Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
なんだかウララがドア周辺の座席を少なくした意味が分かるような混み方
自分は福山の方やけど、大体の人がドア付近に留まるのが利用しててなんだかな〜って思うすぐ降りれる場所に留まりたいのはめっちゃ分かるけど、ドア開いても皆気にせずスマホばっかり見てるのを見ると内心「もうちょっと奥進んでくれよ」って思うなーこういう事が起きるからURARAからドア付近の座席数が減らされたんだろうけど...
1:20山陽本線の東岡山より東に入る213系は1日1往復のみのためかなり貴重ですね
既にコメントありますが、安芸と備後は大きい峠があって貨物は機関車増結しないといけない程、物理的な隔たりがあるし、それぞれ重複しない違う都市圏です。しかし、岡山から福山は密接で福山都市圏は井原市・笠岡市・里庄町も含んでるし広域定義でも東瀬戸経済圏(岡山・福山・高松)で岡山都市圏と繋がっててJRや井原鉄道やバス路線も県またぎで需要あります。歴史的にも備中備後は同じ吉備国(国全体としては備前・美作と小豆島・赤穂の東側まで)で江戸期は天領・譜代藩の集中地帯。明治期に倉敷と福山は同じ県で県庁を笠岡に置いてた程ですが明治政府は政権が安定してない時期で残念ながら岡山県編入後直ぐに分割。昭和期戦後でも笠岡市側で福山市編入の住民運動があったそうで笠岡市出身の岡山県知事が当選して事態収拾したそうです。
「安芸と備後で一緒にやる」やり方は福島正則が始めて、その後釜になった浅野氏も安芸+備後八郡(備後の大部分)を統治したわけで。備後って地域自体が、なんだか「本当は岡山に近いんだけどとりあえず広島に付いとけ」な宿命があるんですかね?鳥取(因幡)がむっちゃ近いのになぜか兵庫県にされてる但馬に通じるものがあります。
鉄道交通系から大分離れちゃう長文コメントでキャン2さんには恐縮ですが入れさせて頂きます。「一緒にやる」って意味が僕には?で曖昧なんで何ともですが、広島県のくくりで勝手に解釈するとしたら、福島正則は1代の短期で幕府に広島藩を没収されたので個人的には違うかなと。守護大名は安芸と備後で異なるし、敢えて言うなら戦国期の毛利元就と孫の輝元が「広島城」と命名したのがスタートじゃないですかね?元就の戦略として備中までは深入りしてなかったので、安芸と備後の国衆を従えて領国化して守護大名になりたいという戦略と想いがあったのかな?と。(※妄想です。) 対する戦国時代の備後側の反応としては出雲尼子氏や大内氏など強大な勢力に翻弄されながらも、最後まで大内家・毛利家に取り込まれたくない勢力もあり、福山の場合だと宮氏などは(備後山名家配下・備後吉備津神社社家・一時期備中守護だった家柄)へ備中からも加勢がありました。広島藩が「(備後の大部分)」を領していたのは福島正則1代だけで、浅野氏の時代は全14郡のうちの8郡であったのと備後中心部の福山藩が譜代の水野家~阿部家の領域なので、Wiki記載では広島藩を「(備後の大部分)」ではなく「備後国の半分を領有した」との表現となっています(面積的には狭い福山藩は石高的には2/3まではいかないが過半数以上。現代の公的な文書では「備後の一部」との表記も)。更に、例えば府中市は元々浅野家広島藩のエリアもありましたが後に幕府直轄領となりました。