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動画内冒頭に上杉勝影と言っていますが、正しくは景勝です。お詫びして訂正いたします。ご指摘いただきました方大変感謝いたします。
いつも有難うございます、毎回楽しく拝見させて頂いています。🐶
こちらこそ毎度ご覧いただきありがとうございます!今年もお付き合いいただければ幸いでございます!
歴史をよりわかりやすく教えてくれてありがとうございます。
今年もよろしくお願いします今回も雑学と言うよりも地知識溢れる内容でたのしませていただきました今年の大河は(どうする家康)家康の生涯を描くということでどんな家康が描かれるやら?ですが家康の先見の明の良さは圧倒的で江戸に本拠を構えたのは素晴らしいなと思います家康を畏れて敢えて領地を没収した秀吉ですが、没収されても(転んでもただ起きない)のが家康器の違いとはこのことでしょう啼かぬなら啼くまで待とうホトトギス ホトトギスを待つ間も決して手を休めないのが家康だったのでしょう諸大名の力(財政)を削ぎつつも不貞腐れないよう石高を増加させたり忠誠の厚いものほど、江戸城に近い場所に上屋敷 中屋敷 下屋敷を与えてましたよね丸の内線、半蔵門線が走っているのが江戸城の外郭(一部内郭)ですが電車で移動するほどの距離のあった江戸城・・・いかに大きかったか?そういえば、松の廊下の刃傷事件の際も、お殿様の耳に入るまでに時間がかかったそうですよね。西の丸から 本丸に登城する際も手続きやら案内(御坊主さん)が必要だったそうですから江戸城の威厳の大きさを知らされます今の東京をみたら、家康は驚きはするものの、逆に我々に(これからどうする?)っと聞いてきそうな感じがします渋谷の大規模工事、虎の門・・まだまだ変わりそうですしね港区三田も開発が進みます(うちの伯母はその開発の波にのまれ、移転したのです)次回も楽しみです寒さ厳しき折ご自愛ください
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします!そうですね~忍耐強さダーウィンが進化論で言ったように、強いものではなく、適応できるものが生き残る。人質として成長し、主君が変わり、下剋上されと、あまりにも目まぐるしい状況で最適な決断を下せた。そんな彼の人生を一言で表すと「どうする家康」にたどり着くやもしれません。たぶん、我々が見れる歴史というのは、結果だけで、戦国の歴史には、家康と近い境遇に置かれ、散っていった人たちがたくさんおり、その中で、唯一生き残れたのが家康ということなんでしょうね~そして、人々は勘違いしがちですが、人が他人に従うのは、そこに合理性があってこそで、単にきつく縛るだけでは、人々は離れてしまう。これに気づけて、しかも、しっかりと実践に移せた家康は、上に立つべくして立てたと言えるでしょうね。現代文明を持ってしても広い江戸城は、その広さから、その移動の苦難さから、反逆への抑止力になるのでしょうね。昭和が消え、21世紀らしくなってきましたね。そうなんですね!三田も白亜の城のような低層マンションが沢山立つようになりましたね。なんとなく、都心の住宅街はどこも海外らしい感じになっているので、日本らしさもあると、いいなあなんて思ったりもしますが、日本人が常に海外をいいものだと思って海外ぽくするのも、また日本人らしいなあなんて思ったりもしますね!
最近になって動画拝見させていただいてます。名古屋人として名古屋城の本丸御殿(木造復元)も観に来て欲しいです。
ご覧いただきありがとうございます!名古屋も非常に重要な歴史的として魅力がたくさんありますね!復元されてから観光では名古屋を訪れられていないので、トヨタ博物館と並んでぜひ行きたい場所だと思っております!
