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『つばめ』『はと』の青大将時代は日本政府の外貨獲得のための外国人観光客積極的誘致政策の時期とも絡んでいたようで、外国人観光客の1車単位での団体車両運用も時にはあったようですね。EF58 63次位のオロネ10は、そのような団体車両の増結か単に転属回送だったのか...。とても興味深いカットですね。
Toshi.Hさん、ご視聴頂きありがとうございます。ナロ10かどうかまだ分からないです。視聴者様から20系回送か?と言うお話や、次位が合造車かどうか電柱で見えなかったり、謎が深まる写真になってます。でもこれは合成ではありませんので、この車体であることは間違いはありません。
@@Yukkuri-Lab屋根の形状からはナロ10では無いでしょう。上段向け小窓が見えるのでナロネ21かオロネ10、車体中央部に行先板らしきものも見えるので後者か?団体用のマイの代わりか寝台要望でもあったとか。
@@トミヤマサキオ 上段窓の並びからオロネ10で間違えないでしょう、サボ受けもあるし、デッキ側トイレ窓もナロネ21なら小さい筈。何のためかですね、普通に考えると回送じゃないでしょうか?7時間半も食堂車から孤立とは考えにくいです
傷病者の移送も考えられますね。
わかりました。オロネ10とすると、次位が荷物車だから、食堂車に辿り着けない。オロネ10の淡緑はあったのでしょうか?私は独立した傷病者移送用と考えました。
つばめのヘッドマークを付けたC62物凄くカッコいい
ご視聴いただきありがとうございます。はとよりつばめの方が良いですね。
特急はとの青大将色の電気機関車かっこいい
自動車好きさん、ご視聴頂きありがとうございます。コスモスポーツ良いですね。以前小さいほうのロータリーを積んでいた中古車が110万円であって、かなり傾いたことを懐かしく覚えてます。
この時代、キハ10はクリームとレッドではなく、灰色がかったクリームと深めのブルーのはず。
ご視聴頂きありがとうございます。そうなんですね。教えていただきありがとうございました。
戦時中に日暮里から無理矢理京成に繋げて3線軌道にしてトンネルの博物館動物園駅付近に国鉄の優等客車を避難させたと何かの本に書いて有りましたその優等客車が展望車かはその本には書いて無かったです
ご視聴頂きありがとうございます。そうなんですね!凄い。辺鄙なところかと思ったら意外なところだったんですね。
C6218につばめマークが残っていたら、正にエースなんだけど!青大将のオロネ10にはびっくり🫢
ご視聴いただきありがとうございます。記録映画で下りつばめありますね。最後に2号機が出てくるやつです。北海道に行ったのでマークが残り、西に行ったのは、生意気だ!として外されたんでしょうね。
カラー化されると展望車のトレインマークと赤い尾灯が一層鮮やかですね。ちなみに幼い頃、垂れ流しの列車のトイレから黄色いものが飛散してくることがあるので踏切近くに立ってはいけない…と教えられたものですが、5:32で踏切近くに白シャツの人が並んで待っていますね。大丈夫だったやら…。
abbtk14さん、ご視聴頂きありがとうございます。旧型客車のイメージが悪い最大の点はそこですね。私は大嫌いで駅で止まっている客車から汚物と水が散乱する姿にはいつも吐き気を催しました。黄害とか言われるようになって、大都市区間ではトイレは停止中にお願いしますとなりましたが、みんな守っていませんよね。
2:41 C55 やC53の流線型が保存されてないのが少し悲しいです。カッコいいので、1台で良いので保存されて欲しかったです。大きいのでどこに保存すれば良いのやら
KESEIさん、ご視聴頂きありがとうございます。流線形は被せものですから、梅小路のC53を改造するのもさほど手間ではないかと思います。お金があればやってくれるかもしれませんね。
国府津のつばめカッコいい
つばめ はと かもめ はやぶさ ひばり 特急で、使用された名称 未だ他にも有りましたネ👍
7 Tom,s7さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。ゆうづるとかはくつるとか鳥がらみですか?
動画を拝見して、あらためて35系4000番台の存在の大きさ、希少性を感じました
パンチ猫さん、ご視聴頂きありがとうございます。形あるものはいつかは朽ちるわけですけど、JRがオハ35系を大事にかつ普通に使っていてすごいです。でも大井川でも同じレベルの客車が普通に使われていて、あまり注目されないので可哀想だなぁと思います。
7:17頃の写真で青大将EF58-63次位の車両は屋根上にガーランド通風器が無い事から ナロ10では無く、完全なドーム屋根で側窓の大きさも揃い、上段寝台用のぞき窓が確認出来る事で回送中のナロネ22と思われます。指摘などして失礼ですが、これは大変貴重な写真で驚きました。
青大将の写真の1両目はナロネ21の回送ですね
北村さん、えっ!20系ですか!?
@@Yukkuri-Lab 私もそう思います。この頃の20系はシステム的に改良前で走行関係は旧型客車と同等ですから回送なら問題はありません。流石に暖房管が無いので冬季は問題ですし、冷暖房や照明が使えませんので営業も無理です。
ナロネ21ではなくオロネ10では?動画を拡大すると車体中央にサボ受けのような物が見えるので
@@user-zs5qc3ci2k さん、オロネ10とオロネ21の車体はほぼ同じですね。唯一の差はおっしゃる通りサボ受けです。ありがとうございます
C59の「つばめ」は初めて見ました。貴重な映像に感謝です。
赤塚さん、ご視聴頂きありがとうございます。C59-128のつばめは何度か出していますが、カラー化したのは初めてでした。またよろしくご視聴くださいね。
今回の動画に出てくる編成とは直接の関係はありませんが「客車倶楽部」様の倶楽部メモ(780)によると今はなき交通科学博物館の図書室に京都大学鉄道研究会による手書きの本(正確な書名は失念)にいくつか編成が書かれていたようです昭和26年のマイネ41連結「つばめ」編成記録などが記述されていたらしいものの、京都鉄道博物館へ移転後は同書が収蔵されているかは不明
井今智世さん、ご視聴頂きありがとうございます。車両の歴史に詳しい方々の集団っていらっしゃるので心強いです。日にちが分かれば殆どの過去の編成が分かるそうです。
ヤクルトスワローズのつばめも、元は国鉄スワローズから今もつばめキャラだけ脈々と生き残ってるのもお忘れなくー。
ご視聴頂きありがとうございます。ヤクルトスワローズは、国鉄スワローズですよね。私は野球は見ないのですが、随分前ににサンケイスワローズと中日のナイターを神宮に見に行きました。弱いチームでした。その後巨人戦を後年後楽園に見に行って原が日本ホームラン打って、ほえーとなったのを思い出しました。
この青大将は国鉄最高の乗り物ですね。展望車、特別2等車、食堂車憧れの編成です。小学生の私から見たら東京駅で眺めるのが精一杯でどんな人達が乗るのかそれ以外考えられませんでした。
辻村さん、ご視聴頂きありがとうございます。東京駅にEF58の定期列車が来なくなって何十年経ったでしょうか。普通にあれほど居たのに。
C622号機の「はと」良いですね。20年位前に山科へ某鉄道写真家様の写真展を見に行き少しだけお話を伺いました。C622号機のつばめは稀で30号機と41号機が多かった気がしますと言われたのを思い出しました。
シロクニさん、ご視聴頂きありがとうございます。私が持っているつばめにC62-30と41は無いんですね。特に2号機のつばめは1,2回しか写真で見たことがありません。宮原と浜松、名古屋のC62だと一度はけん引したことがあるんだろうと思います。
C62の2号機は人気とは裏腹に、あまり調子の良い機関車ではなかったとの話を散見します。なぜそのような機体にエンブレム付けたのか謎
コメントありがとうございます。当時は宮原のつばめけん引機の若番で、1号機の次にという具合でさほど理由は無かったんだろうと思ってます。
宮原のシロクニでは29号機35号機36号機が好調だったと伺っています。特に29号機はスワローエンゼルの2号機以上に宮原のエースだったそうです。
現在、東京⇔大阪間を、「在来線の普通列車」で行く場合、所要時間は約9時間です。乗り換えは最低でも5~6回必要で、所要時間や手間を考えると、非常に長旅になってしまいますが、当時の雰囲気を味わえるかもしれません。関西線経由だと、もっと当時に似ていていいかもしれません。SLやEF58、旧型客車は無理としても、たまに、東京⇔大阪間に、リバイバル列車を走らせてほしいものです。
ご視聴いただきありがとうございます。京都まで普通列車乗継ぎ梅小路行くと一時間半ぐらい滞在しその日のうちに東京に戻れるのですが、やはり乗り換えの多さでゲンナリします。直行の列車は、東海が嫌がるのでしょうね。機関士さんが居ない。JR貨物が客扱いはダメですよね。
魔理沙さん霊夢さんこんばんは!こだまデビューのときは6時間50分ですよ!6時間30分になったのは、つばめ電車化のときです。
もりわきさん、ご視聴ありがとうございます。その所を端折ってごめんなさい。
7:15これオロネ10じゃないですかね
ザンナナさん、ご視聴頂きありがとうございます。20系客車の回送と言うご意見もありまして、まだよく分かっていません。
窓配置からオロネ10かと
当時は三等級制でスハ44は三等車では。二等級制になったのは昭和35年7月ですよ。
ご視聴頂きありがとうございます。お知らせいただきありがとうございました。
まあ、現在つばめは九州新幹線内の各駅停車になっていますな実は大阪と博多を走っていたのは581系ですな
電光刑事さん、ご視聴頂きありがとうございます。以前も交直で間違えました。気を付けます。
@@Yukkuri-Lab まあ、実際に北陸本線用では583系でも先頭車はクハ581の場合もありますしただ、九州夜行ですと、ほぼ確実に581です
大隊583系が北陸本線を走るようになったのは、ヨンナナサンダイヤ改正でそれまでの循環急行こがねとしろがねの北陸本線部分をしらさぎに格上げしたのが始まりで、それまでは夜行金星からつばめだったのを名古屋での間合い運用のためですが、北陸本線のために耐寒耐雪を施した限定運用が南福岡電車区で組まれました。ちなみにクハネ583型の南福岡電車区初配置もヨンナナサンダイヤ改正のときでゴウマルサンダイヤ改正で一部が青森運転所に転属になり残りは向日町運転所へ転属しています。
最後らへんの映像に出てくる787系の場所って鳥栖駅?
