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いやいやいや、君、中国語読めないでしょう三国志の中の「海」は、普通に「海」という意味ですよ例えば魏書齊王紀、「以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界」は、今の中国の遼寧省(遼東)から、渤海海峡を越えて(渡海)、今の山東省(齊郡)へ到達ということ。また、三国志中「水行」という文字は倭人伝だけなんですが、直後の時代魏晋南北朝の本、「金楼子」はこう書いてる「陸行乘車,水行乘舟」つまり陸で行くと、車を乗る。川や海で行くと、船を乗る。「陸行」でも「水行」でも、いずれにしてもそういう言葉はそもそも存在していない。古代中国語の「行」はそのまま「行く」の意味、移動の手段とは関係ない、「歩く」ではない。日本語は素晴らしいですよ、今の中国語よりもっと古代中国語の意味をちゃんと保存している。自分は台湾人なので、変な日本語ですみませんでした。
御説は、倭の元が殷になっています。テーマの「殷元これ倭国」とは反対のように思えてなりません。
この時代韓国という国はなかっただろう
俗にアカデミズムの秦学閥ね!有名だろ。
ー★契丹古伝には「漢字」より前は「天字」それより前の文字は「ト字」という、ーー「ト字」は殷字の事で【殷は「倭国」を意味する】と記されている。
稲作については、朝鮮半島では水田に種を直まきをしていて、収穫量が少なかったのを、秀吉の朝鮮出兵の時に、農民兵がそれを見て苗植え法を教えたと、記録にある。
日本から出て行って戻ってきたのが信頼できますね。
この動画の主張は、一つの説であって、まだ「関係が見られる」との見解に過ぎないと思います。時代(年代)の符合が見られません。渡来人が日本に文化や稲作をもたらしたとするならば、12000年前のシラス台地(熊本)からプラントオパールが2019年に見つかったことの説明が出来ません。すなわち稲作は中国から伝わったのではなく、日本から中国へ伝わったと見るべきです。すなわち、先に日本列島で稲作があったと考える方が妥当に思えます。第一に、稲は熱帯の植物です。北部中国、韓半島を経由する稲作文化の伝承は、その気候から考えて不可能だと思われます。 さらに、この動画の論理に基づくならば、言語の一致に関する蓋然性については、逆に海洋民族であった縄文人が東南アジアを回ってインド洋を越え、メソポタミアに文化をもたらしたと考えることでも説明が可能となります。 文化の類似性については同意できますが、先に史跡が見つかった文化が、再度外部から伝わったと考えるのは理論的には可笑しな事になるのではないでしょうか。 どう考えても、安定して食糧調達が可能な農業技術は当時、世界の最先端技術で有り、世界中が欲しがったものですので、既にある文化を再輸入することはないでしょう。 さらに、青銅器が「文化/人」が移動した証拠とする考え方は同意できますが、それならば山内丸山遺跡での鉄器の出土(5400年前)をどう説明するのでしょうか。青銅は鉄よりも融点が低く、鉱床さえあればより手に入れやすい。しかし、日本では砂鉄から鉄を溶融還元して高炭素鋼を作る技術が5400年前に既にあったことになります。鉄は青銅よりも強く、強靱です。農具としても長持ちし、武器としては圧倒的に強い。青銅文明よりも鉄文明の方が、文化としては進んでいないと手に入れることが出来ません(三国志の時代は青銅器文化であったことは御存知かと思います)。縄文式土器は18000年前のものがありますが、その土器が作れたのであれば、当然木炭を使用していたことになり、その炉で鉄器を製造できるわけです。鉄器はどうしても青銅よりは錆びやすいため、史跡として発掘できるのは高々6000~8000年程度前に限定されてしまいます。鉄の室温における大気中の酸化速度から明かです。それ以前にあったとしても、酸化鉄になってしまうために発見が難しいのです。 弥生文化の際には、縄文人が他のアジア民族と混血したであろう事は、地理的な関係で容易に理解出来ますが、渡来人が現在の日本人の主な先祖だという証拠としては、DNAのY遺伝子含有率から見ても、学術的に不十分だと思います。やはり先祖は縄文人、途中で戦争を経ない形での渡来人との混血があった(恐らく秦の滅亡が原因)とは思いますが、それはあくまで人種の混血であって、遅れた文化を取り入れる必要は無かったでしょう。東北中国や朝鮮半島の主食は稲では無く、麦です。 上記の説明がつかない以上は、「大陸、半島から文化が伝わった」という説は仮説の域を出られません。なお、「濊族」はウラジオストック以北に済んでいた民族で、現在の朝鮮半島の先祖ではなく、新羅に侵入してきた、所謂「刀伊」の先祖です。「わ」という文字が入っていることを根拠にしているようですが、それこそ漢字の意味を理解出来ていないとしか考えられません。倭(稲作をする民族)と濊(汚物を垂れ流す民族)は異なる意味の文字です。そして7000年前~12000年前に朝鮮半島に人類の生活史跡は見つかっていません(韓国考古学会)。完全に無人の半島だったのですから、説明されている時期よりも前に、説明の通りの文化流入があったという可能性は全く考えられません。素直に、縄文人の一部が半島に移住し、その後大陸人に蹂躙されて混血したと考えるべきでしょう。その蹂躙の時期とは、高麗の建国の時だろうと考えられます。何せ属国ですから。現代半島人のDNAと現代日本人のDNAはあまりに異なっていることを、この動画は説明出来ません。
素人の認識ですが、日本での稲作が大陸より早かったのは間違いなくても、それは陸稲であり、水稲に関してはやはり大陸から伝わったものと思っています。もちろん半島経由ではなく大陸から直接伝わったと考えるのが私の知識の範囲では妥当であり、それは紀元前1000年頃と聞いています。水稲に用いる道具がそれ以前からは出土していないので。さらに鉄器については、仰るように日本では青銅器と同時期かそれ以前からあったので、日本は「青銅器時代のない国」とされているようです。
ほぼ同意します。そもそも現代人の脳は文明(文化)は大陸からやってくるものという意識が強すぎます。極東の島国が注目されるのは良いのですが、”それが世界の中心であった”、という流れがどうしても認めたくない、という意識が日本だけでなく世界中であると思うのです。そして先の大東亜戦争での敗北が意識の中で決定的となりました。日本人は世界一の文明国であったはずなのですが、同時に世界で一番謙虚に生きなければならない宿命があるようです。それが再び脚光を浴びる日を楽しみにしています。
もはやあなたが作った動画を見たいくらいに説得力ある
元ネタがどうなってるのか分からないくらい滅茶苦茶だろDNA的近縁性は東北部中国人→朝鮮人→本土日本人→アイヌとなっており、本土日本人は半島経由で入ってきた弥生人と元々日本に住んでいた縄文人の混血で出来ている。半島には縄文人の痕跡がほとんど残ってないので、人の移動方向はほぼ半島→列島であることが確定してる。中国南方、東南アジアのDNAはほぼ何の影響も現代日本人に与えてない。米の原産地もユーラシア大陸南東部であることで確定してる。何の脈絡もなくいきなり日本で栽培されるはずがないでしょう。
殷が倭の元なのか、倭が殷の元なのかで見解が変わりますよね。
残念ながら、かの国の人は論理とは真逆の位置にいるので話は通じません。人に誇れるものが何もないのにマウントを取らないと精神崩壊するので、こうだったらいい→こうなはずだ!と脳内変換され願望が真実になります。なので物や文化も羨ましいと思うものはかの国起源を主張し始めます。嘘と願望でできた国の人とは話が通じないし分かり合えることは未来永劫ありません。
同じこと書こうとしてたw
漢民族の属国だよ(笑)
みんな何でも良いからもっと日本に興味を持って日本人としての誇りを持って生きてほしい。日本が侵略されるのがこわい。内側から壊されているんじゃないかと不安。政治家が信用できない。メディアも学校の教育もちゃんと教えてほしい。
誇りを持ちたいから誇りを持つっておかしいと思います。無理して誇りを持とうとするからおかしくなる。
@@ナマポ漫画 誇りなんてのは色々知識を身につけることで自然と出てくるものでは?無理して誇りを持つってそれ、誇りじゃないですよね?勉強しても誇りを持てないのならそれはそれで一つの正解かと思います。
今、一番気になっているのは、鉄機器の存在です。鉄は、紀元前700年から800年前に日本で作られています。つまり青銅器より早い時期に鉄が存在するのです。さらに、鉄は、日本から魏に輸入されています。故に魏は、強かったのです。さらに、諏訪神社の宝物の中に、銅鐸の小型の飾りが槍の穂先に付けられています。また、稲作ですが、陸稲は、4200年ほど以前から日本で作られており、中国の4300年前と言うのは、マユツバものの可能性があります。でもって、なぜ、鉄器文明が青銅器文明に支配されるのか、意味が不明です。
>日本に興味を持って日本人としての誇りを持って生きてほしい。と書いてながら、>日本が侵略されるのがこわい。内側から壊されているんじゃないかと不安。政治家が信用できない。メディアも学校の教育もちゃんと教えてほしい。とはこれ如何に?他力本願も甚だしいね。まず自分自身が誇りを持てるような生き方、考え方を見直そうね。他者に問うのはそれからね。それと、日本人の誇りって何だと思う?たまたま日本人として生まれ育った人たちの、個人の誇りの集大成でしかないんだよ。
@@山田一郎かめい 言いたいことはわかるけど、それはこれまでに発見されたことを基にした数ある仮説でしかなくて、その仮説ですら、新たな発見によって覆されたり、より信憑性が高まったりするものです。そうなれば当然のこと、誤りや捏造もあらわになるものです。>中国の4300年前と言うのは、マユツバものの可能性があります。でもって、なぜ、鉄器文明が青銅器文明に支配されるのか、意味が不明です。確かに私もそう思いますが、「マユツバものの可能性」「鉄器文明が青銅器文明に支配されるのか、意味が不明です」というのはいかがなものかなと。そのような言葉や解釈をしてしまったら、自分が支持する説は、どんなに薄いものでも肯定してしまい、ほしい答えに捻じ曲げることもいとわなくなりかねないですよ。C国が100年上乗せしたのと同じ心理ですね。古代の出来事など、あくまで推測憶測であって、真実の立証は不可能。なぜならその場面を確認するすべがないからです。だからどんなに信ぴょう性が高くても、仮説憶測でしかないんです。逆に言えば、どんなに頓珍漢な仮説憶測でもそれを否定するためには、仮説そのものの考え方やとらえ方、あてはめ方の矛盾を証明すること、もしくはそれよりも確実に信ぴょう性の高い仮説を立証するしかないのです。噓、捏造でもそれは同じ。インチキなものを埋めていたことを暴露するとか、その証拠を突き付けるとか、発見したものの鑑定が間違いであると立証しない限り、説の一つとしては存在し続けます。コメ主さんの意思は理解できますよ。私もほぼ同意です。ですが、私ならこう書きます。自分はマユツバかも知れないと思っているけど、その辺のことを専門家はどうとらえているのか、そしてその根拠は何なのかを知りたい。勿論肯定も否定も含めて。私には、鉄器文明が青銅器文明になぜ支配されたのかが理解できない。その考えを示した人の根拠や経緯を知る人はいるのだろうか。それを知っている人は、何をもって肯定し、なのをもって否定するのかを知りたい。マユツバものの可能性、なぜ、~~が、意味が不明です。これでは感情論に近いので、もっとフラットな視点から疑問を持った方がいいです。
殷からの渡来人が米作を日本にもたらした由ですが、同国は黄河中流域で黄土での小麦作地域だと思います。殷墟からの発掘物に稲籾があったかどうかは知りません。中国大陸からの米作伝来は长江揚子江下流域か福建省等、米食文化地域からだと思います。
殷は本来は遊牧狩猟民で商に土着した一部の人達が殷(商)王朝を開いたわけで本来の殷の人達は長江流域あたりにも居た様ですよ。ただし湯王は米や韮を食べていたらしいので商もあり得ますね。私は殷元とは本来の殷の人達のことを指している様に思います。
何でいつも大陸から来たってのが前提になってるんだろうな?
それは、中国の最初の国が日本からとすると、日本の下となることを認めたくない、ただの見栄です。縄文時代から影響を受けていたことからも、明らかです。なぜなら、使われていた貨幣は、貝殻で沖縄から鹿児島の間にしか生息しない貝だったからです。
うろ覚えですが、考古学だか民俗学だかに「文明は大陸から島に伝わる」っていう通説があるためだったかと。通説も良いけどバイアスになっちゃうといけないね。
@@ignis9089 それから言うとアフリカ大陸もユーラシア大陸から見たら島みたいなものなのに人類発祥の地とされてるのは不思議ですね。
@@georgebunda-xn2lp 明確なエビデンスがあるのに日本学術会議とやらは何やってるんですかね。
素直に普通に考えてそうなのでは?石器時代の遺跡等を考えれば当たり前だと思います。日本が発祥だとしても、それで日本が素晴らしいということはにはならないです。逆にいえば、大陸から日本に伝わったとしてもそれで大陸が素晴らしいともならない。そんなことにこだわって偏見を持つよりも、素直に合理的に捉えた方が日本人らいしと思います。
逆に日本から、世界に人々が広がった。
その可能性もある。殷は商とも言うが商=シュメールだと思います。
義和(倭国より更に古い国名)のスメラギが夏を滅ぼし中国征服し「商(殷)」を建国し中東まで到達しシュメールとなった可能性もある。
日本のルーツは日本だと思いますなぜなら言語の問題も有りますし、日本人は民族の特性として外部からの文化や知識などを柔軟に吸収し、発展させて行くからですなので中東や中国から移動してきた人達が居たにせよ、彼等が日本を作ったのではなく、彼等を吸収した現地日本人が日本を作ったのだと思います
私もそう思います。そういった民族性?地域性?が日本という国の特殊性をもたらす重要な要因だと思います。この国は今でも外来の人や技術を受け入れ変化させてこの国に最もふさわしい状態に昇華し、これからも特殊な社会を築き上げていくのだと思います。
稲作は朝鮮より日本が早かった事が黒米のdnaからわかるそうですが補完できますか?
