【4K】関ケ原古戦場ガイド 戦跡巡礼 関ケ原の廻り方 散策 歴史散歩 パワースポット 怪しいヒーリングミュージック付き 徳川家康 石田光成 井伊直政 福島正則 どうする家康

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 17 вер 2024
  • 慶長五年(一六〇〇)に美濃関ヶ原で起った豊臣政権の主導権を争う戦闘。慶長三年八月豊臣秀吉が病没した後、遺児秀頼の成人までは五大老と五奉行による政務代行という体制をとることになったが、五大老筆頭の徳川家康は、政権内部の地位とその軍事的実力を背景に、伊達・加藤・福島・蜂須賀氏らと婚姻を約すなど当初から秀吉の遺命に叛く行動をとる。翌四年閏三月三日家康と並ぶ声望を持つ五大老前田利家が死ぬと、それを契機に五奉行中の実力者石田三成は加藤清正・黒田長政ら三成を敵視する秀吉子飼いの七武将に襲撃され、家康の助けを借りて佐和山に逃げ帰る。この事件により、家康は政務に関してほぼ独裁権を握り、また、三成を生かすことによって将来の武力的衝突の核を残し、独自の政権を創出するための布石とした。中央では、七月五大老の一人上杉景勝の帰国を機に、前田利長・宇喜多秀家・毛利輝元の三大老が相ついで帰国し、秀吉の縁戚で五奉行筆頭の浅野長政も領国甲斐に蟄居となった。よって、伏見には官僚的な三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)と家康のみが残った。九月二十七日家康は大坂城西ノ丸に入って秀頼周囲の勢力を牽制する一方、福島・伊達・最上・黒田・藤堂などの有力諸大名に総数百八十通に及ぶ書状を送って自己の指導力を強めようとした。また、島津氏の家臣の反乱(庄内の乱)に積極的に介入しその援助と称して大半の九州大名を軍事動員した。あけて慶長五年正月家康は上杉景勝の上洛を促したが、景勝は領内の仕置などを理由にそれを拒否した。五月家康はこれを口実に会津遠征軍派遣を決め、三奉行らの反対を無視して六月十六日伏見城に入り、十八日には伏見を発した。この家康の行動の目的は、一時上方を離れて三成の挙兵を促すことであった。七月二日江戸城に到着した家康は七日軍令を発し、十三日先発の榊原康政らが、そして二十一日には家康も江戸を発ち、二十四日に下野小山に着いた。そのころ上方では、石田三成が越前敦賀城主大谷吉継の援助を得、毛利輝元を総大将に戴いて挙兵した。七月十七日には長束・前田・増田の三奉行連署で家康への弾劾状を発給させ、これに檄文を添えて諸大名に送りその糾合をはかった。これに応じて大坂に参集した大名は、毛利一門の毛利秀包・吉川広家・小早川秀秋らのほか、宇喜多秀家・生駒親正・脇坂安治・蜂須賀家政・長宗我部盛親・小西行長・島津義弘・同豊久・福原長堯・毛利高政・鍋島勝茂・立花宗茂・高橋元種・同直次・秋月種長・相良頼房らで、総勢九万三千七百人に及んだ。三成らの西軍は、七月十九日家康の留守居鳥居元忠らの守る伏見城を包囲し八月一日これを抜いた。また、七月二十二日からは東軍についた細川忠興の父幽斎の守る丹後田辺城を小野木公郷ら一万五千を以て攻撃させたが、彼らの士気はあがらず九月十三日の勅命講和まで攻めあぐねた。伏見城を落とした三成は八月九日美濃の垂井に到着し、十一日大垣に入城した。またこの間岐阜城の織田秀信を誘ってこれを味方につけた。一方小山に在陣していた家康は諸将に上方の異変を告げ、去就は各人に任せるとしたが、福島正則の意見に従い打倒三成に決し、さらに遠江掛川城主山内一豊の主唱により東海道に城地を有する者はこれを家康に明け渡すこととした。福島・池田輝政ら東軍の先鋒隊は尾張清須付近に集結し、八月二十二日岐阜城攻撃を開始し、二十三日織田秀信を降伏させ、犬山城も落とし、一部隊は合渡にいた西軍を破った。