国分寺駅のカオスさが一発で分かる動画です
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- Опубліковано 7 лют 2025
- 西武鉄道の路線の歴史や路線解説、そして珍しい列車などに乗車するシリーズです。
今回は西武国分寺駅についてです。
西武の国分寺駅で国分寺線から多摩湖線に乗り換えるとき、ちょい遠いな。これ中央線の方が近くね?と思ったことあるでしょうか。
それによく見てみると、別の会社である中央本線と並んでホームが設置されているので、こっちの方が同じ会社っぽい雰囲気が出ています。
それに、路線図を見てみると国分寺線と多摩湖線は似たような場所を走っています。
これは何故なのか?この動画で検証しましょう。
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国分寺の西武改札を入った先の、のんびりした雰囲気が大好きです。
この付近はただでさえ国分寺線と多摩湖線はほど近いところを並走してるのに、両線に挟まれた狭いエリアの中間にはJR武蔵野線が並走してるという、ここだけ切り取ると都心顔負けの路線網の密度の濃さ。
他の方と重複しますが、駅ビルが出来る前の国分寺駅は北口の木造平屋建ての駅舎に駅長室があったため多摩湖線が0番線、国分寺線が1番線、その次に国鉄と西武の貨物を受け渡すための貨物線があって、中央線が2、3番線。今の駅ビルがあるところは貨物ヤードでした。そこにポツンと旧下河原線のホームが武蔵野線開業から駅ビルが出来るまで残されていました。北口から改札を通ると目の前は国分寺線の1番線。左に行くとホームの端に中央線への跨線橋。右にある跨線橋を上った所の右側に中間改札があって0番線の多摩湖線に、左に行くと左右に中央線への階段、旧下河原線のホームに行ける階段が右側にあって長いヤードを渡ると南口に行けました。駅は国鉄と西武は完全に分離されていませんでした。それもあってか国分寺線の駅名票は国鉄仕様でした。一方で多摩湖線は西武仕様でした。
国分寺線と多摩湖線からののりかえ客が多かったのですが、中央線のホームは1本で幅も今よりも狭く電車も退避も出来なかったため特別快速は停まりませんでした。
最寄り駅は八坂か小川、、中央線で国分寺に着いて乗り換え時、、「今日はどっちにしようかな?」が楽しみだったりするw
JRユーザーですが、国分寺駅、なんか好きなんですよねぇ
そんな発展してるわけではないのですが、お寺のような素朴な人の温かみが感じられるような気がします
いやいや、セレオもマルイも、西武系の商業施設もあるので、駅前は大変便利ですよ、駅前は
国分寺駅再開発する昔から駅好きです
なんか懐かしい感じがします
最近は西武ドームでライブイベント行くのに
多摩湖線を良く使います。
国分寺から西武線が走る沿線は
学校や緑も多く環境は抜群だと思ってます。
踏切前で息子と多摩湖線を見ながら同時にポツリ。「長くなったわね、4両よ」「みじけぇな4両かよ」時の流れですね。萩山で2両が拝島からの4両と連結して西武新宿まで行く時代が私の時代ですから。懐かしく拝見させていただいております。
2両分割の時代合ったみたいですね。思い出していただけているのであれば、とても幸いです。
実家の最寄り駅が武蔵大和の為、独り暮らしを始めるまでは、毎日のように利用していました。
本格的に使い始めたのが80年代半ばからは中央線沿線の高校への通学の足として。
まだ、西武線多摩湖線の車両が床がフローリングで空調が扇風機のみという状況。
夏場は窓限界に開けないと灼熱地獄だった。
途中からエアコンと扇風機のハイブリッドタイプが導入されてからは大分過ごしやすくなりました。
ご指摘通り、旧駅舎は今の位置よりもっと中央線国分寺駅側でした。
改札を出たらすぐ中央線のホームへアクセスする高架橋だったし、目の前の階段を降りたら、国分寺線のホームと国分寺駅北口だった。
木造で高架橋を含めて似た雰囲気でした。
朝のラッシュ時間帯はキセルの「カチカチ」とテンポを刻んでいる音が思い出されます。
長いなりすぎるでここまでにします。
大変思い出があるので語り尽くせないのですが。
その西武国分寺線&多摩湖線+JR中央線国分寺駅へと先日訪れましたが国分寺線ホーム度多摩湖線ホームの場所が離れているのはそういう歴史上の事実があったというのは実に興味深いです