福山藩の北には中津藩の飛び地(譜代・奥平家)と天領、倉敷は天領だし備中に老中も出している備中松山藩もあるので、備中備後は天領譜代が多く幕府が抑えて置きたかった意図が見えます。変わって伯耆・因幡・但馬の件ですが、室町守護大名の山名氏テリトリーなので一般的に一緒にという気持ちは分からないではないです。しかし、但馬は因幡とは違うグループで古くから但馬丹波丹後(昔、丹波ではなく但波の表記も)が、(備前備中備後の様に)ひとくくりだったようで、明治になり豊岡県を構成していました。(ちなみに因幡と伯耆は中心地が離れているし文化・言葉も違うのでライバル関係で良好ではないそうです。)豊岡県は大きくて神戸のすぐそばまである県でした。(兵庫県の神戸が小さくて姫路も大きいです。淡路島は徳島藩・南海道・四国テリトリーだけど幕末時に淡路島の藩士が斬られる事件があり徳島県になることを拒絶して兵庫県へ編入しました。)兵庫県は大きい県が複数合併して出来上がったようです。ただ、今の県の形になるまで一部、丹波丹後で京都府との入れ替えもあったようで、兵庫県と京都府の県境の采配には明治政府や大久保利通の指示があったそうです。(兵庫県HP記載)話を戻すと、歴史的・文化的・経済的な繋がりが深い福山と倉敷が同じ小田県として早々に一緒になったのは自然です。しかし、小田県が岡山県編入になった後にたった5ヶ月で福山が岡山県から引き裂かれ広島県に編入されました。理由は明治政府の日本統治が安定してなかった時期で、西南戦争の1年前の不穏な情勢なので天領譜代領を分けて置きたかったから、他の府県と同様に政府側が指示したと容易に推察されます。しかも、具体的な出来事として中国新聞のネット記事によると、小田県の福山北部の豪商士族から東京の新聞へ明治政府への反論投書(台湾関係で備中浅口郡(岡山側の小田県民)出身住民が被害があった件について)、政府の痛いところをついて話題になり、小田県議会でも議決しそうになったそうです。戦後、昭和になっても笠岡市が福山市への編入住民運動がありました。(笠岡出身の岡山県知事当選で鎮静化 前述してますね。) 民間でも府中市の世界的な大手企業。建築部品ダイカストメーカーの「リョービ」の名前の由来は「備中備後」からです。(会社HPより) 正直、「一緒にやる」「とりあえず広島に付いとけ」ってのは僕には広島・安芸の住民の希望的な観測と、過去の経緯を知らない若者が広島県だからっていう単純に愛着を持ってるからに尽きるんじゃないかと思っています。逆に、備中備後の様々な出来事は古くからの住民の絆を感じるし巨大な中核市である福山市と倉敷市がそのまま本来の一緒の県だったらもっと発展したんじゃないかと想像しています。
真っ黄色の国鉄型車が未だ健在で嬉しくなりますね。
仕方ないんだろうけどこの編成の短さで満員なのはストレスだなぁ😅
岡山駅から東部で人が住んでいるのは西大寺までが多いのです。山陽本線ではなく赤穂線の方。東岡山駅で分岐するんですが、そこまでしか乗らない人が乗るから混むのです。その先は人が乗っていないので3両編成というハメになっているのです。そもそも山陽本線が西大寺を通ってないのがおかしいのですが、コレは敷設当時は海運交通が盛んだった為、漁師や塩田関係者合わせて山の中に追いやられたのです。山陽本線東部は人がいるから電車が通ってるのではなく、逆の電車が通っているから多少の街が形成されたのです。
通勤通学客のために[快速]を増発しても良いと思う.