はい、鳥栖駅です。古くていい駅ですよね。
@@Yukkuri-Lab 大学1年の時通学で乗り換え利用してました。ホーム屋根の一部が古レールの転用だったりします。
そうですか。鳥栖駅は外観も良い味してますよね。都心のホームの屋根も古レール多用していますよ。
動画に出てくる青大将EF58の次がマロネ40かオロネ10に見えますね。二段目寝台用の窓が見えます。普通はスハニ35のはず…。2両目が電柱に隠れて無ければスハニかスハか断定できるんだけどなぁ…
駿さん、ご視聴頂きありがとうございます。寝台車というのは奇妙ですねぇ。つばめの最後の頃そのようなことがあったのでしょうか?進駐軍のための何らかの増結があったのか?色はAIに判断させたので、ひょっとするとぶどう色だったかもしれないです。
当時は結構団体客輸送などで増結がありました。殊に全線電化で全区間EF58になり客車にもナロ10・オシ17が入って定数に余裕が出来てからは頻繁に増結がありました。お写真のカマ次位はオロネ10ですね(2900㎜幅車体ながらナロ10とは明らかに屋根高さが違うのとナロ10は後半屋根で銀塗装ガラベンあり。カンバス張り屋根でガラベン無しなのでオロネ10と断定)。回送は然し特急では行わず急行以下の列車を使ったと推測されるのでこれは団体客輸送用かも知れません。
@@Yukkuri-Lab 戦前の燕に寝台車が連結されるのは時々あったようですが戦後は聞いたことがありません。上等な客車を機関車の次に連結させるとは思い難いですし…かといって特急を回送に使うとも思えないし…。いよいよ謎です。
確かに異様に大きいから寝台車なんでしょうね。そうすると淡緑5号じゃなくてブドウ2号でしょうね。
謎はあった方が勉強になりますので、調べてみたいです。
C51、C53、C59、C62、EF58、牽引機だけでも現代の趣味人にとっては凄い話。信越線での撮影、お疲れ様でした。列車通過直前までの暴風雨は凄かったですね。
ご視聴頂きありがとうございました。あの大雨と強風は恐怖でしたね。北海道と九州で同様な天気を経験したのを思い出しました。吹雪では無いので事故にはならないですけど、一日中水浸しの体で気持ち悪かったです。
マイテ49はつばめ、はとの予備車だったらしい。食堂車はオシ17さくらだけマシ 29じゃ
@user-ze3zr1qb6eさん、ご視聴頂きありがとうございます。食堂車のところは丸み帯びているので10系だとわかりますね。
特急「つばめ」、広島市の5Dayこども文化科学館に展示しているC59形蒸気機関車も牽引していたのかなぁ?7月7日(日曜日・七夕🎋)、広島〜新大阪までハローキティ新幹線に乗って、とんぼ返りして来ました…………。
機関車ヒロさん、ご視聴いただきありがとうございます。C59-161は広島以西で使われていたので、つばめの牽引は全くなかったと思います。
やはりC53・43号機はカッコイイなぁ〜、あと583系のはともカッコ良くて好きだよ
0721さん、ご視聴頂きありがとうございます。通常より1日遅れてすみませんでした。今回写真は再修整しているので、より良く仕上げましたが、完璧なものにするにはまだまだ時間が足りません。
大丈夫だよ〜
寝台特急平和が1年足らずでさくらに改名されたりしてますよね?
松尾さん、ご視聴頂きありがとうございます。平和がつばめになったんです。さくらは急行さくらで東阪にありました。
燕になったへいわは、1949年9月〜1950年1月、東京駅 - 大阪駅桜になった平和は、1958年10月〜1959年7月、東京駅 - 長崎駅で、両方とも存在しますよ。
東海道本線全線電化で豪華な特急列車となったつばめ・はとだったが、転機は早くも来た。昭和33年10月1日のダイヤ改正で、直流特急電車151が誕生。特急こだまがデビューした。さらには、クロ151形などの増備により昭和35年には、つばめ・はとも特急電車化。151系の時代が始まった。しかし、東京五輪前で東海道新幹線開業前の昭和38年に特急富士が静岡県内での踏切事故で大破。先頭車が不足してしまい、急行形電車を代用するかえだま列車まで出てしまった。昭和39年10月1日の東海道新幹線開業でつばめ・はとは山陽本線の特急列車として、新大阪ー博多間を運行することになった。つづく。
大坂さんはこだま151系はすきですか?私はこだま型といえばひげ無しのこれにとどめを刺し、他のボンネット特急は偽と思ってます。
@@Yukkuri-Lab さん、京都鉄道博物館のモデルは見たことはあります。パーラーカーのモデルカーでした。赤ヒゲがついた特急電車は明らかに交直流用485系です。
わたしの曽祖父が鉄道省職員だったので、祖母が戦前のつばめで名古屋まで行ったという話を聞いた事があります
Homare Jumo213さん、ご視聴頂きありがとうございます。今だと、JALのファーストクラスで欧州に行くようなものなのでしょうねぇ。展望車の乗客はデッキに出て外を眺めることなどしなかったそうですが、8時間一体何をしているんでしょうねぇ。プライバシーもなさそうだし。
@@Yukkuri-Lab 高級官僚ではないので三等車・・・
三等でもスハ44ですし、片側シートでしたよね?
@@Yukkuri-Lab 戦前なので、初代スハ33かと
あっ、失礼しました。戦前とありましたね。
絶対遅れてはならないのが特急列車でしたが、それでも線路の異常等では運行に支障が出るのは仕方ありません。でもそこは最優等列車、迂回してでも運休にはしなかったそうです。御殿場線周りは有名ですが、関西本線経由、天王寺経由で運行した事もあったそうですね。
特急のみに限った話ではありませんが 1950年には静岡−清水間を無理矢理『静鉄線』に線路を繋げて走った事もあったそうです。
何のためにやったのでしょうか?三保の松原観光?
トミヤマサキオさん、ご視聴頂きありがとうございます。そんなルートではしたことがあったとは。加太峠は大変だったことでしょう。
@@Yukkuri-Lab さまいえいえ。そんなおめでたい理由ではございません。3月27日の23時過ぎに 草薙−清水間を走っていた上り貨物列車が脱線転覆。上下線が普通となってしまいましたが 静鉄側から国鉄に「応急的に ウチの線路をお使いください。」と申し入れ 突貫工事で線路を繋ぎ 翌28日夕方から 29日昼過ぎまで 東海道線列車を静鉄線に迂回させたそうです。静鉄の交通事業者としての 大局的判断だったそうです。
そうなんですか。今でも同じようなことやるでしょうか?まぁ、最近は何かあるとすぐ止めてしまいますから、復旧を待つのでしょうね。
C62、走って欲しいです!!梅小路でじっとしているのは似合わない!
hassiemozartさん、ご視聴頂きありがとうございます。今のままでは東京まで回送しただけで軸焼け起こしてしまうので、足回りをOHしないとダメでしょうね。
三号機が90年代に北海道の山線で復活運転していましたが、その後苗穂に保存され少し手を入れれば走れる状態を保ってるとか。問題なのは、持ってるJR北の台所事情が火の車で蒸気復活運転どころじゃないという...
