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毎回登場人物の結びつきや戦況も分りやすく、教科書みたいな説明ではなく楽しく学べます。浜崎さんと先生のやり取りも良い感じです。
岡崎イオンモールセミナーお伺いしました。。勉強になりました。ありがとうございます。
解りやすい解説ありがとうございます。楽田砦の近所に住んでいます。私の住んでいる近くで歴史が動いていたのかと思うとこころが躍るというかドキドキします。お盆休みを利用して小牧市内の砦跡を巡って見ました。
今回で大きな合戦だったのだと、改めてしりました。地元なのに池田、森氏との絡みも分かり納得できました。次は織田の大将さんが家康さんに相談せず和議を秀吉と結び、徳川をがっかりさせてゆく。しかしこれも天道にかなったことだったのでしょう。秀吉の経済力を超えるために時と知恵を用いる事が可能になって、嬉しいこと。小牧山を大切に見て参ります。有り難うございました。忠勝さんの数珠と兜姿カッコ良かった。井伊の赤揃いも素敵でした。榊原さんの姿も正信さんの知恵も懲略文も素敵。えびすくいの踊りも皆が生き生きとしていた。スターが心一つになり、四天王と呼ばれる固めができましたね。数正さんが家康に一回勝っても次回に備えるようにと。彼は苦労人です。役回りが徳川の家臣のなかで一番不憫です。
最初の小牧山写真は五十年ぐらい前のもので、南東位からの写真で、現在は小牧山城の遺跡公園に成って居る部分です。其処に見えてるのは、確かに嘗ての小牧中学校ですよ。❤
岡崎イオンのイベント参加しました。毎回わかりやすく面白い解説ありがとうございます。
待ってました!
今回もお疲れ様です。有難うございます。大河ドラマ「秀吉」では西村雅彦演じる家康が呆れた顔で「馬鹿につける薬は無いからな❗️」秀吉は見事に信雄をたぶらかして、この勝負に勝利‼️軍事で負けて外交で勝ちました。
岡崎イオンモールセミナーを聞いてまた今回の動画で更にわかりました。小牧山城跡20年振りに行こうと思います。
待っていた小牧長久手合戦での蟹江城合戦のお話、要因になった理由が聞けてなるほどと思いました!次回のお話も楽しみにしてますー。
小牧山、犬山、清須城に以前行きました。15日イオンモール岡崎で先生のイベントに行けなくて残念でした
この後、伊勢長嶋を攻略された信雄が単独講和し武力衝突は終わりますが、秀吉の外交的勝利により、徳川家存亡の危機、そして秀吉・家康の落としどころの探り合いの名人戦ですね。解説が楽しみです。それにしても池田恒興次男輝政は秀吉恩顧の大名の中でも黒田長政とともに家康に心服することになるのですが、親兄弟の仇に心服するとはいかがな心境なのでしょうか? やはり家康の人望、司馬遼太郎風に言えば、周囲の者を取り込んでしまう「肉の厚さ」でしょうか?
