丁場になれば負ける道しかないねんけどな
ほんまそれな。古今東西全ての艦艇の中で大和型が圧倒的にカッコイイと思う。
不謹慎と言われても、そこは自分に正直で良いと大人になってから強く思う。その方がむしろこの艦の建造・運用された背景や、この艦を舞台に起こったことが心に突き刺さるんですよ。
@@akibanokitune マッカーサーも回顧録で語っていますが、戦艦大和が作戦通りレイテ湾に突入していればアウトレンジ戦法で米艦隊に多大な被害与える活躍ができたはずです。開戦時、日米両国海軍の空母保有数は日本が9隻、米国が7隻で日本が多く所有していました。そして日本は更に4隻の空母を建造中でした。1921年ワシントン海軍軍縮条約で日本の戦艦・航空母艦等の保有数を制限され不利になったこともありました。日本の問題は、敵のスパイ、米内光正、永野修身、山本五十六、瀬島龍三、源田実・・・らが軍内部に浸透し日本が負ける作戦を実行したからです。仲小路彰氏は、山本五十六は敵のスパイと喝破しております。現在の日本も同じ状況かと。
@@Aランチ-d9m
大和は死に場所を間違えましたね。
たとえ小沢艦隊の囮が失敗したとしても航空機に一方的にやられ放題で攻撃されるようなメジメな最後にはならなかったと思います。
もうすぐ大東亜戦争に参戦した人も居なくなってしまう、何だか切ないな
地球上に生きている人間全員に、必ず寿命がある。大東亜戦争の経験者が一人残らずいなくなるのは自然な事だ。
大和の3番艦、当時世界最大空母、信濃も忘れないで…
武蔵と信濃のミュージアムとかできないのかな?
信濃のビジュ大好き
@@ただのワイルドベタ好き
大和ミュージアムを拡大して、武蔵と信濃の展示資料室を作って欲しいな
難しいやろうな。武蔵は建造後、一度しか戦ってない。初陣となるレイテ沖海戦の最中、シブヤン海にて沈んだ。
一方の信濃は進水後、艤装工事の為に呉へ移動中、バラオ級潜水艦アーチャーフィッシュに攻撃されて沈没。どちらも名前の割に、活躍が少ないんだよ。大和だって実を言うと、作戦に参加しても実際にその主砲を放ったことは殆どなかった。
@@onezero7627 死ぬとわかってた人、日本を守ると思ってた人を称える為にはしっかりと後世に残す。その意味で俺は博物館を作って欲しいなぁ
今年も桜が咲いた、、英霊に感謝。
英霊(侵略者軍)
英霊には常に感謝ですよ~靖國神社にお参りした時には感謝の気持ちですよ
その英霊とやらに戦犯として処刑された人も合祀されていることをお忘れなく。
国家の指導層は判断を間違えたらダメって見本だな…
そして間違えない様に国民の側も監視をしていないと、また同じ過ちを繰り返す。
しかし、残念ながら戦後は右と左が入れ替わっただけで、根本的な問題は戦前となんら変わってないというこの現状…
最後の男のアナウンサー分かってる風で全然分かってないな💦
失礼かもしれませんが、まだ生きている方が居るのは、亡くなった戦友たちが後世に伝えてほしい気持ちで強い魂が宿ってるのではないのかと思います
亡くなった叔父が予科練年少生であった
大和最後の出撃乗組員候補に成ったがお前はまだ若いと司令から外されたと聞いたよ
あの時代に現代と同等の前にも横にも突き出ている大和のバルバスバウを見ていると、やはり最先端の造船技術だったんだなあと思ってしまう。
私の祖父も大和特攻に殉ずる予定でした。。
前日に鯖の刺身で食あたりになり乗船不可
のち陸路で大和に追いつこうとしたのですが
間に合いませんでした。
それから亡くなるまで鯖は一切食べませんでした。
とても怖い人でしたが話は面白いし
もっといろんなことを聞けばよかったと
思ってます。
大和の乗組員が少なくなってるのは本当に淋しい…
お気持ちに共感しますが、地球に生きている全ての人間に寿命がある。
当時の写真が男前で、98歳になられても面影がありますね
乗組員時代の石上さんなかなかのイケメン
自分の誕生日にこんな残酷なことがあったとは
以前大和の中で作っていたラムネジュースの話を聞いて感動しました!
