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あー、優秀な人材コレクターだからこその不安か・・。能力は高くても、忠誠心が高いかは分からんし・・。関羽に惚れるのも分かる。あれだけ関羽を持ち上げたのは、自分の部下もみんな関羽のように忠義をつくせば、こういう待遇にするぞ!みたいな宣伝もあったのかも。
三国志の曹操なのですが陣営で度々陰謀やクーデターが起こり長く一緒に戦って来た人が相次いで亡くなっても精神が崩壊しない強い人物だなと感じています。
ナレーションうまいね。このチャンネルの人たちは、ほんとうまい
荀彧と程昱に相談すれば・・・大分違う結果だったような。他と違って性格を理解した上で、感情に合わせた提案・説得をしてくれるのだから。
曹操は別にカッコつけたわけではなく、現実を踏まえた上で部下と敵両方に対して体面を保たなくてはならなかったんでしょうね。自分から望んで得た地位とはいえ、古今東西指導者とは辛いものですね。
そのままの勢いで蜀に攻め込んだとしても険しい道中を乗り越えて攻めきれたかどうか…歳を重ねた曹操には無理だと思えたのでしょうね
もう相当身体にガタが来てたでしょう。しかし曹操の終焉近くはそうとうドタバタしてますね。荊州と益州の連携がうまく行ったら、龐統や徐庶のような関羽のストッパーが存在したら、もしかしたら劉備のチャンスでしたね。
自分の経験が仇となるとは、曹操は夢にも思わなかったでしょうね。やはり優秀な部下の助言は聞くべきですね。
「労を得て食を望む」。私は昔、仕事帰りに買い食いする習慣が身についてしまい、体型が崩れました(泣)。
上手い当て字です。
だって、仕事したらお腹空いて食べたくなるじゃん(泣
まぁ、トラウマというか、当時の曹操は60を越えた持病持ちのおじいちゃんでしたからね。後20年若かったらまた考えが変わっていたかもしれません。
時代違いますが、ナポレオンも晩年は持病の痔が悪化して知力はともかく行動力はかなり劣化してたらしいですね
曹操にとっては、相手二国以外にも、政治上朝廷内の清流派との調和問題など課題が山積みだったのでしょうね。大国なだけにその解決も、一朝一夕とはいかなかったようですね。
蜀に深入りすれば呉が攻めてくるし、呉の相手をしてたら今度は劉備が漢中を攻めてくる。強大な魏に対抗するために蜀と呉が組んだため、魏は深くまで侵略する戦はできず、三国鼎立後は防衛戦が主だった。ただ曹操が華北を制した時点で天下の趨勢は決まってしまったので、結局滅亡までの時間稼ぎにしかならなかった。
曹操の欲かぁ。銅雀台や人材見ても欲は凄そうですよね。
関羽が攻めた時に呼応して反乱を起こした勢力が多かったと言うから、蜀と事を起こしていたらどうなるかわからなかったからじゃないかな?
わかりやすい動画で面白かったです。司馬懿はこのとき40歳くらいだから,そんな年寄りっぽいしゃべり方でもなかった気がしないでもないですが^^
若い時の曹操なら攻め込んではいただろうね。
中国の歴史が大好きで、毎回興味深く楽しく見させていただいています。学校の授業にこういうちょっとした話題を取り上げてもらっていたらどんなに良かったことか😩
三国志、教科書には1ページ有るか無いかだし
曹操が周の文王に憧れていたのが一つでしょうね。漢中を確保しようとこだわったのはここを押さえなければ蜀本体に圧力をかけられない事と関中の防衛を意識したからだと思います。「隴を得て蜀を望む」という言葉を曹操は、人間の欲望にはきりがないから抑えるべきだという意味で使いましたが、漢王朝を再興した光武帝は曹操とは反対に人間の欲望にはきりがない。早く蜀を平定してくれと部下を叱咤する為に同じ言葉を使っています。
ただ単にクーデターが怖かったかもね。部下たちは、従っていてもいつ歯向かうわからない。後天災、戦で働き手がいなくなり生産力がた落ちたり、逃げ出す人もイルカら長く戦えなかったかも。
この話を見ていると曹操は、仲間内に恵まれてなかったり地形の構造や攻め方に守り方に問題が、あった気がする。
結構、曹操は漢の臣としての意識が強かったと思う。もともと夏候氏、養子に入ってからは曹氏と漢の名臣の系譜に連なっている。また、ろうを得て蜀をのぞむは光武帝の言葉であり、これでもわかる通り曹操は光武帝シンパだった。そんな曹操が漢を覆そうとは思っていなかったと思う。コンプレックスかなり強い方だと思うし。自分が劉姓だったら帝位をねらったと思うけど、曹操が目指していたのはおそらく西漢の名臣、霍光。複雑な思いは当然あったと思うが。
建前とはいえ、劉備は漢の末裔を名乗り皇帝の一族と言っていましたから、皇帝を擁する曹操も悪戯に攻める事が出来ないのでしょうね。代替わりして、帝位を奪うまで辛抱する方が得策と考えていたと思います。益州を巡って仲違いしている呉をそそのかして、攻めさせた方が得策と考えていたとも思います。二カ国が疲弊してくれたら、それこそ漁夫の利を得る事も出来ますしね。
ドラマの司馬懿のモノマネかな?うまいな
スリーキングダムの司馬懿ですかね?