阪急西宮北口の夕ラッシュも取り上げてほしいです。特に今津線宝塚方面の混雑は凄いので
静岡エリアの島田〜興津みたいに岡山も金光・倉敷〜瀬戸・西大寺間のようなダイヤを入れて欲しい。本数が少ない上、両数も少ない
岡山県民です。昔は快速がありました。けど快速に使っていた車両が老朽化で使えなくなったり快速で止まらない駅に大学があるためどうしても乗れる時間が決まってしまったりと色々とあり廃止となりました。岡山〜倉敷までは伯備線も倉敷駅まで止まり使えますが早く帰りたいせいか分散化せず何故か人が混んでしまうのです。
山陽本線と伯備線、岡山→倉敷間の夕ラッシュ時の混雑は本当に酷いんですけど、乗客の多くが、倉敷までに降りてしまうので、両数増やしても微妙なのかもしれません 😢倉敷折り返し運転の列車が欲しいです。
コロナ禍での本数車両減からどこも戻っていないから回避できるラッシュが爆裂している感じ単純に元に戻せよ
学生はともかく、こんな時間帯に帰宅できてる勤め人は幸せな人達ですよ!😗
宇野線の227系が3両以下となると、立席の割合は増えるわな。かと言って、各停の利用者が更に増える要素もないし。
まだ末期色結構残ってますね。
岡山駅混みすぎキャン最高
ラッシュ時だけを見て、山陽本線6両に出来ないの?と言っているようですが、日中の利用者数とダイヤ見みれは、無理だと分かるんですよね。
岡山市民です。岡山は大都会なので致し方ないのかも…
編成短いんじゃお話になりませんよ
岡山ー広島の快速、復活してほしい 支社同士が仲 悪いのか?
姫路迄の新快速もそうですが、新幹線と共食いになる。競合が無いので事業者的にメリットが無い。
広島県は安芸・備後間の需要はそんなにないです。互いに独立した経済圏ですから。
サンライナーがガラガラだったから難しい。倉敷過ぎると空気輸送並みな事も多々あったし。
@@schimitch3277 さん激しく同意です。都市圏は別ですし安芸と備後は物理的にも隔たりがあって峠で貨物列車は機関車を増結しないといけないほどです。古代から備中備後は吉備国で江戸期は譜代天領の集中地帯で明治期に福山倉敷は同じ県だったことも。現代も福山都市圏の中には岡山県側の井原市・笠岡市・里庄町が含まれてます。広域定義では東瀬戸経済圏(岡山・福山・高松)で、広島広域都市圏よりかなり大きい人口ですので、地方とは言え岡山駅は混みます。個人的には友達が岡山から福山の会社に長年JR通勤してるので快速復活して欲しいものです。
@@markun2nd さん 何回か車で広島から福山まで行きましたけど、結構な峠でしたしね。完全に別風土なのは見て取れました。
なんだかウララがドア周辺の座席を少なくした意味が分かるような混み方
自分は福山の方やけど、大体の人がドア付近に留まるのが利用しててなんだかな〜って思う
すぐ降りれる場所に留まりたいのはめっちゃ分かるけど、ドア開いても皆気にせずスマホばっかり見てるのを見ると内心「もうちょっと奥進んでくれよ」って思うなー
こういう事が起きるからURARAからドア付近の座席数が減らされたんだろうけど...
1:20山陽本線の東岡山より東に入る213系は1日1往復のみのためかなり貴重ですね
既にコメントありますが、安芸と備後は大きい峠があって貨物は機関車増結しないといけない程、物理的な隔たりがあるし、それぞれ重複しない違う都市圏です。しかし、岡山から福山は密接で福山都市圏は井原市・笠岡市・里庄町も含んでるし広域定義でも東瀬戸経済圏(岡山・福山・高松)で岡山都市圏と繋がっててJRや井原鉄道やバス路線も県またぎで需要あります。
歴史的にも備中備後は同じ吉備国(国全体としては備前・美作と小豆島・赤穂の東側まで)で江戸期は天領・譜代藩の集中地帯。明治期に倉敷と福山は同じ県で県庁を笠岡に置いてた程ですが明治政府は政権が安定してない時期で残念ながら岡山県編入後直ぐに分割。昭和期戦後でも笠岡市側で福山市編入の住民運動があったそうで笠岡市出身の岡山県知事が当選して事態収拾したそうです。
「安芸と備後で一緒にやる」やり方は福島正則が始めて、その後釜になった浅野氏も安芸+備後八郡(備後の大部分)を統治したわけで。
備後って地域自体が、なんだか「本当は岡山に近いんだけどとりあえず広島に付いとけ」な宿命があるんですかね?鳥取(因幡)がむっちゃ近いのになぜか兵庫県にされてる但馬に通じるものがあります。
