Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
活気時代、良かった、懐かしい、😅
私はまだ映像の時代には生まれてないですが、私の幼少の頃はまだ沢山炭鉱住宅やお店も活気がありました。今と昔は生活しててワクワクする度合いが違うと思います。人間は知らない事が多いほど毎日が楽しくなると思います。この映像見てそう感じました。映像は白黒ですがとても明るく幸せに満ちた感じを受けて涙が出てきます。素敵な映像ありがとうございます!
ご覧いただき有難うございます当時は本当に活気がありました今ほど何でもある時代ではありませんでしたが、それでも今より幸せだったのかもしれませんね
北海道が大好きな関東者です。赤平と言えば、ミスターこと鈴井貴之氏がまず頭に浮かびます。空知地方にも観光で何回か行きましたが、夕張、美唄、三笠、芦別等の全盛期の写真を見ての驚き、また自分の地元では見た事ない現在の悲しい光景も衝撃的で、心に焼き付いています。本当、全盛期に行ってみて、いろいろ体験したかった。そして将来、北海道に住みたいと。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした炭鉱が全盛時代はどの町も活気がありましたが今では鉄道も廃線が多く寂しい限りですまた時間がありましたら、昔の写真を投稿しますね
余計なお世話と言われそうですが お止めなさい雪と寒さと闘う覚悟がありますか?!雪が降ったら その雪を片付けなければ自分の家から出られないし隣や周りの人々にも迷惑が掛かることになり 雪は一度きれいにしても止むとは限らず 一日何度も作業する事も、屋根に積もった雪は下ろさないと家の中の襖や戸・障子等が開かなくなります。家の水道は寝る前に水を下ろして措かないと水道管がシバレテ破裂するのです、今はさすがに無いでしょうが暖房が石炭の時代は毎月何回かの煙突掃除、煤まみれになって私の両親等はその度ケンカになっていました。それでも、何故か 雪国の寒さの厳しい 寂れてゆく一方の“北海道住友赤平"が堪らなく 恋しいのです❗️
“忠告"のつもりが“郷愁"になってしまいましたお許し下さい
やはりお互い懐かしいですよね
札幌は、⛄️に。トランプ、当選、🇯🇵もかわる。
まさか校歌を聴かるとは、思いませんでした。懐かしく住小の校歌ありがとうございます。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした本当に懐かしいですよね今でもはっきりと覚えています
校歌を作曲した先生が学校にいらしてピアノをお弾き下されたのを憶えています。
素晴らしい作品ですね。自分より7歳くらい上の方かと思いますが、お父さん・お母さん、炭鉱に生き、他のどのレベルより上質な生活を得、子供さんを育てられたことがわかります。幸せだった赤平。大切になさってください。ありがとうございました。
ご覧いただき有難うございますこちらこそ有難うございます
昭和27年生まれ、末広町に18歳まで住んでいました。7分3秒に写っている給食を食べている写真は自分のクラスのものです。4人の名前を思い出しました。友達の一人が職員住宅に住んでいて山に一緒にスキーに行きました。その時お昼におにぎりを食べました。友達のおにぎりは、アルミホイルで包まれていた。僕のは、包み紙でした。東京から来た人たちはテレビドラマに出てくる生活のように見えました。とても懐かしく拝見させていただきました。
ご覧いただき有難うございますそれは姉と同じクラスだったのですねたぶんご存じではないかと思います私もおにぎりは包み紙でしたよ思えばあのころが一番楽しかったかも知れません
ふるさと、いいなぁ-、素敵。
昭和49年度(?)に住友赤平小学校を卒業したものです。何十年かぶりに校歌を聞いて胸に迫るものがありました。貴重なお写真、ありがとうございました。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした校歌、懐かしいですよね今でもまだ歌うことができる想い出の学校なんです
懐かしい、活力が湧く。
花の首飾り、小6、の時もらう。あの子は、どうしてるかなぁ-。
昭和35年生まれ、18歳まで平岸にいました、平岸小学校の校歌蘇りました、涙が出ます。貴重な映像ありがとうございます。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした懐かしい風景私は平岸では2年ほどだったのですが、農家をされている方の友達が多く、毎日遊びまわっていました。今でも校歌を忘れる事がありませんよ
平岸には縁もユカリもないのですが、何度も此の動画を見ていますので 平岸小学校の校歌、覚えてしまい、知らず知らずに口ずさんでいる事があり一人で笑って居たりしています。私の通った住友小、住中、双葉中、赤平西高、今は皆無くなってしまいました。
ふと思ったのですが、これ等 廃校になった各学校の記録 何というのか学籍簿等も廃棄されてしまうのでしょうか風景が変わリ記憶も記録も無くなって仕舞うというのはやはり寂しい限りです。
たしかに廃校になり寂しいかぎりです
家の近くの廃校では屋根が落ち雨ざらしになり当時の教科書や道具なんかが酷い状態でした赤平はどうなのか気になります公民館などに活用されている廃校もあるので残ってほしいとは思うのですが・・・
寒くなってくると 住友病院や その斜め前にあった集会所の周りにひかれていたスチームを送る為の配管からシュウシュウと音をあげながら時に蒸気を吹き出し水滴がポタポタ落ちてた風景を思い出します動画のなかにも 所々に写り込んでいますね 集会所では夕方からそろばん塾がありその教室もスチーム暖房だったような全て懐かしい思い出です
スチーム思い出しました当時の記憶がはっきりしてくるのが嬉しく楽しく思います
昭和30年生まれの住友赤平出身者です。なつかしいな、住吉町、弥栄町、平和台、山手と引っ越して住んでいました。社員全員が借家住まいでしたね。小学生の頃は学校から帰ると即友達立ちと外で遊びに出た。家裏の畑とか山の方とか、冬は坑道を通って雪のずり山に登って頂上から飛び降りて雪だるまになって遊んだりした。夕暮れに冷たい棒手袋を我慢しながら雪が詰まった長靴でとぼとぼ帰った。夏は川向こうの山道に遠出して帰宅が夜中になり怒られた(らしい)。父は40歳半ばで離職し、ここ神奈川に移り住んだ。80歳まで生きましたが、父の友人は皆短命でしたね。やはり塵肺とか体を使う仕事なので無理が祟ったんでしょう。住友赤平は故郷ですが、今の生活や都内に住む息子や孫娘の生活の様子と違いがあまりにおおきすぎて、話をしても通じないだろうな。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした母が4月に93歳でこの世を去り、家族で赤平を知っているのが私一人になりました・・・私も昭和30年生まれました、同年代なんですね確かに同じように遊びまわっていました当時の遊びでは歩きしかなかったので遠くまで行くと帰りが遅くなり、線香をもって追いかけられました捕まるとお尻に灸されました・・
平和台という町名をすっかり忘れていました。山手のもっと奥というか高い所というか あと坑員住宅の町名も 確か東雲とかコメントにあった末広,住吉など何処が何処だったか記憶も遠くなってしまいました。ただ1年だけ通った住中の通学で覚えているのは共同便所と共同水道、寒い冬には凍結防止の為か水は一日中勢い良く出しっぱなしで飛び散った水滴が其のままの形で凍り付き 其処に更に飛び散った水滴がまた凍りゴツゴツとまるで岩の様になっていたのが ゴォ―と出続ける水道の音と共に記憶に残っています。炭鉱が閉山になって私の親類等も“ 清算事業団 "の斡旋で神奈川県の方に移りました。今は時間の経った事もあり誰も身内は居なくなり赤平とは縁もなくなりました。
s30年、選挙有りました。町村金吾が、選挙にでてました、
平和台住んでましたが、何軒か残して(無人)中央の道路意外ほぼ無くなっちゃいました。
どこの小学校もイルムケップが出てきますね自分は赤間小学校でしたが歌いだしがエルムの山からで写真の時代より後の世代(炭鉱閉山が子供時代)だったので少しずつ友人が色々なところに引っ越していった世代になります今は高校だったところが中学校になり赤中だったところが小学校になりどうやら小学校はその元中学校に全て統合昨年久しぶりに帰ったときにビックリしました赤平火祭りも会場が変わってるみたいですし色々市の方も変更がありますね子供の頃にゴールデン連れてお祭りよく行ったものです(知ってる人多分居そうですが)そういえば赤平神社って昔は今と違う位置にあったんでしょうか?何となく山に近いかんじがするんですが今の赤平神社隣の川べりの道路に草に埋もれてますが謎の石碑があって前に、石碑の文章読んだときに当時はそこが赤平公園だったみたいな事が書かれててちょっと昔の位置関係がわからないのでもしかして赤平公園と神社って何かの理由で移設されてるのかずっと疑問に思ってます今は内地ですし個人的に調べようがないんですが根室本線近くに走ってますし、鉄道敷設が何かしら関係があるんじゃないかって自分で無理やり納得するしかなさそうなのですが古くからご存知そうだからちょっとコメントしてしまいました
動画で赤平神社と紹介されているのは 住友炭鉱の大山祇神社で、空知川そばの赤平大橋の市街寄りの赤平神社とは 別になります。住友の大山祇神社は今では御本体は四国の御本社にお返りになり建物はキレイに解体され、跡地は草の中に埋もれつつあるようです。戦後直ぐの炭鉱祭りにはたいへんな賑わいだった様ですが···
@@user-bw4gw3ze1h ありがとうございます赤平の神社が他にあったのは長年住んでいてしりませんでした
@@天女の舞子早速の✉️↩️有り難う御座います。私はこの動画の他のコメントにも書きましたが昭和42年に西高を卒業しました。当時、赤間炭鉱の社宅住まいの同級生も沢山おり、放課後の帰り道によく寄り道して遊んだものです。あと赤平大橋近くの空知川の堤防で6,7人の仲間とくだらない話で盛り上がったり、その後すぐ閉山という厳しい現実が迫って居ると気付きもせずに😢
赤平神社私の勘違いで大山祇神社だったそうなんですただ現在は山に戻りつつあるようです
@@oodaisystem 色々教えて頂きありがとうございました昨年帰ったときに市役所側の橋も新しくかけなおす準備がされていて少しずつ変わって行く姿が見えました昔の思いでもありますがまた赤平が少しずつ良くなって行くといいですね
師走に入って 毎日雪が降り積もってゆく赤平市街を街頭放送からジングルベルが流れていた風景を思い出します。
またあの地を訪ねたいですよね
私と同世代の北海道の炭鉱街。広島県人ですけど、先だって母親が天寿を全うして、残されたアルバムを最近は眺めています。一枚一枚の写真に、思い出と時代感覚を呼び戻しますね。ロープウェイの一枚、私も両親に写して貰ったのが、場所は違えど、同じ感覚を感じます。寒かった昭和38年の記憶、タンスの隅に残してあった私の幼稚園時に付けてた毛糸の手編み手袋。寒冷地北海道、炭鉱街の特性か鉄筋コンクリートの小学校、広島ではオリンピック以降に鉄筋コンクリートで立てられました。取り留めもない感想、失礼しました。
ご覧いただき有難うございますやはりこの写真をご覧になられる方は同年代が多いようです手編みの手袋、穴が開くと母が繕ってくれた記憶が蘇ってきます思い出って良いですよね
コメント読ませて頂きました。家の近くには広島から移住された方が作られた広島通り という通りがあります、コロナ前に宮島に行きました。
