Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
緑の浜崎さん、ナイス👍。
そっちに目がいっちゃいますよね!ナイスバディですよ!
大阪城と、原城にあつまったり、由井正雪のもとに集まったんですよね。要する労働争議。三池炭鉱争議ですよね。
秀吉の朝鮮出兵にも、同じような背景があったんでしょうね。天下統一で、目出たしめでたしとは、いかなかった。
13:34 宮本武蔵登場
七人の侍に勝新太郎は出てないです…。細かくてすみません😣💦⤵️
気がつかず、申し訳ありません。
三船敏郎と言いたかったんですよね、きっと笑
家康の苦心と、大坂の陣への繋がりがよく理解できました。関ヶ原、面白かったです🎵
浪人問題、石高との費用発言していますがこれ実際の費用イメージ湧きません。石は現在何万ですか?、現在貨幣でないとイメージ湧きませんよね。
青森に土岐氏の末裔が居ます。石田三成の娘を津軽氏が三女を息子の嫁にと身請けした際に従者として付いてきてそのまま津軽藩に居ついたようです。近江衆として明智光秀亡き後、石田家に付いていたというのは意外ではあります。
為になる御教授ありがとうございました。織田信長から始まり秀吉、家康の時代も雇用の問題に頭を抱かえ今になる。
素晴らしい歴史認識です。
映画の清洲会議みたいに関ヶ原仕置きも映画で見たいですね。もちろん先生に監修していただいて
浪人の多くが、海外に流れて、オランダやスペインの傭兵にも、なっていましたよね‼️
この事は、最近知りました。しかも、この職業軍人たちは、結構活躍したらしい。教科書には載ってない歴史。だから、歴史って面白い。
すごくおもしろかったです!浪人対策の加増だったんですね。次回はいよいよ真田ですね!楽しみです。
関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとのことですが。関ヶ原の戦い後の東西両軍の勢力を教えて下さい。特に大坂城にはどのくらいの兵力が残っていたのですか?それらをまとめてーーーもう一戦。は可能ですか?たまたま関ヶ原の戦いのあと、西軍が手をあげたから、関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとなっただけで。という考え方はーーー。どうですか?それと石田三成が首謀者のように扱われますが。実際はどうなのですか?豊臣家(もしくは三成、五奉行ですか)主導でやりたかったーーーのであのような形に。という考え方はーーーどうですか?毛利輝元が実質的な総大将ならば、どうして関ヶ原に来なかったのか?西軍は、毛利は実際、どこで東軍に決戦を挑むつもりだったのか? 輝元の出陣は大津城、田辺城が片付いてから。その兵をまとめて。ということですか。大津城、田辺城が、(他には何処が)落ちなければ。輝元は大坂から動けませんか?となると決戦はーーー何処になりますか?大垣の東か。まあいいか。その前に関ヶ原の戦いが。大軍が戦えそうな場所は京都から江戸までの東海道沿いにーーー何ヶ所くらいあるのですか?当時の武将ならばーーー即座に何ヶ所かは。まあ家康は美濃に福島たちを前衛として送っていますし。それ以西ですか?たまたま家康が関ヶ原に。たまたまそこに居た石田三成たちが戦い、敗れた。という考え方はーーー。関ヶ原の戦い自体が前哨戦だったーーーということは?しかし。その後、戦いを続けようにも。毛利輝元が逃げては。南宮山の毛利軍。関ヶ原の戦い後、どうなったのですか?大坂へ無事、帰れたのですか?何らかの事情て。兵力不足か。戦意喪失か。どちらですか?関ヶ原の戦い前に実際、大坂にどのくらいの兵力が。それに比べて家康のもとには?圧倒的に西軍が多かったということはーーーないですか。そのあたりを書いたモノはーーー。あまり。まあいいか。
いつも楽しく拝見しています。なるほど浪人問題は目から鱗です。全く意識にありませんでした。個人的には慶長出羽合戦や四国、九州など地方の関ヶ原の戦いへの先生の見解を伺ってみたかったです。田中吉政公が入った筑後は小早川秀包の久留米3郡を併せて一国なので、旧小早川家臣も召し抱えたのかもしれませんね。いずれにしても立花家臣の多くは肥後の加藤清正を頼ったとか。中には筑前の黒田長政に請われた者もいたという話がありますね。
また次週が楽しみです。今日もありがとうございました。
西郷隆盛は下級武士の出ですが、薩摩藩では城下士という平時でも奉行クラスまで出世出来る正式な武士です。郷士階級より遥かに上で、現に種子島等の郷士からは城士風を吹かす嫌なやつとして嫌われています(暗殺しようとするが、警備が厳しく断念する逸話があります薩摩藩では九州本土と南西諸島との武士には更に階級があってややこしい。基本城下士は石高や役職が多少上でも、藩主の近辺職に就けない薩摩藩特有の外城武士を下に見ています。外城武士の中でも下に長島(天草諸島)を除く島勤務の武士があって、郷士は更に下の階級ですね(勿論、郷士でも城下・本土・島と階級がある霞が関のエリートから見た東京と地方、離島と地方自治体行政職みたいなものですね
なるほど。明治政府を、個人的にとても嫌いな理由がハッキリしました。
最上や蒲生はなんというかグレーゾーンじゃない?