3号機もボイラーは新調しないとダメそうです。
特急つばめ、はとはと当時からすればかなり早く電車化で所要時間短縮して利用者からすれば快適で評判は良かったろうにもしも新幹線がなかったら東阪間で最新鋭の車両がでていておおよそ5時50分ほどで走っていた可能性もあるかと
高橋道夫さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。新幹線が無ければ、鉄道と言うものももっと楽しいものになっていたことでしょう。
新幹線がなければ、鉄道は飛行機や高速バスに負けて東阪間は普通列車と貨物列車のみななっていたでしょうね。日本の鉄道から優等列車は消滅していたでしょう。
東阪は4割方名古屋で降りてしまうので、東阪は飛行機増便、名古屋までは特急を毎時2本、夜は大阪まで寝台車と言うのは面白いかも
昭和映画界華やかなりし日の小話のひとつに、若き頃の故石原裕次郎は『青大将』つばめ号の一等車に乗って、『帝国ホテル列車食堂』系列の食堂車🍴🚄にてビフテキを堪能するのが、移動の『デフォルト』だった模様。当時の絶頂を一身に受けるスターのスケールに、ただただ羨望あるのみである。
@user-zd8ch6uq4oさん、ご視聴頂きありがとうございます。食堂車って貧乏だったのであまり食したことがありませんが、つばめの食堂車って美味しかったんでしょうかね?新幹線では帝国食堂も含め高いだけで良い印象を持ってません。2階建ての食堂車はちょっと気分が良かったです。
7:48 『チャンピオンマーク』付きのクハ151の3か4ですね。その151系防弾ガラス迄装備された『パーラーカー』は お洒落でしたが それでも豪華さでは『展望車』には敵わなかったでしょうね。(あくまでも 見た目の印象です。)後に山陽特急の『クロハ』となった時 ジャイアンツの選手が乗車したら 車掌さんが 元国鉄の『カネやん』を見つけるなり「あ~これはこれは。どうぞどうぞどうぞ。👋」とクロハの区分室に『ご案内』したという逸話もあったそうです。『つばめ』『はと』が481系化された時は 向日町の受け持ちでしたが 他には『雷鳥』『しらさぎ』『はくたか』も担当していて50年3月10日改正直前迄は更に『なは』『日向』も受け持っていたから 東は『上野』西は『宮崎』『西鹿児島』と超高域運用でした。(本編とあまり関係ない話でしたね🙇💦 )
トリリサービスさん、コメント追加ありがとうございます。電車はあまり興味ないのでよく分かりませんが、こだまが登場した時はちょっと興奮しましたねぇ。駅弁が買えないと本気で心配しました。
C51から始まってC53、C59、C62、EF58と『つばめ』『はと』の牽引機は皆スター、リーダーの風格にあふれていたんですね。C59牽引の『つばめ』、C62 2号機牽引の『はと』の写真がレアなのはもちろん、青大将EF58と10系客車のカラー化写真も初めて拝見しました。そういえば、昨年の正月はゆっくり研究所の動画を拝見した影響もあって、架空の特急列車『うさぎ』号のトレインマークを年賀状イラストとして描きました。年配の親戚や自分と同年代の友人には、拙い絵ながらもトレインマークがモチーフと気づいてくれた方が案外多く、嬉しかったです。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。うさぎ号の機関車はC62だったのでしょうか?写真の修整ですが、どんどん進化していくので、楽しい反面、動画製作の時間が倍以上かかるようになってしまいました。
つばめが大衆化されたのは昭和40年10月ダイヤ改正の481系で自由席が大幅に設けられ1等車までに広がった。また指定席よりも自由席のほうが多くなった。大衆化を喜ぶべきか?個性がなくなったと嘆くべきか?魔理沙さん霊夢さんどう思いますか?
例えば東阪でも飛行機でもファーストクラスがあって、差別化したサービスありますね。鉄道では例外を除き特急でも普通列車でも同じです、早さ以外平均化されありがたさも無いのです、鉄道はつまらなくなりました。
ある日、Nゲージのマイテ49を弄っていたら母が思い出話。昭和15年に母と祖父母等が台湾基隆から高千穂丸で神戸、東京まで特急燕に乗車、1等車で往復。当時の1等車は非常に豪華で、乗客も優雅で静かな車内であったと。子供にはC53牽引など知るよしもないですが、『展望車の1等車は2等車とは全く違う』幼い母には夢の空間であったらしく。今では新幹線グランクラスでしょうか。
HMS HOODさん、ご視聴頂きありがとうございます。そうですか、もう当時の鉄道交通の話をしてくれる方々も殆どいなくなりましたし、記録として残るものも少ないですね。
一等車の運賃は三等の3倍ですね。グランクラス以上に凄く豪華な旅だったと思います。
@@北村顕一 少しばかり料金を調べると1等車は大人一人約18円だそうです。当時の虎屋羊羹が一円ほど。往復すると36本買える…。祖父が支払ったのか、あるいは曽祖父の家から支払ったのか。
羊羹36本ですか。展望車を自腹で乗る方は少なかったと思うのです。社費や経費で使うんでしょうね。UA-camrでも取材ならFでも大丈夫ですから。
展望車ですが、元々はとが誕生した時点で、進駐軍から返還されたのがスイテ48、マイテ49(−2)、スイテ37(マイテ58)の3両で、寄せ集めではと専用(大ミハソ配置)でした。その後、マイテ58がもう1両返還されマイテ58がはと専用になり、最後にマイテ49−1が返還されて、マイテ39が基本つばめ、マイテ58が基本はと、マイテ49が予備車(霊柩車みたいなマイテ39−11は観光客向け)になります。
北村さん、ご視聴頂きありがとうございます。ご説明ありがとうございます。マイテ58はTR-70台車で見分けるそうですね。
楽しく拝見させていただいてます。マイテ58の見分け方ですが、展望台の柵の段数ですぐにわかりますよ。段が5段しかないスカスカな感じがマイテ58です。あと、横から見ると、展望室と客室の窓が同じサイズの大窓が並んでいるのが58です。台車は、最初は木造展望車の台車でしたが、後に振り替えになってマイテ49と同じものになりました
なるほどですね。勉強になりました。ありがとうございます。
はとは東の名門品川客車区。ただし、昭和33年に九州特急(走るホテル)あさかぜ用の20系が投入された関係ではとの青大将はマイテ39の11号車(ブドウ色)と外国人観光用のマイ38を残して西の名門宮原客車区に移動し、展望車はつばめはマイテ39とマイテ49の1号車、はとはマイテ58とマイテ49の2号車を主に使ってましたがかなり混用されていたようで、昭和35年5月31日の大阪発最終のつばめはなぜかマイテ49の2号車が使用されました(この結果交通科学館に保存される事になったらしい)。
@@ikedasatsuki様、ありがとうございます。はととつばめで逆に勘違いしてました。すいません。色々ご迷惑おかけしました。
「徳川夢声さん」(当時の講談師)が桃山造りの一等車を「霊柩車みたいた。」と言ったとか。(昔の特急は、まさに「特別な急行」だったんですね😢)
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。展望車の現役時代はかなり華美な装飾だったそうですが、梅小路のマイテはすべてはぎとられているのでしょうか。
@@Yukkuri-Labさん、詳しくは、知らないけれど、桃山造りは、【富士】に割り当てたみたいです、【つばめ】は、恐らく洋式だったのかな?(当時の食堂車は和食堂、洋食堂が有り、和食堂の時刻表記号は、お椀のマーク😂)
なるほど、面白いですね。
@@小樽築港機関区さん、つばめ(戦後)のマイテ39は戦前の富士用の展望車の改造で、戦時中にボロボロになった内装を1両(今鉄道博物館にある11)にまとめてそのまま桃山式に、もう1両はペンキ塗りになりました(39−1)、さらにもう1両は、戦前から洋式アールデコ内装(白木屋風)のスイテ38を改造してマイテ39−21になってます。
特急「つばめ」「はと」は,西へ西へと飛んで行きました…
上海亭1978さん、ご視聴頂きありがとうございます。西に行っても九州ばかりで寂しいです。
やっぱり、東海道、山陽本線は私にとって眩しすぎます。(溶接マスク被らないと直視できないわけではありません。笑)俊足の蒸機に特ロ車、展望車を連結した列車は写真、模型でしかお目にかかれませんが、他の路線の列車と比較すると格の違いがひしひしと伝わります。霊夢、冷房無しの列車懐かしいよ!私が棲息する千葉は電車化後はとっても判りやすくて、房総各線から千葉駅を通って都内へ行く列車は冷房完備、千葉駅までしか行かない列車は冷房無しの扇風機だったよ。もっとも、総武線各停は半数は冷房無しだったし、山手、京浜東北線は列車の前後にしか冷房なかったし....話題がズレました orz
いあさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。国鉄の列車は冷房車何て言うのに縁がない時代の者ですので、余りありがたがる法ではないです。最初の12系で北海道に行った時寒くてお腹を壊してひどい目に会ったことがありました。最近は空気製造装置が完璧なので、締め切った車内でも快適ですね。
103系は当初クーラーはついていたが、発電器のない車両もあったので外観はクーラー付きに見えて実際はクーラーが無かった時期もありました。こういう車両に乗ると騙された思いでした。
あっ、そのこと思い出しました!
漢字:燕 > つばめWhy?