5:23昭和26年赤平山からの展望は私の70年前の記憶を一気に甦らせてくれました。共同浴場のどっちが男湯だったか?毎朝手を繋いで小学校に通った女の子のコンクリート2階建ての社宅、弥栄町から根室本線の小さな踏切を渡ると左カーブした道の右側にプールがあり左には屋根付きの土俵がありました。幼稚園の隣の 石川パン屋 製粉所には休日によく食パン[イギリス形]や黒パン 豆パンを買いに行かされたものです。一際大きく存在感のある親友会館。毎月何回かあった 映画の日 には10円玉を握りしめ ワクワクしながら開場を待ったものです。そんな冬の映画の日、確か昭和35年前後の年のこと、朝から寒く空も曇り空で皆早く開場にならないか押し合いへし合いしていると空が一段と暗くなりその異様な空がピンク色というかオレンジ色に輝きだしそれが空一面に拡がったかと思うとまるでカーテンの様に揺らめいたのです。私が人生でただ1度だけ見た オーロラです。私は自分勝手で独りよがりの悔いばかりの人生を送り益田。大台情報システム様貴重な 写真の数々 本当に有り難う御座いました。何度も何度も見ています。人も建物も何も無くなってしまった住友弥栄町の写真を、、、
わぁ懐かしいですプールと土俵、ありました映画の日も記憶がよみがえってきました石川パン屋はまだあるようですね昭和37年頃だったと思いますが、十勝岳の噴火が今でも記憶にあります
ぜひ、故郷の地を再訪されて下さい。私事ですが、北海道の廃道や遺構を取り上げる、いくつかのチャンネルに縁があり、興味深く機嫌良く視聴してます。高評価
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした北海道に居住していた時に撮影した今は無き建物や風景の写真も多くあり、少しずつですが投稿しますね
@@oodaisystem さん楽しみにします。
素晴らしいです。記憶の奥にしまった扉を開くことは重要な使命に近いと思います。北海道と関係が深いのは十津川村を連想しますが、川上村との関係を教えてもらえば助かります。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした了解しました川上村の村史があり、友人も多いので調べてみますね
5分28秒の写真が素晴らしいね。 住友の5000人弱の職員の住宅です。 鉱員は大半が共同便所、炭鉱病院の左側のアパートから左は幹部職員住宅です。 私の家は銭湯ではなく共同浴場の左です。 私たちは決して幹部職員の子とは遊びませんでした。 懐かしい写真ですね。 当時赤平の人口は5万6千以上でした。 住友中学は赤平の不良の頂点にいた。
懐かしい風景再び思い出の地を訪れたいと思います
便所は、外にあり、寒中は、たいへん、尻が凍る
寒くなって北海道に雪のニュースがTVに流れると住小の3年か4年の頃二階の教室の窓から強い風に煽られて初雪が舞っていた光景を思い出します。シベリアからの寒気団が日本上空で暴れ初雪の頃は嵐の様な強風が吹き荒れ今年初の雪が風向きのままに吹き流され踊っているようで見とれては先生によく注意されたものです。
私は雪が積もりと校舎の2階から飛び降りたりして先生に思いっきり怒られました・・・
5:23『昭和26年赤平山から展望』を、何度も何度も見返しています。私の生まれ、育った社宅と其の周りの風景はどんなに見返しても見飽きる事が有りません😯😐😑🥲
本当に懐かしくて涙が出ます
@@oodaisystem様この写真を 住友石炭に定年退職迄 勤め 20年前 99才と半年で他界した父と、7年前 103才で他界した母、2年前 難病により他界した私より3才上の姉に、見せてやりたかった と本当に思います。大型液晶テレビの大画面で··· 皆 それぞれ 胸に去来する思いは違うでしょうが、皆 涙を流しながら、喰い入る様に見いった事と残念に思います🥲☺️
それは私も同じですとても懐かしがったでしょうね
私はいずみ幼稚園と住友赤平小学校に少し通いました(1年生と2年生)!父の転勤で住友歌志内から赤平に来ましたが斜陽化の見え始めた昭和46年に札幌に出ました日高屋さんのHPで小学校の校歌を20年位前に見つけて感動しましたが、またここで聞けて嬉しいです御幸町で過ごした4年は私の原点です
当時の思い出は何時までも忘れる事が無いですよね
@ ja84015 根曲がり竹の皮剥きの動画 拝見しました。幼い頃 母がよくこの竹の煮物を作って呉れたのを 懐かしく思い出しました。確かサバ缶と一緒に煮付けて···😅
御幸町あり、僕も、御幸町に、住んだ。懐かしく思い出します。(日高、静内)
赤平市役所の前、国道38号線と根室本線が平行する、踏切のチヨット市街寄りに映画館の大きな看板が並んで有りました。今でも憶えているのは高倉健さんのもろ肌脱いだ背中の色鮮やかな刺青姿で日本刀をかざした、決めポーズ。炭鉱の会館以外に、赤平に常設の映画館が3館も有ったなんて···東映・銀映・あと親不孝通りの真ん中辺りに 映劇 といったか、私は東映で見た中村錦之助「瞼の母」佐久間良子「故郷は緑なりき」など今でも憶えています😂
私も赤平で生まれ還暦過ぎた!おばあちゃんです。炭鉱で父親は、働いていたと聞いてます。
ご覧いただき有難うございます懐かしいですよね元気なうちに訪問したいと思っています
故郷は、遠きに、ありて思うもの。赤平
令和6年、天皇と、同じ生まれ。ご縁ありますね、ご立派ですね、ご尊敬いたします。
なっかしすぎて涙が、でてきた😂
本当に懐かしいですよねご覧いただき有難うございます
企業城下町の其の企業が撤退したのですから、人が居なくなり、動画に有るような此れだけ拡がっていた社宅·学校·病院·野球場·劇場が無くなるのは当たり前かもしれませんが、其処で生まれ、育って、当時を知っている者としては唯、懐かしく、又、何か割り切れ無い思いで一杯です😢
隣りの、幸子ちゃん、聖子ちゃん、げんきかな、
ふるさと、は東京にありて、思う
札幌住みですが生まれは赤平市平岸です。結婚後住んでいる家の近くには 広島通リという広島から移住した方が作られたという通ががあります。
平岸なんですね子供の頃は友人も平岸が一番多く、いまはどうしているのか気になります
@oodaisystem 様 動画視聴1万回です。此の10分余りの動画は私には衝撃的ですらありました。過去の記憶等が一気に甦って その後 考えも変わり一寸だけですが前向きにもなれそうです。感謝しかありません。本当に有難うございます。
どれだけの人たちが(涙)を流しながら見たことでしょうか 写真の持つ力をあらためて思わされます。
そう言ってもらえると本当に嬉しく、当時を思い出していますなんか涙が出てきますよね
私も 赤平住友小学校 卒業しました。 懐かしいです。住友炭鉱も山野の風景 当時発展していて
昭和27年御幸町で生まれ、東雲町、新元町と移り18歳で進学で上京しました。5:34と5:43住友全景、ノンプロ野球住友赤平の試合見に行きました。6軒長屋の炭住、家族の営みが有りました。親友会館で映画を見ました。6:54~7:12昭和40年卒業記念アルバムの1コマですね。7:03の給食風景6年7組、私のクラスです。皆さん71歳になっています。お元気でしょうか。先生は八田先生素晴らしい先生でした。小学校、中学校校歌今でも歌うことが出来ます。この動画を機に住友で過ごしたアルバムを懐かしく見ています。ありがとうございました。
7:03の給食のところを見た時自分のクラスだと思った。外尾君、白田さん、池田さんが写っていたので。しかし、前の写真には、畠山さんしか分かる人がいません。顔を見た事はあるが名前が出で来ないので、別のクラスだったかな。八田先生は、爽やかな、生徒に全く嫌味を言わなかった記憶ですが、担任にだったのは5年生の時か記憶が定かではない。6年生の時記憶は、転校生の女子が身長が160cm以上あって、先生が本当は中学2年生だけど理由があって6年生なので、皆仲良くしてくださいと、言われた。コメントを読むと色んな事を思い出します。動画を1回見た時は何も気が付かなく2回目の時、見覚えのある人に気づきこの人も知っているとなりました。ありがたい動画です。
お二人の別々のコメントを読みながら アレッ!ひょっとして此のお二人は同級生では?と思っていました。たまたま此の動画を見て気付かれたのですか?奇跡の様な事で 60年という年月が経っても記録が残り 発表する人がいて 其れを目にした人には記憶が甦る、素晴らしい事だと思います。
真志様と同級生ですね。他に男子前列に米田君が写っていますね。前の写真は8組の写真だと思います。八田先生は6年生の時で、5年生の時の担任は女性の近藤先生でした。小学生の時の記憶はあまり残っていませんが、自分のアルバムに6年生運動会で東京五輪音頭を踊っている写真がありました。1人の友人と現在も年賀状のやり取りを行っています。小学校、中学校、高校と全て無くなり寂しい限りです。@@真志-f1b
やっぱり米田君ですよね。白田さんのとなりの女の子は、全然記憶にないないです。4人がいるので同じクラスかと最初は思いましたが自分の記憶では6年生の担任は名前は思い出せません。ただ八田先生じゃなく、かなり年配の先生で体罰がきつかった。学級委員の松本君がいつも他の騒いでいた生徒たちと一緒に教壇前に並ばせられて、学級委員のお前が悪いんだと黒板けしを横にして鋲の付いている所で頭のテッペンを打ち付けていた。自分も1度やられかなり痛かった。2年に1度のクラス替えだったので1年生2年生は下村先生、3年生4年生は思い出さない、5年生は八田先生、6年生は思い出さない。下村先生は、無駄話しない笑わない。八田先生は、いつもニコニコして気持ちのいい先生。いろいろ思い出します。3,4年生の時は友達と楽しく遊んだ記憶ばかり思い出して、学校の行事は忘れてますね。
小学校の頃の思い出アルバムを見ると、5年生の時の担任が最初年配の斎藤先生(昭和42年死去)で途中から女性の近藤先生に代わっています。斎藤先生は、確かに現代では問題となる体罰を生徒に与えていた記憶が有ります。八田先生は1年間6年生の担任でした。私の小学の担任は、1,2年が河原先生、3年が沢田先生、4年が立花先生でした。真志様のコメントを読むと小学生の頃が懐かしく思い出されます。
昭和40年にここ赤平で生まれた炭坑夫の息子です。私、今年で59歳。還暦間近になりました。5歳で千葉に家族共々引越しましたので、僅かな記憶の断片しかなく、記憶が曖昧な部分もあるので この場をお借りしてご覧になっている皆様に教えて頂きたい事がございます。私の父親は住友で働いていたので、炭住住まいだったのは記憶がありますが当時の住所を聞くと親父は「平和台」って言うんですけど、Googleで調べても肝心の「平和台」が出てこないんです。子供の頃、母親に連れられて買物した帰り道の記憶を辿ると…赤平の市街地(駅周辺?)から進行方向右手を立坑を見ながら進み、その先はちょっと(子供目線ではかなり?)長い坂道があって、その先には大きな橋(子供だからか?)を渡った先を右に折れた先が当時の私の住まいだった記憶なのです。こんな曖昧な記憶だけでお尋ねするのは大変心苦しいのですが…どなたかご教示くださると大変嬉しく思います。どうかよろしくお願いします。