子供の頃、西武新宿線(旧川越線)沿線に住んでいました。
国分寺線のホームは1番線、中央線が2・3番線、使われなくなった4・5番線ホーム(下河原線用)がありました。北口が本屋だったので番線の振り方が今と逆だったのですね。国分寺線と国鉄線の間に改札はなく、多摩湖線のところに改札と連絡切符売り場があり、多摩湖線の番線表示はありませんでした。北口で西武萩山方面の切符を買った人は、多摩湖線の構内改札を切符を見せて通過していました。隔世の感ありですね。
その頃、北口の駅前には立川バスと西武バスの乗り場が並んでいて、狭い駅前をバスがバックで乗り場に入っていました。
動画お疲れ様です。
確かに当時中央線の国分寺駅から見上げると、多摩湖線の電車が見えてましたね。懐かしい。
で、国分寺駅は中央線が2番線、3番線しかなくてホームにめちゃくちゃ人がいる状態だったのを思い出します。特別快速は三鷹の次は立川だった頃です。
国分寺~西国分寺との間に、鉄道学園に向かう引き込み線があったと記憶しております。
下河原線もあったそうなので、国分寺の今昔物語はかなり興味深いですね。
鉄道学園に向かう引込み線が昔の下河原線で、国分寺から北府中、東京競馬場前駅まで伸びていました。下河原線のホームはいまの駅ビルのところにあり、貨物列車の待機所もありました。下河原線は武蔵野線の開業で廃線となり、その土地を利用して国分寺駅ホームの増設と駅ビル建設が行われたわけです。
改修工事前は、中央線と国分寺線は改札が一緒で、北口の改札を入ったところが、そのまま国分寺線のホームでした。
立川寄りの階段を昇ったところに多摩湖線の乗り場があり、そこには独立した改札があったと記憶しています。
元々中央線と国分寺線が同じ会社で、多摩湖が別会社だったからあんな構造だったんですね。
考察ありがとうございます。
1980年代前半に高校生で毎日利用していました。昔は1番線が国分寺線、2・3番線が中央線で、多摩湖線は0番線でした。中間改札もなく、昔の下北沢駅や分倍河原駅のようでほのぼのしてました。国分寺線ホームには立食いそばがあり、200円くらいで土曜日の帰りに食べてました。当時は20分に1本しかなかったので。持て余した時間で食べるにはちょうどよかったです。中央線も特快が止まらず、昼間は20分ほど間隔が空くこともあり、1面2線のホームが満杯になることも
しょっちゅうでしたね、また、駅の北口もネコの額ほどの広さで、バスが入るのもやっとでした。需要に設備が追いついてない感じでした。
いずれも昭和を思い切り感じる光景で、懐かしいです。高校の卒業アルバムには多摩湖線の旧ホームにギリギリ入っていた351系の写真が日常風景として掲載されましたが、踏切から連結器が触れるくらいの距離だったのを覚えてます。
国分寺生まれ、それなりの昔を知るウン10歳の者です。
同じ西武の多摩湖線←→国分寺線や中央線との乗り換えは改札を通るのに、他車線同士のはずの国分寺線←→中央線の間はフリーパスという謎駅でした。
多摩湖線には古めかしい駅(改札)があり、国電戦災復旧の古めかしい電車(17m3両が多摩湖線の限界でした)が停まっていました。国分寺線ホームは旧国鉄管理で、西武の駅員はいませんでした。その国分寺線ホーム、屋根のなかった東村山寄りのすぐ上側には、多摩湖線ホームの電車が落っこちそうな感じで停まっていましたね。一方、国分寺線の方に使われる車両は割と新しく(20m4両でしたので)、登場したばかりの101系が国分寺線を走ったときは、本当に驚喜しましたね。なんて乗り心地がいいんだろうと(笑)。
かつては、西武国分寺線から中央線への線路はつながっていて、貨物の受け渡しもやっていたんですよ。しかし、人間の方は、日中の中央線/西武線の接続は本当に悪く、中央線快速が15分ヘッド・国分寺線が20分ヘッドなのに、中央線到着30秒前に国分寺線が発車したりとかザラ(笑)。私は、当時、吉祥寺から国分寺乗り換えで西武新宿線方面との間で通学していたので、えらく時間が掛かりました。何なんだよこれは、という状態でしたね(笑)。西武は、何が何でも西武新宿線に乗せようということだったのかな。
やっぱり多摩湖線と国分寺線はラッチ必要だったんですね。写真や動画など見た限りではよく分からなかったので。
ちなみに、国鉄の改札のほかに多摩湖線から直接駅の外に出られる構造だったんですか?