沢渡まで出陣していた三成はあわてて大垣に戻った。北陸方面では、前田利長が家康に応じ山口宗永の大聖寺城を攻略して越前に出撃しようとしたが、能登七尾の前田利正の反対により金沢に兵を帰した。伊勢方面では八月中旬から東軍についた阿濃津城の富田信高が西軍の攻撃をうけ二十五日落城、松坂城の古田重勝も和を乞うた。一人長島城の福島正頼は奮戦して持ちこたえ、攻撃中の西軍は家康西上の報を受け主力を美濃に向けた。大津城の京極高次ははじめ西軍に応じて北陸方面に出兵したが、家康とも通じており九月四日密かに大津城に戻った。そこで西軍は立花宗茂らをさし向け、毛利元康を将とする討伐軍を編成して九月十二日から攻撃を開始し、関ヶ原合戦当日の十五日朝にようやく落としたが、ここに大軍を釘付けにされた。家康は先鋒軍の働きを確認した上で九月一日江戸を発し、十一日清須に到着した。大垣城の西軍は家康の到着を知り、士気を鼓舞するため十四日三成家臣島清興・蒲生郷舎らが杭瀬川を隔てて駐屯する東軍の中村一栄・有馬豊氏を挑発し、深追いした野一色頼母らを討った(杭瀬川の戦)。その日夜、西軍は家康が大垣城を素通りして三成の居城佐和山を衝くとの情報を得、福原長堯以下七千五百ばかりを大垣に残し、大雨の中を南宮山の南を迂回して関ヶ原に先廻りしようとした。西軍移動の報告をうけた家康は諸隊に出動を命じ関ヶ原に向かった。関ヶ原ではすでに諸隊が展開を終え、天満山に布陣した宇喜多秀家を中心に北方の笹尾山に石田三成、その南に島津義弘・小西行長、そして南方の松尾山に前日から小早川秀秋が陣しており、そのふもとに脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保、その北に宇喜多と並ぶように大谷吉継・戸田重政・木下頼継・平塚為広らが布陣していた。そして、南西かなり離れた南宮山に毛利秀元と吉川広家らが陣していた。東軍の先鋒が関ヶ原に到着したのは十五日の明け方で、直ちに丸山から関ヶ原の西端にわたって展開し、家康は関ヶ原東南の桃配山に本陣を据えた。午前七時すぎ東軍の松平忠吉・井伊直政が福島正則隊の側から宇喜多隊に攻めかけたのを契機に戦端が開かれた。福島隊も即座に宇喜多隊に鉄砲を放ち宇喜多隊もこれに応戦した。藤堂高虎・京極高知らは大谷吉継を攻撃、寺沢広高もこれに合流した。松平忠吉・井伊直政・本多忠勝らは小西行長を攻撃した。石田三成の隊には黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・田中吉政・金森長近らの諸隊が先を争って攻撃をしかけ一時優勢に立ったが、石田隊の反撃にあい、戦局は一進一退となった。そのころ、福島隊は宇喜多隊の猛反撃にあい退却を始めたが、正則の叱咤により前の位置まで押し返した。大谷吉継も藤堂・京極・織田らの隊を防いで奮戦した。この混戦の中で三成は、かねての約束どおり天満山に狼火をあげ、松尾山の小早川秀秋や南宮山の毛利秀元・吉川広家に進撃の合図をしたが、東軍にも通じている小早川・吉川の隊は動かなかった。勝敗は正午になっても容易に決せず、焦った家康は内応の約束のある小早川秀秋を動かすために松尾山に向かって鉄砲を一斉射撃した。切羽詰まった秀秋は西軍に対して攻撃するよう全軍に指令し、松尾山をくだって大谷隊に攻めかかった。大谷吉継は秀秋の裏切りを予測していたのでこれをよく防いだが、脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が寝がえって大谷隊を攻撃するに至って防ぎきれず、ついに自害した。大谷隊の潰滅につづき、小西隊も潰れ、宇喜多隊も敗走した。石田隊はよく東軍諸隊の攻撃を防いで戦っていたが、小西・宇喜多の敗走の後ついに潰滅し、三成は伊吹山に逃走した。