大変興味深く拝見しました。私は弥栄町に住中の1年まで住んでいた 団塊世代の一人です。この動画に寄せられたコメントに、嘗て平和台の社宅に住んでいた方のコメントが有りましたが その方の目に留まリ、✉️↩️頂けると良く理解が出来ると思うのですが、私の記憶では弥栄町から山手に向かってかなりの坂道でした。(私の頃は勿論、舗装されていない、穴ぼこだらけの土の)その途中左に集会所(夏休みのラジオ体操や盆踊りをするちょっとした広場が有りました)更に坂を上って行くと同じく左に配給所が有り、日常の買い物は此処でしていたのでは?更にこの道を行くと今度は下りはじめ その先に古い欄干など錆び付いたような長い橋がかかっていました。橋は 下までかなりの高さがあり、目も眩むようで渡るのに怖い思いでした。橋を渡ると歌志内ヘ抜ける道路がありその道路を越えると春光台でまた登り坂が続きます。お尋ねの“平和台"は山手の上の方だったのでは?(山手町はかなりの広さも奥行きもあったようです)私も平和台という町名をすっかり忘れていた位で 答えにもなっていませんがどうかお許し下さい。其れにしてもやはり懐かしいですよね🥲
誠意ある長文の返信、誠に有難うございました。遅くなったことお詫び申し上げます。5歳足らずの記憶だけでコメントを入れさせて頂いただけなのにこんな暖かい返信を返して下さった貴方様に心から感謝申し上げる次第です。圧倒的に赤平より千葉の時代が長い私ですが出生地を問われ、たった5歳まで、とはいえ『北海道赤平市』は間違いなく私の人生のスタートの街なのです。誇りなのです。還暦も近くなった人生の中で今一度 再び訪れたい気持ちが最近とみに強くなっている自分の気持ちからUA-camで赤平を見ていましたが、ますますその思いが強くなりました。数年以内に大阪出身のかみさんを連れて根室本線 いや赤平駅が無くなる前に再訪したいと思っています。自分の目のレンズで自分の心のフィルムに焼き付けておこうと思う次第です。本当にありがとうございました。
@@通りすがりの飲兵衛 丁寧な✉️↩️有難う御座います。私はスマホを持ってから、2年程の、まして斯うしてコメントを発信するなど思いもよらなかった様なIT 音痴で、其れが偶々おすすめ動画で目にした、この動画の5:23『昭和26 年 赤平山からの展望』この、私の幼い頃全てがつまった様な一枚の写真に目を奪われ、投稿をする様になった次第です。5歳迄の記憶では全てが曖昧でもどかしさも募るでしょうが@oodaisystem さん御本人や他の方からの良い✉️↩️を期待しましょう☺️
ご覧いただき有難うございます私の住んでいた弥栄町も今は表示すらされませんこのように消滅した地名も多いのではと思いますなんか寂しいですよね
夏休みのラジオ体操首からカードをぶら下げてスタンプを押してもらうために毎日時間ギリギリで走って行った記憶がありますラジオ体操が終わると宿題もせずに山に行き遊んでばかりいました
弥栄町なら職員ですね。1:14は炭鉱病院かな。正面入って右が内科・外科。左が小児科などがありました。3:19は赤平神社では無く、住友の大山祇神社です。
大山祇神社の近くに確か従業員クラブ といった 高級そうな施設があり 其処の玄関で 大相撲夏の地方巡業で来ていた 先々代の横綱、未だ大関だったか[若ノ花]を見た事がありました。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした大山祇神社、有難うございます当時はまだ小学生だったのであまり名称まで覚えていませんでした
懐かしいです・・・
6:30辺の2枚の玉入れの写真。小学校ではなく住友幼稚園の運動会と思われます。場所は懐かしき親友会館横のグランドです。背景に根室本線と思われる線路が横切っている事。その奥に社宅が続き 後ろにうつるズリヤマ、また2枚目の玉入れの写真 左上に小さく大山祇神社の鳥居が写っています。
私、昭和23年住友弥栄町南9丁目で生まれました。もう 75年前です。皆さん、お元気ですか!?
私の小学校時代、1組55人位でそれが10組までありました。北、南の弥栄町だけでなく山手、春光台まで同級生だらけでした。山手 には 今も活躍中のアローナイツの 木下あきらさんがいました。今年新曲がでましたね。昔とは風貌がかなり変わりましたがそれはお互い様の話しで御元気そうで何よりです。
なかじまひろふみ様私はアローナイツ木下あきら様のファンの一人です。UA-camで歌を楽しんでおりましたところなんとも表現できない素晴らしいお声に出逢いました。それが秋庭豊とアローナイツのグループでした。メインボーカルが誰なのか、どの方なのか全く知りませんでしたが、聴けば聴くほどにアローナイツの世界にどっぷり浸かってしまいました。UA-camコメントのお友達から木下あきら様の出身地情報頂いてあきら様の故郷赤平を散策しておりました。また、嬉しいことになかじま様のコメントに出逢えました。嬉しくて気持ちをお伝えしたくて返信させて頂きました。あきら様には、もっともっと歌い続けて頂きたいと願っております。偶然の出逢いに感謝しております。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした母が4月に93歳でこの世を去り、家族で赤平を知っているのが私一人になりました・・・私は昭和30年に弥栄町のこのアパートで生まれましたよ4棟ある一番手前の1階の一番左でした当時はまだ小さかったのでうろ覚えで幼稚園の運動会だったのですね運動会と言えば最高の御馳走がバナナでした懐かしいですよね・・・
父は16年前、母は今年の4月に他界しましたが、私はとても元気に暮らしています年齢を感じてしまいますが、お互い笑顔で元気に過ごせたらいいですね
@oodaisystem 様「我が故郷 赤平 60年前」の続篇を見たく楽しみにしてるのですが 可能でしょうか?来年 同じ歳の“ 豊里 "生まれ·育ちで同じ西高卒業の従姉妹と赤平を訪ねてみようか等と話して居るところです。訪ねても何も無いのは承知の上ですが···赤平市街から根室本線の踏切を右に渡り 住友の事業所・立抗を右に見て集会所が左、住友病院が右、共同浴場は左、弥栄町を北と南に分けてその真ん中を山手へ登り坂になってゆく、今は「木洩れ日道路」とか云う道を老人二人が歩くのもまた何か面白いかも。
続編考えてみますねまだ当時の写真がありますので。。航空写真で見ると、木洩れ日道路は今は見る影も無いようなんですそれどころか林になっていましたなんか寂しくなりましたよ
@@oodaisystem 様私も航空写真 何度も見たりしていますが そんな状態ですか? 現在、赤平に住んでいる方が主に冬の住まいの除雪作業の様子や春先の未だ多少雪の残った道をロ―ドバイクで軽快に買い物、🚴♂️などをyoutubeに UPされてる動画を良く見ていますが ソコまでの印象は受けないのですが弥栄町北には冷凍ウドンの「カトキチ」の工場が建ち弥栄町南は確かに緑一色で昔の面影は全く感じられません 私共の弥栄町南9丁目の社宅が果たして分かるかどうか 寂し~い 😢
赤平神社と言われる場所、大山神社では?
住小を昭和40年に卒業した者です。 この写真の子は職員でも地位の高い方ですね。 私も弥栄町でした。 弥栄町は北と南に分かれてまして、職員でも格差を実感する所です。 当時は住友石炭格式会社赤平鉱業所で所長は九州帝国大出に方で、写真の子供さんは多分旧秋田高専(秋田大)か旧小樽高商(小樽商大)での高級幹部のお子さんかな? 当時の炭鉱社会のピンからキリまでいる組合の強い地区でした。 ちなみに親父は労務でした。 炭鉱の労務の意味が分かる方は居ないだろうね。
労務といえば終戦直後、即行方を眩ました人びとが何人も居たと母親等に聞いたことがあります。今は昔の物語ですがそうはいってもなかなか簡単でもないようで、、、
聞いたといえば、終戦直後すぐに本当にすぐに進駐軍がジープでやって来たそうです。日本の事は調べ尽くしていたんでしょうね。
ご覧いただき有難うございます多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした父は当時、経理をしていたと思いますが確かに格差があったような感じで、子供心に不思議でした
@@user-bw4gw3ze1h 住友は財閥系の炭鉱ですので、そんなに酷くは無かった。 ただ戦前は朝鮮系の方も居ました。 私の父は戦前は鴻之舞金山(住友系)に職員として居まして、戦争中は金より石炭が価値があったので赤平に転勤になりました。 労務と云っても色々な業務があります。 当時の赤平市長は住友の労務出身ですね。
市長といえば“遠藤"さんの事でしょうか 何分 小さかった時分の事でうろ覚えですが皆大騒ぎしたような記憶があります
住友中学一年の担任だった「吉川先生」はお元気でしょうか 体育の先生で 自習の時間だったか「山男の歌」という歌を教えて頂きました。ずっと後になって其れが「芹 洋子」等が歌う「坊がつる恋歌」という歌と知りましたが当時は登山者やキャンパ―に広く親しまれ歌われた様です。私も 今でも歌詞、メロディー、覚えています。若くて 正義感の強い 熱血漢の先生でした。
私は中学生の頃に赤平を離れましたので、中学時代はあまり記憶が少ないのです当時の先生は怖いというのだけは鮮明に覚えています悪ガキだったので・・・
確かに恐かったですね。冬に学生服のカラ―を細かく刻み鉛筆のアルミ製のキャップに詰め込んでお尻を潰してスト―ブの上に乗せ熱っせられたキャップがロケットの様に飛び上がるという危ない遊びをして男子十数人 吉川先生からビンタを頂戴した事がありました。白い煙とプラスチックの燃えた臭いですぐにバレました。やった事ではなく先生が聞いた時にすぐ名乗り出なかったのがダメというか卑怯というかちなみに私はその時 学級委員長でした。 痛かったなぁ あのビンタは···
私はバケツを両手に持たされ廊下に立たされました・・・
社宅前の小道を「こもれび通り」ではなく反対に左に曲がり社宅の並びに沿って登り坂を歩いていくと「こもれび通り」と平行する道とぶつかり、(グ―グルマップで見ると林の中にかろうじてこの道が見て取れます) この道を山手町の方へ左に曲がって行くと 弥栄町の社宅の切れ目辺り右に 夏は畑になり 冬にはスキ―が出来る一寸した山が有りました。 小学生位迄は良く遊んだものです。この道は行き止まりで 、ぶつかった道の、丘の様に一段高くなった先を越えると確か 池というか一寸した 沼 が有り、其の手前にブランコやシ―ソ―・鉄棒のある草ッ原が有った様な記憶です。浅い小川も流れており 笹舟で競い合ったり 石でダムを造り流れを塞き止めて遊んだり 春にはタンポポが一面を黄色に染めて···この池の周りはグ―グルマップでは木々に埋もれて見つける事は出来ません 😢
この5/14で私は76才になります。76年前 住友弥栄町南9丁目で生まれました。兎に角人が多く“団塊"の世代と言われ 何をするにも競争の人生でした。(私は落ちこぼれの見本ですが)此の動画にコメントを寄せている方は 皆 下の世代で私と同世代の方は居られない様で 何か寂しさを感じて居ます。既に鬼籍に入られたか? 今更youtube なんて視ないのか? 御元気ならば 是非コメントをup して頂きたく思って居ます。 感動があなたを待っていますよ🤗
私も若干年齢が下ですが、この風景や生活はあまり変わらなかったかと思いますモノの無い時代、でも皆が同じような生活でした年に数回くらい赤平駅近くの食堂で食事をするのが唯一の楽しみで、運動会になるとバナナが食べれるのが嬉しかったです
@@oodaisystem駅前の日高屋、大相撲のTV中継を見ながら食べていたラ―メンの味を、まだ覚えています🍜😋(小学校 何年頃だったのか? )
私も、空知出身。団塊の世代、毎日朝の散歩🏠の廻り5分から10分、日々努めています。よろしく、
アルミニウム、弁当箱が流行りました、
木造校舎の教室で一緒に学び、家庭科の実習で作ったのは 親子丼? カレ―ライス?
