瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解
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- Опубліковано 19 жов 2024
- 真宗大谷派僧侶の瓜生崇さんは本願寺派では異義とされる疑心往生説をはじめとして、かなり親鸞の著作からかけ離れた解釈をされているように見えます。その理由は何なのか、瓜生崇さんの著書『なぜ人はカルトに惹かれるのか」を読み直し、令和6年7月5日真宗大谷派名古屋別院での講演『宗教がカルト化するとき…なにが教祖を生み出すのか』を取材して、深堀りしてみました。
カルトを無くしたいという思い、カルトから信者を救いたい、それが強すぎるがゆえに・・・ ご覧ください。
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• 「疑心往生とは?」(ゲスト) 岡林愚聞 住職
本願寺派司教の紅楳英顕和上からも大変結構なご指摘であるとのおこばをいただきました。ありがとうございます。
指月の譬えのところで月と指のいい間違えが一部ありました。指(善知識や表面的なことば)ではなく月(真理やことばがあらわしているお心)をよりどころにせよということです。「指をみてはいけない」というところを「月をみてはいけない」と言ってました。文脈的にご理解いただけると思いますが、訂正しておきます。
真実信心かそうでないは何が違うのか、親鸞聖人がはっきり教えられています。最初に、「真実の信心はなにか。それを阿弥陀仏からいただくとどうなるのか。」をはっきり説明されないと、戯論に終わってしまうと思います。
岩波の辞書ではないが、詰まるところ東西教義の差異かな、
南無阿弥陀仏🙏🪷🐉
坊さん同士で足の引っ張り合いしていると親鸞会に笑われてますよ、チカラを合わせて教えを広めていって下さい🤨
岡林先生。
ご解説視聴させて頂きました。
瓜生先生へのご批判ですが、瓜生先生は自身が親鸞会に居て、疑問を持った結果の脱会支援で、それを批判することと瓜生先生の考え方を批判することは区別されなければならないのではないでしょうか。
そう言う意味では、浄土真宗も僧侶様方は他宗派を見下し否定する傾向がなくはないのではないでしょうか。
即ち、浄土真宗に於いても自らが絶対に正しいとする断定性は他宗派との間に壁を造り他宗派を切り捨てる傲慢が全く無いと言えるのでしょうか。
瓜生師がご自身の信念でカルト脱会の支援をなさることを批判しているのではありません。
親鸞教義をご自身の信念に合わせて改変し、それを広く流布していることを批判しています。
宗教は超越・絶対的信仰でなければ意味を持ちません。それぞれに価値判断を持っています。それを認めた上で、共存、相互理解を深めなければ、お互いの宗教を尊重しているとは言えません。
自宗以外の宗教をあまり知らない真宗僧侶が他教・他宗派に対して傲慢な態度をとることは、深く反省しなければなりませんね。
@@愚聞岡林俊希の非僧非
岡林先生。
おはようございます。
先生の冷静な分析には頭が下がります。
その上で、先に書きました通り、瓜生先生は瓜生先生の土俵で発信して居られる事かと存じます。
そして、岡林先生がご指摘の点。
法義がカチっとした本願寺派のそれとやや自由な大谷派のそれとは同列には評し難いものが有るかと存じます。
こうして書きつつも、岡林先生のご姿勢は大切だと存じます。
近い将来、先生の手になる『浄土真宗法義』の書籍を読んでみたいと存じます。
宗教的体験は主観的なものです。絶対的なものではありません。私は大谷派は1住職ですが、相対的な信仰に耐えていきたいと思います。
@@大住誠 さん 超越があるので完全な自我否定が成り立ちますが、それがそのまま超越によって肯定されていくという宗教経験が真宗の信心だと思います。相対的信仰に耐えていくというのは親鸞聖人にはない考えだと思います。
2度ほど拝聴しましたが、私には岡林さんが瓜生先生のご著書とご講義をご自分に大変都合よく解釈されているようにしか思えません。
瓜生先生は、正しさを握りしめてはだめだ、信心を獲得したと喜ぶのはダメだ、絶対許さない、そんなものは根絶しなければならないなどとおっしゃってないですよね。少なくとも私は瓜生先生がそんな言い方をされるのを聞いたことがありません。岡林さんがご自分の正しさに執着されずに、普通に話をお聞きになればそんなふうに聞こえることはないはずです。
瓜生先生の話を捻じ曲げて、単純化して結論づけるのはどうかこれ以上やめていただきたい。そもそもこの動画のタイトルも人に対して敬意がない、失礼なものだと思います。
信心をえた、救われた、悟りをえたという人を瓜生さんが激しく批判しておられたのを見たことがありますし、私自身そのことで瓜生さんにSNSで批判されたことがあります。
「信心をえた、救われたという人は自分で自分の心を眺めて正しいと言っているのにすぎないのであって、それは救いの証拠にはならない」という主旨の発言は著書にも書かれていますし、法話などでも何度も聞いています。
そして、親鸞教義にのっとって批判しているだけなのに、正しさを握りしめて、壁を作って、人を攻撃することで、安心する、という主旨の発言を私もされましたし、他の人にもしているのを見たことがあります。
タイトルについては、敬称を略すなど一般的な慣例にもとづくもので、特におかしいとは思えません。
私もネット上で彼が信心を獲たという人を攻撃するどころか馬鹿にして笑っておられるのを何度もみました。
それは見ていて本当に嫌な気持ちがしました。
最近はどうなのでしょうか。ブロックされているのでわかりませんが。
タイトルで敬称を略するのは特に失礼なことではありません。
中身で一度も呼び捨てにはされていませんよね。
@@愚聞岡林俊希の非僧非 それはだめだから絶対許さない。そういう人をなくさなければならない、とおっしゃってないと私は言いたいのです。あなたが瓜生先生の論をそのように捻じ曲げているんです。わかりませんか?
@@kururutamamaさん 今回は瓜生さんがほぼ活字にされているものを用いて論証しています。
また、彼と議論したやりとりやその応答なども踏まえていますので、ある程度は正確に理解していると思います。
それを曲解だとおっしやるなら、その根拠を示していただきたいものです。
@@愚聞岡林俊希の非僧非 信心喜ぶことを絶対許さないなどとどこでおっしゃっているのですか?動画なり、文章なりではっきりとその表現をされている箇所を示してください。瓜生先生の話をあなたがそういうふうに受け取っているだけではありませんか?