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【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦その10ー強引な方針転換で筑前に出兵するも岩屋城攻めでの大損害で挫折!

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  • Опубліковано 11 січ 2024
  • 今回は豊臣秀吉の九州出兵が目前に迫る中で豊後進攻寸前から一転して義久の策略で筑前進攻に方針転換するも、高橋紹運が籠城する岩屋城攻防戦で大被害を被り、立花宗茂の籠る立花山城を抜くことができず撤退に追い込まれる展開を解説していきます。
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КОМЕНТАРІ • 32

  • @rotriot367
    @rotriot367 6 місяців тому +12

    秀吉の山中城攻略とは対照的に、戦術レベルでは優秀でも国人主体で一門衆の独立性の高い中世的な島津氏の限界が岩屋城攻めあたりで明らかになっていると思う

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому

      コメントありがとうございます!信長の軍隊は最近では他の戦国大名と同質性が高いと言われてますし、秀吉政権のほうが画期性が目立ちますかね。

  • @MUSASI40
    @MUSASI40 6 місяців тому +5

    取次制度って取次する大名や国人の勢力の大きさ 次第で 発言力が大きく変わってくるのでより熱心に取り組むのは当然 後に伊集院忠練が 絶大な権勢を誇ったのも 天下人 である 秀吉との取次をしていたからで 徳川四天王の一人 井伊直政があれだけ早く出世できたのも 多くの大名との取次をこなしたからでもある

  • @shintra3186
    @shintra3186 6 місяців тому +2

    面白い

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому

      ありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです!

  • @user-mq5gx3rh6y
    @user-mq5gx3rh6y 6 місяців тому +2

    5:23 それどころか、九州国分で豊臣直轄領とされた筑前を攻めるのは豊前以上によりダイレクトに秀吉に喧嘩を売ってると思われかねないです。この頃の義久は家中をまとめるのに手一杯で外交には充分思考が回っていない感じがします。まあ謙信だったら何回出奔してるかわからない状況でよく腐らずに頑張ってるなと思いますが。
    前回のコメントと少しかぶりますが、義久は素直に惣無事令に従うと返事すればよかったかも。自身の正当性を主張しようとして豊薩和与を持ち出したばかりに、筑後と肥後北部を削る口実を与えてしまったのは義久の外交上のミスだと思います。まあ家中の事を考えると、その後の流れは変わらないでしょうが。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому

      コメントありがとうございます!義久の対応も正直迷走気味な感はありますよね。内心はともかく秀吉の提案をそのまま吞むことは面子重視の家中の手前もあって難しかったのかもしれません。

  • @juninho4862
    @juninho4862 6 місяців тому +2

    大友宗麟と筑前支配について研究してましたが、大友目線で見ても、この動画面白いです。大友側がボロボロになるまでめちゃくちゃ苦労するんですが、島津側もバタバタだったんだな…と。秀吉九州入りっていう時間的制約もあり、壮大なチキンレース。
    島津の強さも見事ですが、宗麟の外交力も見事。
    岩屋城攻めについては、増補訂正編年大友史料、高橋紹運(麻生外記と名乗る。相手は新納蔵人)の島津側に向けた降服拒否の演説、名文です。コピー取って未だに机に貼ってます。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!ご専門の方からで恐縮です😅😅大友は土俵際まで追い込まれましたけど、宗麟のフットワークの軽さが功を奏しましたね。紹運の降伏拒否文を机に貼っているのは筋金入りですね😄😄

    • @juninho4862
      @juninho4862 5 місяців тому +2

      @@user-ii9wu7fn7p こちらこそありがとうございます。道雪が耳川の合戦後に送った檄文(問責状?)と合わせて見える所にあるという訳で…ただ、信憑性は怪しいので卒論には使わず、趣味としてです。卒論の余りネタと言えばそれまでですがw
      でも、この時代島津目線でも、大友目線でも、龍造寺目線でも、国人層目線でも魅力はめちゃくちゃあると思います。

  • @hmori0622
    @hmori0622 6 місяців тому +6

    23:00 20世紀前半の某極東の島国の政治体制もこんなだったような…

    • @user-ub7tt4gl8y
      @user-ub7tt4gl8y 6 місяців тому +4

      その政府を産み出したのは薩摩だからなるべくしてなったのかもしれない…?