郷士の由来がこれな訳ですね。そして、倒幕の中心となった、、、因果応報。
戦後の公職追放みたいなもんやねどうでもいいけど七人の侍に勝新は出てないで
お久しぶりです。先生、ありがとうございます。先生の御説を伺い、理解が出来ました。西国の豊臣系武将のほとんどは、太閤蔵入地をもらったのですね!だから、江戸時代の初めのころは、豊臣秀頼に豊臣系武将が献納していた、なので、形の上では減らされても、実質は減収には見えなかった(見せなかったのかな、家康が)のですね。これで、減封になっても、位が高いので、文句は言わなかった(足利将軍みたいに、京都周辺の直轄地だけでも、将軍の位が保てたのを淀は知っている、ということですね)。加えて、秀頼がある程度、関ヶ原後も豊臣系武将に影響力があった、と考えれば、理解が出来ました。ありがとうございました。ここで、もう一つ疑問があります。それは、蔵入地の金・銀山の所有権です。東国は徳川が持って行ったのでしょうが、西国はどうだったのでしょうか?秀吉は金銀の価値を米以上に置いていたため、家康の領土が多少秀吉より大きくても、金山・銀山を収入源にしていた、というお話は聞いています。しかし、戦後はどのようにして、金山や銀山の所有権を家康が剥奪していったのか、は疑問です。ご教授頂ければ幸いです。
先生、いつもありがとうございます😊この関ヶ原後の転封・加増は、基本的に東軍の大名が改易された西軍の大名の土地に入ったというイメージで良いのでしょうか?だとすると、領地経営的な感覚からすると、管理する土地の大きさに見合った役人(武士)の量が必要だと考えられますから、加増された土地に合わせてある程度の武士を雇用するのは加増された大名側からしても必要性があった気がします。しかも、その土地に通じた元々の大名の武士であれば即戦力になりますし。勿論、それでリストラされた武士達全員が召し抱えられることになるとは思わないのですが。これと関連して、江戸時代初期にかけて賞罰でよく転封がありましたが、新たな領地経営に急に対応しなきゃいけないって大名は容易にできたのかなということも常々気になってました。
大坂の陣にどういう背景で繋がって行ったのかと言う事が理解出来ました(^_^)次回もめちゃくちゃ楽しみにしています(^_^)
今日も勉強になりました。水曜日が楽しみです。関ヶ原浪人から再雇用(途中入社?)できた人は、運が良かったですね。大阪冬の陣、夏の陣でもかつて名を馳せたもと武将(失職中の元大企業の役員幹部)が集まってきたのも納得できました。時代小説の藤沢作品や山本(周五郎)作品にもこの時代の物があります。江戸時代に入っても、浪人の増加はさらに社会問題になってますね。改易されて主家を失った浪人達が盗賊団になって鬼平さんと対峙する(池波作品)等、歴史は繋がっているのですね❗😄
次回大坂冬の陣が楽しみです。方広寺の鐘「国家安康、君子豊楽」の市橋先生の解説宜しくお願いします。あと、片桐且元は泣く泣く大坂を退去せざるを得なかったのでしょうか?それとも、徳川に内通されたのでしょうか?そこのところも宜しくお願いします。本日はありがとう御座いました。
この先生、鎌倉時代とか怪しかったけど、徳川家康を絡めて話すと能力が一段増すね。 徳川家康のこと大好きなんだろうね。 非常に洞察力が深い。
東北の方の上杉と最上・伊達の争いも語って欲しいな
長谷堂の戦いですね
確かにこの浪人~失業者問題は頭が痛い?大阪の陣ではこういう連中が集まった、15年後のことなのにね。なら大阪の陣の後のこの浪人問題はどう考えたのか→面倒見るだけの資金がないし、戦は終わり?だから放置~見捨てたのだろう。残された浪人さんたちは不運だね。冷静に見ると、名前の通り家康の使命は、「家」→国づくりだった感はしますね。こうなると戦国時代を生き抜きその後の徳川時代の基礎を作った家康の凄さ、神仏の選択眼?の確かさにはまいります。幼少期を人質として過ごし家族の温かさ?には縁が薄いにもかかわらず、平和な世の中にした~歴史とは面白いものです。
だけど、この頃の農村も相当ヤバさ満載だよね。純粋に農民と言えるのかも疑問だし
