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継体天皇 字の如しなんですね 昔も今も皇統を繋ぐのは大変だったのですね。古代史はミステリーより面白い。感謝。
継体天皇について知りたいと思っていて調べたらちょうど1日前に投稿されたこの動画が出てきて助かった
雄略天皇や武烈天皇が史書(日本書紀)の中で夏桀殷紂と同様な記述がされていることを考えると、継体天皇によるクーデターもしくは内紛的な争いがあったんじゃないかと考えてしまいますね。
日本書紀では、武烈天皇に継嗣がないので遡って天皇の血を引く賢者である継体を探しだし迎えにいった、とあるんですが
@@ああ-p1l6t天皇の血を引く奴なんて王権の周囲にいくらでもいるのに、なぜあえて応神とかいう伝説上の人物の血を引くと自称する部外者(越前の人間)を採用したのですかね?あきらかに中国的な易姓革命でしょう。当時の王がろくでもないからクーデタが起きたんですよ。それを日本書紀の著者がご都合主義で歴史捻じ曲げただけ。
平将門が新皇を称したのも桓武天皇「五世の孫」と言う血縁を根拠としてるのでひょっとして継体天皇にあやかったのかも。
よくわからないけど、中国にあった「天命思想」という理念を平将門が感銘を受けたって聞いたことある
その説は聞いた事ありますよー
八百万の神、八岐大蛇の「八」は多い、大きいの意味で実数を表さないのと同様に五世孫は「(血縁の定かでない)遠い親戚」を意味すると解釈もできる。
🎉
このような動画があったんですね。我が故郷の高槻市が誇る今城塚古墳は、それそれは立派な前方後円墳です。今ではきちんと整備されてますが昔は堀で釣りできたんですよ。ヘラブナとブラックバスの棲み分けもできてて釣り場としては良い環境でしたね。
茨木市にある継体天皇藍野陵は、ちょっと時代が古い様式の前方後円墳。「延喜式」によれば、継体陵は「島上郡」にあるとのこと、しかしながら当時の条里で言えば、藍野陵は「島下郡」にある。で、島上郡にある相当規模の墳墓は、「今城塚古墳」ということになる。
キーパーソン 手白香皇女当時は女性皇族の血🩸が大事 皇族としか結婚できないから血が濃かった。
継体天皇の皇后さまは先代の武烈天皇のお姉さんですね
韓国(ハングッ)時代劇ドラマ 帝王の娘 スベクヒャンのモデルにされてます。
高島の西の山を越えた隣の丹波国何鹿郡は古代には「漢部(あやべ)」とされて「漢氏(あやうじ)」という渡来系の人々がいたそうです。古代から繊維産業や茶の栽培が盛んな地域で現在まで受け継がれています。また、丹後半島には巨大な古墳群があり、大和王朝とは独立した王朝が合ったのではと言った説もあります。若狭湾一帯は大陸貿易の拠点だったのではないかとのことです。
25分ほどの動画ですが、真偽は確認必要な箇所もあるかもしれませんが 労作です。ありがとうございます。UA-camで このような内容を拝見できる良い時代に感謝します。なんだかんだと言っても 私は 昔の天皇よりも 良い生活をおくらせてもらっていると思っているので 先人に感謝です。国民は、みんな天皇陛下のはらから(子供)というのは、素晴らしい。この日本を継続してほしい。人間同士が、○し会うのは。愚かしい。(深く拝見していないので失礼を省みず 地図で 日本海が 東海となっていたようで 気になりました。)
近江大津宮近くの古墳群の発掘調査に参加したことがあるのですが、武具関係の出土が少なく金銀の宝飾品が数多く出てきました。また古墳群のそばに住居跡が見つかり、オンドルと呼ばれる中国東北部から朝鮮半島に見られる床下暖房が見つかりました。武具があまり出てこなかった事で、この古墳の豪族は何らかの政治的に守られた人達であったと考えられ、また琵琶湖のそばでなく高台で生活をされていたことから、敵対する何かを気にしながら生活した様子が伺えるものでした。また琵琶湖西岸は和邇氏の勢力範囲で、記紀によれば、和邇氏出身とする娘が、開化,応神、反正、雄略、仁賢、継体の各天皇「后妃」になったと書かれています。記紀の編纂に大きな影響力があった持統天皇が育った近江大津宮は元は和邇氏の勢力範囲なので、和邇氏の枝氏である小野妹子を含めて、なるほど繋がりがあるのも分かります。
貴重な発掘調査の体験談。大変参考になります。ありがとうございます。古代の豪族の勢力の変遷がおぼろげにうかびあがります。歴史に興味を持ち始めた頃 なんで大津のこんなとこに都をおいたのか理解出来ませんでした。蘇我氏の滅亡から天智天皇 天武天皇 持統天皇に至る流れの中で琵琶湖のほとりが重要な拠点となったと裏付ける出土に興味あります。ちなみに 当方のアカウントの写真 安土城天守跡からみた琵琶湖です。
返信有難うございます。近江の古墳は小規模なものが多く、古墳時代後期に急速に発展したのではないかと考えられています。また近江は、沙沙貴山君、小槻山君、都怒山君といった◯◯山君と名付けれた豪族が多くいました。この◯◯山君は製鉄技術を持った豪族なので、古代においては鉄の争奪戦であったために、大和朝廷にとって婚姻関係を結ぶことで軍事力や経済力を強くするために鉄の奪い合いや協力関係に発展したと考えられています。近江と鉄についてピンと来ないと思われますが、製鉄を行うには大量の木材(火力)と大量の水が必要だったので、大和や河内に比べると近江は都合の良い立地と、若狭方面から渡来人もやって来ていたので古代の発展条件が整っていたと考えられます。
ありがとうございます。鉄の獲得が勢力の変遷に深く影響したと考えます。砂鉄の産地 材木 水がチカラの象徴と捉えています。古代の勢力分布で見落とされがちな近江の豪族には興味深々です。あと石材の切り出しの痕跡。近年まで石の産地として石垣や石仏はこれを担ってきた証と思われます。安土城にあれだけ石材を調達できたのは驚きでした。滋賀には記紀とは違う伝承があります。神話も然り アメノワカヒコは美濃で戦死なされたと神社の口伝があったり イザナギ イザナミが多賀大社でお祀りされていたり…琵琶湖の形が淡路島と180度反転させた形と相似だったり…妄想のタネつきません。
最近の発掘調査では製鉄のために砂鉄ではなく鉄鉱石から製鉄していたことも分かってきました。鉄鉱石を見つけるには地層についての知識も必要でした。また古墳築造をしていた末裔が穴太衆になったのではと考えられています。そして近江は石造美術が日本一多いとも言われています。一度見たら一生忘れられないと言われる石塔寺の石塔群、滋賀の寺社に行けばよく目にする宝筺印塔、京阪上栄町駅近くの長安寺には国の重要文化財である牛塔も、さり気ないお寺にさり気なくあったりします。
鉄鉱石からの製鉄技術がすでにあったとは驚きです。 詳しくはわかりかねますが おそらくかなりの高温が必要であったかと… 燃料は木材でいけるんでしょうか? 滋賀は妄想ワールドです。 先日日吉大社で腰掛けて琵琶湖眺めながらボーっと妄想しました。
継体持統という四字熟語があって、皇統存続が危うい時に即位して存続を救ったのが継体天皇、持統天皇だということだ。
継体天皇はまあ、あとからつけた漢風諡号だから当代の人がつけた持統天皇って名前はやばいよね。天武がXXってことで天智系の血を女系でのこすことがって話がある。
持統女帝は 天智天皇の第二皇女で 叔父の天武天皇に嫁いだので 皇位を継ぐのに何の問題もなかった
普通に考えて、天皇に迎える人に対していきなり大勢の軍勢を差し向けるってのが異常なんだよなぁ。語られていない血生臭い事情があったんだろうな。
この時代に応神天皇の5世孫がいるとの情報はどこから得たのでしょうか?
