@ikka kun ありがとうございます。 581系の青のラインが入ったデザインは、私の一番のお気に入りでした。子供時代、親に買ってもらった鉄道の本で、581系を何度も何度も眺めていたのを覚えています。 当時は簡易リクライニングでも、大変貴重なものでしたね。仰る通り、新しいものと従来のものとが混在する、とても面白い時代でしたね。
@S A コメントとご視聴ありがとうございます。 お褒めの言葉も頂き、大変嬉しいです。ありがとうございます。 現在の山陰本線は、各地方ごとの短距離運転が主体となり、完全に分断されてしまっていますね。約2時間に1本普通列車が走るようなローカル線になってしまったのがさみしいなと思います。当時は山陰本線に限らず、在来線が元気で活気がありましたね。
夜行の普通列車は、荷物列車に旅客の客車を連結させて、「ついで」に旅客も運ぶ、そんな荷物列車がメインの時代だったと思います。多くの急行列車にも荷物車が連結されてましたよね。駅員も、深夜でも忙しかったんじゃないでしょうか。
ご視聴とコメントありがとうございます。
鉄道が荷物輸送の役割の主体であったことがわかりますね。自動改札機もない時代ですし、24時間忙しそうですね。経費がかさんでいたことも納得ですね。
下関から益田までの間で、山陰本線、山口線、美祢線経由の3ルートの準急があったことには驚きました。
この頃はそのような需要があったのですね。
ご視聴とコメントありがとうございます。
実際の利用状況をしる資料がないのが残念ですが、運転経路を複雑にしながら、さまざまな移動需要に応えられるようにしていたことに、当時の国鉄の時刻表作成担当者の工夫がうかがえますね。
1964年のダイヤ改正で山陽本線は下関まで電化が進み、それまで優等列車の牽引機だったSLが引退した年ですね、普通列車もまだ電車ではなく客車が多かった記憶がある、大阪や岡山や広島行きも客車列車でした。私的には電車より客車が好きなので、何らかの形で復活運転して欲しいですね。
ご視聴とコメントありがとうございます。
客車はすごく良いですよね。モーター音もエンジン音もなく、ただジョイント音が聞こえてくるのはとても良かったです。臨時列車としてのSLも引退していき、客車に乗れる場所がどんどん減ってしまっているのがさみしいです。
今から15年くらい前に下関12時発岡山行きの普通(広島近辺は快速)に乗りました。所要時間は約6時間40分でした。
4:10 1964年のダイヤですと、11時50分に当たりますね。当時だと10時間40分ですので、15年前とはいえ、4時間も短縮されたのですね。
うわっ!
早速、作製して頂き感動しました!
ありがとうございます!
1970年代から夜間は寝台特急銀座になりましたね
昼行は485系と581系の運用が増えました
あさかぜ、富士、さくら、みずほ・・・
金星、彗星、あかつき、月光(←戦闘機名前)なは、高千穂、阿蘇・・・
山陰方面は、まつかぜ、さんべなどなど
まだまだ戦後の余韻が残る優等列車群に思えます
お時間がございましたら、よろしくお願い致します!