倭人は3000年前、周が山東半島を支配した時に逃れて来た東夷(弥生人)と縄文人が混血して生まれた民族ですよ…。殷というか正確には商ですが、商の支配者が遊牧民族出身であって、その人民が中東系とは限らないです。言語学的にも既に殷には漢字の原形が生まれています。中東から人が来たのなら、その文字や言語を使っているはずです。あと殷というか商から人が日本に逃げて来たのなら、甲骨文字を使っていないのはおかしいですね。日本に漢字が入ったのは朝鮮から仏典が入って来て、それを読むためにです。弥生時代に漢字はないので、大陸から逃れて来たのは中東系でも漢民族でもないです。殷の時代の山東半島は東夷と呼ばれていました。周は西から東に進み殷を倒したあと、そのまま山東半島まで支配下に置いています。それがちょうど3000年前。そして山東半島には不完全ながらも稲作の遺跡があります。黄河は普通、麦作です。交易品として「米」が北中国や日本に伝わることはあっても、稲作という技術が伝わるにはそれを行っている人たちが来ないと伝わりません。稲作の本場は長江流域です。ただ長江文明は次第に廃れていったそうで、山東半島の稲作集団はその長江文明の後継者たちでしょう。実際にこの動画言われている青銅器についてですが、本州で見つかっている銅鐸は長江流域の銅鐸と形が似ており、また日本人は春秋戦国時代の人骨と形質的に似ています。漢民族が中国万部まで開拓を進めたのは漢の時代なので、この頃はまだ長江文明の人々もいたのでしょう。遺伝子的に言語的も、考古学的にも弥生人は中東となんらつながりはありませんし、殷に関しても亀甲占いなど宗教的なつながりはありますが、それだけで殷の人々が日本人の先祖とはなりません。フィリピン人はカトリック教徒が多いですが、彼らはヨーロッパ人ではないのと同じです。一部の言葉が似ることなど世界中にあります。この動画はただのこじつけ、都市伝説の類を出ませんね。侵略してきた漢民族からしかたなく逃げた土地が、農業に不向きだったから南下して日本に来たのだと思いますよ。
2023年12月22日 待望の書籍出版!!!『アマテラス解体新書』AmazonのURLはこちらwww.amazon.co.jp/アマテラス解体新書-岡本佳之/dp/4862576869/ref=zg_bs_g_492086_sccl_1/357-9130108-3256559?psc=1◉メモ:「日本」という名前をこの日本列島で日本人が初めて使ったのは、考古学上(神話上ではなく)紀元後、天武天皇の時代だとされています。縄文人=日本人ではありません。混血により、現在の日本人のDNAに縄文人のDNAが入っていると思いますが、縄文人が"そのまま"日本人という新たなアイデンティティーを持った存在になった訳ではありません。秦の始皇帝の末裔だと自称する秦氏も日本人です。「縄文崇拝」をするのは自由ですが、自らの発言が同志「日本人」を差別していることに氣づいてください。殷元これ倭国=殷元これ「Ur(わ」という意味でもあります(Urは倭人の起源のとある国)是非、続きも動画も!!!↓日本人の起源編ここまでをまとめたプレイリストはこちら⇩ua-cam.com/play/PLTzpaJASoedLiYiGp5dpKM5qZqBBTb9n5.html◉勘違いが多いので記載1、この動画は連続する動画の途中です。この動画に繋がる過去の動画(現在に繋がる証拠)を見ないまま批判してしまっている方も多く感じます。DNAの話もしているので見て頂いてから批判してくれたら幸いです。2、(過去動画でも民族移動の成り行きを説明していますが)日本列島には殷の時代より、遥かに古い文明が日本列島にあったという事実はありますが、"必ずしも” それが『縄文人がそのまま倭人/大和民族となったという証拠』ではありません。また、今回の動画は数万年前の話はしておらず、また「大洪水」があった前提の話の"後の民族移動"の考察であります。そして、過去動画を合わせた、この動画シリーズは「万年前に日本から世界へ文明が広がった」という説を否定していません。しかし、「数千年前(大体紀元前3000年辺り以降)に日本列島から世界へ文明が広がった」という説を間接的に否定しています。なぜなら、その証拠がないからです。とりあえず、キーポイントは「万年前に日本から世界へ文明が広がった」や「日本には超古代の遺跡があった」というのを前提でこの動画は考察していますので、ぜひ、他の動画も一緒に見て頂ければ幸いです。◉この動画の続きの動画(古い順)はこちら⇩1#[総集編]世界全民族集合の日本史〜はじまりの渡来人〜(この動画の内容とその他まとめ)ua-cam.com/video/Z64M1w5O8XI/v-deo.html2#[まとめ] 世界全民族集合の日本史『古代イスラエル編』※重要ua-cam.com/video/dihPmgziJKo/v-deo.html3#[まとめ]世界全民族集合の日本史|ユダヤ/ギリシャ編から日本史編へua-cam.com/video/DXLyIKYsByA/v-deo.html4# なぜ八岐大蛇は悪者にされたのか?ua-cam.com/video/oCs8rBo-RWU/v-deo.html5# 天皇家のルーツを暴露する回ua-cam.com/video/T5oZt5E5eMo/v-deo.html
先生!佐賀県で何か見つかりましたよw先生ならすぐ解ると思うので、それだけ伝えておきます
ウル?バビロニア関係?
0:32、チベットはdだが、YAPじゃないって、違います。YAP変異はY染色体ハプログループDE系統にのみ存在する変異で、チベットのD1a1も普通にYAP変異持っています。ちなみに、チベットD1a1と日本列島D1a2は分岐してから5万年ほど経っています。
@@joy-boy6776 肥前国風土記 神埼の郡に興味深い文章があります。景行天皇(纏向日代宮)が肥前遠征したら、荒ぶる神がいた。往来の人を多数殺害したので景行天皇がかっさばいた。なので神埼(カミサキ)の郡という。この荒ぶる神って吉野ヶ里遺跡にいた弥生人のことじゃないでしょうか?ちなみに縄文系の人達は、国栖、土蜘蛛と言ってこちらも滅ぼされてます。
非常に興味深いですね。
日本の起源を掘り下げるお話として新たな視点でした。どんな考えでも、自分や、先祖、民族、国家のルーツに関心を持ち見たり聞いたり調べたりすることは、大事だと思います。
箕子は紂王の叔父で(名は胥余)殷の最北端の箕の国に封じられたので箕子と呼ばれるようになっていますので、メソポタミアとはまったく関係ないと思いますが・・・。紂王が暴君化すると何度も諫めるが最後は幽閉されてしまいます。また箕子が東に「逃げた」というのも間違いです。その後、周が殷を倒した際に武王が幽閉されていた箕子を招聘して政治について問い、そのあまりの該博さに驚嘆し、武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じています。周の武王がその地に任命しているのです。その箕子が治めた地域が箕子朝鮮となります。濊族はツングース系民族です。中国史書に濊の言語は夫余と同じと記録があるが夫余語がどんな言葉なのかは現在も分かっていません。
イシン帝国を殷 アッシリア帝国を周 北朝イスラエル王国を魯 南朝ユダ王国を宋 と仮定すると シュメール アッカドの諸国の興亡を多少脚色して漢訳しただけのようにも思えてきます。
そもそも内陸深くに首都を置く魏や漢、周、殷等は海をほとんど知らず、逆に彼らに馴染みのある黄河や揚子江といった大河は日本人から見たら大型船も航行できるし対岸が見えないしでほとんど海ですよね。また当時の人の地理知識では海が地球上の七割を占めるなんて知りませんし、瀬戸内海や対馬海峡を見て大きな河だと思っても不思議はないのではないでしょうか。
大陸、半島経由は吉備国で6000年前のプラントオパールが出た時点で否定されてなかったっけ?
都合の悪いことは知らんぷりなのに 「まだ信じないの?」 と煽る事だけは一人前いろんな説があってしかり それなのに煽るからみっともないよね
殷が華北にあったとすれば、そこは気候からして水田稲作民であるはずはありません。倭は九州以北すべて稲作文明であったことを考えると、殷もと倭国というのは考えにくいと思うのは私だけでしょうか?
稲は縄文から有るって。
日本史と世界史を分けて教わったので時間軸がなかなか揃って思考できないなので興味深い
考察としての参考になります。水行については琵琶行が好きですから改めて考えてしまいました。
今後の動画では割と分かり易く単純なルートの移動経路として説明をされておられますが、殷以前の商人が倭人で有る様な伝承もありますので其ほど単純なものでは無く、ルートはもっと沢山有ってもっと複雑な交流と交易も有ったのではなかったか?と思われるふしが有ります例えば日本の縄文土器がアメリカ西海岸からメキシコ中南米で発見され、現在盛んに研究されています 中東からインドフィリピンからの直接的な海のルートも存在していた可能性が近年注目されています また、遣唐使や遣隋使の海のルートではそのルートと時期についての詳しい資料も存在して居ますが、縄文時代の糸魚川からの翡翠が中国長沙からの副葬品から出土していたり、毛皮や工芸品等も出土していることを考えると、 商人から殷の集団が元倭国人と云われる渡来文化人であり、 各地の同種族間のネットワークがやはり存在していての繋がりではなかったかと考えられないでしょうか神武天皇がヤマトを攻め滅ぼした時のヤマトの民が、同じ天孫降臨の末裔で有った話しにも、メソポタミアの民との繋がりの話しも一致して来ますし、 神代文字や豊国文字がクサビ文字や商人の鳥の足跡から作られた漢字の原形や日本のカタカナの原形にも共通する所が幾つか有ります 私は現在中国の古い表音表記文字と日本の古代文字とカタカナとの共通点の多い事からそれらの研究をして居ます 大変難しい事ですが、諏訪の黒曜石の日本各地への分布や縄文土器の分布なども一例に考え合わせればもう少し柔軟な観点から見てみては如何でしょうか 当時の人の動きは現代人には非常に理解しにくいですし、遺伝子的な分布からしても、日本の祖先が何故いきなりアフリカ東部から一心不乱に東を目指して日本列島に迄たどり着いたのか? そしてまた、各地へ分散し、そしてまた戻って来たのか 未だルートも方法もハッキリして居ません あなたの動画の様に類似点や共通点が存在するだけで北海道の洞窟壁画や縄文土器や文字や言葉から一つ一つ山のような資料を集めても日本の学会では敗戦国教育が未だに存在して居ります 日本に古代文明が有り、其処から世界に広がったりメソポタミア文明人や失われた十支族が舞い戻ったりされると困る国が沢山有るのです
凄く納得出来るコメントで、有難いです。
倭人は3000年前、周が山東半島を支配した時に逃れて来た東夷(弥生人)と縄文人が混血して生まれた民族ですよ…。殷というか正確には商ですが、商の支配者が遊牧民族出身であって、その人民が中東系とは限らないです。言語学的にも既に殷には漢字の原形が生まれています。中東から人が来たのなら、その文字や言語を使っているはずです。あと殷というか商から人が日本に逃げて来たのなら、甲骨文字を使っていないのはおかしいですね。日本に漢字が入ったのは朝鮮から仏典が入って来て、それを読むためにです。弥生時代に漢字はないので、大陸から逃れて来たのは中東系でも漢民族でもないです。殷の時代の山東半島は東夷と呼ばれていました。周は西から東に進み殷を倒したあと、そのまま山東半島まで支配下に置いています。それがちょうど3000年前。そして山東半島には不完全ながらも稲作の遺跡があります。黄河は普通、麦作です。交易品として「米」が北中国や日本に伝わることはあっても、稲作という技術が伝わるにはそれを行っている人たちが来ないと伝わりません。稲作の本場は長江流域です。ただ長江文明は次第に廃れていったそうで、山東半島の稲作集団はその長江文明の後継者たちでしょう。実際にこの動画言われている青銅器についてですが、本州で見つかっている銅鐸は長江流域の銅鐸と形が似ており、また日本人は春秋戦国時代の人骨と形質的に似ています。漢民族が中国万部まで開拓を進めたのは漢の時代なので、この頃はまだ長江文明の人々もいたのでしょう。遺伝子的に言語的も、考古学的にも弥生人は中東となんらつながりはありませんし、殷に関しても亀甲占いなど宗教的なつながりはありますが、それだけで殷の人々が日本人の先祖とはなりません。フィリピン人はカトリック教徒が多いですが、彼らはヨーロッパ人ではないのと同じです。一部の言葉が似ることなど世界中にあります。この動画はただのこじつけ、都市伝説の類を出ませんね。
@@アヌス-d5f DNAではどうでしょうか
@@アヌス-d5f コピペですか?
@@アヌス-d5f 専門の人類、歴史、遺伝学者、考古学者でさえ確定できなものが お前の言う事など確定すら出来ない。人の動画に対して「ただのこじ付け」とか「都市伝説」など余計な文句を長文に渡り文句を付けるのなら自分で動画作成して出せばいい。
頭を空っぽにして、単純に文章を解釈したら、『殷元これ倭国なり』って事は、『殷の元は倭国』って事なりそうですが…?;
これだけ日本に人が入ってきているのに、日本から出ていった人がいないのも思考停止ですよね。特に縄文時代の終わりは氷河期なので、日本からたくさんの人が旅立った可能性があります。もしかしたら、そうした人々が殷を建国した…という可能性も捨てきれませんね。
普通に読めば「殷は元々倭国だったよ」って感じですよね。解説は何故逆に読めたのやら?根拠として語られてることもこじつけくさいし。
@@アヌス-d5f さん詳しい説明ありがとうございます。動画を観てちょっと突飛な話だと感じた部分が大分解消されたと思います。
@@アヌス-d5f 日本列島に住んでいた縄文人は、航海技術を持っていたようです。ですから、九州北部や現在の山口県辺りに住んでいた縄文人は、中国大陸や朝鮮半島に航り、交易を行っていたと言う説もあります。と言うことは、一部の縄文人は漢字の読み書きを習得していた可能性もあります。
某国への嫌悪は、己が理性的で在ろうとすればする程抱かざるを得ない物だと思います。誰もが最初は友好的に行こうと望むが、如何せんまともな人ほど耐えられないようになります。
全くその通りだ。(笑)
在庫の悪事を経験しあの生物を知れば知るほど憎悪というより日本も巣くう寄生虫を叩き出す勇気に変わります国連の人権委員会なんぞFY
まあそもそも古代朝鮮の人々は簒奪に次ぐ簒奪によって成立及び滅亡を繰り返しているから現在の朝鮮半島の人達とは別民族と見て言い程だからね、むしろそういう奪い合いの歴史の末にああいう他人の物を盗んで当たり前だと言う民族思想が形成されたと見ていいです。例えば動画に出ていた濊族の性格は慎み深く素直で欲深いところが少なく恥を知る心があり馬鹿正直で、淡泊で求めることが少なく窃盗をしないため人々は夜でも門戸を閉めないとありますが一時期こそは中国との交易で中国文化も取り入れて発展しますが最終的には滅亡したものと思われますね。
某国の国民が悪いのではなく、その国民を反日にさせた一握りの者たちが悪いのです。それにもかかわらず、日本から某国へ行く人もいれば某国から日本へ来る人も大勢います。実際にその国に行ってみれば考えも変わります。戦後シベリアに抑留された人たちは「ソ連は嫌いだがソ連人は好きだ。」という人が多かったそうです。
結局、漢民族の属国は反日だよ!