😅名古屋城本丸御殿の改修工事を゙見学しました 御殿内は完成していて絢爛豪華な襖絵など大変綺麗でした。☺️
面白い。大変勉強になります。霞が関の官庁街がかつてのお城なら、丸ノ内付近のオフィス街はかつての武家屋敷などと言ったところでしょうか。江戸の風景を今と昔で見比べると面白いですね。ありがとうございました。
以前から、お城大好きでしたが、今回色々な解説を楽しく拝聴させていただきました♪明治時代になって、お城打ち壊しがあったときいいていましたが、お城の壊しを明治天皇が止めたと聞いていました。それから大隈 重信も、止めた・・と聞いていましたが、いかがでしょうか?
ご覧いただきありがとうございます!非常に興味深いお話だったので、個人的に調べてみましたが、彦根城の保存を大隈重信が明治天皇に奏上した事により、明治天皇がそれに答える形で保存が決定したようですね!基本多くの城は地元の人にとっては残しておきたいものでしたが、財政や命令によってそれが叶わなかった例がほとんどです。しかし、彦根城に関しては大隈重信がたまたま訪れて、市民が彦根城を慕う気持ちに感銘を受けたのがきっかけのようですね~
そうでしたか!!詳しく調べて頂き、ありがとうございましたm(--)これからも視聴させて頂きます♪@@TokyoTrivia
楽しく拝見、またとても勉強させていただいおります。明治期に城が壊された理由ですが明治初期は、当時では城は現役の軍事施設であった為、反政府軍に拠られるのを防ぐ為に破却された、という考えもあるのかなぁ、と思いました。あと何故12か所だけは天守が残ったのか、このあたりはとても気になりました。今後も応援させていただきますので、楽しい動画をよろしくお願いいたします。
ご覧いただきありがとうございます!そうですね~そういう部分もあったかもしれませんね~ただ当時の城は近代兵器には全く刃が立たない代物で、状態も、木造建築ですから、定期的な補修が必要にも関わらず、各藩財政などの問題であばら家状態だったものも多いので、このとき破壊されなくても、それほど時間立たずに皆取り壊されたのかなと個人的には思いますね~天守が残った理由は、城によって異なっていて、姫路城のように明治において軍基地に転用されたため、そのまま利用したり、松本城のように人々が文化財としての価値を認識していたため、保護をしたなど、様々あるようですね。ご視聴いただきありがとうございます!応援いただくと励みになります!今後ともよろしくお願いします!
追伸です1/11の読売新聞に家康は寅年生まれ?兎年生まれ?の記事ありました征夷大将軍になると儀式を行ったとの記事も。(ご存知でしたらごめんなさい)
情報ありがとうございます!新聞は取っていないので、その記事は存じておりませんでした。確かに、トラが好きだったなんて記事が他のネットでも見受けられましたね。トラは生息している地域が限られるにも関わらず、世界的に昔から人気があるので、やはり人々を強烈に引き付ける何かがあるのでしょうね~
明暦の大火での幕府の対応が失敗したなら、家綱で江戸幕府は崩壊の可能性もあったと思う。江戸市中の復興より江戸城天守建設を優先したとしたら、民衆の不満は幕府に向かっただろう。木材や米は暴騰して経済が混乱したとしたら江戸幕府は耐えられただろうか?家光の弟でもありながら徳川も松平も名乗らずに将軍の補佐に徹した名君保科正之。今の時代に最も必要な人材かもしれない。
そうですね~私も保科正之が名君なのは同意ですね~おっしゃるとおり不満が溜まったでしょうし、慶安事件があったように、あの時代は少し幕府内でも脆弱性があった時期と考えられるので、対応によっては幕府が無くなっていた可能性もありますね~しかし、このときに作られた防災体制や幕府の対応がうまくいった結果、その後200年もの長きに渡り幕府が続いたのはやはり保科正之と幕府の実力があってこそですね!!
