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歴史じぃじ
Приєднався 2 тра 2020
ちょっと変わった街歩きをしています。歴史とか建物とか地形とか気になります。また時々、唄も歌ってます(笑)
奈良街道を歩く④〜軍都伏見(その3)〜
京都から奈良まで、奈良街道を歩いて踏破しようという試み。第4部は軍都伏見(その3)。
引き続き伏見を歩きながら、軍都となった由来を探っていきます。
#東海道五十七次 #京都 #Kyoto #奈良街道 #伏見 #インクライン #御香宮神社 #桃陵団地 #澱川橋梁
引き続き伏見を歩きながら、軍都となった由来を探っていきます。
#東海道五十七次 #京都 #Kyoto #奈良街道 #伏見 #インクライン #御香宮神社 #桃陵団地 #澱川橋梁
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Відео
奈良街道を歩く③〜軍都伏見(その2)〜
Переглядів 2 тис.3 місяці тому
京都から奈良まで、奈良街道を歩いて踏破しようという試み。 第3部は、軍都伏見(その2)。 第16師団が置かれ、軍事色が濃くなってきた伏見はどうなったのか。 その足跡をたどりながら、京都と戦争について考えていきます。 #東海道五十七次 #京都 #Kyoto #奈良街道 #伏見 #伏見街道 #藤森神社
奈良街道を歩く②〜軍都伏見(その1)〜
Переглядів 1,6 тис.4 місяці тому
奈良街道を歩いて、京都から奈良まで踏破しようという試み。 2回目は軍都伏見(その1)。 伏見は第16師団が置かれ、"軍都"と呼ばれるようになりました。 その足跡をたどりながら、京都と戦争の関わりについて考えていきます。 #奈良街道 #京都 #Kyoto #伏見街道 #稲荷駅 #龍谷大学 #聖母女学院
奈良街道を歩く①〜伏見街道〜
Переглядів 1,7 тис.4 місяці тому
奈良街道を歩いて、京都から奈良まで踏破しようという試み。 まずは1回目、伏見街道を歩きます。 途中、東福寺や伏見稲荷など名所旧跡も訪ねます。 #奈良街道 #伏見街道 #東福寺 #伏見稲荷 #豊国神社 #京都 #Kyoto
軽井沢のジョンレノン(後編〜軽井沢郊外編〜)
Переглядів 4004 місяці тому
軽井沢のジョンレノンの足跡を訪ねます。 前編は旧軽井沢を訪ねました。 今回の後編は軽井沢の郊外。碓氷峠や鬼押出し、離山房などを回ります。 ここでも現地スタッフから色々教えてもらって、他には無い独自情報が満載! ジョン・レノンファンなら必見です! #軽井沢 #ジョンレノン #レノン #ビートルズ #碓氷峠 #鬼押出し #離山房 #タリアセン
軽井沢のジョンレノン(前編〜旧軽井沢編〜)
Переглядів 8475 місяців тому
軽井沢のジョンレノンの足跡を訪ねます。まずは前編の旧軽井沢編から。 地元民の情報をもとに、ネット未掲載の情報をたくさんお届けします。 #軽井沢 #ジョンレノン #レノン #ビートルズ #オノヨーコ #万平ホテル #サジロカフェ
京都空襲を訪ねる
Переглядів 5 тис.5 місяців тому
あまり知られていませんが、京都にも空襲がありました。 特に馬町、西陣、太秦は死傷者が多い。 今回はその三か所を訪ねて、京都と戦争の関わりを探ります。 #kyoto #京都 #空襲 #京都空襲 #馬町 #西陣 #太秦 #京都女子大学 #山中油店
光る君への舞台を訪ねる
Переглядів 3,1 тис.5 місяців тому
#光る君へ #紫式部 #源氏物語 #藤原道長 #廬山寺 #鳥辺野 #河原院 #悲田院 光る君への舞台を訪ねます。紫式部の足跡も!! まひろと道長の密会場所も分かったので訪ねますよ!