@rihz2286さん、ご視聴頂きありがとうございます。戦中で終わった特急燕は漢字を使いましたが、戦後のはつばめです。外国人に馴染みよいヘッドマークに合わせひらがなとローマ字にしたんでしょうね。
大変失礼しました😖🙇 先程ナロネ22とご指摘した者ですが、オロネ10との事でよーく確認しますと、中央側窓下にサボ(行先板)差しとデッキ脇に種別.愛称札差しが確認出来る事でまさしくオロネ10でした。又 上段寝台用のぞき窓の数も7個で一致、ナロネ22には、デッキ部に表示窓が4個有りますがこれには見当たりません。なお上段のぞき窓は4個 反対側端部に2個の表示窓で計10個の小窓が有るのが ナロネ22 なのでした。余談ですが、号車.行先など全ての表示をHゴム支持の小窓に納めたのは20系客車だけの特徴でした。2形式共思い入れが強いもので、いやはや大変失礼しました。
DAISUKE HASHIMOTOさん、いえいえ、私など全く見識眼無く、お恥ずかしい限りです。今回は専門家に見て頂きました。
当時の特急は庶民には高嶺の花、乗車出来るのは一握りの人達だったのでしょうねまた特急列車を運転出来るのも選ばれし方だったそうで特急のステータス性も今とは比べ様もないくらい高かったでしょうね。
デカミツさん、ご視聴頂きありがとうございます。蒸機の撮影旅行で特急に乗るなんて、信じられない!って思ってました。家族ではブルトレ乗ったこともありますが、撮影旅行するようになって途端に貧乏になりました。結局列車から降りてくれて普通に乗れるようになりましたが、その分ありがたみもまったくなくなりました。
確かに0系高速新幹線車両は1964年で見れば、日本の鉄道に敵はいなかったでしょう。しかし高速で移動する即ち旅の醍醐味は失われると感じたのはこの時だったと感じます。0系新幹線は速いけど、蒸気みたく煙は出さない。音も静かであり車窓ぐらいしかお楽しみがなくなったと言わざる負えないでしょう。
asokaiさん、0系が出た時はまだ余裕がありました。動力車の主力は蒸機であり、当分安泰だと思いました。もう凋落で終わりだなぁと感じたのは岡山延伸の時だったと私は思いました。
@@Yukkuri-Lab 私が記憶している所ですと、昭和40年ぐらいから既に首都圏は新性能電車などによって蒸気の(というか客車そのものの)廃止が既にあったと思っておりますが、地方ではまだまだ見れたのですね。首都圏は何分車両の入れ替えが激しく、両毛線ですら電化と70系横須賀電車の投入は1968年頃に行われておりましたので。この時に蒸気からディーゼルと電機が主流であったと思います。
やはりつばめは青大将ゴハチが引くとかなり様になりますね👌
塚越さん、ご視聴頂きありがとうございます。つばめのEF58の後の客車が何だろうということで、皆さん盛り上がりを見せていて楽しいです。
戦時中の『疎開』は 絶対 攻撃目標にもならないようなどこかの山間の小駅に持っていったようですね。映画『つばめを動かす人たち』を見ると 当時如何に花形列車だったのかがわかります。但し編成内容は 本当に『格差社会』的だったようで 1等車と3等車では物凄い差があったみたいで 現在の『普通車』と『グランクラス』の差以上だったようですね。あの『大屋政子』さんも 当時の1等車の常連さんだったとか。初期の客車冷房は 冷房機のコンプレッサーが車輪の歯車駆動で 停車中は効かなかったとも聞いたことがあります。65Pの501号機も もうすぐ引退ですね😢
とりりさーびすさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。車輪の動力でコンプレッサを回すのは簡単ですが理にかなっていますよね。停車時間短いので十分冷えたと思うのですが。
東海道線は興味無いから、つばめの名前が九州に残っても感心ないけど、国鉄残党の陰謀によって、全く関係ないはやぶさの名前が、東北に持ってこられたのには頭に来る。
ご視聴頂きありがとうございました。なんか伝統ある名前が、年々安っぽくなったり、思いつきでつけられたり。でも、さくらやふじは流石に無いでしょうね。
C59型とC62型では機関車のトレインマークの大きさが違いますね!C59型の魔理沙さん霊夢さんこんにちは!ほうが小さいです。それと特急つばめは宮原客車区ではとは品川客車区でした。特急あさかぜ誕生で特急はとも宮原客車区に変わりました。それまではつばめガールとはとガールで競っていたそうです。マイテ49型はどちらの所属だっかわかりません。
もりわききくおさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。そうなんです。トレインマークの大きさだけでなく、デザインもちょっと違うようで、浜松が作ったのでしょうか。やはりつばめだとシャープでスキニーな感じがするので、はとはピザが多そうとか感覚的に思っちゃいます。
これが最後の国鉄電機 そう考えると、失敗ではありませんよ?来年から銀色電車が引っ張るギャグにもならないSLだけが救いの列車になってしまう訳ですから青大将に、何でかオロネ10の青大将カラーが連結されてる?こんなの見た事無いのだが?あった事すら知らない。
kasa-brancaさん、ご視聴頂きありがとうございます。私はなにも否定的なことを今回の動画で言っておりませんが、そのようにとらえられたところをご指摘ください。EF58青大将の次位の客車は20系?と言うご意見もあり、進駐軍関連の特別編成と言う可能性もあるようですがまだわかりません。
『つばめ』と『はと』は今の四季島や瑞風等のクルーズトレイン並みに敷居が高かった列車だったようで…(:3[___]
めんつゆさん、ご視聴頂きありがとうございます。今のクルーズトレインやカシオペアクルーズはそれは豪華なんですが、許せないところはちっとも速くないという点で、私の中ではその時点でイベント列車なんです。
C51は独特なスタイルでどことなくかっこいいですね!スポーク動輪がなんとも言えません😊それに伴ってC61 20はあまりにもきれい過ぎです。昔、宮崎で走っていた頃を知ってますので残念に思います。C62 1も懐かしいです。昔、小郡機関区で汚れた1号機を撮影してます。
green-lineさん、ご視聴頂きありがとうございます。動画の中のC61-20ですが、今回が今シーズン最後となるのでしょうか、かなりすす汚れてきています。でも宮崎で梅小路上洛直前の2号機よりずっと現役らしいと思ってます。1号機は小郡でD51に囲まれて長いこと居ましたね。
進駐軍専用列車お願い
ご視聴頂きありがとうございます。やりたいのですが、適切な映像が揃わずうまくできないんです。
[はと]は復活ではなく新設の筈ですが…満鉄か鮮鉄に[はと]があったなら復活でも間違いではないですね(^^);151(当時はモハ20)系特急の所要時間は当初は6時間55分でした。その後順次6時間40分、そして最終的には6時間30分になりました。[つばめ][はと]の展望車ですが、[つばめ]は大ミハ、[はと]は東シナでしたので其々の所属車輛を用いていました。ただ、青大将時代に確か[あさかぜ]はじめ所謂九州夜行登場後[はと]も大ミハに移管されたので青大将時代最晩年ならどのマイテも[つばめ]に使われた可能性はあります。マイテ58は大窓ばかりですが台車がTR-71なのが識別ポイントです。
SleeperExpressJNRさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。マイテ58はTR-71で識別するのですね!今度気を付けて見てみます。はとは満鉄の歴史の長い急行ですね。大連~新京をローラーベアリングのパシハがけん引していたそうですが、最後はパシナが使われたようです。
つばめがマイテ39,はとがマイテ58,マイテ49は予備車じゃなかった?
nobu 5861さん、ご視聴頂きありがとうございます。予備機の扱い、具体的な使われ方は調べ切れておりませんので、そのうち取り上げたいと思います。
昭和39年10月1日から山陽本線の特急列車となったつばめ・はとだったが、交流電化区間の門司ー博多間は自走出来ないことが判明。下関ー門司間の関門トンネル区間はEF30形、門司ー博多間はED72又はED73形が電源車サヤ420を伴って牽引した。しかし、翌年には481系投入で解消。151系改め181系は、新大阪ー宇野間宇高連絡船特急しおじに使われた。昭和47年山陽新幹線おかやま開業で、岡山ー博多間に縮小されたが、西鹿児島(鹿児島中央)まで延長運転されるようになり、583系も間合いで投入された。しかし、山陽新幹線博多開業で、在来線特急全廃方針転換でつばめ・はとは廃止。永久欠番になると思われた。九州編につづく。
大坂さん、つばめもはとも151系以降はもう名前だけでどーでも良い感覚しかありません。やはりつばめは特別じゃないと。
@@Yukkuri-Lab さん、やはりマイテ39と49形三連車輪客車を最後尾にした客車特急列車以外考えられないというものですか。
大坂さん、いえそういうことじゃないんですね。つばめは最速であるべきなので、東海道新幹線はのぞみじゃなくて「つばめ」とすべきだし、JR東の新幹線だったら「はつかり」でしょう。英国のFlyingscotsmanも電車になってもその名前使ってますし。
@@Yukkuri-Lab さん、九州新幹線の列車になってしまったつばめ。はやぶさは、東京と西鹿児島を結んだ寝台特急列車。何故か北海道東北新幹線の名称になったのかが謎。
@@Yukkuri-Lab さん、最速新幹線はのぞみでなく、つばめにするべきだった。九州新幹線開業時の列車名は、永久欠番のはとを復活させれば良かった。しかし、水戸岡修治氏デザインの九州新幹線800系つばめになってしまったことは事実。
『つばめ』『はと』の青大将時代は日本政府の外貨獲得のための外国人観光客積極的誘致政策の時期とも絡んでいたようで、外国人観光客の1車単位での団体車両運用も時にはあったようですね。
EF58 63次位のオロネ10は、そのような団体車両の増結か単に転属回送だったのか...。
とても興味深いカットですね。
Toshi.Hさん、ご視聴頂きありがとうございます。
ナロ10かどうかまだ分からないです。視聴者様から20系回送か?と言うお話や、次位が合造車かどうか電柱で見えなかったり、謎が深まる写真になってます。でもこれは合成ではありませんので、この車体であることは間違いはありません。
@@Yukkuri-Lab屋根の形状からはナロ10では無いでしょう。
上段向け小窓が見えるのでナロネ21かオロネ10、車体中央部に行先板らしきものも見えるので後者か?団体用のマイの代わりか寝台要望でもあったとか。
@@トミヤマサキオ 上段窓の並びからオロネ10で間違えないでしょう、サボ受けもあるし、デッキ側トイレ窓
もナロネ21なら小さい筈。
何のためかですね、普通に考えると回送じゃないでしょうか?