小牧山の麓にあった小牧中学校は1998年に移転しています。写真が古いようです😅
小牧長久手知リませんでした。市橋先生の解説で、とても興味深く大河を見ました。やはり私は群雄割拠の戦国時代が一番面白いな。来週も楽しみにして居ます。
先日、仕事で長久手古戦場の近くに行ったら、武蔵塚という地名がありました。あ~鬼武蔵(森長可)…と。大河で、岩崎城の丹羽氏の若武者のエピソードをやるかな~?と思っていたら、残念ながらでした😵。徳川方の三河中入り阻止の最大の分岐点だと思うので、触れて欲しかったですね。
いくさ=陸戦においては、土木工事の技術と人足の動員力がものを言うようなところがありますね。
秀吉も家康も戦略脳を持った同じ気質の武将です。相手の戦力状況を的確に掴みます。同じ気質同士が戦った場合、お互いの作戦がまる見え中々決着がつきません。信玄・謙信・氏康は同じ気質のため何度戦っても決着がつきません。次の代も景勝と氏政は同じ気質で決着がつきません。信長と義龍は同じ気質。義龍が生きている間は信長は美濃に手をだせない。秀吉の戦力に比べれば劣る家康。大軍相手では当然のように小牧山城に陣を引きます。攻城戦は三倍四倍の兵力が必要です。秀吉の岡崎攻撃も当然予測に入っている。長篠の戦いで長篠城攻略をやったのは徳川軍なのですから。したがって行動も早く岡崎攻撃の秀吉部隊に大打撃を与えた。信雄が秀吉の調略で戦いを止めてしまったので、大義名分がなくなったことから家康は軍をひきます。その後の秀吉の全国制覇を見て、秀吉に臣従することに。戦略脳のある秀吉・家康とも無駄な戦いをしませんでした。
吉川英治氏、新書太閤記をAI朗読動画で夢中で聞いた(?)ばかりです…関白になる迄…秀吉様よりのお話ですが、今まで不思議イメージの秀吉様がなんと言うか日本人らしい?…信長様、家康様より好きになりました笑 歴史に興味を持ったのは秀吉様の謎からです(嫌いから)今の大河はチラ見で…秀吉様のイメージが壊れるから♡ まだまだ戦国時代から江戸時代の流れのいろんな小説読んで…違ぅ、視聴したい♡ 先生の動画のおかげで歴史が楽しいです♡♡ありがとうございます!(´▽`)
秀吉は直接、家康に敗れた。この事がずっとコンプレックスだっただろうし、その後の豊臣政権は自爆しまくった。秀吉はずっと家康からのプレッシャーと闘っていたかもしれませんね。
桶狭間や長篠の戦いを現地の風に吹かれながら家康の立場になって考えるという大移動の企画を行いましたが、蚊投げれば考えるほど大河で描かれている家康像とは違どうもかけ離れているような印象になりました。勝ち負けよりもとにかく死なないってスタンスで生き残ったような気がします。
歴史チャンネルたいへん勉強になります小牧・犬山の戦い 小牧山の空撮で浜崎さん「学校があるんですか 校舎があってプールがある」市橋先生「そんな感じですね そうですね」 小牧中学校です 1998年 25年前移転してます 現在 れきしるこまき(小牧山城史跡情報館) 曲輪 公園になっています 小牧市役所本館跡地に復元整備された 土塁 堀です羽黒砦 楽田砦の位置が違います 小牧山城から羽黒砦7.6Km 楽田砦5.3Kmですよく出てくる「外山」は「とやま」 北外山砦の事です小牧市役所には「小牧山課」があります協力していただけます ディレクターさん小牧・犬山 取材お願いいたします小牧山(小牧歴史館)からの眺望は濃尾平野実感 感動しますぜひ小牧山にいらして下さい
別の番組でもあの大堀切を見てはいたのですが、あれが隠れて移動するためのものだったとは…!いわゆる塹壕のような役割だったのですね、またひとつ詳しくなれました。それにしてもこれは三河武士の圧倒的な強さを見せつける素晴らしい戦だと思います!そして、そう思う一方で…「もうひとつの天下分け目の戦い」と言われるものの、この戦いにどれくらい意味があったのかは少し微妙です。戦術的な話というよりも長期的な戦略的な意味で。一言でいうと、信雄に振り回されてしまっただけのように思えてならないのです賤ヶ岳まではあくまで織田家家臣内の対立の話で済みますがもうこのタイミングでは「反秀吉包囲網」となりつつある状態になりつつあったころだと思います。(このあとのことから考えるとそれが逆に良くなかったのかも知れない…)まだ包囲網が連携しきれていないうちに織田家のためにという大義名分で戦をせざるをえなくなってしまった徳川。まだ機は熟していなかったと思います。そして勝手に信雄に離脱されその大義名分すら失ってしまった。結局このあと包囲網のひとつひとつ各個撃破で潰されていくのをただ見ているしかできなかった…そもそも織田に恩のある池田や森が寝返っている時点であまり信雄は神輿として担がれる器ではなかったように思います。「反秀吉包囲網」をもっと作り込んでから事を進めるべきだったかと。やはり全体的な統率を取れる人がいないと包囲網といっても一筋縄にはいかないんだなということを(信長のときも含めて)感じます。反秀吉側からすれば、どっちつかずの態度をとりながら、あまり明確に対立する姿勢をとらず各地域のリーダー格との連携を深めていって、準備をなせたタイミングで一気に西日本、中京から同時期に攻め込んだほうが良かったと思います。いくら20か国領していても、一度に攻められては分散せざるを得ない。そうなると(良くも悪くも)群雄割拠は続いて各地に戦国大名が存続する時代はもう少し長く続き、もしかしたら秀吉の天下取りの事業ももう少し抑えめの感じ(関白としていろいろ命令はするけど、各地に大大名は存在しつづけあまり各家の内政にまでは口出しできない感じ)になったのかもしれないように思えます。
この2人の戦いは知恵競べや能力は豊臣秀吉が上!家康は負けず嫌いだからいずれはと虎視眈々と海を生かした天下を狙っていた!