司馬懿より曹操の方が似てるように…。
もう歳だしなぁ次代に備えて領内の安定を1番に考えてもおかしくない魏も決して一枚岩ではなかったしな
司馬懿がスネイプ先生役の土師さんぽいですね
なんとなく名前に魏が付く武将って主に背くイメージがあります。
でも、魏延は劉備や諸葛亮を裏切ったわけじゃないから。楊儀に対してだから
漢中攻防戦で「鶏肋」と引き揚げ、孔明が「陰平を防げ」と残した後に魏が陰平ルートで成都奇襲したのも繋がりが深いと思いませんか?もちろん漢中方面との二面作戦で
司馬懿:あ~、曹操さん蜀せめねぇの?曹操:張飛怖い、趙雲怖い、関羽怖い・司馬懿:いや、それこっちにも匹敵する武将いるからどうとでもなるべ。曹操:はっ、そうかこれは孔明の罠だ・司馬懿:(だめだこいつ。こいつ死んだら反乱おこしたろ)
司馬炎:爺っちゃん、俺の為に魏王朝を乗っ取ってくれてありがとな
乱世を平定するには、希代の人物である曹操でも、難しい事なんですよね。じゅんいくがいれば…。
何時もありがとうございます。ラストの音楽も大好きです(^∇^)。大変でしょうが、少しずつ読ませてもらいますね。
やはり曹操の場合はわざわざ大軍を率いてそんなに利の無い蜀を取るよりも荊州や東呉を取った方が良いと考えたのかも知れませんね。あとは司馬懿を恐れたと言う可能性もありますよね。もし司馬懿に唆されて空けてしまっていたら司馬懿が長安から許昌・洛陽・宛・業を抑えらら分断されて建て直せなくなる可能性が高い為、空けられなかったと言うのもあったかも知れませんね。曹操が息子曹丕に『文官の中に司馬懿の名前が御座いませんが?。』と聞かれ『あいつは野心を隠していていつ曹家を乗っ取るかもわからぬから注意して深く用いるな。』と語った位ですからね。
そのエピソードは俺も見聞きしました。そう考えると曹操は先見性がありますよね。実際に魏王朝は司馬懿に奪われたし。
曹操が司馬懿を重用してないのは、曹丕や曹叡にすんげえ頼りにされたのと比べると対照的。
@@てっちゃん-t1kさん、今更こんな送信してすいませんが、それは曹操に比べて曹丕や曹叡に先見性だけでなく人を見る目もなかったからでは?そうでなかったら司馬懿やその子孫達に魏王朝を奪われる準備すらさせなかったと思います。それでもこの二人は劉禅よりはかなりましですが。
@@柳谷慈彦 人を見る目…と言うか、「信頼しすぎてた」感はあるかな。司馬懿は死の間際に、師、昭に「決して野心を悟られるな。焦らず、確実に国を乗っ取れ」みたいな事言ってたらしいけど、司馬懿も長期戦見越して徐々に徐々に…ってやってたフシはある。本当のタヌキは相手信用させるために野心隠すから、曹操死後の司馬懿の行動見てると、曹操が先見の明あり過ぎぐらいに思えてくるかな。
@@てっちゃん-t1kさん、今更送信してすいませんが、他の動画のコメント欄で「戦国武将の真田昌幸の知略はチートレベルだ」なんて言った人がいましたが、俺は「曹操の先見の明と人を見る目はチートレベルだ」と思います。
司馬懿のイメージに口調があってる
理由はちゃんとあるのにそれを言わず司馬懿の進言をはぐらかすようなことを言ったのは、司馬懿もまた反乱側の人間であるかもしれないと考えてのことだったのかな
劉備が全く悪手を打たない碁盤だからこそ戦いを避けたのは正解、孫権が関羽に怒るまで一切勝たなかったからこそ劉備は人生最大の悪手を打ったであるなら曹操の戦略は全く当たらなかったとは言えまい