鉄道交通系から大分離れちゃう長文コメントでキャン2さんには恐縮ですが入れさせて頂きます。「一緒にやる」って意味が僕には?で曖昧なんで何ともですが、広島県のくくりで勝手に解釈するとしたら、福島正則は1代の短期で幕府に広島藩を没収されたので個人的には違うかなと。守護大名は安芸と備後で異なるし、敢えて言うなら戦国期の毛利元就と孫の輝元が「広島城」と命名したのがスタートじゃないですかね?元就の戦略として備中までは深入りしてなかったので、安芸と備後の国衆を従えて領国化して守護大名になりたいという戦略と想いがあったのかな?と。(※妄想です。) 対する戦国時代の備後側の反応としては出雲尼子氏や大内氏など強大な勢力に翻弄されながらも、最後まで大内家・毛利家に取り込まれたくない勢力もあり、福山の場合だと宮氏などは(備後山名家配下・備後吉備津神社社家・一時期備中守護だった家柄)へ備中からも加勢がありました。
広島藩が「(備後の大部分)」を領していたのは福島正則1代だけで、浅野氏の時代は全14郡のうちの8郡であったのと備後中心部の福山藩が譜代の水野家~阿部家の領域なので、Wiki記載では広島藩を「(備後の大部分)」ではなく「備後国の半分を領有した」との表現となっています(面積的には狭い福山藩は石高的には2/3まではいかないが過半数以上。現代の公的な文書では「備後の一部」との表記も)。更に、例えば府中市は元々浅野家広島藩のエリアもありましたが後に幕府直轄領となりました。福山藩の北には中津藩の飛び地(譜代・奥平家)と天領、倉敷は天領だし備中に老中も出している備中松山藩もあるので、備中備後は天領譜代が多く幕府が抑えて置きたかった意図が見えます。
変わって伯耆・因幡・但馬の件ですが、室町守護大名の山名氏テリトリーなので一般的に一緒にという気持ちは分からないではないです。しかし、但馬は因幡とは違うグループで古くから但馬丹波丹後(昔、丹波ではなく但波の表記も)が、(備前備中備後の様に)ひとくくりだったようで、明治になり豊岡県を構成していました。(ちなみに因幡と伯耆は中心地が離れているし文化・言葉も違うのでライバル関係で良好ではないそうです。)豊岡県は大きくて神戸のすぐそばまである県でした。(兵庫県の神戸が小さくて姫路も大きいです。淡路島は徳島藩・南海道・四国テリトリーだけど幕末時に淡路島の藩士が斬られる事件があり徳島県になることを拒絶して兵庫県へ編入しました。)兵庫県は大きい県が複数合併して出来上がったようです。ただ、今の県の形になるまで一部、丹波丹後で京都府との入れ替えもあったようで、兵庫県と京都府の県境の采配には明治政府や大久保利通の指示があったそうです。(兵庫県HP記載)
話を戻すと、歴史的・文化的・経済的な繋がりが深い福山と倉敷が同じ小田県として早々に一緒になったのは自然です。しかし、小田県が岡山県編入になった後にたった5ヶ月で福山が岡山県から引き裂かれ広島県に編入されました。理由は明治政府の日本統治が安定してなかった時期で、西南戦争の1年前の不穏な情勢なので天領譜代領を分けて置きたかったから、他の府県と同様に政府側が指示したと容易に推察されます。しかも、具体的な出来事として中国新聞のネット記事によると、小田県の福山北部の豪商士族から東京の新聞へ明治政府への反論投書(台湾関係で備中浅口郡(岡山側の小田県民)出身住民が被害があった件について)、政府の痛いところをついて話題になり、小田県議会でも議決しそうになったそうです。
戦後、昭和になっても笠岡市が福山市への編入住民運動がありました。(笠岡出身の岡山県知事当選で鎮静化 前述してますね。) 民間でも府中市の世界的な大手企業。建築部品ダイカストメーカーの「リョービ」の名前の由来は「備中備後」からです。(会社HPより) 正直、「一緒にやる」「とりあえず広島に付いとけ」ってのは僕には広島・安芸の住民の希望的な観測と、過去の経緯を知らない若者が広島県だからっていう単純に愛着を持ってるからに尽きるんじゃないかと思っています。逆に、備中備後の様々な出来事は古くからの住民の絆を感じるし巨大な中核市である福山市と倉敷市がそのまま本来の一緒の県だったらもっと発展したんじゃないかと想像しています。
真っ黄色の国鉄型車が未だ健在で嬉しくなりますね。
仕方ないんだろうけどこの編成の短さで満員なのはストレスだなぁ😅
岡山駅から東部で人が住んでいるのは西大寺までが多いのです。山陽本線ではなく赤穂線の方。東岡山駅で分岐するんですが、そこまでしか乗らない人が乗るから混むのです。その先は人が乗っていないので3両編成というハメになっているのです。そもそも山陽本線が西大寺を通ってないのがおかしいのですが、コレは敷設当時は海運交通が盛んだった為、漁師や塩田関係者合わせて山の中に追いやられたのです。山陽本線東部は人がいるから電車が通ってるのではなく、逆の電車が通っているから多少の街が形成されたのです。
通勤通学客のために[快速]を増発しても良いと思う.