東山歴史散歩〜幕末•明治維新の足跡を訪ねて〜
Переглядів 2,6 тис.6 місяців тому
東山山麗の神社仏閣は幕末•維新の関わりが意外と多い。それを訪ねると新たな歴史像が見えてきます。 #京都 #Kyoto #東山 #八阪神社 #清水寺 #坂本龍馬 #明治維新
高瀬川歴史散歩
Переглядів 10 тис.6 місяців тому
京都の高瀬川沿いは、幕末〜明治維新の史跡がとても多い。それを訪ねながら、一緒に歴史散歩をしましょう。 #京都 #Kyoto #高瀬川 #幕末の京都 #坂本龍馬
はい、大変興味深いです🤗 とてもありがたく拝見してます
明治時代、廃仏毀釈とかアホなことしたね!日本本来の文化を捨てるなんてアホ
葬送地があるのは、古い都だからですか。私の父方、母方も元々農家ですが本家は近隣の村から、移住してきた。居住許可の古文書あり。今の墓地の前に旧墓地もありますが、他の家系のものであっても、元風葬地と言われてるところは、ありません。人口が少なく小規模だったのでしょうか。人は死ぬもの、風葬もその時代の弔い方法、葬儀に携わるかたも(仏教の)けがれではない。
20年前に住んでいましたが とても懐かしく拝見いたしました ありがとうございます
いつ歩かれたのですか現在の観光客たちが居ないのは意味がわかりません笑笑笑
寂しいからとそれだけで来るはずもない鳥辺野。
真田忍者の里だよね!
他の動画では寺田屋内部は見れなかったので今回見る事が出来てありがたいです。 残念ながら当時の物ではなく再建されたそうですが寺田屋はとても忠実に再現されているともいました。 しかし、この寺田屋を囲っていた多数の取り方から逃れられたのは奇跡と言って良いでしょう。 ありがとうございました。
歴史じぃじさん、お元気ですか❓️ 動画の続き、楽しみに待ってます❗️
こういう宿は中は見せていただけるものなのでしょうか。
戦後すぐの頃 音羽の滝で子供たちが水着を着て 水遊びをしていたそうです。お坊様が通られても ニコニコされていたそうです。
京阪中書島は実家の最寄り駅
京都に住んでいますが、勉強になります😮
先日、京都一周トレイルの五条通から粟田口までを踏破しようと渋谷通を上がっていたら、馬町から東に南北の細い筋がいくつかあり、見てまわっていたら、本動画でも出てきた音羽川に合流する河川がありました。 それのルートを探っていたら、京都女子中学校や東特別支援学校などがありました。 この川が何だったのだろうと地図を見ているとフォーシーズンズホテルの池から流れているのかなぁと思いつつ細かく確認は出来ていません。 これも廃川だと思われますか? その場合何川になるのでしょうか? 動画中で仰られていた渋谷川はあり得るのでしょうか?
コメントありがとうございます。仰っている川は、おそらくフォーシーズンホテルの池から流れ出している川だと思われます。 そのフォーシーズンの敷地は、かつて武田病院の敷地で、さらにその前は妙法院の敷地でした。 その妙法院は安土桃山時代に移ってきたので、さらに歴史を辿ると、平清盛の息子、平重盛の別邸「小松殿」の敷地でした。 その庭池は平安時代末期からあったものと思われます。おそらく音羽川の扇状地だったため、湧水があったのではないでしょうか。 その湧水を利用して庭池を作り、排水は音羽川に流していたと。(なので音羽川の支流という扱いになると思います) ちなみに今は井戸で地下水を汲み上げているようです。(なお、渋谷川は私が仮で名付けただけです) 今後もご笑覧いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971 様、ありがとうございます。 池からの河川だったのですね。 名前は付いてなかったのかな?
名前は無かったようです。
最近ジージさんの動画を発見して、調査と考察がとても共感できます!私も京都の廃河川巡りをしてきたので、自分の情報の軌道修正もできました!アニアックな内容を突き抜けておられるので、一度お会いしてお話したいです!