創作 創作 (笑)
王朝の交代って言われる方が納得できる
5世孫は殆ど赤の他人だし、その後の5代の間に養子を取っているだろう。万世一系はあり得ない。継体朝は武烈朝の家臣が作った別王朝だよね。
まあ、イエスキリストとムハンマドも釈迦も秦の始皇帝も歴史上の人物。今を生きる我々には実在した証拠など知る術もない。
当時、越前、琵琶湖周辺の近江が先進地域だったと言う事?自分は愛知の三河地域の地下(じげ)の者ですが、生前祖父から、動画に出てきた琵琶湖畔の地域から「東下り」した人たちの一派がルーツなのではという事を聞かされた。何故か町内の歴史には「東下り」からの伝承がことさら伝わっている。こじつけでも古の時代の文化の伝承が越前、近江からの「東下り」にある事に浪漫を感じる。
継体天皇のお話わかりやすい解説ありがとうございます。以前 枚方の楠葉に住んでました。 交野天神社の奥に継体天皇の樟葉宮跡があります。 住宅街に接していて え?こんなところに? っていう感じです。 その史跡のせいで継体天皇に興味を持つようになり いろいろ調べました。 本編で解説の通り謎の多いスメラミコトです。古代の歴史や時代背景を妄想するきっかけとなりました。皇統の疑問 疑惑を考察する上で継体天皇をとても重要視しています。本編を拝見してやや違う見解もありますが おおむね共鳴します。久々に胸のすく考察に出会いました。これからも歴史に興味を持ちはじめるきっかけとなるような動画期待します。
そのすぐ横にある中学校出身の者です。神社の方にも縁があります。宮跡の辺りは喧騒から外れ、神域というべき雰囲気を保っています。この大王の行動範囲は陵墓に至るまでだいたいこのエリアを中心にされていて地政学的にも河内摂津への見渡し、山城近江方面にもアンテナを張ってる感じで興味深いですね。いずれにせよ現皇統につながる地で育ったことで、日本史の重みに厳粛な思いを抱いています。
@@kichilsi8028返信ありがとうございます。それはそれは…交野天神社の特有の雰囲気は言葉では表現できません。ご存知ですか?その交野天神社 かつて天文台の役割をしていたらしい事。 北摂地域の星にゆかりのあるお宮を線で結ぶと北斗七星。そして交野天神社が北極星。不思議です。ちなみに二人の娘のお宮参りは交野天神社でした。その中学卒です。
3年位前にアップされてた多文化人間?の焼き直しでした。ゆっくり解説の同系列のチャンネル。コメント欄はそちらも貴重なお話多いです。
5世孫てほぼ他人だからね。家系図を誰からか買ったのか僭称したのかも分からん。徳川家康が自分の先祖調べたけど、ただの浮浪僧だった逸話は面白い。
2世代前の天皇がことごとく 王族を殺したから 近かったら殺されていたかもね。
どこ情報?
古代史のタブーって、まだ文科省では生きてるんでしょうね。
光格天皇とかも曾孫とか、男系であるか、皇族であるかの話
8親等くらい離れた天皇いるよ
AD506年迄は近畿地方中央部を支配していた神武系列の豪族が大和政権を名乗っていた。507年越前地方王である継体が西日本一帯から近畿地方まで平定し大王を名のった。これが大和政権日本の始まりである。従って継体天皇が日本国平定の初代天皇である。
動画の最後に出てくる月桂洞1号墳には10年くらい前にバックパッカーで韓国をほぼ一周した時に行って来ました😊。古墳の横に空いている石室の覗き場所から中を覗いていたら…近くの事務所から職員みたいな人が出てきた。この古墳へはKTX光州駅近くからバスにのり古墳最寄りバス停から徒歩10分くらいです🤗。アプローチ難易度はやや高いですが好奇心とコネスト韓国地図があれば何とかなります。因みに私はハングルは読めないです。
この継体天皇の皇位継承と、平将門は同じだから平将門が、新皇に即位したのも納得する。
まず、名前のヲホドが神聖すぎて草
継体という名前が皇統の断絶を意味するはずである。つまり途絶えた皇統を継承した天皇というおくり名である。継体持統といわれるように持統天皇は途絶えたものを元に戻した意味合いを感じる。
は?
これ、現代の話のように思えるのは俺だけか・・・。
そもそも継体ではじめて他豪族を従える皇系が成立したと考えるとわかりやすい。大和朝廷はそれまでは豪族連合でその時々で血統関係なくトップが変わってたんでない?証拠が出ることないから謎解きが続くだけだけど。
大和の豪族に認められるかどうかが天皇になれるかどうかだったんでしょうね
継体天皇の頃は外国人勢に上層部を牛耳られて半ばクーデターみたいなものだった、となんかの本で読んだ事もある。
継体天皇の時代に数万人の帰化人が日本列島に入ってきて、それが現在日本人のDNAの約半分を占めているそうだ。
継体天皇は皇室の始祖ではないがw継体天皇以前の天皇に仕えた重臣氏族らがそのまま残っているということは、王朝の交代はなかったということ。
不勉強過ぎる。そもそも、ヤマト王権で血縁により大王の継承や交代をやっていた証拠は無いので、継体天皇が血縁的には現在の皇室の始祖になるのは事実。したがって、重臣とかに変化が無いのは当たり前。
それな。継体の話になるとよく王朝交替だって騒がれるけど、大伴氏も物部氏も継体以前から大王家と関わりの深かった豪族であって、継体が本家と血縁が遠いというだけで王朝交替があったというのは、あまりにも乱暴すぎると思うw
中国で王朝交代が起こっても重臣氏族があまり変わらない例はあるんで、それは根拠にはならないんじゃない?
@@yonyon-i6z あまりって何w曖昧な表現だからどの程度か解らないだろwなんていう王朝wそれとな、そのまま残ってるのとあまり変わらないを一緒にするなよw
@@ほんどたぬき-p9k じゃあ、日本に関して考えても良いと思うけど、織田⇒豊臣政権に移行したときに大名が変化してるか?ほとんど変わってないべ。要するにどのように政権が移行したのかによっては変化しないって事よ。
越前はコメ取れたし!海の幸とれたし 山の幸取れた。川をつかい 海外と貿易し富あった わざわざめんどくさい 京に行く必要なかった。
継体天皇が即位したという樟葉宮(くずはのみや)はウチの近所。
だからなに?