@ikka kun
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
喜んでいただけて大変嬉しいです。ありがとうございます。
以前にリクエストをいただいた際に時刻表を読んでみると、山陽本線と山陰本線に向かっていくそれぞれの列車が一度に見ることができる面白い駅であったため見入ってしまいました。
1970年代に入ると、日中は普通列車ばかりになってしまいましたが、夜間の夜行列車の多さは圧巻で、新幹線開業前の東海道本線を思い出すような位の豪華さですね。
ありがたいことに、リクエストをいただく事が増えておりますので、すぐの対応はできないかと思いますが、この面白さをお伝えできるような動画を作成させていただきます。
リクエストありがとうございました。
ご返信ありがとうございます♪
全線電化後の山陽新幹線開業前がこちらのルートの全盛期だったと感じます
581系は昼夜運行可能な電車として類を見ない名車だったと思います
昭和48年だったと記憶してますが10系客車編成の急行阿蘇号が14系客車に変わっており、乗車した時には簡易リクライニングシートに感動を覚えました
古きよき時代と近代化が交差する時代であったと個人的に強く感じております
@ikka kun
ありがとうございます。
581系の青のラインが入ったデザインは、私の一番のお気に入りでした。子供時代、親に買ってもらった鉄道の本で、581系を何度も何度も眺めていたのを覚えています。
当時は簡易リクライニングでも、大変貴重なものでしたね。仰る通り、新しいものと従来のものとが混在する、とても面白い時代でしたね。
いつもありがとうございます
古びた10系寝台に見慣れてましたが、14系の座席車に代わった急行阿蘇を見て、小学校4年生の私が大変興奮したことを鮮明に覚えています
大牟田から北九州まで乗車してました
特に新車の状態でしたので強い印象に残ってます
一般人が乗れる客車列車が復活・・・
しないですよね(笑)
九州の様々な駅を考えたところ小倉駅下りが面白いかなと思いました
早朝は関西・関東からの寝台
それ以降は山陽・山陰筋からの優等列車
特に特急まつかぜなど現在では廃止になりましたので、人口515万人の福岡から観光地・萩への調節的なアクセスが無くなり山陰方面への観光客減少の影響が強いと見ています
民間会社へ変わったことでの「影」だと思います
そして小倉でスイッチバックする博多から東九州への優等列車
深夜は鹿児島本線の急行かいもん
普通列車のながさき号
日豊本線の急行日南号などなど
バラエティーに富んでたことを思い出します
このときにはまだ山陰本線は小郡(現在の新山口駅)と広島間は電化直前で超大型機のC62型やD52型蒸気機関車が最後の活躍をしていた。
名古屋すまいですが、急行「さつま」に乗り名古屋を目指しても、13時間15分もかかったんですね。始発は西鹿児島駅だと、九州線内は夜行運転していた。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在は新幹線を乗り継げば約5時間ですから、かなり短縮されましたね。ですが、在来線の夜行でのんびり向かうのも旅情があってよいですね。
8時59,分発京都行きは後に夜行列車山陰になる列車です。ヨンナナサンダイヤ改正で京都出雲市間に短縮されています。寝台車は確かヨンサントウダイヤ改正から連結されるようになった。ただし京都出雲市間だけでした。
下関と言えば関門トンネル
九州行きの寝台列車が青い直流電気機関車(EF58→EF65→EF66)からシルバーの交直流電気機関車(EF30→EF81-300)の切り替えが名物となった
昭和の鉄道ファンは堪らない光景です
@政弘樹
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
私も例外ではなく、シルバーの電気機関車は子供時代の私にとって大変憧れの存在でした。連結や切り離しは鉄道好きにはたまらないシーンですね。
自分なんか幼少のころ、電気機関車は銀色が当たり前、
時々、赤いのが見れてラッキーと思っていたあのころ
8時59分発の列車は後に出雲市始発になり山陰のご先祖様です。
23時38分発米子行きは一年後に急行しまねに格上げされました。
かもめで( 筑豊本線経由)修学旅行に行きました❗直方から
京都 懐かしいです。因みに
帰りは 大阪から乗りました。
幼少の頃は新大阪→直方 ( 天草51号)
10時43分の小郡行きの普通列車は凄く回り道ですね。下関→小郡→益田→長門市→厚狭→小郡と循環したのでしょうか?