何が何でも西武新宿線に乗せようはさすがに…
あると思いますww
@@ichibanservicios あの昔の昼間のダイヤは、意図的としか思えなかったです・・余談ついでに言えば西武の方は「10分/30分/50分発(例)」など定時ダイヤで、西武発車の30秒後に国分寺到着、などとやっていたのは旧国鉄。よって、「西武に乗せず中央線に誘導した」のは旧国鉄か(笑)・・?
@@ryuuji.asakawa >国分寺駅 昔のことでだいぶ記憶が薄れていますが、西武多摩湖線の改札から直接外に出るのは無理だったと記憶しています。多摩湖線のは乗り換え改札で、外に出るには、国鉄管理の北口・南口改札をもう1回通る必要があったと思います。繰り返しますが、西武国分寺線の方は、降車して外に出るときにあるのは国鉄改札のみ、西武多摩湖線に乗り換えるには自社の西武多摩湖線にある改札を1回経なければならない、ということですね。
子供の頃、まあ40年前ですが、買ってもらった「私鉄全線全駅」という本に、国分寺駅の西武国分寺線部分は国鉄管理駅で、多摩湖線部分は西武管理駅という記述がありました。いろんな方がコメントしておられる、改札設置場所と乗り換え等のさらなるカオスぶりは、こんなところから起因しているわけですね。私個人としては、国鉄から多摩湖線に乗り換える際の連絡改札で、券売機がなく硬券が発行されていたのが思い出です。
30年近く長いこと馴染みありますが、この動画で歴史を感じます!
設定当初の青梅特快は通過していましたね。
最近は北口が再開発されて景色が一変しましたが、輪島功一の団子屋あたりは変わらず、新旧折り混ざる良い駅前だと思います。
駅前から少し外れると、レトロな雰囲気残っていますよね。
国分寺に10年以上住んでいるけど、別にカオスだとか不思議だとは思ったことはないな。
ただ、東京都内なのに単線運行はあり得ないだろうと。球団経営で赤字作っている余裕があるなら本業に力を入れろといつも思っているけど。
鉄道に歴史ありですね、さまざまな経緯を経て今の形になった事が分りました。
ちなみに私はおじさんなので、多摩湖線ホーム移転前の国分寺駅を利用した事があります。すごく狭い敷地で中央線に斜めに突き刺さるような形でホームが設置されていました。この国分寺駅の狭さ故に赤電17mの電車が生き残ったんですよね。いよいよ廃止されるという事で、友人と写真を撮りに行ったのは良い思い出です。
映像を実際に編集しながら見たんですがかなりきれいな突き刺さり具合ですね。
》突き刺さる
確かに。
昔は中央線のホームから見え、「来た来た多摩湖線」と思いながら眺めていた記憶が。
その頃の国分寺駅は、古くて汚なめで天井が低かったですね。
自分(現在59歳)が子供の時は多摩湖戦ホームはもっと中央線寄りで駅内改札からはまさに崖の上から下の中央線を見下ろす独特の景色でした。 南口へは粗末な幅の狭い高架の渡りが一本ピロッと延びてるだけでした。 国分寺線の存在は10歳位迄知りませんでしたw
昔は国分寺から競馬場行きの線路があった。今の駅ビルの辺りだったと思います。したがって中央線のホームは一本で上下線で使っていました。ホーム番号は昔は今の逆で、多摩湖線は0番線国分寺線が1番線中央線上り2番線下りが3番線でした。多摩湖線の停車位置はほんとにギリギリで崖っぷちから7メートルぐらいでしたねー。国鉄払い下げの骨董品電車がブレーキの音を立てながら止まるのは迫力がありいつも運転席の後ろ(と言うか横の)手すりに張り付いていました。別のコメントでもありますが、昔は国分寺線と中央線はポイントあって繋がっていましたね。私は武蔵大和に住んでいたんですが、西武新宿から乗ると最初は8両くらいあったのが、どんどん切り離されて、最後は萩山でたった2両になっちゃうのよ。ちょっと寂しいけど、その度に切り離し作業やら行先板の差し替えがあって面白かったです。吊り下げモーターの音や木製床の匂いとか懐かしい思い出です。
