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毎度お馴染み家康の抜け駆け禁止令ですが、大阪の陣でも井伊直孝がやらかしていますがお咎めはありませんでした。島原の乱のクライマックス原城攻囲戦でも諸将は抜け駆けばかりで足並みが揃わず苦戦を続け、江戸から駆け付けた松平信綱により抜け駆けは厳罰に処すと重ねて命令したにも関わらず、最終戦でも抜け駆け合戦により足並みを揃える事無くなし崩し的に総攻撃が始まっています。関ケ原で井伊直政らの禁じられた抜け駆け合戦があったのにお咎めが無いのは、当時としては普通の事です。
長い歴史の中でそれぞれの書き手が演出を加え続けて、それを史実と錯覚しまいがちなのが戦国ものですよね
まぁ明確に証明や否定を立証出来なければ仮説となりますからね😅花の慶次が連載されていた頃の話ですが伊達の小次郎と片倉小十郎を混同してたり作品世界の話を鵜呑みにしてる人も居たのよね今も動画やSNSの情報を事実と思い込んじゃう人が居るから似たようなもんか😅
小早川は裏切ったと言うよりは、本音では最初から東軍だったけど、西軍のど真ん中ではそれを言い出せば真っ先に囲まれて潰されちゃうから時期を待っていただけでしょう。どさくさ紛れに松尾山占領して東軍との合流の目処がたった時点で安全も功績も確保。
おまけに松尾山占拠してた西軍の武将を追っ払ってますしねww
前日に小早川が松尾山を占拠した。裏切られると撤退路が立たれてしまうので対応する為に西軍は関ヶ原へ移動した、東軍はそれに気づいて追いかけるように関ヶ原へ入って戦闘になった。という説を自分は信用してます。
関ヶ原に立ち続けて423年いろんな説があっていいですね!
仮に実際の武力衝突の時間が2時間程度だったとすると、可児才蔵はその短時間で武装した相手を17人倒してることになり、彼の超人性が倍増する。
それは時間の計算の仕方がおかしいよ。勝負がついたからよいって戦場の関ヶ原に人がいなくなったわけじゃないんですよ。一方的に首をとる者ととられないために逃げようとする者が明確になっただけ。むしろ勝利した側に所属できたものにとっては勝負がついてからが本番です。できるだけ首を取って恩賞にありつけなければ意味がないのですから。2時間で勝負がついたからといって首を取ることをやめるわけじゃないんです。井伊直政などの軍がその典型で恩賞首目当てで島津に襲い掛かり逆に手痛い逆撃を食らって当主の直政は負傷してその傷がもとで数年後に亡くなっている‥
あとは島津の戦線離脱も
音楽が大きくて声が聞きづらい
寡兵で参陣した島津は、武名を高めるための好機を探っていたら、戦いの趨勢が決まってしまったんでしょうね。その後、敵中央を突破して撤退し島津の武名を高めましたが。
問鉄砲に関しては当時の火縄銃の有効射程は精々100メートル、家康の初めの本陣の桃配山から松尾山まで2キロメートル以上あります。どこの莫迦が自分に向かって射撃してると感じるのか?その点を誰もこれまで言及してないのがおかしいと私は思う。当時の鉄砲の最大射程を説明してる文献を残念ながら見つけられてませんが黒色火薬を使ったマスケット銃は良く飛んでも500メートルくらいだと思う。
さすがにちょっと無理がありますよねぇ。
ただ単に準備ができたことの合図だったのではないかと思います。 こちらもできました。こちらもです。東軍は準備ができたようですね。じゃそろそろ大谷刑部の軍に攻めかかりますねってゆうような‥この戦は大軍同士の戦いで戦場も広い。いちいち伝令を出して知らせることができるような戦いではなかったと思われます。陣太鼓でさえも届かぬほどであったと思います。鉄砲の音はその代わりとしていたのではないでしょうか?
9mm弾を使うベレッタM92でも160cmの人間が水平に撃ったら150mで落達するから銃身が長いとはいえライフリングもなく火薬の技術も劣りバイオコークスもなく鋼も使ってない当時の銃の射程なんてお察し
火縄銃は保存会があり、TVでも歴史番組の検証なんかで使われます。最大射程は500mといわれています。ただし、これは斜め上に打ち上げて、500m先に落ちるって話です。射程を伸ばすだけなら、火薬の量を限界まで増やす手もあるし。有効射程は50mぐらいって認識でいいと思う。練習すればある程度当てられるようになると思うけど、兵隊全員に練習させるほど、火薬や弾持っている人はいないだろうし。あと、ライフルが切っていないから弾のブレひどい。銃を固定して同じ照準でうっても弾が別の場所に飛んでいく。 [歴史探偵] 長篠の戦いを徹底調査!織田信長 三段撃ちの真相 | NHKua-cam.com/video/Bd_k0PcRaQA/v-deo.html
関が原がそもそも早期決着が予想された戦闘、あるいは偶発的なもので大規模戦闘のようなものはそもそもなかったとしたら中山道を進軍していた秀忠の第二次上田合戦も意味合いが変わってくる実は秀忠は家康の命令で上田城を陥落させるために進軍していたのではなかろうかしかし、城攻めが思うようにいかず失敗、そこで当初の目的を隠し関が原に遅参したと家康が庇ったのでは?
偶発なものとは考えられない。そもそも西軍は東軍が引き返してくるのを知っていたわけで有利な地形を占拠して待ち構える形で偶発的とは考えられない。家康の命令で上田城を陥落させるというのも現実味がない。家康は本体の秀忠の兵と一刻も合流しなければ手持ちの兵は少ない状態でありいつまでもその状態を続けるはずもない。家康は手持ちの兵が少なく人の兵を借りて関ヶ原に勝利したことに結果的になった。豊臣恩顧の大名に大領地を与えることとなり江戸幕府前期にはこの大名を取り潰していかなければ政権を保てないということにもなった。そもそも上田城を無視して進軍したとしても体制にはほとんど影響はなく落とす戦略的意味はない。意味のないことを一刻も自前の兵が欲しいときに命じるわけもない。
@@mikionakata7921 すいません、ウィキペディアに秀忠の進軍は信濃国平定の目的もあるとありました真田を具体的に攻撃しろという目的はあったかどうかは分かりませんが関ヶ原への進軍以外にも目的はあったと見るのが正解なようです自分の勉強不足から招いた誤解です、すみませんでした
@@愛ランド-j5t信濃平定は地方領でのこと関ヶ原は天下分け目の戦いです。貴方がもし存亡の危機であるのに自分が持っている兵が少ない他人の兵を当てにして戦うしかないという状況で地方領地のことなんて構っていられると思いますか?全体でも兵の数が万の単位で少ないんですよ。徳川本軍が到着してやっと兵数が勝るんです。そのんな状況でわざわざ劣勢で戦うことにするんですか?現実離れであるというのは信条からも状況からも言えることだから言っているんです。
@@mikionakata7921 最近の研究では西軍は松尾山の小早川に対応するために山中(さんちゅうでは無く山中村と思われる)に急行中に東軍に追撃を受け、向かう先の小早川軍と後ろから来た東軍に挟撃されてあっけなく崩壊したという話。2時間程度と言われるのも納得。
関ヶ原が短期決戦なら、何故定説では長くなっているの?と推測するのもまた一興。結論から言えば「その方が都合が良かった」江戸時代、大名や武士にとって先祖が関ヶ原に参戦(勝利)していたというのは誇りでさらに彼らは話に尾ひれを付けて先祖の活躍を創作する。当然話は、つまり時間経過は長くなる。短期決戦では矛盾が出るからね。江戸幕府は大名から由緒書の提出を求めたとき、東軍系大名はそれら創作を取り入れる。幕府にとっても都合が良いので採用。悪役とされた石田たちは滅んでるので反論する人もいない。結果「時間は長い」定説が生まれ、史料批判もなく21世紀まで来たという事ですね。
そもそも島津勢は傍観していた訳ではなく布陣が二番備だったから他の諸将より後方にいたという話では
そもそも1500しかいねぇし、戦闘は2時間だしで全然傍観説の根拠ないよな
関ヶ原(本戦)の戦いの前日に起きたとされる杭瀬川の戦いは、どの動画でも触れられていないのですがこれは今まで通りでしょうかね?
小早川秀秋の話の時の肖像画が吉川広家になってますよ💧
夜襲提案するなら三成側のほうがよっぽど土地勘あるだろうにな、地元で戦やっているんだから。三成は近江で滋賀県の琵琶湖西側、関ケ原は岐阜県関ケ原で近江からも比較的近いはず。
3分55秒くらいに出てくる古文書は嘉永7(1854)年11月5日に起こった南海地震の記録を記したもののようですが?
すごいですね!古文書自体は動画とは関係ないです。そこまで見抜かれてしまうとは・・・
桃配山から松尾山まで火縄銃って届くものなのでしょうか?
