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小和田先生、今日もありがとうございます。ドラマはドラマとして楽しんでいますが、小和田先生の解説で、「史実」と「史実としては確認できていないこと」の整理ができて、大変ありがたく思っています😊❤
ドラマ内の脚色(8:41元康による大高城への兵糧入れ成功 は、今川義元をおびき出すための囮だという解釈)を大人気なく頭から否定したりせず、鷹揚に構える先生に、学者としての貫禄、矜持が感じられました。
桶狭間後に入った岡崎城を拠点として、三河の一国人領主から頭一つ抜けて、三河一国の大名になるためには、信長の助けを借りるしかなかったんでしょうね。信長も義元亡き後、武田信玄の侵略を恐れていましたから、その楯として三河勢を味方につけておく必要があって、家康に白羽の矢を立てた、ということではないでしょうか。
家康が、お市と結婚、考えたこともなかった、大河ドラマ色々楽しませてくれるな!先生よくわかりました!☺️
小和田先生、いつもありがとうございます。少し好奇心で思うことがあるのですが、時代考証のお仕事をしていて気づいたことやハプニングのような面白い出来事について、どうする家康が完結した後にでもお時間があれば動画をつくっていただきたいなぁ~と妄想しておりました。
7:54 信長が妹お市の方を家康と(駿府の瀬名と離縁させ)祝言を上げさせようとしたことは新鮮でした❣8:40 大高城兵糧入れは、今川の重臣たちが何回か試みながら、その都度撃退されており、なぜか義元が沓掛城に泊まった夜にだけ子飼いの元康(19)が成功させていることから、翌日、油断した義元の大軍を狭小な大高道(桶狭間)に導き、袋のねずみ🍬🐭にするための、信長の罠の可能性が高いと思われます。
大高城の囮の話は、NHKの歴史探偵でやってました。そういう狙いだったら家康の兵糧入れの成功も納得できます。
小和田教授!お誕生日おめでとうございます🎉
清洲城が平城京や紫禁城みたいに描かれていた事についてはどうお考えでしょうか?宜しかったらご教示願います。
受信料取るんだったらまともな時代考証してもらいたいもの。あんな清洲城を見せられたら見る気失せる
大河ドラマ関連動画いろいろあるけど、戦国小和田チャンネルだけを毎回見てる。
家康はよく信長についたよなあと思う。ここが運命の分かれ道
今川氏や今川氏の血縁者が遠江、駿河に逃げてしまったので、家康は行き場がなくなったというのもあります。今川軍の主力が後方にいて、すぐに撤退してしまい、家康は取り残されてしまいました。家康は岡崎城まで戻りましたが、なぜか今川家臣が岡崎城から退去したので、家康は岡崎城に入りました。今川氏が家康本人を捨て去る行動に出たので、家康もどうすればいいのかわからなくなったのでしょう。
先生、迅速ですね(^-^)
何故牛と言う字なのかなぁ?、と思った。 では家康は行っていないのかも?!ドラマではお位置が元康を好きだった、と言うのに少し驚いた。
お隣の中国古代の会盟儀式で、盟主が牛の耳を執って諸侯がその血を啜り合った…の故事からではないでしょうか?余談ですが「牛耳る」の元ネタでもありますね
なるほど!ありがとうございます。
今川氏真が瀬名を愛人にしようとした事に関して小和田先生はどう思われますか?今川家の分国法に他人の妻を奪う事を禁じてなかったんですか?
出典とは書籍のことではなく、文書のことなので、現代の出版物より、誰がいつ書いた文書なのかを説明した方がいいと思います。誰に向けて書いたのかも重要です。
27日のチコちゃんに叱られるに小和田先生が出演されていて驚きました。エイエイオー!