ある本で読んだのですが、都城島津家資料によると上方の豊かな地で1000石からの実収は300石であると。10万石の大名で例えると8割は家臣達に与えるので大名自らの給与は2万石である(直轄地)その2万石の実収は6000石である。ここから家臣達の兵糧や必要物資を多く出す代わりに家臣達には兵を出してもらう。そのため大名達は家計をよくするためには多くの直轄地が多い方がいい。けども直轄地を多くすると家臣達の数が少なくなり軍役に支障をきたす。(豊臣政権下の軍役は10万石で5千人である)このジレンマの中で家臣を召し抱え知行を与え、少ない直轄地から全軍の兵糧物資を出さないと行けなかった。これらを考えると動画でもあった土佐の山内家はどうであっただろう、全国統一されて国内の土地の所有権が決まりその後での大幅な加増である。福島がもらった広島みたいな豊かな地なら兎も角、大幅加増だが、四国土佐という実りが豊かではなく、天下が収まり戦が無くなりつつある状況下で従来の家臣達にも加増はあるし、その中で果たして先生が言う通り関ヶ原浪人達を雇う力があったのであろうか。
関ヶ原は敗者であふれていて周辺農民はかなり危険だったみたいです。しかし家康公が、人や馬の遺体を片付けてくれるならここは襲わないと令を出し、被害を防ぐことができたようです。
家康公は、ハローワーク作ればよかったんじゃね(説) アシスタントの方、回を重ねる毎に綺麗に素敵に変わってゆく💖先生の語り口も上手く❗️まるで〜ドラマを見てるみたいです👍
ハローワークではありませんが、家康は高名な武士の就職斡旋は積極的に行っています。彼らは当然一人でなく何百人と家臣団を形成していたので必然的に大規模就職になりますところが、秀吉の時代から行われた武士統制の一環である奉公構が乱発されて、旧主の許可が無いと再就職ができなくなります。有名所では、甘糟景継は最終的に家康が二万石の直臣大名として取り立てようとしますが、旧主の上杉景勝が奉公構をたてに拒絶し浪人のまま生涯を終えます(子孫は小禄ですが上杉家に復帰できた関ヶ原組ではありませんが、御宿官兵衛・塙団右衛門・後藤又兵衛は奉公構で再就職が出来なくなり大坂城に入った人達ですね
@@toshis3972 さん〜丁寧な解説❗️ありがとうございます‼️複雑な時代背景があるんですね❗️後藤又兵衛は槍の名手ですね❗️大河ドラマ軍師〜官兵衛で登場しました❗️秀頼公〜それにしても秀吉に仕えてた武将に滅ぼされるとは💦秀頼は落ち延びて!天草四郎になった(説)やって欲しいです🤗
有名な吉良も高家というからね
徳川自身は増えなかったのですね。代わりに家臣や息子たちを大名として関東以外に配置したから、実質的には徳川が一番加増したことになりそうです。
16万人の浪人が誕生商人農民町人に成った者も居た
池田はどちらかと言うと徳川寄りの豊臣家臣
豊臣恩顧の大名は、変な疑いをかけられることを防ぐために浪人を雇うことを躊躇った可能性があったように思いますね。
宮本武蔵て黒田軍じゃなかったっけ
関ヶ原では西軍の一兵卒で参陣しました。
現在では養父の無二が黒田家配下に居た可能性が非常に高いですね福田正秀「宮本武蔵研究論文集」(2003)に詳しくあり、結果本書が出版された瞬間西軍支持者が一気に黙りましたしwそれまでは吉川小説のドラマ性や岡山に新免氏が居た→宇喜多氏の配下に違いないって単純な理由で西軍説が強かったみたいですね後に武蔵が水野勝成への仕官しているのも、勝成が九州放浪時代に黒田家に居たときの旧知の仲であった無二との縁故仕官と考えるのが今のところ妥当ですしとは言えそもそも武蔵が関ヶ原に参陣したこと自体まだ確認できて無いのに関ヶ原浪人って言ってるのは疑問符ですね…不勉強の身としては先生の回答待ちです
ここ迄解説して下さった先生には大変失礼な感想になるかも知れませんが、そして「風雲児たち」へ!という事なんでしょうか…。長年の愛読書の一つなもので、そんな風に思ってしまいました。
18:01 浜崎さんの「なるほど…」の声、今までの中で一番感嘆された「なるほど」でした。だから『なるほど!ミステリー』って言うんですね(笑)関ケ原後→浪人発生→幕末→西郷・坂本→倒幕…ふ~ん、そうなんですね。
七人の侍は1586年を舞台にしてるから、関ヶ原の戦いの14年前ですよ。