@@TokyoTrivia しかし保科正之の幕府への忠義心の強さが「会津松平家は幕府を守護すべし」となり、後の戊辰戦争での会津の悲劇につながるのですから運命とは皮肉なものですね。その会津の悲劇さと白虎隊などに代表される忠義心が現代人の心を捉え、我が故郷の会津若松に人が訪れるのも保科正之公の導きかもと思ったりしています。
そうですね~忠義がゆえに結果が見えていても動かなくてはならない。それは悲しい矛盾をはらんでいるようにも見えますね。会津若松出身なのですね~私は赤べこの揺れ具合が好きでリビングに飾ってあります。現代のデフォルメのも良いのですが、古い時代の若干リアルな造形なのが個人的にはほしいななんて思っています・・・笑
家康が江戸を選んだ理由、太田道灌もそうですが、その前、関八州の大福長者、江戸重長の事なども知っていたのではないですかね?江戸とは川の河口という意味で流通の結節点であり、経済の拠点となるべくポテンシャルを持っており、ここに資力が加われば、江戸重長よりも江戸のポテンシャルを引き出す事が出来る。家康には重長では持ち合わせぬ資力を持っていたので、この地を選ぶことが出来た。実際、江戸に入ってから真っ先に行徳ヘ一直線に伸びる小名木川を設定し、行徳の塩を確保し、今の武道館を囲むように千鳥ヶ淵と鐘ケ淵と二つの淵が有りますが、此はお堀ではなく、平川という川を塞き止めてつくったダム。これで水と塩を確保した。家康ヤル気満々ですね小名木川は最初は塩の確保でしたが、利根川東遷が完了すると、東北地方からの船の航路となり、大幹線なったわけで、江戸前島も堀割を張り巡らせて物流拠点として発展した名残は今も堀割状の首都高等に見ることが出来ます。元々江戸前島は舌状の半島で、その付け根辺りが湊として栄えていたそうですが、その後、堆積により、湊が機能しなくなっていたので、堀割を張り巡らせた内陸港のような形にして発展させたと聞いてます。駿河台については、確かに日比谷の入江を埋め立てる為に切り崩した訳ですが、その後駿府に引っ込んだ家康の死後、駿河の家臣団を住まわせたので、「駿河台」と呼ばれるようになりましたブラタモリとかはテレビ観ないので拝見していませんが内容が重複してたらご免なさい。
初めまして。江戸、東京の歴史が楽しく学ばせて頂きました。お城の御殿は、なかなか一般的には知名度が低いですが、江戸幕府終焉の地として二条城に現存する二ノ丸御殿や、名古屋城の復元本丸御殿の写真なども紹介されたら分かりやすかったかも知れません。
はじめまして!ご覧いただきましてありがとうございます!素晴らしいご提案ありがとうございます!そう、実は私も現存する御殿の例をあげるべきか考えたのです。ただ、有名所の二条城も名古屋城も確かに御殿ですが、動画的にお殿様が暮らすという話をしている手前、暮らしているわけではない宿泊所としての性質を持つ二条城、そして本丸と言いながら、殿は二の丸に暮らしており、結局は将軍宿泊用に誂えられた復元の本丸御殿は、お殿様が暮らすには合致しないかと考えたのです。そうなると、高知城の御殿ならば殿が暮らす本来の御殿として現存しているので、そこを例にと考えるわけですが、ただ私の勉強不足で、高知城には明るくなく・・・動画作成時点で解説できる知識がなかったのです・・・このようなコメントは大変うれしいですし、助かりますので、ぜひ今後もなにかお気づきの点などありましたらコメントいただければと思います!よろしくお願いします!
上杉景勝です。お間違えの無いようお願いします。
ご指摘ありがとうございます!!前回動画は景勝と行っているのに、今回作っていて気づかなかったです・・・このような指摘大変助かります!これからも、なにかございましたら、ぜひコメント頂けますと幸いです!
虎は西の方角と思いますが
陰陽学としてはおっしゃるとおり虎は西ですね~しかし、虎ノ門の部分は地理的な説明なので南ですね!