届かない
開戦時間と井伊直政隊の抜け駆けに関して思う事。敵方が霧の中を忍て奇襲してくる事の警戒や前方の状況確認の為に少数の偵察隊を出したりは有りそう。霧の中、本戦が始まる前に小競り合いが起きていてもおかしくはないのでは?。そうして霧が晴れて視界が開いた10時ごろに福島隊が取り決め通り先陣として進み接敵、本格的に開戦したとかどうかな。
ありそうですね。斥候同士が遭遇して小競り合いになったが‥それは先駆けとはみなされなかったという理由で福島が先陣とされたのでしょうね。
奇襲が得意な島津なら土地勘ある現地の人を雇ったり熟練の物見役は居たと思うけど、三成の夜襲却下がフィクションなら最初から関ヶ原前夜の流れから変わっちゃうね
現在の定説や布陣図は、明治の日本陸軍が、その当時に集めた資料で作った物だから。そのほとんどが二次、三次資料からだったのかもね。
12:08 漫画の影武者徳川家康では秀忠が出しゃばったエピソードだな
ランニングと歴史が趣味なので関ヶ原を走って見ましたが、問鉄砲はないと思いますよ。松尾山はかなり高いし、戦いの最中に鉄砲の音が聞こえてもそれが意味があるように聞こえないのではと思いますね。 戦いの最中ですからかなりガチャガチャしてるでしょうし。
それにしても午前10時~12時の2時間とかあの頃の時代から皆が時をちゃんと分かるということ自体凄いなぁ~と思う。
日の出から日没をベースに干支で割って使ってただけだから時間の経過なんて人それぞれだしアバウトだけどねw
沖縄県民は、いつも1時間遅れて集まるんだからホントの時間は知ってるさー
実際には2時間位という説は聞いた事はある。小早川秀秋の心情?歴史は推理の宝庫、
この頃の刻って季節によって変化してたよね?1刻が2時間だったり3時間だったり生活リズムに合わせて変化してたはず。その変化さえも正確に標すからくり時計があって感心したから覚えてた
戦国時代は一部では西欧の機械式時計を所有する大名もいたけど、携帯できる時計が皆無だった時代です。全軍が共通して、正確な時刻を記録に残すことは難しかったのでは? (太陽を目安にしても霧深かった当日はバラつきがあったと思われます。)ただ、正午であれば太陽は頭上にあるはずなので、終了時間に関してはある程度、認識が一致しているかもしれません。
一刻ニ刻の体感差はありうると思います。
2時間説は西側が長期間の行軍で兵士の大半が低血糖状態に陥り接敵してもまともに戦えず押し込まれたからと言うものもある
岐阜城があっさり落ちたせいで西軍は戦略が破綻してますからね。
西軍は待ち構える形で布陣していたそれは引き返してくる東軍に言えることであって西軍に当てはめるのは無理があると思う。
秀秋さんと言えば、そもそも家康からの砲撃が聞こえてすらいないみたいな話、ありませんでしたっけ
白峰旬氏の説ですよね😀関ヶ原の合戦に関する多くの書籍を有する関ヶ原町図書館には置いていません😆古戦場跡に行くと解りますが、小西・宇喜多隊の東方に島津氏陣地跡があり、島津隊を避けて戦うことは容易でないことが確認できます。しかし関ヶ原町山中辺りを主戦場とすれば、島津隊を回避して戦うことは可能だと思います。つまり、関ヶ原の合戦は追撃戦であり、現在広く流布している西軍が半鶴翼に展開した陣を敷き、東軍を迎え撃つたという華々しい合戦ではなかったとする説だと承知しています。
島津勢が三成と不和でなかった可能性が出てるというのは初めて知りました私個人の歴史認識って創作物から受けた影響がかなり大きいです若い頃は小説家は例外なく学者顔負けの綿密な調査をしてるものと思い込んでいて、想像で行間を埋めるなんて基本しないものだという思い込みがあったため、小説=史実なんだと思ってました定番の展開がほとんどの小説で踏襲されてたりすると、そのくだりはもう事実として揺るがないものなんだとずっと思ってましたw最近になって根拠をしっかり明示した解説が増えて、冷静に当時のことを議論できるようになったのは良い事だと思いますとはいえ、ある程度のいい加減さを許容してたほうが、奇想天外な歴史フィクション創作が可能になるので、事実探求と創作を混同しないよう気をつけながら、どちらも楽しめるのが理想だと、個人的には思ってますw
通説がたくさんの根拠に基づくものなら問題ないですが、書いた人の感想となってしまっている通説も多いですからね。特に小説当たりが元だともうどうしようもないですねぇ。今回の関ヶ原の戦いは調べれば調べるほどわからないことが増えていくという不思議な話でした。数年後にはまた話が変わっていると思います。
巳の刻~午の刻ってけっこう曖昧ですよ。十二辰刻法は不定時法の一つですから冬と夏では昼間の時間の長さが変わります。夏の巳の刻~午の刻は現在の五時間に相当します。戦いが9月だとしても一概に二時間で戦いが終わったとは決めつけられません。
戦いは9月だけど、これは旧暦なので現在の暦で言えば10月半ばですよ。陽はもっと短いですね。
「関ヶ原の戦いはなかった」乃志政彦、高橋陽介著 河出書房刊によると 西軍は三つのグループに分かれていて、吉川の働きかけで毛利輝元グループが和議を成立。その日に秀秋が松尾山を占拠した。それを知った三成グループは、松尾山のふもとにいた大谷隊を助けると共に退却しやすいように夜に大垣城から出発。他の西軍グループには無断の行動で、「三成は退却した」と思われてしまい、合戦後の印象が悪くなる。その三成の行動を偵察などで察知した福島隊などが、すぐさま後を追う。家康は大垣城で決戦を予定していたので、赤坂に着陣して動かずに、吉川からの和議を受け入れる。翌、巳の刻に三成たちが山中(地名)に陣を張っている所に福嶋隊らが突入。松尾山でそれを見ていた秀秋隊もすぐに山を駆け下りで大谷隊を急襲。奇襲に近い形だったので、激しい戦いだったが、あっという間の二時間で決着。恐らく西軍の五奉行の増田や前田などが三成のせいにしてしまい、後世で三成がひとり悪者になってしまった。本当の元凶は毛利輝元と増田、前田、浅野。
午前10畤開始、ってどうして分かったのだろうか? 近くのお寺の鐘の音が聞こえたのだろうか? でも大軍がひしめいていて雑音がひどくはなかったのだろうか? 考えると夜も眠れない。
日の出から太陽の角度を見て各々数えてるからですね。寺の鐘で時刻を知らせるようになったのは江戸時代家光の時代からです
@@Donald_Trump0614なるほど、そうなんですね。
二時間では大谷隊が押し返す時間さえも無さそうですね…実態は大垣城から逃亡する大阪方を関東方が刈り取る凡庸な追撃戦だったのかな。
意地だけで1戦したみたいな感じかなって思ってます。
@@Japanese_history昔NHKの番組で吉継の陣を調査したら秀秋の松尾山に向けて作られている結果が得られたと言ってました吉継の部隊は秀秋と東軍の部隊に挟み撃ちにされてあっという間に崩壊したんじゃないかとも言われてます
ほんで新しい天下分け目の合戦は何にするの?
小早川秀秋の処で出た肖像は吉川広家の物のように見えました…🤔さて、関ヶ原の戦いは意義も規模もまさに日本史上最大級の合戦ですが、実に奇っ怪な不思議な戦でしたからね。実際の当事者同士でさえ、証言が噛み合わず色々に齟齬が生じていたような、そんな気がします。
いつもコメントありがとうございます。画像は誤りかもしれません。申し訳ありませんでした。関ヶ原の戦いは調べれば調べるほど事実が減っていく不思議な現象でした。ここまでくると何が正しいのかよくわかりませんね。本能寺の変とは違った意味でミステリーです。
@@Japanese_history 私たちが知っている関ヶ原は司馬遼太郎の描いた「関ヶ原」と言う一大叙事詩の方なんでしょうね🤔
松平忠吉=2代将軍秀忠の同母弟。「どうする~」で母於愛の方とお絵描き遊びをしていて寝ていた弟の方ですね。直政の娘を正室にしていた関係で関ケ原で行動を共にしていた。一族の中で最も血が濃い存在を後の資料では優遇したのかもしれませんね。
松平忠吉は戦後の論功行賞で清須城をもらって、尾張に入ります。Wikiより本戦では舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、手傷を負うも島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。合戦翌日に直政が発した戦捷を伝えた書状への9月25日付結城秀康返書には、忠吉自身が高名を働き、その高名は直政が立ち添った故と、直政自身の高名と負傷に併せて記述している。
2時間なら弁当準備して食うには丁度いい時間やな!