7時間半も食堂車から孤立とは考えにくいです
傷病者の移送も考えられますね。
わかりました。オロネ10とすると、次位が荷物車だから、食堂車に辿り着けない。オロネ10の淡緑はあったのでしょうか?
私は独立した傷病者移送用と考えました。
つばめのヘッドマークを付けたC62物凄くカッコいい
ご視聴いただきありがとうございます。はとよりつばめの方が良いですね。
特急はとの青大将色の電気機関車かっこいい
自動車好きさん、ご視聴頂きありがとうございます。
コスモスポーツ良いですね。以前小さいほうのロータリーを積んでいた中古車が110万円であって、かなり傾いたことを懐かしく覚えてます。
この時代、キハ10はクリームとレッドではなく、灰色がかったクリームと深めのブルーのはず。
ご視聴頂きありがとうございます。
そうなんですね。教えていただきありがとうございました。
戦時中に日暮里から無理矢理京成に繋げて
3線軌道にしてトンネルの博物館動物園駅付近に国鉄の優等客車を避難させたと何かの本に書いて有りました
その優等客車が展望車かはその本には書いて無かったです
ご視聴頂きありがとうございます。
そうなんですね!凄い。辺鄙なところかと思ったら意外なところだったんですね。
C6218につばめマークが残っていたら、正にエースなんだけど!青大将のオロネ10にはびっくり🫢
ご視聴いただきありがとうございます。
記録映画で下りつばめありますね。最後に2号機が出てくるやつです。
北海道に行ったのでマークが残り、西に行ったのは、生意気だ!として外されたんでしょうね。
カラー化されると展望車のトレインマークと赤い尾灯が一層鮮やかですね。ちなみに幼い頃、垂れ流しの列車のトイレから黄色いものが飛散してくることがあるので踏切近くに立ってはいけない…と教えられたものですが、5:32で踏切近くに白シャツの人が並んで待っていますね。大丈夫だったやら…。
abbtk14さん、ご視聴頂きありがとうございます。
旧型客車のイメージが悪い最大の点はそこですね。私は大嫌いで駅で止まっている客車から汚物と水が散乱する姿にはいつも吐き気を催しました。黄害とか言われるようになって、大都市区間ではトイレは停止中にお願いしますとなりましたが、みんな守っていませんよね。
2:41 C55 やC53の流線型が保存されてないのが少し悲しいです。カッコいいので、1台で良いので保存されて欲しかったです。大きいのでどこに保存すれば良いのやら
KESEIさん、ご視聴頂きありがとうございます。
流線形は被せものですから、梅小路のC53を改造するのもさほど手間ではないかと思います。お金があればやってくれるかもしれませんね。
国府津のつばめカッコいい
つばめ はと かもめ はやぶさ ひばり 特急で、使用された名称 未だ他にも有りましたネ👍
7 Tom,s7さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
ゆうづるとかはくつるとか鳥がらみですか?
動画を拝見して、あらためて35系4000番台の存在の大きさ、希少性を感じました
パンチ猫さん、ご視聴頂きありがとうございます。
形あるものはいつかは朽ちるわけですけど、JRがオハ35系を大事にかつ普通に使っていてすごいです。でも大井川でも同じレベルの客車が普通に使われていて、あまり注目されないので可哀想だなぁと思います。
7:17頃の写真で
青大将EF58-63次位の車両は屋根上にガーランド通風器が無い事から ナロ10では無く、完全なドーム屋根で側窓の大きさも揃い、上段寝台用
のぞき窓が確認出来る事で
回送中のナロネ22
と思われます。
指摘などして失礼ですが、これは大変貴重な写真で驚きました。
青大将の写真の1両目はナロネ21の回送ですね
北村さん、えっ!20系ですか!?
@@Yukkuri-Lab 私もそう思います。
この頃の20系はシステム的に改良前で走行関係は旧型客車と同等ですから回送なら問題はありません。
流石に暖房管が無いので冬季は問題ですし、冷暖房や照明が使えませんので営業も無理です。
ナロネ21ではなくオロネ10では?
動画を拡大すると車体中央にサボ受けのような物が見えるので
@@user-zs5qc3ci2k さん、オロネ10とオロネ21の車体はほぼ同じですね。唯一の差はおっしゃる通りサボ受けです。ありがとうございます
C59の「つばめ」は初めて見ました。
貴重な映像に感謝です。
赤塚さん、ご視聴頂きありがとうございます。
C59-128のつばめは何度か出していますが、カラー化したのは初めてでした。
またよろしくご視聴くださいね。
今回の動画に出てくる編成とは直接の関係はありませんが「客車倶楽部」様の倶楽部メモ(780)によると
今はなき交通科学博物館の図書室に京都大学鉄道研究会による手書きの本(正確な書名は失念)にいくつか編成が書かれていたようです
昭和26年のマイネ41連結「つばめ」編成記録などが記述されていたらしいものの、京都鉄道博物館へ移転後は同書が収蔵されているかは不明
井今智世さん、ご視聴頂きありがとうございます。
車両の歴史に詳しい方々の集団っていらっしゃるので心強いです。
日にちが分かれば殆どの過去の編成が分かるそうです。
ヤクルトスワローズのつばめも、元は国鉄スワローズから今もつばめキャラだけ脈々と生き残ってるのもお忘れなくー。
ご視聴頂きありがとうございます。
ヤクルトスワローズは、国鉄スワローズですよね。
私は野球は見ないのですが、随分前ににサンケイスワローズと中日のナイターを神宮に見に行きました。
弱いチームでした。その後巨人戦を後年後楽園に見に行って原が日本ホームラン打って、ほえーとなったのを思い出しました。
この青大将は国鉄最高の乗り物ですね。展望車、特別2等車、食堂車憧れの編成です。小学生の私から見たら東京駅で眺めるのが精一杯でどんな人達が乗るのかそれ以外考えられませんでした。
辻村さん、ご視聴頂きありがとうございます。
東京駅にEF58の定期列車が来なくなって何十年経ったでしょうか。
普通にあれほど居たのに。
C622号機の「はと」良いですね。20年位前に山科へ某鉄道写真家様の写真展を見に行き少しだけお話を伺いました。C622号機のつばめは稀で30号機と41号機が多かった気がしますと言われたのを思い出しました。
シロクニさん、ご視聴頂きありがとうございます。
私が持っているつばめにC62-30と41は無いんですね。
特に2号機のつばめは1,2回しか写真で見たことがありません。宮原と浜松、名古屋のC62だと一度はけん引したことがあるんだろうと思います。
C62の2号機は人気とは裏腹に、あまり調子の良い機関車ではなかったとの話を散見します。
なぜそのような機体にエンブレム付けたのか謎
コメントありがとうございます。
当時は宮原のつばめけん引機の若番で、1号機の次にという具合でさほど理由は無かったんだろうと思ってます。
宮原のシロクニでは29号機35号機36号機が好調だったと伺っています。特に29号機はスワローエンゼルの2号機以上に宮原のエースだったそうです。
現在、東京⇔大阪間を、「在来線の普通列車」で行く場合、所要時間は約9時間です。乗り換えは最低でも5~6回必要で、所要時間や手間を考えると、非常に長旅になってしまいますが、当時の雰囲気を味わえるかもしれません。関西線経由だと、もっと当時に似ていていいかもしれません。SLやEF58、旧型客車は無理としても、たまに、東京⇔大阪間に、リバイバル列車を走らせてほしいものです。
ご視聴いただきありがとうございます。
京都まで普通列車乗継ぎ梅小路行くと一時間半ぐらい滞在しその日のうちに東京に戻れるのですが、やはり乗り換えの多さでゲンナリします。
直行の列車は、東海が嫌がるのでしょうね。機関士さんが居ない。
JR貨物が客扱いはダメですよね。
魔理沙さん霊夢さんこんばんは!こだまデビューのときは6時間50分ですよ!6時間30分になったのは、つばめ電車化のときです。
もりわきさん、ご視聴ありがとうございます。その所を端折ってごめんなさい。
7:15
これオロネ10じゃないですかね
ザンナナさん、ご視聴頂きありがとうございます。
20系客車の回送と言うご意見もありまして、まだよく分かっていません。
窓配置からオロネ10かと
当時は三等級制でスハ44は三等車では。二等級制になったのは昭和35年7月ですよ。
ご視聴頂きありがとうございます。
お知らせいただきありがとうございました。
まあ、現在つばめは九州新幹線内の各駅停車になっていますな
実は大阪と博多を走っていたのは581系ですな
電光刑事さん、ご視聴頂きありがとうございます。
以前も交直で間違えました。気を付けます。
@@Yukkuri-Lab まあ、実際に北陸本線用では583系でも先頭車はクハ581の場合もありますし
ただ、九州夜行ですと、ほぼ確実に581です
大隊583系が北陸本線を走るようになったのは、ヨンナナサンダイヤ改正でそれまでの循環急行こがねとしろがねの北陸本線部分をしらさぎに格上げしたのが始まりで、それまでは夜行金星からつばめだったのを名古屋での間合い運用のためですが、北陸本線のために耐寒耐雪を施した限定運用が南福岡電車区で組まれました。ちなみにクハネ583型の南福岡電車区初配置もヨンナナサンダイヤ改正のときでゴウマルサンダイヤ改正で一部が青森運転所に転属になり残りは向日町運転所へ転属しています。
最後らへんの映像に出てくる787系の場所って鳥栖駅?