申し訳ありません。勘違いしておりました。修正させてもらいます。
蔵入地については加増を国替えと合わせて行うことによって蔵入地を管理する任を解くと共に引き継ぎを行わなかったことで蔵入地の収入を豊臣家に供給しないようにしたタヌキの策略でしょうねそれよりも蔵入地の収入より圧倒的に大きかった金山銀山からの収入をどうやって簒奪したのかが気になります
タヌキの策略であったかどうかは別にして(笑)、ご見識の通り蔵入地からの年貢収入はなくなりました。ただやはり豊臣家を主として考えていたことは事実です。全部が全部ではないですが、収入物のいくばくかを収めていたという記録もあります。家康の戦後処理の失敗の一つでしょう。金山や銀山については、佐渡の金山は上杉の直轄でしたから容易に接収したことと思います。また石見銀山については、尼子から毛利氏に採掘権が移っていましたので、徳川と領分を折半することで話を付けたと認識しています。多くあった金山や銀山は、それぞれの事情に合わせて大久保長安や彦坂元正らの代官が次第に支配権を獲得していったと考えています。ただ、秀吉の時代からの莫大な金や銀が豊臣氏のもとに残されたことも事実であり、大坂の陣の遠因となって行ったのでしょうね。
殿様も大変なプレッシャーやな。大企業の社長と同じやわなー。
市橋さんお疲れ様ですヨ!そうだっとのですねぇ、七人の侍ともその頃だったのですねぇ、浪人問題は今も始まっていますよ!コロナの為に!市橋さんもワクチンを打つまでは体に気をつけて頑張って下さいよ!
結局のところこれが大坂の陣に至ってしまうんですよね・・・
家康が「たかが65万石を切り取ったところでどうやって大名共に分け与える?」と苦心してましたねぇ
薩摩と土佐というと元より農業生産性が低くて、戦国時代で兵農分離が最も進まなかった地域と聞いたことがあります。当主が浪人の雇用をサボったというよりもそちらの方の事情が大きいんではないでしょうか。
むっちゃ徳川贔屓で草
毛利本家については、仕置き中に三成たちからの「大坂方の総大将に」等々の文書が見つかり、知行は全没収の予定だったらしいですね。内応で勲功があった一族の吉川広家に周防・長門の2か国37万石への加増を。と予定されていましたが、本家の絶家を恐れた広家が懇願し、その部分を本家の毛利輝元に充当することが認められたそうです。 その結果、吉川広家は関ケ原で勲功があったにもかかわらず14万石→3万石(岩国)と石高が減ることになってしまった。
このときに毛利が色気を出さずに中立を貫いて、合戦前後で石高変化なしだったらどうなってたんだろう徳川としてはかなり嫌な存在だろうな~幕末の展開もかなり変わったのかも
一部、海外へ傭兵として、お出かけさせたってのは、某N局の番組で発表されてました?、山内さん、地元のお殿様ですから、色々と伝わってます、色々と御苦労してた様で、家老さんが、新田開発とかを熱心にやらかしてて、序でに港湾開発もしたんですが、領民の方々過労寸前だったり、それだけでは無いんだけれど?、失脚しちゃったりですね。山内さん、下の者に振り回され、新政府側にって感じですよ、
フリーランスと呼ぶか、浪人と呼ぶかで、全然印象が変わるなあ! 雇用は重要な課題ではあるが、個人の生き方としては武芸の達人にしてフリーな立場はなかなか魅力的ですけれど。
大名仕置きのくだり(2′49″~)で、加藤清正が肥前熊本になっていますが、肥前は今の佐賀と長崎エリア、熊本は『肥後』だと認識してましたが、いつから変わったのでしょう!?熊本が肥前だとすると、一体ドコのエリアが肥後なんですかね!?
動画が間違っています。失礼しました。
16万人の浪人とは驚いた。再雇用して、何の仕事をさせたんだろう?
師範とか
頼む、娯楽映画だとはいえ「七人の侍」くらいデータはしっかりしてくれ(8:30)。勝新太郎は「七人の侍」が作られた1954年は大映からデビューした時期。
すみません。これは僕の認識違いでした。俳優名の間違いは勘弁していただくとして、歳をとると「思い込み」が激しくなって行けませんね。反省しています。
薩摩を取り潰してたらどうなってたか(笑)
緑の浜崎さん、ナイス👍。
そっちに目がいっちゃいますよね!ナイスバディですよ!