16歳の少年に国が死ねと言う、、、本当にとんでもない事だ😢
異常ですよね
私の曽祖父がヤマトの乗員でしたよ
沖縄への作戦の直前に配置換えされたから生き延びましたが。
石上さんとは面識はあったかもしれませんね
戦争はいけない
大和の元乗組員と遺族の方たちの言葉が心に響きました
あの戦争の本質的な議論をしない事には、日本が本当の意味で平和になることはないと思います
一隻に三千人も乗っていたのはすごいし沈没したらほぼ全員死ぬのが痛ましい
ある修学旅行の学生が沖縄にて
戦没者遺族が語る沖縄戦の悲惨さを伝える講演会で
日本軍の集団自決強要や無思慮さ等を恨み辛みながら
話していた時
突然、立ち上がった別の学生が涙ながらに
「俺のじいちゃんは沖縄救援に向かって4んだんだ!」
「それを知らないのか!」
と訴えたのを目撃したという。
彼の祖父は、戦艦大和の乗組員だった。
この話が本当かどうかは知らないが
沖縄の皆さんには知ってもらいたい。
玉砕が目的だった。作戦そのものが無意味だった。
そう語る人の声ばかりが大きいが
当時の日本は米軍に占領された沖縄に対して
何もしなかった訳ではないのも知ってもらいたい。
脱帽😞
美談のように見えて美談でもなんでもなくて草
だからなんやねんwで済む話じゃん当事者からしたら
だとしても民間人を大量に死なせたのは事実であって、救援をしようとした事と現地部隊の蛮行とは別の話になってくるんじゃないかね。
その学生さんは軍と祖父をごっちゃにしちゃったんだろうか、だからまるで批判された気になってしまったんだろうね。
@@アッハイネコ連隊
日本全国で起こったことでもありますけどね。
唯一地上戦が行われた、という差はありますが
二発の原爆だけでも約20万人もの民間人が犠牲になってます。
(主要都市はほぼすべて通常爆弾での爆撃を受けました)
本来なら大量虐32した張本人は米軍なんですが
何故か当時の日本のせいにされる風潮が
教育の現場で続いています。
沖縄は特にその風潮が強いと感じるんです。
少なくとも軍上層部が「沖縄救援」という目的があったとは思えないし、私がその場面に遭遇したならば、そうした発言をした人間を白い目で見るね。
乗り込まなければならなかった方
その前に
降りられた方
それぞれだったんだな
敬礼
幸いな事に大和乗組員の方3名にお話しを伺う事が出来ました。うち3回と最多だったのが、映画『男たちの大和』のモデルとも言われた八杉康夫さんでした。3名に共通していた事はとにかく巨大であったと言う事です。そんな巨大な船でも沈むと言う事。『不沈艦』はあり得ないと言う事です。
国敗れてもあの巨艦を建造した技術は今にも残っていると信じます。
カタログスペックと建造費だけ高い割に大した活躍も無くて建造技術向上したよねくらいしか誇れるものがない言い訳聞こえるのは僕だけだろうか
現在呉では大和クラスのタンカーを何隻も作ってるので、造船技術としてはめちゃくちゃ活躍してるんだなって感動しましたね。
言ってる事は的を外してません。沖縄に辿り着くことすらできなかった大型戦艦大和よりも、目的地に到達して物資の揚陸に成功し、島にいる兵士達に武器・弾薬・食料を送り届けた輸送船の方が、軍事的運用の面で価値があったと思います。
今も架空の存在のように感じる特別な艦。でも確かに存在した。
その艦の元乗組員というだけで引き締まる思いがする。
もっともっと話を聞く必要があったと思う。皆に伝える必要があると思う。
戦争を起こさないため、内外で「させない努力の徹底」に必要。
・中露の攻撃を防ぎきり、諦めさせる軍事力(外交)
・軍事力を適切に理解させる教育(内政)
本当に今の内に
実際に体験した人の話を聞いときたいな