多摩湖線ホーム移転前は、ホーム有効長は今より短く、17m車3両分。現在アンダーパスになっている道路が、ホーム先端を踏切で渡っていました。現在は1面1線の広いホームですが、移転前は1面2線分の東側の線路用地を、西武バスの発着場に利用していました。多摩湖線ホームへは乗り換え改札ラッチがあり、一方の国分寺線は、国鉄と共用の北口(表口)改札の正面が1番線ホームでした。こ線橋を渡った2・3番線が中央線(1面2線)、その次に貨物の側線がいくつかあり、4・5番線が廃線となった下川原線(1面2線、国分寺~北府中~東京競馬場前)のホームでした。さらにいくつか側線を越える狭いこ線橋を進めば、南口の小さな改札がありました。つまり国分寺線は、改札を通らずに国鉄から乗り換えが可能な構造でした。
やはり多摩湖線はラッチがあったんですね。なんとなくそうかなあくらいだったので、動画では言及できませんでしたが。ありがとうございます。
大学卒業まで多摩湖線を利用してました。国分寺駅の改装前後もみてました。(当方40代)
改装前は国分寺駅全体が木造で、多摩湖線のホーム内に金魚が泳ぐ小さな池がありました。また、同時電車が出発すると飲み屋⁈トンチンカンという店の看板があり、同時週刊少年ジャンプで掲載されてた「ついでにとんちんかん」と合わさり良く覚えてます。
西武国分寺線と多摩湖線の駅が、離れているので
開業当時別会社だった感じはしますね。
でもJR中央線と国分寺線が、同じ会社とは驚きですね。
実際国有化の際は国分寺線も一緒にという計画もあったらしいですね。
再開発前の旧駅は、多摩湖線と中央線との間に乗り換え改札がありましたが、中央線、国分寺線の間は乗り換え改札はありませんでした。多摩湖線に351系が走っていた時代の話です。
ここまででも緩行伸ばしてもよかったと思うんだよな。
三鷹─立川間の複々線計画は、国鉄の通勤五方面作戦で唯一未着工のまま終わりましたからね。
西国分寺駅の幅が広めなのもその名残かと。
中央線は立川までの計画でしたから、実際は計画のうちだったんですよね。
立川駅も複々線を考慮した作りになっているのでは?
国分寺線と多摩湖線に挟まれた区域は、住宅街が広がっていて交通の便が良くて住みやすいと思います。
畑も点在しています。
南北の移動が容易なのはこの地域住民の特典だと、この土地を離れて思いました。
新小平すぐ近く、萩山青梅街道小川に囲まれた所に住んでますが交通の便は最強です
多摩の中では南北の交通の利便が高いところですね。
3年弱前に静岡の実家に戻りましたが、大学に入学してからそれまで、40年近く国分寺に住んでいましたが、引っ越さなかった唯一最大の理由は、皆さんのおっしゃっている電車の便利さでした。
踏切だらけで住みにくいです。
西武鉄道は大嫌いです。
地元民ほぼ40年やってます。
昭和40年代後半まで、多摩湖線にも貨物列車が走っており、その頃はホームが2線あったようですが、私の記憶には既に1線でした。
当時17メートルの351系3両がホームギリギリに止まっていました。
駅改良に伴い、20メートルの101系が入線できるよう、現在位置に移り、その際、敷地捻出の為、廃止されていた古いホームを仮設ホームとしていました。
そんな昔からやっていた駅工事が、昨年12月、北口駅前整備が完了し、やっと完成?しました。
30年は長かった。
私もビルなどができる前の北口を知っているのですが、完全に別の駅ですよね。
ホームが2線だった名残りのレールも駅改良工事前まで残っていましたね。
ついさっき多摩湖線と国分寺線乗ってきた!!