大阪城と、原城にあつまったり、由井正雪のもとに集まったんですよね。要する労働争議。三池炭鉱争議ですよね。
秀吉の朝鮮出兵にも、同じような背景があったんでしょうね。天下統一で、目出たしめでたしとは、いかなかった。
13:34 宮本武蔵登場
七人の侍に勝新太郎は出てないです…。細かくてすみません😣💦⤵️
気がつかず、申し訳ありません。
三船敏郎と言いたかったんですよね、きっと笑
家康の苦心と、大坂の陣への繋がりがよく理解できました。
関ヶ原、面白かったです🎵
浪人問題、石高との費用発言していますがこれ実際の費用イメージ湧きません。石は現在何万ですか?、現在貨幣でないとイメージ湧きませんよね。
青森に土岐氏の末裔が居ます。石田三成の娘を津軽氏が三女を息子の嫁にと身請けした際に従者として付いてきてそのまま津軽藩に居ついたようです。近江衆として明智光秀亡き後、石田家に付いていたというのは意外ではあります。
為になる御教授ありがとうございました。
織田信長から始まり秀吉、家康の時代も雇用の問題に頭を抱かえ今になる。
素晴らしい歴史認識です。
映画の清洲会議みたいに関ヶ原仕置きも映画で見たいですね。もちろん先生に監修していただいて
浪人の多くが、海外に流れて、オランダやスペインの傭兵にも、なっていましたよね‼️
この事は、最近知りました。しかも、この職業軍人たちは、結構活躍したらしい。教科書には載ってない歴史。だから、歴史って面白い。
すごくおもしろかったです!
浪人対策の加増だったんですね。
次回はいよいよ真田ですね!楽しみです。
関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとのことですが。
関ヶ原の戦い後の東西両軍の勢力を教えて下さい。
特に
大坂城にはどのくらいの兵力が残っていたのですか?
それらをまとめてーーーもう一戦。
は可能ですか?
たまたま関ヶ原の戦いのあと、
西軍が手をあげたから、関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとなっただけで。
という考え方はーーー。
どうですか?
それと石田三成が首謀者のように扱われますが。
実際はどうなのですか?
豊臣家(もしくは三成、五奉行ですか)主導でやりたかったーーーのであのような形に。
という考え方はーーーどうですか?
毛利輝元が実質的な総大将ならば、どうして関ヶ原に来なかったのか?
西軍は、毛利は実際、どこで東軍に決戦を挑むつもりだったのか?
輝元の出陣は大津城、田辺城が片付いてから。
その兵をまとめて。
ということですか。
大津城、田辺城が、(他には何処が)落ちなければ。
輝元は大坂から動けませんか?
となると決戦はーーー
何処になりますか?
大垣の東か。
まあいいか。
その前に関ヶ原の戦いが。
大軍が戦えそうな場所は京都から江戸までの東海道沿いにーーー何ヶ所くらいあるのですか?
当時の武将ならばーーー即座に何ヶ所かは。
まあ家康は美濃に福島たちを前衛として送っていますし。
それ以西ですか?
たまたま家康が関ヶ原に。
たまたまそこに居た石田三成たちが戦い、敗れた。
という考え方はーーー。
関ヶ原の戦い自体が前哨戦だったーーーということは?
しかし。
その後、戦いを続けようにも。
毛利輝元が逃げては。
南宮山の毛利軍。
関ヶ原の戦い後、どうなったのですか?
大坂へ無事、帰れたのですか?
何らかの事情て。
兵力不足か。
戦意喪失か。
どちらですか?
関ヶ原の戦い前に実際、大坂にどのくらいの兵力が。
それに比べて家康のもとには?
圧倒的に西軍が多かったということはーーーないですか。
そのあたりを書いたモノはーーー。
あまり。
まあいいか。
いつも楽しく拝見しています。なるほど浪人問題は目から鱗です。全く意識にありませんでした。
個人的には慶長出羽合戦や四国、九州など地方の関ヶ原の戦いへの先生の見解を伺ってみたかったです。
田中吉政公が入った筑後は小早川秀包の久留米3郡を併せて一国なので、旧小早川家臣も召し抱えたのかもしれませんね。いずれにしても立花家臣の多くは肥後の加藤清正を頼ったとか。中には筑前の黒田長政に請われた者もいたという話がありますね。
また次週が楽しみです。今日もありがとうございました。
西郷隆盛は下級武士の出ですが、薩摩藩では城下士という平時でも奉行クラスまで出世出来る正式な武士です。郷士階級より遥かに上で、現に種子島等の郷士からは城士風を吹かす嫌なやつとして嫌われています(暗殺しようとするが、警備が厳しく断念する逸話があります
薩摩藩では九州本土と南西諸島との武士には更に階級があってややこしい。基本城下士は石高や役職が多少上でも、藩主の近辺職に就けない薩摩藩特有の外城武士を下に見ています。外城武士の中でも下に長島(天草諸島)を除く島勤務の武士があって、郷士は更に下の階級ですね(勿論、郷士でも城下・本土・島と階級がある
霞が関のエリートから見た東京と地方、離島と地方自治体行政職みたいなものですね
なるほど。
明治政府を、個人的にとても嫌いな理由がハッキリしました。
最上や蒲生はなんというかグレーゾーンじゃない?