司馬懿は蜀平定直後で、孫権とも荊州問題で揉めている劉備を攻撃する絶好の好機だと献策しているが、そうなると劉備は絶対に孫権と和睦して対処するだろう。実際劉備は孫権に荊州の三郡を渡して一時的に手打ちをしている。その上、実は曹操、内政がそれ程上手くないのでは・・という疑惑が・・。自分の本拠地をカラにするとよく謀反を起こされるわ、袁紹の旧支配地も、袁紹のころの方が政治が良かったなんて記録が確かあったような・・(晋書だったと思いますが)。曹操も劉備が二両面作戦をやるような馬鹿ではないと理解していたはずだし、(後の夷陵の戦いは曹丕が蜀を攻めてこないと計算したうえで強行している気がする。実際曹丕は蜀と呉の戦いを傍観して漁夫の利を得ようとしている)自分の足元が完全に安定していないという認識があるから、漢中を攻略してすぐに劉備と合戦に及ぶのは、博打に近いと計算していたのでは。流石に臣下に自分の不安要素をさらけ出すわけにはいかなかったから、「隴を得て蜀を望まず」とはぐらかしたのでは・・これは個人の感想ですが。
その「夷陵の戦い」が呉の大勝利に終わった直後、なぜか曹丕が大敗直後で国力がかなり疲弊していた蜀ではなく、戦いの大勝利で士気がかなり上がっていた呉の方を攻めたのは俺にとってはかなり意外でした。俺が曹丕なら蜀の方を攻めてましたが...。これって「逆転の発想」とでも言うべきでしょうか?呉軍が「まさかこんな時に我々を攻めないだろう」と思ってる所を狙うつもりだったとか。そんな狙いも魏軍も見破った陸孫はかなり立派です。長文失礼。
『かつての周の文王も皇帝になれる人望と実力を持ちながら、殷を滅ぼすのは子の武王に任せた。私も文王のようになろう。』216年魏王の座に就いた時に言った言葉らしい。自分はあくまでも皇帝にはならずに漢の王族並みの地位の臣下として魏王になる道を選ぶ。そして漢を滅ぼすのは後継者に任せたようですね。トラウマが原因かどうかはわかりませんが、曹操も年で疲れちゃったんじゃないですかね?頭痛も酷かったみたいだし。まぁ何にせよあの時司馬懿の進言を聞いておけば良かったって思ったかも知れませんね。
ここまで曹操を追い詰めながら大勢を挽回できず、劉備が漢王朝を再興できなかったのは、まさに天命という他はあるまい。
劉邦が項羽を倒して漢王朝を起こしたのと違い、劉備が曹操を倒して漢王朝を再興出来なかったのは、曹操が項羽よりはかなり統治者として優秀だったせいもあったんでしょう。
追い詰めたかなぁ?領土を取ったわけじゃないし。せいぜい漢中くらいだし
全然追い詰めてないね
劉備は殿(しんがり)の戦いは上手くて強いけど、自ら攻めると曹丕にバカにされるほど下手だからね、しょく攻略やいりょうの戦いはその典型守りなら上手いけどね。でもここで張飛と馬超と組んで負けるとはそんな話あったのかな?演技でまたこと無かったけど?
夷陵の戦いでは誰が呉を攻めたとしても絶対に勝てなかったから樊城の戦いで関羽が死んだ時点でもう蜀は実質滅亡しました。劉禅がどうとかそういう話ではないんですよね。(夷陵の戦いの時: 近くの広陵には陸遜・朱然ほか多数の武将夷陵の戦いの後: 曹仁が広陵に攻めた時、朱然一人にぼこぼこ)
結局北伐が最優先なんでしょうね。後南方遠征で疫病が流行り、赤壁で大敗したのが大きいでしょう
司馬懿がペルリ提督調www
劉姓を攻めるのには大義名分が無いからだよ。一応、皇帝の第一臣下が曹操なのだからね
曹操は荊州で劉琮、漢中で劉備を攻めてるじゃないの。
陛下がやれって言ったかもしれないから攻めます
配下を纏めるには、富だけじゃなく個人的な関係性だよ…烝相。(余計なお世話?)
