本当なら上杉謙信の後継者だった!? 北条の血を引く悲劇のプリンス・上杉景虎

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  • Опубліковано 28 сер 2024
  • 本当なら上杉謙信の後継者だった!? 北条の血を引く悲劇のプリンス・上杉景虎について紹介しています。
    ~目次~
    ■父は北条氏康
    ■景虎、越相同盟のため上杉家へ
    ■上杉謙信との対面
    ■実父・氏康の死
    ■謙信の死と後継者争い
    ■御館の乱の推移
    ■景虎の最期
    ■まとめ
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КОМЕНТАРІ • 75

  • @user-tz7gv8hj2s
    @user-tz7gv8hj2s 11 місяців тому

    北条三郎こと上杉景虎を取り上げていただき、ありがたいです。太閤立志伝5DXで、北条三郎をプレイしてます。😊😊😊

  • @user-zk1du7de2t
    @user-zk1du7de2t 2 роки тому +6

    景虎は確かに悲運な武将というイメージがあるけれど、景虎が景勝を破って越後を支配していたら1番得をするのは北条氏政。越後も北条の領土になったも同然だからです。
    北条氏政が同盟相手の武田勝頼に景虎支援を要請したのはちょっと都合がよすぎると思います。勝頼が景虎を支援しなかったからといって同盟破棄とは勝頼が少し可哀想な気がしますね。

  • @gb10gb200
    @gb10gb200 4 роки тому +4

    初めて知りました
    勉強になりました。
    ありがとうございました。

  • @user-ef7pt7us7b
    @user-ef7pt7us7b 4 роки тому +8

    景虎戦国無双でみてすきになった

  • @rosan6179
    @rosan6179 3 роки тому +15

    景虎が後継者になっていたら家臣の反発がかなりあったのではないか
    北条氏康の息子だから上杉家は北条家の分家のようになってしまいますから
    景勝が後継者になったのは結果的に間違っていなかった

    • @user-vh5me3fi9w
      @user-vh5me3fi9w 3 роки тому +5

      ところが、御館の乱では宿老衆が景虎の味方に付いたのですよ。御館の乱は、恩賞目当ての日和見の御家人が6割あり、空手形とは知らずに新発田氏らが景勝に味方したのが大きな敗因ですね。そして、最も氏康に恨みがあるはずの上杉憲政が景虎と和解していた訳であり、景勝と兼続は、憲政を処刑したので景勝が上杉性を名乗ることは、この時点では僭称となります。これが後々まで、景勝の負い目となり、上杉性が認められるのは大分あとのことになります。

  • @user-ob6bf3cm6d
    @user-ob6bf3cm6d 4 роки тому +3

    いつも楽しく動画を見てます、これからもよろしくお願いします頑張って下さい

  • @kandytensui
    @kandytensui Рік тому +3

    私の先祖は謙信公の姉が嫁いだ下越の加地城主配下の名も無き武将でしたが、景虎側に付いていたため落城後、落ち武者となり民家に匿ってもらい、今日まで末裔として生きています。

  • @user-wo3ih4gq3d
    @user-wo3ih4gq3d 4 роки тому +20

    景虎を担いだ側は北条が介入してくる事を想定していなかったんでしょうかね❓
    景勝は、少なくとも謙信の甥だから血縁としては申し分はなかった筈…
    後世では伺い知れないような利害関係が、上杉家臣団の中に存在していたのか…

    • @dindon1969
      @dindon1969 4 роки тому +6

      上杉憲政は何で景虎を推したんですかね。
      Wikipediaより
      「旧山内上杉家臣に後北条氏との関係を重視する意見もあって、
      憲政は景虎を支持したとされる。
      一方、当時越後に亡命していた山内旧臣の大部分(大石綱元、倉賀野尚行ら)は
      景勝方についていることが確認されているため、
      実際は不明である 」

    • @kenn3420
      @kenn3420 4 роки тому +7

      北条との関係を重視する派は景虎の方にいったでしょう。

    • @softeasy9464
      @softeasy9464 4 роки тому +5

      魂魄妖夢 さん
      古志長尾、柿崎、北条(きたじょう)、本庄(秀綱)、山本寺と、
      そうそうたる面々が景虎側ですね。
      越後国内が如何に割れていたかが伺えます。

    • @afo3738
      @afo3738 4 роки тому +2

      たぬき日の丸
      北条から調略を受けてたんじゃない?