郷士の由来がこれな訳ですね。そして、倒幕の中心となった、、、因果応報。
戦後の公職追放みたいなもんやね
どうでもいいけど七人の侍に勝新は出てないで
お久しぶりです。先生、ありがとうございます。先生の御説を伺い、理解が出来ました。西国の豊臣系武将のほとんどは、太閤蔵入地をもらったのですね!だから、江戸時代の初めのころは、豊臣秀頼に豊臣系武将が献納していた、なので、形の上では減らされても、実質は減収には見えなかった(見せなかったのかな、家康が)のですね。これで、減封になっても、位が高いので、文句は言わなかった(足利将軍みたいに、京都周辺の直轄地だけでも、将軍の位が保てたのを淀は知っている、ということですね)。加えて、秀頼がある程度、関ヶ原後も豊臣系武将に影響力があった、と考えれば、理解が出来ました。ありがとうございました。ここで、もう一つ疑問があります。それは、蔵入地の金・銀山の所有権です。東国は徳川が持って行ったのでしょうが、西国はどうだったのでしょうか?秀吉は金銀の価値を米以上に置いていたため、家康の領土が多少秀吉より大きくても、金山・銀山を収入源にしていた、というお話は聞いています。しかし、戦後はどのようにして、金山や銀山の所有権を家康が剥奪していったのか、は疑問です。ご教授頂ければ幸いです。
先生、いつもありがとうございます😊
この関ヶ原後の転封・加増は、基本的に東軍の大名が改易された西軍の大名の土地に入ったというイメージで良いのでしょうか?
だとすると、領地経営的な感覚からすると、管理する土地の大きさに見合った役人(武士)の量が必要だと考えられますから、加増された土地に合わせてある程度の武士を雇用するのは加増された大名側からしても必要性があった気がします。しかも、その土地に通じた元々の大名の武士であれば即戦力になりますし。勿論、それでリストラされた武士達全員が召し抱えられることになるとは思わないのですが。
これと関連して、江戸時代初期にかけて賞罰でよく転封がありましたが、新たな領地経営に急に対応しなきゃいけないって大名は容易にできたのかなということも常々気になってました。
大坂の陣にどういう背景で繋がって行ったのかと言う事が理解出来ました(^_^)
次回もめちゃくちゃ楽しみにしています(^_^)
今日も勉強になりました。
水曜日が楽しみです。
関ヶ原浪人から再雇用(途中入社?)できた人は、運が良かったですね。大阪冬の陣、夏の陣でもかつて名を馳せたもと武将(失職中の元大企業の役員幹部)が集まってきたのも納得できました。時代小説の藤沢作品や山本(周五郎)作品にもこの時代の物があります。
江戸時代に入っても、浪人の増加はさらに社会問題になってますね。改易されて主家を失った浪人達が盗賊団になって鬼平さんと対峙する(池波作品)等、歴史は繋がっているのですね❗😄
次回大坂冬の陣が楽しみです。方広寺の鐘「国家安康、君子豊楽」の市橋先生の解説宜しくお願いします。
あと、片桐且元は泣く泣く大坂を退去せざるを得なかったのでしょうか?
それとも、徳川に内通されたのでしょうか?