@@ごうだきゃんたま 妙な親近感だけある。どんな人か謎だけど。
桓武天皇って天智天皇ともかなり血統離れてませんか、そう考えるとそんな血統的に問題あるとは思わないけどなあ
まあ一応桓武の父光仁が天皇に即位していて、光仁は施基皇子の子で天智の孫だから、天智の曾孫ですね
ケータイ天皇は草
建前では継体以降は繋がってますん
建前ではね
@@PK-rl2jkその建前が歴史として重要だったという事繋がってないと簡単に切り捨てるのは短絡的
嘘つき
万世一系ファンタジー
継体が応神五世っていうのは創作ですよね。五世紀の大王家は血縁世襲が確立してなかったというのが、定説だし。
何故に操作?と思うのです?昔は 王子 皇女が沢山いたと思います。その子らが、地方豪族に婿養子てきにいったでしょう。豪族も天皇家の血が欲しい…子らも 後ろ盾がほしい。だから都市から近い順に宮をたて しだいに 土地に馴染んで行ったと思います。誇りもあったでしょう。だいたい オホド王は行く気なかったんだし。
@@ミイナ-d2t 五世紀代には、天皇家、つまり大王家がまだ確立しておらず、コロコロと大王家が変動しており、複数の王族が居たというのが定説になってます。オホド王は、仁徳系統の王族とは別の系統の王族だったのです。記紀は八世紀の成立で、その時には、もう天皇家が確立していたので、正当化を計るために、記紀では血が繋がっているように書かれたのです。
『継体』名は体を表す武烈と継体の間には『何か』が、あったのでしょうなにがあったかはおそらく皇室御一家には言い伝えがあるはず、ご存じなはずです
地方を治めていた立場から急に天皇になってくれって件が、漢の文帝の即位に似てるのはたまたまかな。
日本書紀仁徳天皇の民のカマドの話は中国に原典がある
純粋に天皇家の越前分家って筋はないんか?
天皇陛下を務める方は、民と国を尊び世界平和と安寧を祈られる方が、相応しい。
継体天皇 諡号の事く皇統を引き継ぎ体制を作り直して欽明天皇に引き継がせた方です。血統的には武烈天皇の姉を皇后に迎えて前天皇家の血脈を欽明天皇で繫がって行ってますから血統的にも継体しています。開花系は継体天皇の前妻の子供達なので欽明天皇と二頭両統かもしくは即位していない可能性が高いです。継体天皇は畿内を転々としながら二十年の期間掛けて畿内の有力豪族を従えたり賀茂氏の力奪って奈良に都を定めて現在に至っています。
画像・写真の服は漢服ですか、チョゴリですか?
実力だけで皇位(大王位)にはつけないのではないか。血統ということで推戴されやすかったと思う。そして武烈天皇姉の手白香皇女が皇后となりその間の欽明天皇に受け継がれることで傍系と直系の融合を演出した。
当時の王権は血縁関係ではなく実力次第で大王に成れた、っていうのが現在の学会では有力な説です。
@@kensugi2325 じゃあ継体以降はなんでその慣習が無くなったかの説明がついてないから有力とは言えないよそれそもそも血縁関係重視してないならなんで手白香皇女を皇后にしたの?
@@tamu7626 記紀の編纂の頃には万世一系の思想が出来上がっていたから。そもそも血縁があると書いてあるのは記紀だけやぞ。宋書倭国伝は、倭王の続柄は書いてないので、倭王に血縁は無い。宋書倭国伝は同時代資料だが、記紀は8世紀の成立で、信憑性は低い。手白香皇女を娶ったのは、王権を引き継ぐって意味があった。権力者と婚姻を結ぶのは、今も昔も珍しくない。重要なのは、当時は血縁は重視されず、実力や素質で選ばれており、継体に血縁は無い。
継体天皇陵で間違いのない今城塚古墳、地震や戦乱での損壊があるものの、現代では発掘調査され整備された公園になっている。損壊した古墳でこのように古代史の解釈にヒントが得られるのだから、やはり、もう少し天皇陵や陵墓参考地の発掘は進めるべきかと。とりあえず宮内庁の言う継体天皇陵は掘るしかないのでは??
崇神だ継体だというけど豪族の変動がない以上、妄想でしかないだろう
崇神が実在したという事自体が妄想ですが。
それ偏見だよ@@kensugi2325
@@kensugi2325偏見だわ。
@@ミイナ-d2t 偏見って、実在した証拠がないのが証拠です
おじゃまします。諸説あります。アメノミナカヌシが実在した説もあれば ウガヤフキアエズ王朝説 渡来説 帰化説もいろんなところから…近年でも明治天皇の真偽に異を唱える説まで。確実と思われる説もその後の発見で覆る事も。自由にご意見を発信されるべきとおもいます。同時に互いを敬う気持ちを持って頂きたく思います。
逃げられたというのは怪しいな。傀儡になりそうな奴を探していたんだろうな。
5世孫の信ぴょう性より、なぜ応神の血統を名乗ったのかが問題じゃないかな。高祖として神武や崇神より応神を選んだのは、応神がそれ以前の大王家と断絶しているか、当時は神武や崇神の伝承が存在していなかったからとも思える。
俺も思ってたよ。西洋のゲルマン民族大移動みたいな事が東洋でも起こっていたと。歴史は繋がってるから
ヲホド大王は、覇気のある朝倉義景みたいな者だったと俺は思ってる。
古事記は同じ神話が違う形で何度も出てくる。違う豪族の神話を寄せ集めて縦に並べ替えたと読むと納得いくけど、まあ、素人の感想でしかない。
倭の五王を記紀の天皇に当てはめるのが無理くりなんよ(´・ω・`)当時の倭王(磐井の君)ヤマトの王(継体)とか天智天皇もクーデターだったんじゃない?天武天皇もね。古代日本史は色々書き直しが行われているのでしょう。
王が血統で継承されないとすれば、中華世界では革命ないしは王位を簒奪したことになるから、それに言及しないということは考えにくい。
五世孫って もはや他人じゃん。😅まぁ天皇家が血縁が繋がって無いってんじゃ不味いので 五世孫って事にしたんだろうな。
桓武天皇もそんくらい系譜離れてませんでしたか?天智天皇と四代孫ですよ、そう考えるとそれほどではないと思いますが
むしろなんでそこまで血縁関係にないって主張するのかが不思議なんだよねこういう事言う人はなんか根拠があるわけでもない個人の感想だし
隅田八幡宮 "すみだ"ではなく"すだはちまんぐう"と読みます。
我が県所縁の人物が天皇になったのは何気に自慢…
イチロー...
大昔で医療もほとんど発達していなかっただろうから、男の子が生まれても無事成長するのはごくわずかだったんじゃないのかな。また平均寿命も短かっただろうしね。よく継体の子孫もよく血筋が絶えずに今日までつながったと思います。
携帯天皇!?