    • @user-gi7gy7zf8r
      @user-gi7gy7zf8r 4 роки тому +6

      @@softeasy9464
      古志郡の古志(栖吉)長尾の上杉景信は上田長尾への父祖代々の敵対心から景虎を推しただけ。
      古志郡の栃尾の本庄は古志(栖吉)長尾の上杉の盟友で、上田長尾とは領地争いしてきたら当然景虎を支持
      頸城郡の柿崎は上杉と北条の和睦(越相一和)の際、人質を出してるから景虎寄りだったが、当主晴家は乱早々に殺され家中真っ二つになり、柿崎家中の景虎方は同家中の景勝方によって猿毛城に追い詰められ全滅。しかも柿崎の先代の当主景家は謙信に謀反の疑いで罰せられてたから、柿崎は既に非主流派。
      刈羽郡の北条毛利は当時上州厩橋城の城主も兼ねており、小田原北条の圧力を受けて景虎方になったに過ぎない。本拠の刈羽郡の北条城では、景勝方として戦う者もいた。
      頸城郡の山本寺は景虎の守役だから当然景虎を支持したが、山本寺家中に景勝を支持する者がいて一枚岩にあらず。
      実際は越後国内の主流派はほぼ皆景勝を支持しており、後継者はほぼ景勝に決まっていたのでは。
      史料が足りずよく分からないのが、刈羽郡の枇杷島。柏崎の湊を押える枇杷島城は元々、八条上杉が治めていた。謙信の父・長尾為景が守護・上杉房能を攻め滅ぼした後、八条上杉は為景に徹底抗戦して一度滅ぼされた。その後枇杷島城を「枇杷島殿」という者が治め、御館の乱で景虎方として激しく戦った。史料が殆ど残ってないが、景勝によって枇杷島に関する書状は全て焼かれたのかもしれない。

  • @izw01332
    @izw01332 4 роки тому +5

    景虎を主人公に御館の乱を描いた近衛 龍春氏の小説が面白かったです。
    映像化・舞台化して欲しいです。宝塚でもいけそうな・・・

    • @morio2008
      @morio2008 2 роки тому

      北天蒼星、という小説もめちゃくちゃ面白いですよ!

  • @user-to9fc2il5c
    @user-to9fc2il5c 3 роки тому +2

    横浜市にある神鳥前川神社には天正十年に火災により焼失した社殿の再建を行い、かつ上納金を三年免除するという景虎発給の文書が残っているそうです。
    しかし、景虎は御舘の乱で天正七年に亡くなっているから、それは実現不可能な話で、ちょっとした歴史のミステリーを感じます。
    景虎は大叔父幻庵の養子で小机城の城主だったことがあるので、同神社も領内だったことも考えられます。私個人は幻庵の娘で、かつて景虎の妻だったお姫様が景虎の名前で行ったのではないか、と妄想しているのですが、もしその通りならば…たった数ヶ月の夫婦生活だったにも関わらず、一人の女性にそこまで想われる景虎は相当人間として魅力的な人物だったのかもしれません。だから景勝や直江兼続も恐れたのかも。

  • @user-np4is2zq9o
    @user-np4is2zq9o 4 роки тому +6

    大河ドラマ天地人が放送される遥か前に、
    某小説の影響で米沢市に景虎派の腐女子が
    聖地巡礼するようになりました。

  • @nao-kf3xz
    @nao-kf3xz 4 роки тому +10

    景勝、なんかセコセコ抜け目ないな

  • @user-zx8pk6tb1z
    @user-zx8pk6tb1z 4 роки тому +10

    玉山鉄二

  • @user-ob7ew4vs7s
    @user-ob7ew4vs7s 4 роки тому +5

    浅野幸長をお願いします

  • @user-di9ql9gf5z
    @user-di9ql9gf5z 3 роки тому +1

    家督争いの末、破れた上杉景虎、上杉のみならず家臣団を二分する事になったこの出来事、御館の乱。先代、上杉謙信は出家し実子を持たず、
    景勝(喜平次)を養子にとり、
    謙信が亡くなった事で後継ぎ争いが勃発。御館に景虎、春日山城に景勝と、にらみ会う事になり、春日山を取られた景虎が無念の死を迎える事になりました。

