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信仰には実践が伴う必要がありますね。信じるだけで救われたと言う団体が多い
樺島さまは、安息日の祝福の大原則をしっかり丁寧におしえてくださいました。ありがとうございます。感謝しています。
こちらこそ、いつもご視聴いただきありがとうございます。☺️
業のない信仰は死んだものですからね、それは業によって救いがあるのではなく信仰の結果業があると確信しています。
聖書はそのようにおしえていますよね〜😃
いつも視聴させて頂いております。安息日の話について、蒲島さんのお話(25:00〜)にて、買い物の問題が出てきました。安息日において、買い物をすることは、安息日では行ってはならないことなのでしょうか?この現代社会においてでも、万全を期した安息日の過ごし方について、どの教会でも、どの自給伝導ミニストリー等の運動・社団においても、具体的な方法論や実際に指導者が行なっている具体的な過ごし方と、そこにおいての禁忌事項としていることについては、質問をしても一切の答えもなく、むしろ具体的回答を忌避している傾向があります。この点を、蒲島さんに答えて頂けると幸いと存じます。
ご質問に関しての私の個人的な見解ですが、今回の安息日の問題は、まずは以下の点を考慮したいと思います。①準備不足において私の落ち度であった事②完全な格好で式に臨むべきとの私自身のプライド(権威)しかし私は、安息日の売買に関して「神の権威」(ネヘミヤ13章15節〜19節に示された安息日の改革)に従うことにしました。今回は、私のプライドを満たすために安息日の原則を退けるくらいなら、素直に私の落ち度を認めて謝罪し、安息日を相応しく過ごせた方が正しい選択だったと思っています。それでも、ケースバイケースの場合もあると思います。公共交通機関で教会に通う方は、運賃を支払わなければ教会に行けません。また、人命にかかわる緊急時に何かを買わなければならない時、イエス様が人を癒した原則によって、安息日に売買をすることもあるかと思います。つまり、全て「神の権威」に従い、神のご栄光のために選択するという原則によるならば、安息日に売買することもあり得るのではないかと、個人的には考えています。☺️この件につきまして、何がご質問やご意見がございましたら、seisyojyuku@gmail.comまでご連絡をいただければと思います。😃
土曜日の安息日を守る事にしてから、うっかりと買い物をした時に「神様、ごめんなさい」と祈りました。いつの間にかうっかりする事も無くなりました。ゆっくりと過ごせる安息日を感謝しています。😊
コメントをありがとうございます。😃私も以前は、安息日を「〜してはいけない日」として「後ろ向きに」過ごしていましたが、逆に「〜しても良い日」として過ごすと、安息日が楽しくなることに気が付きました。例えば、讃美歌を聴いてゆっくりと過ごしたり、自然散策してリフレッシュしたり、聖書関連の書籍を読んで神様と交わったり、誰かと聖書の学びを一緒にして充実したりと、とにかく普段忙しくて出来なかったことが特別に出来る時間として「前向きに」過ごす時に、安息日が喜びの日となることに気が付きました。今はそのように過ごすことが出来ています。☺️
@@kariio 明確な例示をもって答えていただけ、感謝いたします。メールをさせていただきたく思います。
神学校を出ていない。個人的勉強で知識があるのは立派ですね
蒲島さんが偽教師だとは思いません。でも、聖書は聖書で説明できると聞いたことがあります。個人的にはエレンGホワイトを引用しないお話を聞いてみたいです😀
ありがとうございます。😃もちろん、聖書のみでお話しをすることも可能ですが、少しでも皆さんに聖書を明瞭に分かりやすく、同時に深く真実にお伝えするために私はエレンホワイトの引用文を用いていますので、今日に至るまで毎回このようなスタイルになっているのですね☺️
@@kariio 返信ありがとうございます。皆さんはエレンGホワイトをわかりやすいと言うのですが、私は実は引用文の意味がいまいち理解できないでいます(^_^;)カッターシャツ忘れ事件のような樺島さんのお茶目さ溢れる体験談はとてもわかりやすかったです😂
確かにエレンホワイトの言葉の表現は難しいところがありますね。😅私も実際そのように思います。それをさらに噛み砕いて皆さんにお伝えするのが、また私の役割であるとも思っています。😃その噛み砕いた一例として、カッターシャツ忘れ事件などのお話しをさせていただいております。😆
権威主義の教えは真理ではない事は理解出来ますが、イエスが「私の言葉は父からのものである」と語ったのか、これは権威主義への単なる警告なのでしょうか?三位一体のイエスがなぜ父と言う御自分より上の立場を存在させた会話なのか疑問です?
