どんなに苦しくても生きねばならない理由は仏教にあるのか
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- Опубліковано 9 лют 2025
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ブログ
「生きる意味がハッキリ分かる親鸞の教え」
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kikuutan.haten...
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自己紹介
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kikutaniryuta....
(自己紹介)
1988年早稲田大学を中退し、仏教講師の道を目指す。
浄土真宗親鸞会で仏教講師の資格を取得、全国各地で公開講座を始める。
2010年からメールマガジンをはじめ、読者12000人の仏教最大級のメルマガ執筆
2014年からは全国をつなぐオンライン講座の動画レクチャーでも活動中。
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kikutaniryuta....
何時もありがとうございます。頑張ります。絶対の幸福を掴む為に😂
菊谷先生、おはよう👋😃☀️ございます。感謝します😭✨私は人を赦せなかった時は苦しくて仕方ありませんでした😢特に私の問題は父でした😮私は19才の時、イエス・キリストが自分を侮辱して殺した相手を神に父よ☀️彼らをお許し下さい😂🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉自分が何をしているかわからないままです😆🎵🎵私はその言葉を聞き父を一瞬にして許してしまいました!そのときの喜びは忘れられません😮今、53才、とりあえず今のところ私は誰も腹のたつ人はいません😂私はまだまだですけど人を許せたら生きるのに喜びが出てきました😂
現在、55歳の男性です。両親は他界し、
妻も昨年突然なくなりました。
娘との2人暮らしですが、何か虚しさばかりが心に兆し、娘のためにも頑張って生きていこうと言う気力が萎えてしまう、今日この頃です。自死しなくとも、長生きせずに彼方に行きたいと常々思ってしまいます。
こちらのサイトからそこをなんとか乗り越えて生くヒントを得られたら良いな、と
思っています。
ありがとうございました。
私は自殺未遂の経験が複数回あります。死後の世界がどうのこうのではなく。とにかく生きることが辛かったからです。
わかる気がします。その内容について近日中にアップします。
死ねば無くなる、非想非非想天、という言葉を思い出しました。
何も思わない、しかし、何も思わないと思っている。
自分はこの言葉に救われる所がありますね。
菊谷先生 いつもUA-camを拝見させて頂いております。苦しくても生きなければならない理由についてありがとうございます。
私が考えた苦労に対する解釈を披露致します。参考にして下さい。これにヒントを得て新しいUA-camが発表されるのを期待致します。
究理学極意 科学で宗教を紐解く
この宇宙は原子でできていますね。
原子の解明が進んで来て、原子と虚数は、切っても切れない関係にあることがわかりました。
しかし、この虚数、あり得ない数として意味不明のまま使われてきました。
筆者は、この虚数は、原子の世界の理論を使った量子コンピューターで使用される量子ビットと同じであることに気がつきました。これ、まだ、誰も気がついて居ません。
また、この虚数の表れる解析は、古典力学でもありました。意味がわからないまま使用されておりました。
筆者は、古典力学から、虚数の現れる式は、努力(苦労)が必要である事に気がつきました。
つまり、虚数は苦労であり努力すると楽しみに替わる物と見いだしました。
原子の世界の解析では、電子が原子核の周りを回っていて、軌道が飛び移る現象に虚数が表れることに注目し、古典力学と結びつけてやはり苦労であり、軌道が飛び移るのは、脳内の原子では、気づきの現象がそれに当たることに気がつきました。
古典力学の苦労は、体の苦労(難行苦行)であり、原子の世界の苦労は、心の苦労(気づき)であることに気がつきました。
お釈迦さまは、心の幸せ(悟り)を得るために、難行苦行を行いましたが、それではダメであることに気がつき、心の苦労(善いことを行い考え続けること)と気がついた時に悟りを開かれました。
お釈迦さまは、4つの苦、(生苦、老苦、病苦、死苦)を取り除く方法を教えられましたが、筆者は、心の幸福は、この4つの苦とは、別物であると感じております。筆者は、変形性膝関節症で手術をして、膝が痛いですが、それでも心は幸せと言う状態にあります。善いことを行ない続けていれば、4つの苦とは別に、心の幸福は得られると感じた次第です。悟りは、善いことを行い、気づき、自分に還ってくるとき開かれると思います。因果応報。
筆者の生きるための標語
みんなの幸せが自分の幸せ、人の役に立つように、心に正しいと思うままに、正直に、今を一生懸命生きること。
いつも似たような事を書いて申し訳ありません。
お互いに世の中を幸せな心の持ち主で溢れるように頑張りましょう。
ありがとうございます。私も一度自殺を経験しました。本当に苦しくて自殺のマニュアルという本も近くにありました。
ただ、その時、ふと冷静になりました。自殺する勇気が無くなりました。
そして、こんな発想が脳裏にでてきました。良く考えれば、人は必ず死を迎える。それが早いか遅いかだけの違い
だけだと教えられ自殺する勇気があれば、何も怖く無くなりました.