当時の日本の勢いから見たら政府も国民もイケイケでアメ公なんぞやってしまえ!って感じだったんだろうな‥そりゃ日清日露連戦勝利、チャイナも攻めてて神風だ!って時代よ。第二次大戦期は世界中がイカれてたからなあ‥
片道じゃないヨ。行って帰ってくる燃料は積んでいた。
戦争という目的で造られた悲劇の戦艦。そのシルエットは戦艦の中でも儚く美しい姿だったに違いない。
4:31 それはサマール沖海戦
米護衛空母に栗田艦隊が砲撃した戦いだよね
タフィ3への砲撃
16歳の子供が戦争に駆り出されたのか。恐ろしいな。
海軍特別年少兵と言う制度で今で言う中学生くらいで志願して海軍に入った人達がいましたから、
大和に限らず南の島の守備隊で餓死した人や硫黄島で戦死した人などなどたくさんおられました。
その中でも艦船に乗艦出来た人は毎食食べられたからある意味恵まれたところがありました。
俺の曾祖父さんと大叔父が海軍らしく
戦艦大和ではないけど坊ノ岬沖海戦の参加した船に乗ってたと聞いた記憶があったからいつか聞いてみようと思いました。
毎回の素晴らしい音読ありがとうございます。
戦争はいけない…
履き違えてはならない。
守らなければならないものがある。
【戦争はいけない】日本では長く百点満点の答えでした。
ただし、そこで思考停止してしまうと、次の戦争を呼び込む“場合”もあります。
ちょっかい出して来る相手に、「考え直せ」と言う意思表示は必要。
世界最大の射程と155門もの25mm機銃を保有する、防御力も当時世界最強だった大和。
元乗員の証言ではシールド無し機銃は敵機の一波攻撃が終わる頃には戦闘機の機銃掃射で機銃員の大半が戦死したらしい。
@@mr.goldenbatman702 敵戦闘機は20ミリ連装機銃で、いくら大和が25ミリ3連装機銃でも、常時先制攻撃は難しかったでしょう。ほんの100メートル位の優位性しかなかったかも知れません。35ミリ機銃を設置して常に先制迎撃、シールドを多用して戦闘員の死傷を最大限抑制出来ればあと30分は長く戦えたかも知れません。
@@riuUC何の話をし出すんだ。
@@mr.goldenbatman702 そのシールド「主砲衝撃波・風雨避け」であってただの鋼鉄板だけどね(まぁ上部構造の大半も同じだけど)。基本司令塔・煙突・砲塔以外で甲板より上の構造物はほぼ「非装甲」と捉えていい。勿論大和型のみならず他の戦艦も。
アメリカの対空砲は敵機の至近で破裂する優れもの。
当時の大和に搭乗していたわけで現場での経験や見た事を語るのはほんとに価値があるが、
あくまでもその現場での体験談が意味があるわけで、
その方の政治や歴史や外交の意見が真っ当だとは思う必要がないかなと思う
坊ノ岬沖海戦で大和に乗船されていた方々は全員お亡くなりになってしまったなんて。
自然の摂理とはいえ、悲しいです。
生還者である八杉康夫さん、坪井平次さんの著書を読みましたが、
とにかく凄絶で絶句しました。
とても読み易く書かれておりますので、是非読んで頂きたいです。
散華された方々、生還し戦後お亡くなりになられた方々の御冥福をお祈り致します。
武蔵の乗組員のその後も辛いものがありました。
いまでこそ大和は有名ですが、日本国民がその存在を知ったのは実は戦後です
ええ、そうなんですか?恐ろしい事ですね。プロパガンダとしてなら絶大な効果はありますが、純粋に兵器として見れば、戦闘機主力の時代ではただ的が大きいだけで、あの巨大戦艦を作ったのであれば馬鹿げてます。戦闘機が何百台造れたことか。
機密保持でね。だから戦艦長門の方が人気が有ったという。
そうなんですか、なんか悲しい気分です。
機銃はめちゃくちゃ当たっていたそうな
ただ25mmでは威力が低すぎた…
スタンダードな20mm砲より威力あるぞ。
40mmVT管より、艦載機が費用対効果で安い。
@@tennouheikabannzai
貴方は一瞬で撃ち終わる14発の弾倉を交換し続けられる?