頭蓋骨の大きさは同じ位なのに顔のパーツの配置が違いすぎる。
弱い方の家康の流石のカウンターパンチといった処ですか?ただ、そこまででクリンチした秀吉も見事だし、その後の関が原まで繋げた家康も見事ですね?
先生、本日もありがとうございます。先週、楽田・羽黒・犬山へ行ってきました。少し疑問があるのですが、小牧山城を見ていると、井戸の形跡を確認できませんでした。周辺で、水があるとすると、五条川や合瀬川(めっちゃ汚いです)位しか無いのですが、水の補給は家康公はどうしていたとお考えですか?家康も砦を数個作って4km 程度(だったかな?)防御線を伸ばしていましたが、水の補給という点では、小牧はあまり適していない(15000人の水の補給には不向)と思いますが、先生のお考えを伺いたく。宜しくお願いします。
返信ありがとうございます。すみません、回答が遅れました。地形的に近辺の飲料水確保は大縣神社の付近しか、ないのではないかと思いましたが、彼らの土木技術なら、深い井戸でも掘れてしまうかもですね。本当にありがとうございます。これからも、動画配信を楽しみにおまちしています!ありがとうございました!!!@@浅井忠幸
頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』では、「家康公の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして小牧にあり」とある。頼山陽は、関ヶ原の前に、小牧長久手で「家康の天下取り」は決まっていた。としています。わたしもこの考え方が正しいと思います。
先生、小牧長久手の屏風が、名古屋城に無くて大坂城にあるのですか?描いた人物によって置いて置く場所が変わるのですか?秀吉は負けたのでしょう。
小牧長久手合戦は家康の負けであるのに、のちに徳川が天下を取って幕府統治が長かったことから、小牧長久手合戦で家康が勝ったと過大評価されている。柴田勝家を滅ぼした頃の秀吉は超多忙を極めており、家康との合戦は最重要事項ではなかった。事実、秀吉は大坂にいる時間が長く、紀州の雑賀衆対策や大坂城築城に1日あたり5万人~10万人も動員をしながらのいわば片手間の戦だった。秀吉は家康との合戦中、大坂城築城に5万人~10万人も動員していたのである。この普請には秀吉に恭順してきた毛利輝元も人員を動員している。1期工事が終わり本丸と天守が完成すると近衛前久を招き驚嘆させている。家康との合戦が終わるとほどなくして関白に就任。このように家康は秀吉だけを必死で相手にしていたのに対し、秀吉は家康だけを相手にしていたのではなく、日本全国を統治することを視野に入れ行動していたのである。この頃の秀吉と家康の力の差は歴然。家康は歯が立たなかった。当時の徳川系以外の中立的な記録文書には「合戦は徳川の負け」との評価が記され残されています。例えは良くないかもしれないが、家康の奇襲成功は日米戦争で日本軍が真珠湾攻撃を成功させたようなことに過ぎない。信長亡き後、秀吉の死ぬまでの16年間の仕事量はとてつもない。日本史上屈指の天才と思う。唐入り朝鮮出兵も最近はイエズス会のスペインの日本侵略の記述が発見されたりしたことにより、世界情勢の観点から日本の安全保障上の理由があったと再評価されている。