世界で最も古い石器や土器が発見されているのは日本の縄文時代で、火山の大噴火で九州地方に住めなくなった縄文人のうち、ある集団は東北へ逃げ、別の集団は大陸に渡り新たな文明を築いた…という話を聞いた事があるのだが、こちらの方が古代の様々な矛盾をスッキリ説明できてるような気がする
それは縄文人の移動だと思う奈良京都の文化は弥生人の文化であり、稲作や遺伝子のルートの移動の考察だと思う
凄く面白い解釈でした👏🏻この動画きっかけで他も見たくなりました😊登録しておきます
縄文時代の遺跡から稲作の水田が見つかっており、中国から持ってくるもっと前になるし中国の水田の遺跡よりももっと前になりますね。そもそも「日本側は未開で旧石器のような生活をしていたところに大陸の進んだ文明をもたらした。」って事が前提であって、そうなると日本語がもっと違っていたでしょうね。日本の人々がしっかりした言葉があり多数の安定した生活もあったとするならば、逃げてきた少数の部族のほうが日本に合わせて溶け込んだ。のほうが自然ですよね。まあトンデモ説の歴史にしても、所々つじつま合わせの無理なほころびが出ているように取れます。ただ魏志倭人伝の解釈、「水行」やそのほかの考察はよかった。
現在のゲノム解析では移動してきた民族の方が多数だと思うけど。例えば、人がほとんど住んでなかった、埼玉県日高市あたりに、高句麗棄民 千数百人が移住したり、やはり無人の地に近かった東京都狛江市(高麗江)近辺への移住とか、杉並区の先住が、秦氏だったり、かなり渡来系弥生人が関わっていると思います。
そういえば武田鉄矢さんが三枚おろしで自分の考察(浪漫)として「殷(商)のシンボルは鳥だから同じ鳥をシンボルとしている日本との関わりが深く国を失った殷(商)の人達は中国各地で商いをしながら渡り歩き日本へと渡ってきたのでは無いか」と考察されてましたね
鳥居の話とか八咫烏の話をされていましたね⛩🦅
@@ハヤシケイ それですそれです!あと白川文字学で口はサイと読み神への祈りを込める為の祭具を模した文字であったと語られていた内容も今回の動画で出てきた青銅器と関わりがあるのではと感じさせられました。鳥、四角い青銅器(祭具?)となれば契約の箱ともリンクして来ますしね。
@@ハヤシケイ 商という字の構成から鳥居の形状なり、八咫烏なり察しますね😀
YAP遺伝子の伝説だよね?日本語には音読みと訓読みがあり、古代の歌や童謡がイスラエル語に変換されると!パヨクが嫌う国歌の君が代の変換も面白いと思うよ!(笑)
契丹古伝(1905年発見)では、時代は違えど古代殷と契丹(古代遼)は兄弟国で先祖の国は倭である。又、漢字の元は殷字、殷字の元は天字、天字即ち倭の「神代文字」とあるそうですが・・・・。
稲作は縄文時代から行われていたこと、中国南部の長江流域(長江文明)とのつながりが深いと言うのが昨今の新説では?
ですよね
ーー【物作り日本③ 『釣り針』 ・原点を忘れずに・世界最古の釣り針】ーー 23000年前「釣り針」・沖縄南城市のサキタリ洞遺跡「釣り針」・・貝殻を切り削り・・全国から出土。
魏志倭人伝は中国人が日本を訪れ見聞したのを記録したものではなく、中国に漢字を学びに来た日本人が自国の様子を中国人に伝えたもの。だからこそ「倭人からの伝聞:倭人伝」それに「邪馬台国」は魏志倭人伝以降には書かれた「後漢書」「宗書」での漢字で、魏志倭人伝での漢字は「邪馬豊国」すなわち発音は「ヤマトコク」「豆」に部首を付けた漢字の発音は自ずと「ト」です。「豆腐」の「ト」
卑弥呼の時代と4世紀以降の日本って全く別の国に感じる。わずか150年の間に激変する事があったと考える方が、普通ですね。
戦前の教科書に卑弥呼は出て来ないらしい。未だ遺跡も出て来ないし。かなり大きなお墓の筈!
面白かった!初めて見たのですが、わかりやすくまとめられていて良かったです!初めから見てみようと思います!
殷をボロボロにした白面金毛九尾の狐こと妲妃が日本に来て玉藻の前になった伝説といい。なるほど、日本に殷の人達が避難して来たというのはわかる気がする。
もしこの説のようなことならもっと古墳時代の出土物に文字の痕跡が残るはずだと思うのだが…
しっかりした資料と、説得力のある説で、とても勉強になりました。私は「殷元これ倭国なり」は、殷の元は倭国だったという意味に感じています。約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火で避難した縄文人が世界に拡散し、シュメールを建国した後に殷となり、帰縄文人として日本に戻った説だと腑に落ちるのですが、いかがでしょうか。
DNAのこと、遺跡の類似性、等々分野が異なる事柄を合わせて判断していかなければいけないので、各分野の専門家が一堂に会してディスカッションしてもらいたいと思いました。
縄文人は日本の先住民で、中東から渡って来たセム人の可能性がありますが、日本に最初に来たのは4万年位昔と考えられます。つまり、ユダヤ教が成立するより古い可能性があります。殷は3600年前に発足し、3000年前前に滅ぼされたということなので、三内丸山遺跡と比べてずっと新しい国です。縄文人がセム人の祖先だとすれば日本迄来た縄文人が中東に国を作ったと考える方が妥当だと思います。また、縄文人が日本に来た時代は前回の小氷期で、かなり寒かったので、ユーラシア大陸を移動することは無理があり、縄文人がアフリカから日本に来たとすればインド洋を航行し、大陸になっていたインドネシアを横断してフィリピン方面から海流に乗って琉球列島を経て日本に広がったと想像します。
よしさんの説はガッツリ間違えてます。
1点氣になった所があるのですが、もし渡来してきたのが中東、殷から来たのだとするとなぜこんなにも違う言語なのか?って思います。私が支配者層なら元々の自国の言語を採用するんじゃないかな?っと思ってしまいました。またこの辺を折り込んでの考察もして頂けたらとまた楽しみにしています😁!
言葉って逆輸入も多いでしょ
@@永田誠至 倭人は3000年前、周が山東半島を支配した時に逃れて来た東夷(弥生人)と縄文人が混血して生まれた民族ですよ…。殷というか正確には商ですが、商の支配者が遊牧民族出身であって、その人民が中東系とは限らないです。言語学的にも既に殷には漢字の原形が生まれています。中東から人が来たのなら、その文字や言語を使っているはずです。あと殷というか商から人が日本に逃げて来たのなら、甲骨文字を使っていないのはおかしいですね。日本に漢字が入ったのは朝鮮から仏典が入って来て、それを読むためにです。弥生時代に漢字はないので、大陸から逃れて来たのは中東系でも漢民族でもないです。殷の時代の山東半島は東夷と呼ばれていました。周は西から東に進み殷を倒したあと、そのまま山東半島まで支配下に置いています。それがちょうど3000年前。そして山東半島には不完全ながらも稲作の遺跡があります。黄河は普通、麦作です。交易品として「米」が北中国や日本に伝わることはあっても、稲作という技術が伝わるにはそれを行っている人たちが来ないと伝わりません。稲作の本場は長江流域です。ただ長江文明は次第に廃れていったそうで、山東半島の稲作集団はその長江文明の後継者たちでしょう。実際にこの動画言われている青銅器についてですが、本州で見つかっている銅鐸は長江流域の銅鐸と形が似ており、また日本人は春秋戦国時代の人骨と形質的に似ています。漢民族が中国万部まで開拓を進めたのは漢の時代なので、この頃はまだ長江文明の人々もいたのでしょう。遺伝子的に言語的も、考古学的にも弥生人は中東となんらつながりはありませんし、殷に関しても亀甲占いなど宗教的なつながりはありますが、それだけで殷の人々が日本人の先祖とはなりません。フィリピン人はカトリック教徒が多いですが、彼らはヨーロッパ人ではないのと同じです。一部の言葉が似ることなど世界中にあります。この動画はただのこじつけ、都市伝説の類を出ませんね。
言語の変化はいろいろの原因ある、そもそも今の中国語と千年前の中国語の発音は完全に違う、だから今の漢語(北京語)で昔の詩や古文を読むの時、発音は妙に違うの点はあるむしろ客家語や福建語の発音は、むかしの中国にちょっと残すの感じこれも文化の変化かも
面白い事に漢王朝の言語の発音は今の中国の言語の発音より日本語の漢読みの方が発音が近かったのではと言う説もありますね、他にも呉音と呼ばれる物も存在しますし、戦国時代に渡って来たオランダ語源の物も存在しています、勿論日本古来から話されていたとされる訓読みも存在している訳で、それが何を指していたかと言うと古代から諸外国と対等な関係の交流があった事の示唆ではないでしょうか?
@@アヌス-d5f 韓国から入って来たのは何という仏典でしょうか?
魏志倭人伝の記述の「韓国」の部分に触れないのは何故?その頃「高句麗」「新羅」「百済」「伽耶」の時代で半島を韓なんて呼んで無いよね❓❓😅殷の北❓辺りに韓という国あった気がしたけど半島は違うんじゃ無いでしょうか❓
勉強しなさい、普通わかる事だけど
殷はその位置からして、小麦を作る畑作文明だったのではないでしゃうか?それに対して、北部九州に起こった王権は、水稲耕作だったのでは無いかと思います。そこがどうしても引っかかるのですが。
非常に興味深いお話を、ありがとうございます。質問をさせていただきたいと思います。①そもそも、古代イラン高原にいたとされる「カラス民族」が、何故に住み慣れた故郷を離れて、山岳、砂漠を推し渡って東アジアまで移動したのでしょう? その理由と原因となった歴史的事件とは何でしょうか? おそらくは神話や旧約聖書に残るような大事件だったと思われますが。②半島北部にいたとされる濊族ですが、他所の動画で、満州地方での抗争に敗れた半牧半農の部族集団が半島北部の逃れたものというお話を視聴したことがあります。その敗残の部族集団を貶める意味で「濊」の蔑称で呼んだと聞いています。このお話との整合性はいかがでしょうか?③また、倭人が濊族と同じような言語を話していた、とされる文献は具体的にはどのような史書でしょうか?④他の方もコメントをされているように、瀬戸内海ルートの航路開拓は早くとも4世紀あたりだと思われます。むしろ、北九州~出雲・隠岐~丹後・若狭の対馬海流を利用した日本海ルートの方がより合理的と思われますが、この点はいかがでしょうか?ご教示いただければ幸いです。
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日本と同じ系統は他にはみられないんだけど。他のYAPの系統は6〜7万年前に分離されているので説明つかないのではないかと思います。水行の解釈は2〜3世紀の漢字辞典で水辺を行くことだと乗っているので川辺の移動ですよね。
UA-cam上にガチの言語学者が居るこのご時世に推測で漢字の意味を連想していくのあまりにも不確かすぎません?
殷など黄河流域は稲作文化はありません。まったく間違い。
文字通りですね😂日本人が自ら「倭」とは名乗らないと思うので、倭って漢字は中国側が卑下している漢字ですよね?日本人からすると、ワ、と言われたら、「私、我、吾、自分の事」だと思います😮
流石に強引すぎる感じがしますね案外日本の方では無いのかも知れませんね
魏志倭人伝は三国志の一部だから三国志の文法を1番参考にしないといけないよなぁ邪馬台国がわからなくとも、三国志時代の地名や出来事から、意味を解釈していくのが本来の正攻法なのか
日本列島の各地には、岩に刻まれたペドログリフと言う古代文字がありますが、年代測定において世界最古の文字であろうと言われています。古代文明の流れから、ムー文明(又は、レムリア文明)が約15000年前に滅びて、ムー大陸から逃れて来たのが縄文人だと言われています。そこで花開いた縄文文明が。竹内文書にあるように、世界に展開され、シュメール文明となり、失われた十氏族の一部が、日本国に舞い戻ってきて再建国されたのが、大和政権ではないでしょうか?夢は広がりますね。
「水行」に渡海を含まないならば、決して九州には辿り着けない。ということで、出だしから、意味不明なストーリー。
当時魏の時代背景を考えると敵国呉の背後となる九州以南の場所で同盟を成功させると交渉者の手柄がより上がることから倭国の位置をうやむやにして鯖読んだと私は思います。
説は色々あっても不思議ではないですが、稲作が大陸から伝わったと言う説は今は崩れているはずですが…。既に日本では縄文時代から稲作ががあったとされており、また当時は揚子江よりも南側しか稲作ができなかっただろうと言われていたと思いますが、いかがなものでしょうか?
稲作も遺伝子解析できるのでないか?
縄文人が、西へ行き、ただ帰って来た話し。
このストーリーには縄文時代に起きた鬼界島大噴火による縄文人の世界への拡散の可能性とそれに基づく縄文文明の伝搬の結果との矛盾があります。殷元これ倭国なりとはその縄文人が起こした国だったという可能性はないのでしょうか。つまり、倭人が外から入って来たのではなく、倭人が外に出て行って文明を作っていったというストーリーです。縄文人が世界に先駆け12万年前から日本列島で文明を育ていたという史実を重く受け止める必要があります。
時代の流れが少し無理。噴火と共に移動・一部殷に残った。鉄器はインド系から・帰り道(一部)
素晴らしい考察!アトランテス沈没で一部の神聖な地である日本には、5000のピラミッドもあり、100の王国が存在していたようです。富士王朝は有名ですが、諏訪王朝は色々な物語があるようです。どうも中東(世界)と日本(世界の雛形)はタイムライムがあっても同時に歴史が進行してきたように思います。ミトラ教から今日の弥勒浄土の流れが証明しています。陰陽の関係の深淵な神聖な創造物語では!Ray
殷=倭国の系譜が中臣氏であり、藤原不比等が記紀の実質編纂者であったと認識しています 倭国から日本へと国号が変わったのは白村江(663年)の戦いから進駐してきた唐の則天武后によってであり、高宗が初めて称した天皇を日本の統一的君主として定めたのでしょう この7世紀以前の倭国の大王も全て「〜天皇」としてしまった皇国史観によって日本の古代史が複雑化してしまったわけです。
何にしても宮内庁が古墳の発掘認めない事には物証がついていかない
なるほど、そう言う見方もありますね。であるからこそ、争いのない世の中であってほしいです。客観的な立場での意見参考になりました。ありがとうございましす。😊
面白いですね。ただ箕子の発音キシは、現代日本語です。箕子は現代中国語の発音だとqizi、チーズとなります。古代中国語の発音はもっと違うのではないでしょうか?