短いですけど興味深い路線ですよね。
多摩湖線ユーザーです。
特快が停車しないローカルでカオスな駅だった頃が懐かしいです。
国分寺駅は南北それぞれに駅舎があった頃は西武と国鉄(JR初期含む)の共通改札でした。
駅の北口改札から入るとそこは1番線ホームで西武国分寺線、2-3番線の中央線ホームへは跨線橋を使わないと行けませんでした。
南口改札と多摩湖線ホームは跨線橋を上がったところの高さにありました。
多摩湖線ホームへは連絡改札を通る仕組みでした。(その脇の売店で今川焼きをたまに買うのが楽しみでした)
現多摩湖線ホームにわたる通路の手前が以前のホームがありましたね。現在の連絡通路下にある道路に踏み切りがあり、3両編成がギリギリ入る長さでした)
国鉄の改札なのに入ったらすぐ西武というのはなかなか凄いですよね。
なんとなく中央線は、少なくとも八王子以東では京王線よりも西武新宿線に路線性格が似てるなと思っていた理由がこの動画で分かった気がします。荻窪や田無は青梅街道(所沢街道でもある)に乗っていますし、小平市とかは広義の中央沿線ですからね。
新宿(西武新宿)を出て渋谷区北部、世田谷区北部を通る京王線と中野区、杉並区を通る両線では自然と路線性格が異なります。
実は都内で甲州街道の町々を結んでいるのは京王ですからね。確かに雰囲気は違うかもしれません。
@@ryuuji.asakawa さん どちらかというと都内の京王沿線は小田急沿線と大差ないですね。
買い物は下北沢などを擁する小田急のほうが便利な地域が多く見えますが、京王も初台の西新宿化に続き笹塚、明大前、千歳烏山、仙川など楽しみな地域が多くなってきました。
多摩湖線(萩山以南)に住んで70年近くになろうとしている者で、600Vの手動ドア12m小型車で育ちました。
なかなか理解されない、国分寺を軸とした西武線を歴史から紹介していただいて、ありがたく思います。
よく調べていらっしゃいますね。
自分でも拙なる動画をアップしております。1986年、87年の映像で、多摩湖線が中心ですが国分寺駅の様子もわかると思います。ご参考までにどうぞ。(もしこのようなコメントが不適切であれば削除してくださいね)
西武多摩湖線1986年10月4日国分寺-萩山間および民営化前・改装前の国分寺駅構内ua-cam.com/video/RFE2_8yNFeU/v-deo.html
1987年の国分寺駅 改装工事開始の頃 中央線・西武多摩湖線・西武国分寺線
ua-cam.com/video/MxeNPKV8Icc/v-deo.html
そして、余談ですが、この近辺の鉄道のカオス状態を表したつもりの動画を
ua-cam.com/video/fEYRg2z0_Vw/v-deo.html
に置きました。
なお、視聴者のコメントで「かみちゃん」が、「貨物列車が走っていた」と書かれていますが、多摩湖線に貨物は一切走っていませんので、付け加えさせていただきます。
チャンネルの動画を拝見させて頂きました。とても貴重なもので見入ってしまいました。昔を知る方が体験談をお話いただけるのは非常にありがたいことです。今度下河原線に赴こうと考えて居るので、その折にはまた是非ご経験談を話しいただけたらと思います。
ご覧いただいたのですね。うれしいです。私のUA-cam映像は、古い時代に撮ってあったものを出しているだけなので、もうネタ切れです(-_-;)
下河原線については、(また拙作で恐縮ですが)1996年の三鷹⇒立川間 特快前面展望