お二人のお話しぶりから未だに三河と尾張があんまり仲良くない感じが伝わってきて笑いました。
実質的に家康公の勝ちと思いますが、家康公は試合に勝ち秀吉公は勝負に勝った。後に秀吉公に歯向かいながら加増されたのは家康公だけたからやはり家康公の勝ちと思いますか😊
家康の負けだと思いますよ。ただ、負けたけど強烈な一発(三河中入りでの戦い)をお見舞いした事で一目置かれて後々活きた。
@@komatsu2199 その通りです。例えは良くないかもしれないが、家康の奇襲成功は日米戦争で日本軍が真珠湾攻撃を成功させたようなことに過ぎないです。小牧長久手合戦は家康の負けであるのに、のちに徳川が天下を取って幕府統治が長かったことから、小牧長久手合戦で家康が勝ったと過大評価されている。柴田勝家を滅ぼした頃の秀吉は超多忙を極めており、家康との合戦は最重要事項ではなかった。事実、秀吉は大坂にいる時間が長く、紀州の雑賀衆対策や大坂城築城に1日あたり5万人~10万人も動員をしながらのいわば片手間の戦だった。秀吉は家康との合戦中、大坂城築城に5万人~10万人も動員していたのである。この普請には秀吉に恭順してきた毛利輝元も人員を動員している。1期工事が終わり本丸と天守が完成すると近衛前久を招き驚嘆させている。家康との合戦が終わるとほどなくして関白に就任。このように家康は秀吉だけを必死で相手にしていたのに対し、秀吉は家康だけを相手にしていたのではなく、日本全国を統治することを視野に入れ行動していたのである。この頃の秀吉と家康の力の差は歴然。家康は歯が立たなかった。当時の徳川系以外の中立的な記録文書には「合戦は徳川の負け」との評価が記され残されています。もちろん片手間であっても家康を討てればそれに越したことはありませんでしたが、一時の感情で家康と総力戦をして長引かせなかった秀吉の判断はあっぱれ。さすがです。信長亡き後、秀吉の死ぬまでの16年間の仕事量はとてつもない。日本史上屈指の天才と思う。唐入り朝鮮出兵も最近はイエズス会のスペインの日本侵略の記述が発見されたりしたことにより、世界情勢の観点から日本の安全保障上の理由があったと再評価されている。
@@TO-eq5im ・真珠湾は羽黒っぽいので太平洋戦争であれば負けましたが狙いとしてはレイテのほうがあってるかも。・局地的な合戦には勝って戦役には負けたという認識です。・徳川の視点では負けたという認識は低いと思うので仕方ないと思います。 幕府としてはなおさらです。・秀吉は周辺の諸勢力に手当しなければならず家康だけ相手にする環境がつくれなかっただけ。その上での全力ですね。 もちろん家康よりも余裕があるのは認めます。信雄が和議結ばなければジリ貧間違いなしなので その点信雄の見切りは正解と思います。・朝鮮出兵は色々ありますが豊臣政権を疲弊させたのは間違いなく、やるにしても5年くらい後でも良かったかと思います。
信雄、無能じゃなかった!?
無能とは思いません。後々の立ち回りは中々出来る事ではないです。(肝心な時にポカするイメージです)
@@komatsu2199 秀吉と手打ちした時に、家康に連絡・相談しなかった。大ポカすぎ。 注意や教えてくれる部下も居なかった!?
