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5王は天皇じゃないから、記述がないんだろうな
どこからどう見ても北九州などの地域勢力が大和王権に対抗する為に大陸に支援を求めただけだと言えます。
倭が宋に出した手紙には、百済が宋に出した上表文と同じ文体が見られ百済の中国系の役人がかかわっていたことがわかっています。宋と関係を強化したい百済にとって都合が悪い文言や誇張表現は削られ、一部改竄もあったのでしょう。珍(めずら)は北部九州の珍敷塚古墳に関係する九州起源の倭王(のちに畿内に移動か)で松浦(まつうら)氏の祖と考えられます。朝鮮半島南岸にも珍島や巨済島など珍がみられることから朝鮮半島南岸も支配下に置いていたと考えられます。
倭の五王は松の連系図など国内の資料にも出てくる。倭の武王に関しては東国遠征を行ったらしく稲荷山古墳出土鉄剣以外にも上野五條天神社の由緒などさまざまな伝承にも名を残している。日立風土記など関東地方になぜか残るヤマトタケル(倭武)伝説も五王の倭だと考えると納得できる。倭の五王は天皇家とは別の王権と考えると記紀に記録がないのは当然と言える。ただ古代ヤマト王権の支配体制についてはおおきな謎が残ります。
古事記、日本書記は大和朝廷の歴史書だから、違う王朝の卑弥呼やタリシホコ王の名は記さない。大和王権は702年、中国の武則天によって国として承認された。
成る程、西暦702年は則天武后が唐を乗っ取っていた時期ですね。則天武后の死後唐に戻り、彼女は否定されます。制定した則文字も勿論否定されますが、唯一「圀」が我が国で生き残りました。徳川家康の孫が光圀と名乗ったこと、彼が時代劇のヒーローになったために。
動画に出てくる宋書夷蛮伝ですが、見れば日本や朝鮮半島だけでなく東南アジアにあった国々も朝貢してとのこと。但し、師子国王刹利摩訶南のように(その国の使者等から聞いた名を)宛字で表記されています。もし雄略天皇が朝貢したなら稲荷山古墳から出てきた鉄剣と同じでなくてもワカタケルと読める宛字で記載されるのでは。まさか当時中国と交流していた日本人は名前を2つあったとか。
白村江で勝利した高句麗王が、倭人を捕虜にし貢物として皇帝へ捧げた。そのなかに、後の「賛王」がいたと…… 気づかない視点だった
戦国時代の、明との関係を見ると、足利義満から始まり、次に大内氏。応仁の乱の間は関係が途絶して、秀吉にいたるわけで。上表文からすると、倭王武雄略天皇の立場が、秀吉によく似ていますよね。倭の五王の時代も、古代の戦国時代だったのかなーなんて。
単に記紀の編纂時に昔のことに関しての正確な資料がなかっただけだろうな
単にこの時代に大和王権になる勢力が分裂していた大陸と距離を置いていただけです。北九州の地域勢力などが大和王権に対抗する為に柵封を求めたと考えるのが当たり前です。
@@aiueiueo✕柵封○冊封
@@KellchlNosaka どちらにせよ今の日本に繋がる大和王権には関係ないです。
@@aiueiueo九州王朝なんてないのに、本気で信じてるのがわからないこの時代の前方後円墳が九州にも半島にもたくさんあるのに、なぜ九州王朝?
@@たぬ-w8k 記紀に土蜘蛛討伐の話などがあります。何を言っているのですか?