清朝以降「K」の音が「チ」や「ジ」に代わってます。「ペキン」→「ベィジン」が良い例ですね。満洲族が発音出来なかったためです。
発音が現代と違う と云うのは、考慮すべき重要な要素だと思います。
日本に残る音読みがその時代の読みに一番近く むしろ大陸には残っていませんよね
動画面白かったです。コメント欄も皆様色々と考察があって読みごたえがありますね。
ギリシャ神話と日本神話は勉強しました。
韓国って戦後の単語かと思いますが、…
ん…確か三国時代の朝鮮半島は『韓』っていう地域名(当時でいう国)だよ。馬韓とか辰韓とかって。だから、魏志倭人伝に韓国って書かれてもおかしくない。日本でも昔『武蔵の国』とかあったじゃない?
韓国の韓すら使われてなかったと思うよ
中国の古典『後漢書』に三韓という言葉があるので使われてたと思いますが…
今調べました、紀元前2世紀末から存在するのですね浅はかな知識で申し訳ありませんでした。。
中国本土にも韓という国はあったよ
大変興味ある内容です。DNAの解析から民族移動を説明を受けると説得力があります。また殷王朝滅亡と北部九州の文明開始時期の整合性も良い視点と思います。一方で稲作伝搬については、もう少し説明が欲しいです。当時の殷王朝のあった場所では水稲栽培は不向きです。水稲栽培されていた、と推測できる情報があると、素直に受け入れて安いです。なお、陸稲はあったと思います。
倭=吳。同樣的發音。日本主體民族彌生人來自長江流域古吳越地區。吳越地區一些族群的方言和現在的日語都很接近。日本是多次大陸移民後形成的,並不僅僅只是一次移民。每當大陸發生大規模戰爭,迫害。人們為了躲避戰亂,就往四面八方遷移。而日本列島是沿海族群最佳的移民地。中國大陸太多戰亂,太多暴政……到現在,依舊是如此。無數的大陸人移居,歸化日本。從古至今,一直沒變。人們厭惡暴政。
今も前もいつも大事なのは、だれがその恣意的な解釈をどんな背景でいれたのか?をしっかりしないからいつも適当な解釈を入れられて変わってしまう…と感じます。現在進行形ですけどね。歴史ぐらいはわかってほしい物ですね。
濊族の倭国起源説は違うと思います。魏書東夷傳の中に濊と句麗は同種、同族だとあります。それに、濊族を防ぐ為に発展した街がソウルとピョンヤンです。儒教思想と程遠い濊族が倭国と関係あるとは思えません。
儒教の孔子が憧れた殷の文化と日本は繋がると思う逆に対立するのは漢民族や漢文化だろうね?それが孔子の嘆きだと思うよ!
青銅器の出土履歴が気になって、他が入ってこない。装飾の違いや使用方法も知りたい。何故、青銅器が財産となり得たのかについても、何かチャンピオンベルト的な意味や、音色や、銅剣や銅鋤鍬などに加工する前の備蓄的な意味があったのか?鏡は自分を俯瞰して見れる方法が無い時代に衝撃とレジャーを与えて宗教に活用された事は考えられるけれど。銅矛、銅鐸、鉾?矛?
縄文時代に東北、関東に人が住んでいなかったような内容で、びっくりです。
違う違うもう住んでる前提で話をしてるのよ。この動画は日本列島から旅立った人たちがどうやってまた日本に戻ってきたって話ですよー。
現在のウクライナの状況とも重なりますが、侵攻してくる敵に対して、脱出は大変だったんだろうなと考えてしまいます。色々なルートを経由して安全な東の島国を目指したんでしょうね。
良いですねえ!バリ
弥生時代の集落にみられる初期の鳥居には門の上に鳥の置物が載ってる作りになっていて、それがカラスだというのが有力らしいね。
破滅的カルデラ噴火で縄文人が世界に広ろがりその後帰国するという解釈もあったらと思います。
古事記の国生みの順序と沼島の位置が徳島と淡路に近いことを解決して欲しい。
この動画では、邪馬台国のあった場所や大和王権の移動を主に仮説として動画を作って頂き、かなり納得し同意見の部分もたくさんありました!日本に元々いた縄文人についてはどう思いますか?私は技術こそ高度では無いにしろ、安定した社会を形成していたように思えます。九州にいた…と、チラッとありましたが全く技術や未開のような存在として捉えていますか?東北辺りでは1万2000年前から住んでいたとされ集落跡、土器や埴輪が発掘されています。日本海側では翡翠の貿易もあったとされ、渡来人だけで日本を作っていったとは思えません。争いが無く、航海術にも長けていたと言われる縄文人も、紀伊半島にもいたと思います。神武東征で、悲劇の女王と言われる名草戸畔の話しも聞いたことがあります。やはり安定した社会やそこに元々住む人々の知恵が合わせて形成されていったのかなと思います。
殷が滅んでその人々が日本にやってきて稲作を伝えた。面白いと思うけど、稲作以外の考古学的共通点が欲しい所。
古代エラムなどにいた人々のDNAと古代日本人のそれの共通性を証明できますか?弥生時代以降は中国大陸(中国四川辺り)の人々のDNAが確認できているようですが、それ以前は確認できておらず、港川人等元々日本にいた人々や東南アジア、バイカル湖当たりの人々のDNAが確認できるようです。又、米作なら殷があったエリアからの流れではなく、今の華南エリアからになるはずで、当時の華南エリアは殷とは関係なく、朝鮮半島経由もあり得ない。更に、メソポタミア地方から陸路で殷と繋がるとなると、ヒマラヤ山脈や天山山脈があり、移動は非常に困難で、経由地であるインドなどの人々や文化も考慮されていないことになります。インド洋経由の海運なら可能性はあるでしょうが、そうなると、殷(中原エリア)経由は考えにくい。古代から中国は内乱続きで、中国から逃れた人々の一部が日本に流れ着いたこともあったでしょうし、当時の中文を正確に読み取り、当時の日本語の音も併せて考えるのは正しい視点ですが、それ以外はかなり無理のある説だと考えます。交易など人伝えでも言葉の伝播は可能ですが、違うエリアに大きな影響を与えうるような人数・民族自体が移動することは容易ではありません。
ロマンあるな〜😊
忌部=殷部❓
😅
このルート逆だと思う古代日本人が日本にピラミッドを製作して文明を広げたのだと思うね。
すばらしい分析だと思います。根拠はともかく、邪馬台国は九州北部派、吉野ヶ里あたりにあったのではないかと勝手に想像しています。
注意して読み取ってください。「倭国、これ元殷国なり!」ではないのです。殷人は揚子江沿いに住み着いたエジプト発ヘブライ人の一部族です。高床氏住居と稲栽培を特徴とする彼らは「倭人」と呼ばれました。殷人は揚子江沿いの武漢辺りから北上して鄭州に定住した人々です。伝承でもし「倭国」という表現が使われたならば、それにふさわしい国は四川の古蜀が該当します。夏族の流れをくむ遊牧民からは、殷人は倭人の一派と見られていたのでしょう! なお、日本の「倭人」は、雲南省方面から渡来したカナン発ヘブライ人が主体となっています。さらに、「天孫族」はまた別のグループとなります。
アカホヤの大噴火で日本から大陸に人や文化が渡ったという説もありますよね。であれば、殷が倭人によるものというのにも繋がりますね。
非常に興味深い内容です。みごとに古代の歴史を解き明かしていて感銘を受けました。異論が一つあります。邪馬台国は、阿波だと思います。水行が安全で、北部九州から近畿に移動する貴殿の意見とも合致します。魏志倭人伝で「(投馬国から)南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王が都を置く所である。水行十日、陸行一月である。」の南は、四国の南をぐるっと回ると到達できるという解釈をすると、ヤマトの台国、山のふもとにつきます。出真珠青玉 其山有丹と丹がでるのも当時、阿波だけだと言われています。
ならば海はどんな文字で表したのですか?文字を単文字で解釈するのでしたら魏志倭人伝の卑弥呼の文字の意味についても解説をお願いします。
こういう見方もあるんだなぁと思いながら見れてとても面白い!古代史はロマンがたくさんですねぇ〜
邪馬台国は福岡でも近畿でもないと言うことが確認できました笑笑
ひょっとしたら、タイムリー??
浅学日本には都を一か所で発展させ続ける一点集中型ではなく、『遷都』という文化があり、これは都を移すことで、たとえ未開の田舎であろうが大きな発展を遂げることができ、日本全体をより豊かにするために行っていたことです。ですので、邪馬台国と倭国が当時の日本に存在していて争っていたのではなく、現在に例えるならそれは、元都の京都と現在の都の東京が存在していたというだけで争ってはいないのです。なので状況としては元都である奈良は、当時の都の福岡よりも発展していても全く不思議でも何でもなく、さらに昔の大都市であった出雲にも、都と同レベルの発展した大都市であったと考えるのが自然です。さらに言うなら邪馬台国は当時の中国人が日本人の発音をまねた音で当て字を加えただけであり、日本の文献にその名がないのは当然であります。日本での文字を当てると『ヤマト大国』の『日(靈)の巫女』が邪馬台国の卑弥呼になります。ですので当然渡来人などではなく、初代神武天皇から第7代孝霊天皇の血の流れる由緒正しい存在こそが、長年皆さんが探し続けてきた、ヤマト大国の日の巫女であらせられるということです
その「越系図」の私のコメントで、なるべく補足はしている。最近のサイトや「UA-cam」は天皇や藤原氏が「越系図を含め」系図の提出を「ヤマト朝廷が求めていた」ことも「歴史学者の世界」だから、一般人は知らない。うち(家)のように海賊(倭人)は嶋津のように琉球に行くから薩摩は許す(家康は面倒)や、瀬戸内海の越系図系の海賊も、藤原氏に系図を書き換えられてまでなら、船で移動する。よって日本系図で「海賊系図」だけが、極めて「天雨子孫族」と分けて、「勉強」はできる。結局、やたがらすでも、徳島県の忌部氏もみんな「天雨子孫族」になるから(天皇族は有利)、系図が「書き換えられて」、逆にさっぱりわからない。「わからないから、学者やインディジョーンズ」を「UA-camネタ」や「面白都市伝説」になるのだが。あまり教育に都市伝説でやり過ぎも、いかがなものか。
縄文時代は、弥生人によって破壊されて消えていったのでしょうか?