物事を常にプラス思考で考えられる様になりました.だから、自分には、わかります。自殺者の気持ちが、冷静さを失い平常心が無く、痛みや怖さを感じていないという事を認識させてもらいました。
いつも、ありがとうございます。
勉強になります。
生きることは 修行の連続。死ぬまで勉強して 魂を磨きたいと思って生きている60代です😊
今より、幾らか明るかった80年代の頃の事、商業高校を出たばかりでちょっと目端が利いていた私は会社を上手く立ち上げ、最初の内は参入者の少なかった事業で上手くやっていた時期がありました、ビギナーズラックも働いていたのに自分の力を過信して天狗になってました、だが暫くして商売を続けて行く事の大変さ難しさという事に直面したのです、財務を軽視して、勘定科目をいい加減にしたこと、それと若さからくる不勉強さから出資してくれた相手に充分な配当を配らなかった、もしくは遅れた、利益に対してかかってくる税金の申告もいい加減だった
こんな事からすぐたちいかなくなってしまった、
ニッチもサッチもいかなくなった頃、どうにもならなくなったのに取り敢えず延命を計ったか万事休す それを認めざるを得なくなった時飲めない酒を飲みだして、気がついたら車で富士樹海の前へ行っていた、かつてに酒の力を借り無意識の内死を選択してたんです、
だが、その時の私はなぜだか子供の頃に祖母から聴かされた地獄の話が頭をよぎり、その恐ろしさに見動きが出来なくなっていました、
あの世は良い所に違いない。
帰ってきた者は一人もいないのだから。(永六輔)
ありがとうございました。南無阿弥陀仏。
たまたまこのチャンネルと遭遇しました。興味を持ってご拝聴させてもらいました。唯物論者は今、有るので無くなる(無になるのが)のが本当は怖いのでは?苦しくとも生きていればいつか楽になる望みがあって生きようとする。死んで無になって楽になる?いや死んでも無ではない。それでは死んでも苦しいのは苦しいのか?はたまた苦もあり楽もあるのか?それもわからない。それが問題なのだが?必ず早かれ遅かれ死ぬときが来るのは間違いのない事実現実だから決まっている(変えようがない)ことをどうこうの考えてもしょうがない、それより今、生きているのだから生きることを考えよう、万物に感謝の気持ちをもって(持てるように)人(万物)と協調性をもって道徳心を養って行けば何か特別に信仰宗教を持たなくとも人として不足することなどはないのではないかとも思いますが、因みに私は「万物皆これ神なり」などと思っています。子どもの頃友とこんな会話をしていたことを思い出しました。「何故生きる?」「死にたくないからだ!」「何故死にたくない?」「生きたいからだ!」「何故生きたい?」「死にたくないからだ!」の堂々巡りというか無見地獄と言うのか?何故の所がまだまだ難し過ぎたようでした。
選択を間違えると取り返しがつかないですよね。死にたくはないけど、もっと楽に生きたいです。
初めてコメントさせて頂きます。
いつも仏教の教えを分かりやすく、人生への生かし方を教えて頂いて本当にありがとうございます。
私は57歳(女性)です。
27歳で躁鬱病を患い、自殺未遂もありました。やがて結婚して二人の子供にも恵まれました。でも二人目を産んで産後鬱となり主人から離婚を言い渡され、子供を連れて家を出ました。幸い養育費はきちんと頂けたので、生活に困らずに生きてこれました。
離婚して14年、子供も20代になり私を気遣ってくれて幸せに暮らしています。
今回のお話は、とても心に染みました。心より感謝しております。
ありがとうございました。
わたしの知人の一人の方が以前、自死されました、当時は若かったせいもありあまり深刻に考えることも有りませんでしたが今思うと
残念で成りません、この世は無情な世界だな〜とつくづく思うのです、何故そういう選択をしたのかな?もっとズ太く生きれなかった
のかな?わたしは気楽に生きて常に、主ともにいませり!と毎日心の中で神様と歩む日々こそ最高の幸せだと思って生きています。
菊谷先生😆奥深いお話をありがとうございました🙇♂️
生は喜び、死は安らぎ。意識の無い世界。私にとって安らぎです。
死を意識してこわいものだと考える事で、逆に今現在生きていることに深く感謝して充実した日々を送ることが出来ています。今日もわかりやすいお話ありがとうございました。
無常を観ずるは菩提心の一なり、ですね。
ハムレットを親鸞聖人目線で、
もう一回読み直してみます!