そこのところも宜しくお願いします。本日はありがとう御座いました。
この先生、鎌倉時代とか怪しかったけど、徳川家康を絡めて話すと能力が一段増すね。 徳川家康のこと大好きなんだろうね。 非常に洞察力が深い。
東北の方の
上杉と最上・伊達の争いも語って欲しいな
長谷堂の戦いですね
確かにこの浪人~失業者問題は頭が痛い?大阪の陣ではこういう連中が集まった、15年後のことなのにね。なら大阪の陣の後のこの浪人問題はどう考えたのか→面倒見るだけの資金がないし、戦は終わり?だから放置~見捨てたのだろう。残された浪人さんたちは不運だね。冷静に見ると、名前の通り家康の使命は、「家」→国づくりだった感はしますね。こうなると戦国時代を生き抜きその後の徳川時代の基礎を作った家康の凄さ、神仏の選択眼?の確かさにはまいります。幼少期を人質として過ごし家族の温かさ?には縁が薄いにもかかわらず、平和な世の中にした~歴史とは面白いものです。
だけど、この頃の農村も相当ヤバさ満載だよね。純粋に農民と言えるのかも疑問だし
ある本で読んだのですが、
都城島津家資料によると上方の豊かな地で1000石からの実収は300石であると。
10万石の大名で例えると8割は家臣達に与えるので大名自らの給与は2万石である(直轄地)その2万石の実収は6000石である。
ここから家臣達の兵糧や必要物資を多く出す代わりに家臣達には兵を出してもらう。そのため大名達は家計をよくするためには多くの直轄地が多い方がいい。
けども直轄地を多くすると家臣達の数が少なくなり軍役に支障をきたす。(豊臣政権下の軍役は10万石で5千人である)
このジレンマの中で家臣を召し抱え知行を与え、少ない直轄地から全軍の兵糧物資を出さないと行けなかった。
これらを考えると動画でもあった土佐の山内家はどうであっただろう、
全国統一されて国内の土地の所有権が決まりその後での大幅な加増である。福島がもらった広島みたいな豊かな地なら兎も角、
大幅加増だが、四国土佐という実りが豊かではなく、天下が収まり戦が無くなりつつある状況下で従来の家臣達にも加増はあるし、その中で果たして先生が言う通り関ヶ原浪人達を雇う力があったのであろうか。
関ヶ原は敗者であふれていて周辺農民はかなり危険だったみたいです。しかし家康公が、人や馬の遺体を片付けてくれるならここは襲わないと令を出し、被害を防ぐことができたようです。
家康公は、ハローワーク作ればよかったんじゃね(説) アシスタントの方、回を重ねる毎に綺麗に素敵に変わってゆく💖
先生の語り口も上手く❗️まるで〜ドラマを見てるみたいです👍
ハローワークではありませんが、家康は高名な武士の就職斡旋は積極的に行っています。彼らは当然一人でなく何百人と家臣団を形成していたので必然的に大規模就職になります
ところが、秀吉の時代から行われた武士統制の一環である奉公構が乱発されて、旧主の許可が無いと再就職ができなくなります。有名所では、甘糟景継は最終的に家康が二万石の直臣大名として取り立てようとしますが、旧主の上杉景勝が奉公構をたてに拒絶し浪人のまま生涯を終えます(子孫は小禄ですが上杉家に復帰できた
関ヶ原組ではありませんが、御宿官兵衛・塙団右衛門・後藤又兵衛は奉公構で再就職が出来なくなり大坂城に入った人達ですね
@@toshis3972 さん〜丁寧な解説❗️ありがとうございます‼️複雑な時代背景があるんですね❗️後藤又兵衛は槍の名手ですね❗️大河ドラマ軍師〜官兵衛で登場しました❗️秀頼公〜それにしても秀吉に仕えてた武将に滅ぼされるとは💦秀頼は落ち延びて!天草四郎になった(説)やって欲しいです🤗
有名な吉良も高家というからね
徳川自身は増えなかったのですね。
代わりに家臣や息子たちを大名として関東以外に配置したから、実質的には徳川が一番加増したことになりそうです。
16万人の浪人が誕生
商人
農民
町人
に成った者も居た
池田はどちらかと言うと徳川寄りの豊臣家臣
豊臣恩顧の大名は、変な疑いをかけられることを防ぐために浪人を雇うことを躊躇った可能性があったように思いますね。
宮本武蔵て黒田軍じゃなかったっけ
関ヶ原では西軍の一兵卒で参陣しました。
現在では養父の無二が黒田家配下に居た可能性が非常に高いですね
福田正秀「宮本武蔵研究論文集」(2003)に詳しくあり、結果本書が出版された瞬間西軍支持者が一気に黙りましたしw
それまでは吉川小説のドラマ性や岡山に新免氏が居た→宇喜多氏の配下に違いないって単純な理由で西軍説が強かったみたいですね
後に武蔵が水野勝成への仕官しているのも、勝成が九州放浪時代に黒田家に居たときの旧知の仲であった無二との縁故仕官と考えるのが今のところ妥当ですし
とは言えそもそも武蔵が関ヶ原に参陣したこと自体まだ確認できて無いのに関ヶ原浪人って言ってるのは疑問符ですね…