  • @user-py4jx9er9x
    @user-py4jx9er9x 4 роки тому +3

    戦国の世の習いとはいえ、なんとも悲しい運命ですな。

  • @user-md2vo2sr4u
    @user-md2vo2sr4u 4 роки тому +20

    景勝さんも都合悪そうな記録は抹消してる傾向があって
    景虎の記録は動画の通り氏康の死から謙信の死までの7年、ほぼわからない
    ただ景虎は反景勝に担がれた感がある
    他家の記録にも謙信存命時から景勝の名前はあっても景虎はないし、後継は景勝でしょうな

    • @dindon1969
      @dindon1969 4 роки тому +3

      「後継者を明言しなかったのは、景勝のつもりだったから」
      だとしたら
      それが要らぬ悲劇を招きましたね。
      景虎のバックには北条氏政が居るんだから、
      自分が暴走しただけの織田信勝とは違う。

  • @user-ll2zt6wh8x
    @user-ll2zt6wh8x 4 роки тому +11

    リクエストなんですが、房総の梟雄、里見義尭を解説して欲しいです✨

  • @user-gi7gy7zf8r
    @user-gi7gy7zf8r 4 роки тому +5

    御館の乱は上田長尾家と古志(栖吉)長尾家の父祖代々の権力争いが根底にあるんだよね。
    上田長尾家出身の景勝が謙信の後継者になるのは、古志(栖吉)長尾家としては決して受け入れられなかった。それで景虎を擁立し、小田原北条家や甲斐武田家の支援を受けて景勝を滅ぼそうとした。
    ただ景勝は既に関東や越中で軍勢を率いて戦歴を重ねてたし、謙信の後継者として越後の有力武将の大半から認められてた。
    景虎に味方した越後の有力武将は、頸城郡では守役(後見人)の山本寺家・柿崎家の一部、刈羽郡では枇杷島家・毛利北条家、魚沼郡では無し、古志郡では栖吉長尾の上杉家・栃尾本庄家、山東郡では無し、蒲原郡では神余家・加地家(揚北衆)・黒川家(揚北衆)・鮎川家(揚北衆)。景勝方に比べると、非主流派なんだよね。やはり謙信は景勝を後継者に決めてたんじゃないかな。

  • @user-pi5ks1pn6k
    @user-pi5ks1pn6k 4 роки тому +8

    上杉謙信は景勝を後継者に決めていたよ。景虎の後継ポジションは越相同盟の終わりとともに終わっている。
    今福匡『上杉謙信』『上杉景虎』、黒田基樹『北条氏康の子供たち』、平山優『武田氏滅亡』を読もう。

  • @user-hf3cx4os1y
    @user-hf3cx4os1y 2 роки тому

    上杉景虎って、本当に大きな流れに翻弄されっ放しですよね。実父の手を離れ、幻庵公の養子になったかと思えば、外交の駒にされて上杉家へ。
    救いだったのは、養父謙信が異例と言える位の愛情を注いでくれたこと。あと……景勝とガチの闘いが出来たのも幸せだったかも(勿論、周りは迷惑だけど)。ライバルって、なかなかいないし、いてもその人と闘える機会が保障されることは極めて珍しい。当時の日本の列強である上杉の将兵たちの半分が従ってくれて、血縁より自分を選んでくれる女性が側にいる。胸には敬愛する英雄がいて、剣先には同じ英雄を敬愛する宿敵が剣を向けている…結末が悲劇的であっても、彼の生涯は武人として幸せだったのではないでしょうか?

  • @lx1125
    @lx1125 4 роки тому +13

    私は後継者は二人(関東管領は景虎,弾正少弼・越後守護は景勝)説を推してますが、景虎が後継者説は強いですよね!
    特に景虎には華姫との間に三男次女を授かってます。因みに勝頼と同じで後継者として一番相応しいのは景虎の子供に当たるんですけどね!