「人は足ることを知らずして苦しむ、既に隴を平らげ、また蜀を望む(人苦不知足,既平隴,復望蜀)」と光武帝が言っていました。曹操の「人苦不知足,既得隴,復望蜀耶」は先の光武帝の言を引いたわけです。更に曹操は、光武帝の望蜀の言の裏側、この外征時に各地に内乱が発生して中央に戻らざるを得ずそして隴を一旦失った、その状況も分かっていると思えます。故に曹操は我が身に立ち返り、同じ外征途上での失敗を考えて帰還を選択したのです。
涼州も鎮圧させて後方の憂いがなくなったのに、晩年の曹操はあまり積極的に出撃してないんだよね歳取って消極的になったってのもあるとは思うけど、四方八方をを群雄に囲まれていた後漢時代の方が積極的に攻勢していた印象
まだ勢力としては小さく魏という国も持ってなかった頃や魏がまだ小さかった頃は将も兵も信用出来る者で固め、多少不穏な輩が混じっていても監視も鎮圧も容易でしたからね官渡の戦いで袁紹を撃破して勢力が激増した辺りからはもう有能な人材を面接して取り込むより地域を丸ごと取り込む方法へシフトせざるを得んかった…天子を抱えてる曹操は劉備ほど足は軽くないし、数多の有能な文官を抱えていようと仕事も劉備や孫権より遥かに多かったはずだから動くに動けなかった印象勢力としては三国で最大だった分、不穏分子もそれだけ多く抱えてるわけだから消極的になるのは必定よもし呂布を捉えた際に劉備の助言を聞かず陳宮諸共に取り込んでたらもっと大惨事になってただろうね…
戻ってからもいろいろあったし、いったん戻ったのは正解だった気もする
5:39日本の吉本(よしもと)さんが反乱おこしたのかと思いました('ω')。きっぽんなのですね('ω')
考察少ないんじゃないかな?長安から漢中に行くには秦嶺山脈通らなきゃあかんしその上蜀となると軍の疲労や兵站上の問題もあっただろう。
蜀とのことを構えることを考えた場合「兵站」が足りるか?(補給線確保は難しいぞ)「帝都」の守備はどうか?(成都‐西安でも道程距離で1,000km弱あるよ)「季節」はどうか?(長引いたときの撤退も考えて)等々考えても難しすぎるでしょ。夜戦や待ち伏せや伏兵もあるのに攻めるのはないでしょう。
本人の声を聞いたことないけど。司馬懿の真似上手いですね☺雰囲気がでてる動画の内容と余り関係ないコメント失礼
ナレーション上手いけど[ぎょうぜん・うふふうろ]『みなみぜん・うこちゅうせん』とかちょこちょこ首を傾げるトコがあるな。。 『単于』の『呼厨泉』だと思うんだが。
に、逃げるんじゃない…戦略的撤退です…(´・ω・`)
司馬懿の物真似上手笑
私達のような 日本人は 中国大陸の広大な土地感が 理解できないので 過去の群雄達の行動力の偉大さに ただ頭が 下がる思いです大軍勢を 率いる統率力と 兵隊の補給線の確保など 長期戦になると 国内や軍勢内部に 破綻が 起こり易くなることと、 武力には 出来ることの 限界が あることを 長年戦いぬいた 歴戦の強者 曹操は 心底悟っていたのでしょうね。
ヒ素なんか舐めるから頭痛持ちに、、、
後になってみないとわかりませんよね、現代の私たちだってそんな事よくありますよ。あの時蜀を攻めていれば…司馬懿の提言を聞いていれば…
曹操が遷都しようとしたのは魏の国都である鄴ではなく漢の形式的に皇帝の居住する都である許では?(関羽傳)
諸葛亮が居なければ簡単だったろうな
三國志好きなら読み間違わない単語を所々読み間違うのが萎える・・・がんばれ。
曹操てカリスマな武将じゃないの孫子もめちゃくちゃ読んで完璧将軍じゃないの??
曹操ですら完璧ではないということかもしれませんね。完璧な人間などいないということ
おじいちゃんだし腰も重くなりますわな
経済圏として必要なかったからでは?