はい、鳥栖駅です。古くていい駅ですよね。
@@Yukkuri-Lab 大学1年の時通学で乗り換え利用してました。ホーム屋根の一部が古レールの転用だったりします。
そうですか。鳥栖駅は外観も良い味してますよね。
都心のホームの屋根も古レール多用していますよ。
動画に出てくる青大将EF58の次がマロネ40かオロネ10に見えますね。二段目寝台用の窓が見えます。
普通はスハニ35のはず…。2両目が電柱に隠れて無ければスハニかスハか断定できるんだけどなぁ…
駿さん、ご視聴頂きありがとうございます。
寝台車というのは奇妙ですねぇ。つばめの最後の頃そのようなことがあったのでしょうか?進駐軍のための何らかの増結があったのか?色はAIに判断させたので、ひょっとするとぶどう色だったかもしれないです。
当時は結構団体客輸送などで増結がありました。殊に全線電化で全区間EF58になり客車にもナロ10・オシ17が入って定数に余裕が出来てからは頻繁に増結がありました。お写真のカマ次位はオロネ10ですね(2900㎜幅車体ながらナロ10とは明らかに屋根高さが違うのとナロ10は後半屋根で銀塗装ガラベンあり。カンバス張り屋根でガラベン無しなのでオロネ10と断定)。回送は然し特急では行わず急行以下の列車を使ったと推測されるのでこれは団体客輸送用かも知れません。
@@Yukkuri-Lab 戦前の燕に寝台車が連結されるのは時々あったようですが戦後は聞いたことがありません。
上等な客車を機関車の次に連結させるとは思い難いですし…かといって特急を回送に使うとも思えないし…。いよいよ謎です。
確かに異様に大きいから寝台車なんでしょうね。そうすると淡緑5号じゃなくてブドウ2号でしょうね。
謎はあった方が勉強になりますので、調べてみたいです。
C51、C53、C59、C62、EF58、牽引機だけでも現代の趣味人にとっては凄い話。
信越線での撮影、お疲れ様でした。
列車通過直前までの暴風雨は凄かったですね。
ご視聴頂きありがとうございました。
あの大雨と強風は恐怖でしたね。
北海道と九州で同様な天気を経験したのを思い出しました。
吹雪では無いので事故にはならないですけど、一日中水浸しの体で気持ち悪かったです。
マイテ49はつばめ、はとの予備車だったらしい。食堂車はオシ17
さくらだけマシ 29じゃ
@user-ze3zr1qb6eさん、ご視聴頂きありがとうございます。
食堂車のところは丸み帯びているので10系だとわかりますね。
特急「つばめ」、広島市の5Dayこども文化科学館に展示しているC59形蒸気機関車も牽引していたのかなぁ?
7月7日(日曜日・七夕🎋)、広島〜新大阪までハローキティ新幹線に乗って、とんぼ返りして来ました…………。
機関車ヒロさん、ご視聴いただきありがとうございます。
C59-161は広島以西で使われていたので、つばめの牽引は全くなかったと思います。
やはりC53・43号機はカッコイイなぁ〜、あと583系のはともカッコ良くて好きだよ
0721さん、ご視聴頂きありがとうございます。通常より1日遅れてすみませんでした。
今回写真は再修整しているので、より良く仕上げましたが、完璧なものにするにはまだまだ時間が足りません。
大丈夫だよ〜
寝台特急平和が1年足らずでさくらに改名されたりしてますよね?
松尾さん、ご視聴頂きありがとうございます。
平和がつばめになったんです。
さくらは急行さくらで東阪にありました。
燕になったへいわは、1949年9月〜1950年1月、東京駅 - 大阪駅
桜になった平和は、1958年10月〜1959年7月、東京駅 - 長崎駅
で、両方とも存在しますよ。
東海道本線全線電化で豪華な特急列車となったつばめ・はとだったが、転機は早くも来た。
昭和33年10月1日のダイヤ改正で、直流特急電車151が誕生。特急こだまがデビューした。さらには、クロ151形などの増備により昭和35年には、つばめ・はとも特急電車化。151系の時代が始まった。しかし、東京五輪前で東海道新幹線開業前の昭和38年に特急富士が静岡県内での踏切事故で大破。先頭車が不足してしまい、急行形電車を代用するかえだま列車まで出てしまった。
昭和39年10月1日の東海道新幹線開業でつばめ・はとは山陽本線の特急列車として、新大阪ー博多間を運行することになった。
つづく。
大坂さんはこだま151系はすきですか?私はこだま型といえばひげ無しのこれにとどめを刺し、他のボンネット特急は偽と思ってます。
@@Yukkuri-Lab さん、京都鉄道博物館のモデルは見たことはあります。
パーラーカーのモデルカーでした。
赤ヒゲがついた特急電車は明らかに交直流用485系です。
わたしの曽祖父が鉄道省職員だったので、祖母が戦前のつばめで名古屋まで行ったという話を聞いた事があります
Homare Jumo213さん、ご視聴頂きありがとうございます。
今だと、JALのファーストクラスで欧州に行くようなものなのでしょうねぇ。
展望車の乗客はデッキに出て外を眺めることなどしなかったそうですが、8時間一体何をしているんでしょうねぇ。プライバシーもなさそうだし。
@@Yukkuri-Lab
高級官僚ではないので三等車・・・
三等でもスハ44ですし、片側シートでしたよね?
@@Yukkuri-Lab
戦前なので、初代スハ33かと
あっ、失礼しました。戦前とありましたね。
絶対遅れてはならないのが特急列車でしたが、それでも線路の異常等では運行に支障が出るのは仕方ありません。
でもそこは最優等列車、迂回してでも運休にはしなかったそうです。
御殿場線周りは有名ですが、関西本線経由、天王寺経由で運行した事もあったそうですね。
特急のみに限った話ではありませんが
1950年には静岡−清水間を無理矢理『静鉄線』に線路を繋げて走った事もあったそうです。
何のためにやったのでしょうか?三保の松原観光?
トミヤマサキオさん、ご視聴頂きありがとうございます。
そんなルートではしたことがあったとは。加太峠は大変だったことでしょう。
@@Yukkuri-Lab さま
いえいえ。そんなおめでたい理由ではございません。
3月27日の23時過ぎに 草薙−清水間を走っていた上り貨物列車が脱線転覆。
上下線が普通となってしまいましたが
静鉄側から国鉄に「応急的に ウチの線路をお使いください。」と申し入れ 突貫工事で線路を繋ぎ 翌28日夕方から 29日昼過ぎまで 東海道線列車を静鉄線に迂回させたそうです。
静鉄の交通事業者としての 大局的判断だったそうです。
そうなんですか。今でも同じようなことやるでしょうか?
まぁ、最近は何かあるとすぐ止めてしまいますから、復旧を待つのでしょうね。
C62、走って欲しいです!!梅小路でじっとしているのは似合わない!
hassiemozartさん、ご視聴頂きありがとうございます。
今のままでは東京まで回送しただけで軸焼け起こしてしまうので、足回りをOHしないとダメでしょうね。
三号機が90年代に北海道の山線で復活運転していましたが、その後苗穂に保存され少し手を入れれば走れる状態を保ってるとか。
問題なのは、持ってるJR北の台所事情が火の車で蒸気復活運転どころじゃないという...