確かカレーライスを作った記憶があるのですが・・・
採用の,赤平60年前、北海道で町か村かできた,ころ、蒸気汽車かはりしました、思い出、😢😢
ご覧いただき有難うございます思い出を大切にしたいですね
昭和何年頃の事だったか会社で採炭技術を学ぶため有望な青年を海外に派遣するという制度があり何名かドイツへ行ったのですがその内の一人が現地の女性と恋仲になり結局結ばれて当時大いに話題になりTVドラマ等にもなった事がありました。主演が誰で TV局が何処だったか 忘れましたが確か東芝日曜劇場で放送されたような覚えが···
そんなことがあったのですかそれは記憶にありませんでしたそれにしても当時としては凄いことですね
派遣された人の中には 其のままドイツに残って帰ってこなかった人もいました。今までとは違う文化に何か触発され全てを棄て新しい可能性を求めたのかもしれません。私共と親しくしていた人がそうで、派遣した会社としては費用等,本人,家族と色々大変だったようです。
その人と私の兄が偶然ナン十年ぶりかで しかも東京で出会った事がありました。たまたま帰国して親族の元に身を寄せていた時で兄の家にも寄って私もナン十年ぶりかで会ったのですが 異国でたった一人での暮らしは自分が望んだ事とはいえ苦労された様です。其からもナン十年経ちました。ドイツのジュッセルドルフにお住まいでしたが御元気ならば90歳を越えておられるはずです。
他の You Tubeで ヨ―ロッパに派遣された方々の何十年振りかの「同窓会」の番組を見ました。当時、赤平だけでなく 全道の炭鉱から約460人程が採炭技術を学ぶ目的でヨ―ロッパに派遣されたそうです。しかし現地では、即戦力の作業員としての扱いで 何だか現在の 日本の「外国人技能実習生」制度と変わらない様な待遇で、おまけに帰国する頃には石炭産業の前途に翳りが見え始め 派遣された方々も苦労された様です。全く“ 国策 " っていうのは···
他の方の動画で、当時 西ドイツに派遣された方々の何十年振りかの同窓会の様子の動画を見ました。住友だけでなく北海道各地の炭鉱から約450人位の人が採炭技術を学ぶ目的で派遣されたそうです。しかし現地では 即 戦力としての扱いで体格差等もあり苦労が多かったようです。其の点では現在の外国人技能実習生の扱いと同じですね。しかも帰国する頃には石炭産業に翳りが誰の目にも見えてきて、その後 苦労されたようでした。其の方々が白髪で恰幅の良い背広姿でドイツ語で合唱する光景は感動的でした😊
確か㍼30年頃、社宅の向いのヤスダさん家の畑の“グスベリ"を一人で盗み食いしているのを兄に見付かり叱られて台所の“ムロ"に閉じ込められそうに為り💦😭💦した事を思い出しました。青い“グスベリ"は酸っぱかったなァ😓
失礼ながらoodaisystem 様の父上は病院関係の御仕事だったのでは?炭鉱病院近辺での写真が多いのと、平岸小へ転校なさっておられる事、平岸には以前から大きな病院があった記憶がありますので、そんなことを考えてみました。勝手な事を書きました。何卒御許しを。
度々お騒がせです。住友病院、変電所。大山祇神社等が写真の背景になっている事が多いのはこの近辺の社宅に住まわれていたからと思われるのですが、当時の社宅がほとんど木造だった中で私共はブロック造りと言っていたのですが、共同浴場と変電所との間にコンクリート造り2階建ての社宅が4棟ありました。昭和26年赤平山からの展望 にも写っています。その1番変電所寄りの棟にお住まいだったのでは?私が他のコメントに書いた毎朝手を繋いで小学校に通った女の子は確か逆の1番共同浴場寄りの棟だったような、、コンクリート造りの建物の入口を入った時の壁、階段周り、天井等の冷たいような独特な匂いが今でも妙に記憶に残っています。60年前、大山祇神社の石段に腰を掛けてお母さんに見守られながら描いたスケッチは 今も残っていますか?
父は住友石炭で事務をしていました途中で平岸に社宅が変わりましたが、2年ほどで北海道の地を離れました当時の友人は元気なのか気がかりです
同じような場所に住んでいたのですねそうなんです一番山側の1階で一番左でした雪が降るので階段の入り口には木の扉、たしか石炭が配給されたようで石炭ストーブがあり火種のマキ割をさせられましたよボール遊びは病院のグランドで遊んでいましたスケッチは残っていませんでした・・・
@oodaisystem様 丁寧な御返信有り難う御座います。毎日幾度も拝見している動画ですので母上様には他人事とは思えません。1:54 お姉ちゃんが台所で両手で何かを口に持っていっているのを エプロン姿のお母さんが優しく見守っている写真が特に好きです。心よりお悔やみ申し上げます。
有難うございます
今の「こもれび通り」、山手を背に住友病院に向かって左側を 小さな川というか下水というか 各社宅の排水も流れ込む、けっこう水量の多い川が流れていました。春の雪融けシ―ズンや 大雨の後等に 病院へ向かって下り、根室本線に向かって下りでしたので丁度共同浴場辺りで水が溢れた事がありました。 水のひいた後に行くと共同浴場前の広場の地面が大きく抉られて水の流れた跡が残っていたのを覚えています。確か其れ以降 夏のラジオ体操は「山手」の集会所前に為った ような記憶です🙂
この川かは分からないのですが、大根を洗ったり近くの川でしていたのを思い出しました
@@oodaisystem確か、共同浴場の右側を根室本線の線路の方へかなりの急流が、(と言っても小川ですが)流れ下っていた様な···生活排水が流れ込んでいるとはいえ、山から流れて来る 水のキレイな川で よく此の川の周りで遊んだものです😊記憶も薄らぎ、でも突然ワンシ―ンが浮かび上がってきたり😲
買い出し、列車、ダイコン干し、我が、ふるさと。
住小の4,5 年生の頃、社宅の横を通る 今の“こもれび通り"(住友病院の前を通って弥栄町を南北に分け、山手に向かう、未舗装で穴ボコの多い道) この道を塞ぐ形に バトミントンのネットを張り、近所の何家族かと、確か平日の夕方に バトミントンをして遊んだ事を、ふと、思い出しました。その頃は まだ車などは 滅多に通らなかったので、(見通しの良い、真っ直ぐの道で 車が来るのはすぐ分かった) 皆でワイワイ・キャ―キャ―、私が 人のいない処や ネット際を狙ってシャトルを打って勝っていい気分で居ると、父が“ 互いに打ち合うのが 面白いのだ、お前のバトミントンはきたない" と言われ、私は子供心に“勝てばいいのだ"と半ば不貞腐れたのも 何故か突然思い出しました··· 本格的なネットや🏸、鳥の羽根のシャトルがどういう訳か家に有りました。
確かに舗装している道なんて国道くらいしかありませんでしたね雨が降ると水たまりが出来、学校帰りに水たまりに入ってバシャバシャしました
@@oodaisystem此の動画の2:00 辺り、乳母車を押すお母さんとお婆さんが緩い坂道を下って行く写真の地面。砂利がいっぱい混じった 粗いコンクリート舗装の道、赤平市街から“山田御殿"の辺りから根室本線の踏切を越えて 住友地区へ入った処から確か病院の辺りまで此のガタガタの舗装道路だったような、又、病院と集会所の角を左に曲がり 根室本線の踏切を越えて 配給所や住友球場へ行く道も 此のガタガタ舗装だったような記憶です。流石に此のガタガタコンクリート舗装の道路は他で見た事が有りませんが 何故か懐かしい道路です🥲
ホント今ではほとんど見る事が無くなりましたよね当時は埃も凄く散水車が走っていた記憶があります
赤平山からの展望を見ながら考えました。かつて眼下いっぱいに広がっていた住友赤平の社宅群、小・中学校、野球場、病院、そしてその中心の炭鉱設備の数々、そのほとんどが消え去りました。私の「故郷」が無くなって仕舞った様に、今、日本中の「故郷」が消えようとしているのでは?と思えてなりません。2024'1'14
勿論、住友だけの事ではなく、豊里炭鉱も、赤間も、赤平では開発の早かった茂尻炭鉱も、近隣の歌志内、砂川、芦別も、全ては、邯鄲之夢の如し···例えが合っているか分かりませんが 60年前の毎日の生活が本当に昨日の事の様に思い出されます。
本当にそれは思いますよね集落の集約化とか言われたりするけど便利が本当に良いのかなんて思います
5:23 ㍼26 年の写真、4棟のブロック作り2階建ての社宅から右に3列目、山の方から数えて5棟目が私の生まれた社宅です。すぐ横を今の「こもれび通り」が通り、玄関前に大きな柳の木がありました。写真には其の柳の木を囲むように 白い影が6~7ツ写っています。私には13 歳上の兄がおり ㍼26年には赤平高校の一年でした。白い影は兄を訪ねて来たワイシャツ姿の同級生達ではないか などと勝手に想像したりして··· 兄の世代は 皆仲が良く 友人同志 自転車で行き来をしていた印象があります。TV映画の刑事物ではよくパソコンでスキャンを何度も繰り返し、不鮮明な人物や 車のナンバ―等を特定するシ―ンが在りますが、私にそんな機器が在るわけも無く、今年89歳の兄に聞くと「そうだったかもしれないし、そうでないかも」 今から74,5年も前の、でも確実にあった弥栄町の懐かしくて堪らない1風景です🥲
その写真を拡大してみましたが、確かに大きな木があり人までは確認できたのですが、当時のレンズ性能があまり高くなくはっきりと分かりませんでした・・・私は2階建てブロック作りの社宅の一番手前の向かって一階の一番左で生まれ住んでいましたよ
@@oodaisystem 其の社宅の近くで遊んでる写真が多いですよね。根室本線の線路脇で 水筒とショルダーバッグを襷掛けで胸を張る2人は遠足の朝でしょうか?冬の弥栄町の 雪の積った小道で眩しげに眼を細めて並んだ3人の写真、まるで私が写っている様な感覚を覚えて終います。同じ時代に、同じ場所で、同じ空気を吸って、生きていました。其れが 自分でも驚く位、懐かし くて 堪らないのです🥲
やっとカラー化をして再編集版が出来上がりましたかなり遅くなりましたが、ご覧いただけたらと思います
ご覧いただき有難うございます当時はクラス数も多く活気がありましたね今思えばあのころが一番楽しかったです
ふるさと、いいですね、、活力、溜まります、、俄然、元気に。
活気時代、良かった、懐かしい、😅
私はまだ映像の時代には生まれてないですが、私の幼少の頃はまだ沢山炭鉱住宅やお店も活気がありました。今と昔は生活しててワクワクする度合いが違うと思います。人間は知らない事が多いほど毎日が楽しくなると思います。この映像見てそう感じました。映像は白黒ですがとても明るく幸せに満ちた感じを受けて涙が出てきます。素敵な映像ありがとうございます!