旧日本陸軍の関ヶ原の戦いの陣構えが元になってる。
白峰説だと先陣は最初から井伊直政だったって話でしたね。軍監として本多忠勝と一緒に福島たちを率いる立場だったので、そもそも抜け駆けする必要がないと。個人的にはこっちの方がしっくりきました。
先陣の井伊直政は始めから建前だと思っています。徳川代表の井伊直政が先陣だと豊臣系大名の軍紀が整います。家康は豊臣系猛将の福島正則が東軍に帰順していることを試したと聞いたことがあります。家康は豊臣系大名たちに囲まれていることに不安があったようです。治部憎しの感情で福島正則が暴発することを期待していたのでは…福島正則が口火を切ったことで豊臣系大名たちは東軍に団結したのでしょう。井伊直政は餌で家康が福島正則の感情を利用したと考えています。
もし当事者達に話を聞くことが出来たとしても、話が食い違いすぎて真相を掴むのは難しいと思う。今だって会社のおっさん達は、あの取引は俺が纏めただの、俺が若い頃に開拓したから今の取引があるんだとか言うでしょ。歴史は真実が分からないから面白い。
全くその通りでしょうね。今ですら厳しいのにこの時代にそんなこと不可能でしょうね。
天下分け目の合戦という割には、後付けの情報にすら純粋な合戦の推移についてのものがあまりなくてむしろ合戦前後のあれこれや誰それが裏切ったの動かなかった退却したのいう情報ばっかりなんですよね関ヶ原の戦いってなんていうか非常に「政治的」な合戦という感じがします純粋な武力や戦術の出番があんまりなくて、家康を次代のボスとして認めるか、その政治力を確かめるための儀式的な何か、そんなものだったような気がします
確かに戦国時代を象徴とするような戦いの割には政治的なやりとりで片が付いた戦いだと私も思います。正確な戦いの流れが未だに諸説あるのはあんまり戦い自体が重視されず、おっしゃるように儀式の一環だったからかもしれませんね。
問鉄砲の件。一次資料に近い資料に、関ヶ原のときに徳川陣から銃声が聞こえたので小早川側から問い合わせに行ったら「ごめん誤射した」と言われたという記載があったことが見つかったと聞いた。この話に尾鰭がついたのかな? って、これだと最初から小早川東軍扱いじゃないか。
関が原には東軍で参戦した説が結構出回っていますね
小早川は西軍の後方の松尾山城を押さえたから退路と補給路を奪われた西軍はあわてて攻撃しにいったら東軍が後方から追撃して挟み撃ち食らっただけなじゃないかと2時間とか徒歩で関ヶ原移動するので精一杯だしそれで後方からの追撃を押さえるはずの毛利が素通しさせたからパニックになって敗走したのでは?銃撃を聞いた小早川は挟み撃ちにするために山を降りただけで10年くらい前に読んだ関ヶ原考察の本にこんなことが書いてありました
そもそも松尾山は関ヶ原のときは石田三成の部下の伊藤盛正が守ってた砦でしたが前日に小早川秀秋が強引に奪い取ってますこれはすでに明確な裏切り行為でありその時西軍の前線は大垣にありました通説ではこれは裏切りと思われてないようですが実際は裏切ったと判断されていたのではないかと思います
BGMうるさいなぁ
島津系は素人考察していた人達だとそもそもちゃんと言語通じてたのか?ってのがあったな普通に考えたら通訳必要なレベルで訛ってただろうし書かれただけの資料だとこの辺はさっぱりわからないから、ないってのも考えられない
伊集院忠棟の奥さんが家康に夫の忠棟が主君の忠恒に斬られて…と訴えたけど方言がまるで意味が解らなかった。なんて話もありますね…(方言通じない)義弘自身は京暮らしそこそこ長いから頑張れば喋れたろうし、交渉にあたっては薩摩に下向した経験ある近衛前久・信尹親子がいるから通訳として機能してたでしょうけども
鬼武者やドリフターズのアニメの中だと「関ヶ原は地獄だった」説で話してるけど、2時間じゃそんな地獄になる前に終わりそうだね。
まず合戦場所が関ヶ原より西にある山中村付近であった。宇喜多、小西、石田隊などが夜間行軍後、陣城作成中に、東軍に襲撃され短時間で壊滅した模様。一次資料より 小早川に関しては、東軍への寝返りが周知の事実であり、その備えで大谷隊他が備えていたが、開戦と同じくして、小早川隊がなだれ込んだらしい。
そうですよね。これは説では史実ですよね。天下分け目の合戦→徳川幕府→明治維新の流れで関ヶ原合戦をクローズアップし過ぎだと思います。外様藩の廃城令や廃藩置県が正当化されて現在に至る。
自分達が知ってる歴史は「信長の野望」どころか「戦国無双」はては「戦国BASARA」でしかなく。自分達はそれを「史実」と思って信じて学んでいるに過ぎないかもしれないって事か。極論だけど。
陣の後片付けや残党狩りの方が時間かかってそう
土地勘云々は島津の退却戦と同時解決しないと。土地勘がないから夜襲提案はなかったけど、土地勘がないのに退却戦に成功したでは整合性がいまひとつ。いやまあ、多分退却戦なかった説がもどうせあるんだろうけど。
土地勘が無いから伊勢街道に行くしかなかったとかありますよね
話は感心あって 聞きたいが 後ろの伴奏がうるさいです
すいません。音声間違えてしまったみたいです。次から気をつけます・・・
無茶苦茶な位置に皆さんいますよね多分参加した大名の大半は何がおきてるか掴めずに見てただけでは?で3割ぐらいが戦闘に参加なら2時間説も普通。石山合戦や川中島など対陣してるだけで終わるのが実はノーマルな状態。タヒんだら終わりだし逃げ出したら後ろからやられる秩序が失われたら誰も大将さえ守らない。ばらばらになったら百姓にさえやられる。
どっちにつこうか愚図愚図している秀秋はドラマで描写する絵になる場面よな
光秀も裏切り者の末路はドラマになりやすいね
お互いに土地勘がないから夜襲はないと思い込んでるから効果的かもよ。
結局は説の一つにしか過ぎない話。だが、ロマンがある!タイムマシンがあったら、関ヶ原とか桶狭間とか見に行きたいよね!沢山の説がありすぎるからね信長なんて思慮深い優しい信長と、手が付けられない乱暴者の信長が双子で存在したとかまで言われているし源義経がモンゴルにわたって覇権を取ったとか漫画みたいな説もあるからね
「2時間説」は面白い。やはり島津が傍観した理由にかかわらず不思議なのは「東軍に内応してない」島津がなぜ傍観だけして「負けが決まってから」家康本陣に突っ込むという「逃げる時だけ華やか」なのが意味不明だから。生死がかかる大いくさで「傍観」するのは勝つ側につくはずではないのなら「YOU何しに来たの?」というのが定説では不明だからだ。ただ一点戦いの中身に関わらず、隠居させられた三成が大大名家康に対抗し短時間で東軍に迫る軍勢を立ち上げた才能は凄いと思う。石高で10:1ほど官位も内大臣:治部の少輔と全然違う。いかに実務を仕切っていたにせよ毛利・上杉ほか反家康の大老・奉行をまとめて西軍を立ち上げた能力は秀吉などにも並ぶほどの能力とも思う。なお三成の子がみな死罪になっていないのも家康が「敵ながらあっぱれ」という尊敬の念を持っていたから「かも」知れない。
石田三成は西軍大将でないようです。総大将毛利輝元、実質大将増田長盛、関ヶ原現地大将 長束、サブが安国寺。その下に大谷。これが当時の資料による命令系統となります。
島津の参戦は京都の見回り中に小早川挙兵に巻き込まれている。伏見城入りも鳥居元忠から門前払いに…薩摩に援軍要請しても却下されている。西軍に関ケ原まで引きずり出された被害者でしょう。島津はもともと家康に恨みがないよね。敵前逃亡でなく中央突破が鬼島津かな。戦後の論功行賞でほぼ所領安堵だよね。石田三成は大好き。秀頼公をないがしろにする家康は豊臣政権内で嫌われている。三成や淀君含めて大老の毛利・上杉・宇喜多や奉行衆など内府が目障りだったはず。大谷吉継は治部は人望がないので総大将の器でないと言っている。関ケ原の戦いは三成だけでなく豊臣恩顧vs徳川+謀反者でしょう。斬首の瞬間まで豊臣恩顧の石田三成が好きなんだよね。
最近は島津義弘は初めから西軍首謀者だったという説が有力だと聞きましたが。「どうする家康」でも鳥居元忠が島津隊を追い払ったという話が出てこなかったと思います。午前10時から12時だと、両軍が夜中に移動して明け方に布陣、早朝から戦闘が始まったという前提が成り立たなくなりますね。関ヶ原ではなくもっと松尾山の近くだったという説もありますが、その場合東軍の誰が西軍の誰に仕掛けたという話も疑わしくなり何を信じていいか分からなくなります。二次資料の話でも通説を維持する資料が見つかる方がスムーズに理解出来る気もしますが。
物語を作るのならそれでいいかと思いますが、歴史を明らかにするなら一次資料を重視すべきかなと思います。ここら辺は考え方の違いでしょうかね。
関ヶ原近隣の寺社にも何の証言も記録も無いんですよね。本当は全然違う場所だったりして😂😂😂
山崎の戦いもそうだけど、軍記物を歴史資料扱いするのやめて欲しい。読み物として面白おかしく盛り上がるように脚色しとるに決まっとる。
三成が大一大万大吉の陣幕を使ったと言う一次資料はない。逆に白地のままの陣幕だったとの一次資料はある。てかそもそも石田家の紋が九曜紋だったとするのも江戸期の創作物だったりするし、大一大万大吉は家紋ですらない(大一大万大吉は室町期に流行った縁起のいい言葉だったりする)
三成は武家でないの家紋がなかった。陣幕に困ったので「大一大万大吉」を採用した。インテリらしい三成のエピソードですね。
旗印と馬印(軍旗)と家紋は別のものです混同してはいけません。例えば織田信長の家紋は織田木瓜ですが馬印(軍旗)は金の唐傘で旗印は永楽通宝です。大一大万大吉は縁起がいいから旗印にしたということです。
徳川家臣の記録によると真っ直ぐ進軍してたらすでに敵が戦っていていともたやすく三成本陣にたどり着いたってのがある。小早川が早期裏切りならその状況も2時間で終ったのも納得出来る。けどこれを映画やドラマにしたらすげえ盛り上がらないだろうね^^;
そもそも西軍で戦う予定の人が動いてませんから、あっさり本陣についてあっさり終わるのも当然かと。まぁ今の通説でも規模の割に微妙な話なので色々作らないといけなかったんでしょうね。
関ヶ原って戦術や戦法がどうというよりかは、小早川秀秋に対する離反工作とかで戦う前から政治的に決着がついてたんかねえ。だとすると、ドリフターズのスキピオが行ってた通り、確かにドキドキもなにもないつまらない戦争だ。だからこそ島津の退き口が映えるわけだけれど。
早くセンゴク作者の関ヶ原が見てえ
東軍は夜を徹して大垣城から移動してきたわけでそれを10時頃まで攻めることなく休ませていたとは思いにくい 開戦は8時頃と考えた方が妥当に見える また秀秋の攻撃開始はもっと早かったのではと思われる
蟹江敬三「わしの名場面にケチ付けやがって!」
素人なのでよく分かりませんが島津は自分達主体ではなく、ほぼ地元の石田隊が道案内すべきって提案したなら可笑しくないんじゃない?(佐和山は近くだったよね?)あと敵中横断は撤退する道がそこしか無かったから(後は他の諸将の軍で混雑していた)って聞きました
島津家がよその人を前提にした計画は立てないと思ってましたけどたしかに当てにした可能性はありますね。
姉川の戦いも凄く微妙多分偶発的な遭遇戦と一時の混乱ぐらいかと。双方にほぼ影響が無いから川中島の戦いみたいなものだったのでは?
正しい資料と創作物語と御家中心の解釈で3種類ぐらいあるだろうね
島津は土地勘ないって、土地勘ある兵士を三成から何人か借りれば解決では?
輝政と正則が喧嘩したのはガチなのか、、
俺が一番不可解なのは、関ヶ原の後の処遇について。加増、改易、減俸など、家康に決める権限があったのだろうか?確か家康は五大老筆頭格の内府だったはず。主はあくまで豊臣秀頼なのだから、秀頼、淀殿の承諾なしには大名への論功行賞など出来ないと思うのだが。大して功績のない結城秀康が一番加増が大きいことなど、徳川が大きくなることを望まない大阪方が了承するだろうか?