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому +2

      コメントありがとうございます!島津を反面教師にすればよかったのにですね😥😥

  • @user-ic9qj9ez2s
    @user-ic9qj9ez2s 6 місяців тому +1

    高橋紹雲と息子達が島津軍に徹底抗戦したのはやはり耳川の戦いで吉弘鎮信、斎藤鎮実等の紹雲の実兄と義兄等の親類が島津軍によって討たれたからでしょうね。耳川の戦いの後に大友家中で豊後後家、日向後家という言葉が流行ったと言われる位働き手の男性が戦死したと言われてますから大友家としてもそうした関係の島津家に降伏とは許されないでしょう。勝者である島津家中も薩摩、大隅、日向の本領三ヶ国統一までは纏まって行動できたのが九州切り取り次第も夢ではないとなると当主、名代、家臣それぞれの思惑で動いてしまう。負けがないからこそ撤退できないジレンマに陥るこんな難しい家中の舵取りを義久公はしないといけないのかと気の毒になります。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому

      コメントありがとうございます!島津軍はバクチの心理に陥ったのに似ていますね。

  • @user-lw6gn7uu8r
    @user-lw6gn7uu8r 6 місяців тому +3

    「家久最後の見せ場」😢

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому +1

      家久劇場も終盤が近づいてます😅😅

  • @sakurasakura4412
    @sakurasakura4412 6 місяців тому +1

    宝満山城ももう少し頑張っていれば高橋家も存続できたのにな。残念。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому

      コメントありがとうございます!これは仕方のない部分はあるかもですね😥😥

  • @hironobushi
    @hironobushi 6 місяців тому

    そもそも、岩屋城周辺の地形は…
    古代、白村江で敗北し、国家危機にさらされた時に大宰府を守る為に、四王寺山を中心とした大防御網を構築しています。
    まず、水城で敵兵を食い止めて、突破されて、大宰府が陥落しても、四王寺山山頂に大野城を築いているのでそこで籠城して抵抗するようになっています。
    大野城跡の大宰府よりに岩屋城があるわけですから、防御に関しては申し分はないと思われます。

  • @nattousenbei
    @nattousenbei 6 місяців тому +1

    島津は基本長宗我部に毛が生えたレベルの強さしかないから。中央に勝てたのがセンゴクだけだというのも共通している。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!島津は強いと言えば強いんですが運に助けられてる要素もありますね。

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu 6 місяців тому +2

    家久最後の見せ場=長宗我部元親鬱展開🥲

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому +2

      家久に関わると味方も敵も不幸になりますね😨😨

  • @AI-DOROMI
    @AI-DOROMI 6 місяців тому

    高橋ジョジョ!?
    血脈の力!?

  • @user-fp9ym8mo6j
    @user-fp9ym8mo6j 6 місяців тому +1

    一気見したがこの島津軍のグダグタ感よ…
    組織運営の難しさよな…

  • @user-np2qk4mu1p
    @user-np2qk4mu1p 6 місяців тому +2

    外れた「ご神慮」の責任は誰が取ったんだろう⁉️
    ま、そこで御屋形様に批難が向かないのが「ご神慮」の役割かな。
    大友家の高橋紹運と立花宗茂は、今回のエピソードがあったから、後世の評価が爆上がりした部分もあるのでは、と思う。
    そもそも、大友家中で名高い勇将をなぜ筑前に集中させるのか。
    それは後世、立花家が残って、大友家が残らなかったことが、道雪含めた三将の評価を上げただけで、大友家中での評価は違ったんじゃないか、と思います。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!実際は大友家中では主流派ではなかったかもですね。

  • @user-th8rx3uq3z
    @user-th8rx3uq3z 6 місяців тому +1

    岩屋城攻防戦はまさに一つに纏まった少数と考えの違う多数の差がまざまざと出た形ですね
    島津の要請で来た国衆、龍造寺の援軍、大友攻めを変更されて筑前に攻め込む羽目になった日向衆、そして義久の諸事情で呼ばれなかった義弘……
    戦いは勝ちましたがこの時点で島津軍が既にバラバラの状態……通説の島津最強伝説は見る影もありませんね
    義久は野心的な家臣や一門の手綱を握るのに精一杯という感じですが
    もし家臣や一門達が義久に従順で義久主導で意思決定が行われた場合
    秀吉から出された国分案を義久は呑む可能性があるかもしれませんが
    もし呑んでいたら九州征伐は起きなかったのか?
    秀吉があの国分案を何処まで本気で出していたのか?気になります
    実は家康と服従させ長曽我部を降伏させた時点で九州征伐は既定路線だった、という可能性もなきにしもあらずだったり……?
    正直飛び地だったり島津の領土がわりかし大きかったりで現実味は薄そう何だよな……あれ

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  6 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!むしろこのバラバラの状態でよくここまで勝ち進んでこられたというのが不思議ですね😨😨

  • @tomoyo20060816
    @tomoyo20060816 6 місяців тому

    守護霊様が紹運様です
    最後に島津の将兵14人を
    討ち取りニ層の櫓で自刃されたと
    教えてくれました
    道雪さんは良きライバルだったと
    今いろいろあって道雪様も守護霊様してくれてます
    多分、僕と同じ変形性股関節症じゃないのかなと
    あと、雷⚡︎を斬ろうとしたのは事実だそうです