雄略、継体、欽明が、信長、秀吉、家康かな。欽明以降が、大和朝廷ということかも。中華王朝による冊封を、必要としなくなったということで。日出ところの、天子として。
剣銘の「ワカタケル」はヤマトタケル系の人のことだろう。少なくとも古事記によればね、大長谷天皇(雄略)は「大長谷若建命」という別人だからだね。大長谷天皇にとって「ワカタケル」の銘は戦利品にすぎないんだよ。棚から牡丹餅ですちなみに、「ヤマトタケル(倭建王)」は伊玖米天皇(11垂仁)の遺志をつぎ、倭人の国々を戦さで巡った武人だったが、天皇の姫、石衝毘女との間に子をもうけていて、兄が「帯中津日子命(14仲哀)」、弟を「若建王」という。ここでの親子関係と業績は倭の五王に関わる宋書の記述どおりだとわたしは思うよ
「ワカタケル」は「倭の武」で武の字が「武蔵」の武に残ったのかなと妄想しています。
朝鮮半島にも倭国がありました。中国から見れば、朝鮮半島先端およびその先にある島国が倭国という理解が普通だったと思います。倭族は殷滅亡後に、長江域から朝鮮半島およびその周辺に逃れた民族集団と理解されていました。半島先端の集団についての記録なら、日本に記録がないのは当然です。
なぜ頑として文字の概念と記録と言う行為の両方を理解しようとしなかったのか何となく分かった気がした。
仁徳天皇の兄弟の菟道稚郎子が天皇であり宇治天皇だったと言う説がありますから菟道稚郎子が讃ではないでしょうか。また熊本の松野連系図に倭の五王があり、讃の親は縢トウとなっていますが縢とは藤の大臣の武内宿禰と思われますから倭の五王の祖先は武内宿禰ではないでしょうか。と言うのは倭王武の上表文に祖先が海北を従えたとありますが、武内宿禰も三韓征伐をしているからです。そうすると倭の五王の仁徳天皇の親は応神天皇ですから応神天皇とは武内宿禰ではないでしょうか。
個人的には倭が本家、大和が分家で東征後に力をつけた分家が主家を乗っ取ったという説が一番納得感がある。主家を乗っ取った直後はその風習を踏襲して一字名を使って権威付けのために朝貢外交したと。全盛期の倭は北九州から南朝鮮沿岸に広がる国、大和王権は奈良盆地から東西に広がって近畿、東海道、北陸道、山陽、山陰などを取り込み九州の本家も吸収したが天皇の権威付けの記紀に正確には記述できないから省いたと。
弥生時代の日本最大の水田地帯は畿内なのに、本家が九州はありえない
太宰府が九州王朝の王都で、701年にヤマト朝廷へ政権の交代があったとするのが九州王朝説。
それはない
始皇帝のあとで900年も過ぎて、日本書紀、古事記ですか・・・。
wa
5王は天皇じゃないから、記述がないんだろうな
どこからどう見ても北九州などの地域勢力が大和王権に対抗する為に大陸に支援を求めただけだと言えます。
倭が宋に出した手紙には、百済が宋に出した上表文と同じ文体が見られ
百済の中国系の役人がかかわっていたことがわかっています。
宋と関係を強化したい百済にとって都合が悪い文言や誇張表現は削られ、一部改竄もあったのでしょう。
珍(めずら)は北部九州の珍敷塚古墳に関係する九州起源の倭王(のちに畿内に移動か)で
松浦(まつうら)氏の祖と考えられます。
朝鮮半島南岸にも珍島や巨済島など珍がみられることから
朝鮮半島南岸も支配下に置いていたと考えられます。
倭の五王は松の連系図など国内の資料にも出てくる。倭の武王に関しては東国遠征を行ったらしく稲荷山古墳出土鉄剣以外にも上野五條天神社の由緒などさまざまな伝承にも名を残している。日立風土記など関東地方になぜか残るヤマトタケル(倭武)伝説も五王の倭だと考えると納得できる。倭の五王は天皇家とは別の王権と考えると記紀に記録がないのは当然と言える。ただ古代ヤマト王権の支配体制についてはおおきな謎が残ります。
古事記、日本書記は大和朝廷の歴史書だから、違う王朝の卑弥呼やタリシホコ王の名は記さない。大和王権は702年、中国の武則天によって国として承認された。
成る程、西暦702年は則天武后が唐を乗っ取っていた時期ですね。則天武后の死後唐に戻り、彼女は否定されます。制定した則文字も勿論否定されますが、唯一「圀」が我が国で生き残りました。徳川家康の孫が光圀と名乗ったこと、彼が時代劇のヒーローになったために。
動画に出てくる宋書夷蛮伝ですが、見れば日本や朝鮮半島だけでなく東南アジアにあった国々も朝貢してとのこと。但し、師子国王刹利摩訶南のように(その国の使者等から聞いた名を)宛字で表記されています。もし雄略天皇が朝貢したなら稲荷山古墳から出てきた鉄剣と同じでなくてもワカタケルと読める宛字で記載されるのでは。まさか当時中国と交流していた日本人は名前を2つあったとか。
白村江で勝利した高句麗王が、倭人を捕虜にし貢物として皇帝へ捧げた。そのなかに、後の「賛王」がいたと…… 気づかない視点だった
戦国時代の、明との関係を見ると、足利義満から始まり、次に大内氏。応仁の乱の間は関係が途絶して、秀吉にいたるわけで。上表文からすると、倭王武雄略天皇の立場が、秀吉によく似ていますよね。倭の五王の時代も、古代の戦国時代だったのかなーなんて。
単に記紀の編纂時に昔のことに関しての正確な資料がなかっただけだろうな
単にこの時代に大和王権になる勢力が分裂していた大陸と距離を置いていただけです。
北九州の地域勢力などが大和王権に対抗する為に柵封を求めたと考えるのが当たり前です。
@@aiueiueo
✕柵封
○冊封
@@KellchlNosaka
どちらにせよ今の日本に繋がる大和王権には関係ないです。
@@aiueiueo
九州王朝なんてないのに、本気で信じてるのがわからない
この時代の前方後円墳が九州にも半島にもたくさんあるのに、なぜ九州王朝?
