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北斗星用にも、マニ50を改造した電源車あったなあ。
新世代客車になりきっている旧型客車、とてもツボですね。
古代文明オーパーツ的な?名前が“マヤ”だけに・・・それと逆な旧客になりたい12系。観光イベント列車で見るやや痛い光景。
153系みたいな色のWルーフのお方も居ました。控車かな。
乃木坂46に一人だけ昭和時代のアイドルがメンバー参加しているみたいな。。
@@DoReMiLight中澤裕子さんとか柏木由紀さんとか、良かったですね。
24系にもカニ22を改造した、カニ25が存在しましたな。
20系の冷房が真夏の山陽線内で故障して車内は騒然となり、日立のある下松に臨時停車して、日立の職員が修理しに来たっちゅうウソみたいなホンマの話があるわな途中駅で氷柱積み込んだり乗務員も大変やったと思うまだ20系が品川にしか配置されてへんから非常用に電源車を門司に配置したり、、、、
故障した純正電源車のかわりに簡易電源車で東京まで来たケースもあるそうですね。
20系の最高速度が95km/hの時期ですね。1968年のヨンサントオ改正で東海道山陽線内の20系の最高速度が110km/hになってからは、さすがにマヤ20の東京乗り入れは無いですね。
確か1963年の鶴見事故の余波の影響でマヤ20が東京まで来たことがあるらしい。
@@まじんはひまじん-n1y 私もそれは知ってます。当時はまだ最高速度95km/hです。最高速度が110km/hになった1968年以降は東京乗り入れの事例は確認出来ません。
鉄道ピクトリアルの2005年7月号 No.763に1963年11月12日撮影された鶴見~川崎間の写真とともに記事がありますね。1963年11月10日山陽本線厚東駅の東方1km付近で「みずほ」が緊急停車中に「あさかぜ」が追突し20系客車23両が破損となり「あさかぜ」は遺っていたいた編成で20系特急として運転「みずほ」は在来型客車編成で運転になったのでみずほ用のマヤ20が使われた訳ですね。ちなみに12月には15両化が迫っていたのですが事故車両は無事修理が間に合ったとのことです。
マヤ20は廃車前は既にサービス電源用のエンジンが重すぎて台枠がボロボロだったらしい。
今ならカヤ27-501とかマニ50 2186とか。このような異端の電源車は趣味的に見ればマニアックで面白い存在ですよね。
同感ですこの様な少数の珍形式についてもどしどし取り上げて頂きたいですね例えば鹿児島本線のサヤ420やオリエント急行用の控車等
マヤ20はグリーンマックスのオハ35の板キットとカトーのカニ21のアッシーパーツを切り貼りして製作した思い出があります。
ワールド工芸の真鍮製トータルキット組立が初代と増備の両方入線してます。屋根の両端のと冷却ファン部だけ床下と同じくホワイトメタル製で少々手間取りました。
富士が走ってなかった時期は知りませんが寝台特急の歴史の一幕ですね。
「富士」は1961年から1964年10月までは151系の昼行特急(東京~宇野)でしたからね~。東海道新幹線開業によって151系昼行特急の富士は新大阪~宇野の特急に変わり、富士山の近くを一切走らないのに「富士」を名乗り続けるのはおかしいので、名を「うずしお」に改め、同時に東京~大分に新しくデビューした夜行寝台特急に「富士」の名が受け継がれました。
改造電源車の始祖がこのマヤ20でしたね。後にカニ22改造のカ二25や北斗星の増発用マニ24-500なども誕生し現在までにカシオペア用のカヤ27がこのマヤ20の歴史を繋いでいると思っています
当時はどこの国でも、電源の問題を多かれ少なかれ抱えていましたね。気動車にも同様の問題がありました。小型で高出力のエンジンが手に入りにくかった時代のことです。日本の場合、大軸重を許さない条件も抱えていました。ディーゼル化で動力近代化を行った英米では、電気式ディーゼル機関車などから冷房等のサービス電源を賄う方式も採用されていました。日本にこれはありませんでした。日本の機関車から供給されたのは暖房関係の蒸気、電気くらいでした。
3:33 イマドキ懐かしいスケルトン車体の20系みずほw
あれはナハネフ23のステンレスの貫通扉に、沿線風景が反射しているのでは?