動画内冒頭に上杉勝影と言っていますが、正しくは景勝です。
お詫びして訂正いたします。
ご指摘いただきました方大変感謝いたします。
いつも有難うございます、毎回楽しく拝見させて頂いています。🐶
こちらこそ毎度ご覧いただきありがとうございます!
今年もお付き合いいただければ幸いでございます!
歴史をよりわかりやすく教えてくれてありがとうございます。
今年もよろしくお願いします
今回も雑学と言うよりも地知識溢れる内容でたのしませていただきました
今年の大河は(どうする家康)家康の生涯を描くということでどんな家康が描かれるやら?ですが
家康の先見の明の良さは圧倒的で江戸に本拠を構えたのは素晴らしいなと思います
家康を畏れて敢えて領地を没収した秀吉ですが、没収されても(転んでもただ起きない)のが家康
器の違いとはこのことでしょう
啼かぬなら啼くまで待とうホトトギス
ホトトギスを待つ間も決して手を休めないのが家康だったのでしょう
諸大名の力(財政)を削ぎつつも不貞腐れないよう石高を増加させたり
忠誠の厚いものほど、江戸城に近い場所に上屋敷 中屋敷 下屋敷を与えてましたよね
丸の内線、半蔵門線が走っているのが江戸城の外郭(一部内郭)ですが
電車で移動するほどの距離のあった江戸城・・・いかに大きかったか?
そういえば、松の廊下の刃傷事件の際も、お殿様の耳に入るまでに時間がかかったそうですよね。
西の丸から 本丸に登城する際も手続きやら案内(御坊主さん)が必要だったそうですから江戸城の威厳の大きさを知らされます
今の東京をみたら、家康は驚きはするものの、逆に我々に(これからどうする?)っと聞いてきそうな感じがします
渋谷の大規模工事、虎の門・・まだまだ変わりそうですしね
港区三田も開発が進みます(うちの伯母はその開発の波にのまれ、移転したのです)
次回も楽しみです
寒さ厳しき折ご自愛ください
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします!
そうですね~忍耐強さ
ダーウィンが進化論で言ったように、強いものではなく、適応できるものが生き残る。
人質として成長し、主君が変わり、下剋上されと、あまりにも目まぐるしい状況で最適な決断を下せた。そんな彼の人生を一言で表すと「どうする家康」にたどり着くやもしれません。
たぶん、我々が見れる歴史というのは、結果だけで、戦国の歴史には、家康と近い境遇に置かれ、散っていった人たちがたくさんおり、その中で、唯一生き残れたのが家康ということなんでしょうね~
そして、人々は勘違いしがちですが、人が他人に従うのは、そこに合理性があってこそで、単にきつく縛るだけでは、人々は離れてしまう。
これに気づけて、しかも、しっかりと実践に移せた家康は、上に立つべくして立てたと言えるでしょうね。
現代文明を持ってしても広い江戸城は、その広さから、その移動の苦難さから、反逆への抑止力になるのでしょうね。
昭和が消え、21世紀らしくなってきましたね。
そうなんですね!
三田も白亜の城のような低層マンションが沢山立つようになりましたね。
なんとなく、都心の住宅街はどこも海外らしい感じになっているので、日本らしさもあると、いいなあなんて思ったりもしますが、日本人が常に海外をいいものだと思って海外ぽくするのも、また日本人らしいなあなんて思ったりもしますね!
最近になって動画拝見させていただいてます。
名古屋人として名古屋城の本丸御殿(木造復元)も観に来て欲しいです。
ご覧いただきありがとうございます!
名古屋も非常に重要な歴史的として魅力がたくさんありますね!
復元されてから観光では名古屋を訪れられていないので、トヨタ博物館と並んでぜひ行きたい場所だと思っております!