本当につながっているならわざわざ継体なんて名前は付けない。持統も同じである。天智と天武では明らかに系統が違っていて、天武の系統を天智系に戻したから持統という名前が付いた、
歴史学者・考古学者のご苦労はいちおう認めるが。ご苦労なさったから真実に到達なさっているかどうかは別の話。
明治天皇はともかくも。その前、孝明天皇肖像画なんて、明治天皇すりかえのために後に描かれたウソ画像。それ以前とか「推して知るべし」。画像が他にないから仕方ないかも知れないけれど。「伝・・・」の字ぐらい付けておいてほしい。まちがって伝わってゆく。
五世孫だと、桓武平氏だと桓武天皇から平将門がその位置にあたる。
13:26「長男でもないのに『太郎』って名前なんてなかなか付けないよね。」と言っていたけどSixTONESの森本慎太郎はお兄ちゃんと妹がいる次男だよね
弥生時代の人たちは何処に行ったのでしょうか?😊
継体が越前に在住時、越前を統治していたと言うのは誤解です。当時の越前の大首長は、九頭竜川対(南)岸の松岡古墳群の二本松山古墳であり、養育地の集団はその下部の一地域集団に過ぎない。天皇の出生地は近江の高島市三尾里(父の彦主人王の墓は、陵墓参考地・田中王塚古墳が合致)、養育地は越前の坂井市丸岡町高田周辺(明治まで高椋ータカホコー村)。近年、継体の母・振媛の母方の里である加賀(元・越前国に属す)江沼郡の江沼臣(武内宿禰の七男)の墓かと推定され、二子塚狐山古墳に認められる考古学的諸事象と、『日本書紀』『先代旧事本紀(国造本紀)』『新撰姓氏録』など諸書が記す伝承とも背反しないので、仮に血は薄くなっていたとしても「王朝交替説」は成立困難です。したがって、学問的には実在の初の天皇とされる崇神以来1700年ばかり皇統が続いた事になります。また、先年「継体紀」に登場し、半島派遣将軍である「近江毛野臣」の墓もほぼ特定されるなど、『日本書紀』が歴史的諸事実を比較的良く伝えている事が判明しています。なお、継体支持基盤である越前・近江の各首長墳に、九州・筑後を中心とした墓制である「石屋形(イシヤカタ)」が敷設されている事は、良く調べましたね。つまり、継体の皇位就任前、「大伴連」「尾張連」のほか、「筑紫君」自体も継体擁立のフィクサーであったのではないか、との推定が可能になります(後、その強盛が政権の邪魔になり、「磐井の乱」を契機に排除されたものか)。
継体天皇、淡墨桜の伝承に出てくるので、拝見しました。 尾張氏を祀る真清田神社に生えてたという記事を見ました。又、福井に行く際に迎えに来た方ね子孫が、津島神社の宮司の氷室家の先祖だという伝承があるそうです。尾張氏からは源頼朝の母方の先祖にあたります。 ちなみに真清田神社の宮司は北条得宗家の子孫の方です。
こんにちは
今の天皇家は継体の血統でもあるし、母系を通して仁徳から仁賢までの系統も入ってるよ。書紀によれば
系統が違うならわざわざ僭称する必要はなく越の国に天下った聖なる大王と名乗れば良い。そうしなかった理由とは実際に大和の王権の末裔だったか越前がよっぽどイヤだったかのどちらかしか無い。
出雲口伝だと継体天皇の正体について言及されていますね。蘇我家は武内宿祢の子孫ですが、本来は渡来系最高位の連であるはずなのに、カバネが臣になっています。これには理由があるのですが、とりあえず出雲系の臣が現在の皇室の系統になっています。北陸蘇我家はこの臣になった経緯により、出雲の王朝と親戚関係になっていました。島根の松江に王宮のあった系統の方の出雲の旧王朝の家から北陸蘇我家に養子入りしたのが富家の太彦。彼がオホドになったそうです。北陸蘇我家の振姫は彼の最初の奥方で、大王職継承に関して、振姫と離縁して前政権の娘を嫁に貰うように言われた経緯で血筋が二つに分かれました。葛城氏は、同じく武内宿祢の子孫で、仁徳~武烈までの大王の親戚でした。何故継体天皇を説得する為に物部氏までが来たかと言うと、元々武内宿祢が物部氏であったからです。神武から開化までが男系物部(本来の海幸彦:海部)崇神から仲哀の前までが男系物部(山幸彦:物部)の政権でした。武内宿祢は崇神の時代の人物で、物部宿祢武内彦が本来の役職で、当初は臣姓ではありませんでした。本来の天皇家と血筋が無関係であったのは、物部の役職の宿祢になっていた武内宿祢の方でした。
都と言うから分かりにくい、大本営と考えれば分かり易そう。
ケータイ?
流石に皇統を保たない地方豪族が皇位を簒奪出来る程栄えていたとは考え難いよな。しかも中央の豪族を引込める程の財力となると尚更。
当時は古墳時代で、まだ一つの王統が完成しておらず、いくつかの有力な王統が幾つもあって、その中から選んでいた説が有力です。つまり、継体は仁徳系統とは血のつながりが無い、別系統の可能性が高いです。
>まだ一つの王統が完成しておらず>いくつかの有力な王統がいくつもあって講釈師、見てきたような嘘をつき
継体ダイオーが皇位を簒奪シター!とか主張する人に聞きたいのは、当時北陸には中央(大和)を圧倒するような武装勢力でもいたんですか?ということですかねそれとも戦争も起きず、融和的におとなしく征服されでもしたのでしょうか?ケンポー9条様々ですね
教科書で習った日本の昔話はめっちゃ後書きで事実がもみ消されてるなんて沢山あるのかな。歴史好きなのに、都合良く変えられてた物語ならなんか虚しいわ。。
もし悠仁さまに男の子が生まれず男子を養子にとって、その養子が天皇に即位したときには、元号は「後継体」で決まりだねw
ゴメンナサイ。継体のでじの説明で何にも説明できてませんけど?滅茶苦茶な日本書紀の記述を疑問的には言っていますが、歴史学者と同じ事を言っているだけ。残念です
遠いとか近いとかは関係ないのです‼️男系を遡って神武天皇に到達すれば良いのです‼️
いやこれを外圧に弱いって・・こんなんどこでもある話やん。ダメだなここの文章書いてる人。業者さんから外注してるんだろうけど適当すぎません?
ふむー😮
五世の孫は薄いし、越の国は遠いですねー。
一般的に実在したといわれてるのは10代崇神天皇からだが、この動画では16代仁徳天皇から実在ということにして、その血を継いでいない継体天皇は簒奪者扱いして万世一系を否定というわけですか
こんなことありえんのかー。日本終わってるわ
日本終わってるわ。ある意味 ここで終わって…ここから始まりました とさ。
じつに1500年以上。依然として世界最長の王朝であることにかわりない。
隅田八幡神社 藏노 人物畵像鏡 銘文에 依하면 繼體天皇(男弟王, 男大迹尊)은 百濟 武寧王의 弟이며 兄弟間 이며 百濟 昆支王은 武寧王의 父親 입니다.
紀元前660年頃、確かに皇室の祖先であらしゃいます出雲王国の初代大穴持(帝)に菅(スガ)の八耳命が周囲から推戴されて登極遊ばされ即位なさった事に変わりはありません。が、場所は出雲(多分、松江市)紀元前の奈良盆地には広大な湖沼が満々と湖水を湛えていた事が既に古地理学や考古学から判明しています。古事記の嘘(8世紀に古代の奈良盆地が水浸しどころか湖に覆われていた事が忘却されていた痛恨のミス)がバレバレ。
どんなにいちゃもんをつけられても万世一系に変わりはない!最近の奴は捻くれてんなーw
その「ばんせいいっけい」にこだわるのはなぜですかw
私はやはりお釈迦様のラゴーラ様や滅んだ釈迦族様がたさまが修行の為また復活してほしいですなぜなら須佐之男命様は釈迦族から離れた神々様がたさまだからです。♪🎵♪🎵♪🎵。
継体天皇 字の如しなんですね 昔も今も皇統を繋ぐのは大変だったのですね。
古代史はミステリーより面白い。感謝。
継体天皇について知りたいと思っていて調べたらちょうど1日前に投稿されたこの動画が出てきて助かった
雄略天皇や武烈天皇が史書(日本書紀)の中で夏桀殷紂と同様な記述がされていることを考えると、継体天皇によるクーデターもしくは内紛的な争いがあったんじゃないかと考えてしまいますね。
日本書紀では、武烈天皇に継嗣がないので遡って天皇の血を引く賢者である継体を探しだし迎えにいった、とあるんですが
@@ああ-p1l6t
天皇の血を引く奴なんて王権の周囲にいくらでもいるのに、なぜあえて応神とかいう伝説上の人物の血を引くと自称する部外者(越前の人間)を採用したのですかね?