だが豊臣恩顧の大名の福島や加藤y小早川なども領地が倍近くに増えたのだからそれを異議を出せる立場でないとも思う。異議を出せるものは敗者側にいたのだからなおさらであると思う。
実際の戦闘は関ヶ原ではなくもっと西の山中だった、ってのもあるね。それで現時点でもっとも考えられる関ヶ原の戦いを動画にしてほしいね。
山中丘城は、大谷吉継が陣してた丘城。関が原から山中まで広範囲に闘ったんだろう。
あはは・・・この辺の話、この前闇鍋ジャーナルで一平ちゃんが言ってた様な・・・偶然の一致にしろ面白い・・・(^^)/
何にせよ、リメイク作ってくれないかな。アートディンクさん
義弘の夜襲提案に関しては、別に島津が土地勘がないからといって非現実的な提案でもなんでもない。土地勘のある人間に道案内させればいい。秀吉が墨俣に城を築いた時も、秀吉は土地勘なかったしね。実際どうだったかは知らないけど、土地勘ないからっていうのは理由にんらんと思う。
そもそもあの布陣も正確なのか怪しいいくら調略してたとしてもいくらなんでも前進しすぎ
講談や舞台なんかを面白くするために創作を混ぜ次の人がさらに混ぜてと繰り返したものが大勢に広まり通説となり史実みたいな扱いになってしまったんだろな
夜襲提案の証拠は無いので想像でしかない話、はっきりしているのは島津兵わずか1500人、東西軍もわずかしか戦っていない状況で、最初から戦える余裕はない、参戦時期を見計らっていたが、小早川等の裏切りで進退極まったのは事実。
関ケ原合戦のような多くの大名が関わる大規模戦でどの大名がこう言っただのああ言っただのという事細かなことが事実に基づいているとすることの方が無理がある。それぞれの軍の動きでさえ誰かが俯瞰で見ていたわけではなく後の人伝え、又聞きであり後世の創作や想像である可能性が圧倒的に高い。要はどの説も説に過ぎずどこまでいっても真実など判明しえないってこと。
可児歳三が17人の首を討ちとるという史実からして半刻で2人(30分で1人)討ち取ると推測して関ヶ原の合戦は丁度7時間30分となる八時間の激闘の定説とほぼ一致する
そして島津義弘は撤退戦を展開していく道すがら小田秀信配下の小林新六郎を道案内として雇い入れて大坂城まで行軍することになる
家康にとって非常な幸運は、福島正則という武将がいたことだな。
一番致命的なのは西軍の現場での総大将が明確じゃなかった事だろうね。東軍は家康という総大将がいた。でも西軍は三成はせいぜい調整役。序列からみれば宇喜多秀家がなるべきだろうけどそうじゃなさそう。つまり西軍は総大将を決めなかったのか決められなかったのかはじめからバラバラ。勝てる要素がない。
そうですね。はっきり言って烏合の衆ですからね。正直勝てる見込みがなかったのは大谷吉継あたりでも認識していたみたいですからね。
一応、西軍の総大将は毛利輝元で確定しているはずです。ただ、西軍自身が関ケ原での短期決戦ではなく、大坂城を中心にした長期戦を想定していたので、関ケ原現場での総大将と言うものを設定できなかったのだと思います。朝鮮の役でも同様ですが、複数の大名が連合して部隊を形成する場合、誰かが全軍を統率すると言う形は、お互いのプライドを刺激するので、取りづらかったものと思われます。家康も実際は各々の大名に色々配慮しながら依頼・調整して軍を進めると言う面倒な手間をとっており、全軍を指揮する総大将のイメージは戦後、江戸時代の過程で作られた可能性も高いと思います。
ドリフターズでスキピオ・アフリカヌスが言ってたw
一応、西軍の総大将は毛利輝元。最近の研究では、毛利輝元が大谷吉継にけしかけ、石田三成は担ぎ挙げられ、関ヶ原に参戦したとなっている。毛利輝元は息子を使って家康に裏で毛利領の安堵の密約を交わしていたことが一番 2:23 2:23 でかい。加えて小早川秀秋の寝返り。それすら察知出来なかったのが西軍の負けの要因。毛利輝元軍が動いていれば勝機は断然に西軍にあった。
@@kazuoka1143いや、毛利輝元は徳川家康と毛利家領土を安堵するという密約を結んでいたから大阪城から動かなかった。長期戦なんて考えていない。これを察知出来なかった石田三成の敗因。これが最近の研究だよ。
吉川広家の空弁当は事実確定なの?
宰相殿の空弁当もまず間違いなくフィクションでしょうね。そもそも昼飯前には終わってた説。
一色即発ってwww一触即発やろwww
最近では関ヶ原ではなく、山中で戦ってたのがある。
武蔵参戦もおかしい
「主戦場は山中村説」「毛利は徳川に誓紙を入れて開戦前に降伏説」もよろしく。
2〜4時間としとくべきだよね。10時に始まったと決めつけるのは良くない。
いつか死んで神様に出会える時が来たら、歴史の真実を全部教えて欲しいもんだぜ
平家物語の義経伝説やらと同じく、江戸時代に活躍してた講談師たちが商売の為におもしろおかしく話したおとぎ話が定着しちゃったってことなんでしょうね。現地の地形や地理を念頭に、物理的、時間的に検証すればいろんな真実が見えてきた。それが最近やっとわかってきたというのがすごいな。これまでいったいなにやっとんたんや?ってことだけど。明治時代にドイツのメッケル少佐が関ヶ原の東西の陣形を見て、これは西軍の勝ちだと即断したという話があるが、実は西軍が優勢なのに強いはずの西軍に裏切者がでて東軍が勝利、つまり、神君家康公の謀略はすごいだわ~というおとぎ話を作るために関が原伝説自体が捏造された神話なのかもしれない。いずれにしても、能や歌舞伎の題材もそうだけど、ひとつ言えることは、その民族が好むおとぎ話しか作られないということ。そして、それは民族の文化や価値観に深く依存した美学であるということ、自分はむしろ、その辺に興味がわきますね。
ドイツのメッケル少佐の説は面白いですね。黒田長政と吉川広家の調略がキーかも…
三成は司馬遼太郎の小説の関ヶ原で評価を見直されるようになったが‥昭和40年ぐらいまでは天下を狙う大悪党のごとく語られていたように思う。そのころまで西軍の大将は三成だったように誤解していた人が多かったように思う。
最新の情報をシッカリ抑えてれば新規でも古参に有利に渡り合えるから戦争や歴史のジャンルは趣味としてオススメやなぁ2000年に入るまで戦闘機隼は零戦の劣化コピーと信じて疑われなかったし朝鮮戦争でMiG-15にボコボコにされたと言われてたB-29はキルレは1:1で損失は対空砲の被害含め30機以下という状態欧州機の防弾とか上昇力を最重要視され軽量化したイギリスはもとより、防弾用のゴムが入手できないドイツ機が堅い訳がない(防弾に不安があると対地攻撃を外されたP-51Dより約1t軽いのが同じエンジンを載せてるスピットファイヤⅨ)黴臭い資料に頼ってるオタを蹴散らすのは中々の快感www
思ったよりもコロコロ定説が変わってるんですよね。歴史って。学校の授業も少し古い説が元になってるのでネットで最新の情報仕入れた子供に振り回されてるんじゃないかなーと思ってます。
@@Japanese_history 元寇の神風説の元になった資料が逃げる鎌倉武士が神社前を通ったら御神体が現れ元の兵士を次々射殺したってあって笑うしかなかったw戦争近辺の近代史が当てにならないのはアメリカの影響で仕方がないけど流石に元寇まで干渉しないだろうしw
「天下分け目の戦い」である事には変わりないの?
正直家康が殺されさえしなければ勝ち負け関係なく江戸幕府になっているような気がしますけどね。
家康が負けるとは家康の首がとられるということなのだから分け目の戦いであることには違いがないんだと思う。少なくとも西軍が勝ったなら東軍の大名の領地は減らされるか改易になるだろうから勢力図は大きき変ると思う。ただそれが豊臣が生き残れるかどうかは別の問題になってくると思が‥豊臣恩顧の大名も秀吉がいかに織田にとってかわったを見てきているわけで野心があれば次こそ自分が天下人と思っている大名もいたはずです。少なくとも関ヶ原には参戦しなかったが九州での黒田如水の動きはおそらくそのつもりがあったのではと思わせます。秀吉が如水を警戒して改易したいと思っていたらしい逸話は多くあります。冤罪ではなかったということです。
2時間説の場合 勝敗がほぼ確定したのが2時間じゃね
他の方もコメントされていますが、そもそも家康側の戦術機動に三成側が全く対処できず崩壊したって説があるみたいですね。なんか、こっちのほうがありそうな気がしますが、これだと決戦の名誉もないし面白くないですもんね。
BGMの音量が大きすぎて聞き取りづらい
いつもありがとうございます🙇昔、三浦友和が、、、扮する宇喜多秀家が夜襲を提案したドラマを観ました😊記憶違いだったら、ごめんなさい🙇
1981年、TBS の【関ヶ原】でした。
関ヶ原古戦場には、何故か遺骨すら発見されていない、
うら覚えですが、役後、確か東首塚、西首塚を作り、そして付近の寺等に手分けして葬ったとか。当時どの戦国大名の陣には、僧侶が従陣してようなので。当時、世界的にも戦死した兵士を葬る習慣は日本だけと言われている。中国、朝鮮半島等は、死者は穴掘って埋めるだけか、そのまま、放っておいて、カラスや野犬等が処理するに任せていたと言う。
当時は無線機もないわけで、部隊間の連絡はせいぜい伝令である。そんな状況で寝返りの細かい交渉をやれるわけがないw事前に交渉して話が付いていたはずであり、実はその事前交渉こそが本当の戦いである。退屈な江戸時代には尾ひれをつけた創作軍記物が大量につくられたはずである。
僕の場合は葵徳川三代で仕入れた情報が全てです。いまさら新説をとなえられてもすぐには納得できない。
少しアップデートしてみると新しい発見があって楽しくなると思いますよ!