ご覧いただき有難うございます
当時は本当に活気がありました
今ほど何でもある時代ではありませんでしたが、それでも今より幸せだったのかもしれませんね
北海道が大好きな関東者です。
赤平と言えば、ミスターこと鈴井貴之氏がまず頭に浮かびます。
空知地方にも観光で何回か行きましたが、夕張、美唄、三笠、芦別等の全盛期の写真を見ての驚き、また自分の地元では見た事ない現在の悲しい光景も衝撃的で、心に焼き付いています。
本当、全盛期に行ってみて、いろいろ体験したかった。
そして将来、北海道に住みたいと。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
炭鉱が全盛時代はどの町も活気がありましたが今では鉄道も廃線が多く寂しい限りです
また時間がありましたら、昔の写真を投稿しますね
余計なお世話と言われそうですが お止めなさい
雪と寒さと闘う覚悟がありますか?!
雪が降ったら その雪を片付けなければ自分の家から出られないし隣や周りの人々にも迷惑が掛かることになり 雪は一度きれいにしても止むとは限らず 一日何度も作業する事も、
屋根に積もった雪は下ろさないと家の中の襖や戸・障子等が開かなくなります。
家の水道は寝る前に水を下ろして措かないと水道管がシバレテ破裂するのです、
今はさすがに無いでしょうが暖房が石炭の時代は毎月何回かの煙突掃除、煤まみれになって私の両親等はその度ケンカになっていました。
それでも、何故か 雪国の寒さの厳しい 寂れてゆく一方の“北海道住友赤平"が堪らなく 恋しいのです❗️
“忠告"のつもりが“郷愁"になってしまいました
お許し下さい
やはりお互い懐かしいですよね
札幌は、⛄️に。トランプ、当選、🇯🇵もかわる。
まさか校歌を聴かるとは、思いませんでした。懐かしく住小の校歌ありがとうございます。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
本当に懐かしいですよね
今でもはっきりと覚えています
校歌を作曲した先生が学校にいらしてピアノをお弾き下されたのを憶えています。
素晴らしい作品ですね。
自分より7歳くらい上の方かと思いますが、お父さん・お母さん、炭鉱に生き、他のどのレベルより上質な生活を得、子供さんを育てられたことがわかります。
幸せだった赤平。
大切になさってください。
ありがとうございました。
ご覧いただき有難うございます
こちらこそ有難うございます
昭和27年生まれ、末広町に18歳まで住んでいました。7分3秒に写っている給食を食べている写真は自分のクラスのものです。4人の名前を思い出しました。
友達の一人が職員住宅に住んでいて山に一緒にスキーに行きました。その時お昼におにぎりを食べました。友達のおにぎりは、アルミホイルで包まれていた。
僕のは、包み紙でした。東京から来た人たちはテレビドラマに出てくる生活のように見えました。
とても懐かしく拝見させていただきました。
ご覧いただき有難うございます
それは姉と同じクラスだったのですね
たぶんご存じではないかと思います
私もおにぎりは包み紙でしたよ
思えばあのころが一番楽しかったかも知れません
ふるさと、いいなぁ-、素敵。
昭和49年度(?)に住友赤平小学校を卒業したものです。
何十年かぶりに校歌を聞いて胸に迫るものがありました。
貴重なお写真、ありがとうございました。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
校歌、懐かしいですよね
今でもまだ歌うことができる想い出の学校なんです
懐かしい、活力が湧く。
花の首飾り、小6、の時もらう。あの子は、どうしてるかなぁ-。
昭和35年生まれ、18歳まで平岸にいました、平岸小学校の校歌蘇りました、涙が出ます。貴重な映像ありがとうございます。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
懐かしい風景
私は平岸では2年ほどだったのですが、農家をされている方の友達が多く、毎日遊びまわっていました。
今でも校歌を忘れる事がありませんよ
平岸には縁もユカリもないのですが、何度も此の動画を見ていますので 平岸小学校の校歌、覚えてしまい、知らず知らずに口ずさんでいる事があり一人で笑って居たりしています。
私の通った住友小、住中、双葉中、赤平西高、今は皆無くなってしまいました。
ふと思ったのですが、
これ等 廃校になった各学校の記録 何というのか学籍簿等も廃棄されてしまうのでしょうか
風景が変わリ記憶も記録も無くなって仕舞うというのはやはり寂しい限りです。
たしかに廃校になり寂しいかぎりです
家の近くの廃校では屋根が落ち雨ざらしになり当時の教科書や道具なんかが酷い状態でした
赤平はどうなのか気になります
公民館などに活用されている廃校もあるので残ってほしいとは思うのですが・・・
寒くなってくると 住友病院や その斜め前にあった集会所の周りにひかれていたスチームを送る為の配管からシュウシュウと音をあげながら時に蒸気を吹き出し水滴がポタポタ落ちてた風景を思い出します
動画のなかにも 所々に写り込んでいますね
集会所では夕方からそろばん塾がありその教室もスチーム暖房だったような
全て懐かしい思い出です
スチーム
思い出しました
当時の記憶がはっきりしてくるのが嬉しく楽しく思います
昭和30年生まれの住友赤平出身者です。なつかしいな、住吉町、弥栄町、平和台、山手と引っ越して住んでいました。社員全員が借家住まいでしたね。小学生の頃は学校から帰ると即友達立ちと外で遊びに出た。家裏の畑とか山の方とか、冬は坑道を通って雪のずり山に登って頂上から飛び降りて雪だるまになって遊んだりした。夕暮れに冷たい棒手袋を我慢しながら雪が詰まった長靴でとぼとぼ帰った。夏は川向こうの山道に遠出して帰宅が夜中になり怒られた(らしい)。
父は40歳半ばで離職し、ここ神奈川に移り住んだ。80歳まで生きましたが、父の友人は皆短命でしたね。やはり塵肺とか体を使う仕事なので無理が祟ったんでしょう。住友赤平は故郷ですが、今の生活や都内に住む息子や孫娘の生活の様子と違いがあまりにおおきすぎて、話をしても通じないだろうな。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
母が4月に93歳でこの世を去り、家族で赤平を知っているのが私一人になりました・・・
私も昭和30年生まれました、同年代なんですね
確かに同じように遊びまわっていました
当時の遊びでは歩きしかなかったので遠くまで行くと帰りが遅くなり、線香をもって追いかけられました
捕まるとお尻に灸されました・・
平和台という町名をすっかり忘れていました。山手のもっと奥というか高い所というか あと坑員住宅の町名も 確か東雲とかコメントにあった末広,住吉など何処が何処だったか記憶も遠くなってしまいました。
ただ1年だけ通った住中の通学で覚えているのは共同便所と共同水道、寒い冬には凍結防止の為か水は一日中勢い良く出しっぱなしで飛び散った水滴が其のままの形で凍り付き 其処に更に飛び散った水滴がまた凍りゴツゴツとまるで岩の様になっていたのが ゴォ―と出続ける水道の音と共に記憶に残っています。
炭鉱が閉山になって私の親類等も“ 清算事業団 "の斡旋で神奈川県の方に移りました。今は時間の経った事もあり誰も身内は居なくなり赤平とは縁もなくなりました。
s30年、選挙有りました。町村金吾が、選挙にでてました、
平和台住んでましたが、何軒か残して(無人)中央の道路意外ほぼ無くなっちゃいました。
どこの小学校もイルムケップが出てきますね
自分は赤間小学校でしたが
歌いだしが
エルムの山からで
写真の時代より後の世代(炭鉱閉山が子供時代)だったので
少しずつ友人が色々なところに引っ越していった世代になります
今は
高校だったところが中学校になり
赤中だったところが小学校になり
どうやら
小学校はその元中学校に全て統合
昨年久しぶりに帰ったときにビックリしました
赤平火祭りも会場が変わってるみたいですし
色々市の方も変更がありますね
子供の頃にゴールデン連れてお祭りよく行ったものです
(知ってる人多分居そうですが)
そういえば赤平神社って昔は今と違う位置にあったんでしょうか?