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。 廃河川巡りをされてきた方からの投稿は嬉しく思います。 UA-camかblogか、どこかで発表されてますか?(拝見したいですね) 今後もご笑覧いただければ幸いです。
2月に動画アップされてますが 実際何月頃に行かれたんですか? 京都はいつでも人が多いと思うんですが 人も少ないのは時間ですか?大好きな京都を見ながら歴史の勉強も出来るので じいじさんのチャンネルがお気に入りです!
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。 安倍晴明の足跡を訪ねて回ったのは、去年の12月になります。 人が多そうな所の撮影は、早朝の6時〜7時頃に行ないました。(夏なら5時頃から行なったりします) 特に松原通りなどは、8時には出勤者や観光客などで、人が増え出しますから。おかげで早起きになりました(笑) 今後もご笑覧いただければ幸いです。
❤日に
らんん らやむく
今は愛知県豊橋市の住人ですが、京都の新門前で生まれ、18歳就職し愛知住人になりました。動画で紹介された場所は、全て休日のお昼から父に連れられて散策した場所ばかりでした。懐かしく拝見させていただきました。 音羽の滝の横から、将軍塚へ行ける山道があり、よく父と姉の三人で登り、将軍家から稚児が池を抜けて、山科へ出る山道へも良く出かけました。山科から京阪で東山三条で下車して家路へが、お決まりの休日の過ごし方パターンでした。
コメントありがとうございます。地元出身の方からの投稿は大変嬉しく思います。将軍塚は、いつか私も行きたいと思っているところですが、なかなか機会がありません。山科へ抜けるというのは思ってもいませんでした。今後も引き続きご笑覧いただければ幸いです。
今日、万平ホテル→榮林→熊野皇大神社→見晴台→離山房とまわってきました。昨年同じ時期に万平ホテルを訪ねましたが、リニューアル改装中で中には入れませんでしたが、今日はカフェテラスに無事入れました。万平ホテルカフェテラス、熊野皇大神社の情報はたいへん役にたちました。どうもありがとうございました。この動画はいつ頃のものでしょうか?
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。撮影は今年の5月に行ないました。軽井沢は大好きなので、引き続き取り上げていきたいと思っております。今後もご笑覧いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971 万平ホテルカフェテラスでは、偶然にも動画にあったカフェ室内奥の席に座れました(感激!!)。熊野皇大神社でも、灯篭、多重の塔もすぐに見つけられました。もちろんジョンと同じポーズで写真をとりまくりました((笑)) 来年は白糸の滝、鬼押し出しの訪問を予定しております(あくまでも予定)(笑))
新日本風土記で風葬が出てきてこの動画に辿り着きました ところで風葬は主にどういった方がこのような葬られたのですか?
コメントありがとうございます。古代日本において、一般人は風葬、貴族は火葬だったようです。その後、徐々に一般人も火葬が普及しましたが、奄美沖縄は近代まで風葬が続いたようです。 もちろん貴族社会でも、檀林皇后のように風葬を希望する方もいました。なので、一概に決めつけることはできないかなと思います。今後も引き続きご笑覧いただければ幸いです。
私は台湾から来ました。現在向島に短期間滞在しています。Googleマップで「奈良街道」を見て、とても興味が湧きました。そして、ちょうどあなたの動画を見つけました。次のエピソードがとても楽しみです!あなたの説明は素晴らしいです!