あきらかに中国的な易姓革命でしょう。当時の王がろくでもないからクーデタが起きたんですよ。それを日本書紀の著者がご都合主義で歴史捻じ曲げただけ。
平将門が新皇を称したのも桓武天皇「五世の孫」と言う血縁を根拠としてるのでひょっとして継体天皇にあやかったのかも。
よくわからないけど、中国にあった「天命思想」という理念を平将門が感銘を受けたって聞いたことある
その説は聞いた事ありますよー
八百万の神、八岐大蛇の「八」は多い、大きいの意味で実数を表さないのと同様に五世孫は「(血縁の定かでない)遠い親戚」を意味すると解釈もできる。
🎉
このような動画があったんですね。我が故郷の高槻市が誇る今城塚古墳は、それそれは立派な前方後円墳です。今ではきちんと整備されてますが昔は堀で釣りできたんですよ。ヘラブナとブラックバスの棲み分けもできてて釣り場としては良い環境でしたね。
茨木市にある継体天皇藍野陵は、ちょっと時代が古い様式の前方後円墳。「延喜式」によれば、継体陵は「島上郡」にあるとのこと、しかしながら当時の条里で言えば、藍野陵は「島下郡」にある。で、島上郡にある相当規模の墳墓は、「今城塚古墳」ということになる。
キーパーソン 手白香皇女
当時は女性皇族の血🩸が大事 皇族としか結婚できないから血が濃かった。
継体天皇の皇后さまは先代の武烈天皇のお姉さんですね
韓国(ハングッ)時代劇ドラマ 帝王の娘 スベクヒャンのモデルにされてます。
高島の西の山を越えた隣の丹波国何鹿郡は古代には「漢部(あやべ)」とされて「漢氏(あやうじ)」という渡来系の人々がいたそうです。
古代から繊維産業や茶の栽培が盛んな地域で現在まで受け継がれています。
また、丹後半島には巨大な古墳群があり、大和王朝とは独立した王朝が合ったのではと言った説もあります。
若狭湾一帯は大陸貿易の拠点だったのではないかとのことです。
25分ほどの動画ですが、真偽は確認必要な箇所もあるかもしれませんが 労作です。ありがとうございます。UA-camで このような内容を拝見できる良い時代に感謝します。なんだかんだと言っても 私は 昔の天皇よりも 良い生活をおくらせてもらっていると思っているので 先人に感謝です。国民は、みんな天皇陛下のはらから(子供)というのは、素晴らしい。この日本を継続してほしい。人間同士が、○し会うのは。愚かしい。(深く拝見していないので失礼を省みず 地図で 日本海が 東海となっていたようで 気になりました。)
近江大津宮近くの古墳群の発掘調査に参加したことがあるのですが、武具関係の出土が少なく金銀の宝飾品が数多く出てきました。また古墳群のそばに住居跡が見つかり、オンドルと呼ばれる中国東北部から朝鮮半島に見られる床下暖房が見つかりました。武具があまり出てこなかった事で、この古墳の豪族は何らかの政治的に守られた人達であったと考えられ、また琵琶湖のそばでなく高台で生活をされていたことから、敵対する何かを気にしながら生活した様子が伺えるものでした。
また琵琶湖西岸は和邇氏の勢力範囲で、記紀によれば、和邇氏出身とする娘が、開化,応神、反正、雄略、仁賢、継体の各天皇「后妃」になったと書かれています。
記紀の編纂に大きな影響力があった持統天皇が育った近江大津宮は元は和邇氏の勢力範囲なので、和邇氏の枝氏である小野妹子を含めて、なるほど繋がりがあるのも分かります。
貴重な発掘調査の体験談。
大変参考になります。
ありがとうございます。
古代の豪族の勢力の変遷がおぼろげにうかびあがります。
歴史に興味を持ち始めた頃 なんで大津のこんなとこに都をおいたのか理解出来ませんでした。
蘇我氏の滅亡から天智天皇 天武天皇 持統天皇に至る流れの中で琵琶湖のほとりが重要な拠点となったと裏付ける出土に興味あります。
ちなみに 当方のアカウントの写真 安土城天守跡からみた琵琶湖です。
返信有難うございます。近江の古墳は小規模なものが多く、古墳時代後期に急速に発展したのではないかと考えられています。また近江は、沙沙貴山君、小槻山君、都怒山君といった◯◯山君と名付けれた豪族が多くいました。この◯◯山君は製鉄技術を持った豪族なので、古代においては鉄の争奪戦であったために、大和朝廷にとって婚姻関係を結ぶことで軍事力や経済力を強くするために鉄の奪い合いや協力関係に発展したと考えられています。近江と鉄についてピンと来ないと思われますが、製鉄を行うには大量の木材(火力)と大量の水が必要だったので、大和や河内に比べると近江は都合の良い立地と、若狭方面から渡来人もやって来ていたので古代の発展条件が整っていたと考えられます。
ありがとうございます。
鉄の獲得が勢力の変遷に深く影響したと考えます。
砂鉄の産地 材木 水がチカラの象徴と捉えています。
古代の勢力分布で見落とされがちな近江の豪族には興味深々です。
あと石材の切り出しの痕跡。近年まで石の産地として石垣や石仏はこれを担ってきた証と思われます。安土城にあれだけ石材を調達できたのは驚きでした。
滋賀には記紀とは違う伝承があります。
神話も然り アメノワカヒコは美濃で戦死なされたと神社の口伝があったり イザナギ イザナミが多賀大社でお祀りされていたり…
琵琶湖の形が淡路島と180度反転させた形と相似だったり…
妄想のタネつきません。
最近の発掘調査では製鉄のために砂鉄ではなく鉄鉱石から製鉄していたことも分かってきました。鉄鉱石を見つけるには地層についての知識も必要でした。また古墳築造をしていた末裔が穴太衆になったのではと考えられています。そして近江は石造美術が日本一多いとも言われています。一度見たら一生忘れられないと言われる石塔寺の石塔群、滋賀の寺社に行けばよく目にする宝筺印塔、京阪上栄町駅近くの長安寺には国の重要文化財である牛塔も、さり気ないお寺にさり気なくあったりします。
鉄鉱石からの製鉄技術がすでにあったとは驚きです。 詳しくはわかりかねますが おそらくかなりの高温が必要であったかと… 燃料は木材でいけるんでしょうか?