あの時はたくさん人が死んだなー 可愛そうだった 死体の処理が大変だった って、落ち武者みたいな人が言うてた
何かに憑かれてるかもしれないからお寺とかで供養とかお祓いしてもらった方がええで
毎度お馴染み家康の抜け駆け禁止令ですが、大阪の陣でも井伊直孝がやらかしていますがお咎めはありませんでした。
島原の乱のクライマックス原城攻囲戦でも諸将は抜け駆けばかりで足並みが揃わず苦戦を続け、江戸から駆け付けた松平信綱により抜け駆けは厳罰に処すと重ねて命令したにも関わらず、最終戦でも抜け駆け合戦により足並みを揃える事無くなし崩し的に総攻撃が始まっています。
関ケ原で井伊直政らの禁じられた抜け駆け合戦があったのにお咎めが無いのは、当時としては普通の事です。
長い歴史の中でそれぞれの書き手が演出を加え続けて、それを史実と錯覚しまいがちなのが戦国ものですよね
まぁ明確に証明や否定を立証出来なければ仮説となりますからね😅
花の慶次が連載されていた頃の話ですが伊達の小次郎と片倉小十郎を混同してたり作品世界の話を鵜呑みにしてる人も居たのよね
今も動画やSNSの情報を事実と思い込んじゃう人が居るから似たようなもんか😅
小早川は裏切ったと言うよりは、本音では最初から東軍だったけど、
西軍のど真ん中ではそれを言い出せば真っ先に囲まれて潰されちゃうから
時期を待っていただけでしょう。
どさくさ紛れに松尾山占領して東軍との合流の目処がたった時点で安全も功績も確保。
おまけに松尾山占拠してた西軍の武将を追っ払ってますしねww
前日に小早川が松尾山を占拠した。裏切られると撤退路が立たれてしまうので対応する為に西軍は関ヶ原へ移動した、東軍はそれに気づいて追いかけるように関ヶ原へ入って戦闘になった。という説を自分は信用してます。
関ヶ原に立ち続けて423年いろんな説があっていいですね!
仮に実際の武力衝突の時間が2時間程度だったとすると、可児才蔵はその短時間で武装した相手を17人倒してることになり、彼の超人性が倍増する。
それは時間の計算の仕方がおかしいよ。
勝負がついたからよいって戦場の関ヶ原に人がいなくなったわけじゃないんですよ。
一方的に首をとる者ととられないために逃げようとする者が明確になっただけ。
むしろ勝利した側に所属できたものにとっては勝負がついてからが本番です。
できるだけ首を取って恩賞にありつけなければ意味がないのですから。
2時間で勝負がついたからといって首を取ることをやめるわけじゃないんです。
井伊直政などの軍がその典型で恩賞首目当てで島津に襲い掛かり逆に手痛い逆撃を食らって当主の直政は負傷してその傷がもとで数年後に亡くなっている‥
あとは島津の戦線離脱も
音楽が大きくて声が聞きづらい
寡兵で参陣した島津は、武名を高めるための好機を探っていたら、戦いの趨勢が決まってしまったんでしょうね。
その後、敵中央を突破して撤退し島津の武名を高めましたが。
問鉄砲に関しては当時の火縄銃の有効射程は精々100メートル、家康の初めの本陣の桃配山から松尾山まで2キロメートル以上あります。どこの莫迦が自分に向かって射撃してると感じるのか?その点を誰もこれまで言及してないのがおかしいと私は思う。当時の鉄砲の最大射程を説明してる文献を残念ながら見つけられてませんが黒色火薬を使ったマスケット銃は良く飛んでも500メートルくらいだと思う。
さすがにちょっと無理がありますよねぇ。
ただ単に準備ができたことの合図だったのではないかと思います。
こちらもできました。
こちらもです。
東軍は準備ができたようですね。
じゃそろそろ大谷刑部の軍に攻めかかりますねってゆうような‥
この戦は大軍同士の戦いで戦場も広い。
いちいち伝令を出して知らせることができるような戦いではなかったと思われます。
陣太鼓でさえも届かぬほどであったと思います。
鉄砲の音はその代わりとしていたのではないでしょうか?
9mm弾を使うベレッタM92でも160cmの人間が水平に撃ったら150mで落達するから
銃身が長いとはいえライフリングもなく火薬の技術も劣りバイオコークスもなく鋼も使ってない当時の銃の射程なんてお察し
火縄銃は保存会があり、TVでも歴史番組の検証なんかで使われます。
最大射程は500mといわれています。ただし、これは斜め上に打ち上げて、500m先に落ちるって話です。
射程を伸ばすだけなら、火薬の量を限界まで増やす手もあるし。
有効射程は50mぐらいって認識でいいと思う。
練習すればある程度当てられるようになると思うけど、兵隊全員に練習させるほど、火薬や弾持っている人は
いないだろうし。
あと、ライフルが切っていないから弾のブレひどい。銃を固定して同じ照準でうっても弾が別の場所に飛んでいく。
[歴史探偵] 長篠の戦いを徹底調査!織田信長 三段撃ちの真相 | NHK
ua-cam.com/video/Bd_k0PcRaQA/v-deo.html
関が原がそもそも早期決着が予想された戦闘、あるいは偶発的なもので大規模戦闘のようなものはそもそもなかったとしたら
中山道を進軍していた秀忠の第二次上田合戦も意味合いが変わってくる
実は秀忠は家康の命令で上田城を陥落させるために進軍していたのではなかろうか
しかし、城攻めが思うようにいかず失敗、そこで当初の目的を隠し関が原に遅参したと家康が庇ったのでは?
偶発なものとは考えられない。
そもそも西軍は東軍が引き返してくるのを知っていたわけで有利な地形を占拠して待ち構える形で偶発的とは考えられない。
家康の命令で上田城を陥落させるというのも現実味がない。
家康は本体の秀忠の兵と一刻も合流しなければ手持ちの兵は少ない状態でありいつまでもその状態を続けるはずもない。
家康は手持ちの兵が少なく人の兵を借りて関ヶ原に勝利したことに結果的になった。
豊臣恩顧の大名に大領地を与えることとなり江戸幕府前期にはこの大名を取り潰していかなければ政権を保てないということにもなった。
そもそも上田城を無視して進軍したとしても体制にはほとんど影響はなく落とす戦略的意味はない。
意味のないことを一刻も自前の兵が欲しいときに命じるわけもない。
@@mikionakata7921 すいません、ウィキペディアに秀忠の進軍は信濃国平定の目的もあるとありました
真田を具体的に攻撃しろという目的はあったかどうかは分かりませんが関ヶ原への進軍以外にも目的はあったと見るのが正解なようです
自分の勉強不足から招いた誤解です、すみませんでした
@@愛ランド-j5t信濃平定は地方領でのこと関ヶ原は天下分け目の戦いです。
貴方がもし存亡の危機であるのに自分が持っている兵が少ない他人の兵を当てにして戦うしかないという状況で地方領地のことなんて構っていられると思いますか?
全体でも兵の数が万の単位で少ないんですよ。
徳川本軍が到着してやっと兵数が勝るんです。
そのんな状況でわざわざ劣勢で戦うことにするんですか?
現実離れであるというのは信条からも状況からも言えることだから言っているんです。
@@mikionakata7921 最近の研究では西軍は松尾山の小早川に対応するために山中(さんちゅうでは無く山中村と思われる)に急行中に東軍に追撃を受け、向かう先の小早川軍と後ろから来た東軍に挟撃されてあっけなく崩壊したという話。2時間程度と言われるのも納得。
関ヶ原が短期決戦なら、何故定説では長くなっているの?と推測するのもまた一興。
結論から言えば「その方が都合が良かった」
江戸時代、大名や武士にとって先祖が関ヶ原に参戦(勝利)していたというのは誇りでさらに彼らは話に尾ひれを付けて先祖の活躍を創作する。当然話は、つまり時間経過は長くなる。短期決戦では矛盾が出るからね。
江戸幕府は大名から由緒書の提出を求めたとき、東軍系大名はそれら創作を取り入れる。幕府にとっても都合が良いので採用。悪役とされた石田たちは滅んでるので反論する人もいない。結果「時間は長い」定説が生まれ、史料批判もなく21世紀まで来たという事ですね。
そもそも島津勢は傍観していた訳ではなく布陣が二番備だったから他の諸将より後方にいたという話では
そもそも1500しかいねぇし、
戦闘は2時間だしで全然傍観説の根拠ないよな
関ヶ原(本戦)の戦いの前日に起きたとされる杭瀬川の戦いは、どの動画でも触れられていないのですがこれは今まで通りでしょうかね?
小早川秀秋の話の時の肖像画が吉川広家になってますよ💧
夜襲提案するなら三成側のほうがよっぽど土地勘あるだろうにな、地元で戦やっているんだから。
三成は近江で滋賀県の琵琶湖西側、関ケ原は岐阜県関ケ原で近江からも比較的近いはず。
3分55秒くらいに出てくる古文書は嘉永7(1854)年11月5日に起こった南海地震の記録を記したもののようですが?
すごいですね!
古文書自体は動画とは関係ないです。
そこまで見抜かれてしまうとは・・・
桃配山から松尾山まで火縄銃って届くものなのでしょうか?
届かない
開戦時間と井伊直政隊の抜け駆けに関して思う事。敵方が霧の中を忍て奇襲してくる事の警戒や前方の状況確認の為に少数の偵察隊を出したりは有りそう。霧の中、本戦が始まる前に小競り合いが起きていてもおかしくはないのでは?。そうして霧が晴れて視界が開いた10時ごろに福島隊が取り決め通り先陣として進み接敵、本格的に開戦したとかどうかな。
ありそうですね。
斥候同士が遭遇して小競り合いになったが‥
それは先駆けとはみなされなかったという理由で福島が先陣とされたのでしょうね。
奇襲が得意な島津なら土地勘ある現地の人を雇ったり熟練の物見役は居たと思うけど、三成の夜襲却下がフィクションなら最初から関ヶ原前夜の流れから変わっちゃうね
現在の定説や布陣図は、明治の日本陸軍が、その当時に集めた資料で作った物だから。そのほとんどが二次、三次資料からだったのかもね。
12:08 漫画の影武者徳川家康では秀忠が出しゃばったエピソードだな
ランニングと歴史が趣味なので関ヶ原を走って見ましたが、問鉄砲はないと思いますよ。
松尾山はかなり高いし、戦いの最中に鉄砲の音が聞こえてもそれが意味があるように聞こえないのではと思いますね。
戦いの最中ですからかなりガチャガチャしてるでしょうし。
それにしても午前10時~12時の2時間とかあの頃の時代から皆が時をちゃんと分かるということ自体凄いなぁ~と思う。
日の出から日没をベースに干支で割って使ってただけだから時間の経過なんて人それぞれだしアバウトだけどねw
沖縄県民は、いつも1時間遅れて集まるんだからホントの時間は知ってるさー
実際には2時間位という説は聞いた事はある。小早川秀秋の心情?歴史は推理の宝庫、
この頃の刻って季節によって変化してたよね?