漢を利用しつつも、しかし最期まで滅ぼす事無く守り続けた事は評価されて然るべきですよねぇ。しかし漢中王僭称させる名分与えたのは痛恨のミスですね。年齢的にも衰えていたのもあるでしょうけど。蜀と呉に対して振り分ける守備兵力は1:2くらいの割合でもあったので、どちらを重視していたのか、と言う事でもあると思います。
司馬懿がちょっとスネイプっぽかった
何とも言えない!成るようになっただけ、
司馬懿の芝居
山田君、座布団一枚持って来なさい❗そして司馬懿は曹操の死後、政敵の曹爽を倒す為にボケ老人の「芝居」をも実際にやりましたよね。
got
七色の声を持つ男
1get
あー、優秀な人材コレクターだからこその不安か・・。能力は高くても、忠誠心が高いかは分からんし・・。関羽に惚れるのも分かる。あれだけ関羽を持ち上げたのは、自分の部下もみんな関羽のように忠義をつくせば、こういう待遇にするぞ!みたいな宣伝もあったのかも。
三国志の曹操なのですが陣営で度々陰謀やクーデターが起こり長く一緒に戦って来た人が相次いで亡くなっても精神が崩壊しない強い人物だなと感じています。
ナレーションうまいね。
このチャンネルの人たちは、ほんとうまい
荀彧と程昱に相談すれば・・・大分違う結果だったような。他と違って性格を理解した上で、感情に合わせた提案・説得をしてくれるのだから。
曹操は別にカッコつけたわけではなく、現実を踏まえた上で部下と敵両方に対して体面を保たなくてはならなかったんでしょうね。自分から望んで得た地位とはいえ、古今東西指導者とは辛いものですね。
そのままの勢いで蜀に攻め込んだとしても
険しい道中を乗り越えて攻めきれたかどうか…
歳を重ねた曹操には無理だと思えたのでしょうね
もう相当身体にガタが来てたでしょう。
しかし曹操の終焉近くはそうとうドタバタしてますね。
荊州と益州の連携がうまく行ったら、龐統や徐庶のような関羽のストッパーが存在したら、
もしかしたら劉備のチャンスでしたね。
自分の経験が仇となるとは、曹操は夢にも思わなかったでしょうね。やはり優秀な部下の助言は聞くべきですね。
「労を得て食を望む」。私は昔、仕事帰りに買い食いする習慣が身についてしまい、体型が崩れました(泣)。
上手い当て字です。
だって、仕事したらお腹空いて食べたくなるじゃん(泣
まぁ、トラウマというか、当時の曹操は60を越えた持病持ちのおじいちゃんでしたからね。
後20年若かったらまた考えが変わっていたかもしれません。
時代違いますが、ナポレオンも晩年は持病の痔が悪化して知力はともかく行動力はかなり劣化してたらしいですね
曹操にとっては、相手二国以外にも、政治上朝廷内の清流派との調和問題など課題が山積みだったのでしょうね。大国なだけにその解決も、一朝一夕とはいかなかったようですね。
蜀に深入りすれば呉が攻めてくるし、呉の相手をしてたら今度は劉備が漢中を攻めてくる。強大な魏に対抗するために蜀と呉が組んだため、魏は深くまで侵略する戦はできず、三国鼎立後は防衛戦が主だった。
ただ曹操が華北を制した時点で天下の趨勢は決まってしまったので、結局滅亡までの時間稼ぎにしかならなかった。
曹操の欲かぁ。銅雀台や人材見ても欲は凄そうですよね。
関羽が攻めた時に呼応して反乱を起こした勢力が多かったと言うから、蜀と事を起こしていたらどうなるかわからなかったからじゃないかな?
わかりやすい動画で面白かったです。
司馬懿はこのとき40歳くらいだから,そんな年寄りっぽいしゃべり方でもなかった気がしないでもないですが^^
若い時の曹操なら攻め込んではいただろうね。
中国の歴史が大好きで、毎回興味深く楽しく見させていただいています。学校の授業にこういうちょっとした話題を取り上げてもらっていたらどんなに良かったことか😩
三国志、教科書には1ページ有るか無いかだし
曹操が周の文王に憧れていたのが一つでしょうね。漢中を確保しようとこだわったのはここを押さえなければ蜀本体に圧力をかけられない事と関中の防衛を意識したからだと思います。「隴を得て蜀を望む」という言葉を曹操は、人間の欲望にはきりがないから抑えるべきだという意味で使いましたが、漢王朝を再興した光武帝は曹操とは反対に人間の欲望にはきりがない。早く蜀を平定してくれと部下を叱咤する為に同じ言葉を使っています。
ただ単にクーデターが怖かったかもね。部下たちは、従っていてもいつ歯向かうわからない。後天災、戦で働き手がいなくなり生産力がた落ちたり、逃げ出す人もイルカら長く戦えなかったかも。
この話を見ていると曹操は、仲間内に恵まれてなかったり地形の構造や攻め方に守り方に問題が、あった気がする。
結構、曹操は漢の臣としての意識が強かったと思う。もともと夏候氏、養子に入ってからは曹氏と漢の名臣の系譜に連なっている。また、ろうを得て蜀をのぞむは光武帝の言葉であり、これでもわかる通り曹操は光武帝シンパだった。そんな曹操が漢を覆そうとは思っていなかったと思う。コンプレックスかなり強い方だと思うし。自分が劉姓だったら帝位をねらったと思うけど、曹操が目指していたのはおそらく西漢の名臣、霍光。複雑な思いは当然あったと思うが。
建前とはいえ、劉備は漢の末裔を名乗り皇帝の一族と言っていましたから、皇帝を擁する曹操も悪戯に攻める事が出来ないのでしょうね。
代替わりして、帝位を奪うまで辛抱する方が得策と考えていたと思います。
益州を巡って仲違いしている呉をそそのかして、攻めさせた方が得策と考えていたとも思います。
二カ国が疲弊してくれたら、それこそ漁夫の利を得る事も出来ますしね。
ドラマの司馬懿のモノマネかな?うまいな
スリーキングダムの司馬懿ですかね?