滋賀は妄想ワールドです。 先日日吉大社で腰掛けて琵琶湖眺めながらボーっと妄想しました。
継体持統という四字熟語があって、
皇統存続が危うい時に即位して存続
を救ったのが継体天皇、持統天皇だと
いうことだ。
継体天皇はまあ、あとからつけた漢風諡号だから
当代の人がつけた持統天皇って名前はやばいよね。
天武がXXってことで天智系の血を女系でのこすことがって話がある。
持統女帝は 天智天皇の第二皇女で 叔父の天武天皇に嫁いだので 皇位を継ぐのに何の問題もなかった
普通に考えて、天皇に迎える人に対していきなり大勢の軍勢を差し向けるってのが異常なんだよなぁ。
語られていない血生臭い事情があったんだろうな。
この時代に応神天皇の5世孫がいるとの情報はどこから得たのでしょうか?
創作 創作 (笑)
王朝の交代って言われる方が納得できる
5世孫は殆ど赤の他人だし、その後の5代の間に養子を取っているだろう。万世一系はあり得ない。継体朝は武烈朝の家臣が作った別王朝だよね。
まあ、イエスキリストとムハンマドも釈迦も秦の始皇帝も歴史上の人物。今を生きる我々には実在した証拠など知る術もない。
当時、越前、琵琶湖周辺の近江が先進地域だったと言う事?自分は愛知の三河地域の地下(じげ)の者ですが、生前祖父から、動画に出てきた琵琶湖畔の地域から「東下り」した人たちの一派がルーツなのではという事を聞かされた。何故か町内の歴史には「東下り」からの伝承がことさら伝わっている。こじつけでも古の時代の文化の伝承が越前、近江からの「東下り」にある事に浪漫を感じる。
継体天皇のお話
わかりやすい解説ありがとうございます。
以前 枚方の楠葉に住んでました。 交野天神社の奥に継体天皇の樟葉宮跡があります。 住宅街に接していて え?こんなところに? っていう感じです。 その史跡のせいで継体天皇に興味を持つようになり いろいろ調べました。 本編で解説の通り謎の多いスメラミコトです。
古代の歴史や時代背景を妄想するきっかけとなりました。
皇統の疑問 疑惑を考察する上で継体天皇をとても重要視しています。
本編を拝見してやや違う見解もありますが おおむね共鳴します。
久々に胸のすく考察に出会いました。
これからも歴史に興味を持ちはじめるきっかけとなるような動画期待します。
そのすぐ横にある中学校出身の者です。神社の方にも縁があります。
宮跡の辺りは喧騒から外れ、神域というべき雰囲気を保っています。
この大王の行動範囲は陵墓に至るまでだいたいこのエリアを中心にされていて
地政学的にも河内摂津への見渡し、山城近江方面にもアンテナを張ってる感じで興味深いですね。
いずれにせよ現皇統につながる地で育ったことで、日本史の重みに厳粛な思いを抱いています。
@@kichilsi8028
返信ありがとうございます。
それはそれは…
交野天神社の特有の雰囲気は言葉では表現できません。
ご存知ですか?その交野天神社 かつて天文台の役割をしていたらしい事。 北摂地域の星にゆかりのあるお宮を線で結ぶと北斗七星。そして交野天神社が北極星。不思議です。
ちなみに二人の娘のお宮参りは交野天神社でした。
その中学卒です。
3年位前にアップされてた多文化人間?の焼き直しでした。ゆっくり解説の同系列のチャンネル。
コメント欄はそちらも貴重なお話多いです。
5世孫てほぼ他人だからね。
家系図を誰からか買ったのか僭称したのかも分からん。
徳川家康が自分の先祖調べたけど、ただの浮浪僧だった逸話は面白い。
2世代前の天皇がことごとく 王族を殺したから 近かったら殺されていたかもね。
どこ情報?
古代史のタブー
って、まだ文科省では生きてるんでしょうね。
光格天皇とかも曾孫とか、男系であるか、皇族であるかの話
8親等くらい離れた天皇いるよ
AD506年迄は近畿地方中央部を支配していた神武系列の豪族が大和政権を名乗っていた。
507年越前地方王である継体が西日本一帯から近畿地方まで平定し大王を名のった。
これが大和政権日本の始まりである。従って継体天皇が日本国平定の初代天皇である。
動画の最後に出てくる月桂洞1号墳には10年くらい前にバックパッカーで韓国をほぼ一周した時に行って来ました😊。古墳の横に空いている石室の覗き場所から中を覗いていたら…近くの事務所から職員みたいな人が出てきた。この古墳へはKTX光州駅近くからバスにのり古墳最寄りバス停から徒歩10分くらいです🤗。アプローチ難易度はやや高いですが好奇心とコネスト韓国地図があれば何とかなります。因みに私はハングルは読めないです。
この継体天皇の皇位継承と、平将門は同じだから平将門が、新皇に即位したのも納得する。
まず、名前のヲホドが神聖すぎて草
継体という名前が皇統の断絶を意味するはずである。
つまり途絶えた皇統を継承した天皇というおくり名である。
継体持統といわれるように持統天皇は途絶えたものを元に戻した意味合いを感じる。
は?
これ、現代の話のように思えるのは俺だけか・・・。
そもそも継体ではじめて他豪族を従える皇系が成立したと考えるとわかりやすい。大和朝廷はそれまでは豪族連合でその時々で血統関係なくトップが変わってたんでない?証拠が出ることないから謎解きが続くだけだけど。
大和の豪族に認められるかどうかが天皇になれるかどうかだったんでしょうね
継体天皇の頃は外国人勢に上層部を牛耳られて半ばクーデターみたいなものだった、となんかの本で読んだ事もある。
継体天皇の時代に数万人の帰化人が日本列島に入ってきて、それが現在日本人のDNAの約半分を占めているそうだ。
継体天皇は皇室の始祖ではないがw
継体天皇以前の天皇に仕えた重臣氏族らがそのまま残っているということは、王朝の交代はなかったということ。
不勉強過ぎる。
そもそも、ヤマト王権で血縁により大王の継承や交代をやっていた証拠は無いので、継体天皇が血縁的には現在の皇室の始祖になるのは事実。
したがって、重臣とかに変化が無いのは当たり前。
それな。継体の話になるとよく王朝交替だって騒がれるけど、大伴氏も物部氏も継体以前から大王家と関わりの深かった豪族であって、
継体が本家と血縁が遠いというだけで王朝交替があったというのは、あまりにも乱暴すぎると思うw
中国で王朝交代が起こっても重臣氏族があまり変わらない例はあるんで、それは根拠にはならないんじゃない?
@@yonyon-i6z あまりって何w曖昧な表現だからどの程度か解らないだろwなんていう王朝w
それとな、そのまま残ってるのとあまり変わらないを一緒にするなよw
@@ほんどたぬき-p9k じゃあ、日本に関して考えても良いと思うけど、織田⇒豊臣政権に移行したときに大名が変化してるか?
ほとんど変わってないべ。
要するにどのように政権が移行したのかによっては変化しないって事よ。
越前はコメ取れたし!海の幸とれたし 山の幸取れた。川をつかい 海外と貿易し富あった
わざわざめんどくさい 京に行く必要なかった。
継体天皇が即位したという樟葉宮(くずはのみや)はウチの近所。
だからなに?
@@ごうだきゃんたま
妙な親近感だけある。どんな人か謎だけど。
桓武天皇って天智天皇ともかなり血統離れてませんか、そう考えるとそんな血統的に問題あるとは思わないけどなあ
まあ一応桓武の父光仁が天皇に即位していて、光仁は施基皇子の子で天智の孫だから、天智の曾孫ですね
ケータイ天皇は草
建前では継体以降は繋がってますん
建前ではね
@@PK-rl2jk
その建前が歴史として重要だったという事
繋がってないと簡単に切り捨てるのは短絡的
嘘つき
万世一系ファンタジー
継体が応神五世っていうのは創作ですよね。
五世紀の大王家は血縁世襲が確立してなかったというのが、定説だし。
何故に操作?と思うのです?