1刻が2時間だったり3時間だったり
生活リズムに合わせて変化してたはず。
その変化さえも正確に標すからくり時計があって感心したから覚えてた
戦国時代は一部では西欧の機械式時計を所有する大名もいたけど、携帯できる時計が皆無だった時代です。全軍が共通して、正確な時刻を記録に残すことは難しかったのでは? (太陽を目安にしても霧深かった当日はバラつきがあったと思われます。)ただ、正午であれば太陽は頭上にあるはずなので、終了時間に関してはある程度、認識が一致しているかもしれません。
一刻ニ刻の体感差はありうると思います。
2時間説は西側が長期間の行軍で兵士の大半が低血糖状態に陥り接敵してもまともに戦えず押し込まれたからと言うものもある
岐阜城があっさり落ちたせいで西軍は戦略が破綻してますからね。
西軍は待ち構える形で布陣していたそれは引き返してくる東軍に言えることであって西軍に当てはめるのは無理があると思う。
秀秋さんと言えば、そもそも家康からの砲撃が聞こえてすらいないみたいな話、ありませんでしたっけ
白峰旬氏の説ですよね😀
関ヶ原の合戦に関する多くの書籍を有する関ヶ原町図書館には置いていません😆
古戦場跡に行くと解りますが、小西・宇喜多隊の東方に島津氏陣地跡があり、島津隊を避けて戦うことは容易でないことが確認できます。
しかし関ヶ原町山中辺りを主戦場とすれば、島津隊を回避して戦うことは可能だと思います。
つまり、関ヶ原の合戦は追撃戦であり、現在広く流布している西軍が半鶴翼に展開した陣を敷き、東軍を迎え撃つたという華々しい合戦ではなかったとする説だと承知しています。
島津勢が三成と不和でなかった可能性が出てるというのは初めて知りました
私個人の歴史認識って創作物から受けた影響がかなり大きいです
若い頃は小説家は例外なく学者顔負けの綿密な調査をしてるものと思い込んでいて、想像で行間を埋めるなんて
基本しないものだという思い込みがあったため、小説=史実なんだと思ってました
定番の展開がほとんどの小説で踏襲されてたりすると、そのくだりはもう事実として揺るがないものなんだと
ずっと思ってましたw
最近になって根拠をしっかり明示した解説が増えて、冷静に当時のことを議論できるようになったのは良い事だと思います
とはいえ、ある程度のいい加減さを許容してたほうが、奇想天外な歴史フィクション創作が可能になるので、
事実探求と創作を混同しないよう気をつけながら、どちらも楽しめるのが理想だと、個人的には思ってますw
通説がたくさんの根拠に基づくものなら問題ないですが、書いた人の感想となってしまっている通説も多いですからね。
特に小説当たりが元だともうどうしようもないですねぇ。
今回の関ヶ原の戦いは調べれば調べるほどわからないことが増えていくという不思議な話でした。
数年後にはまた話が変わっていると思います。
巳の刻~午の刻ってけっこう曖昧ですよ。十二辰刻法は不定時法の一つですから冬と夏では昼間の時間の長さが変わります。
夏の巳の刻~午の刻は現在の五時間に相当します。戦いが9月だとしても一概に二時間で戦いが終わったとは決めつけられません。
戦いは9月だけど、これは旧暦なので現在の暦で言えば10月半ばですよ。陽はもっと短いですね。
「関ヶ原の戦いはなかった」乃志政彦、高橋陽介著 河出書房刊によると 西軍は三つのグループに分かれていて、吉川の働きかけで毛利輝元グループが和議を成立。その日に秀秋が松尾山を占拠した。それを知った三成グループは、松尾山のふもとにいた大谷隊を助けると共に退却しやすいように夜に大垣城から出発。他の西軍グループには無断の行動で、「三成は退却した」と思われてしまい、合戦後の印象が悪くなる。その三成の行動を偵察などで察知した福島隊などが、すぐさま後を追う。家康は大垣城で決戦を予定していたので、赤坂に着陣して動かずに、吉川からの和議を受け入れる。翌、巳の刻に三成たちが山中(地名)に陣を張っている所に福嶋隊らが突入。松尾山でそれを見ていた秀秋隊もすぐに山を駆け下りで大谷隊を急襲。奇襲に近い形だったので、激しい戦いだったが、あっという間の二時間で決着。恐らく西軍の五奉行の増田や前田などが三成のせいにしてしまい、後世で三成がひとり悪者になってしまった。本当の元凶は毛利輝元と増田、前田、浅野。
午前10畤開始、ってどうして分かったのだろうか? 近くのお寺の鐘の音が聞こえたのだろうか? でも大軍がひしめいていて雑音がひどくはなかったのだろうか? 考えると夜も眠れない。
日の出から太陽の角度を見て各々数えてるからですね。
寺の鐘で時刻を知らせるようになったのは江戸時代家光の時代からです
@@Donald_Trump0614なるほど、そうなんですね。
二時間では大谷隊が押し返す時間さえも無さそうですね…実態は大垣城から逃亡する大阪方を関東方が刈り取る凡庸な追撃戦だったのかな。
意地だけで1戦したみたいな感じかなって思ってます。
@@Japanese_history昔NHKの番組で吉継の陣を調査したら秀秋の松尾山に向けて作られている結果が得られたと言ってました
吉継の部隊は秀秋と東軍の部隊に挟み撃ちにされてあっという間に崩壊したんじゃないかとも言われてます
ほんで新しい天下分け目の合戦は何にするの?
小早川秀秋の処で出た肖像は吉川広家の物のように見えました…🤔
さて、関ヶ原の戦いは意義も規模もまさに日本史上最大級の合戦ですが、実に奇っ怪な不思議な戦でしたからね。実際の当事者同士でさえ、証言が噛み合わず色々に齟齬が生じていたような、そんな気がします。
いつもコメントありがとうございます。
画像は誤りかもしれません。申し訳ありませんでした。
関ヶ原の戦いは調べれば調べるほど事実が減っていく不思議な現象でした。ここまでくると何が正しいのかよくわかりませんね。本能寺の変とは違った意味でミステリーです。
@@Japanese_history
私たちが知っている関ヶ原は司馬遼太郎の描いた「関ヶ原」と言う一大叙事詩の方なんでしょうね🤔
松平忠吉=2代将軍秀忠の同母弟。「どうする~」で母於愛の方とお絵描き遊びをしていて寝ていた弟の方ですね。直政の娘を正室にしていた関係で関ケ原で行動を共にしていた。
一族の中で最も血が濃い存在を後の資料では優遇したのかもしれませんね。
松平忠吉は戦後の論功行賞で清須城をもらって、尾張に入ります。
Wikiより
本戦では舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、
手傷を負うも島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。合戦翌日に直政が発した
戦捷を伝えた書状への9月25日付結城秀康返書には、忠吉自身が高名を働き、
その高名は直政が立ち添った故と、直政自身の高名と負傷に併せて記述している。
2時間なら弁当準備して食うには丁度いい時間やな!
旧日本陸軍の関ヶ原の戦いの陣構えが元になってる。
白峰説だと先陣は最初から井伊直政だったって話でしたね。軍監として本多忠勝と一緒に福島たちを率いる立場だったので、そもそも抜け駆けする必要がないと。個人的にはこっちの方がしっくりきました。
先陣の井伊直政は始めから建前だと思っています。徳川代表の井伊直政が先陣だと豊臣系大名の軍紀が整います。家康は豊臣系猛将の福島正則が東軍に帰順していることを試したと聞いたことがあります。家康は豊臣系大名たちに囲まれていることに不安があったようです。治部憎しの感情で福島正則が暴発することを期待していたのでは…福島正則が口火を切ったことで豊臣系大名たちは東軍に団結したのでしょう。井伊直政は餌で家康が福島正則の感情を利用したと考えています。
もし当事者達に話を聞くことが出来たとしても、話が食い違いすぎて真相を掴むのは難しいと思う。
今だって会社のおっさん達は、あの取引は俺が纏めただの、俺が若い頃に開拓したから今の取引があるんだとか言うでしょ。
歴史は真実が分からないから面白い。
全くその通りでしょうね。今ですら厳しいのにこの時代にそんなこと不可能でしょうね。
天下分け目の合戦という割には、後付けの情報にすら純粋な合戦の推移についてのものがあまりなくて
むしろ合戦前後のあれこれや誰それが裏切ったの動かなかった退却したのいう情報ばっかりなんですよね
関ヶ原の戦いってなんていうか非常に「政治的」な合戦という感じがします
純粋な武力や戦術の出番があんまりなくて、家康を次代のボスとして認めるか、その政治力を確かめるための儀式的な何か、そんなものだったような気がします
確かに戦国時代を象徴とするような戦いの割には政治的なやりとりで片が付いた戦いだと私も思います。
正確な戦いの流れが未だに諸説あるのはあんまり戦い自体が重視されず、おっしゃるように儀式の一環だったからかもしれませんね。
問鉄砲の件。一次資料に近い資料に、関ヶ原のときに徳川陣から銃声が聞こえたので小早川側から問い合わせに行ったら「ごめん誤射した」と言われたという記載があったことが見つかったと聞いた。この話に尾鰭がついたのかな? って、これだと最初から小早川東軍扱いじゃないか。
関が原には東軍で参戦した説が結構出回っていますね
小早川は西軍の後方の松尾山城を押さえたから退路と補給路を奪われた
西軍はあわてて攻撃しにいったら東軍が後方から追撃して挟み撃ち食らっただけなじゃないかと
2時間とか徒歩で関ヶ原移動するので精一杯だし
それで後方からの追撃を押さえるはずの毛利が素通しさせたからパニックになって敗走したのでは?