コメントありがとうございます。ちょうどこれから向島へ入るところです。引き続きご笑覧いただければ幸いです。
お土居巡り、7回分を一気に見終わりました。 貴重な動画を見せていただきありがとうございました。 やはりお土居の中、洛中は京都の町の核心部ですね。 若いころ、この固陋の町で何度も京都人の毒気にあてられた?(笑)ことを思い出します。
コメントありがとうございます。御土居巡りは、UA-camの第一回目なので、撮影も編集も失敗ばかり。本当にお恥ずかしい限り。まぁいまだに失敗は多いのですが(笑)。笑い飛ばして見ていただければ助かります。
油かけ地蔵、各地にあるのですね。以前奈良の川西町を紹介する動画で見たことがあります。
コメントありがとうございます。各地の油掛け地蔵については、山中油店さんのホームページに詳しく書いてありますよ。山中油店さんも、昔から商売繁盛を祈って、油を掛けてきたそうです。よろしければご覧になってみて下さいませ。
縁切りの供養塚は三重県伊賀市友生(ともの)にもあって、南朝に仕えた武士・百地丹波の浮気をめぐり正妻と浮気相手の官女らが自死した舞台とされています。 たぶん京都の鐵輪井戸の伝説のほうが先に成立したと思われますが。
コメントありがとうございます。縁切り塚は三重県にもあるのですね。知りませんでした。伊賀市と聞くだけで、何やら歴史が深そうに感じられます。ご教示ありがとうございました。今後もご笑覧いただければ幸いです。
安倍晴明像、ひょっとして「陰陽師」の作者夢枕獏さんがモデルかな?
コメントありがとうございます。言われてみれば確かに似てますね(笑) 今回の大河ドラマのユースケ•サンタマリアさんは毒々しくて、非常に良かったなと思いました。引き続きご笑覧いただければ幸いです。
半世紀以上前の中学生のころ、兄の勤める企業が「壬生」にあり、珍しい名前だったのですぐ覚えました。壬生寺は新撰組ゆかりの地で、壬生菜はおいしい冬野菜、なるほど。 地名は水が湧く地「水生」から来ているらしいのですが、そういえば伊賀に「壬生野」の地名があるので、条件が似た場所なんだろうな、と思いました。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。 おっしゃる通り、壬生の地名は全国にあり、どれも湧水の地と関係があるようですね。確かに京都は地下水が豊富で、「掘れば良い水が出る」と言われております。 新選組の旅は、第二回の「鳥羽伏見の戦い編」もありますので、ぜひそちらもご覧いただければ幸いです。今後もよろしくお願いします。
これと言うような痕跡がほとんど残ってないので残念です。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありません。確かに御土居の痕跡は少ないので、高低差ばかり追いかける旅になりました。地味ですが、ご笑覧いただければ幸いです。
師団司令部、母校ですね❣️ 映画トラトラトラのロケをしていましたね!懐かしい💕
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。何と、聖母女学院ご出身の方からコメントをいただけるとは感激です。あの建物は本当に素晴らしいですね。京都は近代建築の宝庫ですが、その中でも随一ではないでしょうか。ぜひ機会があれば中も拝見したいと思っております。今後もご笑覧いただければ幸いです。
京都の地名「千本」の意味をここで初めて知りました。「千本の卒塔婆」でしたか。 15世紀の中ごろ、私の生まれ故郷の村の一団が京都に出て、このあたりに住んだとされます。 彼らはその後伊勢宗瑞(北条早雲)について東国に進出、後北条氏の家臣として活躍した、という言い伝えが残っています。千本の地名からくる物語、なんだか面白いですね。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありません。後北条氏の家臣団が、千本通と関わりがあったとは驚きました。どのような由来で関わりができたのか、興味は尽きませんね。千本通は元々、朱雀大路だったので、もっと色々出てきそうですね。ご教示ありがとうございました。引き続きご笑覧いただければ幸いです。
岩手県遠野地方「デンデラ野」は京都の「蓮台野」が語源とされる土地で、葬送地というよりは姥捨ての地、年寄りが集う終活の地として語り継がれています。 残酷な風習のイメージで語られますが、私はそうではないんではないか、もっと能動的な幸福追求の場であったのではないか、と考えています。 次の旅の機会には約30年ぶりの岩手の旅で現地を確かめてみたいと思っています。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。 遠野のデンデラ野は知りませんでした。同じ語源の地があるとは驚きました。確かに、葬送地ではなく終活地だと思えば、「蓮台野」の言葉は、浄土へ続く幸福追求の場という響きが感じられますね。 貴重なご教示本当に感謝いたします。今後もご笑覧いただければ幸いです。