おもろかった
私のコメントは、このサイトの趣旨に反するカモ🦆しれないが、最近の報道から、強く‼️強く‼️感じました。それは‼️自己の思想・心理から始まる、基本的な考え方について、疑問❓に感じ事になったからである。【その基本の❓自己の宗教思想心+政治思想心】を、時代とともに、変化する事と思うからである🫣🚄🚅
色んな考えがあって良いですが、はたして?ですね。
トンデモかも知れませんか飛鳥三神氏の『逆転の日本列島』からの魏志倭人伝解釈もワクワクします
中国から韓国へわざわざ危険な船で行かずとも歩いて行けると思う。
「殷元これ倭国」って、殷は元々倭国から来た人が作ったという意味では?そして殷滅亡で、逃げ帰ったと、そういう風に思いました。
面白い考察で勉強になります。ただ瀬戸内海が開削されたのが5世紀後半なのに対し、日本海側の航路は1世紀頃から存在していたようなので、順番としては、出雲や丹後王国が繁栄した後、6世紀以降近畿方面で大和政権の勢力が拡大したのではと思われます。
私も同感です。渡来人は、対馬海流に乗って日本海側から、畿内に入り大和朝廷を建国したのだとおもいます。
いやいやいや、君、中国語読めないでしょう
三国志の中の「海」は、普通に「海」という意味ですよ
例えば魏書齊王紀、「以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界」は、今の中国の遼寧省(遼東)から、渤海海峡を越えて(渡海)、今の山東省(齊郡)へ到達ということ。
また、三国志中「水行」という文字は倭人伝だけなんですが、直後の時代魏晋南北朝の本、「金楼子」はこう書いてる「陸行乘車,水行乘舟」つまり陸で行くと、車を乗る。川や海で行くと、船を乗る。
「陸行」でも「水行」でも、いずれにしてもそういう言葉はそもそも存在していない。古代中国語の「行」はそのまま「行く」の意味、移動の手段とは関係ない、「歩く」ではない。日本語は素晴らしいですよ、今の中国語よりもっと古代中国語の意味をちゃんと保存している。
自分は台湾人なので、変な日本語ですみませんでした。
御説は、倭の元が殷になっています。テーマの「殷元これ倭国」とは反対のように思えてなりません。
この時代韓国という国はなかっただろう
俗にアカデミズムの秦学閥ね!有名だろ。
ー★契丹古伝には「漢字」より前は「天字」それより前の文字は「ト字」という、
ーー「ト字」は殷字の事で【殷は「倭国」を意味する】と記されている。
稲作については、朝鮮半島では水田に種を直まきをしていて、収穫量が少なかったのを、秀吉の朝鮮出兵の時に、農民兵がそれを見て苗植え法を教えたと、記録にある。
日本から出て行って戻ってきたのが信頼できますね。
この動画の主張は、一つの説であって、まだ「関係が見られる」との見解に過ぎないと思います。時代(年代)の符合が見られません。渡来人が日本に文化や稲作をもたらしたとするならば、12000年前のシラス台地(熊本)からプラントオパールが2019年に見つかったことの説明が出来ません。すなわち稲作は中国から伝わったのではなく、日本から中国へ伝わったと見るべきです。すなわち、先に日本列島で稲作があったと考える方が妥当に思えます。第一に、稲は熱帯の植物です。北部中国、韓半島を経由する稲作文化の伝承は、その気候から考えて不可能だと思われます。
さらに、この動画の論理に基づくならば、言語の一致に関する蓋然性については、逆に海洋民族であった縄文人が東南アジアを回ってインド洋を越え、メソポタミアに文化をもたらしたと考えることでも説明が可能となります。
文化の類似性については同意できますが、先に史跡が見つかった文化が、再度外部から伝わったと考えるのは理論的には可笑しな事になるのではないでしょうか。
どう考えても、安定して食糧調達が可能な農業技術は当時、世界の最先端技術で有り、世界中が欲しがったものですので、既にある文化を再輸入することはないでしょう。
さらに、青銅器が「文化/人」が移動した証拠とする考え方は同意できますが、それならば山内丸山遺跡での鉄器の出土(5400年前)をどう説明するのでしょうか。青銅は鉄よりも融点が低く、鉱床さえあればより手に入れやすい。しかし、日本では砂鉄から鉄を溶融還元して高炭素鋼を作る技術が5400年前に既にあったことになります。鉄は青銅よりも強く、強靱です。農具としても長持ちし、武器としては圧倒的に強い。青銅文明よりも鉄文明の方が、文化としては進んでいないと手に入れることが出来ません(三国志の時代は青銅器文化であったことは御存知かと思います)。縄文式土器は18000年前のものがありますが、その土器が作れたのであれば、当然木炭を使用していたことになり、その炉で鉄器を製造できるわけです。鉄器はどうしても青銅よりは錆びやすいため、史跡として発掘できるのは高々6000~8000年程度前に限定されてしまいます。鉄の室温における大気中の酸化速度から明かです。それ以前にあったとしても、酸化鉄になってしまうために発見が難しいのです。
弥生文化の際には、縄文人が他のアジア民族と混血したであろう事は、地理的な関係で容易に理解出来ますが、渡来人が現在の日本人の主な先祖だという証拠としては、DNAのY遺伝子含有率から見ても、学術的に不十分だと思います。やはり先祖は縄文人、途中で戦争を経ない形での渡来人との混血があった(恐らく秦の滅亡が原因)とは思いますが、それはあくまで人種の混血であって、遅れた文化を取り入れる必要は無かったでしょう。東北中国や朝鮮半島の主食は稲では無く、麦です。
上記の説明がつかない以上は、「大陸、半島から文化が伝わった」という説は仮説の域を出られません。なお、「濊族」はウラジオストック以北に済んでいた民族で、現在の朝鮮半島の先祖ではなく、新羅に侵入してきた、所謂「刀伊」の先祖です。「わ」という文字が入っていることを根拠にしているようですが、それこそ漢字の意味を理解出来ていないとしか考えられません。倭(稲作をする民族)と濊(汚物を垂れ流す民族)は異なる意味の文字です。そして7000年前~12000年前に朝鮮半島に人類の生活史跡は見つかっていません(韓国考古学会)。完全に無人の半島だったのですから、説明されている時期よりも前に、説明の通りの文化流入があったという可能性は全く考えられません。素直に、縄文人の一部が半島に移住し、その後大陸人に蹂躙されて混血したと考えるべきでしょう。その蹂躙の時期とは、高麗の建国の時だろうと考えられます。何せ属国ですから。現代半島人のDNAと現代日本人のDNAはあまりに異なっていることを、この動画は説明出来ません。
素人の認識ですが、日本での稲作が大陸より早かったのは間違いなくても、それは陸稲であり、水稲に関しては
やはり大陸から伝わったものと思っています。もちろん半島経由ではなく大陸から直接伝わったと考えるのが
私の知識の範囲では妥当であり、それは紀元前1000年頃と聞いています。水稲に用いる道具がそれ以前からは
出土していないので。
さらに鉄器については、仰るように日本では青銅器と同時期かそれ以前からあったので、日本は「青銅器時代の
ない国」とされているようです。
ほぼ同意します。
そもそも現代人の脳は文明(文化)は大陸からやってくるものという意識が強すぎます。
極東の島国が注目されるのは良いのですが、”それが世界の中心であった”、という流れがどうしても認めたくない、
という意識が日本だけでなく世界中であると思うのです。
そして先の大東亜戦争での敗北が意識の中で決定的となりました。
日本人は世界一の文明国であったはずなのですが、同時に世界で一番謙虚に生きなければならない宿命があるようです。
それが再び脚光を浴びる日を楽しみにしています。
もはやあなたが作った動画を見たいくらいに説得力ある
元ネタがどうなってるのか分からないくらい滅茶苦茶だろ
DNA的近縁性は東北部中国人→朝鮮人→本土日本人→アイヌとなっており、本土日本人は半島経由で入ってきた弥生人と元々日本に住んでいた縄文人の混血で出来ている。半島には縄文人の痕跡がほとんど残ってないので、人の移動方向はほぼ半島→列島であることが確定してる。
中国南方、東南アジアのDNAはほぼ何の影響も現代日本人に与えてない。米の原産地もユーラシア大陸南東部であることで確定してる。何の脈絡もなくいきなり日本で栽培されるはずがないでしょう。
殷が倭の元なのか、倭が殷の元なのかで見解が変わりますよね。
残念ながら、かの国の人は論理とは真逆の位置にいるので話は通じません。
人に誇れるものが何もないのにマウントを取らないと精神崩壊するので、こうだったらいい→こうなはずだ!と脳内変換され願望が真実になります。なので物や文化も羨ましいと思うものはかの国起源を主張し始めます。
嘘と願望でできた国の人とは話が通じないし分かり合えることは未来永劫ありません。
同じこと書こうとしてたw
漢民族の属国だよ(笑)
みんな何でも良いからもっと日本に興味を持って日本人としての誇りを持って生きてほしい。
日本が侵略されるのがこわい。内側から壊されているんじゃないかと不安。政治家が信用できない。メディアも学校の教育もちゃんと教えてほしい。
誇りを持ちたいから誇りを持つっておかしいと思います。
無理して誇りを持とうとするからおかしくなる。
@@ナマポ漫画 誇りなんてのは色々知識を身につけることで自然と出てくるものでは?
無理して誇りを持つってそれ、誇りじゃないですよね?
勉強しても誇りを持てないのならそれはそれで一つの正解かと思います。
今、一番気になっているのは、鉄機器の存在です。鉄は、紀元前700年から800年前に日本で作られています。つまり青銅器より早い時期に鉄が存在するのです。さらに、鉄は、日本から魏に輸入されています。故に魏は、強かったのです。さらに、諏訪神社の宝物の中に、銅鐸の小型の飾りが槍の穂先に付けられています。また、稲作ですが、陸稲は、4200年ほど以前から日本で作られており、中国の4300年前と言うのは、マユツバものの可能性があります。でもって、なぜ、鉄器文明が青銅器文明に支配されるのか、意味が不明です。
>日本に興味を持って日本人としての誇りを持って生きてほしい。
と書いてながら、
>日本が侵略されるのがこわい。内側から壊されているんじゃないかと不安。政治家が信用できない。メディアも学校の教育もちゃんと教えてほしい。
とはこれ如何に?
他力本願も甚だしいね。まず自分自身が誇りを持てるような生き方、考え方を見直そうね。
他者に問うのはそれからね。
それと、日本人の誇りって何だと思う?
たまたま日本人として生まれ育った人たちの、個人の誇りの集大成でしかないんだよ。
@@山田一郎かめい 言いたいことはわかるけど、それはこれまでに発見されたことを基にした数ある仮説でしかなくて、その仮説ですら、新たな発見によって覆されたり、より信憑性が高まったりするものです。そうなれば当然のこと、誤りや捏造もあらわになるものです。
>中国の4300年前と言うのは、マユツバものの可能性があります。でもって、なぜ、鉄器文明が青銅器文明に支配されるのか、意味が不明です。
確かに私もそう思いますが、「マユツバものの可能性」「鉄器文明が青銅器文明に支配されるのか、意味が不明です」というのはいかがなものかなと。
そのような言葉や解釈をしてしまったら、自分が支持する説は、どんなに薄いものでも肯定してしまい、ほしい答えに捻じ曲げることもいとわなくなりかねないですよ。
C国が100年上乗せしたのと同じ心理ですね。
古代の出来事など、あくまで推測憶測であって、真実の立証は不可能。なぜならその場面を確認するすべがないからです。だからどんなに信ぴょう性が高くても、仮説憶測でしかないんです。
逆に言えば、どんなに頓珍漢な仮説憶測でもそれを否定するためには、仮説そのものの考え方やとらえ方、あてはめ方の矛盾を証明すること、もしくはそれよりも確実に信ぴょう性の高い仮説を立証するしかないのです。
噓、捏造でもそれは同じ。
インチキなものを埋めていたことを暴露するとか、その証拠を突き付けるとか、発見したものの鑑定が間違いであると立証しない限り、説の一つとしては存在し続けます。
コメ主さんの意思は理解できますよ。私もほぼ同意です。ですが、私ならこう書きます。
自分はマユツバかも知れないと思っているけど、その辺のことを専門家はどうとらえているのか、そしてその根拠は何なのかを知りたい。勿論肯定も否定も含めて。
私には、鉄器文明が青銅器文明になぜ支配されたのかが理解できない。その考えを示した人の根拠や経緯を知る人はいるのだろうか。それを知っている人は、何をもって肯定し、なのをもって否定するのかを知りたい。
マユツバものの可能性、なぜ、~~が、意味が不明です。
これでは感情論に近いので、もっとフラットな視点から疑問を持った方がいいです。
殷からの渡来人が米作を日本にもたらした由ですが、同国は黄河中流域で黄土での小麦作地域だと思います。
殷墟からの発掘物に稲籾があったかどうかは知りません。
中国大陸からの米作伝来は长江揚子江下流域か福建省等、米食文化地域からだと思います。
殷は本来は遊牧狩猟民で商に土着した一部の人達が殷(商)王朝を開いたわけで本来の殷の人達は長江流域あたりにも居た様ですよ。ただし湯王は米や韮を食べていたらしいので商もあり得ますね。私は殷元とは本来の殷の人達のことを指している様に思います。
何でいつも大陸から来たってのが前提になってるんだろうな?
それは、中国の最初の国が日本からとすると、日本の下となることを認めたくない、ただの見栄です。縄文時代から影響を受けていたことからも、明らかです。なぜなら、使われていた貨幣は、貝殻で沖縄から鹿児島の間にしか生息しない貝だったからです。
うろ覚えですが、考古学だか民俗学だかに「文明は大陸から島に伝わる」っていう通説があるためだったかと。
通説も良いけどバイアスになっちゃうといけないね。
@@ignis9089 それから言うとアフリカ大陸もユーラシア大陸から見たら島みたいなものなのに人類発祥の地とされてるのは不思議ですね。
@@georgebunda-xn2lp 明確なエビデンスがあるのに日本学術会議とやらは何やってるんですかね。
素直に普通に考えてそうなのでは?石器時代の遺跡等を考えれば当たり前だと思います。日本が発祥だとしても、それで日本が素晴らしいということはにはならないです。逆にいえば、大陸から日本に伝わったとしてもそれで大陸が素晴らしいともならない。そんなことにこだわって偏見を持つよりも、素直に合理的に捉えた方が日本人らいしと思います。
逆に日本から、世界に人々が広がった。
その可能性もある。
殷は商とも言うが
商=シュメール
だと思います。
義和(倭国より更に古い国名)のスメラギが夏を滅ぼし中国征服し「商(殷)」を建国し中東まで到達しシュメールとなった可能性もある。
日本のルーツは日本だと思います
なぜなら言語の問題も有りますし、日本人は民族の特性として外部からの文化や知識などを柔軟に吸収し、発展させて行くからです
なので中東や中国から移動してきた人達が居たにせよ、彼等が日本を作ったのではなく、彼等を吸収した現地日本人が日本を作ったのだと思います
私もそう思います。そういった民族性?地域性?が日本という国の特殊性をもたらす重要な要因だと思います。この国は今でも外来の人や技術を受け入れ変化させてこの国に最もふさわしい状態に昇華し、これからも特殊な社会を築き上げていくのだと思います。
稲作は朝鮮より日本が早かった事が黒米のdnaからわかるそうですが補完できますか?
倭人は3000年前、周が山東半島を支配した時に逃れて来た東夷(弥生人)と縄文人が混血して生まれた民族ですよ…。
殷というか正確には商ですが、商の支配者が遊牧民族出身であって、その人民が中東系とは限らないです。言語学的にも既に殷には漢字の原形が生まれています。
中東から人が来たのなら、その文字や言語を使っているはずです。あと殷というか商から人が日本に逃げて来たのなら、甲骨文字を使っていないのはおかしいですね。
日本に漢字が入ったのは朝鮮から仏典が入って来て、それを読むためにです。弥生時代に漢字はないので、大陸から逃れて来たのは中東系でも漢民族でもないです。
殷の時代の山東半島は東夷と呼ばれていました。周は西から東に進み殷を倒したあと、そのまま山東半島まで支配下に置いています。それがちょうど3000年前。
そして山東半島には不完全ながらも稲作の遺跡があります。黄河は普通、麦作です。交易品として「米」が北中国や日本に伝わることはあっても、稲作という技術が伝わるにはそれを行っている人たちが来ないと伝わりません。稲作の本場は長江流域です。ただ長江文明は次第に廃れていったそうで、山東半島の稲作集団はその長江文明の後継者たちでしょう。実際にこの動画言われている青銅器についてですが、本州で見つかっている銅鐸は長江流域の銅鐸と形が似ており、また日本人は春秋戦国時代の人骨と形質的に似ています。漢民族が中国万部まで開拓を進めたのは漢の時代なので、この頃はまだ長江文明の人々もいたのでしょう。遺伝子的に言語的も、考古学的にも弥生人は中東となんらつながりはありませんし、殷に関しても亀甲占いなど宗教的なつながりはありますが、それだけで殷の人々が日本人の先祖とはなりません。フィリピン人はカトリック教徒が多いですが、彼らはヨーロッパ人ではないのと同じです。
一部の言葉が似ることなど世界中にあります。この動画はただのこじつけ、都市伝説の類を出ませんね。
侵略してきた漢民族からしかたなく逃げた土地が、農業に不向きだったから南下して日本に来たのだと思いますよ。
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◉メモ:「日本」という名前をこの日本列島で日本人が初めて使ったのは、考古学上(神話上ではなく)紀元後、天武天皇の時代だとされています。縄文人=日本人ではありません。混血により、現在の日本人のDNAに縄文人のDNAが入っていると思いますが、縄文人が"そのまま"日本人という新たなアイデンティティーを持った存在になった訳ではありません。秦の始皇帝の末裔だと自称する秦氏も日本人です。「縄文崇拝」をするのは自由ですが、自らの発言が同志「日本人」を差別していることに氣づいてください。
殷元これ倭国=殷元これ「Ur(わ」という意味でもあります(Urは倭人の起源のとある国)
是非、続きも動画も!!!