最後まで動かなかった島津隊は、西軍の敗北が決定的になった後全軍を一丸にして敵中央を突破して追撃してきた松平忠吉隊と戦いながら逃走した。一方南宮山の西軍は、長束正家・安国寺恵瓊らの勧告を吉川広家が聞かず、動けないうちに敗報が届いた。また、大垣城では相良頼房・秋月種長らが同志の熊谷直盛・垣見家純・木村勝正らを討って、東軍に下った。この戦いに勝利した家康は、内応した小早川・脇坂・朽木を先鋒に三成の居城佐和山を落とし、毛利輝元と和談して大坂城から退去せしめた。これによって、東北・山陰・四国・九州の各地で起っていた小戦闘も終熄した。九月二十一日石田三成は伊吹山中で捕えられ、小西行長・安国寺恵瓊らとともに京都六条河原で処刑された。家康は石田・宇喜多・小西・長束らの領地を没収し、地位保全を約した毛利氏を防長二国に押し込め、上杉・佐竹を減知の上本領を移して勢力を削ぎ、それらの没収地六百六十二万石余のうち八〇%の五百二十万石を旧豊臣系の諸大名に加増として配分した。しかし、それは大規模の転封を伴うもので、そのため空白となった関東から畿内を結ぶ諸国には家康の譜代の部将が加増(合計百十万石)されて配置され、江戸幕府の大名配置の原型が完成した。これは、外様大名に対する軍事的警戒を露骨に示すもので、福島正則などは加増されながら尾張清須から安芸広島に移され毛利氏の押えとして利用された。これによって家康の実力は圧倒的なものとなったが、なおこの時点では豊臣政権の五大老の立場で行動しており、独自の権威を持つのは慶長八年の征夷大将軍補任を待たなければならなかった。
     関ヶ原の戦に関する史料としては、まず戦記があげられる。全般的な戦いを概観するには、太田牛一の『関ヶ原軍記』、酒井重忠の著わした『関ヶ原記』、阿部忠秋の同名の書、酒井忠勝の見聞をもとに林道春・春斎が編纂した『関ヶ原始末記』、それをもとにして種々の他書を参考にしつつ宮川尚古が編んだ『関ヶ原軍記大成』、作者未詳の『石田軍記』などが便利である。また、参加した大名個人の動きを中心に編まれた『黒田長政記』『清正記』『脇坂記』『細川忠興軍功記』などは、成立も比較的早く、当時の見聞や体験がもとになったと考えられるので利用できる。しかし、最も信頼できるものが当時の古文書・記録であることはいうまでもない。古文書は、中村孝也の『徳川家康文書の研究』に家康の発給した文書とその関連文書が収められている。合戦に参加した大名家の文書については、『島津家文書』『毛利家文書』などに関連史料が多く見える。また、後世の編纂物ではあるが、『寛政重修諸家譜』やそれぞれの家の家譜や家記に当時の動静が記されており、古文書が収録されていることもある。一方記録では、『義演准后日記』『時慶卿記』『言経卿記』などに当時の風聞が記されているが、あまり詳しい記事はない。家康の侍医板坂卜斎の随行記である『慶長年中卜斎記』は、この時期の家康の動きを知る上での重要史料である。また、作者は不詳であるが、『当代記』は、この時期の全般的政治情勢が広く記されている。合戦に参加した諸家の家臣の覚書・書上・聞書の類は、質・量ともに一級史料であり、たとえば島津家では『旧記雑録』や『旧典類聚』の中に多数収録されている。また、格別に覚書が残っていなくとも関係大名の家臣の由緒書などに関ヶ原での動きが記されている場合が多く、このような史料はいまだ十分には発掘されていない。また、当時の武将の逸話などについては、『老人雑話』『落穂集』『常山紀談』などがあり、参謀本部編の『日本戦史』関原役の補伝には、そのような逸話が集められている。なお、藤井治左衛門の『関ヶ原合戦史料集』は、永年にわたって蒐集した戦いに関する史料を綱文をたて編年に並べている。

КОМЕНТАРІ •