夜行列車が多かったのは荷物だけでなく新聞もあったからかと思います。
当時は全国紙の新聞の印刷は大都市でしか行っておらず、相当数の新聞が大都市の駅から積まれていました。
印刷する時間が早いとプロ野球の結果が試合終了まで掲載されなかったのもありました。昭和50年代でも当たり前でしたが、それでもワクワクして結果を待ったものです。
今のように世界の情報が瞬時に分かるのは良いこともありますが、わくわく感は薄れました。
@TSUYO S
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
実は循環ではなく、山陽本線→美称線→山陰本線→山口線という経路でした。
それぞれの時刻はこのようになっていました。
下関(10時43分)→厚狭(11時27分)→長門市(12時56分)→石見益田(15時10分)→小郡(18時20分)
なんとも国鉄らしい運転経路だなと思います。
それはそれで驚きの経路ですね。
新聞は、朝日、読売は小倉で印刷、毎日が門司で印刷されていた時代です
この時代の乗り鉄はある意味猛者だな
ご視聴とコメントありがとうございます。
長距離鈍行とバリエーション豊かな優等列車。列車のバリエーションだけで言えば現在とは比較にならないですよね。乗りつぶすのも大変そうです。
当時は新幹線は無く飛行機も一般的な乗り物では無いため目的地までの移動時間がとてつもない。そんななか日本全国を旅した内田百閒先生宮脇俊三先生は偉大です。
始発と二番列車からめっちゃロングランなんだ
上井駅って今の倉吉駅の事ですね。当時はまだ倉吉線もあったし。
@宮脇真樹 国内旅行は今のままがいいです。僕は1番と思っています。
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り上井駅は現在の倉吉駅です。倉吉線は1985年に廃止となってしまいましたね。1964年9月では、倉吉線、上井駅発の列車は1日12本(土曜日は13本)しかありませんでした。
こんばんは✨京都着5時30分って早朝ですよね⁉️とにかくロングランばかりですね‼️
@松尾 義英
こんばんは。
ご視聴とコメントありがとうございます。
ご質問の列車は下関駅8時59分発の山陰本線経由の京都ゆきですね。その通りです。翌日早朝の5時30分に京都駅に到着していました。深夜を除き、ほとんどすべての駅に停車しながら、終点の京都駅を目指していました。寝台車も食堂車も連結されていないため、大変な列車旅だったでしょうね。
山口・山陰・美祢線経由の普通小郡行きって、小郡・益田・長門市・厚狭・小郡とぐるっと一周していたってことですか?
@でぶちん
ご視聴とコメントありがとうございます。
表記の順番に誤りがありますね、申し訳ありません。
美称・山陰・山口線経由が正しい順番です。
経由する主な駅と時刻について記載致します。
下関(10時43分)→厚狭(11時27分)→長門市(12時56分)→石見益田(15時10分)→小郡(18時20分)
この経路もなかなか面白くてインパクトがありますね。
準急しんじはどれだけ複雑怪奇な経路なんだ( *´艸`)今では想像できない。でも乗ってみたい✨
ご視聴とコメントありがとうございます。
経路も複雑ながら、様々な列車との併結切り離しは乗車していても飽きないでしょうね。乗ってみたかったです。
このしんじはヨンナナサンダイヤ改正まで残っていました。宇野発小郡行きです。
急行はやともは当時不定期列車でありその後ヨンマルトウダイヤ改正で475系電車で名古屋と博多を結んでいたが、ヨンサントウダイヤ改正ではこの列車は玄海に改称されはやともは広島と博多を結ぶ列車になりゴウマルサンダイヤ改正で廃止になった。何度も言いますが愛称と経路が変わっているので愛称だけでは解りにくい。
1964年度版は到着時刻があって、その列車がどれくらいの時間を掛けて走るのかが分かって、見ていて楽しいけれど、1976年度版は到着時刻が無くて興味がなく一本もまともに見ていません
改訂版が出るのを期待しています
@のぞみは西へ
ご視聴とコメントありがとうございます。
また、1964年度版を中心にご視聴いただきありがとうございます。
到着時刻については、到着時刻の記載がある方が、目的地までの遠さもわかり、旅のイメージがしやすくなるなと思い、1964年度版の動画作成時から追加致しました。
また、1976年度版の時刻表は、作成時は今よりも更に動画編集スキルが低かったため、一部列車を省略しているものもあります。76年度の時刻表も大変面白いものが多いため、今後改訂したものを順次作成していこうと思っております。
貴重なご意見と励ましのお言葉ありがとうございました。
長門市出身で独身時下関市に住んでいました(今は北九州です)
今は特急も急行も走らなくなった寂れた山陰本線。
最後に残った特急はキハ181系いそかぜ でした。廃止されたのはもう20年前でしょうか。
息子を連れて長門市~小倉まで度々乗ったのを思い出しました。
今でも帰省には普通列車を利用しています。