こういう、少数異端車っていうのが1番そそられる 笑 それにしても、端面の白塗り処理はなかなかのセンス
簡易電源車の種車が食堂三等合造車で、型式がオハシというのは絶妙ですな一応、模型ではカトーからさくら佐世保編成に入っていますな
簡易電源車は「さくら」分割編成のC11牽引しか知らなかった。
私も、さくら分割編成しか、この簡易電源車をしりませんでした!みずほ分割の日豊本線が最初の使用だったんですねぇ。
自分もさくらの佐世保編成だけかと思っていたクチですhiC11で引っ張る編成に、それまで牽引していたDLまで付いていたのは驚きました。マヤ20機械部分の屋根も綺麗だったw検索すれば出てきます
特急『みずほ』は臨時列車上がりで、定期化されても遜色寝台特急時代が長く、20系化・14系化された後も、他の名門列車に比べ、何となく日陰の存在だった。しかも、晩年寝台特急の需要が下がった結果、九州ブルトレで真っ先にに廃止されてしまった不遇な列車だった。末期の九州ブルトレでは、『さくら・はやぶさ』が東京ー長崎・熊本間に、『さくら』の廃止後、最後の『富士・はやぶさ』が東京ー大分・熊本間の設定と、それぞれ併結列車に縮小されて凋落した。これは前者が全盛期の、後者が初期の寝台特急『みずほ』の運転区間そのものなので、何だか『みずほ』の怨念めいたものを感じる。そして時が過ぎ、不遇だった『みずほ』は、九州・山陽新幹線の最速列車として大復活。これでリベンジ完了。良かったね!
この「みずほ」の名残なのか(もしくは「富士・はやぶさ」でなく「みずほ」にする予定だったとか?)JR九州の25系客車改造15系客車に「みずほ 大分」のサボが何気にありました。
やっぱり20系の「おでこ」は格好良いですね。14系や24系はもうちょっとなんとかならなかったんですかね?(本題から脱線してすいません。)
日本が年々豊かになり、鉄道もグレードアップしていった時代ですね。今とは正反対かと。。
長距離輸送の主軸が航空機ですからね。航空会社の上級会員ならわざわざ列車は選ばない
大分【みずほ】運転開始の時に大分局ではC57での運転を計画していたとか。当然のように国鉄本社から怒られました。大分局「・・・・C57の方が速いのにぃ~(泣」。門司~大分の試運転に使われたDF50がぶどう色塗装のままだったのはC57を使うつもりで準備してなかったからかも?ギリで営業運転初日にDF50新塗装車を間に合わせたってエピソードもこれの影響だったりw
ゆうづるのC62は何も言われなかったのかな?この頃にはDD51があったけど
↑2年後(1967年)に電化する予定だったので、平にも仙台にも配置しなかった。
DF50というと、非力なのと、晩年の頃に萌えたイメージが強いです。
@@おしげ-b6k 特急ゆうづるの牽引機が、旅客用高速機のC62が貨物用のED75に置き換わった時には、平ー仙台間で運転時間が1分伸びてるんですよね。
@@春葛 一方、日豊線は1974年でやっと無煙化ですもんね。それまでは特急富士・彗星のDF50に何かあったら即C57代走。て言うか、大分区には常時C57を待機させるナイショの特急組運用があったとか。
(ちょっと妄想していた事と被った記述があったので)青函トンネルの保守に今以上に人が割けたらカシオペア、トワイライトエクスプレスの定期運用復活できるかも!?
良いですねー。暇なので歩けるうちは往復予約入れまくって、お留守番のBAと犬に東京駅のおみやげくれてやりたい。
種車のオハシ30、確か東北地方の急行「みちのく」に最初連結してなかったかな?自分もオハシ30は作ったが、マヤ20 は、断念したな………(笑)
カトーカトー言ってる人おるが、うちにはワールド工芸の金属製が2輌おる。45年前にアリイNゲージカニ24の屋根と、グリーンマックスのスハ32で作ろうかとも思っていた。
自分も最近ワールド工芸製を2輌(0番台と10番台)導入しましたGM製スハ32キットを魔改造しようとしていたのは同じですね(笑)マブチモータを2個繋いで自車室内灯を点灯させる予定でしたが失敗しましたw当時中学生の考えた事ですから^^;
本題は簡易電源車なのにカニ22が気になって仕方ありません💦
20系はやぶさがマヤ20を使って長崎に乗り入れる一方、14系みずほが全車熊本行き、なんていう効率の悪いことやってましたね。
はやぶさはあかつき1-7号と共通運用っちゅうのもあったんやろけど14系にしても別に問題なかったなもっと謎なのはあさかぜ2号にも14系が投入されてた事やわ
@@dai2asakaze あかつきと共通運用といえば、14系日本海!青森の大雪であかつきに使うはずの車両が帰ってこねーぞ、みたいなことが…
@@魔改造人間 以前は、門司所属の車両が函館まで行っていたような・・・