  • @user-rw8mk2jx9g
    @user-rw8mk2jx9g 4 роки тому +3

    旧戦国自衛隊思い出すね

    • @izw01332
      @izw01332 4 роки тому +1

      同族じゃ、同族じゃ

  • @user-ph4ot7tu6u
    @user-ph4ot7tu6u 2 роки тому

    その御や方の乱で上杉憲政もが関わっていて死んでるんでしたっけ。
    謙信の死と氏康の死が早すぎた

  • @softeasy9464
    @softeasy9464 4 роки тому +6

    はっきりしたことはわからないですが、
    どちらかと言うと後継候補は景虎が有力だったのかなと思います。
    理由は以下の通り。
    ・景勝が後継候補なら、北条と同盟が切れた次点で景虎は殺すか、北条に返すか、せめて養子解消すれば良い。
    ・景虎派には上杉憲政がいる。
    ・顕景から景勝への改名(この時点で候補から格下げになった?)
    謙信は景虎を候補にしたかったけど、敵国の血筋の人間だし、
    せっかく政景が死んで収まった上田長尾氏の反乱等を警戒して、
    候補を決めるのを棚上げしてたのかなと思います。
    それが分かってか、御館の乱時に春日山城の金蔵占拠で最初に事を荒立てたのは景勝ですしね。
    あと忘れてはいけないのが謙信をずっと後援していた一門筆頭の古志長尾家の景信の存在ですね。
    古志長尾と上田長尾は水と油なので、
    景勝に後を継がせたいなら、景虎はさっさと追い出さないと、
    景信に付け込まれる隙になるのは明確ですね。
    優柔不断でどちらにも決められなかったというのも謙信らしくてありですが。
    ついでに、景勝の跡取りの名が長尾家からの通字の「景」を使わず、
    「勝」を使って定勝としたのも、気になりますね。

    • @softeasy9464
      @softeasy9464 4 роки тому +3

      改めて御館の乱は、ワンマンの謙信が絶妙なバランスで抑えていた越後国内の各派閥の利害対立と、後継問題とが密接に絡んでしまったのが大きな問題ですね。
      主には、謙信が当主になる前から続いている古志長尾と上田長尾の対立と、謙信が越後上杉氏を継いだときの守護代派(長尾家臣)と守護派(越後上杉家臣)の対立ですね。
      (揚北衆も不安定だったか…)
      振り返ると謙信の後継問題もありつつ、それが表面的なものと思える程に守護、守護代の中央集権化(戦国大名化)の課題は大きく、そこに帰結してしまった乱だったのかもしれませんね。
      (これ、上杉景虎のトピックでしたね…)

    • @user-gi7gy7zf8r
      @user-gi7gy7zf8r 4 роки тому +1

      御館の乱の黒幕は古志長尾家の景信で、上田長尾家の景勝を嫌って乱を起こしたのかも。乱勃発から景虎方で最も激しく戦ったのが景信で、序盤で居多浜で戦死してます。そして古志郡の栖吉衆(古志(栖吉)長尾家)は最終盤まで景勝方と戦ってます。この徹底抗戦は長年の古志長尾家と上田長尾家の敵対を表しています。
      古志長尾家は元々は越後の中央・古志郡を治め、信濃川の水運の中枢である蔵王堂城一帯を本拠にしてました。しかし府内(三条)長尾家と上田長尾家に挟まれる地理的条件により、両家と次第に敵対。蔵王堂城の付近を府内(三条)長尾家に奪われ、やむなく守りの固い巨大な山城・栖吉城を築いて建て直しを図りました。
      古志(栖吉)長尾家は府内(三条)長尾家に従って関係改善しましたが、南の領地を接する上田長尾家とは断続的に衝突を繰り返しました。古志(栖吉)長尾家は守護代・長尾為景の盟友として最前線で戦闘に参加した結果、越中戦線で死者が続出。上田長尾家に対抗できなくなり、府内(三条)長尾家に対して不満が溜まりました。守護代が長尾晴景に代わると、古志(栖吉)長尾家で内紛があり収集がつかなくなりました。それで若き景虎(謙信)が派遣され、始め三条城に入り、次に栃尾城に入って戦いを指揮し、栖吉城の内紛を鎮圧したのです。これは断定できませんが、景虎が戦ったのは揚北衆でなく栖吉衆(古志(栖吉)長尾家)である可能性があります。揚北衆と戦ったなら、三条城から栃尾城へ入るのは遠回りで不自然ですし、そもそも揚北衆が古志郡の栃尾城まで攻め込めるはずありません。
      古志(栖吉)長尾家と上田長尾家は激しく戦ってきました。関東管領上杉顕定の越山、宇佐見房忠の乱、上条定憲の乱、長尾政景の乱など。最後の御館の乱で古志長尾家は滅びましたが、個人的には立派な武家だったと思います。