司馬懿より曹操の方が似てるように…。
もう歳だしなぁ
次代に備えて領内の安定を1番に考えてもおかしくない
魏も決して一枚岩ではなかったしな
司馬懿がスネイプ先生役の土師さんぽいですね
なんとなく名前に魏が付く武将って主に背くイメージがあります。
でも、魏延は劉備や諸葛亮を裏切ったわけじゃないから。楊儀に対してだから
漢中攻防戦で「鶏肋」と引き揚げ、孔明が「陰平を防げ」と残した後に魏が
陰平ルートで成都奇襲したのも繋がりが深いと思いませんか?
もちろん漢中方面との二面作戦で
司馬懿:あ~、曹操さん蜀せめねぇの?
曹操:張飛怖い、趙雲怖い、関羽怖い・
司馬懿:いや、それこっちにも匹敵する武将いるからどうとでもなるべ。
曹操:はっ、そうかこれは孔明の罠だ・
司馬懿:(だめだこいつ。こいつ死んだら反乱おこしたろ)
司馬炎:爺っちゃん、俺の為に魏王朝を乗っ取ってくれてありがとな
乱世を平定するには、希代の人物である曹操でも、難しい事なんですよね。
じゅんいくがいれば…。
何時もありがとうございます。
ラストの音楽も大好きです(^∇^)。
大変でしょうが、少しずつ読ませてもらいますね。
やはり曹操の場合はわざわざ大軍を率いてそんなに利の無い蜀を取るよりも荊州や東呉を取った方が良いと考えたのかも知れませんね。
あとは司馬懿を恐れたと言う可能性もありますよね。
もし司馬懿に唆されて空けてしまっていたら司馬懿が長安から許昌・洛陽・宛・業を抑えらら分断されて建て直せなくなる可能性が高い為、空けられなかったと言うのもあったかも知れませんね。
曹操が息子曹丕に『文官の中に司馬懿の名前が御座いませんが?。』と聞かれ『あいつは野心を隠していていつ曹家を乗っ取るかもわからぬから注意して深く用いるな。』と語った位ですからね。
そのエピソードは俺も見聞きしました。そう考えると曹操は先見性がありますよね。実際に魏王朝は司馬懿に奪われたし。
曹操が司馬懿を重用してないのは、曹丕や曹叡にすんげえ頼りにされたのと
比べると対照的。
@@てっちゃん-t1kさん、今更こんな送信してすいませんが、それは曹操に比べて曹丕や曹叡に先見性だけでなく人を見る目もなかったからでは?そうでなかったら司馬懿やその子孫達に魏王朝を奪われる準備すらさせなかったと思います。それでもこの二人は劉禅よりはかなりましですが。
@@柳谷慈彦 人を見る目…と言うか、
「信頼しすぎてた」感はあるかな。
司馬懿は死の間際に、
師、昭に「決して野心を悟られるな。
焦らず、確実に国を乗っ取れ」
みたいな事言ってたらしいけど、
司馬懿も長期戦見越して徐々に徐々に…ってやってたフシはある。
本当のタヌキは相手信用させるために
野心隠すから、
曹操死後の司馬懿の行動見てると、
曹操が先見の明あり過ぎぐらいに思えてくるかな。
@@てっちゃん-t1kさん、今更送信してすいませんが、他の動画のコメント欄で「戦国武将の真田昌幸の知略はチートレベルだ」なんて言った人がいましたが、俺は「曹操の先見の明と人を見る目はチートレベルだ」と思います。
司馬懿のイメージに口調があってる
理由はちゃんとあるのにそれを言わず司馬懿の進言をはぐらかすようなことを言ったのは、
司馬懿もまた反乱側の人間であるかもしれないと考えてのことだったのかな
劉備が全く悪手を打たない碁盤だからこそ戦いを避けたのは正解、孫権が関羽に怒るまで一切勝たなかったからこそ劉備は人生最大の悪手を打った
であるなら曹操の戦略は全く当たらなかったとは言えまい