昔は 王子 皇女が沢山いたと思います。
その子らが、地方豪族に婿養子てきにいったでしょう。豪族も天皇家の血が欲しい…子らも 後ろ盾がほしい。だから都市から近い順に宮をたて しだいに 土地に馴染んで行ったと思います。誇りもあったでしょう。
だいたい オホド王は行く気なかったんだし。
@@ミイナ-d2t 五世紀代には、天皇家、つまり大王家がまだ確立しておらず、コロコロと大王家が変動しており、複数の王族が居たというのが定説になってます。
オホド王は、仁徳系統の王族とは別の系統の王族だったのです。
記紀は八世紀の成立で、その時には、もう天皇家が確立していたので、正当化を計るために、記紀では血が繋がっているように書かれたのです。
『継体』
名は体を表す
武烈と継体の間には『何か』が、あったのでしょう
なにがあったかはおそらく皇室御一家には言い伝えがあるはず、ご存じなはずです
地方を治めていた立場から急に天皇になってくれって件が、
漢の文帝の即位に似てるのはたまたまかな。
日本書紀仁徳天皇の民のカマドの話は中国に原典がある
純粋に天皇家の越前分家って筋はないんか?
天皇陛下を務める方は、民と国を尊び世界平和と安寧を祈られる方が、相応しい。
継体天皇 諡号の事く皇統を引き継ぎ体制を作り直して欽明天皇に引き継がせた方です。
血統的には武烈天皇の姉を皇后に迎えて前天皇家の血脈を欽明天皇で繫がって行ってますから血統的にも継体して
います。
開花系は継体天皇の前妻の子供達なので欽明天皇と二頭両統かもしくは即位していない可能性が高いです。
継体天皇は畿内を転々としながら二十年の期間掛けて畿内の有力豪族を従えたり賀茂氏の力奪って奈良に都を定めて現在に至っています。
画像・写真の服は漢服ですか、チョゴリですか?
実力だけで皇位(大王位)にはつけないのではないか。血統ということで推戴されやすかったと思う。
そして武烈天皇姉の手白香皇女が皇后となりその間の欽明天皇に受け継がれることで傍系と直系の融合を演出した。
当時の王権は血縁関係ではなく実力次第で大王に成れた、っていうのが現在の学会では有力な説です。
@@kensugi2325 じゃあ継体以降はなんでその慣習が無くなったかの説明がついてないから有力とは言えないよそれ
そもそも血縁関係重視してないならなんで手白香皇女を皇后にしたの?
@@tamu7626 記紀の編纂の頃には万世一系の思想が出来上がっていたから。
そもそも血縁があると書いてあるのは記紀だけやぞ。
宋書倭国伝は、倭王の続柄は書いてないので、倭王に血縁は無い。
宋書倭国伝は同時代資料だが、記紀は8世紀の成立で、信憑性は低い。
手白香皇女を娶ったのは、王権を引き継ぐって意味があった。
権力者と婚姻を結ぶのは、今も昔も珍しくない。
重要なのは、当時は血縁は重視されず、実力や素質で選ばれており、継体に血縁は無い。
継体天皇陵で間違いのない今城塚古墳、地震や戦乱での損壊があるものの、現代では発掘調査され整備された公園になっている。
損壊した古墳でこのように古代史の解釈にヒントが得られるのだから、やはり、もう少し天皇陵や陵墓参考地の発掘は進めるべきかと。
とりあえず宮内庁の言う継体天皇陵は掘るしかないのでは??
崇神だ継体だというけど豪族の変動がない以上、妄想でしかないだろう
崇神が実在したという事自体が妄想ですが。
それ偏見だよ@@kensugi2325
@@kensugi2325
偏見だわ。
@@ミイナ-d2t 偏見って、実在した証拠がないのが証拠です
おじゃまします。
諸説あります。
アメノミナカヌシが実在した説もあれば ウガヤフキアエズ王朝説 渡来説 帰化説もいろんなところから…近年でも明治天皇の真偽に異を唱える説まで。
確実と思われる説もその後の発見で覆る事も。
自由にご意見を発信されるべきとおもいます。
同時に互いを敬う気持ちを持って頂きたく思います。
逃げられたというのは怪しいな。傀儡になりそうな奴を探していたんだろうな。
5世孫の信ぴょう性より、なぜ応神の血統を名乗ったのかが問題じゃないかな。高祖として神武や崇神より応神を選んだのは、応神がそれ以前の大王家と断絶しているか、当時は神武や崇神の伝承が存在していなかったからとも思える。
俺も思ってたよ。西洋のゲルマン民族大移動みたいな事が東洋でも起こっていたと。歴史は繋がってるから
ヲホド大王は、覇気のある朝倉義景みたいな者だったと俺は思ってる。
古事記は同じ神話が違う形で何度も出てくる。違う豪族の神話を寄せ集めて縦に並べ替えたと読むと納得いくけど、まあ、素人の感想でしかない。
倭の五王を記紀の天皇に当てはめるのが無理くりなんよ(´・ω・`)
当時の倭王(磐井の君)ヤマトの王(継体)とか
天智天皇もクーデターだったんじゃない?天武天皇もね。
古代日本史は色々書き直しが行われているのでしょう。
王が血統で継承されないとすれば、中華世界では革命ないしは王位を簒奪したことになるから、それに言及しないということは考えにくい。
五世孫って もはや他人じゃん。😅
まぁ天皇家が血縁が繋がって無いってんじゃ不味いので 五世孫って事にしたんだろうな。
桓武天皇もそんくらい系譜離れてませんでしたか?天智天皇と四代孫ですよ、そう考えるとそれほどではないと思いますが
むしろなんでそこまで血縁関係にないって主張するのかが不思議なんだよねこういう事言う人は
なんか根拠があるわけでもない個人の感想だし
隅田八幡宮 "すみだ"ではなく"すだはちまんぐう"と読みます。
我が県所縁の人物が天皇になったのは何気に自慢…
イチロー...
大昔で医療もほとんど発達していなかっただろうから、男の子が生まれても無事成長するのはごくわずかだったんじゃないのかな。また平均寿命も短かっただろうしね。よく継体の子孫もよく血筋が絶えずに今日までつながったと思います。
携帯天皇!?