銃撃を聞いた小早川は挟み撃ちにするために山を降りただけで
10年くらい前に読んだ関ヶ原考察の本にこんなことが書いてありました
そもそも松尾山は関ヶ原のときは
石田三成の部下の伊藤盛正が守ってた砦でしたが
前日に小早川秀秋が強引に奪い取ってます
これはすでに明確な裏切り行為であり
その時西軍の前線は大垣にありました
通説ではこれは裏切りと思われてないようですが
実際は裏切ったと判断されていたのではないかと思います
BGMうるさいなぁ
島津系は素人考察していた人達だと
そもそもちゃんと言語通じてたのか?ってのがあったな
普通に考えたら通訳必要なレベルで訛ってただろうし
書かれただけの資料だとこの辺はさっぱりわからないから、ないってのも考えられない
伊集院忠棟の奥さんが家康に夫の忠棟が主君の忠恒に斬られて…と訴えたけど方言がまるで意味が解らなかった。なんて話もありますね…(方言通じない)
義弘自身は京暮らしそこそこ長いから頑張れば喋れたろうし、交渉にあたっては薩摩に下向した経験ある近衛前久・信尹親子がいるから通訳として機能してたでしょうけども
鬼武者やドリフターズのアニメの中だ
と「関ヶ原は地獄だった」説で話して
るけど、2時間じゃそんな地獄になる
前に終わりそうだね。
まず合戦場所が関ヶ原より西にある山中村付近であった。宇喜多、小西、石田隊などが夜間行軍後、陣城作成中に、東軍に襲撃され短時間で壊滅した模様。一次資料より
小早川に関しては、東軍への寝返りが周知の事実であり、その備えで大谷隊他が備えていたが、開戦と同じくして、小早川隊がなだれ込んだらしい。
そうですよね。これは説では史実ですよね。天下分け目の合戦→徳川幕府→明治維新の流れで関ヶ原合戦をクローズアップし過ぎだと思います。外様藩の廃城令や廃藩置県が正当化されて現在に至る。
自分達が知ってる歴史は「信長の野望」どころか「戦国無双」はては「戦国BASARA」でしかなく。
自分達はそれを「史実」と思って信じて学んでいるに過ぎないかもしれないって事か。
極論だけど。
陣の後片付けや残党狩りの方が時間かかってそう
土地勘云々は島津の退却戦と同時解決しないと。土地勘がないから夜襲提案はなかったけど、土地勘がないのに退却戦に成功したでは整合性がいまひとつ。
いやまあ、多分退却戦なかった説がもどうせあるんだろうけど。
土地勘が無いから伊勢街道に行くしかなかったとかありますよね
話は感心あって 聞きたいが 後ろの伴奏がうるさいです
すいません。
音声間違えてしまったみたいです。次から気をつけます・・・
無茶苦茶な位置に皆さんいますよね
多分参加した大名の大半は何がおきてるか掴めずに見てただけでは?
で3割ぐらいが戦闘に参加なら2時間説も普通。石山合戦や川中島など
対陣してるだけで終わるのが実はノーマルな状態。タヒんだら終わりだし逃げ出したら後ろからやられる
秩序が失われたら誰も大将さえ守らない。ばらばらになったら百姓にさえやられる。
どっちにつこうか愚図愚図している秀秋はドラマで描写する絵になる場面よな
光秀も裏切り者の末路はドラマになりやすいね
お互いに土地勘がないから夜襲はないと思い込んでるから効果的かもよ。
結局は説の一つにしか過ぎない話。だが、ロマンがある!
タイムマシンがあったら、関ヶ原とか桶狭間とか見に行きたいよね!沢山の説がありすぎるからね
信長なんて思慮深い優しい信長と、手が付けられない乱暴者の信長が双子で存在したとかまで言われているし
源義経がモンゴルにわたって覇権を取ったとか漫画みたいな説もあるからね
「2時間説」は面白い。やはり島津が傍観した理由にかかわらず不思議なのは「東軍に内応してない」島津がなぜ傍観だけして「負けが決まってから」家康本陣に突っ込むという「逃げる時だけ華やか」なのが意味不明だから。生死がかかる大いくさで「傍観」するのは勝つ側につくはずではないのなら「YOU何しに来たの?」というのが定説では不明だからだ。
ただ一点戦いの中身に関わらず、隠居させられた三成が大大名家康に対抗し短時間で東軍に迫る軍勢を立ち上げた才能は凄いと思う。
石高で10:1ほど官位も内大臣:治部の少輔と全然違う。いかに実務を仕切っていたにせよ毛利・上杉ほか反家康の大老・奉行をまとめて西軍を立ち上げた能力は秀吉などにも並ぶほどの能力とも思う。なお三成の子がみな死罪になっていないのも家康が「敵ながらあっぱれ」という尊敬の念を持っていたから「かも」知れない。
石田三成は西軍大将でないようです。
総大将毛利輝元、実質大将増田長盛、関ヶ原現地大将 長束、サブが安国寺。その下に大谷。
これが当時の資料による命令系統となります。
島津の参戦は京都の見回り中に小早川挙兵に巻き込まれている。伏見城入りも鳥居元忠から門前払いに…薩摩に援軍要請しても却下されている。西軍に関ケ原まで引きずり出された被害者でしょう。島津はもともと家康に恨みがないよね。敵前逃亡でなく中央突破が鬼島津かな。戦後の論功行賞でほぼ所領安堵だよね。
石田三成は大好き。秀頼公をないがしろにする家康は豊臣政権内で嫌われている。三成や淀君含めて大老の毛利・上杉・宇喜多や奉行衆など内府が目障りだったはず。大谷吉継は治部は人望がないので総大将の器でないと言っている。関ケ原の戦いは三成だけでなく豊臣恩顧vs徳川+謀反者でしょう。斬首の瞬間まで豊臣恩顧の石田三成が好きなんだよね。
最近は島津義弘は初めから西軍首謀者だったという説が有力だと聞きましたが。
「どうする家康」でも鳥居元忠が島津隊を追い払ったという話が出てこなかったと思います。
午前10時から12時だと、両軍が夜中に移動して明け方に布陣、早朝から戦闘が始まったという前提が成り立たなくなりますね。
関ヶ原ではなくもっと松尾山の近くだったという説もありますが、その場合東軍の誰が西軍の誰に仕掛けたという話も疑わしくなり何を信じていいか分からなくなります。
二次資料の話でも通説を維持する資料が見つかる方がスムーズに理解出来る気もしますが。
物語を作るのならそれでいいかと思いますが、歴史を明らかにするなら一次資料を重視すべきかなと思います。
ここら辺は考え方の違いでしょうかね。
関ヶ原近隣の寺社にも何の証言も記録も無いんですよね。
本当は全然違う場所だったりして😂😂😂
山崎の戦いもそうだけど、軍記物を歴史資料扱いするのやめて欲しい。
読み物として面白おかしく盛り上がるように脚色しとるに決まっとる。
三成が大一大万大吉の陣幕を使ったと言う一次資料はない。逆に白地のままの陣幕だったとの一次資料はある。てかそもそも石田家の紋が九曜紋だったとするのも江戸期の創作物だったりするし、大一大万大吉は家紋ですらない(大一大万大吉は室町期に流行った縁起のいい言葉だったりする)
三成は武家でないの家紋がなかった。陣幕に困ったので「大一大万大吉」を採用した。インテリらしい三成のエピソードですね。
旗印と馬印(軍旗)と家紋は別のものです混同してはいけません。
例えば織田信長の家紋は織田木瓜ですが馬印(軍旗)は金の唐傘で旗印は永楽通宝です。
大一大万大吉は縁起がいいから旗印にしたということです。
徳川家臣の記録によると真っ直ぐ進軍してたらすでに敵が戦っていていともたやすく三成本陣にたどり着いたってのがある。
小早川が早期裏切りならその状況も2時間で終ったのも納得出来る。
けどこれを映画やドラマにしたらすげえ盛り上がらないだろうね^^;
そもそも西軍で戦う予定の人が動いてませんから、あっさり本陣についてあっさり終わるのも当然かと。
まぁ今の通説でも規模の割に微妙な話なので色々作らないといけなかったんでしょうね。
関ヶ原って戦術や戦法がどうというよりかは、小早川秀秋に対する離反工作とかで戦う前から政治的に決着がついてたんかねえ。
だとすると、ドリフターズのスキピオが行ってた通り、確かにドキドキもなにもないつまらない戦争だ。だからこそ島津の退き口が映えるわけだけれど。
早くセンゴク作者の関ヶ原が見てえ
東軍は夜を徹して大垣城から移動してきたわけでそれを10時頃まで攻めることなく休ませていたとは思いにくい 開戦は8時頃と考えた方が妥当に見える また秀秋の攻撃開始はもっと早かったのではと思われる
蟹江敬三「わしの名場面にケチ付けやがって!」
素人なのでよく分かりませんが
島津は自分達主体ではなく、ほぼ地元の石田隊が道案内すべきって提案したなら可笑しくないんじゃない?(佐和山は近くだったよね?)
あと敵中横断は撤退する道がそこしか無かったから(後は他の諸将の軍で混雑していた)って聞きました
島津家がよその人を前提にした計画は立てないと思ってましたけどたしかに当てにした可能性はありますね。
姉川の戦いも凄く微妙
多分偶発的な遭遇戦と一時の混乱ぐらいかと。双方にほぼ影響が無いから川中島の戦いみたいなものだったのでは?
正しい資料と創作物語と御家中心の解釈で3種類ぐらいあるだろうね
島津は土地勘ないって、土地勘ある兵士を三成から何人か借りれば解決では?
輝政と正則が喧嘩したのはガチなのか、、
俺が一番不可解なのは、関ヶ原の後の処遇について。加増、改易、減俸など、家康に決める権限があったのだろうか?確か家康は五大老筆頭格の内府だったはず。主はあくまで豊臣秀頼なのだから、秀頼、淀殿の承諾なしには大名への論功行賞など出来ないと思うのだが。大して功績のない結城秀康が一番加増が大きいことなど、徳川が大きくなることを望まない大阪方が了承するだろうか?