↓
日本人の起源編ここまでをまとめたプレイリストはこちら⇩
ua-cam.com/play/PLTzpaJASoedLiYiGp5dpKM5qZqBBTb9n5.html
◉勘違いが多いので記載
1、この動画は連続する動画の途中です。この動画に繋がる過去の動画(現在に繋がる証拠)を見ないまま批判してしまっている方も多く感じます。DNAの話もしているので見て頂いてから批判してくれたら幸いです。
2、(過去動画でも民族移動の成り行きを説明していますが)日本列島には殷の時代より、遥かに古い文明が日本列島にあったという事実はありますが、"必ずしも” それが『縄文人がそのまま倭人/大和民族となったという証拠』ではありません。また、今回の動画は数万年前の話はしておらず、また「大洪水」があった前提の話の"後の民族移動"の考察であります。そして、過去動画を合わせた、この動画シリーズは「万年前に日本から世界へ文明が広がった」という説を否定していません。しかし、「数千年前(大体紀元前3000年辺り以降)に日本列島から世界へ文明が広がった」という説を間接的に否定しています。なぜなら、その証拠がないからです。とりあえず、キーポイントは「万年前に日本から世界へ文明が広がった」や「日本には超古代の遺跡があった」というのを前提でこの動画は考察していますので、ぜひ、他の動画も一緒に見て頂ければ幸いです。
◉この動画の続きの動画(古い順)はこちら⇩
1#[総集編]世界全民族集合の日本史〜はじまりの渡来人〜
(この動画の内容とその他まとめ)
ua-cam.com/video/Z64M1w5O8XI/v-deo.html
2#[まとめ] 世界全民族集合の日本史『古代イスラエル編』※重要
ua-cam.com/video/dihPmgziJKo/v-deo.html
3#[まとめ]世界全民族集合の日本史|ユダヤ/ギリシャ編から日本史編へ
ua-cam.com/video/DXLyIKYsByA/v-deo.html
4# なぜ八岐大蛇は悪者にされたのか?
ua-cam.com/video/oCs8rBo-RWU/v-deo.html
5# 天皇家のルーツを暴露する回
ua-cam.com/video/T5oZt5E5eMo/v-deo.html
先生!佐賀県で何か見つかりましたよw
先生ならすぐ解ると思うので、それだけ伝えておきます
ウル?バビロニア関係?
0:32、チベットはdだが、YAPじゃないって、違います。YAP変異はY染色体ハプログループDE系統にのみ存在する変異で、チベットのD1a1も普通にYAP変異持っています。ちなみに、チベットD1a1と日本列島D1a2は分岐してから5万年ほど経っています。
@@joy-boy6776 肥前国風土記 神埼の郡に興味深い文章があります。景行天皇(纏向日代宮)が肥前遠征したら、荒ぶる神がいた。往来の人を多数殺害したので景行天皇がかっさばいた。なので神埼(カミサキ)の郡という。この荒ぶる神って吉野ヶ里遺跡にいた弥生人のことじゃないでしょうか?ちなみに縄文系の人達は、国栖、土蜘蛛と言ってこちらも滅ぼされてます。
非常に興味深いですね。
日本の起源を掘り下げるお話として新たな視点でした。
どんな考えでも、自分や、先祖、民族、国家のルーツに関心を持ち見たり聞いたり調べたりすることは、大事だと思います。
箕子は紂王の叔父で(名は胥余)殷の最北端の箕の国に封じられたので箕子と呼ばれるようになっていますので、
メソポタミアとはまったく関係ないと思いますが・・・。
紂王が暴君化すると何度も諫めるが最後は幽閉されてしまいます。
また箕子が東に「逃げた」というのも間違いです。
その後、周が殷を倒した際に武王が幽閉されていた箕子を招聘して政治について問い、
そのあまりの該博さに驚嘆し、武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じています。
周の武王がその地に任命しているのです。
その箕子が治めた地域が箕子朝鮮となります。
濊族はツングース系民族です。
中国史書に濊の言語は夫余と同じと記録があるが夫余語がどんな言葉なのかは現在も分かっていません。
イシン帝国を殷 アッシリア帝国を周 北朝イスラエル王国を魯 南朝ユダ王国を宋 と仮定すると シュメール アッカドの諸国の興亡を多少脚色して漢訳しただけのようにも思えてきます。
そもそも内陸深くに首都を置く魏や漢、周、殷等は海をほとんど知らず、逆に彼らに馴染みのある黄河や揚子江といった大河は日本人から見たら大型船も航行できるし対岸が見えないしでほとんど海ですよね。また当時の人の地理知識では海が地球上の七割を占めるなんて知りませんし、瀬戸内海や対馬海峡を見て大きな河だと思っても不思議はないのではないでしょうか。
大陸、半島経由は吉備国で6000年前のプラントオパールが出た時点で否定されてなかったっけ?
都合の悪いことは知らんぷり
なのに 「まだ信じないの?」 と煽る事だけは一人前
いろんな説があってしかり それなのに煽るからみっともないよね
殷が華北にあったとすれば、そこは気候からして水田稲作民であるはずはありません。倭は九州以北すべて稲作文明であったことを考えると、殷もと倭国というのは考えにくいと思うのは私だけでしょうか?
稲は縄文から有るって。
日本史と世界史を分けて教わったので時間軸がなかなか揃って思考できない
なので興味深い
考察としての参考になります。水行については琵琶行が好きですから改めて考えてしまいました。
今後の動画では割と分かり易く単純なルートの移動経路として説明をされておられますが、殷以前の商人が倭人で有る様な伝承もありますので其ほど単純なものでは無く、ルートはもっと沢山有ってもっと複雑な交流と交易も有ったのではなかったか?と思われるふしが有ります
例えば日本の縄文土器がアメリカ西海岸からメキシコ中南米で発見され、現在盛んに研究されています
中東からインドフィリピンからの直接的な海のルートも存在していた可能性が近年注目されています
また、遣唐使や遣隋使の海のルートではそのルートと時期についての詳しい資料も存在して居ますが、縄文時代の糸魚川からの翡翠が中国長沙からの副葬品から出土していたり、毛皮や工芸品等も出土していることを考えると、
商人から殷の集団が元倭国人と云われる渡来文化人であり、
各地の同種族間のネットワークがやはり存在していての繋がりではなかったかと考えられないでしょうか
神武天皇がヤマトを攻め滅ぼした時のヤマトの民が、同じ天孫降臨の末裔で有った話しにも、メソポタミアの民との繋がりの話しも一致して来ますし、
神代文字や豊国文字がクサビ文字や商人の鳥の足跡から作られた漢字の原形や日本のカタカナの原形にも共通する所が幾つか有ります
私は現在中国の古い表音表記文字と日本の古代文字とカタカナとの共通点の多い事からそれらの研究をして居ます
大変難しい事ですが、諏訪の黒曜石の日本各地への分布や縄文土器の分布なども一例に考え合わせればもう少し柔軟な観点から見てみては如何でしょうか
当時の人の動きは現代人には非常に理解しにくいですし、遺伝子的な分布からしても、日本の祖先が何故いきなりアフリカ東部から一心不乱に東を目指して日本列島に迄たどり着いたのか?
そしてまた、各地へ分散し、そしてまた戻って来たのか
未だルートも方法もハッキリして居ません
あなたの動画の様に類似点や共通点が存在するだけで北海道の洞窟壁画や縄文土器や文字や言葉から一つ一つ山のような資料を集めても日本の学会では敗戦国教育が未だに存在して居ります
日本に古代文明が有り、其処から世界に広がったりメソポタミア文明人や失われた十支族が舞い戻ったりされると困る国が沢山有るのです
凄く納得出来るコメントで、有難いです。
倭人は3000年前、周が山東半島を支配した時に逃れて来た東夷(弥生人)と縄文人が混血して生まれた民族ですよ…。
殷というか正確には商ですが、商の支配者が遊牧民族出身であって、その人民が中東系とは限らないです。言語学的にも既に殷には漢字の原形が生まれています。
中東から人が来たのなら、その文字や言語を使っているはずです。あと殷というか商から人が日本に逃げて来たのなら、甲骨文字を使っていないのはおかしいですね。
日本に漢字が入ったのは朝鮮から仏典が入って来て、それを読むためにです。弥生時代に漢字はないので、大陸から逃れて来たのは中東系でも漢民族でもないです。
殷の時代の山東半島は東夷と呼ばれていました。周は西から東に進み殷を倒したあと、そのまま山東半島まで支配下に置いています。それがちょうど3000年前。
そして山東半島には不完全ながらも稲作の遺跡があります。黄河は普通、麦作です。交易品として「米」が北中国や日本に伝わることはあっても、稲作という技術が伝わるにはそれを行っている人たちが来ないと伝わりません。稲作の本場は長江流域です。ただ長江文明は次第に廃れていったそうで、山東半島の稲作集団はその長江文明の後継者たちでしょう。実際にこの動画言われている青銅器についてですが、本州で見つかっている銅鐸は長江流域の銅鐸と形が似ており、また日本人は春秋戦国時代の人骨と形質的に似ています。漢民族が中国万部まで開拓を進めたのは漢の時代なので、この頃はまだ長江文明の人々もいたのでしょう。遺伝子的に言語的も、考古学的にも弥生人は中東となんらつながりはありませんし、殷に関しても亀甲占いなど宗教的なつながりはありますが、それだけで殷の人々が日本人の先祖とはなりません。フィリピン人はカトリック教徒が多いですが、彼らはヨーロッパ人ではないのと同じです。
一部の言葉が似ることなど世界中にあります。この動画はただのこじつけ、都市伝説の類を出ませんね。
@@アヌス-d5f
DNAではどうでしょうか
@@アヌス-d5f
コピペですか?
@@アヌス-d5f 専門の人類、歴史、遺伝学者、考古学者でさえ確定できなものが お前の言う事など確定すら出来ない。人の動画に対して「ただのこじ付け」とか「都市伝説」など余計な文句を長文に渡り文句を付けるのなら自分で動画作成して出せばいい。
頭を空っぽにして、単純に文章を解釈したら、『殷元これ倭国なり』って事は、『殷の元は倭国』って事なりそうですが…?;
これだけ日本に人が入ってきているのに、日本から出ていった人がいないのも思考停止ですよね。
特に縄文時代の終わりは氷河期なので、日本からたくさんの人が旅立った可能性があります。
もしかしたら、そうした人々が殷を建国した…という可能性も捨てきれませんね。
普通に読めば「殷は元々倭国だったよ」って感じですよね。解説は何故逆に読めたのやら?根拠として語られてることもこじつけくさいし。
倭人は3000年前、周が山東半島を支配した時に逃れて来た東夷(弥生人)と縄文人が混血して生まれた民族ですよ…。
殷というか正確には商ですが、商の支配者が遊牧民族出身であって、その人民が中東系とは限らないです。言語学的にも既に殷には漢字の原形が生まれています。
中東から人が来たのなら、その文字や言語を使っているはずです。あと殷というか商から人が日本に逃げて来たのなら、甲骨文字を使っていないのはおかしいですね。
日本に漢字が入ったのは朝鮮から仏典が入って来て、それを読むためにです。弥生時代に漢字はないので、大陸から逃れて来たのは中東系でも漢民族でもないです。
殷の時代の山東半島は東夷と呼ばれていました。周は西から東に進み殷を倒したあと、そのまま山東半島まで支配下に置いています。それがちょうど3000年前。
そして山東半島には不完全ながらも稲作の遺跡があります。黄河は普通、麦作です。交易品として「米」が北中国や日本に伝わることはあっても、稲作という技術が伝わるにはそれを行っている人たちが来ないと伝わりません。稲作の本場は長江流域です。ただ長江文明は次第に廃れていったそうで、山東半島の稲作集団はその長江文明の後継者たちでしょう。実際にこの動画言われている青銅器についてですが、本州で見つかっている銅鐸は長江流域の銅鐸と形が似ており、また日本人は春秋戦国時代の人骨と形質的に似ています。漢民族が中国万部まで開拓を進めたのは漢の時代なので、この頃はまだ長江文明の人々もいたのでしょう。遺伝子的に言語的も、考古学的にも弥生人は中東となんらつながりはありませんし、殷に関しても亀甲占いなど宗教的なつながりはありますが、それだけで殷の人々が日本人の先祖とはなりません。フィリピン人はカトリック教徒が多いですが、彼らはヨーロッパ人ではないのと同じです。
一部の言葉が似ることなど世界中にあります。この動画はただのこじつけ、都市伝説の類を出ませんね。
@@アヌス-d5f さん
詳しい説明ありがとうございます。動画を観てちょっと突飛な話だと感じた部分が大分解消されたと思います。
@@アヌス-d5f
日本列島に住んでいた縄文人は、航海技術を持っていたようです。
ですから、九州北部や現在の山口県辺りに住んでいた縄文人は、中国大陸や朝鮮半島に航り、交易を行っていたと言う説もあります。
と言うことは、一部の縄文人は漢字の読み書きを習得していた可能性もあります。
某国への嫌悪は、己が理性的で在ろうとすればする程抱かざるを得ない物だと思います。誰もが最初は友好的に行こうと望むが、如何せんまともな人ほど耐えられないようになります。
全くその通りだ。(笑)
在庫の悪事を経験しあの生物を知れば知るほど憎悪というより日本も巣くう寄生虫を叩き出す勇気に変わります
国連の人権委員会なんぞFY
まあそもそも古代朝鮮の人々は簒奪に次ぐ簒奪によって成立及び滅亡を繰り返しているから現在の朝鮮半島の人達とは別民族と見て言い程だからね、むしろそういう奪い合いの歴史の末にああいう他人の物を盗んで当たり前だと言う民族思想が形成されたと見ていいです。
例えば動画に出ていた濊族の性格は慎み深く素直で欲深いところが少なく恥を知る心があり馬鹿正直で、淡泊で求めることが少なく窃盗をしないため人々は夜でも門戸を閉めないとありますが一時期こそは中国との交易で中国文化も取り入れて発展しますが最終的には滅亡したものと思われますね。
某国の国民が悪いのではなく、その国民を反日にさせた一握りの者たちが悪いのです。それにもかかわらず、日本から某国へ行く人もいれば某国から日本へ来る人も大勢います。実際にその国に行ってみれば考えも変わります。戦後シベリアに抑留された人たちは「ソ連は嫌いだがソ連人は好きだ。」という人が多かったそうです。
結局、漢民族の属国は反日だよ!