@@浅井忠幸 そこが織田信雄とその家老らしいところです😶。立場を理解して先を見通すことが「そこそこ」出来ていたら賤ケ岳とか小牧長久手は起こっていませんね。
どう見ても松潤がひげを生やしてるとしか見えない。ファンタジー
女性の方がなんか可愛いな👍✨
官兵衛がいれば小牧・長久手は勝っていた
備中高松城水攻めは城主清水宗治が毛利家に忠義の者だったからこそ秀吉の如何様にも出来たが、それが信雄では成功したとは限らないし、現に事前に阻止されていますが
大丈夫信雄は阿呆だから官兵衛は最強だし
他の方面で押し込まれれば同じこと。 秀吉は対家康に全振りは出来ない。
毎回登場人物の結びつきや戦況も分りやすく、教科書みたいな説明ではなく楽しく学べます。浜崎さんと先生のやり取りも良い感じです。
岡崎イオンモールセミナー
お伺いしました。。
勉強になりました。
ありがとうございます。
解りやすい解説ありがとうございます。
楽田砦の近所に住んでいます。
私の住んでいる近くで歴史が動いていたのかと思うとこころが躍るというかドキドキします。
お盆休みを利用して小牧市内の砦跡を巡って見ました。
今回で大きな合戦だったのだと、改めてしりました。地元なのに池田、森氏との絡みも分かり納得できました。次は織田の大将さんが家康さんに相談せず和議を秀吉と結び、徳川をがっかりさせてゆく。しかしこれも天道にかなったことだったのでしょう。秀吉の経済力を超えるために時と知恵を用いる事が可能になって、嬉しいこと。小牧山を大切に見て参ります。有り難うございました。忠勝さんの数珠と兜姿カッコ良かった。井伊の赤揃いも素敵でした。榊原さんの姿も正信さんの知恵も懲略文も素敵。えびすくいの踊りも皆が生き生きとしていた。スターが心一つになり、四天王と呼ばれる固めができましたね。数正さんが家康に一回勝っても次回に備えるようにと。彼は苦労人です。役回りが徳川の家臣のなかで一番不憫です。
最初の小牧山写真は五十年ぐらい前のもので、南東位からの写真で、現在は小牧山城の遺跡公園に成って居る部分です。其処に見えてるのは、確かに嘗ての小牧中学校ですよ。❤
岡崎イオンのイベント参加しました。毎回わかりやすく面白い解説ありがとうございます。
待ってました!
今回もお疲れ様です。
有難うございます。
大河ドラマ「秀吉」では西村雅彦演じる家康が呆れた顔で「馬鹿につける薬は無いからな❗️」
秀吉は見事に信雄をたぶらかして、この勝負に勝利‼️
軍事で負けて外交で勝ちました。
岡崎イオンモールセミナーを聞いてまた今回の動画で更にわかりました。小牧山城跡20年振りに行こうと思います。
待っていた小牧長久手合戦での蟹江城合戦のお話、要因になった理由が聞けてなるほどと思いました!次回のお話も楽しみにしてますー。
小牧山、犬山、清須城に以前行きました。
15日イオンモール岡崎で先生のイベントに行けなくて残念でした
この後、伊勢長嶋を攻略された信雄が単独講和し武力衝突は終わりますが、秀吉の外交的勝利により、徳川家存亡の危機、そして秀吉・家康の落としどころの探り合いの名人戦ですね。解説が楽しみです。
それにしても池田恒興次男輝政は秀吉恩顧の大名の中でも黒田長政とともに家康に心服することになるのですが、親兄弟の仇に心服するとはいかがな心境なのでしょうか? やはり家康の人望、司馬遼太郎風に言えば、周囲の者を取り込んでしまう「肉の厚さ」でしょうか?