だが豊臣恩顧の大名の福島や加藤y小早川なども領地が倍近くに増えたのだからそれを異議を出せる立場でないとも思う。
異議を出せるものは敗者側にいたのだからなおさらであると思う。
実際の戦闘は関ヶ原ではなくもっと西の山中だった、ってのもあるね。それで現時点でもっとも考えられる関ヶ原の戦いを動画にしてほしいね。
山中丘城は、大谷吉継が陣してた丘城。関が原から山中まで広範囲に闘ったんだろう。
あはは・・・
この辺の話、この前闇鍋ジャーナルで一平ちゃんが言ってた様な・・・
偶然の一致にしろ面白い・・・(^^)/
何にせよ、リメイク作ってくれないかな。
アートディンクさん
義弘の夜襲提案に関しては、別に島津が土地勘がないからといって非現実的な提案でもなんでもない。
土地勘のある人間に道案内させればいい。
秀吉が墨俣に城を築いた時も、秀吉は土地勘なかったしね。
実際どうだったかは知らないけど、土地勘ないからっていうのは理由にんらんと思う。
そもそもあの布陣も正確なのか怪しい
いくら調略してたとしてもいくらなんでも前進しすぎ
講談や舞台なんかを面白くするために創作を混ぜ次の人がさらに混ぜてと繰り返したものが大勢に広まり通説となり史実みたいな扱いになってしまったんだろな
夜襲提案の証拠は無いので想像でしかない話、はっきりしているのは島津兵わずか1500人、東西軍もわずかしか戦っていない状況で、最初から戦える余裕はない、参戦時期を見計らっていたが、小早川等の裏切りで進退極まったのは事実。
関ケ原合戦のような多くの大名が関わる大規模戦でどの大名がこう言っただのああ言っただのという事細かなことが事実に基づいているとすることの方が無理がある。
それぞれの軍の動きでさえ誰かが俯瞰で見ていたわけではなく後の人伝え、又聞きであり後世の創作や想像である可能性が圧倒的に高い。
要はどの説も説に過ぎずどこまでいっても真実など判明しえないってこと。
可児歳三が17人の首を討ちとるという史実からして半刻で2人(30分で1人)討ち取ると推測して関ヶ原の合戦は丁度7時間30分となる
八時間の激闘の定説とほぼ一致する
そして島津義弘は撤退戦を展開していく道すがら小田秀信配下の小林新六郎を道案内として雇い入れて大坂城まで行軍することになる
家康にとって非常な幸運は、福島正則という武将がいたことだな。
一番致命的なのは西軍の現場での総大将が明確じゃなかった事だろうね。東軍は家康という総大将がいた。でも西軍は三成はせいぜい調整役。序列からみれば宇喜多秀家がなるべきだろうけどそうじゃなさそう。つまり西軍は総大将を決めなかったのか決められなかったのかはじめからバラバラ。勝てる要素がない。
そうですね。
はっきり言って烏合の衆ですからね。正直勝てる見込みがなかったのは大谷吉継あたりでも認識していたみたいですからね。
一応、西軍の総大将は毛利輝元で確定しているはずです。ただ、西軍自身が関ケ原での短期決戦ではなく、大坂城を中心にした長期戦を想定していたので、関ケ原現場での総大将と言うものを設定できなかったのだと思います。
朝鮮の役でも同様ですが、複数の大名が連合して部隊を形成する場合、誰かが全軍を統率すると言う形は、お互いのプライドを刺激するので、取りづらかったものと思われます。
家康も実際は各々の大名に色々配慮しながら依頼・調整して軍を進めると言う面倒な手間をとっており、全軍を指揮する総大将のイメージは戦後、江戸時代の過程で作られた可能性も高いと思います。
ドリフターズでスキピオ・アフリカヌスが言ってたw
一応、西軍の総大将は毛利輝元。
最近の研究では、毛利輝元が大谷吉継にけしかけ、石田三成は担ぎ挙げられ、関ヶ原に参戦したとなっている。毛利輝元は息子を使って家康に裏で毛利領の安堵の密約を交わしていたことが一番 2:23 2:23 でかい。
加えて小早川秀秋の寝返り。それすら察知出来なかったのが西軍の負けの要因。
毛利輝元軍が動いていれば勝機は断然に西軍にあった。
@@kazuoka1143
いや、毛利輝元は徳川家康と毛利家領土を安堵するという密約を結んでいたから大阪城から動かなかった。
長期戦なんて考えていない。
これを察知出来なかった石田三成の敗因。
これが最近の研究だよ。
吉川広家の空弁当は事実確定なの?
宰相殿の空弁当もまず間違いなくフィクションでしょうね。
そもそも昼飯前には終わってた説。
一色即発ってwww一触即発やろwww
最近では関ヶ原ではなく、山中で戦ってたのがある。
武蔵参戦もおかしい
「主戦場は山中村説」「毛利は徳川に誓紙を入れて開戦前に降伏説」もよろしく。
2〜4時間としとくべきだよね。10時に始まったと決めつけるのは良くない。
いつか死んで神様に出会える時が来たら、歴史の真実を全部教えて欲しいもんだぜ
平家物語の義経伝説やらと同じく、江戸時代に活躍してた講談師たちが商売の為におもしろおかしく話したおとぎ話が定着しちゃったってことなんでしょうね。現地の地形や地理を念頭に、物理的、時間的に検証すればいろんな真実が見えてきた。それが最近やっとわかってきたというのがすごいな。これまでいったいなにやっとんたんや?ってことだけど。明治時代にドイツのメッケル少佐が関ヶ原の東西の陣形を見て、これは西軍の勝ちだと即断したという話があるが、実は西軍が優勢なのに強いはずの西軍に裏切者がでて東軍が勝利、つまり、神君家康公の謀略はすごいだわ~というおとぎ話を作るために関が原伝説自体が捏造された神話なのかもしれない。いずれにしても、能や歌舞伎の題材もそうだけど、ひとつ言えることは、その民族が好むおとぎ話しか作られないということ。そして、それは民族の文化や価値観に深く依存した美学であるということ、自分はむしろ、その辺に興味がわきますね。
ドイツのメッケル少佐の説は面白いですね。黒田長政と吉川広家の調略がキーかも…
三成は司馬遼太郎の小説の関ヶ原で評価を見直されるようになったが‥
昭和40年ぐらいまでは天下を狙う大悪党のごとく語られていたように思う。
そのころまで西軍の大将は三成だったように誤解していた人が多かったように思う。
最新の情報をシッカリ抑えてれば新規でも古参に有利に渡り合えるから戦争や歴史のジャンルは趣味としてオススメやなぁ
2000年に入るまで戦闘機隼は零戦の劣化コピーと信じて疑われなかったし
朝鮮戦争でMiG-15にボコボコにされたと言われてたB-29はキルレは1:1で損失は対空砲の被害含め30機以下という状態
欧州機の防弾とか上昇力を最重要視され軽量化したイギリスはもとより、防弾用のゴムが入手できないドイツ機が堅い訳がない
(防弾に不安があると対地攻撃を外されたP-51Dより約1t軽いのが同じエンジンを載せてるスピットファイヤⅨ)
黴臭い資料に頼ってるオタを蹴散らすのは中々の快感www
思ったよりもコロコロ定説が変わってるんですよね。歴史って。
学校の授業も少し古い説が元になってるのでネットで最新の情報仕入れた子供に振り回されてるんじゃないかなーと思ってます。
@@Japanese_history
元寇の神風説の元になった資料が逃げる鎌倉武士が神社前を通ったら御神体が現れ
元の兵士を次々射殺したってあって笑うしかなかったw
戦争近辺の近代史が当てにならないのはアメリカの影響で仕方がないけど
流石に元寇まで干渉しないだろうしw
「天下分け目の戦い」である事には変わりないの?
正直家康が殺されさえしなければ勝ち負け関係なく江戸幕府になっているような気がしますけどね。
家康が負けるとは家康の首がとられるということなのだから分け目の戦いであることには違いがないんだと思う。
少なくとも西軍が勝ったなら東軍の大名の領地は減らされるか改易になるだろうから勢力図は大きき変ると思う。
ただそれが豊臣が生き残れるかどうかは別の問題になってくると思が‥
豊臣恩顧の大名も秀吉がいかに織田にとってかわったを見てきているわけで野心があれば次こそ自分が天下人と思っている大名もいたはずです。
少なくとも関ヶ原には参戦しなかったが九州での黒田如水の動きはおそらくそのつもりがあったのではと思わせます。
秀吉が如水を警戒して改易したいと思っていたらしい逸話は多くあります。
冤罪ではなかったということです。
2時間説の場合 勝敗がほぼ確定したのが2時間じゃね
他の方もコメントされていますが、そもそも家康側の戦術機動に三成側が全く対処できず崩壊したって説があるみたいですね。
なんか、こっちのほうがありそうな気がしますが、これだと決戦の名誉もないし面白くないですもんね。
BGMの音量が大きすぎて聞き取りづらい
いつもありがとうございます🙇
昔、三浦友和が
、
、
、
扮する宇喜多秀家が夜襲を提案したドラマを観ました😊
記憶違いだったら、ごめんなさい🙇
1981年、TBS の【関ヶ原】でした。
関ヶ原古戦場には、何故か遺骨すら発見されていない、
うら覚えですが、役後、確か東首塚、西首塚を作り、そして付近の寺等に手分けして葬ったとか。当時どの戦国大名の陣には、僧侶が従陣してようなので。当時、世界的にも戦死した兵士を葬る習慣は日本だけと言われている。中国、朝鮮半島等は、死者は穴掘って埋めるだけか、そのまま、放っておいて、カラスや野犬等が処理するに任せていたと言う。
当時は無線機もないわけで、部隊間の連絡はせいぜい伝令である。
そんな状況で寝返りの細かい交渉をやれるわけがないw
事前に交渉して話が付いていたはずであり、実はその事前交渉こそが本当の戦いである。
退屈な江戸時代には尾ひれをつけた創作軍記物が大量につくられたはずである。
僕の場合は葵徳川三代で仕入れた情報が全てです。いまさら新説をとなえられてもすぐには納得できない。
少しアップデートしてみると新しい発見があって楽しくなると思いますよ!
あの時はたくさん人が死んだなー 可愛そうだった 死体の処理が大変だった
って、落ち武者みたいな人が言うてた
何かに憑かれてるかもしれないからお寺とかで供養とかお祓いしてもらった方がええで