権威主義の問題点は、「絶対的完全な存在であられる神よりも、不完全な存在である人間の方を信頼して従う」という所に、真理からの逸脱の危険性があるからではないかと考えております😃
いつも聴かせてもらっています。蒲島さんのお話はとてもわかりやすく楽しく見させていただいております。エレンジーホワイトの事に関して認めないと言う方は実際多くいらっしゃいますね。私も元々信じてはいましたが、反エレンホワイトの動画を見たりすると少し不安に駆られる事がよくありました。しかし、今思うと反エレンホワイトの方は彼女事を、よく知らないのではと思っております。それこそ、本動画の中の人間の権威主義に陥ってるような気がします。これからも神に頼って行きたいと思っております。お身体に気をつけて^_^
いつもご視聴いただき、ありがとうございます😃私はもともと、聖書を知りたくてエレン・ホワイトの書物を手に取って学ぶようになりました。色々と神様が私たちに望んでおられる事を知り、その事に服従する戦いが激しくなりましたが、神様の助けによって少しずつ克服出来るようになってきました。そして結局それが聖書の教えであると気が付きました。😃
エレンGホワイトの解釈に影響されているようですが、これもまた人間に従う権威主義に従う主義ではないかと思うのですが?セブンスデーアドベンティスト派の会員の方々は自分達だけが真理を理解していると言う態度がある見たいですが、それもどうかと思います。
私がもし、「エレン・ホワイトの書物だから」という理由で引用しているのであればそれは間違いなく権威主義の問題ですが、そのようにお考えなのてすね〜☺引用文のメッセージ内容に、神のご意志に反する部分がございましたら、以下メールアドレスに、ご連絡していただければと思います。seisyojyuku@gmail.comこちらコメント欄は議論をしたり、特定の宗教団体についての苦情をお受けするためのものではありませんので、どうぞご了承ください😊
キリスト教という宗教じゃなく、主に言葉に聞き従い礼拝するのが、キリスト者の姿ですね
忠実なれ主のしぼべよ
お互い神様の権威のみ前に、忠実にありたいものですね。😊
ネクタイにスーツが日本人の正装なんて、誰が決めたのか?それは西洋人の正装ではないか?別にスーツを着なくてもいいのでは?沖縄は暑いのだから、フィリピン人が着てるような、半袖の、シャツ、それも、裾をズボンの外に出すシャツ、それで十分では?気がついたら日本は西洋人の風習がノーマルになっている。キリスト教も西洋式になっている。西洋で作られた讃美歌を歌い、西洋風の礼拝堂で礼拝し、これも本当はおかしい。古代キリスト教の景教の礼拝堂を大秦寺というが、日本の寺みたいなデザイン。日本は西洋人の真似をしないで、大秦寺のようなアジア風の建物がいいのではとわたしは思いますが??因みに大秦は日本では、太秦で、ウズマサといいますが、これはイエス・キリストを、アラム語での、イシュ・マシャが、イズ・マシャ。ウシュ・マシャ。ウズ・マシャと、古代キリスト教徒がシルクロードを東へ東へと渡り歩き日本に着いたときには、ウズマサとなったもので、京都市にある太秦(ウズマサ)という地名は、イエス・キリストのことですが、地元の人でもこれは一部しか知ってない。わたしは日本人クリスチャンはもっと日本文化に合ったように今の西洋キリスト教ではなく、原始キリスト教的な風習でやるほうが合ってると思います。ただ、西洋人に教えてもらったのを鵜呑みにし過ぎではと思います。日本人は日本式で、服装も、風習も日本文化にあったようにやればよいのではと思いますが、、、日本人が今のキリスト教に馴染めないのは、西洋の神様というイメージが邪魔している。教会堂も寺みたいに畳敷きにして、大秦寺のような東洋風の建物にすれば、日本人はもっと教会を訪れる人が増えるかもね?