司馬懿は蜀平定直後で、孫権とも荊州問題で揉めている劉備を攻撃する絶好の好機だと献策しているが、そうなると劉備は絶対に孫権と和睦して対処するだろう。実際劉備は孫権に荊州の三郡を渡して一時的に手打ちをしている。その上、実は曹操、内政がそれ程上手くないのでは・・という疑惑が・・。自分の本拠地をカラにするとよく謀反を起こされるわ、袁紹の旧支配地も、袁紹のころの方が政治が良かったなんて記録が確かあったような・・(晋書だったと思いますが)。曹操も劉備が二両面作戦をやるような馬鹿ではないと理解していたはずだし、(後の夷陵の戦いは曹丕が蜀を攻めてこないと計算したうえで強行している気がする。実際曹丕は蜀と呉の戦いを傍観して漁夫の利を得ようとしている)自分の足元が完全に安定していないという認識があるから、漢中を攻略してすぐに劉備と合戦に及ぶのは、博打に近いと計算していたのでは。流石に臣下に自分の不安要素をさらけ出すわけにはいかなかったから、「隴を得て蜀を望まず」とはぐらかしたのでは・・これは個人の感想ですが。
その「夷陵の戦い」が呉の大勝利に終わった直後、なぜか曹丕が大敗直後で国力がかなり疲弊していた蜀ではなく、戦いの大勝利で士気がかなり上がっていた呉の方を攻めたのは俺にとってはかなり意外でした。俺が曹丕なら蜀の方を攻めてましたが...。これって「逆転の発想」とでも言うべきでしょうか?呉軍が「まさかこんな時に我々を攻めないだろう」と思ってる所を狙うつもりだったとか。そんな狙いも魏軍も見破った陸孫はかなり立派です。長文失礼。
『かつての周の文王も皇帝になれる人望と実力を持ちながら、殷を滅ぼすのは子の武王に任せた。私も文王のようになろう。』
216年魏王の座に就いた時に言った言葉らしい。
自分はあくまでも皇帝にはならずに漢の王族並みの地位の臣下として魏王になる道を選ぶ。そして漢を滅ぼすのは後継者に任せたようですね。
トラウマが原因かどうかはわかりませんが、曹操も年で疲れちゃったんじゃないですかね?頭痛も酷かったみたいだし。
まぁ何にせよあの時司馬懿の進言を聞いておけば良かったって思ったかも知れませんね。
ここまで曹操を追い詰めながら大勢を挽回できず、劉備が漢王朝を再興できなかったのは、まさに天命という他はあるまい。
劉邦が項羽を倒して漢王朝を起こしたのと違い、劉備が曹操を倒して漢王朝を再興出来なかったのは、曹操が項羽よりはかなり統治者として優秀だったせいもあったんでしょう。
追い詰めたかなぁ?領土を取ったわけじゃないし。せいぜい漢中くらいだし
全然追い詰めてないね
劉備は殿(しんがり)の戦いは上手くて強いけど、自ら攻めると曹丕にバカにされるほど下手だからね、しょく攻略やいりょうの戦いはその典型守りなら上手いけどね。でもここで張飛と馬超と組んで負けるとはそんな話あったのかな?演技でまたこと無かったけど?
夷陵の戦いでは誰が呉を攻めたとしても絶対に勝てなかったから樊城の戦いで関羽が死んだ時点でもう蜀は実質滅亡しました。
劉禅がどうとかそういう話ではないんですよね。
(夷陵の戦いの時: 近くの広陵には陸遜・朱然ほか多数の武将
夷陵の戦いの後: 曹仁が広陵に攻めた時、朱然一人にぼこぼこ)
結局北伐が最優先なんでしょうね。後南方遠征で疫病が流行り、赤壁で大敗したのが
大きいでしょう
司馬懿がペルリ提督調www
劉姓を攻めるのには大義名分が無いからだよ。一応、皇帝の第一臣下が曹操なのだからね
曹操は荊州で劉琮、漢中で劉備を攻めてるじゃないの。
陛下がやれって言ったかもしれないから攻めます
配下を纏めるには、富だけじゃなく個人的な関係性だよ…烝相。(余計なお世話?)