ありがとうございます😊
本当にと、全部
思いました。
先生ありがとうございました。🙇♀️🙏
ありのままを見た時に、なにもなく、ただ自分の煩悩だけがあるが、それさえも幻想であることを悟り、ただただ、自分でない無意識のなかで活動すること(行動する)ことができること(できていること)に目覚めたときの開放感とその自由さに気付いたときの幸福感は何ものにも代えがたく、自分の外にあるものでは絶対満たされないものを感じます。
生きることは、辛いです。私は、この世でも死後も、幸せが待っているとは思えません。生まれてくるべきではなかった。
理解はできます。でも、ここで終わりたいという気持ちは消えません
小学生の時から、死が、怖かったです。あと、両親が、死んだら、いやだなあ、と、思う事が、しばしば、ありました。
自分とは?も考えました。どうしたら、人生の目的、知る事が、出来るんだろうか?家族が、寝静まり、1人考える事が、ありました。
楽しい事の後、虚しく、この心は、なんだろう?わからない
高校の時、何人にも、聞いてみた、何の為に、生きているか?友人は、そんなの考えるのやめな頭、痛くなる、と
私なりに、考えましたら、死ぬのは、嫌だから、死の解決だ、と、で、親戚の者から、南無阿弥陀仏の、いい話しを聞きに行こうと誘われて、仏教、親鸞聖人の、教えを、聞かせて頂く事が、出来ました。
人生の目的を、知る事が、出来ました。
仏法は、聴聞に極まる、と、阿弥陀仏の救いに、あわせて、頂くまで、
破闇満願、絶対の幸福、人生の目的があるんだ。というまとめ。ありがとうございます。私個人の命として満たそうとすることを手放し、全体の中の一つの命。と我を見ることができたとき、生かされているだけで意味があるんだ。という視点で私も外の世界も観れるようになり、ふっと肩の荷が落ちる感覚となります。良し悪しでなくていいんだと…
いつもありがとうございます🙏🏻
菊谷先生…🙏
解り易いお話に感謝します。
私も、素晴らしい高僧の教えに…救って頂いたひとりです。
先生のように…。
今もこれからも、救いの素晴らしい波動を…皆で…分かち合っていきたいです。🙆🙌🙋🌈
先生…、
ありがとうございます(..)m(__)m
( ´∀`)うれしいです
また…コロナがもう少し落ち着いたら…父の納骨堂にも お参りにいきます 🙇🙏
幸せって何ですか?その、幸せがわかりません。
今、生きている事は修行だと思って生きています。
生きているのではなく、生かされてこの世の修行を実行している。
その中で喜怒哀楽があり、人間の生活をしている。
死は、身体が亡くなる事で魂は存在し繰り返されているのかと。
私は幸せを知らないから、特に死を恐れてはいません。
今はこの世に命を受けた事で、この世の修業をしているだけなので
いくら耐えられない苦痛を感じても自害は選択せず、苦痛も修行の一貫して受け止めています。
この考え方をする様になったのは、誰かから教えられたものではなく、
幸せを知らない生活の中で感じとったものです。
この考え方は間違っていますか?