戦闘中に、それも弾除けもなく。
それより噴進砲を搭載していれば少しは貢献できたはず
人力運用で毎分150発(1回の装弾15発)の短距離防空兵器で足りない話をしているのに、格下口径20mmと比較する意味って?
作戦を通じたアメリカ軍機の撃墜数は5(除く被弾52機)。防空駆逐艦が随伴しても、この結果。
@@FTAP46
あれは効果的だったみたいだね。伊勢はその噴進砲で米軍機を結構落としていらしい。
1:22 この人歴史秘話ヒストリアに出てたの覚えてる
高校生の時に乗ってた人が今じゃもう90代……戦争を語る人たちがいなくなっていくなぁ……
this is a great story. love Yamato
from Vietnam
wished I understand
what they are saying
この国の平和を維持することそれが現世を生きる我々日本国民の責任。
海の藻屑な訳あるか、現代日本の礎だよ。大和、平和と覺悟の象徴。
私の曾祖父ちゃんは戦艦武蔵乗り組んでいました。
艦と共にしました。。武蔵と大和、兄弟艦でありながら
大和の話ばかりで 武蔵の事も取り上げてほしい❣❣❣
海底の大和だいぶ朽ちてきてるな
46cm砲の射撃を生で体験した人の話ってすごい貴重だな
元乗組員の言う通り‼️憎しみは憎しみを産み悲しみは悲しみを産むだけと言うように戦争は全く無意味の争い事・・・二度と戦争を起こしては駄目だ(涙)争うのでは無く両国が繋がり合って平和な世界になる事を僕は一生・・祈りたい
本気で平和を望むなら自分たちが勉強して議論してディベートしないといけない。戦争の悲惨さのみを注目しても何も解決しない。
8:25
失礼な表現でしょ
大和ミュージアムが2025年2月から一年間の工事で休館。
曽祖父が戦争に行った話は小さい頃聞いてたが戦闘に参加したくないから食糧係やってんって息子の祖父が言ってたけど調べれば調べる程大陸系、ソ連から中国にかけて渡り歩いて戦闘してて更に自分の家のゴタゴタも気にしながら生き残った事実があって今自分達に繋がってるのは奇跡なんだと思った。
沖縄特攻では自慢の主砲も撃つ事も無かったと証言もあったとか、空の護衛も殆ど無く沈んでいった戦艦大和・・もっと活躍して欲しかったです。
最後の対空戦闘は、雲が低く垂れており主砲はおろか副砲による対空射撃の効果も期待できない状況でした。主砲による対空三式弾は時限信管の性能上、3万メートルが限界でそれ以上先の敵艦載機群の大規模編隊を撃破することは不可能でした。3万メートルを切ると艦載機群の大編隊は解かれてしまうため、天候が晴れであっても主砲による対空射撃の機会はせいぜい3回程度で、あとは中距離砲として重宝された副砲と高角砲群、最後は機銃群による対空射撃となりましたね。
八杉さんも何年か前に亡くなりましたよね。
2019年だったか大和を建造した呉の造船所に仕事で行きました
ドックを上から見たら自然と敬礼しました
国や家族らを守るために戦い故郷に帰れなかった兵士に対しての感謝の気持ちだったのかな
勘違いしてる人いるけどこれは数年前のインタビューで、去年最後の乗組員の方が亡くなったということです
く(`・ω・´)
これほど壮大で美しい軍艦なのだから、船員として乗船できた当時の若者は誇らしかっただろう。
因島で男たちの大和のロケセットを見学しましたが、その威容はまさに海に浮かぶ城でした。
第二次世界大戦前の大艦巨砲主義時代に大和の存在を世界に公表して現在の核兵器のような戦争抑止力として活用すべきではなかったか。
或いは大戦初期に大和、武蔵をもっと活用していれば戦果が上がったのではないかと考えると、温存して戦機を逃した挙げ句特攻で大和と乗組員を消費してしまったことが不憫でなりません。
大和の乗組員インタビューでよく見ていたのは八杉康夫さんという方でしたが、また違う見え方が見えてきますね。
OVAの戦記物「旭日の艦隊」「紺碧の艦隊」