私もかつては、礼拝に普段着で参加していた時代もありました。今は神様のみ前に普段着ではない、私の服の中では聖別している格好で礼拝させていただいております。☺
アーメン✝️☺️
信仰には実践が伴う必要がありますね。信じるだけで救われたと言う団体が多い
樺島さまは、安息日の祝福の大原則をしっかり丁寧におしえてくださいました。ありがとうございます。感謝しています。
こちらこそ、いつもご視聴いただきありがとうございます。☺️
業のない信仰は死んだものですからね、それは業によって救いがあるのではなく信仰の結果業があると確信しています。
聖書はそのようにおしえていますよね〜😃
いつも視聴させて頂いております。
安息日の話について、蒲島さんのお話(25:00〜)にて、買い物の問題が出てきました。
安息日において、買い物をすることは、安息日では行ってはならないことなのでしょうか?
この現代社会においてでも、万全を期した安息日の過ごし方について、どの教会でも、どの自給伝導ミニストリー等の運動・社団においても、具体的な方法論や実際に指導者が行なっている具体的な過ごし方と、そこにおいての禁忌事項としていることについては、質問をしても一切の答えもなく、むしろ具体的回答を忌避している傾向があります。この点を、蒲島さんに答えて頂けると幸いと存じます。
ご質問に関しての私の個人的な見解ですが、今回の安息日の問題は、まずは以下の点を考慮したいと思います。
①準備不足において私の落ち度であった事
②完全な格好で式に臨むべきとの私自身のプライド(権威)
しかし私は、安息日の売買に関して「神の権威」(ネヘミヤ13章15節〜19節に示された安息日の改革)に従うことにしました。
今回は、私のプライドを満たすために安息日の原則を退けるくらいなら、素直に私の落ち度を認めて謝罪し、安息日を相応しく過ごせた方が正しい選択だったと思っています。
それでも、ケースバイケースの場合もあると思います。公共交通機関で教会に通う方は、運賃を支払わなければ教会に行けません。また、人命にかかわる緊急時に何かを買わなければならない時、イエス様が人を癒した原則によって、安息日に売買をすることもあるかと思います。
つまり、全て「神の権威」に従い、神のご栄光のために選択するという原則によるならば、安息日に売買することもあり得るのではないかと、個人的には考えています。☺️
この件につきまして、何がご質問やご意見がございましたら、
seisyojyuku@gmail.com
までご連絡をいただければと思います。😃
土曜日の安息日を守る事にしてから、うっかりと買い物をした時に「神様、ごめんなさい」と祈りました。いつの間にかうっかりする事も無くなりました。ゆっくりと過ごせる安息日を感謝しています。😊
コメントをありがとうございます。😃
私も以前は、安息日を「〜してはいけない日」として「後ろ向きに」過ごしていましたが、逆に「〜しても良い日」として過ごすと、安息日が楽しくなることに気が付きました。例えば、讃美歌を聴いてゆっくりと過ごしたり、自然散策してリフレッシュしたり、聖書関連の書籍を読んで神様と交わったり、誰かと聖書の学びを一緒にして充実したりと、とにかく普段忙しくて出来なかったことが特別に出来る時間として「前向きに」過ごす時に、安息日が喜びの日となることに気が付きました。今はそのように過ごすことが出来ています。☺️
@@kariio
明確な例示をもって答えていただけ、感謝いたします。
メールをさせていただきたく思います。
神学校を出ていない。個人的勉強で知識があるのは立派ですね
蒲島さんが偽教師だとは思いません。
でも、聖書は聖書で説明できると聞いたことがあります。
個人的にはエレンGホワイトを引用しないお話を聞いてみたいです😀
ありがとうございます。😃
もちろん、聖書のみでお話しをすることも可能ですが、少しでも皆さんに聖書を明瞭に分かりやすく、同時に深く真実にお伝えするために私はエレンホワイトの引用文を用いていますので、今日に至るまで毎回このようなスタイルになっているのですね☺️
@@kariio 返信ありがとうございます。皆さんはエレンGホワイトをわかりやすいと言うのですが、私は実は引用文の意味がいまいち理解できないでいます(^_^;)
カッターシャツ忘れ事件のような樺島さんのお茶目さ溢れる体験談はとてもわかりやすかったです😂
確かにエレンホワイトの言葉の表現は難しいところがありますね。😅
私も実際そのように思います。それをさらに噛み砕いて皆さんにお伝えするのが、また私の役割であるとも思っています。😃
その噛み砕いた一例として、カッターシャツ忘れ事件などのお話しをさせていただいております。😆
権威主義の教えは真理ではない事は理解出来ますが、イエスが「私の言葉は父からのものである」と語ったのか、これは権威主義への単なる警告なのでしょうか?三位一体のイエスがなぜ父と言う御自分より上の立場を存在させた会話なのか疑問です?