分からない~と思いながら話を聞いていましたが、絶対の幸福。と聞いて覚めました。
死ぬ時に、笑っていたいと思います。その為には、生き抜くと言う事です。どんな境遇になろうと、そこには必ず意味があると思っています。幸せとは与えられるものでなく、自分自身で感じる心なのではないでしょうか。
幸せとは与えられるものであり、自身で感じる心でもある、といえるかと思います。
@@byBuddhism de
人から笑われる事を承知で言います。
人は死んだらブラックホールの縁に立つw
皆、死んだ後に、どうなるか分からないから、死に対して不安や恐怖を感じているのです。
仏教で死後について説かれているのであれば、早く死後について教えてください。
人は、いつ死ぬのかわからないのですから。
今度zoomでお話ししましょう。
生きる事は全て前世の自分のまいた種DAYSこの世に偶然はありません!不幸でも喜んで世の為人の為に感謝して生きるのDAYS不幸から必ず幸せの芽が出ます✧︎末は頼もしい黄金の道DAYS✧︎
小学生・中学生・高校生の疑問みたいなタイトルです。稲は生きていると驚いてみたり、どうせ死ぬのになぜ頑張るのかと考えたり。~がこういってますとか、~という方がこう書いてますと仰られても会ったこともない人のことはわかりません。歴史なんかもあたかも見聞きしてきたかのようなものに思われます。生命、意識、心、気持ちと言われているものの正体は?植物に心と言われるものはあるのか?時間、空間と言われているものの正体は?人間であるがゆえにいろいろなことを考えてしまうように思います。
私は「生きねばならない理由は何か」という問いは小中高校生の疑問だけだとは思いません。kikuutan.hatenablog.com/entry/301129kamyu
仏教に学ぶ幸福論by菊谷隆太様
当然のことです。人間であるがゆえに過現未の人間の疑問でしょう。「14歳からの」哲学(考えるための教科書)ですからね。「から」が抜け落ちているように思います。星新一のようこそ地球さんの殉教思い出しました。4月に入ってから拝見し始めました。いろいろと参考になります。有難うございます🤗🙏
仰ってるところの生き続ける目的というのがとんでもなく壮大で、
我々凡人には(生きているうちには)とても到達できそうにありません。
その目的に達することができるのは、悟りを開かれた方くらいではないのかと・・・。
・・・とマジメに言ってみたりして・・・
大好き!
この世の中は、無常の嵐なので、少しでも早く、死後について明確にしておきたいです。
明確になるのは、無明の闇の破れた信の一念です。
菊谷先生いつも本当にありがとうございます。自然法爾の念仏〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝
「死が怖い」というのは、死後どうなるか「分からない」からである、というのは確かにあると思います。
ただ、自分の感覚として現実的に怖いのは死後のことより、むしろ今死ねば確実に「現在の生」が失われるということは避けられないという「確実な事実」のほうです。
たとえ何かのマイナス要因を抱えているにしても、それ以外の全てを捨てて本当に死ねるのかという現実的な葛藤が何よりも強くあります。
単純なことで言えば、親を残して本当に死ねるのかというのは、経験上最も切実な葛藤です。何かあると自分のことは置いても、まずは親のことが気になります。
「死が怖い」というのは、要するに「平和な現在の状態を失う恐怖」なのではないでしょうか?(病気が苦しいのも、それが「治らない」場合で「治る」ならそれは
大した問題ではないでしょう。)少なくとも私の場合「死後の未知」より、まず先に「現在の喪失」のほうが怖いです。それは確実に悲しむ人が居るからです。
自分の不幸はまだ耐えられますが、親の不幸は子として耐え難いものがあります。
質問させてください、障害児を持ったり、障害児になるのは、行いが悪いから、そういう運命を受けなければならないのですか?うちには、障害児がいるのですが
生まれた時の結果、時代、場所、賢愚、美醜、健常かどうか、これらみな違うのは、過去世の業が違うから、と仏教は説きます。ただ障がいを持って生まれたという事実は本人にとっても、親にとっても、悪い行いの結果とは言い切れません。
今とこれからの心と種まきによって、よい結果だったとかみしめることがあります。
@@byBuddhism お返事ありがとうございます、何度も読んで、先生のおっしゃる事を、深く理解していきたいです、また、考える所があったら質問させてください
今も、妬みの心をきいていました
人生に意味はない、とひろさちやさんが書かれています。また仏教には、不殺生戒という教えがあると思います。ですから無条件に生きなければならない。しかし生きることに意味はないと考えられると思いますが、いかがでしょうか?
選択の連続ですね。たしかに。だとすると自由意志を認められている。しかし、一方であらゆるものには原因があるともおっしゃる。これは決定論的です。自由と決定論の問題を一度仏教の観点からお話しいただけたらと思います。そもそも人間は自由なのか?