小牧山の麓にあった小牧中学校は1998年に移転しています。写真が古いようです😅
小牧長久手知リませんでした。市橋先生の解説で、とても興味深く大河を見ました。やはり私は群雄割拠の戦国時代が一番面白いな。来週も楽しみにして居ます。
先日、仕事で長久手古戦場の近くに行ったら、武蔵塚という地名がありました。あ~鬼武蔵(森長可)…と。
大河で、岩崎城の丹羽氏の若武者のエピソードをやるかな~?と思っていたら、残念ながらでした😵。徳川方の三河中入り阻止の最大の分岐点だと思うので、触れて欲しかったですね。
いくさ=陸戦においては、土木工事の技術と人足の動員力がものを言うようなところがありますね。
秀吉も家康も戦略脳を持った同じ気質の武将です。相手の戦力状況を的確に掴みます。
同じ気質同士が戦った場合、お互いの作戦がまる見え中々決着がつきません。
信玄・謙信・氏康は同じ気質のため何度戦っても決着がつきません。
次の代も景勝と氏政は同じ気質で決着がつきません。
信長と義龍は同じ気質。義龍が生きている間は信長は美濃に手をだせない。
秀吉の戦力に比べれば劣る家康。大軍相手では当然のように小牧山城に陣を引きます。
攻城戦は三倍四倍の兵力が必要です。
秀吉の岡崎攻撃も当然予測に入っている。
長篠の戦いで長篠城攻略をやったのは徳川軍なのですから。
したがって行動も早く岡崎攻撃の秀吉部隊に大打撃を与えた。
信雄が秀吉の調略で戦いを止めてしまったので、大義名分がなくなったことから家康は
軍をひきます。
その後の秀吉の全国制覇を見て、秀吉に臣従することに。
戦略脳のある秀吉・家康とも無駄な戦いをしませんでした。
吉川英治氏、新書太閤記をAI朗読動画で夢中で聞いた(?)ばかりです…関白になる迄…秀吉様よりのお話ですが、今まで不思議イメージの秀吉様がなんと言うか日本人らしい?…信長様、家康様より好きになりました笑 歴史に興味を持ったのは秀吉様の謎からです(嫌いから)今の大河はチラ見で…秀吉様のイメージが壊れるから♡ まだまだ戦国時代から江戸時代の流れのいろんな小説読んで…違ぅ、視聴したい♡ 先生の動画のおかげで歴史が楽しいです♡♡ありがとうございます!(´▽`)
秀吉は直接、家康に敗れた。
この事がずっとコンプレックスだっただろうし、その後の豊臣政権は自爆しまくった。秀吉はずっと家康からのプレッシャーと闘っていたかもしれませんね。
桶狭間や長篠の戦いを現地の風に吹かれながら家康の立場になって考えるという大移動の企画を行いましたが、蚊投げれば考えるほど大河で描かれている家康像とは違どうもかけ離れているような印象になりました。勝ち負けよりもとにかく死なないってスタンスで生き残ったような気がします。
歴史チャンネルたいへん勉強になります
小牧・犬山の戦い
小牧山の空撮で
浜崎さん「学校があるんですか 校舎があってプールがある」
市橋先生「そんな感じですね そうですね」 小牧中学校です 1998年 25年前移転してます 現在 れきしるこまき(小牧山城史跡情報館) 曲輪 公園になっています 小牧市役所本館跡地に復元整備された 土塁 堀です
羽黒砦 楽田砦の位置が違います 小牧山城から羽黒砦7.6Km 楽田砦5.3Kmです
よく出てくる「外山」は「とやま」 北外山砦の事です
小牧市役所には「小牧山課」があります協力していただけます ディレクターさん小牧・犬山 取材お願いいたします
小牧山(小牧歴史館)からの眺望は濃尾平野実感 感動します
ぜひ小牧山にいらして下さい
別の番組でもあの大堀切を見てはいたのですが、あれが隠れて移動するためのものだったとは…!いわゆる塹壕のような役割だったのですね、またひとつ詳しくなれました。
それにしてもこれは三河武士の圧倒的な強さを見せつける素晴らしい戦だと思います!
そして、そう思う一方で…「もうひとつの天下分け目の戦い」と言われるものの、この戦いにどれくらい意味があったのかは少し微妙です。戦術的な話というよりも長期的な戦略的な意味で。
一言でいうと、信雄に振り回されてしまっただけのように思えてならないのです
賤ヶ岳まではあくまで織田家家臣内の対立の話で済みますがもうこのタイミングでは「反秀吉包囲網」となりつつある状態になりつつあったころだと思います。(このあとのことから考えるとそれが逆に良くなかったのかも知れない…)
まだ包囲網が連携しきれていないうちに織田家のためにという大義名分で戦をせざるをえなくなってしまった徳川。まだ機は熟していなかったと思います。そして勝手に信雄に離脱されその大義名分すら失ってしまった。
結局このあと包囲網のひとつひとつ各個撃破で潰されていくのをただ見ているしかできなかった…
そもそも織田に恩のある池田や森が寝返っている時点であまり信雄は神輿として担がれる器ではなかったように思います。
「反秀吉包囲網」をもっと作り込んでから事を進めるべきだったかと。やはり全体的な統率を取れる人がいないと包囲網といっても一筋縄にはいかないんだなということを(信長のときも含めて)感じます。
反秀吉側からすれば、どっちつかずの態度をとりながら、あまり明確に対立する姿勢をとらず各地域のリーダー格との連携を深めていって、準備をなせたタイミングで一気に西日本、中京から同時期に攻め込んだほうが良かったと思います。いくら20か国領していても、一度に攻められては分散せざるを得ない。
そうなると(良くも悪くも)群雄割拠は続いて各地に戦国大名が存続する時代はもう少し長く続き、もしかしたら秀吉の天下取りの事業ももう少し抑えめの感じ(関白としていろいろ命令はするけど、各地に大大名は存在しつづけあまり各家の内政にまでは口出しできない感じ)になったのかもしれないように思えます。
この2人の戦いは知恵競べや能力は豊臣秀吉が上!家康は負けず嫌いだからいずれはと虎視眈々と海を生かした天下を狙っていた!