世界で最も古い石器や土器が発見されているのは日本の縄文時代で、火山の大噴火で九州地方に住めなくなった縄文人のうち、ある集団は東北へ逃げ、別の集団は大陸に渡り新たな文明を築いた…という話を聞いた事があるのだが、こちらの方が古代の様々な矛盾をスッキリ説明できてるような気がする
それは縄文人の移動だと思う
奈良京都の文化は弥生人の文化であり、稲作や遺伝子のルートの移動の考察だと思う
凄く面白い解釈でした👏🏻
この動画きっかけで他も見たくなりました😊
登録しておきます
縄文時代の遺跡から稲作の水田が見つかっており、中国から持ってくるもっと前になるし
中国の水田の遺跡よりももっと前になりますね。
そもそも「日本側は未開で旧石器のような生活をしていたところに大陸の進んだ文明をもたらした。」
って事が前提であって、そうなると日本語がもっと違っていたでしょうね。
日本の人々がしっかりした言葉があり多数の安定した生活もあったとするならば、
逃げてきた少数の部族のほうが日本に合わせて溶け込んだ。のほうが自然ですよね。
まあトンデモ説の歴史にしても、所々つじつま合わせの無理なほころびが出ているように取れます。
ただ魏志倭人伝の解釈、「水行」やそのほかの考察はよかった。
現在のゲノム解析では移動してきた民族の方が多数だと思うけど。
例えば、人がほとんど住んでなかった、埼玉県日高市あたりに、高句麗棄民 千数百人が移住したり、やはり無人の地に近かった東京都狛江市(高麗江)近辺への移住とか、杉並区の先住が、秦氏だったり、かなり渡来系弥生人が関わっていると思います。
そういえば武田鉄矢さんが三枚おろしで自分の考察(浪漫)として「殷(商)のシンボルは鳥だから同じ鳥をシンボルとしている日本との関わりが深く国を失った殷(商)の人達は中国各地で商いをしながら渡り歩き日本へと渡ってきたのでは無いか」と考察されてましたね
鳥居の話とか八咫烏の話をされていましたね⛩🦅
@@ハヤシケイ
それですそれです!あと白川文字学で口はサイと読み神への祈りを込める為の祭具を模した文字であったと語られていた内容も今回の動画で出てきた青銅器と関わりがあるのではと感じさせられました。
鳥、四角い青銅器(祭具?)となれば契約の箱ともリンクして来ますしね。
@@ハヤシケイ 商という字の構成から鳥居の形状なり、八咫烏なり察しますね😀
倭人は3000年前、周が山東半島を支配した時に逃れて来た東夷(弥生人)と縄文人が混血して生まれた民族ですよ…。
殷というか正確には商ですが、商の支配者が遊牧民族出身であって、その人民が中東系とは限らないです。言語学的にも既に殷には漢字の原形が生まれています。
中東から人が来たのなら、その文字や言語を使っているはずです。あと殷というか商から人が日本に逃げて来たのなら、甲骨文字を使っていないのはおかしいですね。
日本に漢字が入ったのは朝鮮から仏典が入って来て、それを読むためにです。弥生時代に漢字はないので、大陸から逃れて来たのは中東系でも漢民族でもないです。
殷の時代の山東半島は東夷と呼ばれていました。周は西から東に進み殷を倒したあと、そのまま山東半島まで支配下に置いています。それがちょうど3000年前。
そして山東半島には不完全ながらも稲作の遺跡があります。黄河は普通、麦作です。交易品として「米」が北中国や日本に伝わることはあっても、稲作という技術が伝わるにはそれを行っている人たちが来ないと伝わりません。稲作の本場は長江流域です。ただ長江文明は次第に廃れていったそうで、山東半島の稲作集団はその長江文明の後継者たちでしょう。実際にこの動画言われている青銅器についてですが、本州で見つかっている銅鐸は長江流域の銅鐸と形が似ており、また日本人は春秋戦国時代の人骨と形質的に似ています。漢民族が中国万部まで開拓を進めたのは漢の時代なので、この頃はまだ長江文明の人々もいたのでしょう。遺伝子的に言語的も、考古学的にも弥生人は中東となんらつながりはありませんし、殷に関しても亀甲占いなど宗教的なつながりはありますが、それだけで殷の人々が日本人の先祖とはなりません。フィリピン人はカトリック教徒が多いですが、彼らはヨーロッパ人ではないのと同じです。
一部の言葉が似ることなど世界中にあります。この動画はただのこじつけ、都市伝説の類を出ませんね。
YAP遺伝子の伝説だよね?
日本語には音読みと訓読みがあり、
古代の歌や童謡がイスラエル語に変換されると!
パヨクが嫌う国歌の君が代の変換も面白いと思うよ!(笑)
契丹古伝(1905年発見)では、時代は違えど古代殷と契丹(古代遼)は兄弟国で先祖の国は倭である。又、漢字の元は殷字、殷字の元は天字、天字即ち倭の「神代文字」とあるそうですが・・・・。
稲作は縄文時代から行われていたこと、中国南部の長江流域(長江文明)とのつながりが深いと言うのが昨今の新説では?
ですよね
ーー【物作り日本③ 『釣り針』 ・原点を忘れずに・世界最古の釣り針】
ーー 23000年前「釣り針」・沖縄南城市のサキタリ洞遺跡「釣り針」
・・貝殻を切り削り・・全国から出土。
魏志倭人伝は中国人が日本を訪れ見聞したのを記録したものではなく、中国に漢字を学びに来た日本人が自国の様子を中国人に伝えたもの。だからこそ「倭人からの伝聞:倭人伝」
それに「邪馬台国」は魏志倭人伝以降には書かれた「後漢書」「宗書」での漢字で、魏志倭人伝での漢字は「邪馬豊国」すなわち発音は「ヤマトコク」
「豆」に部首を付けた漢字の発音は自ずと「ト」です。「豆腐」の「ト」
卑弥呼の時代と4世紀以降の日本って全く別の国に感じる。わずか150年の間に激変する事があったと考える方が、普通ですね。
戦前の教科書に卑弥呼は出て来ないらしい。未だ遺跡も出て来ないし。かなり大きなお墓の筈!
面白かった!
初めて見たのですが、わかりやすくまとめられていて良かったです!
初めから見てみようと思います!
殷をボロボロにした白面金毛九尾の狐こと妲妃が日本に来て玉藻の前になった伝説といい。なるほど、日本に殷の人達が避難して来たというのはわかる気がする。
もしこの説のようなことなら
もっと古墳時代の出土物に文字の痕跡が
残るはずだと思うのだが…
しっかりした資料と、説得力のある説で、とても勉強になりました。
私は「殷元これ倭国なり」は、殷の元は倭国だったという意味に感じています。
約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火で避難した縄文人が世界に拡散し、シュメールを建国した後に殷となり、帰縄文人として日本に戻った説だと腑に落ちるのですが、いかがでしょうか。
DNAのこと、遺跡の類似性、等々分野が異なる事柄を合わせて判断していかなければいけないので、各分野の専門家が一堂に会してディスカッションしてもらいたいと思いました。
縄文人は日本の先住民で、中東から渡って来たセム人の可能性がありますが、日本に最初に来たのは4万年位昔と考えられます。つまり、ユダヤ教が成立するより古い可能性が
あります。殷は3600年前に発足し、3000年前前に滅ぼされたということなので、三内丸山遺跡と比べてずっと新しい国です。縄文人がセム人の祖先だとすれば日本迄来た
縄文人が中東に国を作ったと考える方が妥当だと思います。また、縄文人が日本に来た時代は前回の小氷期で、かなり寒かったので、ユーラシア大陸を移動することは無理が
あり、縄文人がアフリカから日本に来たとすればインド洋を航行し、大陸になっていたインドネシアを横断してフィリピン方面から海流に乗って琉球列島を経て日本に広がった
と想像します。
よしさんの説はガッツリ間違えてます。
1点氣になった所があるのですが、
もし渡来してきたのが中東、殷から来たのだとすると
なぜこんなにも違う言語なのか?って思います。
私が支配者層なら元々の自国の言語を採用するんじゃないかな?っと思ってしまいました。
またこの辺を折り込んでの考察もして頂けたらとまた楽しみにしています😁!
言葉って逆輸入も多いでしょ
@@永田誠至 倭人は3000年前、周が山東半島を支配した時に逃れて来た東夷(弥生人)と縄文人が混血して生まれた民族ですよ…。
殷というか正確には商ですが、商の支配者が遊牧民族出身であって、その人民が中東系とは限らないです。言語学的にも既に殷には漢字の原形が生まれています。
中東から人が来たのなら、その文字や言語を使っているはずです。あと殷というか商から人が日本に逃げて来たのなら、甲骨文字を使っていないのはおかしいですね。
日本に漢字が入ったのは朝鮮から仏典が入って来て、それを読むためにです。弥生時代に漢字はないので、大陸から逃れて来たのは中東系でも漢民族でもないです。
殷の時代の山東半島は東夷と呼ばれていました。周は西から東に進み殷を倒したあと、そのまま山東半島まで支配下に置いています。それがちょうど3000年前。
そして山東半島には不完全ながらも稲作の遺跡があります。黄河は普通、麦作です。交易品として「米」が北中国や日本に伝わることはあっても、稲作という技術が伝わるにはそれを行っている人たちが来ないと伝わりません。稲作の本場は長江流域です。ただ長江文明は次第に廃れていったそうで、山東半島の稲作集団はその長江文明の後継者たちでしょう。実際にこの動画言われている青銅器についてですが、本州で見つかっている銅鐸は長江流域の銅鐸と形が似ており、また日本人は春秋戦国時代の人骨と形質的に似ています。漢民族が中国万部まで開拓を進めたのは漢の時代なので、この頃はまだ長江文明の人々もいたのでしょう。遺伝子的に言語的も、考古学的にも弥生人は中東となんらつながりはありませんし、殷に関しても亀甲占いなど宗教的なつながりはありますが、それだけで殷の人々が日本人の先祖とはなりません。フィリピン人はカトリック教徒が多いですが、彼らはヨーロッパ人ではないのと同じです。
一部の言葉が似ることなど世界中にあります。この動画はただのこじつけ、都市伝説の類を出ませんね。
言語の変化はいろいろの原因ある、
そもそも今の中国語と千年前の中国語の発音は完全に違う、
だから今の漢語(北京語)で昔の詩や古文を読むの時、
発音は妙に違うの点はある
むしろ客家語や福建語の発音は、
むかしの中国にちょっと残すの感じ
これも文化の変化かも
面白い事に漢王朝の言語の発音は今の中国の言語の発音より日本語の漢読みの方が発音が近かったのではと言う説もありますね、他にも呉音と呼ばれる物も存在しますし、戦国時代に渡って来たオランダ語源の物も存在しています、勿論日本古来から話されていたとされる訓読みも存在している訳で、それが何を指していたかと言うと古代から諸外国と対等な関係の交流があった事の示唆ではないでしょうか?
@@アヌス-d5f 韓国から入って来たのは何という仏典でしょうか?
魏志倭人伝の記述の「韓国」の部分に触れないのは何故?
その頃「高句麗」「新羅」「百済」「伽耶」の時代で半島を韓なんて呼んで無いよね❓❓😅
殷の北❓辺りに韓という国あった気がしたけど
半島は違うんじゃ無いでしょうか❓
勉強しなさい、普通わかる事だけど
殷はその位置からして、小麦を作る畑作文明だったのではないでしゃうか?
それに対して、北部九州に起こった王権は、水稲耕作だったのでは無いかと思います。そこがどうしても引っかかるのですが。
非常に興味深いお話を、ありがとうございます。
質問をさせていただきたいと思います。
①そもそも、古代イラン高原にいたとされる「カラス民族」が、何故に住み慣れた故郷を離れて、山岳、砂漠を推し渡って東アジアまで移動したのでしょう? その理由と原因となった歴史的事件とは何でしょうか? おそらくは神話や旧約聖書に残るような大事件だったと思われますが。
②半島北部にいたとされる濊族ですが、他所の動画で、満州地方での抗争に敗れた半牧半農の部族集団が半島北部の逃れたものというお話を視聴したことがあります。その敗残の部族集団を貶める意味で「濊」の蔑称で呼んだと聞いています。
このお話との整合性はいかがでしょうか?
③また、倭人が濊族と同じような言語を話していた、とされる文献は具体的にはどのような史書でしょうか?
④他の方もコメントをされているように、瀬戸内海ルートの航路開拓は早くとも4世紀あたりだと思われます。むしろ、北九州~出雲・隠岐~丹後・若狭の対馬海流を利用した日本海ルートの方がより合理的と思われますが、この点はいかがでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
「UA-cam」はマインドコントロールのあくまでも「娯楽」です。
日本と同じ系統は他にはみられないんだけど。
他のYAPの系統は6〜7万年前に分離されているので説明つかないのではないかと思います。
水行の解釈は2〜3世紀の漢字辞典で水辺を行くことだと乗っているので川辺の移動ですよね。
UA-cam上にガチの言語学者が居るこのご時世に推測で漢字の意味を連想していくのあまりにも不確かすぎません?
殷など黄河流域は稲作文化はありません。まったく間違い。
文字通りですね😂
日本人が自ら「倭」とは名乗らないと思うので、倭って漢字は中国側が卑下している漢字ですよね?日本人からすると、ワ、と言われたら、「私、我、吾、自分の事」だと思います😮
流石に強引すぎる感じがしますね
案外日本の方では無いのかも知れませんね
魏志倭人伝は三国志の一部だから三国志の文法を1番参考にしないといけないよなぁ
邪馬台国がわからなくとも、三国志時代の地名や出来事から、意味を解釈していくのが本来の正攻法なのか
日本列島の各地には、岩に刻まれたペドログリフと言う古代文字がありますが、年代測定において世界最古の文字であろうと言われています。古代文明の流れから、ムー文明(又は、レムリア文明)が約15000年前に滅びて、ムー大陸から逃れて来たのが縄文人だと言われています。
そこで花開いた縄文文明が。竹内文書にあるように、世界に展開され、シュメール文明となり、失われた十氏族の一部が、日本国に舞い戻ってきて再建国されたのが、大和政権ではないでしょうか?夢は広がりますね。
「水行」に渡海を含まないならば、決して九州には辿り着けない。
ということで、出だしから、意味不明なストーリー。
当時魏の時代背景を考えると敵国呉の背後となる九州以南の場所で同盟を成功させると交渉者の手柄がより上がることから倭国の位置をうやむやにして鯖読んだと私は思います。
説は色々あっても不思議ではないですが、稲作が大陸から伝わったと言う説は今は崩れているはずですが…。
既に日本では縄文時代から稲作ががあったとされており、また当時は揚子江よりも南側しか稲作ができなかっただろうと言われていたと思いますが、いかがなものでしょうか?