何となく山に近いかんじがするんですが
今の赤平神社隣の川べりの道路に
草に埋もれてますが
謎の石碑があって
前に、石碑の文章読んだときに
当時はそこが赤平公園だった
みたいな事が書かれてて
ちょっと昔の位置関係がわからないので
もしかして
赤平公園と神社って
何かの理由で移設されてるのかずっと疑問に思ってます
今は内地ですし
個人的に調べようがないんですが
根室本線近くに走ってますし、鉄道敷設が何かしら関係があるんじゃないかって自分で無理やり納得するしかなさそうなのですが
古くからご存知そうだからちょっとコメントしてしまいました
動画で赤平神社と紹介されているのは 住友炭鉱の大山祇神社で、空知川そばの赤平大橋の市街寄りの赤平神社とは 別になります。
住友の大山祇神社は今では御本体は四国の御本社にお返りになり建物はキレイに解体され、跡地は草の中に埋もれつつあるようです。
戦後直ぐの炭鉱祭りにはたいへんな賑わいだった様ですが···
@@user-bw4gw3ze1h
ありがとうございます
赤平の神社が他にあったのは長年住んでいてしりませんでした
@@天女の舞子
早速の✉️↩️有り難う御座います。私はこの動画の他のコメントにも書きましたが昭和42年に西高を卒業しました。当時、赤間炭鉱の社宅住まいの同級生も沢山おり、放課後の帰り道によく寄り道して遊んだものです。あと赤平大橋近くの空知川の堤防で6,7人の仲間とくだらない話で盛り上がったり、その後すぐ閉山という厳しい現実が迫って居ると気付きもせずに😢
赤平神社
私の勘違いで大山祇神社だったそうなんです
ただ現在は山に戻りつつあるようです
@@oodaisystem
色々教えて頂きありがとうございました
昨年帰ったときに市役所側の橋も新しくかけなおす準備がされていて
少しずつ変わって行く姿が見えました
昔の思いでもありますが
また赤平が少しずつ良くなって行くといいですね
師走に入って 毎日雪が降り積もってゆく赤平市街を街頭放送からジングルベルが流れていた風景を思い出します。
またあの地を訪ねたいですよね
私と同世代の北海道の炭鉱街。
広島県人ですけど、先だって母親が天寿を全うして、残されたアルバムを最近は眺めています。
一枚一枚の写真に、思い出と時代感覚を呼び戻しますね。
ロープウェイの一枚、私も両親に写して貰ったのが、場所は違えど、同じ感覚を感じます。
寒かった昭和38年の記憶、タンスの隅に残してあった私の幼稚園時に付けてた毛糸の手編み手袋。
寒冷地北海道、炭鉱街の特性か鉄筋コンクリートの小学校、広島ではオリンピック以降に鉄筋コンクリートで立てられました。
取り留めもない感想、失礼しました。
ご覧いただき有難うございます
やはりこの写真をご覧になられる方は同年代が多いようです
手編みの手袋、穴が開くと母が繕ってくれた記憶が蘇ってきます
思い出って良いですよね
コメント読ませて頂きました。家の近くには広島から移住された方が作られた広島通り という通りがあります、コロナ前に宮島に行きました。
5:23昭和26年赤平山からの展望は私の70年前の記憶を一気に甦らせてくれました。共同浴場のどっちが男湯だったか?毎朝手を繋いで小学校に通った女の子のコンクリート2階建ての社宅、弥栄町から根室本線の小さな踏切を渡ると左カーブした道の右側にプールがあり左には屋根付きの土俵がありました。幼稚園の隣の 石川パン屋 製粉所には休日によく食パン[イギリス形]や黒パン 豆パンを買いに行かされたものです。一際大きく存在感のある親友会館。毎月何回かあった 映画の日 には10円玉を握りしめ ワクワクしながら開場を待ったものです。そんな冬の映画の日、確か昭和35年前後の年のこと、朝から寒く空も曇り空で皆早く開場にならないか押し合いへし合いしていると空が一段と暗くなりその異様な空がピンク色というかオレンジ色に輝きだしそれが空一面に拡がったかと思うとまるでカーテンの様に揺らめいたのです。私が人生でただ1度だけ見た オーロラです。私は自分勝手で独りよがりの悔いばかりの人生を送り益田。大台情報システム様貴重な 写真の数々 本当に有り難う御座いました。何度も何度も見ています。人も建物も何も無くなってしまった住友弥栄町の写真を、、、
わぁ
懐かしいです
プールと土俵、ありました
映画の日も記憶がよみがえってきました
石川パン屋はまだあるようですね
昭和37年頃だったと思いますが、十勝岳の噴火が今でも記憶にあります
ぜひ、故郷の地を再訪されて下さい。
私事ですが、北海道の廃道や遺構を取り上げる、いくつかのチャンネルに縁があり、興味深く機嫌良く視聴してます。
高評価
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
北海道に居住していた時に撮影した今は無き建物や風景の写真も多くあり、少しずつですが投稿しますね
@@oodaisystem さん
楽しみにします。
素晴らしいです。記憶の奥にしまった扉を開くことは重要な使命に近いと思います。
北海道と関係が深いのは十津川村を連想しますが、川上村との関係を教えてもらえば助かります。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
了解しました
川上村の村史があり、友人も多いので調べてみますね
5分28秒の写真が素晴らしいね。 住友の5000人弱の職員の住宅です。 鉱員は大半が共同便所、炭鉱病院の左側のアパートから左は幹部職員住宅です。 私の家は銭湯ではなく共同浴場の左です。 私たちは決して幹部職員の子とは遊びませんでした。 懐かしい写真ですね。 当時赤平の人口は5万6千以上でした。 住友中学は赤平の不良の頂点にいた。
懐かしい風景
再び思い出の地を訪れたいと思います
便所は、外にあり、寒中は、たいへん、尻が
凍る
寒くなって北海道に雪のニュースがTVに流れると住小の3年か4年の頃二階の教室の窓から強い風に煽られて初雪が舞っていた光景を思い出します。シベリアからの寒気団が日本上空で暴れ初雪の頃は嵐の様な強風が吹き荒れ今年初の雪が風向きのままに吹き流され踊っているようで見とれては先生によく注意されたものです。
私は雪が積もりと校舎の2階から飛び降りたりして先生に思いっきり怒られました・・・
5:23『昭和26年赤平山から展望』を、何度も何度も見返しています。私の生まれ、育った社宅と其の周りの風景はどんなに見返しても見飽きる事が有りません😯😐😑🥲
本当に懐かしくて涙が出ます
@@oodaisystem様
この写真を 住友石炭に定年退職迄 勤め 20年前 99才と半年で他界した父と、7年前 103才で他界した母、2年前 難病により他界した私より3才上の姉に、見せてやりたかった と本当に思います。大型液晶テレビの大画面で··· 皆 それぞれ 胸に去来する思いは違うでしょうが、皆 涙を流しながら、喰い入る様に見いった事と残念に思います🥲☺️
それは私も同じです
とても懐かしがったでしょうね
私はいずみ幼稚園と住友赤平小学校に少し通いました(1年生と2年生)!
父の転勤で住友歌志内から赤平に来ましたが斜陽化の見え始めた昭和46年に札幌に出ました
日高屋さんのHPで小学校の校歌を20年位前に見つけて感動しましたが、またここで聞けて嬉しいです
御幸町で過ごした4年は私の原点です
当時の思い出は何時までも忘れる事が無いですよね
@ ja84015
根曲がり竹の皮剥きの動画 拝見しました。幼い頃 母がよくこの竹の煮物を作って呉れたのを 懐かしく思い出しました。確かサバ缶と一緒に煮付けて···😅
御幸町あり、僕も、御幸町に、住んだ。懐かしく思い出します。
(日高、静内)
赤平市役所の前、国道38号線と根室本線が平行する、踏切のチヨット市街寄りに映画館の大きな看板が並んで有りました。今でも憶えているのは高倉健さんのもろ肌脱いだ背中の色鮮やかな刺青姿で日本刀をかざした、決めポーズ。
炭鉱の会館以外に、赤平に常設の映画館が3館も有ったなんて···
東映・銀映・あと親不孝通りの真ん中辺りに 映劇 といったか、私は東映で見た中村錦之助「瞼の母」
佐久間良子「故郷は緑なりき」など今でも憶えています😂
私も赤平で生まれ還暦過ぎた!おばあちゃんです。炭鉱で父親は、働いていたと聞いてます。
ご覧いただき有難うございます
懐かしいですよね
元気なうちに訪問したいと思っています
故郷は、遠きに、ありて思うもの。赤平
令和6年、天皇と、同じ生まれ。ご縁ありますね、ご立派ですね、ご尊敬いたします。
なっかしすぎて
涙が、でてきた😂
本当に懐かしいですよね
ご覧いただき有難うございます
企業城下町の其の企業が撤退したのですから、人が居なくなり、動画に有るような此れだけ拡がっていた社宅·学校·病院·野球場·劇場が無くなるのは当たり前かもしれませんが、其処で生まれ、育って、当時を知っている者としては唯、懐かしく、又、何か割り切れ無い思いで一杯です😢
隣りの、幸子ちゃん、聖子ちゃん、げんきかな、
ふるさと、は東京にありて、思う
札幌住みですが生まれは赤平市平岸です。結婚後住んでいる家の近くには 広島通リという広島から移住した方が作られたという通ががあります。
平岸なんですね
子供の頃は友人も平岸が一番多く、いまはどうしているのか気になります
@oodaisystem 様 動画視聴1万回です。此の10分余りの動画は私には衝撃的ですらありました。過去の記憶等が一気に甦って その後 考えも変わり一寸だけですが前向きにもなれそうです。感謝しかありません。本当に有難うございます。
どれだけの人たちが(涙)を流しながら見たことでしょうか 写真の持つ力をあらためて思わされます。
そう言ってもらえると本当に嬉しく、当時を思い出しています
なんか涙が出てきますよね
私も 赤平住友小学校 卒業しました。 懐かしいです。住友炭鉱も山野の風景 当時発展していて
昭和27年御幸町で生まれ、東雲町、新元町と移り18歳で進学で上京しました。5:34と5:43住友全景、ノンプロ野球住友赤平の試合見に行きました。6軒長屋の炭住、家族の営みが有りました。親友会館で映画を見ました。6:54~7:12昭和40年卒業記念アルバムの1コマですね。7:03の給食風景6年7組、私のクラスです。皆さん71歳になっています。お元気でしょうか。先生は八田先生素晴らしい先生でした。小学校、中学校校歌今でも歌うことが出来ます。この動画を機に住友で過ごしたアルバムを懐かしく見ています。ありがとうございました。
7:03の給食のところを見た時自分のクラスだと思った。外尾君、白田さん、池田さんが写っていたので。しかし、前の写真には、畠山さんしか分かる人がいません。顔を見た
事はあるが名前が出で来ないので、別のクラスだったかな。八田先生は、爽やかな、生徒に全く嫌味を言わなかった記憶ですが、担任にだったのは5年生の時か記憶が定かではない。6年生の時記憶は、転校生の女子が身長が160cm以上あって、先生が本当は中学2年生だけど理由があって6年生なので、皆仲良くしてくださいと、言われた。コメントを読むと色んな事を思い出します。動画を1回見た時は何も気が付かなく2回目の時、見覚えのある人に気づきこの人も知っているとなりました。ありがたい動画です。
お二人の別々のコメントを読みながら アレッ!ひょっとして此のお二人は同級生では?と思っていました。たまたま此の動画を見て気付かれたのですか?奇跡の様な事で 60年という年月が経っても記録が残り 発表する人がいて 其れを目にした人には記憶が甦る、素晴らしい事だと思います。
真志様と同級生ですね。他に男子前列に米田君が写っていますね。前の写真は8組の写真だと思います。八田先生は6年生の時で、5年生の時の担任は女性の近藤先生でした。小学生の時の記憶はあまり残っていませんが、自分のアルバムに6年生運動会で東京五輪音頭を踊っている写真がありました。1人の友人と現在も年賀状のやり取りを行っています。小学校、中学校、高校と全て無くなり寂しい限りです。
@@真志-f1b
やっぱり米田君ですよね。白田さんのとなりの女の子は、全然記憶にないないです。4人がいるので同じクラスかと最初は思いましたが自分の記憶では6年生の担任は名前は
思い出せません。ただ八田先生じゃなく、かなり年配の先生で体罰がきつかった。学級委員の松本君がいつも他の騒いでいた生徒たちと一緒に教壇前に並ばせられて、
学級委員のお前が悪いんだと黒板けしを横にして鋲の付いている所で頭のテッペンを打ち付けていた。自分も1度やられかなり痛かった。2年に1度のクラス替えだったので
1年生2年生は下村先生、3年生4年生は思い出さない、5年生は八田先生、6年生は思い出さない。下村先生は、無駄話しない笑わない。八田先生は、いつもニコニコして
気持ちのいい先生。いろいろ思い出します。3,4年生の時は友達と楽しく遊んだ記憶ばかり思い出して、学校の行事は忘れてますね。
小学校の頃の思い出アルバムを見ると、5年生の時の担任が最初年配の斎藤先生(昭和42年死去)で途中から女性の近藤先生に代わっています。斎藤先生は、確かに現代では問題となる体罰を生徒に与えていた記憶が有ります。八田先生は1年間6年生の担任でした。私の小学の担任は、1,2年が河原先生、3年が沢田先生、4年が立花先生でした。真志様のコメントを読むと小学生の頃が懐かしく思い出されます。
昭和40年にここ赤平で生まれた
炭坑夫の息子です。
私、今年で59歳。還暦間近になりました。
5歳で千葉に家族共々引越しましたので、
僅かな記憶の断片しかなく、記憶が曖昧な
部分もあるので この場をお借りして
ご覧になっている皆様に教えて頂きたい事が
ございます。
私の父親は住友で働いていたので、
炭住住まいだったのは記憶がありますが
当時の住所を聞くと親父は
「平和台」って言うんですけど、
Googleで調べても肝心の「平和台」が
出てこないんです。
子供の頃、母親に連れられて買物した
帰り道の記憶を辿ると…
赤平の市街地(駅周辺?)から
進行方向右手を立坑を見ながら進み、
その先はちょっと(子供目線ではかなり?)