    • @softeasy9464
      @softeasy9464 4 роки тому

      後方に見ゆる海平らけし さん
      景信が御館の乱の黒幕でその理由が、景虎側で激しく戦ったからって因果関係弱く無いですか?
      それはただ景虎側の主力が景信だった事しか表してないですよね?
      他のコメントでも返してますが、寧ろ景勝側が先に事を荒立ててる事からも、乱を引き起こしてるのは景勝側だという考えが自然だと思います。
      あと、関係ないですが、人のコメントに返すときはもう少し要点絞ったほうがいいですよ。
      よく調べているのかもですが、情報過多で結局貴方の頭で整理して理解してないように見えますし、
      最悪知識ひけらかしてマウント取りたいだけに見えますよ。
      (他の人のコメントの返信も観点ズレてましたよ。)

    • @softeasy9464
      @softeasy9464 4 роки тому

      平山優先生の「武田氏滅亡」を読んでの訂正。
      謙信死後の春日山城内の抗争を示す文書は今のところ無いとのこと。
      よって、
      「それが分かってか、御館の乱時に春日山城の金蔵占拠で最初に事を荒立てたのは景勝ですしね。」
      は創作の可能性が高いようです。

  • @user-gc1eb4gi4f
    @user-gc1eb4gi4f 4 роки тому +8

    上杉謙信は武田信玄と違い後継者をしっかり決めていた。その後継者は上杉景勝です。内乱のきっかけは芦名のおじいさんが越後を狙った為
    芦名のおじいさんが越後を狙わなければ、景勝と景虎は争っていなかった。

    • @user-gi7gy7zf8r
      @user-gi7gy7zf8r 4 роки тому +5

      景勝と景虎は必ず後継者争いしていたよ。そもそも景勝が謙信の後継者になることに問題がある。
      景勝は魚沼郡を治める上田長尾家の出身。上田長尾家は、古志郡を治める古志(栖吉)長尾家と敵対し続けてきた。よって古志長尾家としては、景勝が謙信の後継者になることは決して受け入れられない。北条から謙信の養子として来た景虎を擁立して、景勝を潰そうとした。
      しかし精強な上田衆(上田長尾家の集団)や上杉家重臣たち、主な揚北衆(鎌倉時代から揚河(阿賀野川)以北を治める豪族たち)らの支援を受ける景勝を滅ぼすのは至難。そこで国外の大名らを味方につけた。景虎の実家である小田原北条家、甲斐武田家、会津芦名家など、奥州伊達家など。
      御館の乱で景虎方として最も激しく戦ったのは古志郡の栖吉衆(古志長尾家)と栃尾衆(栃尾城の本庄家)。上田衆(上田長尾家)の風下には立ちたくないという思いが強かったのだろう。

    • @softeasy9464
      @softeasy9464 4 роки тому +1

      神余親綱の件ですね。
      これはもう素人歴史好きへの認知度の問題ですね。

  • @user-si1ue8vc5f
    @user-si1ue8vc5f 4 роки тому +2

    上杉謙信女説これ見て可能性がありますね。

  • @user-zc6yx7cz3c
    @user-zc6yx7cz3c 4 роки тому +8

    景虎が跡取りなら
    北条・上杉・武田の同盟があったかも知れないのかな?

    • @user-yd5kt2iu6f
      @user-yd5kt2iu6f 4 роки тому +4

      北条 上杉 武田の三国同盟が出来たら武田が本能寺の変起きるまで生き延びれそう

    • @yf-lv6tx
      @yf-lv6tx 4 роки тому +5

      武田健在なら本能寺の変すら起こってないでしょ。歴史って面白いね。

    • @kenn3420
      @kenn3420 4 роки тому +3

      景虎が跡継ぎで上杉の譜代家臣が付いてきただろうか。越後は内乱で混乱状態が続いて下手すれば、上杉が武田みたいになって、滅んでいたかも。
      もしくは北条がとっとと乗っ取ってしまうか。

  • @user-ep6gr3ns2z
    @user-ep6gr3ns2z 2 роки тому

    もしも後継者争いで景虎勝てば景勝良くて隠居、悪くて死。代わりに景虎息子道満丸が越後国主に景虎陣代として実権を握る。コレは上杉謙信が長尾景虎時代兄に代わり越後国主になった時と同じ展開。