KATOから再販されましたね。何やこの中途半端な車両は?と思いましたが、こう言った意味があったのですね。
新潟鐵工所V12、30Lでは大き過ぎ。
北斗星用にも、マニ50を改造した電源車あったなあ。
新世代客車になりきっている旧型客車、とてもツボですね。
古代文明オーパーツ的な?名前が“マヤ”だけに・・・
それと逆な旧客になりたい12系。観光イベント列車で見るやや痛い光景。
153系みたいな色のWルーフのお方も居ました。控車かな。
乃木坂46に一人だけ昭和時代のアイドルがメンバー参加しているみたいな。。
@@DoReMiLight中澤裕子さんとか柏木由紀さんとか、良かったですね。
24系にもカニ22を改造した、カニ25が存在しましたな。
20系の冷房が真夏の
山陽線内で故障して車内は騒然となり、日立のある下松に臨時停車して、日立の職員が修理しに来たっちゅうウソみたいなホンマの話があるわな
途中駅で氷柱積み込んだり
乗務員も大変やったと思う
まだ20系が品川にしか配置されてへんから
非常用に電源車を門司に配置したり、、、、
故障した純正電源車のかわりに簡易電源車で東京まで来たケースもあるそうですね。
20系の最高速度が95km/hの時期ですね。
1968年のヨンサントオ改正で東海道山陽線内の20系の最高速度が110km/hになってからは、さすがにマヤ20の東京乗り入れは無いですね。
確か1963年の鶴見事故の余波の影響でマヤ20が東京まで来たことがあるらしい。
@@まじんはひまじん-n1y
私もそれは知ってます。
当時はまだ最高速度95km/hです。
最高速度が110km/hになった1968年以降は東京乗り入れの事例は確認出来ません。
鉄道ピクトリアルの2005年7月号 No.763に1963年11月12日撮影された鶴見~川崎間の写真とともに記事がありますね。1963年11月10日山陽本線厚東駅の東方1km付近で「みずほ」が緊急停車中に「あさかぜ」が追突し20系客車23両が破損となり「あさかぜ」は遺っていたいた編成で20系特急として運転「みずほ」は在来型客車編成で運転になったのでみずほ用のマヤ20が使われた訳ですね。ちなみに12月には15両化が迫っていたのですが事故車両は無事修理が間に合ったとのことです。
マヤ20は廃車前は既にサービス電源用のエンジンが重すぎて台枠がボロボロだったらしい。
今ならカヤ27-501とかマニ50 2186とか。このような異端の電源車は趣味的に見ればマニアックで面白い存在ですよね。
同感です
この様な少数の珍形式についてもどしどし取り上げて頂きたいですね
例えば鹿児島本線のサヤ420やオリエント急行用の控車等
マヤ20はグリーンマックスのオハ35の板キットとカトーのカニ21のアッシーパーツを切り貼りして製作した思い出があります。
ワールド工芸の真鍮製トータルキット組立が初代と増備の両方入線してます。屋根の両端のと冷却ファン部だけ床下と同じくホワイトメタル製で少々手間取りました。
富士が走ってなかった時期は知りませんが寝台特急の歴史の一幕ですね。
「富士」は1961年から1964年10月までは151系の昼行特急(東京~宇野)でしたからね~。
東海道新幹線開業によって151系昼行特急の富士は新大阪~宇野の特急に変わり、富士山の近くを一切走らないのに「富士」を名乗り続けるのはおかしいので、
名を「うずしお」に改め、同時に東京~大分に新しくデビューした夜行寝台特急に「富士」の名が受け継がれました。
改造電源車の始祖がこのマヤ20でしたね。後にカニ22改造のカ二25や北斗星の増発用マニ24-500なども誕生し現在までにカシオペア用のカヤ27がこのマヤ20の歴史を繋いでいると思っています
当時はどこの国でも、電源の問題を多かれ少なかれ抱えていましたね。気動車にも同様の問題がありました。小型で高出力のエンジンが手に入りにくかった時代のことです。日本の場合、大軸重を許さない条件も抱えていました。
ディーゼル化で動力近代化を行った英米では、電気式ディーゼル機関車などから冷房等のサービス電源を賄う方式も採用されていました。日本にこれはありませんでした。日本の機関車から供給されたのは暖房関係の蒸気、電気くらいでした。
3:33 イマドキ懐かしいスケルトン車体の20系みずほw
あれはナハネフ23のステンレスの貫通扉に、沿線風景が反射しているのでは?
こういう、少数異端車っていうのが1番そそられる 笑 それにしても、端面の白塗り処理はなかなかのセンス
簡易電源車の種車が食堂三等合造車で、型式がオハシというのは絶妙ですな
一応、模型ではカトーからさくら佐世保編成に入っていますな
簡易電源車は「さくら」分割編成のC11牽引しか知らなかった。
私も、さくら分割編成しか、この簡易電源車をしりませんでした!