長い坂道があって、その先には
大きな橋(子供だからか?)を渡った先を
右に折れた先が当時の私の住まいだった
記憶なのです。
こんな曖昧な記憶だけで
お尋ねするのは大変心苦しいのですが…
どなたかご教示くださると大変嬉しく
思います。
どうかよろしくお願いします。
大変興味深く拝見しました。私は弥栄町に住中の1年まで住んでいた 団塊世代の一人です。この動画に寄せられたコメントに、嘗て平和台の社宅に住んでいた方のコメントが有りましたが その方の目に留まリ、✉️↩️頂けると良く理解が出来ると思うのですが、
私の記憶では弥栄町から山手に向かってかなりの坂道でした。(私の頃は勿論、舗装されていない、穴ぼこだらけの土の)その途中左に集会所(夏休みのラジオ体操や盆踊りをするちょっとした広場が有りました)更に坂を上って行くと同じく左に配給所が有り、日常の買い物は此処でしていたのでは?更にこの道を行くと今度は下りはじめ その先に古い欄干など錆び付いたような長い橋がかかっていました。橋は 下までかなりの高さがあり、目も眩むようで渡るのに怖い思いでした。橋を渡ると歌志内ヘ抜ける道路がありその道路を越えると春光台でまた登り坂が続きます。お尋ねの“平和台"は山手の上の方だったのでは?(山手町はかなりの広さも奥行きもあったようです)私も平和台という町名をすっかり忘れていた位で 答えにもなっていませんがどうかお許し下さい。其れにしてもやはり懐かしいですよね🥲
誠意ある長文の返信、誠に有難うございました。
遅くなったことお詫び申し上げます。
5歳足らずの記憶だけでコメントを入れさせて頂いただけなのに
こんな暖かい返信を返して下さった貴方様に心から
感謝申し上げる次第です。
圧倒的に赤平より千葉の時代が長い私ですが
出生地を問われ、たった5歳まで、とはいえ
『北海道赤平市』は間違いなく
私の人生のスタートの街なのです。誇りなのです。
還暦も近くなった人生の中で
今一度 再び訪れたい気持ちが最近とみに強くなっている
自分の気持ちからUA-camで赤平を見ていましたが、
ますますその思いが強くなりました。
数年以内に大阪出身のかみさんを連れて
根室本線 いや赤平駅が無くなる前に
再訪したいと思っています。
自分の目のレンズで
自分の心のフィルムに焼き付けておこうと
思う次第です。
本当にありがとうございました。
@@通りすがりの飲兵衛
丁寧な✉️↩️有難う御座います。私はスマホを持ってから、2年程の、まして斯うしてコメントを発信するなど思いもよらなかった様なIT 音痴で、其れが偶々おすすめ動画で目にした、この動画の5:23『昭和26 年 赤平山からの展望』この、私の幼い頃全てがつまった様な一枚の写真に目を奪われ、投稿をする様になった次第です。
5歳迄の記憶では全てが曖昧でもどかしさも募るでしょうが@oodaisystem さん御本人や他の方からの良い✉️↩️を期待しましょう☺️
ご覧いただき有難うございます
私の住んでいた弥栄町も今は表示すらされません
このように消滅した地名も多いのではと思います
なんか寂しいですよね
夏休みのラジオ体操
首からカードをぶら下げてスタンプを押してもらうために毎日時間ギリギリで走って行った記憶があります
ラジオ体操が終わると宿題もせずに山に行き遊んでばかりいました
弥栄町なら職員ですね。1:14は炭鉱病院かな。正面入って右が内科・外科。左が小児科などがありました。
3:19は赤平神社では無く、住友の大山祇神社です。
大山祇神社の近くに確か従業員クラブ といった 高級そうな施設があり 其処の玄関で 大相撲夏の地方巡業で来ていた 先々代の横綱、未だ大関だったか[若ノ花]を見た事がありました。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
大山祇神社、有難うございます
当時はまだ小学生だったのであまり名称まで覚えていませんでした
懐かしいです・・・
6:30辺の2枚の玉入れの写真。小学校ではなく住友幼稚園の運動会と思われます。場所は懐かしき親友会館横のグランドです。背景に根室本線と思われる線路が横切っている事。その奥に社宅が続き 後ろにうつるズリヤマ、また2枚目の玉入れの写真 左上に小さく大山祇神社の鳥居が写っています。
私、昭和23年住友弥栄町南9丁目で生まれました。もう 75年前です。皆さん、お元気ですか!?
私の小学校時代、1組55人位でそれが10組までありました。北、南の弥栄町だけでなく山手、春光台まで同級生だらけでした。山手 には 今も活躍中のアローナイツの 木下あきらさんがいました。今年新曲がでましたね。昔とは風貌がかなり変わりましたがそれはお互い様の話しで御元気そうで何よりです。
なかじまひろふみ様
私はアローナイツ木下あきら様のファンの一人です。
UA-camで歌を楽しんでおりましたところ
なんとも表現できない素晴らしいお声に出逢いました。
それが秋庭豊とアローナイツのグループでした。
メインボーカルが誰なのか、
どの方なのか全く知りませんでしたが、
聴けば聴くほどにアローナイツの世界に
どっぷり浸かってしまいました。
UA-camコメントのお友達から
木下あきら様の出身地情報頂いて
あきら様の故郷赤平を散策しておりました。
また、嬉しいことになかじま様のコメントに
出逢えました。
嬉しくて気持ちをお伝えしたくて返信させて頂きました。
あきら様には、もっともっと歌い続けて頂きたいと願っております。
偶然の出逢いに感謝しております。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
母が4月に93歳でこの世を去り、家族で赤平を知っているのが私一人になりました・・・
私は昭和30年に弥栄町のこのアパートで生まれましたよ
4棟ある一番手前の1階の一番左でした
当時はまだ小さかったのでうろ覚えで幼稚園の運動会だったのですね
運動会と言えば最高の御馳走がバナナでした
懐かしいですよね・・・
父は16年前、母は今年の4月に他界しましたが、私はとても元気に暮らしています
年齢を感じてしまいますが、お互い笑顔で元気に過ごせたらいいですね
@oodaisystem 様
「我が故郷 赤平 60年前」の続篇を見たく楽しみにしてるのですが 可能でしょうか?
来年 同じ歳の“ 豊里 "生まれ·育ちで同じ西高卒業の従姉妹と赤平を訪ねてみようか等と話して居るところです。訪ねても何も無いのは承知の上ですが···
赤平市街から根室本線の踏切を右に渡り 住友の事業所・立抗を右に見て集会所が左、住友病院が右、共同浴場は左、弥栄町を北と南に分けてその真ん中を山手へ登り坂になってゆく、今は「木洩れ日道路」とか云う道を老人二人が歩くのもまた何か面白いかも。
続編
考えてみますね
まだ当時の写真がありますので。。
航空写真で見ると、木洩れ日道路は今は見る影も無いようなんです
それどころか林になっていました
なんか寂しくなりましたよ
@@oodaisystem 様
私も航空写真 何度も見たりしていますが そんな状態ですか? 現在、赤平に住んでいる方が主に冬の住まいの除雪作業の様子や
春先の未だ多少雪の残った道をロ―ドバイクで軽快に買い物、🚴♂️などをyoutubeに UPされてる動画を良く見ていますが ソコまでの印象は受けないのですが
弥栄町北には冷凍ウドンの「カトキチ」の工場が建ち弥栄町南は確かに緑一色で
昔の面影は全く感じられません 私共の弥栄町南9丁目の社宅が果たして分かるかどうか 寂し~い 😢
赤平神社と言われる場所、大山神社では?
住小を昭和40年に卒業した者です。 この写真の子は職員でも地位の高い方ですね。 私も弥栄町でした。 弥栄町は北と南に分かれてまして、職員でも格差を実感する所です。 当時は住友石炭格式会社赤平鉱業所で所長は九州帝国大出に方で、写真の子供さんは多分旧秋田高専(秋田大)か旧小樽高商(小樽商大)での高級幹部のお子さんかな? 当時の炭鉱社会のピンからキリまでいる組合の強い地区でした。 ちなみに親父は労務でした。 炭鉱の労務の意味が分かる方は居ないだろうね。
労務といえば終戦直後、即行方を眩ました人びとが何人も居たと母親等に聞いたことがあります。今は昔の物語ですがそうはいってもなかなか簡単でもないようで、、、
聞いたといえば、終戦直後すぐに本当にすぐに進駐軍がジープでやって来たそうです。日本の事は調べ尽くしていたんでしょうね。
ご覧いただき有難うございます
多忙のために返信が遅くなり申し訳ありませんでした
父は当時、経理をしていたと思いますが確かに格差があったような感じで、子供心に不思議でした
@@user-bw4gw3ze1h 住友は財閥系の炭鉱ですので、そんなに酷くは無かった。 ただ戦前は朝鮮系の方も居ました。 私の父は戦前は鴻之舞金山(住友系)に職員として居まして、戦争中は金より石炭が価値があったので赤平に転勤になりました。 労務と云っても色々な業務があります。 当時の赤平市長は住友の労務出身ですね。
市長といえば“遠藤"さんの事でしょうか
何分 小さかった時分の事でうろ覚えですが皆大騒ぎしたような記憶があります
住友中学一年の担任だった「吉川先生」はお元気でしょうか 体育の先生で 自習の時間だったか「山男の歌」という歌を教えて頂きました。ずっと後になって其れが「芹 洋子」等が歌う「坊がつる恋歌」という歌と知りましたが当時は登山者やキャンパ―に広く親しまれ歌われた様です。私も 今でも歌詞、メロディー、覚えています。
若くて 正義感の強い 熱血漢の先生でした。
私は中学生の頃に赤平を離れましたので、中学時代はあまり記憶が少ないのです
当時の先生は怖いというのだけは鮮明に覚えています
悪ガキだったので・・・
確かに恐かったですね。冬に学生服のカラ―を細かく刻み鉛筆のアルミ製のキャップに詰め込んでお尻を潰してスト―ブの上に乗せ熱っせられたキャップがロケットの様に飛び上がるという危ない遊びをして男子十数人 吉川先生からビンタを頂戴した事がありました。白い煙とプラスチックの燃えた臭いですぐにバレました。やった事ではなく先生が聞いた時にすぐ名乗り出なかったのがダメというか卑怯というか
ちなみに私はその時 学級委員長でした。 痛かったなぁ あのビンタは···
私はバケツを両手に持たされ廊下に立たされました・・・
社宅前の小道を「こもれび通り」ではなく反対に左に曲がり社宅の並びに沿って登り坂を歩いていくと「こもれび通り」と平行する道とぶつかり、(グ―グルマップで見ると林の中にかろうじてこの道が見て取れます) この道を山手町の方へ左に曲がって行くと 弥栄町の社宅の切れ目辺り右に 夏は畑になり 冬にはスキ―が出来る一寸した山が
有りました。 小学生位迄は良く遊んだものです。この道は行き止まりで 、ぶつかった道の、丘の様に一段高くなった先を越えると確か 池というか一寸した 沼 が有り、其の手前にブランコやシ―ソ―・鉄棒のある草ッ原が有った様な記憶です。浅い小川も流れており 笹舟で競い合ったり 石でダムを造り流れを塞き止めて遊んだり 春にはタンポポが一面を黄色に染めて···
この池の周りはグ―グルマップでは木々に埋もれて見つける事は出来ません 😢
この5/14で私は76才になります。76年前 住友弥栄町南9丁目で生まれました。兎に角人が多く“団塊"の世代と言われ 何をするにも競争の人生でした。(私は落ちこぼれの見本ですが)
此の動画にコメントを寄せている方は 皆 下の世代で私と同世代の方は居られない様で 何か寂しさを感じて居ます。既に鬼籍に入られたか? 今更youtube なんて視ないのか?