  • @user-zh7kl6pq7k
    @user-zh7kl6pq7k 2 роки тому

    景勝めちゃくちゃいい人なイメージだがおもいっきり謙信に対立しまくりやん

  • @user-pm7ks2bi6j
    @user-pm7ks2bi6j 4 роки тому +3

    謙信、女性説

    • @arminiusherman4783
      @arminiusherman4783 4 роки тому +1

      説じゃなくて 事実何だよなぁ

    • @user-xf7fy3dj3g
      @user-xf7fy3dj3g 2 роки тому +1

      月に1度お腹が痛くなって引きこもった…みたいな話があるらしいよ。

  • @cma46210
    @cma46210 4 роки тому +4

    上杉軍団がどの様な物か理解していれば結末は当然です。過去300年とも400年とも血のつながりで支えられた軍団の中核の意思は景勝公支持以外に有りません。外様勢力が決める事は出来ますまい。この構造は新規召し抱えの多い戦国期から江戸末期まででも侍組、お馬廻り組を中核と位置付けています。この人達は源氏や平氏としてこの地に根を下ろし血縁を結び、共に戦った家の子孫なのですからよそ者は受け入れません

  • @user-mf2qb8fd8e
    @user-mf2qb8fd8e 4 роки тому +1

    玉鉄

  • @sepa3435
    @sepa3435 2 роки тому

    景勝にしてみればウホッで取り入った様に思えて(事実はどうだかしらんが)
    常日頃から憤懣がたまっておったんやろなあw

  • @dindon1969
    @dindon1969 4 роки тому +3

    そりゃ自分が急死するとは思ってなかったんでしょうが、
    謙信も無責任ですね。
    血の繋がった養子がすでに居るのに、
    長年対立してきた北条からの養子を可愛がってたら
    北条は弟を後継者にしたほうが得なんだから
    謙信の死後に後継者問題が勃発しますよ。
    「後継者を明言しなかったのは、景勝のつもりだったから」
    だとしたらそれが要らぬ悲劇を招いた。
    今、麒麟がくるを観てるんですが、
    織田信秀も似たような仕打ちを
    実の息子たちにしてるんですよね。
    (史実でもドラマでも嫡男をうつけ者と言いながら、
    史実では同母弟に以前から大きな権限を与えてたり、
    ドラマでは死の直前に自分の居城と重臣を与えてしまう)
    もっとも織田信勝の場合は、
    歳上の重臣柴田勝家をうとみ、
    男色の相手とされる若い津々木蔵人の言いなりになってしまったのが
    失敗の原因とされてますが。

  • @user-ob6bf3cm6d
    @user-ob6bf3cm6d 3 роки тому

    俺不細工だから、謙信公に嫌われてるなー

  • @user-vn6rn8ef9y
    @user-vn6rn8ef9y 4 роки тому +4

    長兄は氏親だろ
    間違えたこと教えんな

  • @toyo156
    @toyo156 4 роки тому +4

    謙信は女の子説じゃなくて、、ホモー説かよw

  • @user-ti8ji8jt7u
    @user-ti8ji8jt7u 4 роки тому +3

    上杉謙信は関東の覇権争いにおいて北条氏康、氏政に「敗北」したわけだから北条の子息に後を継がせてお家を守るという発想はごく自然なのでは??

    • @user-ws5ow3ug8j
      @user-ws5ow3ug8j 4 роки тому +2

      騎士団ゾット帝国 は?負けてねーよ!馬鹿!季節的な制約で撤退しただけだわ!

    • @softeasy9464
      @softeasy9464 4 роки тому +2

      「関東の派遣争い」においては、次第に謙信の影響力が低くなったのは確かですね。
      局地戦でいくら勝利しても、
      「季節の制約」で冬には帰国せざるを得ず、その間北条に逆襲されてしまう中、関東国人も次第に「北条に従った方がマシ」と思われてしまった。
      謙信自身が関東に居を移せれば良かったのですが、越後国内の不安定さもあり実施出来ず。
      幕府権力弱体後の守護や守護代が如何に権力を維持し中央集権化(所謂戦国大名化)するかという課題に謙信も抗えなかったという事かなと。

    • @user-nk3dw8hv8m
      @user-nk3dw8hv8m 4 роки тому +2

      @@user-ws5ow3ug8j 実質敗北でしょ、結局小田原攻め切れなかったし国衆にも離反されるし

    • @arminiusherman4783
      @arminiusherman4783 4 роки тому +1

      敗北してねーけどな

    • @user-ti8ji8jt7u
      @user-ti8ji8jt7u 4 роки тому +3

      @@arminiusherman4783 謙信は関東管領に任じられ、毎年関東に出征したにもかかわらず、関東での影響力を失った。やはり敗北したのでは?