本当につながっているならわざわざ継体なんて名前は付けない。
持統も同じである。
天智と天武では明らかに系統が違っていて、天武の系統を天智系に戻したから持統という名前が付いた、
歴史学者・考古学者のご苦労はいちおう認めるが。ご苦労なさったから真実に到達なさっているかどうかは別の話。
明治天皇はともかくも。その前、孝明天皇肖像画なんて、明治天皇すりかえのために後に描かれたウソ画像。それ以前とか「推して知るべし」。画像が他にないから仕方ないかも知れないけれど。「伝・・・」の字ぐらい付けておいてほしい。まちがって伝わってゆく。
五世孫だと、桓武平氏だと桓武天皇から平将門がその位置にあたる。
13:26「長男でもないのに『太郎』って名前なんてなかなか付けないよね。」と言っていたけどSixTONESの森本慎太郎はお兄ちゃんと妹がいる次男だよね
弥生時代の人たちは何処に行ったのでしょうか?😊
継体が越前に在住時、越前を統治していたと言うのは誤解です。当時の越前の大首長は、九頭竜川対(南)岸の松岡古墳群の二本松山古墳であり、
養育地の集団はその下部の一地域集団に過ぎない。天皇の出生地は近江の高島市三尾里(父の彦主人王の墓は、陵墓参考地・田中王塚古墳が合致)、
養育地は越前の坂井市丸岡町高田周辺(明治まで高椋ータカホコー村)。近年、継体の母・振媛の母方の里である加賀(元・越前国に属す)江沼郡
の江沼臣(武内宿禰の七男)の墓かと推定され、二子塚狐山古墳に認められる考古学的諸事象と、『日本書紀』『先代旧事本紀(国造本紀)』『新撰
姓氏録』など諸書が記す伝承とも背反しないので、仮に血は薄くなっていたとしても「王朝交替説」は成立困難です。したがって、学問的には実在
の初の天皇とされる崇神以来1700年ばかり皇統が続いた事になります。また、先年「継体紀」に登場し、半島派遣将軍である「近江毛野臣」の墓も
ほぼ特定されるなど、『日本書紀』が歴史的諸事実を比較的良く伝えている事が判明しています。なお、継体支持基盤である越前・近江の各首長墳
に、九州・筑後を中心とした墓制である「石屋形(イシヤカタ)」が敷設されている事は、良く調べましたね。つまり、継体の皇位就任前、「大伴
連」「尾張連」のほか、「筑紫君」自体も継体擁立のフィクサーであったのではないか、との推定が可能になります(後、その強盛が政権の邪魔に
なり、「磐井の乱」を契機に排除されたものか)。
継体天皇、淡墨桜の伝承に出てくるので、拝見しました。 尾張氏を祀る真清田神社に生えてたという記事
を見ました。又、福井に行く際に
迎えに来た方ね子孫が、津島神社の
宮司の氷室家の先祖だという伝承が
あるそうです。尾張氏からは源頼朝の母方の先祖にあたります。
ちなみに真清田神社の宮司は北条得宗家の子孫の方です。
こんにちは
今の天皇家は継体の血統でもあるし、母系を通して仁徳から仁賢までの系統も入ってるよ。書紀によれば
系統が違うならわざわざ僭称する必要はなく越の国に天下った聖なる大王と名乗れば良い。そうしなかった理由とは実際に大和の王権の末裔だったか越前がよっぽどイヤだったかのどちらかしか無い。
出雲口伝だと継体天皇の正体について言及されていますね。
蘇我家は武内宿祢の子孫ですが、本来は渡来系最高位の連であるはずなのに、カバネが臣になっています。これには理由があるのですが、とりあえず出雲系の臣が現在の皇室の系統になっています。
北陸蘇我家はこの臣になった経緯により、出雲の王朝と親戚関係になっていました。
島根の松江に王宮のあった系統の方の出雲の旧王朝の家から北陸蘇我家に養子入りしたのが富家の太彦。
彼がオホドになったそうです。北陸蘇我家の振姫は彼の最初の奥方で、大王職継承に関して、振姫と離縁して前政権の娘を嫁に貰うように言われた経緯で血筋が二つに分かれました。
葛城氏は、同じく武内宿祢の子孫で、仁徳~武烈までの大王の親戚でした。
何故継体天皇を説得する為に物部氏までが来たかと言うと、元々武内宿祢が物部氏であったからです。
神武から開化までが男系物部(本来の海幸彦:海部)崇神から仲哀の前までが男系物部(山幸彦:物部)の政権でした。
武内宿祢は崇神の時代の人物で、物部宿祢武内彦が本来の役職で、当初は臣姓ではありませんでした。
本来の天皇家と血筋が無関係であったのは、物部の役職の宿祢になっていた武内宿祢の方でした。
都と言うから分かりにくい、大本営と考えれば分かり易そう。
ケータイ?
流石に皇統を保たない地方豪族が皇位を簒奪出来る程栄えていたとは考え難いよな。
しかも中央の豪族を引込める程の財力となると尚更。
当時は古墳時代で、まだ一つの王統が完成しておらず、いくつかの有力な王統が幾つもあって、その中から選んでいた説が有力です。
つまり、継体は仁徳系統とは血のつながりが無い、別系統の可能性が高いです。
>まだ一つの王統が完成しておらず
>いくつかの有力な王統がいくつもあって
講釈師、見てきたような嘘をつき
継体ダイオーが皇位を簒奪シター!
とか主張する人に聞きたいのは、当時北陸には中央(大和)を圧倒するような武装勢力でもいたんですか?ということですかね
それとも戦争も起きず、融和的におとなしく征服されでもしたのでしょうか?
ケンポー9条様々ですね
教科書で習った日本の昔話はめっちゃ後書きで事実がもみ消されてるなんて沢山あるのかな。
歴史好きなのに、都合良く変えられてた物語ならなんか虚しいわ。。
もし悠仁さまに男の子が生まれず男子を養子にとって、その養子が天皇に即位したときには、元号は「後継体」で決まりだねw
ゴメンナサイ。継体のでじの説明で何にも説明できてませんけど?滅茶苦茶な日本書紀の記述を疑問的には言っていますが、歴史学者と同じ事を言っているだけ。残念です
遠いとか近いとかは関係ないのです‼️男系を遡って神武天皇に到達すれば良いのです‼️
いやこれを外圧に弱いって・・こんなんどこでもある話やん。ダメだなここの文章書いてる人。業者さんから外注してるんだろうけど適当すぎません?
ふむー😮
五世の孫は薄いし、越の国は遠いですねー。
一般的に実在したといわれてるのは10代崇神天皇からだが、この動画では16代仁徳天皇から実在ということにして、その血を継いでいない継体天皇は簒奪者扱いして万世一系を否定というわけですか
こんなことありえんのかー。日本終わってるわ
日本終わってるわ。
ある意味 ここで終わって…
ここから始まりました とさ。
じつに1500年以上。依然として世界最長の王朝であることにかわりない。
隅田八幡神社 藏노 人物畵像鏡 銘文에 依하면 繼體天皇(男弟王, 男大迹尊)은 百濟 武寧王의 弟이며 兄弟間 이며 百濟 昆支王은 武寧王의 父親 입니다.
紀元前660年頃、
確かに皇室の祖先であらしゃいます
出雲王国の初代
大穴持(帝)に
菅(スガ)の八耳命が
周囲から推戴されて
登極遊ばされ即位なさった事に変わりはありません。
が、場所は出雲(多分、松江市)
紀元前の奈良盆地には広大な湖沼が満々と湖水を湛えていた事が既に
古地理学や考古学から判明しています。
古事記の嘘(8世紀に古代の奈良盆地が水浸しどころか湖に覆われていた事が忘却されていた痛恨のミス)がバレバレ。
どんなにいちゃもんをつけられても万世一系に変わりはない!
最近の奴は捻くれてんなーw
その「ばんせいいっけい」にこだわるのはなぜですかw
私はやはりお釈迦様のラゴーラ様や滅んだ釈迦族様がたさまが修行の為また復活してほしいですなぜなら須佐之男命様は釈迦族から離れた神々様がたさまだからです。♪🎵♪🎵♪🎵。