祖父は建物租界で立ち退かされました。五条猪熊に大きい店を構えていたそうです。 禁門の変でも焼かれ、建物租界で立ち退かされた気の毒な方もいたようです。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。 お祖父様が、建物疎開で立ち退かれたとは、お気の毒でしたね。京都はたびたび市街戦があり、その犠牲になった方もいらした訳ですね。深い歴史のなせる宿命でしょうか。 今後もご笑覧いただければ幸いです。
京都人です。初詣には必ず伏見稲荷大社と、石清水八幡宮におまいりにいきましたね。実家は商家でもないのの何故かお稲荷さんに初詣に言っていました。八幡宮は、一応 源氏の末裔とのことで氏神様ひお参りしていました。本当の氏神様は、八坂神社なんですけれどね…。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。伏見稲荷と石清水八幡とは豪華二本立て、さすが京都ですね。しかも源氏の末裔の方とは驚きました。京都には普通にいらっしゃるのでしょうか。もっとも、私も武田姓なので、「甲斐源氏の末裔かもしれないよ」と、勝手に言ってるのですが(笑)
動画を見て、軍人であった亡き叔父の所属を知りました。まさにこの連隊にいたんです。 先の大戦で、叔父はフィリピンで戦死しました。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。亡き叔父様が伏見の第16師団にいて、フィリピンで戦死された、とのこと、まさに16師団とともに生きていらっしゃったのですね。南方戦線は、飢えとマラリアとの闘いだったと聞きます。さぞかし大変だったことでしょうね。戦争は絶対にしてはいけない、とつくづく思います。
巨椋池の痕跡とか、そのかつての領域がわかるような構造物が見られたらうれしいですね。 今はダム湖になってしまった宇治川の、むかしの姿を想像できるような古地図ってあるのかしら。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。次回は巨椋池の痕跡を訪ねて回ります。といっても、ほとんど高低差だけですが(笑)。古地図も紹介する予定なので、引き続きご笑覧いただければ幸いです。
今日だけでたくさん歩かはったですね。街道の両側だけで歴史の分厚さを感じます。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。 京都は歴史が重層化し過ぎていて、寄り道だけで時間が過ぎてしまいます。本当は一か月くらいかけて歩きたいところですが(笑)。 引き続きご笑覧いただければ幸いです。
かれこれ35年前、学生時代に住んでた4畳半のアパート。住所は京都市北区紫野大徳寺町。今宮神社と大徳寺に囲まれて夜は静かで。 「~野」は鳥葬の地やで!って大家さんが言ってましたわ。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。良いところにお住まいでしたね。今回は時間に追われて、今宮神社も大徳寺も訪ねずじまいでした。ぜひ再訪したいと思っております。できれば有名な「さらさ西陣」も。
@@aratatakeda7971 様 今宮神社前のバス停が目の前でした。 たまにですが、「あぶり餅」の店の前で時代劇の撮影やってたり、旅番組のロケやってたり。風情ありましたね。 当時はここから上賀茂神社前経由で、自転車乗って京産大まで山登りしてました。 懐かしいボロアパート、朝は日の出とともに比叡山を拝む風景が素敵でした。
20年ほど前に亡父が入院した病院が昔の衛戍病院(戦後は国立病院)でした。 たしか碑が残っていて、入院・リハビリ中の父に病院名をなんて読むんだ、と聞かれた思い出があります。 綴喜郡出身の父は二十歳前後で兵役に就いた経験があるので、旧軍施設の多かった伏見のこのあたりはなじみ深い土地であったと思います。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありません。 医療センターは敷地が広くて、碑を探すのが大変でした。あの分かりづらい碑をご存じだったとは驚きました。 ところで奈良街道の旅の後半では、綴喜郡の井手町も訪れます。お父様の出身地あたりも通るかもしれませんね。引き続きご笑覧いただければ幸いです。
西光寺さん近辺に住んでいます。 周辺は町境が複雑なのですが、その付近は「鞍馬口町」です。 京の七口の「鞍馬口」があった場所がそのまま町名になっています。 地下鉄の「鞍馬口駅」が烏丸鞍馬口にありますがこちらが本当の「鞍馬口」です。 「「鞍馬口」近くの「出雲路橋」よりももっと北の「上賀茂神社」近くに「御薗橋」があります。 堀川通りと加茂街道が二叉路に分かれており、堀川通りを南へ少し行った加茂川中学の前あたりにも御土居があります。 加茂街道を南へいけば、加茂川中学裏に何口かは忘れましたが「口」跡の碑が立っていますよ。 その付近からずっと東西一段下がっており、石垣も積まれていて「御土居なのでは?」とずっと気になっているのですが、碑もないし違うのでしょうか?