稲作も遺伝子解析できるのでないか?
縄文人が、西へ行き、ただ帰って来た話し。
このストーリーには縄文時代に起きた鬼界島大噴火による縄文人の世界への拡散の可能性とそれに基づく縄文文明の伝搬の結果との矛盾があります。殷元これ倭国なりとはその縄文人が起こした国だったという可能性はないのでしょうか。つまり、倭人が外から入って来たのではなく、倭人が外に出て行って文明を作っていったというストーリーです。縄文人が世界に先駆け12万年前から日本列島で文明を育ていたという史実を重く受け止める必要があります。
時代の流れが少し無理。噴火と共に移動・一部殷に残った。
鉄器はインド系から・帰り道(一部)
素晴らしい考察!アトランテス沈没で一部の神聖な地である日本には、5000のピラミッドもあり、100の王国が存在していたようです。富士王朝は有名ですが、諏訪王朝は色々な物語があるようです。どうも中東(世界)と日本(世界の雛形)はタイムライムがあっても同時に歴史が進行してきたように思います。ミトラ教から今日の弥勒浄土の流れが証明しています。陰陽の関係の深淵な神聖な創造物語では!Ray
殷=倭国の系譜が中臣氏であり、藤原不比等が記紀の実質編纂者であったと認識しています 倭国から日本へと国号が変わったのは白村江(663年)の戦いから進駐してきた唐の則天武后によってであり、高宗が初めて称した天皇を日本の統一的君主として定めたのでしょう この7世紀以前の倭国の大王も全て「〜天皇」としてしまった皇国史観によって日本の古代史が複雑化してしまったわけです。
何にしても宮内庁が古墳の発掘認めない事には物証がついていかない
なるほど、そう言う見方もありますね。
であるからこそ、争いのない世の中であってほしいです。客観的な立場での意見参考になりました。
ありがとうございましす。😊
面白いですね。ただ箕子の発音キシは、現代日本語です。箕子は現代中国語の発音だとqizi、チーズとなります。古代中国語の発音はもっと違うのではないでしょうか?
清朝以降「K」の音が「チ」や「ジ」に代わってます。「ペキン」→「ベィジン」が
良い例ですね。満洲族が発音出来なかったためです。
発音が現代と違う と云うのは、考慮すべき重要な要素だと思います。
日本に残る音読みがその時代の読みに一番近く むしろ大陸には残っていませんよね
動画面白かったです。コメント欄も皆様色々と考察があって読みごたえがありますね。
ギリシャ神話と日本神話は勉強しました。
韓国って戦後の単語かと思いますが、…
ん…
確か三国時代の朝鮮半島は『韓』っていう地域名(当時でいう国)だよ。
馬韓とか辰韓とかって。
だから、魏志倭人伝に韓国って書かれてもおかしくない。
日本でも昔『武蔵の国』とかあったじゃない?
韓国の韓すら使われてなかったと思うよ
中国の古典『後漢書』に三韓という言葉があるので使われてたと思いますが…
今調べました、紀元前2世紀末から存在するのですね
浅はかな知識で申し訳ありませんでした。。
中国本土にも韓という国はあったよ
大変興味ある内容です。DNAの解析から民族移動を説明を受けると説得力があります。
また殷王朝滅亡と北部九州の文明開始時期の整合性も良い視点と思います。
一方で稲作伝搬については、もう少し説明が欲しいです。当時の殷王朝のあった場所では水稲栽培は不向きです。
水稲栽培されていた、と推測できる情報があると、素直に受け入れて安いです。
なお、陸稲はあったと思います。
倭=吳。同樣的發音。日本主體民族彌生人來自長江流域古吳越地區。吳越地區一些族群的方言和現在的日語都很接近。
日本是多次大陸移民後形成的,並不僅僅只是一次移民。每當大陸發生大規模戰爭,迫害。人們為了躲避戰亂,就往四面八方遷移。
而日本列島是沿海族群最佳的移民地。
中國大陸太多戰亂,太多暴政……到現在,依舊是如此。無數的大陸人移居,歸化日本。從古至今,一直沒變。人們厭惡暴政。
今も前もいつも大事なのは、だれがその恣意的な解釈をどんな背景でいれたのか?をしっかりしないからいつも適当な解釈を入れられて変わってしまう…と感じます。現在進行形ですけどね。歴史ぐらいはわかってほしい物ですね。
濊族の倭国起源説は違うと思います。魏書東夷傳の中に濊と句麗は同種、同族だとあります。それに、濊族を防ぐ為に発展した街がソウルとピョンヤンです。儒教思想と程遠い濊族が倭国と関係あるとは思えません。
儒教の孔子が憧れた殷の文化と日本は繋がると思う
逆に対立するのは漢民族や漢文化だろうね?
それが孔子の嘆きだと思うよ!
青銅器の出土履歴が気になって、他が入ってこない。装飾の違いや使用方法も知りたい。何故、青銅器が財産となり得たのかについても、何かチャンピオンベルト的な意味や、音色や、銅剣や銅鋤鍬などに加工する前の備蓄的な意味があったのか?鏡は自分を俯瞰して見れる方法が無い時代に衝撃とレジャーを与えて宗教に活用された事は考えられるけれど。銅矛、銅鐸、鉾?矛?
縄文時代に東北、関東に人が住んでいなかったような内容で、びっくりです。
違う違うもう住んでる前提で話をしてるのよ。この動画は日本列島から旅立った人たちがどうやってまた日本に戻ってきたって話ですよー。
現在のウクライナの状況とも重なりますが、侵攻してくる敵に対して、脱出は大変だったんだろうなと考えてしまいます。色々なルートを経由して安全な東の島国を目指したんでしょうね。
良いですねえ!バリ
弥生時代の集落にみられる初期の鳥居には門の上に鳥の置物が載ってる作りになっていて、それがカラスだというのが有力らしいね。
破滅的カルデラ噴火で縄文人が世界に広ろがりその後帰国するという解釈もあったらと思います。
古事記の国生みの順序と沼島の位置が徳島と淡路に近いことを解決して欲しい。
この動画では、邪馬台国のあった場所や大和王権の移動を主に仮説として動画を作って頂き、かなり納得し同意見の部分もたくさんありました!
日本に元々いた縄文人についてはどう思いますか?私は技術こそ高度では無いにしろ、安定した社会を形成していたように思えます。
九州にいた…と、チラッとありましたが全く技術や未開のような存在として捉えていますか?
東北辺りでは1万2000年前から住んでいたとされ集落跡、土器や埴輪が発掘されています。
日本海側では翡翠の貿易もあったとされ、渡来人だけで日本を作っていったとは思えません。
争いが無く、航海術にも長けていたと言われる縄文人も、紀伊半島にもいたと思います。
神武東征で、悲劇の女王と言われる
名草戸畔の話しも聞いたことがあります。
やはり安定した社会やそこに元々住む人々の知恵が合わせて形成されていったのかなと思います。
殷が滅んでその人々が日本にやってきて稲作を伝えた。面白いと思うけど、稲作以外の考古学的共通点が欲しい所。
古代エラムなどにいた人々のDNAと古代日本人のそれの共通性を証明できますか?
弥生時代以降は中国大陸(中国四川辺り)の人々のDNAが確認できているようですが、それ以前は確認できておらず、港川人等元々日本にいた人々や東南アジア、バイカル湖当たりの人々のDNAが確認できるようです。
又、米作なら殷があったエリアからの流れではなく、今の華南エリアからになるはずで、当時の華南エリアは殷とは関係なく、朝鮮半島経由もあり得ない。
更に、メソポタミア地方から陸路で殷と繋がるとなると、ヒマラヤ山脈や天山山脈があり、移動は非常に困難で、経由地であるインドなどの人々や文化も考慮されていないことになります。インド洋経由の海運なら可能性はあるでしょうが、そうなると、殷(中原エリア)経由は考えにくい。
古代から中国は内乱続きで、中国から逃れた人々の一部が日本に流れ着いたこともあったでしょうし、当時の中文を正確に読み取り、当時の日本語の音も併せて考えるのは正しい視点ですが、それ以外はかなり無理のある説だと考えます。
交易など人伝えでも言葉の伝播は可能ですが、違うエリアに大きな影響を与えうるような人数・民族自体が移動することは容易ではありません。
ロマンあるな〜😊
忌部=殷部❓
😅
このルート逆だと思う古代日本人が日本にピラミッドを製作して文明を広げたのだと思うね。
すばらしい分析だと思います。根拠はともかく、邪馬台国は九州北部派、吉野ヶ里あたりにあったのではないかと勝手に想像しています。
注意して読み取ってください。「倭国、これ元殷国なり!」ではないのです。殷人は揚子江沿いに住み着いたエジプト発ヘブライ人の一部族です。高床氏住居と稲栽培を特徴とする彼らは「倭人」と呼ばれました。殷人は揚子江沿いの武漢辺りから北上して鄭州に定住した人々です。伝承でもし「倭国」という表現が使われたならば、それにふさわしい国は四川の古蜀が該当します。夏族の流れをくむ遊牧民からは、殷人は倭人の一派と見られていたのでしょう! なお、日本の「倭人」は、雲南省方面から渡来したカナン発ヘブライ人が主体となっています。さらに、「天孫族」はまた別のグループとなります。
アカホヤの大噴火で日本から大陸に人や文化が渡ったという説もありますよね。
であれば、殷が倭人によるものというのにも繋がりますね。
非常に興味深い内容です。みごとに古代の歴史を解き明かしていて感銘を受けました。
異論が一つあります。
邪馬台国は、阿波だと思います。
水行が安全で、北部九州から近畿に移動する貴殿の意見とも合致します。
魏志倭人伝で「(投馬国から)南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王が都を置く所である。水行十日、陸行一月である。」の南は、四国の南をぐるっと回ると到達できるという解釈をすると、ヤマトの台国、山のふもとにつきます。
出真珠青玉 其山有丹と丹がでるのも当時、阿波だけだと言われています。
ならば海はどんな文字で表したのですか?
文字を単文字で解釈するのでしたら魏志倭人伝の卑弥呼の文字の意味についても解説をお願いします。
こういう見方もあるんだなぁと思いながら見れてとても面白い!古代史はロマンがたくさんですねぇ〜
邪馬台国は福岡でも近畿でもないと言うことが確認できました笑笑
ひょっとしたら、タイムリー??
浅学
日本には都を一か所で発展させ続ける一点集中型ではなく、
『遷都』という文化があり、これは都を移すことで、たとえ未開の田舎であろうが大きな発展を遂げることができ、
日本全体をより豊かにするために行っていたことです。
ですので、邪馬台国と倭国が当時の日本に存在していて争っていたのではなく、
現在に例えるならそれは、元都の京都と現在の都の東京が存在していたというだけで争ってはいないのです。
なので状況としては元都である奈良は、当時の都の福岡よりも発展していても全く不思議でも何でもなく、
さらに昔の大都市であった出雲にも、都と同レベルの発展した大都市であったと考えるのが自然です。
さらに言うなら邪馬台国は当時の中国人が日本人の発音をまねた音で当て字を加えただけであり、日本の文献にその名がないのは当然であります。
日本での文字を当てると『ヤマト大国』の『日(靈)の巫女』が邪馬台国の卑弥呼になります。
ですので当然渡来人などではなく、初代神武天皇から第7代孝霊天皇の血の流れる由緒正しい存在こそが、
長年皆さんが探し続けてきた、ヤマト大国の日の巫女であらせられるということです
その「越系図」の私のコメントで、なるべく補足はしている。最近のサイトや「UA-cam」は天皇や藤原氏が「越系図を含め」系図の提出を「ヤマト朝廷が求めていた」ことも「歴史学者の世界」だから、一般人は知らない。うち(家)のように海賊(倭人)は嶋津のように琉球に行くから薩摩は許す(家康は面倒)や、瀬戸内海の越系図系の海賊も、藤原氏に系図を書き換えられてまでなら、船で移動する。よって日本系図で「海賊系図」だけが、極めて「天雨子孫族」と分けて、「勉強」はできる。結局、やたがらすでも、徳島県の忌部氏もみんな「天雨子孫族」になるから(天皇族は有利)、系図が「書き換えられて」、逆にさっぱりわからない。「わからないから、学者やインディジョーンズ」を「UA-camネタ」や「面白都市伝説」になるのだが。あまり教育に都市伝説でやり過ぎも、いかがなものか。
縄文時代は、弥生人によって破壊されて消えていったのでしょうか?
おもろかった
私のコメントは、このサイトの趣旨に反するカモ🦆しれないが、最近の報道から、強く‼️強く‼️感じました。それは‼️自己の思想・心理から始まる、基本的な考え方について、疑問❓に感じ事になったからである。
【その基本の❓自己の宗教思想心+政治思想心】を、時代とともに、変化する事と思うからである🫣🚄🚅
色んな考えがあって良いですが、はたして?ですね。
トンデモかも知れませんか飛鳥三神氏の『逆転の日本列島』からの魏志倭人伝解釈もワクワクします
中国から韓国へわざわざ危険な船で行かずとも歩いて行けると思う。
「殷元これ倭国」って、殷は元々倭国から来た人が作ったという意味では?
そして殷滅亡で、逃げ帰ったと、そういう風に思いました。
面白い考察で勉強になります。
ただ瀬戸内海が開削されたのが5世紀後半なのに対し、日本海側の航路は1世紀頃から存在していたようなので、順番としては、出雲や丹後王国が繁栄した後、6世紀以降近畿方面で大和政権の勢力が拡大したのではと思われます。
私も同感です。渡来人は、対馬海流に乗って日本海側から、畿内に入り大和朝廷を建国したのだとおもいます。