😅名古屋城本丸御殿の改修工事を゙見学しました 御殿内は完成していて絢爛豪華な襖絵など大変綺麗でした。☺️
面白い。大変勉強になります。霞が関の官庁街がかつてのお城なら、丸ノ内付近のオフィス街はかつての武家屋敷などと言ったところでしょうか。江戸の風景を今と昔で見比べると面白いですね。ありがとうございました。
以前から、お城大好きでしたが、今回色々な解説を楽しく拝聴させていただきました♪明治時代になって、お城打ち壊しがあったときいいていましたが、お城の壊しを明治天皇が止めたと聞いていました。それから大隈 重信も、止めた・・と聞いていましたが、いかがでしょうか?
ご覧いただきありがとうございます!
非常に興味深いお話だったので、個人的に調べてみましたが、彦根城の保存を大隈重信が明治天皇に奏上した事により、明治天皇がそれに答える形で保存が決定したようですね!
基本多くの城は地元の人にとっては残しておきたいものでしたが、財政や命令によってそれが叶わなかった例がほとんどです。
しかし、彦根城に関しては大隈重信がたまたま訪れて、市民が彦根城を慕う気持ちに感銘を受けたのがきっかけのようですね~
そうでしたか!!詳しく調べて頂き、ありがとうございましたm(--)これからも視聴させて頂きます♪@@TokyoTrivia
楽しく拝見、またとても勉強させていただいおります。
明治期に城が壊された理由ですが
明治初期は、当時では城は現役の軍事施設であった為、
反政府軍に拠られるのを防ぐ為に破却された、という考えもあるのかなぁ、
と思いました。
あと何故12か所だけは天守が残ったのか、このあたりはとても気になりました。
今後も応援させていただきますので、
楽しい動画をよろしくお願いいたします。
ご覧いただきありがとうございます!
そうですね~そういう部分もあったかもしれませんね~
ただ当時の城は近代兵器には全く刃が立たない代物で、状態も、木造建築ですから、定期的な補修が必要にも関わらず、各藩財政などの問題であばら家状態だったものも多いので、このとき破壊されなくても、それほど時間立たずに皆取り壊されたのかなと個人的には思いますね~
天守が残った理由は、城によって異なっていて、姫路城のように明治において軍基地に転用されたため、そのまま利用したり、松本城のように人々が文化財としての価値を認識していたため、保護をしたなど、様々あるようですね。
ご視聴いただきありがとうございます!
応援いただくと励みになります!
今後ともよろしくお願いします!
追伸です
1/11の読売新聞に家康は寅年生まれ?兎年生まれ?の記事ありました
征夷大将軍になると儀式を行ったとの記事も。
(ご存知でしたらごめんなさい)
情報ありがとうございます!
新聞は取っていないので、その記事は存じておりませんでした。
確かに、トラが好きだったなんて記事が他のネットでも見受けられましたね。
トラは生息している地域が限られるにも関わらず、世界的に昔から人気があるので、やはり人々を強烈に引き付ける何かがあるのでしょうね~
明暦の大火での幕府の対応が失敗したなら、家綱で江戸幕府は崩壊の可能性もあったと思う。江戸市中の復興より江戸城天守建設を優先したとしたら、民衆の不満は幕府に向かっただろう。木材や米は暴騰して経済が混乱したとしたら江戸幕府は耐えられただろうか?家光の弟でもありながら徳川も松平も名乗らずに将軍の補佐に徹した名君保科正之。今の時代に最も必要な人材かもしれない。
そうですね~
私も保科正之が名君なのは同意ですね~
おっしゃるとおり不満が溜まったでしょうし、慶安事件があったように、あの時代は少し幕府内でも脆弱性があった時期と考えられるので、対応によっては幕府が無くなっていた可能性もありますね~
しかし、このときに作られた防災体制や幕府の対応がうまくいった結果、その後200年もの長きに渡り幕府が続いたのはやはり保科正之と幕府の実力があってこそですね!!