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。おっしゃる通り、鴨川中学裏側から西側にかけては御土居の跡地です。ただ何も残っていないので、痕跡としては段差があるのみでした。もしご興味があおりでしたら、佛教大学の中村武生先生の「御土居堀ものがたり」をお読みいただければ詳しく載っております。私も大いに参考にさせていただきました。今後もご笑覧いただければ幸いです。
今回も、大変濃い内容の解説で、勉強になりました。ありがとうございました。京都の南部のイメージが変わりました(酒造だけでなく、文字通り軍都であったこと=そう言えば、お花見で自衛隊の基地にお世話になったことがありました)。また、澱川橋梁、前からインパクトを感じていましたが、なるほど、”類を見ない”橋であることがわかり、”大納得”です。また、楽しみにさせていただきますが、特に暑さにはくれぐれもお気を付けください。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。本当はもっと取り上げたかったけれど、時間が長くなるので省いた事もあります。 例えば、今の「いまそう会館」(葬儀屋さん)の所は、江戸時代から明治時代まで「都楼」という揚屋さんで、そのあとは伏見映画劇場という映画館になり、さらにストリップ劇場になって、今の葬儀屋さんになった、という歴史をたどりました。なんとも不思議な運命を背負った土地だなぁ、と思っております。 伏見は調べれば調べるほど面白い土地ですね。
@@aratatakeda7971 ご案内、ありがとうございました。数奇な運命をたどっているのですね。京都に映画館はかつてはたくさんあったと聞いていますが、まさかそこまで、という気がしました。
とても勉強になりました✨いつも商店街遊びに行くんですが、軍都として巡ったことないです。有難うございます❕ 常盤御前健脚ですよね、子供ら連れて竜門の里まで往復とか…それも捕まらずに六波羅に出頭してるし。奈良街道通るたびに思い出します…歴史上、運の強い貴婦人っておられますね。。世阿弥が創作した深草少将、とってもロマンチックです💛
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。伏見は、常盤御前のお話から深草少将のお話まで、様々なお話が満載ですよね。今回は取り上げませんでしたが、坂本龍馬や鳥羽伏見の戦いまであります。中身が濃すぎて、伏見は尽きません。何度でも訪ねたい街になりました。
@@aratatakeda7971 おっしゃる通りです。そういう歴史が多いながら、ごく自然と街角にひっそり石碑が残っているだけのが見過ごせない街です。深草少将ステキですよね…恋の闇。四位で少将というのも例がなくて、僧正遍照は時期的にともかく、大納言義平の子義宣がモデルって、大納言は一代の天皇に基本1人の高官なので、はっきり記録が残っており、歴代リストに義平という方がおられないんですよね…世阿弥の創作なのか、モデルが他にいるのか…美しい謎です✨京都の歴史を調べたり、探求するのがとても興味深いです。生きてる間に史跡を見きれないほどです。主様はとてもお詳しくて、どれも素晴らしい動画ばかりです、これからも勉強させてください。楽しみにしています💛
今回も興味深く拝見しました。門柱や建物せっかく保存しても綺麗なまま維持するのは大変ですよね。深草少将は今の秦氏の一派に関係するのか、あとで調べてみたいと思います。次回も楽しみにしています。連日の猛暑、くれぐれもご自愛下さい😊
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありません。 深草少将について、秦氏との関連までは考え付きませんでした。確かに、秦氏が深草一帯を支配していた頃から、欣浄寺はあった訳ですから、充分可能性はありますよね。ご教示ありがとうございました。今後もご笑覧いただければ幸いです。