「人は足ることを知らずして苦しむ、既に隴を平らげ、また蜀を望む(人苦不知足,既平隴,復望蜀)」と光武帝が言っていました。曹操の「人苦不知足,既得隴,復望蜀耶」は先の光武帝の言を引いたわけです。更に曹操は、光武帝の望蜀の言の裏側、この外征時に各地に内乱が発生して中央に戻らざるを得ずそして隴を一旦失った、その状況も分かっていると思えます。故に曹操は我が身に立ち返り、同じ外征途上での失敗を考えて帰還を選択したのです。
涼州も鎮圧させて後方の憂いがなくなったのに、晩年の曹操はあまり積極的に出撃してないんだよね
歳取って消極的になったってのもあるとは思うけど、四方八方をを群雄に囲まれていた後漢時代の方が積極的に攻勢していた印象
まだ勢力としては小さく魏という国も持ってなかった頃や魏がまだ小さかった頃は将も兵も信用出来る者で固め、多少不穏な輩が混じっていても監視も鎮圧も容易でしたからね
官渡の戦いで袁紹を撃破して勢力が激増した辺りからはもう有能な人材を面接して取り込むより地域を丸ごと取り込む方法へシフトせざるを得んかった…
天子を抱えてる曹操は劉備ほど足は軽くないし、数多の有能な文官を抱えていようと仕事も劉備や孫権より遥かに多かったはずだから動くに動けなかった印象
勢力としては三国で最大だった分、不穏分子もそれだけ多く抱えてるわけだから消極的になるのは必定よ
もし呂布を捉えた際に劉備の助言を聞かず陳宮諸共に取り込んでたらもっと大惨事になってただろうね…
戻ってからもいろいろあったし、いったん戻ったのは正解だった気もする
5:39日本の吉本(よしもと)さんが反乱おこしたのかと思いました('ω')。きっぽんなのですね('ω')
考察少ないんじゃないかな?長安から漢中に行くには秦嶺山脈通らなきゃあかんしその上蜀となると軍の疲労や兵站上の問題もあっただろう。
蜀とのことを構えることを考えた場合
「兵站」が足りるか?(補給線確保は難しいぞ)
「帝都」の守備はどうか?(成都‐西安でも道程距離で1,000km弱あるよ)
「季節」はどうか?(長引いたときの撤退も考えて)
等々考えても難しすぎるでしょ。
夜戦や待ち伏せや伏兵もあるのに攻めるのはないでしょう。
本人の声を聞いたことないけど。
司馬懿の真似上手いですね☺
雰囲気がでてる
動画の内容と余り関係ないコメント失礼
ナレーション上手いけど[ぎょうぜん・うふふうろ]『みなみぜん・うこちゅうせん』とかちょこちょこ首を傾げるトコがあるな。。 『単于』の『呼厨泉』だと思うんだが。
に、逃げるんじゃない…戦略的撤退です…(´・ω・`)
司馬懿の物真似上手笑
私達のような 日本人は 中国大陸の広大な土地感が 理解できないので 過去の群雄達の行動力の偉大さに ただ頭が 下がる思いです
大軍勢を 率いる統率力と 兵隊の補給線の確保など 長期戦になると 国内や軍勢内部に 破綻が 起こり易くなることと、 武力には 出来ることの 限界が あることを 長年戦いぬいた 歴戦の強者 曹操は 心底悟っていたのでしょうね。
ヒ素なんか舐めるから頭痛持ちに、、、
後になってみないとわかりませんよね、現代の私たちだってそんな事よくありますよ。あの時蜀を攻めていれば…司馬懿の提言を聞いていれば…
曹操が遷都しようとしたのは魏の国都である鄴ではなく漢の形式的に皇帝の居住する都である許では?(関羽傳)
諸葛亮が居なければ簡単だったろうな
三國志好きなら読み間違わない単語を所々読み間違うのが萎える・・・
がんばれ。
曹操てカリスマな武将じゃないの孫子もめちゃくちゃ読んで完璧将軍じゃないの??
曹操ですら完璧ではないということかもしれませんね。完璧な人間などいないということ
おじいちゃんだし腰も重くなりますわな
経済圏として必要なかったからでは?
漢を利用しつつも、しかし最期まで滅ぼす事無く守り続けた事は評価されて然るべきですよねぇ。しかし漢中王僭称させる名分与えたのは痛恨のミスですね。年齢的にも衰えていたのもあるでしょうけど。蜀と呉に対して振り分ける守備兵力は1:2くらいの割合でもあったので、どちらを重視していたのか、と言う事でもあると思います。
司馬懿がちょっとスネイプっぽかった
何とも言えない!成るようになっただけ、
司馬懿の芝居
山田君、座布団一枚持って来なさい❗そして司馬懿は曹操の死後、政敵の曹爽を倒す為にボケ老人の「芝居」をも実際にやりましたよね。
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七色の声を持つ男
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