みずほ分割の日豊本線が最初の使用だったんですねぇ。
自分もさくらの佐世保編成だけかと思っていたクチですhi
C11で引っ張る編成に、それまで牽引していたDLまで付いていたのは驚きました。マヤ20機械部分の屋根も綺麗だったw
検索すれば出てきます
特急『みずほ』は臨時列車上がりで、定期化されても遜色寝台特急時代が長く、20系化・14系化された後も、他の名門列車に比べ、何となく日陰の存在だった。しかも、晩年寝台特急の需要が下がった結果、九州ブルトレで真っ先にに廃止されてしまった不遇な列車だった。
末期の九州ブルトレでは、『さくら・はやぶさ』が東京ー長崎・熊本間に、『さくら』の廃止後、最後の『富士・はやぶさ』が東京ー大分・熊本間の設定と、それぞれ併結列車に縮小されて凋落した。これは前者が全盛期の、後者が初期の寝台特急『みずほ』の運転区間そのものなので、何だか『みずほ』の怨念めいたものを感じる。
そして時が過ぎ、不遇だった『みずほ』は、九州・山陽新幹線の最速列車として大復活。
これでリベンジ完了。良かったね!
この「みずほ」の名残なのか(もしくは「富士・はやぶさ」でなく「みずほ」にする予定だったとか?)JR九州の25系客車改造15系客車に「みずほ 大分」のサボが何気にありました。
やっぱり20系の「おでこ」は格好良いですね。
14系や24系はもうちょっとなんとかならなかったんですかね?
(本題から脱線してすいません。)
日本が年々豊かになり、鉄道もグレードアップしていった時代ですね。
今とは正反対かと。。
長距離輸送の主軸が航空機ですからね。航空会社の上級会員ならわざわざ列車は選ばない
大分【みずほ】運転開始の時に大分局ではC57での運転を計画していたとか。
当然のように国鉄本社から怒られました。大分局「・・・・C57の方が速いのにぃ~(泣」。
門司~大分の試運転に使われたDF50がぶどう色塗装のままだったのはC57を使うつもりで準備してなかったからかも?
ギリで営業運転初日にDF50新塗装車を間に合わせたってエピソードもこれの影響だったりw
ゆうづるのC62は何も言われなかったのかな?この頃にはDD51があったけど
↑2年後(1967年)に電化する予定だったので、平にも仙台にも配置しなかった。
DF50というと、非力なのと、晩年の頃に萌えたイメージが強いです。
@@おしげ-b6k
特急ゆうづるの牽引機が、旅客用高速機のC62が貨物用のED75に置き換わった時には、平ー仙台間で運転時間が1分伸びてるんですよね。
@@春葛 一方、日豊線は1974年でやっと無煙化ですもんね。
それまでは特急富士・彗星のDF50に何かあったら即C57代走。
て言うか、大分区には常時C57を待機させるナイショの特急組運用があったとか。
(ちょっと妄想していた事と被った記述があったので)
青函トンネルの保守に今以上に人が割けたらカシオペア、トワイライトエクスプレスの定期運用復活できるかも!?
良いですねー。暇なので歩けるうちは往復予約入れまくって、お留守番のBAと犬に東京駅のおみやげくれてやりたい。
種車のオハシ30、確か東北地方の急行「みちのく」に最初連結してなかったかな?自分もオハシ30は作ったが、マヤ20 は、断念したな………(笑)
カトーカトー言ってる人おるが、うちにはワールド工芸の金属製が2輌おる。
45年前にアリイNゲージカニ24の屋根と、グリーンマックスのスハ32で作ろうかとも思っていた。
自分も最近ワールド工芸製を2輌(0番台と10番台)導入しました
GM製スハ32キットを魔改造しようとしていたのは同じですね(笑)
マブチモータを2個繋いで自車室内灯を点灯させる予定でしたが失敗しましたw当時中学生の考えた事ですから^^;
本題は簡易電源車なのにカニ22が気になって仕方ありません💦
20系はやぶさがマヤ20を使って長崎に乗り入れる一方、14系みずほが全車熊本行き、なんていう効率の悪いことやってましたね。
はやぶさはあかつき1-7号と共通運用っちゅうのもあったんやろけど14系にしても別に問題なかったな
もっと謎なのは
あさかぜ2号にも14系が投入されてた事やわ
@@dai2asakaze
あかつきと共通運用といえば、14系日本海!青森の大雪であかつきに使うはずの車両が帰ってこねーぞ、みたいなことが…
@@魔改造人間
以前は、門司所属の車両が函館まで行っていたような・・・
KATOから再販されましたね。
何やこの中途半端な車両は?と思いましたが、こう言った意味があったのですね。
新潟鐵工所V12、30Lでは大き過ぎ。