緻密なリサーチをいただいて、感動するばかりです。伏見ってすごい軍都だったんですね…。 主様、伏見に大変お詳しくていらっしゃるので、もし、伏見で「農人橋」という橋を ご存じでしたら教えていただければ幸いです。。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。残念ながら農人橋は存じ上げません。伏見街道沿いの橋は、ほぼ網羅したので、それ以外の橋でしょうか。私もまだまだ知らない事ばかりです。
@@aratatakeda7971 お忙しいところ、有難うございます。古い時代の話で恐縮です、豊臣秀頼の一人息子、国松が伏見の農人橋?もしくは京橋の橋の下で捕らえられた、という記録を読んだので、お詳しい方にお伺いしてしまいました。御返信有難うございました💛
とても、わかりやすく勉強になりました。 新発見です! 有難うございます。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。鳥辺野は大河ドラマの舞台になるくらい、平安京にとって重要な場所でした。今後も研究していきたいと思っております。引き続きご笑覧ください。
酒の肴に 観させて もらいました なるほど~
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありません。失敗が多いので、“酒の肴に”気軽に見ていただくのが一番助かります。今後もご笑覧いただければ幸いです。
今、立っているところ、歩いているところにも必ず歴史がある、そして新しい歴史がはじまる 幼い頃からどこにいても感じていました。歴史は深いですね。じいじさんは昔? 数年京都在住やったとか?お仕事関連ですか?
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。私は昔、家族の引っ越しで京都に四年ほど住んでいただけです。とても京都人とは言えません。 それより、京都は歴史が深すぎて、本当に捉えきれません。今も勉強あるのみです。ちなみに、梅棹忠夫先生の京都三部作が一番役立ちました。
すごいですね。勉強になりました。聖母女学院の第16師団、見事な建物が今も残るということで、調べたことがあるのですが、その後のレイテ島戦線の悲惨さに心を痛めてそれ以上調べきれませんでした。祖父は満州からラバウル帰りでした。いずれもほんの2世代前です、時に埋もれず語り継ぎたいと願っております。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。私は、文春の半藤先生の本などを読んで、戦争の悲惨さを勉強しました。もっと語り継がねばならないと思っております。今後もご笑覧いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971 はい❕これからも勉強させてください。楽しみにしております。
たまたま動画を拝見してコメントしました。 広島・長崎に原爆が投下されるよりも前に、原爆を正確に落とす為のリハーサルとして、日本各地で49発の模擬原爆が投下された事もあまり知られていません。。 49発の内の1発は、京都の舞鶴に模擬原爆(通称:パンプキン)が投下されていた事を最近知りました。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありません。模擬爆弾の情報ありがとうございます。もっと早く終戦の決断をしておけば、と悔やまれてなりません。(今だから言えることですが)
次回は、墨染寺紹介かなぁ 何度か墓参りは、行った 医療センター、先月入院してました。 あまりウロウロ出歩く身体ではないのでじいじさんの観て自分も行った気がしてます。
コメントありがとうございます。おぉ、何と大当たり、次回は墨染寺から始まる予定です。お墓があるという事はご近所なのでしょうか。伏見という街は何度歩いても素晴らしい街ですね。大好きになりました。今後もご笑覧いただければ幸いです。
第16師団は日露戦争後ということですね。勉強になりました。師団街道は幼少期の頃からなじみの通り名です。
コメントありがとうございます。第16師団は長く伏見にいたため、街の人たちと様々な触れ合いがあったはずですが、ほぼ全員がレイテ島で亡くなってしまいました。当時、軍都で暮らした方々はどんな思いだったのかな、というのが出発点でした。今後もご笑覧いただければ幸いです。