御元気ならば 是非コメントをup して頂きたく思って居ます。 感動があなたを待っていますよ🤗
私も若干年齢が下ですが、この風景や生活はあまり変わらなかったかと思います
モノの無い時代、でも皆が同じような生活でした
年に数回くらい赤平駅近くの食堂で食事をするのが唯一の楽しみで、運動会になるとバナナが食べれるのが嬉しかったです
@@oodaisystem
駅前の日高屋、大相撲のTV中継を見ながら食べていたラ―メンの味を、まだ覚えています🍜😋
(小学校 何年頃だったのか? )
私も、空知出身。団塊の世代、毎日朝の散歩🏠の廻り5分から10分、日々努めています。よろしく、
アルミニウム、弁当箱が流行りました、
木造校舎の教室で一緒に学び、家庭科の実習で作ったのは 親子丼? カレ―ライス?
確かカレーライスを作った記憶があるのですが・・・
採用の,赤平60年前、北海道で町か村かできた,ころ、蒸気汽車かはりしました、思い出、😢😢
ご覧いただき有難うございます
思い出を大切にしたいですね
昭和何年頃の事だったか
会社で採炭技術を学ぶため
有望な青年を海外に派遣するという制度があり何名かドイツへ行ったのですが
その内の一人が現地の女性と恋仲になり結局結ばれて当時大いに話題になりTVドラマ等にもなった事がありました。主演が誰で TV局が何処だったか 忘れましたが確か東芝日曜劇場で放送されたような覚えが···
そんなことがあったのですか
それは記憶にありませんでした
それにしても当時としては凄いことですね
派遣された人の中には 其のままドイツに残って帰ってこなかった人もいました。今までとは違う文化に何か触発され全てを棄て新しい可能性を求めたのかもしれません。私共と親しくしていた人がそうで、派遣した会社としては費用等,本人,家族と色々大変だったようです。
その人と私の兄が偶然ナン十年ぶりかで しかも東京で出会った事がありました。たまたま帰国して親族の元に身を寄せていた時で兄の家にも寄って私もナン十年ぶりかで会ったのですが 異国でたった一人での暮らしは自分が望んだ事とはいえ苦労された様です。
其からもナン十年経ちました。ドイツのジュッセルドルフにお住まいでしたが御元気ならば90歳を越えておられるはずです。
他の You Tubeで ヨ―ロッパに派遣された方々の何十年振りかの「同窓会」の番組を見ました。当時、赤平だけでなく 全道の炭鉱から約460人程が採炭技術を学ぶ目的でヨ―ロッパに派遣されたそうです。しかし現地では、即戦力の作業員としての扱いで 何だか現在の 日本の「外国人技能実習生」制度と変わらない様な待遇で、おまけに帰国する頃には石炭産業の前途に翳りが見え始め 派遣された方々も苦労された様です。
全く“ 国策 " っていうのは···
他の方の動画で、当時 西ドイツに派遣された方々の何十年振りかの同窓会の様子の動画を見ました。住友だけでなく北海道各地の炭鉱から約450人位の人が採炭技術を学ぶ目的で派遣されたそうです。しかし現地では 即 戦力としての扱いで体格差等もあり苦労が多かったようです。其の点では現在の外国人技能実習生の扱いと同じですね。しかも帰国する頃には石炭産業に翳りが誰の目にも見えてきて、その後 苦労されたようでした。其の方々が白髪で恰幅の良い背広姿でドイツ語で合唱する光景は感動的でした😊
確か㍼30年頃、社宅の向いのヤスダさん家の畑の“グスベリ"を一人で盗み食いしているのを兄に見付かり叱られて台所の“ムロ"に閉じ込められそうに為り💦😭💦した事を思い出しました。
青い“グスベリ"は酸っぱかったなァ😓
失礼ながらoodaisystem 様の父上は病院関係の御仕事だったのでは?炭鉱病院近辺での写真が多いのと、平岸小へ転校なさっておられる事、平岸には以前から大きな病院があった記憶がありますので、そんなことを考えてみました。勝手な事を書きました。何卒御許しを。
度々お騒がせです。住友病院、変電所。大山祇神社等が写真の背景になっている事が多いのはこの近辺の社宅に住まわれていたからと思われるのですが、当時の社宅がほとんど木造だった中で私共はブロック造りと言っていたのですが、共同浴場と変電所との間にコンクリート造り2階建ての社宅が4棟ありました。昭和26年赤平山からの展望 にも写っています。その1番変電所寄りの棟にお住まいだったのでは?私が他のコメントに書いた毎朝手を繋いで小学校に通った女の子は確か逆の1番共同浴場寄りの棟だったような、、
コンクリート造りの建物の入口を入った時の壁、階段周り、天井等の冷たいような独特な匂いが今でも妙に記憶に残っています。
60年前、大山祇神社の石段に腰を掛けてお母さんに見守られながら描いたスケッチは 今も残っていますか?
父は住友石炭で事務をしていました
途中で平岸に社宅が変わりましたが、2年ほどで北海道の地を離れました
当時の友人は元気なのか気がかりです
同じような場所に住んでいたのですね
そうなんです
一番山側の1階で一番左でした
雪が降るので階段の入り口には木の扉、たしか石炭が配給されたようで石炭ストーブがあり火種のマキ割をさせられましたよ
ボール遊びは病院のグランドで遊んでいました
スケッチは残っていませんでした・・・
@oodaisystem様 丁寧な御返信有り難う御座います。毎日幾度も拝見している動画ですので母上様には他人事とは思えません。1:54 お姉ちゃんが台所で両手で何かを口に持っていっているのを エプロン姿のお母さんが優しく見守っている写真が特に好きです。
心よりお悔やみ申し上げます。
有難うございます
今の「こもれび通り」、山手を背に住友病院に向かって左側を 小さな川というか下水というか 各社宅の排水も流れ込む、けっこう水量の多い川が流れていました。春の雪融けシ―ズンや 大雨の後等に 病院へ向かって下り、根室本線に向かって下りでしたので丁度共同浴場辺りで水が溢れた事がありました。 水のひいた後に行くと共同浴場前の広場の地面が大きく抉られて水の流れた跡が残っていたのを覚えています。確か其れ以降 夏のラジオ体操は「山手」の集会所前に為った ような記憶です🙂
この川かは分からないのですが、大根を洗ったり近くの川でしていたのを思い出しました
@@oodaisystem
確か、共同浴場の右側を根室本線の線路の方へかなりの急流が、(と言っても小川ですが)流れ下っていた様な···
生活排水が流れ込んでいるとはいえ、山から流れて来る 水のキレイな川で よく此の川の周りで遊んだものです😊
記憶も薄らぎ、でも突然ワンシ―ンが浮かび上がってきたり😲
買い出し、列車、ダイコン干し、我が、ふるさと。
住小の4,5 年生の頃、社宅の横を通る 今の“こもれび通り"(住友病院の前を通って弥栄町を南北に分け、山手に向かう、未舗装で穴ボコの多い道) この道を塞ぐ形に バトミントンのネットを張り、近所の何家族かと、確か平日の夕方に バトミントンをして遊んだ事を、ふと、思い出しました。その頃は まだ車などは 滅多に通らなかったので、(見通しの良い、真っ直ぐの道で 車が来るのはすぐ分かった) 皆でワイワイ・キャ―キャ―、私が 人のいない処や ネット際を狙ってシャトルを打って勝っていい気分で居ると、父が“ 互いに打ち合うのが 面白いのだ、お前のバトミントンはきたない" と言われ、私は子供心に“勝てばいいのだ"と半ば不貞腐れたのも 何故か突然思い出しました··· 本格的なネットや🏸、鳥の羽根のシャトルがどういう訳か家に有りました。
確かに舗装している道なんて国道くらいしかありませんでしたね
雨が降ると水たまりが出来、学校帰りに水たまりに入ってバシャバシャしました
@@oodaisystem
此の動画の2:00 辺り、乳母車を押すお母さんとお婆さんが緩い坂道を下って行く写真の地面。砂利がいっぱい混じった 粗いコンクリート舗装の道、赤平市街から“山田御殿"の辺りから根室本線の踏切を越えて 住友地区へ入った処から確か病院の辺りまで此のガタガタの舗装道路だったような、又、病院と集会所の角を左に曲がり 根室本線の踏切を越えて 配給所や住友球場へ行く道も 此のガタガタ舗装だったような記憶です。流石に此のガタガタコンクリート舗装の道路は他で見た事が有りませんが 何故か懐かしい道路です🥲
ホント
今ではほとんど見る事が無くなりましたよね
当時は埃も凄く散水車が走っていた記憶があります
赤平山からの展望を見ながら考えました。
かつて眼下いっぱいに広がっていた住友赤平の社宅群、小・中学校、野球場、病院、そしてその中心の炭鉱設備の数々、そのほとんどが消え去りました。私の「故郷」が無くなって仕舞った様に、今、日本中の「故郷」が消えようとしているのでは?と思えてなりません。2024'1'14
勿論、住友だけの事ではなく、豊里炭鉱も、赤間も、赤平では開発の早かった茂尻炭鉱も、近隣の歌志内、砂川、芦別も、
全ては、邯鄲之夢の如し···
例えが合っているか分かりませんが 60年前の毎日の生活が本当に昨日の事の様に思い出されます。
本当にそれは思いますよね
集落の集約化とか言われたりするけど便利が本当に良いのかなんて思います
5:23 ㍼26 年の写真、4棟のブロック作り2階建ての社宅から右に3列目、山の方から数えて5棟目が私の生まれた社宅です。すぐ横を今の「こもれび通り」が通り、玄関前に大きな柳の木がありました。写真には其の柳の木を囲むように 白い影が6~7ツ写っています。私には13 歳上の兄がおり ㍼26年には赤平高校の一年でした。白い影は兄を訪ねて来たワイシャツ姿の同級生達ではないか などと勝手に想像したりして··· 兄の世代は 皆仲が良く 友人同志 自転車で行き来をしていた印象があります。TV映画の刑事物ではよくパソコンでスキャンを何度も繰り返し、不鮮明な人物や 車のナンバ―等を特定するシ―ンが在りますが、私にそんな機器が在るわけも無く、今年89歳の兄に聞くと「そうだったかもしれないし、そうでないかも」 今から74,5年も前の、でも確実にあった弥栄町の懐かしくて堪らない1風景です🥲
その写真を拡大してみましたが、確かに大きな木があり人までは確認できたのですが、当時のレンズ性能があまり高くなくはっきりと分かりませんでした・・・
私は2階建てブロック作りの社宅の一番手前の向かって一階の一番左で生まれ住んでいましたよ
@@oodaisystem
其の社宅の近くで遊んでる写真が多いですよね。
根室本線の線路脇で 水筒とショルダーバッグを襷掛けで胸を張る2人は遠足の朝でしょうか?
冬の弥栄町の 雪の積った小道で眩しげに眼を細めて並んだ3人の写真、まるで私が写っている様な感覚を覚えて終います。
同じ時代に、同じ場所で、同じ空気を吸って、生きていました。
其れが 自分でも驚く位、懐かし くて 堪らないのです🥲
やっとカラー化をして再編集版が出来上がりました
かなり遅くなりましたが、ご覧いただけたらと思います
私も 赤平住友小学校 卒業しました。 懐かしいです。住友炭鉱も山野の風景 当時発展していて
ご覧いただき有難うございます
当時はクラス数も多く活気がありましたね
今思えばあのころが一番楽しかったです
ふるさと、いいですね、、活力、溜まります、、俄然、元気に。