阪急西宮北口の夕ラッシュも取り上げてほしいです。特に今津線宝塚方面の混雑は凄いので
静岡エリアの島田〜興津みたいに岡山も金光・倉敷〜瀬戸・西大寺間のようなダイヤを入れて欲しい。本数が少ない上、両数も少ない
岡山県民です。昔は快速がありました。けど快速に使っていた車両が老朽化で使えなくなったり快速で止まらない駅に大学があるためどうしても乗れる時間が決まってしまったりと色々とあり廃止となりました。岡山〜倉敷までは伯備線も倉敷駅まで止まり使えますが早く帰りたいせいか分散化せず何故か人が混んでしまうのです。
山陽本線と伯備線、岡山→倉敷間の夕ラッシュ時の混雑は本当に酷いんですけど、乗客の多くが、倉敷までに降りてしまうので、両数増やしても微妙なのかもしれません 😢
倉敷折り返し運転の列車が欲しいです。
コロナ禍での本数車両減から
どこも戻っていないから
回避できるラッシュが爆裂している感じ
単純に元に戻せよ
学生はともかく、こんな時間帯に帰宅できてる勤め人は幸せな人達ですよ!😗
宇野線の227系が3両以下となると、立席の割合は増えるわな。
かと言って、各停の利用者が更に増える要素もないし。
まだ末期色結構残ってますね。
岡山駅混みすぎ
キャン最高
ラッシュ時だけを見て、山陽本線6両に出来ないの?と言っているようですが、日中の利用者数とダイヤ見みれは、無理だと分かるんですよね。
岡山市民です。岡山は大都会なので致し方ないのかも…
編成短いんじゃお話になりませんよ
岡山ー広島の快速、復活してほしい 支社同士が仲 悪いのか?
姫路迄の新快速もそうですが、新幹線と共食いになる。競合が無いので事業者的にメリットが無い。
広島県は安芸・備後間の需要はそんなにないです。互いに独立した経済圏ですから。
サンライナーがガラガラだったから難しい。
倉敷過ぎると空気輸送並みな事も多々あったし。
@@schimitch3277 さん激しく同意です。都市圏は別ですし安芸と備後は物理的にも隔たりがあって峠で貨物列車は機関車を増結しないといけないほどです。古代から備中備後は吉備国で江戸期は譜代天領の集中地帯で明治期に福山倉敷は同じ県だったことも。現代も福山都市圏の中には岡山県側の井原市・笠岡市・里庄町が含まれてます。広域定義では東瀬戸経済圏(岡山・福山・高松)で、広島広域都市圏よりかなり大きい人口ですので、地方とは言え岡山駅は混みます。個人的には友達が岡山から福山の会社に長年JR通勤してるので快速復活して欲しいものです。
@@markun2nd さん 何回か車で広島から福山まで行きましたけど、結構な峠でしたしね。完全に別風土なのは見て取れました。