3号機もボイラーは新調しないとダメそうです。
特急つばめ、はとはと
当時からすれば
かなり早く
電車化で所要時間短縮して
利用者からすれば
快適で評判は良かったろうに
もしも新幹線がなかったら
東阪間で最新鋭の車両がでていて
おおよそ5時50分ほどで
走っていた可能性もあるかと
高橋道夫さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
新幹線が無ければ、鉄道と言うものももっと楽しいものになっていたことでしょう。
新幹線がなければ、鉄道は飛行機や高速バスに負けて
東阪間は普通列車と貨物列車のみななっていたでしょうね。
日本の鉄道から優等列車は消滅していたでしょう。
東阪は4割方名古屋で降りてしまうので、東阪は飛行機増便、名古屋までは特急を毎時2本、夜は大阪まで寝台車と言うのは面白いかも
昭和映画界華やかなりし日の小話のひとつに、若き頃の故石原裕次郎は『青大将』つばめ号の一等車に乗って、『帝国ホテル列車食堂』系列の食堂車🍴🚄にてビフテキを堪能するのが、移動の『デフォルト』だった模様。当時の絶頂を一身に受けるスターのスケールに、ただただ羨望あるのみである。
@user-zd8ch6uq4oさん、ご視聴頂きありがとうございます。食堂車って貧乏だったのであまり食したことがありませんが、つばめの食堂車って美味しかったんでしょうかね?新幹線では帝国食堂も含め高いだけで良い印象を持ってません。2階建ての食堂車はちょっと気分が良かったです。
7:48 『チャンピオンマーク』付きのクハ151の3か4ですね。
その151系
防弾ガラス迄装備された『パーラーカー』は お洒落でしたが それでも豪華さでは『展望車』には敵わなかったでしょうね。(あくまでも 見た目の印象です。)
後に山陽特急の『クロハ』となった時 ジャイアンツの選手が乗車したら 車掌さんが 元国鉄の『カネやん』を見つけるなり「あ~これはこれは。どうぞどうぞどうぞ。👋」とクロハの区分室に『ご案内』したという逸話もあったそうです。
『つばめ』『はと』が481系化された時は 向日町の受け持ちでしたが 他には『雷鳥』『しらさぎ』『はくたか』も担当していて
50年3月10日改正直前迄は更に『なは』『日向』も受け持っていたから 東は『上野』西は『宮崎』『西鹿児島』と超高域運用でした。
(本編とあまり関係ない話でしたね🙇💦 )
トリリサービスさん、コメント追加ありがとうございます。
電車はあまり興味ないのでよく分かりませんが、こだまが登場した時はちょっと興奮しましたねぇ。駅弁が買えないと本気で心配しました。
C51から始まってC53、C59、C62、EF58と『つばめ』『はと』の牽引機は皆スター、リーダーの風格にあふれていたんですね。
C59牽引の『つばめ』、C62 2号機牽引の『はと』の写真がレアなのはもちろん、青大将EF58と10系客車のカラー化写真も初めて拝見しました。
そういえば、昨年の正月はゆっくり研究所の動画を拝見した影響もあって、架空の特急列車『うさぎ』号のトレインマークを年賀状イラストとして描きました。
年配の親戚や自分と同年代の友人には、拙い絵ながらもトレインマークがモチーフと気づいてくれた方が案外多く、嬉しかったです。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
うさぎ号の機関車はC62だったのでしょうか?
写真の修整ですが、どんどん進化していくので、楽しい反面、動画製作の時間が倍以上かかるようになってしまいました。
つばめが大衆化されたのは昭和40年10月ダイヤ改正の481系で自由席が大幅に設けられ1等車までに広がった。また指定席よりも自由席のほうが多くなった。大衆化を喜ぶべきか?個性がなくなったと嘆くべきか?魔理沙さん霊夢さんどう思いますか?
例えば東阪でも飛行機でもファーストクラスがあって、差別化したサービスありますね。鉄道では例外を除き特急でも普通列車でも同じです、早さ以外平均化されありがたさも無いのです、鉄道はつまらなくなりました。
ある日、Nゲージのマイテ49を弄っていたら母が思い出話。
昭和15年に母と祖父母等が台湾基隆から高千穂丸で神戸、東京まで特急燕に乗車、1等車で往復。当時の1等車は非常に豪華で、乗客も優雅で静かな車内であったと。子供にはC53牽引など知るよしもないですが、『展望車の1等車は2等車とは全く違う』
幼い母には夢の空間であったらしく。
今では新幹線グランクラスでしょうか。
HMS HOODさん、ご視聴頂きありがとうございます。
そうですか、もう当時の鉄道交通の話をしてくれる方々も殆どいなくなりましたし、記録として残るものも少ないですね。
一等車の運賃は三等の3倍ですね。グランクラス以上に凄く豪華な旅だったと思います。
@@北村顕一
少しばかり料金を調べると1等車は大人一人約18円だそうです。当時の虎屋羊羹が一円ほど。往復すると36本買える…。
祖父が支払ったのか、あるいは曽祖父の家から支払ったのか。
羊羹36本ですか。展望車を自腹で乗る方は少なかったと思うのです。社費や経費で使うんでしょうね。UA-camrでも取材ならFでも大丈夫ですから。
展望車ですが、元々はとが誕生した時点で、進駐軍から返還されたのがスイテ48、マイテ49(−2)、スイテ37(マイテ58)の3両で、寄せ集めではと専用(大ミハソ配置)でした。その後、マイテ58がもう1両返還されマイテ58がはと専用になり、最後にマイテ49−1が返還されて、マイテ39が基本つばめ、マイテ58が基本はと、マイテ49が予備車(霊柩車みたいなマイテ39−11は観光客向け)になります。
北村さん、ご視聴頂きありがとうございます。
ご説明ありがとうございます。マイテ58はTR-70台車で見分けるそうですね。
楽しく拝見させていただいてます。マイテ58の見分け方ですが、展望台の柵の段数ですぐにわかりますよ。段が5段しかないスカスカな感じがマイテ58です。あと、横から見ると、展望室と客室の窓が同じサイズの大窓が並んでいるのが58です。
台車は、最初は木造展望車の台車でしたが、後に振り替えになってマイテ49と同じものになりました
なるほどですね。勉強になりました。ありがとうございます。
はとは東の名門品川客車区。ただし、昭和33年に九州特急(走るホテル)あさかぜ用の20系が投入された関係ではとの青大将はマイテ39の11号車(ブドウ色)と外国人観光用のマイ38を残して西の名門宮原客車区に移動し、展望車はつばめはマイテ39とマイテ49の1号車、はとはマイテ58とマイテ49の2号車を主に使ってましたがかなり混用されていたようで、昭和35年5月31日の大阪発最終のつばめはなぜかマイテ49の2号車が使用されました(この結果交通科学館に保存される事になったらしい)。
@@ikedasatsuki様、ありがとうございます。はととつばめで逆に勘違いしてました。すいません。色々ご迷惑おかけしました。
「徳川夢声さん」(当時の講談師)が桃山造りの一等車を
「霊柩車みたいた。」と言ったとか。
(昔の特急は、まさに「特別な急行」だったんですね😢)
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
展望車の現役時代はかなり華美な装飾だったそうですが、梅小路のマイテはすべてはぎとられているのでしょうか。
@@Yukkuri-Labさん、詳しくは、知らないけれど、桃山造りは、【富士】に割り当てたみたいです、【つばめ】は、恐らく洋式だったのかな?
(当時の食堂車は和食堂、洋食堂が有り、和食堂の時刻表記号は、お椀のマーク😂)
なるほど、面白いですね。
@@小樽築港機関区さん、つばめ(戦後)のマイテ39は戦前の富士用の展望車の改造で、戦時中にボロボロになった内装を1両(今鉄道博物館にある11)にまとめてそのまま桃山式に、もう1両はペンキ塗りになりました(39−1)、さらにもう1両は、戦前から洋式アールデコ内装(白木屋風)のスイテ38を改造してマイテ39−21になってます。
特急「つばめ」「はと」は,
西へ西へと飛んで行きました…
上海亭1978さん、ご視聴頂きありがとうございます。
西に行っても九州ばかりで寂しいです。
やっぱり、東海道、山陽本線は私にとって眩しすぎます。(溶接マスク被らないと直視できないわけではありません。笑)
俊足の蒸機に特ロ車、展望車を連結した列車は写真、模型でしかお目にかかれませんが、他の路線の列車と比較すると格の違いがひしひしと伝わります。
霊夢、冷房無しの列車懐かしいよ!
私が棲息する千葉は電車化後はとっても判りやすくて、房総各線から千葉駅を通って都内へ行く列車は冷房完備、千葉駅までしか行かない列車は冷房無しの扇風機だったよ。もっとも、総武線各停は半数は冷房無しだったし、山手、京浜東北線は列車の前後にしか冷房なかったし....
話題がズレました orz
いあさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
国鉄の列車は冷房車何て言うのに縁がない時代の者ですので、余りありがたがる法ではないです。最初の12系で北海道に行った時寒くてお腹を壊してひどい目に会ったことがありました。
最近は空気製造装置が完璧なので、締め切った車内でも快適ですね。
103系は当初クーラーはついていたが、発電器のない車両もあったので外観はクーラー付きに見えて実際はクーラーが無かった時期もありました。こういう車両に乗ると騙された思いでした。
あっ、そのこと思い出しました!
漢字:燕 > つばめ
Why?