ua-cam.com/video/GLDVK-dGB54/v-deo.html
の6:34あたりから画面左手に、また、同日に反対方向から撮った
ua-cam.com/video/BHNPsMxUJyI/v-deo.html
の5:48あたりから右手に、それぞれ下河原線の線路が残っているのが見えます。ご参考になればと思います。
現在でも、車窓から跡地は確認できますし、googleの航空写真からも線路跡地がはっきり読み取れますね。府中街道から武蔵野線に向かってなだらかにカーブした建物(JR東日本ドミトリー)が、見事に線路跡を示しているのがうれしいです。
一橋学園の親戚宅行くのに3両編成片開き扉の赤い多摩湖線乗っていました。国鉄ホームは見つけられても同会社の国分寺線ホームがどこにあるかわからないという謎な駅でした。
当時の多摩湖線は国分寺~萩山駅で完結しているような印象で、西武遊園地方面まで同一路線というのも不思議でしたね。
多摩湖線の運行系統は非常に興味深いですよね。
@@ryuuji.asakawa そういえば、一橋学園~国分寺間には信号場がありたまに列車交換ありました。青梅街道駅脇の空地も気になっていたのですが、小平の図書館にでも行けば資料あるかもしれませんね。
あえて中央快速線の209を映像に映してくる所大好きです(笑)
古い国分寺駅は北口が西武国分寺線のホームから直接出入りする構造になっていて、国分寺線専用の改札口はありませんでした。
一方、跨線橋を渡った端に多摩湖線専用の改札があり、北口、南口から入る場合は切符を見せて多摩湖線のホームに入り、国鉄(JR)中央線から乗り換える場合は突き当りの窓口で切符を駅員さんから買う仕組みになっていました。切符は厚紙の切符です。
ホームはすぐ先が踏切だったため17m級の車両3両編成までしか停車できませんでした。そのため351系という古い3両編成の電車が国分寺駅が新しくなるまで現役で走っていました。
余談ですが、多摩湖線には国分寺-萩山間に過去6つ駅がありました。(現在は2つ)その中に、一橋大学前駅と小平学園駅がありましたが、駅の間隔が短すぎるということで統合されて一橋学園という駅ができました。小平学園駅は一橋学園駅の北側の踏切の北側、ホームは線路の東側にあり、さらに北にある歩行者専用の踏切が駅の名残になっています。一橋大学前駅は使われていない線路と駅前広場跡で確認できます。ほかにも廃止された駅が数か所あり、多摩湖線でホームの位置が開業時から変わっていないのは青梅街道駅ただ一つです。
夏限定で冷房付きの501系2両が入ってきましたね。
昔からの国分寺の住民です。駅ビルができる前は今みたく自由通路がなくて、入場券買わないと南北通れなかったので不便でした。当時の駅の構造とかいくつか動画あがっていますね。
今の高尾駅と似たような感じの構造だったみたいんですね。
定期券を買っていた人もいたとか。
多摩湖線移転前は中央線から見上げる感じで、斜めに止まって見えていました。
五反田の池上線のような見え方ですね。
まだ国鉄の頃は中央線は1面2線で、たくさんの側線をまたぐ跨線橋がありました。南口はその跨線橋の続きにありましたね。当時は知らなかったけど、もうひとつ使われていないホームがあり、立ち入り禁止の看板がかかっていて、後に
下河原線のホームだと知りました。
下河原線のホームも色々照らし合わせてみるとかなり面影なくなっているのだなあと感じますね。
40数年前の記憶なので、不確かなのですが、多摩湖線のホーム崖みたいな階段登るんでしたよね?