不勉強の身としては先生の回答待ちです
ここ迄解説して下さった先生には大変失礼な感想になるかも知れませんが、そして「風雲児たち」へ!という事なんでしょうか…。
長年の愛読書の一つなもので、そんな風に思ってしまいました。
18:01 浜崎さんの「なるほど…」の声、今までの中で一番感嘆された「なるほど」でした。
だから『なるほど!ミステリー』って言うんですね(笑)
関ケ原後→浪人発生→幕末→西郷・坂本→倒幕…ふ~ん、そうなんですね。
七人の侍は1586年を舞台にしてるから、関ヶ原の戦いの14年前ですよ。
申し訳ありません。勘違いしておりました。修正させてもらいます。
蔵入地については加増を国替えと合わせて行うことによって蔵入地を管理する任を解くと共に引き継ぎを行わなかったことで蔵入地の収入を豊臣家に供給しないようにしたタヌキの策略でしょうね
それよりも蔵入地の収入より圧倒的に大きかった金山銀山からの収入をどうやって簒奪したのかが気になります
タヌキの策略であったかどうかは別にして(笑)、ご見識の通り蔵入地からの年貢収入はなくなりました。ただやはり豊臣家を主として考えていたことは事実です。全部が全部ではないですが、収入物のいくばくかを収めていたという記録もあります。家康の戦後処理の失敗の一つでしょう。金山や銀山については、佐渡の金山は上杉の直轄でしたから容易に接収したことと思います。また石見銀山については、尼子から毛利氏に採掘権が移っていましたので、徳川と領分を折半することで話を付けたと認識しています。多くあった金山や銀山は、それぞれの事情に合わせて大久保長安や彦坂元正らの代官が次第に支配権を獲得していったと考えています。ただ、秀吉の時代からの莫大な金や銀が豊臣氏のもとに残されたことも事実であり、大坂の陣の遠因となって行ったのでしょうね。
殿様も大変なプレッシャーやな。
大企業の社長と同じやわなー。
市橋さんお疲れ様ですヨ!そうだっとのですねぇ、七人の侍ともその頃だったのですねぇ、浪人問題は今も始まっていますよ!コロナの為に!市橋さんもワクチンを打つまでは体に気をつけて頑張って下さいよ!
結局のところ
これが大坂の陣に至ってしまうんですよね・・・
家康が「たかが65万石を切り取ったところで
どうやって大名共に分け与える?」と
苦心してましたねぇ
薩摩と土佐というと元より農業生産性が低くて、戦国時代で兵農分離が最も進まなかった地域と聞いたことがあります。
当主が浪人の雇用をサボったというよりもそちらの方の事情が大きいんではないでしょうか。
むっちゃ徳川贔屓で草
毛利本家については、仕置き中に三成たちからの「大坂方の総大将に」等々の文書が見つかり、知行は全没収の予定だったらしいですね。
内応で勲功があった一族の吉川広家に周防・長門の2か国37万石への加増を。と予定されていましたが、本家の絶家を恐れた広家が懇願し、その部分を本家の毛利輝元に充当することが認められたそうです。
その結果、吉川広家は関ケ原で勲功があったにもかかわらず14万石→3万石(岩国)と石高が減ることになってしまった。
このときに毛利が色気を出さずに中立を貫いて、合戦前後で石高変化なしだったらどうなってたんだろう
徳川としてはかなり嫌な存在だろうな~
幕末の展開もかなり変わったのかも
一部、海外へ傭兵として、お出かけさせたってのは、某N局の番組で発表されてました?、山内さん、地元のお殿様ですから、色々と伝わってます、色々と御苦労してた様で、家老さんが、新田開発とかを熱心にやらかしてて、序でに港湾開発もしたんですが、領民の方々過労寸前だったり、それだけでは無いんだけれど?、失脚しちゃったりですね。山内さん、下の者に振り回され、新政府側にって感じですよ、
フリーランスと呼ぶか、浪人と呼ぶかで、全然印象が変わるなあ! 雇用は重要な課題ではあるが、個人の生き方としては武芸の達人にしてフリーな立場はなかなか魅力的ですけれど。
大名仕置きのくだり(2′49″~)で、加藤清正が肥前熊本になっていますが、肥前は今の佐賀と長崎エリア、熊本は『肥後』だと認識してましたが、いつから変わったのでしょう!?
熊本が肥前だとすると、一体ドコのエリアが肥後なんですかね!?
動画が間違っています。失礼しました。
16万人の浪人とは驚いた。再雇用して、何の仕事をさせたんだろう?
師範とか
頼む、娯楽映画だとはいえ「七人の侍」くらいデータはしっかりしてくれ(8:30)。勝新太郎は「七人の侍」が作られた1954年は大映からデビューした時期。
すみません。これは僕の認識違いでした。俳優名の間違いは勘弁していただくとして、歳をとると「思い込み」が激しくなって行けませんね。反省しています。
薩摩を取り潰してたらどうなってたか(笑)