昔はこんなに沢山の列車が走っていたと改めて拝見すると涙で霞んでしまいました😭😭
横から失礼致します
わたしも同感です
福岡在住ですが、長門から上の萩や温泉津などへ直接アクセスが出来なくなりました
福岡515万人の市場は大きいと思ってます
祝祭日だけでも優等列車を復活して頂きたく思ってます
@@ikkakun4810 さん
そうですよね!福岡方面から直通があれば楽しそうです✨
@S A
コメントとご視聴ありがとうございます。
お褒めの言葉も頂き、大変嬉しいです。ありがとうございます。
現在の山陰本線は、各地方ごとの短距離運転が主体となり、完全に分断されてしまっていますね。約2時間に1本普通列車が走るようなローカル線になってしまったのがさみしいなと思います。当時は山陰本線に限らず、在来線が元気で活気がありましたね。
@ikka kun
会社をまたぐため難しいのは百も承知ですが、観光地も多い地方ですし、観光列車でも良いので優等列車を復活させてほしいですね。
温泉津の温泉について調べてみましたが、街並みも大変良い雰囲気で泉質も素晴らしいみたいですね。いつか行ってみたいです。
@@tomoyankun
主人にも見せました。主人は山口県美祢市出身で、美祢線が生活の足でした。まだ昔は炭鉱で栄えていました。今は、山陰本線と同じくらい寂れてしまいました。
この動画を拝見し、私と同様大変懐かしい~😭と申しています。
主様、叶うなら、山陽本線厚狭駅をお願いします。
厚狭駅は山陰本線や、美祢線、宇部線、小野田線にも関係する駅です。
夜行列車、急行に比べて特急が少ないですね。
いや、逆にこの位の割合で良かったのかもしれない。
新幹線への移行や民営化もそうだけど、急行から特急への格上げが多すぎた事が夜行列車の寿命を縮めたともいえる。
@ferdinand hiro
ご視聴とコメントありがとうございます。
新幹線開業により、特急車両の余剰が増えたことや、利用者の特急列車へのニーズが高くなったこと等により急行が淘汰されたと言われていますね。当時の、貴重で特別感のある「特急」も良いなと思います。
夜行列車は主要幹線だけでも良いので、今でも走っていてほしかったなと思います。
宇野行があったのは、びっくり❕
Sega Kaさん
宇高連絡船への接続も関係していましたからね、実質的には、四国から山陰地方への連絡列車と位置付けて良いのでは?
ご視聴とコメントありがとうございます。
下関駅で「宇野」の文字を見ることができたというのも驚きですね。準急「しんじ」は19時30分に宇野駅に到着し、19時37分発の宇高連絡船と連絡しています。高松では、20時57分発の準急「いよ」松山ゆきと連絡し、0時26分に松山駅に着くことができました。四国ー山陰地方の連絡列車の役割も担っていたのでしょうね。
20:57発の 団体 東京 がどんな列車か気になりました。
ご視聴とコメントありがとうございます。
この列車は、九州観光団体専用列車でした。始発駅が大分駅と長﨑駅でした。大分を17時34分、長崎を15時35分に発車し、山陽本線、東海道本線を通り東京に翌日の15時26分に到着していました。
余席がある場合は一般にも販売していたようです。
のんびりと走る列車ですね。
特牛行なんてあったんだ!!
@ゆのくにゆのか
ご視聴とコメントありがとうございます。
かなり驚きですよね。
昔は交換可能な配線だったようですが、この駅で折り返す理由については調べてな中ではわかりませんでした。
山陰線は “San-in Line” やと思います
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、公式の路線図は「San-in Line」になっていますね。ただ、JR西日本の英語サイトの一部には「Sanin Line」の表記もあり、迷っていたところです。
公式の路線図に記載されている表記を採用させていただこうと思いますので、今後順次訂正させていただきます。
ご指摘ありがとうございました。
何度もコメント失礼します。
先日、実家に帰省した時山陰本線を利用しました。
私が乗った列車が、この時刻表にあり(下関市10:10発長門市着12:34)
こんな年月を経ても時刻が変わってないんだ!と、驚きました。
それと、途中(湯玉駅)の待合室の看板に(長門、京都方面はこちら)
と書いてありました。
京都方面って…(⊙⊙)
もうそんな長距離走っていませんよ。この頃の看板が未だに掲げられてます。これも驚きでした。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
コメントをしていただき大変嬉しいです。ありがとうございます。
現在も走っている列車を、昔の時刻表の中にもみつけた時には大変感慨深いものがありますね。下関→長門市間は1964年でも、現在とほぼ同じ所要時間であったことも面白いです。
湯玉駅の看板、調べてみました。風情のある看板ですね。昔は京都ゆきの普通列車が走っていたことを実感しますね。
0:24 後の824列車でしょうか?