昨年の10月頃チコちゃんに叱られるにも出演してましたよ。確か相撲の話だったような。
@@直己-g5v 残念ながら見逃しました😢
戦国大名の同盟関係締結を政略結婚で担保するのが当然の中で、清洲同盟では当初は政略結婚の担保をしなかったという所が面白いです(家康とお市の結婚話は創作。同盟締結時点では、信康は駿河に勾留中)。政略結婚せずとも、家康が今川の家臣に戻ることはあり得ず、清洲同盟は機能しうると信長は踏んだのでしょう。
清洲同盟。瀬名は危ない。今川氏真はさっぱりダメだった。
小和田先生清州城の描写が、まるで支那の紫禁城清須城は濃尾平野のほぼ中央部に位置し、周囲の地形は真っ平また信長時代の清須城はそれほど大きなものではなく、ドラマに出てきたような、まるで中国の紫禁城を思わせるほどの規模とはまったく別物インチキすぎる。 あまりに史実とはかけ離れた演出 洗脳しようとしているのか時代考証どうなっているあの、お市は何ですか ( `ー´)ノ 忍者かよ ありえないもう見ているのが、 苦痛で! 苦痛で!もう 「どうする家康」 見ません。というわけで、 「どうする家康」 のタイマー予約解除しました。小和田先生 お城関係の解説で長年にわたり尊敬していましたが、あの紫禁城のような清州城の描写を 許可する 時代考証の仕事とは、いったい何なのですか? 尊敬の念が薄れました。 とても残念です。
@@majihima 様 返信有難うございます。どうする家康の総合プロデューサーは、「天皇など日王で十分」と言い放つ在日の方です。このような思想の人が、大河ドラマの責任者です。「チャングムの誓い」のような とんでも歴史ドラマ を作って流行らせ、日本人の誇りと歴史感を打ち砕こうとしていると感じます。このような恣意的で悪意を感じる責任者と、小和田先生は二人で講演されていました。時代考証で この とんでもドラマ の歯止めをしてくださると、信じていたのですが、だめでしたね。 前方後円墳が出土すると、即埋め戻すか、削って方墳にしてしまう ”正しい歴史認識” を持つ某国のような テキトー時代考証ドラマ に加担されるとは、晩節を汚す行いです。 そもそもアブラナ科の白菜は、そばにあるアブラナとすぐ交配してしまい、栽培そのものがものすごく難しかった。それを大正時代に日本人が栽培技術を確立しました。朝鮮時代に、白菜のキムチを漬ける「チャングムの誓い」が、いかに いい加減な時代考証がなされていたかわかるというものです。
こういうのを、クソリプという。フィクションの娯楽時代劇に難癖つける様は滑稽でしかない。しかも、難癖つける相手が的外れ。
気になったのは濃尾平野には清須城を見下ろすような山は無い事、仮にあったら時代的に清須城は山城になってたはず
犬山城や小牧山城や稲葉山城は?結構山あるんだが。
横から失礼します。 清須城はもともと尾張守護だった斯波氏の居館で、軍事的な面より政治的な意味合いの強い城でした。全国の守護たちは京都の将軍が住んでいた花の御所を模倣して自分の居城を作り、幕府の権威と秩序、文化を体現させて中央につながる支配を目指しました。ですので清須城も平地に作られたのです。 信長が元の城主であった斯波氏を追放したあと、やはり清須城を根拠地としたのは、自らが新たな尾張の支配者であることをアピールする政治的な目的であった思います。
お市の方が信長の妹だったかも怪しいし、まして家康と接触があったなんて。やりたい放題でいいんですか小和田先生。
巴御前なんて存在自体が怪しいし、まして俗説に過ぎない和田義盛の妻になったなんて。やりたい放題だったんですよ鎌倉殿の13人。
「どうする家康」、韓国歴史ドラマ化してきているようです。清州城については愛知県埋蔵文化財センターが発掘調査されています。発掘調査の報告によれば、清州越しが行われるまで多層化しており、信長時代がどの様な状態であったかは現在分からない。CGで造られた清州城下も考古学的検証は無いと思います。現在、新幹線の窓から見える清州城、全くの創作です。