@rihz2286さん、ご視聴頂きありがとうございます。
戦中で終わった特急燕は漢字を使いましたが、戦後のはつばめです。
外国人に馴染みよいヘッドマークに合わせひらがなとローマ字にしたんでしょうね。
大変失礼しました😖🙇
先程ナロネ22とご指摘した者ですが、オロネ10との事でよーく確認しますと、中央側窓下にサボ(行先板)差しとデッキ脇に種別.愛称札差しが確認出来る事でまさしく
オロネ10でした。
又 上段寝台用
のぞき窓の数も7個で一致、
ナロネ22には、デッキ部に表示窓が4個有りますが
これには見当たりません。
なお上段のぞき窓は4個 反対側端部に2個の表示窓で
計10個の小窓が有るのが
ナロネ22 なのでした。余談ですが、号車.行先など全ての表示をHゴム支持の小窓に納めたのは20系客車だけの特徴でした。
2形式共思い入れが強いもので、いやはや大変失礼しました。
DAISUKE HASHIMOTOさん、いえいえ、私など全く見識眼無く、お恥ずかしい限りです。今回は専門家に見て頂きました。
当時の特急は庶民には高嶺の花、乗車出来るのは一握りの人達だったのでしょうね
また特急列車を運転出来るのも選ばれし方だったそうで
特急のステータス性も今とは比べ様もないくらい高かったでしょうね。
デカミツさん、ご視聴頂きありがとうございます。
蒸機の撮影旅行で特急に乗るなんて、信じられない!って思ってました。
家族ではブルトレ乗ったこともありますが、撮影旅行するようになって途端に貧乏になりました。結局列車から降りてくれて普通に乗れるようになりましたが、その分ありがたみもまったくなくなりました。
確かに0系高速新幹線車両は1964年で見れば、日本の鉄道に敵はいなかったでしょう。しかし高速で移動する即ち旅の醍醐味は失われると感じたのはこの時だったと感じます。0系新幹線は速いけど、蒸気みたく煙は出さない。音も静かであり車窓ぐらいしかお楽しみがなくなったと言わざる負えないでしょう。
asokaiさん、0系が出た時はまだ余裕がありました。動力車の主力は蒸機であり、当分安泰だと思いました。もう凋落で終わりだなぁと感じたのは岡山延伸の時だったと私は思いました。
@@Yukkuri-Lab 私が記憶している所ですと、昭和40年ぐらいから既に首都圏は新性能電車などによって蒸気の(というか客車そのものの)廃止が既にあったと思っておりますが、地方ではまだまだ見れたのですね。首都圏は何分車両の入れ替えが激しく、両毛線ですら電化と70系横須賀電車の投入は1968年頃に行われておりましたので。この時に蒸気からディーゼルと電機が主流であったと思います。
やはりつばめは青大将ゴハチが引くとかなり様になりますね👌
塚越さん、ご視聴頂きありがとうございます。
つばめのEF58の後の客車が何だろうということで、皆さん盛り上がりを見せていて楽しいです。
戦時中の『疎開』は 絶対 攻撃目標にもならないようなどこかの山間の小駅に持っていったようですね。
映画『つばめを動かす人たち』を見ると 当時如何に花形列車だったのかがわかります。
但し編成内容は 本当に『格差社会』的だったようで 1等車と3等車では物凄い差があったみたいで 現在の『普通車』と『グランクラス』の差以上だったようですね。
あの『大屋政子』さんも 当時の1等車の常連さんだったとか。
初期の客車冷房は 冷房機のコンプレッサーが車輪の歯車駆動で 停車中は効かなかったとも聞いたことがあります。
65Pの501号機も もうすぐ引退ですね😢
とりりさーびすさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
車輪の動力でコンプレッサを回すのは簡単ですが理にかなっていますよね。停車時間短いので十分冷えたと思うのですが。
東海道線は興味無いから、つばめの名前が九州に残っても感心ないけど、国鉄残党の陰謀によって、全く関係ないはやぶさの名前が、東北に持ってこられたのには頭に来る。
ご視聴頂きありがとうございました。
なんか伝統ある名前が、年々安っぽくなったり、思いつきでつけられたり。
でも、さくらやふじは流石に無いでしょうね。
C59型とC62型では機関車のトレインマークの大きさが違いますね!C59型の魔理沙さん霊夢さんこんにちは!ほうが小さいです。それと特急つばめは宮原客車区ではとは品川客車区でした。特急あさかぜ誕生で特急はとも宮原客車区に変わりました。それまではつばめガールとはとガールで競っていたそうです。マイテ49型はどちらの所属だっかわかりません。
もりわききくおさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
そうなんです。トレインマークの大きさだけでなく、デザインもちょっと違うようで、浜松が作ったのでしょうか。やはりつばめだとシャープでスキニーな感じがするので、はとはピザが多そうとか感覚的に思っちゃいます。
これが最後の国鉄電機 そう考えると、失敗ではありませんよ?
来年から銀色電車が引っ張るギャグにもならないSLだけが救いの列車になってしまう訳ですから
青大将に、何でかオロネ10の青大将カラーが連結されてる?
こんなの見た事無いのだが?
あった事すら知らない。
kasa-brancaさん、ご視聴頂きありがとうございます。
私はなにも否定的なことを今回の動画で言っておりませんが、そのようにとらえられたところをご指摘ください。
EF58青大将の次位の客車は20系?と言うご意見もあり、進駐軍関連の特別編成と言う可能性もあるようですがまだわかりません。
『つばめ』と『はと』は今の四季島や瑞風等のクルーズトレイン並みに敷居が高かった列車だったようで…(:3[___]
めんつゆさん、ご視聴頂きありがとうございます。
今のクルーズトレインやカシオペアクルーズはそれは豪華なんですが、許せないところはちっとも速くないという点で、私の中ではその時点でイベント列車なんです。
C51は独特なスタイルでどことなくかっこいいですね!スポーク動輪がなんとも言えません😊それに伴ってC61 20はあまりにもきれい過ぎです。昔、宮崎で走っていた頃を知ってますので残念に思います。C62 1も懐かしいです。昔、小郡機関区で汚れた1号機を撮影してます。
green-lineさん、ご視聴頂きありがとうございます。
動画の中のC61-20ですが、今回が今シーズン最後となるのでしょうか、かなりすす汚れてきています。でも宮崎で梅小路上洛直前の2号機よりずっと現役らしいと思ってます。
1号機は小郡でD51に囲まれて長いこと居ましたね。
進駐軍専用列車お願い
ご視聴頂きありがとうございます。
やりたいのですが、適切な映像が揃わずうまくできないんです。
[はと]は復活ではなく新設の筈ですが…満鉄か鮮鉄に[はと]があったなら復活でも間違いではないですね(^^);
151(当時はモハ20)系特急の所要時間は当初は6時間55分でした。その後順次6時間40分、そして最終的には6時間30分になりました。
[つばめ][はと]の展望車ですが、[つばめ]は大ミハ、[はと]は東シナでしたので其々の所属車輛を用いていました。ただ、青大将時代に確か[あさかぜ]はじめ所謂九州夜行登場後[はと]も大ミハに移管されたので青大将時代最晩年ならどのマイテも[つばめ]に使われた可能性はあります。
マイテ58は大窓ばかりですが台車がTR-71なのが識別ポイントです。
SleeperExpressJNRさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
マイテ58はTR-71で識別するのですね!今度気を付けて見てみます。
はとは満鉄の歴史の長い急行ですね。大連~新京をローラーベアリングのパシハがけん引していたそうですが、最後はパシナが使われたようです。
つばめがマイテ39,はとがマイテ58,マイテ49は予備車
じゃなかった?
nobu 5861さん、ご視聴頂きありがとうございます。
予備機の扱い、具体的な使われ方は調べ切れておりませんので、そのうち取り上げたいと思います。
昭和39年10月1日から山陽本線の特急列車となったつばめ・はとだったが、交流電化区間の門司ー博多間は自走出来ないことが判明。下関ー門司間の関門トンネル区間はEF30形、門司ー博多間はED72又はED73形が電源車サヤ420を伴って牽引した。
しかし、翌年には481系投入で解消。151系改め181系は、新大阪ー宇野間宇高連絡船特急しおじに使われた。
昭和47年山陽新幹線おかやま開業で、岡山ー博多間に縮小されたが、西鹿児島(鹿児島中央)まで延長運転されるようになり、583系も間合いで投入された。
しかし、山陽新幹線博多開業で、在来線特急全廃方針転換でつばめ・はとは廃止。永久欠番になると思われた。
九州編につづく。
大坂さん、つばめもはとも151系以降はもう名前だけでどーでも良い感覚しかありません。
やはりつばめは特別じゃないと。
@@Yukkuri-Lab さん、やはりマイテ39と49形三連車輪客車を最後尾にした客車特急列車以外考えられないというものですか。
大坂さん、いえそういうことじゃないんですね。つばめは最速であるべきなので、東海道新幹線はのぞみじゃなくて「つばめ」とすべきだし、JR東の新幹線だったら「はつかり」でしょう。英国のFlyingscotsmanも電車になってもその名前使ってますし。
@@Yukkuri-Lab さん、九州新幹線の列車になってしまったつばめ。
はやぶさは、東京と西鹿児島を結んだ寝台特急列車。何故か北海道東北新幹線の名称になったのかが謎。
@@Yukkuri-Lab さん、最速新幹線はのぞみでなく、つばめにするべきだった。
九州新幹線開業時の列車名は、永久欠番のはとを復活させれば良かった。しかし、水戸岡修治氏デザインの九州新幹線800系つばめになってしまったことは事実。