権威主義の問題点は、「絶対的完全な存在であられる神よりも、不完全な存在である人間の方を信頼して従う」という所に、真理からの逸脱の危険性があるからではないかと考えております😃
いつも聴かせてもらっています。
蒲島さんのお話はとてもわかりやすく楽しく見させていただいております。
エレンジーホワイトの事に関して認めないと言う方は実際多くいらっしゃいますね。
私も元々信じてはいましたが、反エレンホワイトの動画を見たりすると少し不安に駆られる事がよくありました。
しかし、今思うと反エレンホワイトの方は彼女事を、よく知らないのではと思っております。
それこそ、本動画の中の人間の権威主義に陥ってるような気がします。
これからも神に頼って行きたいと思っております。
お身体に気をつけて^_^
いつもご視聴いただき、ありがとうございます😃
私はもともと、聖書を知りたくてエレン・ホワイトの書物を手に取って学ぶようになりました。色々と神様が私たちに望んでおられる事を知り、その事に服従する戦いが激しくなりましたが、神様の助けによって少しずつ克服出来るようになってきました。そして結局それが聖書の教えであると気が付きました。😃
エレンGホワイトの解釈に影響されているようですが、これもまた人間に従う権威主義に従う主義ではないかと思うのですが?セブンスデーアドベンティスト派の会員の方々は自分達だけが真理を理解していると言う態度がある見たいですが、それもどうかと思います。
私がもし、「エレン・ホワイトの書物だから」という理由で引用しているのであればそれは間違いなく権威主義の問題ですが、そのようにお考えなのてすね〜☺
引用文のメッセージ内容に、神のご意志に反する部分がございましたら、以下メールアドレスに、ご連絡していただければと思います。
seisyojyuku@gmail.com
こちらコメント欄は議論をしたり、特定の宗教団体についての苦情をお受けするためのものではありませんので、どうぞご了承ください😊
キリスト教という宗教じゃなく、主に言葉に聞き従い礼拝するのが、キリスト者の姿ですね
忠実なれ主のしぼべよ
お互い神様の権威のみ前に、忠実にありたいものですね。😊
ネクタイにスーツが日本人の正装なんて、誰が決めたのか?
それは西洋人の正装ではないか?
別にスーツを着なくてもいいのでは?
沖縄は暑いのだから、
フィリピン人が着てるような、半袖の、シャツ、それも、裾をズボンの外に出すシャツ、それで十分では?
気がついたら日本は西洋人の風習がノーマルになっている。
キリスト教も西洋式になっている。
西洋で作られた讃美歌を歌い、西洋風の礼拝堂で礼拝し、
これも本当はおかしい。
古代キリスト教の景教の礼拝堂を大秦寺というが、日本の寺みたいなデザイン。
日本は西洋人の真似をしないで、大秦寺のようなアジア風の建物がいいのではとわたしは思いますが??
因みに大秦は日本では、太秦で、ウズマサといいますが、これはイエス・キリストを、アラム語での、イシュ・マシャが、イズ・マシャ。ウシュ・マシャ。ウズ・マシャと、古代キリスト教徒がシルクロードを東へ東へと渡り歩き日本に着いたときには、ウズマサとなったもので、京都市にある太秦(ウズマサ)という地名は、イエス・キリストのことですが、地元の人でもこれは一部しか知ってない。わたしは日本人クリスチャンはもっと日本文化に合ったように
今の西洋キリスト教ではなく、原始キリスト教的な風習でやるほうが合ってると思います。ただ、西洋人に教えてもらったのを鵜呑みにし過ぎではと思います。
日本人は日本式で、服装も、風習も日本文化にあったようにやればよいのではと思いますが、、、
日本人が今のキリスト教に馴染めないのは、西洋の神様というイメージが邪魔している。
教会堂も寺みたいに畳敷きにして、大秦寺のような東洋風の建物にすれば、日本人はもっと教会を訪れる人が増えるかもね?
私もかつては、礼拝に普段着で参加していた時代もありました。今は神様のみ前に普段着ではない、私の服の中では聖別している格好で礼拝させていただいております。☺
アーメン✝️☺️