そもそも本来の本丸跡は、その新幹線と東海道線でぶった切られている。
小和田先生、今日もありがとうございます。
ドラマはドラマとして楽しんでいますが、小和田先生の解説で、「史実」と「史実としては確認できていないこと」の整理ができて、大変ありがたく思っています😊❤
ドラマ内の脚色(8:41元康による大高城への兵糧入れ成功 は、今川義元をおびき出すための囮だという解釈)を大人気なく頭から否定したりせず、鷹揚に構える先生に、学者としての貫禄、矜持が感じられました。
桶狭間後に入った岡崎城を拠点として、三河の一国人領主から頭一つ抜けて、三河一国の大名になるためには、信長の助けを借りるしかなかったんでしょうね。
信長も義元亡き後、武田信玄の侵略を恐れていましたから、その楯として三河勢を味方につけておく必要があって、家康に白羽の矢を立てた、ということではないでしょうか。
家康が、お市と結婚、考えたこともなかった、大河ドラマ色々楽しませてくれるな!先生よくわかりました!☺️
小和田先生、いつもありがとうございます。少し好奇心で思うことがあるのですが、時代考証のお仕事をしていて気づいたことやハプニングのような面白い出来事について、どうする家康が完結した後にでもお時間があれば動画をつくっていただきたいなぁ~と妄想しておりました。
7:54 信長が妹お市の方を家康と(駿府の瀬名と離縁させ)祝言を上げさせようとしたことは新鮮でした❣
8:40 大高城兵糧入れは、今川の重臣たちが何回か試みながら、その都度撃退されており、なぜか義元が沓掛城に泊まった夜にだけ子飼いの元康(19)が成功させていることから、翌日、油断した義元の大軍を狭小な大高道(桶狭間)に導き、袋のねずみ🍬🐭にするための、信長の罠の可能性が高いと思われます。
大高城の囮の話は、NHKの歴史探偵でやってました。そういう狙いだったら家康の兵糧入れの成功も納得できます。
小和田教授!
お誕生日おめでとうございます🎉
清洲城が平城京や紫禁城みたいに描かれていた事についてはどうお考えでしょうか?宜しかったらご教示願います。
受信料取るんだったらまともな時代考証してもらいたいもの。
あんな清洲城を見せられたら見る気失せる
大河ドラマ関連動画いろいろあるけど、戦国小和田チャンネルだけを毎回見てる。
家康はよく信長についたよなあと思う。ここが運命の分かれ道
今川氏や今川氏の血縁者が遠江、駿河に逃げてしまったので、家康は行き場がなくなったというのもあります。今川軍の主力が後方にいて、すぐに撤退してしまい、家康は取り残されてしまいました。家康は岡崎城まで戻りましたが、なぜか今川家臣が岡崎城から退去したので、家康は岡崎城に入りました。今川氏が家康本人を捨て去る行動に出たので、家康もどうすればいいのかわからなくなったのでしょう。
先生、迅速ですね(^-^)
何故牛と言う字なのかなぁ?、と思った。 では家康は行っていないのかも?!ドラマではお位置が元康を好きだった、と言うのに少し驚いた。
お隣の中国古代の会盟儀式で、盟主が牛の耳を執って諸侯がその血を啜り合った…の故事からではないでしょうか?
余談ですが「牛耳る」の元ネタでもありますね
なるほど!ありがとうございます。
今川氏真が瀬名を愛人にしようとした事に関して
小和田先生はどう思われますか?
今川家の分国法に他人の妻を奪う事を禁じてなかったんですか?
出典とは書籍のことではなく、文書のことなので、現代の出版物より、誰がいつ書いた文書なのかを説明した方がいいと思います。誰に向けて書いたのかも重要です。
27日のチコちゃんに叱られるに小和田先生が出演されていて驚きました。
エイエイオー!