では、大型選管は、「ヤマトタケル」1隻に
絞り、代わりに艦載攻撃機などで構成される
空からの攻撃も想定した潜水艦隊を御ぜの
海軍は作りました。こういう海面下から
いろいろな作戦ができ、それが現世の第二次
大戦に導入されていれば、戦争はもっと早く穏便に講和ができていたと思います。
乗組員の人が語ることは悲しいしそれに加えて軍艦一隻一隻に歴史があるからそれがさらに悲しくさせる、大和は世界三大無用の長物とか大和ホテルとか馬鹿にされてるけど最後まで二水戦と一緒に頑張ってたと思う
毎年4月7日は「男たちの大和」観てます。
男たちの大和の映画は主砲を撃っていますが実は沖繩特攻の大和は主砲一発も撃っていなかった事知っていますか 戦艦大和の乗組員が言っていました
艦橋最上部の主砲射撃指揮所で射撃照準要員を担っていた八杉さんの証言ね。
『男たちの大和』は、劇場にも観に行ったけど、ちょっとしたシーンなんだけど「え〜⁈」ってところが結構あって少し残念な感じになった。まぁ、演者や脚本家等殆どがあの時代を知らない世代になってしまったから仕方がないけどね。
雲が多く敵の飛行機に対して、主砲の砲撃ができなかったとか言ってた気がする。
@@友-e6z 疑問に思うのは、大和の主砲が雲空だと撃てない事知っていてどうして雲空で出撃したのだろう?
話し方もしっかりしてて、98歳とは思えんね。
存命の方は貴重です。祖父は亡くなりましたが、大和の話は一度聞いたことあります。祖父は駆逐艦に乗艦してましたが、トラック島で見た時に同じ艦船とは思えないくらい大きかった事。サーチライトが大きくて浜辺で新聞読めたくらい明るかった。と言ってました。でも、戦艦や空母は乗組員が多いから駆逐艦の方が人間関係が楽だったので、駆逐艦でよかったとも。
どうすれば特攻作戦から生き残れるのか、亡くなる前にその方法が聞きたかった。
あの春の2時23分を
忘れない 忘れてはいけない
よりによって国産の戦艦は全て消滅してイギリス製の三笠のみが残ってるんですよね…日本が使ってた戦艦ですけど、やっぱり違うんですよね…あれは古すぎるし小さいし…遺構としても残ってて欲しかったですね…
俺が子供の頃実家のある地元の商店街のお店のおじいさんが大和の乗組員だったと言っていたのを思い出しました。
本とかうそかわからないけど。
ひどいなあ! なくなっていった乗り組み員に深い鎮魂と哀悼の誠をささげるのは当たり前だろう。しかし当時の軍上層部は残酷で全く腹が立つ。最後の沖縄水上特攻作戦、航空機の護衛もつけづに沈められるとわかっていて3056名の乗り組み員の戦死者を出してまでやる意味があったの?
神様特別攻撃隊は、考案者や認可した上層部が馬鹿すぎる。
The Yamato was a fearsome battleship...but by the time she was unleashed, she was at great risk from aircraft above...both she and her sistership Musashi shared the same fate and ended up at the bottom of the Pacific Ocean.....
宇宙戦艦の方はもうすぐ50周年やで
国民と国土の主権をかけて、日本人がその固有の力の行使・不行使の法を発揮するのが「戦争」
戦艦大和が他の戦艦とともに沖縄に向けて出撃し、たたかい、そして多くの乗組員の方々とともに散ったのは「戦闘」
有り難き貴重な動画チャンネルに😲感動しました。(今、登録済み)
姉妹戦艦の大和、素晴らしい戦艦大和を待っておりました🤗!
何故?
父は海軍志願兵(初め空母「赤城」で真珠湾。次いで高速戦艦「伊勢」でインド洋でイギリス海軍の戦艦撃破。最後は、そう、そうです!
戦艦「武蔵」であります。上等機関兵曹でした。(43サンチ主砲の物凄い音は鼓膜も破ると、父上から…忘れません😊)さて?ところが?