頭蓋骨の大きさは同じ位なのに顔のパーツの配置が違いすぎる。
弱い方の家康の流石のカウンターパンチといった処ですか?ただ、そこまででクリンチした秀吉も見事だし、その後の関が原まで繋げた家康も見事ですね?
先生、本日もありがとうございます。先週、楽田・羽黒・犬山へ行ってきました。少し疑問があるのですが、小牧山城を見ていると、井戸の形跡を確認できませんでした。周辺で、水があるとすると、五条川や合瀬川(めっちゃ汚いです)位しか無いのですが、水の補給は家康公はどうしていたとお考えですか?家康も砦を数個作って4km 程度(だったかな?)防御線を伸ばしていましたが、水の補給という点では、小牧はあまり適していない(15000人の水の補給には不向)と思いますが、先生のお考えを伺いたく。宜しくお願いします。
返信ありがとうございます。すみません、回答が遅れました。地形的に近辺の飲料水確保は大縣神社の付近しか、ないのではないかと思いましたが、彼らの土木技術なら、深い井戸でも掘れてしまうかもですね。本当にありがとうございます。これからも、動画配信を楽しみにおまちしています!ありがとうございました!!!@@浅井忠幸
頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』では、「家康公の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして小牧にあり」とある。
頼山陽は、関ヶ原の前に、小牧長久手で「家康の天下取り」は決まっていた。としています。
わたしもこの考え方が正しいと思います。
先生、小牧長久手の屏風が、名古屋城に無くて大坂城にあるのですか?描いた人物によって置いて置く場所が変わるのですか?秀吉は負けたのでしょう。
小牧長久手合戦は家康の負けであるのに、のちに徳川が天下を取って幕府統治が長かったことから、小牧長久手合戦で家康が勝ったと過大評価されている。
柴田勝家を滅ぼした頃の秀吉は超多忙を極めており、家康との合戦は最重要事項ではなかった。事実、秀吉は大坂にいる時間が長く、紀州の雑賀衆対策や大坂城築城に1日あたり5万人~10万人も動員をしながらのいわば片手間の戦だった。秀吉は家康との合戦中、大坂城築城に5万人~10万人も動員していたのである。この普請には秀吉に恭順してきた毛利輝元も人員を動員している。1期工事が終わり本丸と天守が完成すると近衛前久を招き驚嘆させている。家康との合戦が終わるとほどなくして関白に就任。このように家康は秀吉だけを必死で相手にしていたのに対し、秀吉は家康だけを相手にしていたのではなく、日本全国を統治することを視野に入れ行動していたのである。この頃の秀吉と家康の力の差は歴然。家康は歯が立たなかった。当時の徳川系以外の中立的な記録文書には「合戦は徳川の負け」との評価が記され残されています。例えは良くないかもしれないが、家康の奇襲成功は日米戦争で日本軍が真珠湾攻撃を成功させたようなことに過ぎない。信長亡き後、秀吉の死ぬまでの16年間の仕事量はとてつもない。日本史上屈指の天才と思う。唐入り朝鮮出兵も最近はイエズス会のスペインの日本侵略の記述が発見されたりしたことにより、世界情勢の観点から日本の安全保障上の理由があったと再評価されている。
お二人のお話しぶりから未だに三河と尾張があんまり仲良くない感じが伝わってきて笑いました。
実質的に家康公の勝ちと思いますが、
家康公は試合に勝ち秀吉公は勝負に勝った。後に秀吉公に歯向かいながら加増されたのは家康公だけたからやはり家康公の勝ちと思いますか😊