昨年の10月頃チコちゃんに叱られるにも出演してましたよ。確か相撲の話だったような。
@@直己-g5v 残念ながら見逃しました😢
戦国大名の同盟関係締結を政略結婚で担保するのが当然の中で、清洲同盟では当初は政略結婚の担保をしなかったという所が面白いです(家康とお市の結婚話は創作。同盟締結時点では、信康は駿河に勾留中)。政略結婚せずとも、家康が今川の家臣に戻ることはあり得ず、清洲同盟は機能しうると信長は踏んだのでしょう。
清洲同盟。瀬名は危ない。今川氏真はさっぱりダメだった。
小和田先生
清州城の描写が、まるで支那の紫禁城
清須城は濃尾平野のほぼ中央部に位置し、周囲の地形は真っ平
また信長時代の清須城はそれほど大きなものではなく、ドラマに出てきたような、まるで中国の紫禁城を思わせるほどの規模とはまったく別物
インチキすぎる。 あまりに史実とはかけ離れた演出 洗脳しようとしているのか
時代考証どうなっている
あの、お市は何ですか ( `ー´)ノ 忍者かよ ありえない
もう見ているのが、 苦痛で! 苦痛で!
もう 「どうする家康」 見ません。
というわけで、 「どうする家康」 のタイマー予約解除しました。
小和田先生 お城関係の解説で長年にわたり尊敬していましたが、あの紫禁城のような清州城の描写を 許可する 時代考証の仕事とは、いったい何なのですか? 尊敬の念が薄れました。 とても残念です。
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時代考証で この とんでもドラマ の歯止めをしてくださると、信じていたのですが、
だめでしたね。 前方後円墳が出土すると、即埋め戻すか、削って方墳にしてしまう ”正しい歴史認識” を持つ某国のような テキトー時代考証ドラマ に加担されるとは、晩節を汚す行いです。 そもそもアブラナ科の白菜は、そばにあるアブラナとすぐ交配してしまい、栽培そのものがものすごく難しかった。それを大正時代に日本人が栽培技術を確立しました。朝鮮時代に、白菜のキムチを漬ける「チャングムの誓い」が、いかに いい加減な時代考証がなされていたかわかるというものです。
こういうのを、クソリプという。
フィクションの娯楽時代劇に難癖つける様は滑稽でしかない。
しかも、難癖つける相手が的外れ。
気になったのは濃尾平野には清須城を見下ろすような山は無い事、仮にあったら時代的に清須城は山城になってたはず
犬山城や小牧山城や稲葉山城は?結構山あるんだが。
横から失礼します。 清須城はもともと尾張守護だった斯波氏の居館で、軍事的な面より政治的な意味合いの強い城でした。全国の守護たちは京都の将軍が住んでいた花の御所を模倣して自分の居城を作り、幕府の権威と秩序、文化を体現させて中央につながる支配を目指しました。ですので清須城も平地に作られたのです。
信長が元の城主であった斯波氏を追放したあと、やはり清須城を根拠地としたのは、自らが新たな尾張の支配者であることをアピールする政治的な目的であった思います。
お市の方が信長の妹だったかも怪しいし、まして家康と接触があったなんて。やりたい放題でいいんですか小和田先生。
巴御前なんて存在自体が怪しいし、まして俗説に過ぎない和田義盛の妻になったなんて。やりたい放題だったんですよ鎌倉殿の13人。
「どうする家康」、韓国歴史ドラマ化してきているようです。清州城については愛知県埋蔵文化財センターが発掘調査されています。
発掘調査の報告によれば、清州越しが行われるまで多層化しており、信長時代がどの様な状態であったかは現在分からない。
CGで造られた清州城下も考古学的検証は無いと思います。現在、新幹線の窓から見える清州城、全くの創作です。
そもそも本来の本丸跡は、その新幹線と東海道線でぶった切られている。