天のはからいか?戦艦武蔵ハ上官殿ヨリ、父君二対シ沖縄方面出撃直前、突如降艦命令下達セラル。上官殿ハ武蔵ノ命運悟ラレ父二内地ニテ軍事教員サレヨと。
耳にした、その時に父君の目頭が光り、上官への畏敬の念と部下への友愛の心オーラが…
鮮明に 神のようでした😮
今なお忘れません。
あぁ…海軍志願の日本男子父上の純粋な度胸は…また子煩悩の優しい優しい父でありました。
我が神日本🇯🇵国家、日本男子我(対米ペリーの安政の大獄は、英語の小野圭次郎の子孫、小野○○と申す者。親族は尊皇の水戸学の武士、教科書にアリ)の誇りです
あの野蛮なGHQ 等の感染に絶対に罹らない!
死んでも日本男子は日本女子(大和撫子)達と純粋な神の子達を永遠に護る、
人の中に絶対在る魂を信じ!
敵の心にさえ癒やしの光を灯し、日本人の言行一致は天に通じて永遠を我自ら示す。
西郷どんの人を超えて、天を相手にすべてをまとめ(八百万まとめ)中心帰一の天の理(真理)をして
神国日本🇯🇵再建!
笑って感謝し報恩の無上の歓喜に生きる覚悟で
今此処に世界的平和は日本の国民(くにたみ)の使命と…
天に神にお誓い奉る。(現在ユーチュ-ブで🇯🇵日本の💙男子❤女子の🏞️自然界との調和の演出と歌唱中、かつては歌手🎤🎶(これ父から得た副業、本業は会社経営です。)として軍歌は時に🇯🇵海軍服等でアップロード中230曲以上動画配信中)
毎朝天照皇大神を拝し、教育勅語を溌剌と己れの魂に大声音で朗唱!昭和天皇陛下に最敬礼!
天津祝詞、神前にて奏上奉るなり。自慢話か?(笑)😄
日本人なら、こんなの当たり前の事(笑)😊
合掌、ありがとうございます。 敬礼!🇯🇵🌸
桜が咲き起こるころ、大和は祖国日本のために広島県呉市から本土を離れ沖縄に行こうとしたものの、航空機に押され、鹿児島沖に桜のように散って逝きました。運命にあらがって大和と英霊に感謝と敬礼を。
沖縄では八原たちが奮戦して,アメリカのバックナー中将を戦死させる戦果をあげたりもしていた…
世界中の人々が戦争反対を願っているが・・・
世界を牛じる誰かによってやらざるを得ない状況にもっていかれるんでしょ・・・
切ないね・・・
作戦がやばいよな。
打ち上げて撃てって
限界だったもの
沖縄を見捨てるわけにはいかなかった
本当にひどい作戦だな。仮に沖縄についても、わざと打ち上げ=座礁させて座礁砲台化しようとしていたからな。
船が座礁したら、どの道、負ける作戦なのだよ。
@@5v85jfglt 家族が危険に晒された時、無理と分かってても助けに行く、
もう沖縄特攻の生還者が1人もいない時代か...明治生まれの男性が社会から消えたという話もあるだけあって、時代の移り変わり第二次世界大戦がさながら江戸時代や戦国時代のように遠い過去になっていく...そしてそんな歴史は忘れてはいけないことに限って忘れがちになる今の私たち。肌に感じたことがないがゆえとはいえ大切な人やものが理不尽に消し去られ奪われてしまう悲しさを知らないのはこの上なく愚かしいことである。人間は戦うことで強くなってきた。だが戦い自体に意味はない。あるとしたらいずれ必ず潰える存在でありながらも世代を超えてでも継がせ守らせたいなにかが自分の心にあって、生きることでそれを全うするというものであろう。戦争とはその時代における人の在り方や未来を同じ人に問う手段のうち最も過激で大規模なものでしかなくて、多くの人は本来なら話し合いとかで済ませられるならそれが一番だと思ってるのは間違いがないことのはず。だがどういうわけか社会的に偉くなるほどそれを忘れてしまい、排他的な思考や手段で手っ取り早く片付けようとする。急ぎすぎるまねさえしなければ人に対しての絶望なんかしていないだろう。好きな人やものを守りたい気持ちが世界の人の心の光となる日を我々は今も待ち続けなければならないのだ。