これは鋭いご質問で、唯識の領域の説明になります。結論から言えば、仏教は決定論ではありません。定まっていない業の存在を説かれていますので。
@@byBuddhism ありがとうございます。一度、動画でもとりあげて頂けると有りがたいです。哲学ではこの種の問題はハードな決定論とかソフトな決定論とか両立論とかいまだに未決となっているようです。ですが、これはよく考えてみれば法律、経済理論、社会制度、倫理の根拠としてつかわれうる極めて重大な問いかと思います。決定論をおしすすめれば責任をとえなくなる一方で、決定論を否定すれば、社会の不条理は自己責任で片付いてしまいます。仮に外部要因で全てが決定されているとしても、普通、人は自分には自由意志があると考える。文化や時代や風土、物理的要因が個人の運命をかなり規程しているにしても、現代日本は戦時下と違い、かなり自由だと普通、考えて生きています。そして、たぶん、真偽はさておき、個人としてはそう考えるほうが生きるうえで健全だと私も思います。実際は人に大して自由がなくても。たぶん坂本龍馬や西郷隆盛が現代日本にうまれてたらあれほどなを残すことはなかったでしょう。ましてルワンダでうまれてたら。。硫黄島のゼロ戦のパイロットでゼロ戦がなくなってパイロットだけ本土から迎えにきた二機の大型機で本土に帰るとき、先にいったほうが落とされて死に、後でいったほうが本土についたということがあったらしいですがこの違いは自由意志で説明するのは苦しい。しかしそれでも個人としては自由意志があると思うべきだと私は考えていますのでこれは倫理的(当為)であって真偽云々ではありません。仏教には真偽とは別にどう考えるのがよいのか腑に落ちやすい知恵があるように思えます。哲学が2000年考えても未決の問題を仏教が真偽に関して答えをもっているとは思えませんが倫理的な知恵はあるのではと思いました。
結局人間命を絶つ勇気がないからいやいや生きているのでは、逆に言えば死がそれほど恐いのだ。しかし死は必ずやって来るのに。厄介である。
無明の 闇はゴリラのココちゃんがいってました。手話で
死は絶対(自然の法則)で、その死と同じ絶対の幸福もある(仏法)と受け取りました。
深い言葉です。
俗に「地獄、極楽、この世にあり」と言いますが、仏教ではどう理解しているのですか?
儲けたい気持ちはわかるが広告が多すぎて話がはいってこない(笑)途切れすぎて草
自覚する方法、自覚全般についてのお話があればお願いしたいです
UA-cam頑張ってください!
ありがとうございます。
「無明の闇を破る」とは、「煩悩に支配されない様に、心を調える」ことと
理解しました。(仏法を聴聞し極める) 感謝。
現在71歳、知りたかったことに近づいているような気がするのですが、違うのかも知れません。人は生きていれば誰でもが「絶対の幸福」というものを体験できるのでできるのでしょうか?親鸞の教えを紐解く人だけが行きつけるものなのでしょうか?
親鸞聖人の教えを聞けば、どんな人でも絶対の幸福になれます。
人間は猿から進化したので、生きる目的、生まれた目的があるのでしょうか?
現代では人は土に還らないですよね。火葬は時代によっては罪人がされるものではなかったですか?土葬が正しいと私は思うのですが仏教ではどうでしょう?また、人が人が土に還らない時代になったことが、現代人の心の病の元のような感覚を受けます。菊谷さんはどう考えますか?
私は霊の存在を信じています、そして守られているきがしています。
じゃ幸せとは何なんですか?
親鸞会の講師ですか。
はい、高森先生に教えを受けてます。
死んだらどうなるかをお釈迦様や親鸞聖人は解った!と言うことなんですね。😃
こんばんわ。お疲れ様です。個人的解釈なのですが、草木や、動物なども発達した脳を持っていたら同じ様に考えるのでしょうか?生まれてくる前の我々がまさに「死ねばどうなるのか??」「生れ落ちた後はどうなるのか??」ほぼ変わりはないはずですが、感情や思考の違いだけではないでしょうか?と考えております。KFCや、刺身やサラダなど食するたびに自分自身に問いかけてきたテーマです。
猫は「猫とは何ぞや」とは考えませんが、人間は「己とは何か」「生きる意味とは」と考えます。発達した脳といっても、どこまでか、というのはよくわかりません。
@@byBuddhism 様、そこもありますね。感情的にとか、善悪もどこまでか?分かっていることより分かっていないことの方が多いとは理解できますが、どれほどなのかも尽きぬ悩みです。いわゆる凡夫の見本ですよ。
初めて拝見しました。
とても面白かったです。
唯物論の人でも心のどこかでは死後の世界を信じている。それならそれがどういうものかはっきりイメージしておくためにも、何かしら(宗教など)を信じるのは、賢明な判断かもしれませんね😌
おもしろい、という感想はうれしいですね。わかっていただいた感じがして。
幸せとか不幸せとかは相対的なもので生きる目的ではない。生きる目的とは人生を経験する事にある。そして意識(魂)が肉体を離れる時、経験を重ねた我々の意識は意識の集合体に戻って行き、そこで生の経験が大きな意識と共有される。そうして人類は少しづつ意識を洗練させ高次の世界に向かって行く。最終的にどこに辿り着くのか着かないのか?最後は大宇宙と繋がるのか?私には良くわかりませんが、おぼろげながらそんな風に考えています。的外れな思考でしょうか?