家康の負けだと思いますよ。
ただ、負けたけど強烈な一発(三河中入りでの戦い)をお見舞いした事で一目置かれて後々活きた。
@@komatsu2199 その通りです。例えは良くないかもしれないが、家康の奇襲成功は日米戦争で日本軍が真珠湾攻撃を成功させたようなことに過ぎないです。小牧長久手合戦は家康の負けであるのに、のちに徳川が天下を取って幕府統治が長かったことから、小牧長久手合戦で家康が勝ったと過大評価されている。
柴田勝家を滅ぼした頃の秀吉は超多忙を極めており、家康との合戦は最重要事項ではなかった。事実、秀吉は大坂にいる時間が長く、紀州の雑賀衆対策や大坂城築城に1日あたり5万人~10万人も動員をしながらのいわば片手間の戦だった。秀吉は家康との合戦中、大坂城築城に5万人~10万人も動員していたのである。この普請には秀吉に恭順してきた毛利輝元も人員を動員している。1期工事が終わり本丸と天守が完成すると近衛前久を招き驚嘆させている。家康との合戦が終わるとほどなくして関白に就任。このように家康は秀吉だけを必死で相手にしていたのに対し、秀吉は家康だけを相手にしていたのではなく、日本全国を統治することを視野に入れ行動していたのである。この頃の秀吉と家康の力の差は歴然。家康は歯が立たなかった。当時の徳川系以外の中立的な記録文書には「合戦は徳川の負け」との評価が記され残されています。もちろん片手間であっても家康を討てればそれに越したことはありませんでしたが、一時の感情で家康と総力戦をして長引かせなかった秀吉の判断はあっぱれ。さすがです。信長亡き後、秀吉の死ぬまでの16年間の仕事量はとてつもない。日本史上屈指の天才と思う。唐入り朝鮮出兵も最近はイエズス会のスペインの日本侵略の記述が発見されたりしたことにより、世界情勢の観点から日本の安全保障上の理由があったと再評価されている。
@@TO-eq5im
・真珠湾は羽黒っぽいので太平洋戦争であれば負けましたが狙いとしてはレイテのほうがあってるかも。
・局地的な合戦には勝って戦役には負けたという認識です。
・徳川の視点では負けたという認識は低いと思うので仕方ないと思います。 幕府としてはなおさらです。
・秀吉は周辺の諸勢力に手当しなければならず家康だけ相手にする環境がつくれなかっただけ。その上での全力ですね。
もちろん家康よりも余裕があるのは認めます。信雄が和議結ばなければジリ貧間違いなしなので その点信雄の見切りは正解と思います。
・朝鮮出兵は色々ありますが豊臣政権を疲弊させたのは間違いなく、やるにしても5年くらい後でも良かったかと思います。
信雄、無能じゃなかった!?
無能とは思いません。
後々の立ち回りは中々出来る事ではないです。(肝心な時にポカするイメージです)
@@komatsu2199 秀吉と手打ちした時に、家康に連絡・相談しなかった。大ポカすぎ。 注意や教えてくれる部下も居なかった!?
@@浅井忠幸
そこが織田信雄とその家老らしいところです😶。
立場を理解して先を見通すことが「そこそこ」出来ていたら賤ケ岳とか小牧長久手は起こっていませんね。
どう見ても松潤がひげを生やしてると
しか見えない。ファンタジー
女性の方がなんか可愛いな👍✨
官兵衛がいれば小牧・長久手は勝っていた
備中高松城水攻めは城主清水宗治が毛利家に忠義の者だったからこそ秀吉の如何様にも出来たが、それが信雄では成功したとは限らないし、現に事前に阻止されていますが
大丈夫信雄は阿呆だから
官兵衛は最強だし
他の方面で押し込まれれば同じこと。 秀吉は対家康に全振りは出来ない。