@@TokyoTrivia
しかし保科正之の幕府への忠義心の強さが「会津松平家は幕府を守護すべし」となり、後の戊辰戦争での会津の悲劇につながるのですから運命とは皮肉なものですね。その会津の悲劇さと白虎隊などに代表される忠義心が現代人の心を捉え、我が故郷の会津若松に人が訪れるのも保科正之公の導きかもと思ったりしています。
そうですね~
忠義がゆえに結果が見えていても動かなくてはならない。それは悲しい矛盾をはらんでいるようにも見えますね。
会津若松出身なのですね~
私は赤べこの揺れ具合が好きでリビングに飾ってあります。現代のデフォルメのも良いのですが、古い時代の若干リアルな造形なのが個人的にはほしいななんて思っています・・・笑
家康が江戸を選んだ理由、太田道灌もそうですが、その前、関八州の大福長者、江戸重長の事なども知っていたのではないですかね?
江戸とは川の河口という意味で流通の結節点であり、経済の拠点となるべくポテンシャルを持っており、ここに資力が加われば、江戸重長よりも江戸のポテンシャルを引き出す事が出来る。家康には重長では持ち合わせぬ資力を持っていたので、この地を選ぶことが出来た。
実際、江戸に入ってから真っ先に行徳ヘ一直線に伸びる小名木川を設定し、行徳の塩を確保し、今の武道館を囲むように千鳥ヶ淵と鐘ケ淵と二つの淵が有りますが、此はお堀ではなく、平川という川を塞き止めてつくったダム。
これで水と塩を確保した。
家康ヤル気満々ですね
小名木川は最初は塩の確保でしたが、利根川東遷が完了すると、東北地方からの船の航路となり、大幹線なったわけで、江戸前島も堀割を張り巡らせて物流拠点として発展した名残は今も堀割状の首都高等に見ることが出来ます。
元々江戸前島は舌状の半島で、その付け根辺りが湊として栄えていたそうですが、その後、堆積により、湊が機能しなくなっていたので、堀割を張り巡らせた内陸港のような形にして発展させたと聞いてます。
駿河台については、確かに日比谷の入江を埋め立てる為に切り崩した訳ですが、その後駿府に引っ込んだ家康の死後、駿河の家臣団を住まわせたので、「駿河台」と呼ばれるようになりました
ブラタモリとかはテレビ観ないので拝見していませんが内容が重複してたらご免なさい。
初めまして。江戸、東京の歴史が楽しく学ばせて頂きました。
お城の御殿は、なかなか一般的には知名度が低いですが、江戸幕府終焉の地として二条城に現存する二ノ丸御殿や、名古屋城の復元本丸御殿の写真なども紹介されたら分かりやすかったかも知れません。
はじめまして!
ご覧いただきましてありがとうございます!
素晴らしいご提案ありがとうございます!
そう、実は私も現存する御殿の例をあげるべきか考えたのです。
ただ、有名所の二条城も名古屋城も確かに御殿ですが、動画的にお殿様が暮らすという話をしている手前、暮らしているわけではない宿泊所としての性質を持つ二条城、そして本丸と言いながら、殿は二の丸に暮らしており、結局は将軍宿泊用に誂えられた復元の本丸御殿は、お殿様が暮らすには合致しないかと考えたのです。
そうなると、高知城の御殿ならば殿が暮らす本来の御殿として現存しているので、そこを例にと考えるわけですが、ただ私の勉強不足で、高知城には明るくなく・・・動画作成時点で解説できる知識がなかったのです・・・
このようなコメントは大変うれしいですし、助かりますので、ぜひ今後もなにかお気づきの点などありましたらコメントいただければと思います!
よろしくお願いします!
上杉景勝です。お間違えの無いようお願いします。
ご指摘ありがとうございます!!
前回動画は景勝と行っているのに、今回作っていて気づかなかったです・・・
このような指摘大変助かります!
これからも、なにかございましたら、ぜひコメント頂けますと幸いです!
虎は西の方角と思いますが
陰陽学としてはおっしゃるとおり虎は西ですね~
しかし、虎ノ門の部分は地理的な説明なので南ですね!