@@たぬ-w8k
記紀に土蜘蛛討伐の話などがあります。
何を言っているのですか?
雄略、継体、欽明が、信長、秀吉、家康かな。欽明以降が、大和朝廷ということかも。中華王朝による冊封を、必要としなくなったということで。日出ところの、天子として。
剣銘の「ワカタケル」はヤマトタケル系の人のことだろう。少なくとも古事記によればね、大長谷天皇(雄略)は「大長谷若建命」という別人だからだね。
大長谷天皇にとって「ワカタケル」の銘は戦利品にすぎないんだよ。棚から牡丹餅です
ちなみに、「ヤマトタケル(倭建王)」は伊玖米天皇(11垂仁)の遺志をつぎ、倭人の国々を戦さで巡った武人だったが、天皇の姫、石衝毘女との間に子をもうけていて、兄が「帯中津日子命(14仲哀)」、弟を「若建王」という。
ここでの親子関係と業績は倭の五王に関わる宋書の記述どおりだとわたしは思うよ
「ワカタケル」は「倭の武」で武の字が「武蔵」の武に残ったのかなと妄想しています。
朝鮮半島にも倭国がありました。中国から見れば、朝鮮半島先端およびその先にある島国が倭国という理解が普通だったと思います。
倭族は殷滅亡後に、長江域から朝鮮半島およびその周辺に逃れた民族集団と理解されていました。
半島先端の集団についての記録なら、日本に記録がないのは当然です。
なぜ頑として文字の概念と記録と言う行為の両方を理解しようとしなかったのか何となく分かった気がした。
仁徳天皇の兄弟の菟道稚郎子が天皇であり宇治天皇だったと言う説がありますから菟道稚郎子が讃ではないでしょうか。また熊本の松野連系図に倭の五王があり、讃の親は縢トウとなっていますが縢とは藤の大臣の武内宿禰と思われますから倭の五王の祖先は武内宿禰ではないでしょうか。と言うのは倭王武の上表文に祖先が海北を従えたとありますが、武内宿禰も三韓征伐をしているからです。そうすると倭の五王の仁徳天皇の親は応神天皇ですから応神天皇とは武内宿禰ではないでしょうか。
個人的には倭が本家、大和が分家で東征後に力をつけた分家が主家を乗っ取ったという説が一番納得感がある。主家を乗っ取った直後はその風習を踏襲して一字名を使って権威付けのために朝貢外交したと。全盛期の倭は北九州から南朝鮮沿岸に広がる国、大和王権は奈良盆地から東西に広がって近畿、東海道、北陸道、山陽、山陰などを取り込み九州の本家も吸収したが天皇の権威付けの記紀に正確には記述できないから省いたと。
弥生時代の日本最大の水田地帯は畿内なのに、本家が九州はありえない
太宰府が九州王朝の王都で、701年にヤマト朝廷へ政権の交代があったとするのが九州王朝説。
それはない
始皇帝のあとで900年も過ぎて、日本書紀、古事記ですか・・・。
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