@べるげん
ご視聴とコメントありがとうございます。
列車番号は違いますが、各年度の時刻表を見てみると、ほぼそれで間違いないでしょうね。1964年から68年の間に、始発駅が門司港に変更されています。
普通列車816レって、後に、門司始発で福知山まで運行され、国鉄最長運転の普通列車と言われた。
当時は、長距離運行の普通列車や、夜行の普通列車はざらに走っていた。貧しい庶民は、駅弁も買わずに自宅でおにぎりとかの弁当を用意して、普通列車の二等車の硬い座席に座り旅をしたとか。
後は、少し余裕があれば、準急行列車に乗ったそうです。
ご視聴とコメントありがとうございます。
この時代は、ほとんどの路線で夜行の普通列車が存在していますね。むしろ存在していない路線に出会うと違和感があるくらいです。
繁忙期はそれに加えて混雑もしていたのでしょうから、当時の帰省は大変だったでしょうね。ただ、駅弁ではなく、親の作ったおにぎりを食べるのも良いですね。
初めまして♪
私、10月で還暦になったクソオヤジです(笑)。
子供の頃から時刻表の旅をするのが大好きで、クソオヤジになった今でもやってます。
「できたら」でいいので、私が生まれ育った兵庫県神戸市にあるJR三ノ宮駅発の時刻表を掲載していただけませんでしょうか?
子供の頃は子供の駅入場料の10円を払って、1人でただジッと列車を眺める少年でして、たまにしか来ない1両編成の郵便列車と遭遇した時は興奮しまくりでした(笑)。
@金光俊哉
はじめまして。ご視聴とコメントありがとうございます。
私も同じ趣味を持っていますので、時刻表旅は本当に面白いなと思います。親から1冊の時刻表を買ってもらったのがすべての始まりでした。入場券を握りしめながら、行き交う列車をホームから熱心に眺めておられたのでしょうね。
三ノ宮駅は私も非常に思い入れのある駅ですので、すぐには難しいとは思いますが、是非テーマとして取り上げさせていただきたいと思います。
リクエストありがとうございました。
へぇ、今のやくもは二代目なんですね。
@ありすえ
ご視聴とコメントありがとうございます。
大変複雑なことに、実は今の「やくも」は3代目です。
1代目準急やくも 1959年~(米子~博多)
2代目特急やくも 1965年~(新大阪ー浜田)
3代目特急やくも 1972年~(岡山ー出雲市・益田)
種別や運転区間は変わっても、同じ名前が使われていくのは嬉しいですね。
当時の、準急「やくも」は後々急行「さんべ」になるんですね。
@原田寛
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、後の「急行さんべ」になります。この当時の山陰西部の列車は運転経路が複雑なものが多く、大変ユニークで面白いですね。
@@tomoyankun さん
例えば、準急「しんじ」もそうでしたね。
@原田寛
仰る通りですね。「やくも」「しんじ」「あきよし」「皆生」はいつも混乱してしまい、なんとも難しいです。
@@tomoyankun さん
当時は、指定席券のシステムがアナログだったので、同じ発着でも複数の愛称がありましたね、(1968年10月の白紙ダイヤ改正で、同じ発着駅の列車に関しては、原則同一愛称に一本化)
@原田寛
当時、日本全国で毎日毎日走り続ける優等列車の指定席をすべてアナログで管理できていたことに驚きで、いまだに信じられないところがあります。
同一愛称にして、「〇〇号」の方が、理解する上ではわかりやすいですよね。
九州行きがないだと…
ご視聴とコメントありがとうございます。
ご要望ありがとうございます。順次様々な駅をとり上げていますので、下り方面もお届けできる時があると思います。
いきなり「普通 大阪」かー。
@TKS U
ご視聴とコメントありがとうございます。
始発と終電時間帯は長距離運転が多いものですが、さすがに「大阪ゆき」のインパクトは強すぎますよね。
この列車は確か鹿児島本線八代が始発じゃなかったかな?