20年前位の八坂駅もそうでした。
多摩湖線ホームだけ少し高い所にあって、たどり着くまで道路1本またぐけど、決して高架ホームではない。つまり、国分寺駅周辺って地形の起伏が豊かなわけです。駅を降りてひと回り歩くと、よく分かりますよね。
もう40年近くまえの子供の頃の記憶ですが中央線のホームから多摩湖線をみるとギリギリまで電車がせり出していたのを覚えてます。当時の多摩湖線の色は赤と黄土色で確か3両編成という不思議な車両があった気がします。今でこそ国分寺も立派な駅で駅の周りも賑やですが当時は何もなかったですね。
昔は特別快速も通過していたみたいですから、かなりの出世駅ですよね。
エアコン無しの小型車だと3両編成でエアコン付きの大型車だと2両編成でしたね
国鉄時代、下河原線があった頃、中央線ホームは島式ホーム1本しかなく通勤時間帯はカオスでした。
立川や八王子駅でも同様で、それは凄かったです。
旧多摩湖線ホームは、崖っぷちに建てられた為、中央線上り電車の中から覗くことが可能でした。
特快も停車せず、三鷹⇔立川利用者は格下扱いでした。
JRになってから、ホームが増えて特快も泊まるようになって便利にはなりましたが、引き換えに武蔵野線絡みで下河原線の廃線と、鉄道学園の引き込み線がなくなったのは寂しい限りです。
今の3・4番ホームだけだったんですよね。中央線の中では出世頭ですね。
チャンネル名 3-flat 8-mi さんの国分寺付近の映像はすごいですね
国分寺線は羽根沢信号場から恋ヶ窪の間だけ複線なのと、駅舎改築前の国鉄時代、国分寺線は中央線と線路がつながってたと思ったけどなぁ…
国分寺線と中央線は繋がっていたみたいですね。今の秋津連絡線の役割を担っていたみたいです。
東京競馬場への北側からのアクセス。
うわー、カオスだー!!! なかなか興味深いです。 by 某旅鉄系ヨリ🤓
西武は、多摩川線と京王との交差箇所にも駅がないとは知ってましたが、ここまで行くと…。国分寺駅から西武ですと言われたら、よくよく確かめないと泣きを見るとも分かっていました。 しかし、カオス過ぎ😱
自分は西武ドームよく行くので、多摩湖線がメジャーなイメージありましたが国分寺線がエースということを最近知りました。
西武球場が出来た当初、中央線沿線の住人はどうしたら西武球場へ行けるのか、国分寺駅で途方にくれてました。
確か、国分寺→東村山→所沢→西所沢→西武球場前、というルートだったと思いますが、違っていたらごめんなさい。
@@関義則-k3d そのルートと
国分寺→西武遊園地→西武球場前の2つがありますね。
国分寺→西国分寺→新秋津→徒歩→秋津→西武球場前(直通ではない場合は西所沢乗換)
@@後方一気-n6u そうやっていく人いるかよw
国立民は立川からバスが基本でしたw
よく見ると、
西武とJRで、架線柱を共有していますね。
そうなんですよね。他も隣り合った別の会社はどうなっているのか非常に気になりますね。
@@ryuuji.asakawa
東京駅から暫くの間の東海道新幹線と在来線、栗橋駅のJRと東武にも注目してみて下さい。
同様の作りが確認できます。
国鉄時代の名残でしょうか。
西武線の一部区間ではJRから電力供給を受けているようで、JR中央線の変電所が出火した際、西武拝島線もストップした事がありました。
あずさかいじ以外スピードを落とすので、事故が案外少ない駅です。(国立と西国分寺は多い方。)中央線で新宿へ走り出す時のポイントによる大揺れは三鷹電車区に次ぐ痛勤の難所で、車内トイレに入っている方は要注意。
多摩湖鉄道の親会社、箱根土地、戦後箱根山戦争勃発の兆しがこの頃からあったんですね、
ライバルの箱根登山鉄道は東急で、後に小田急へ編入される事から両グループの総力戦が展開されてしまうんですね。
その昔は小田原駅の前がかなり活気があったみたいですね。
若気のいたりで「待ち合わせは国分寺駅6番ホーム東端,11:43だ!」とジョークを言って失笑を買っていた頃が懐かしい。
国分寺駅実は今も6番のりばだけないんですよね。このことも面白いです。
最寄り恋ヶ窪だけどちょっと歩けば西国も近いんだよなぁ
未だに迷う笑
武蔵野線もあるから西国の方が好きw
武蔵野線ができる前、西武と国鉄の貨物受け渡し駅は国分寺と池袋の2駅でした。当時は両駅とも国鉄と西武の線路が繋がっていて貨物列車の編成操車が行われていました。拝島線線路脇のブリジストンの工場も西武鉄道で貨物輸送が行われていました。新宿線沿線の貨物は国分寺で、池袋線沿線の貨物は池袋で国鉄貨物と受け渡しをやっていたのではないでしょうか。
貨物の引き渡し線もありましたね
直通運転の跡で、今秋津で行っている連絡の名残みたいですね。
昔、国鉄からJRになった当初は、国分寺線と中央線は路線がつながっていました。国分寺から、武蔵境の間を西武の車両を国鉄の機関車が牽引して、車両の遣り取りをしていたと記憶しています。調べて確認を取っていただければ、幸いです。
@fortranxp 現在は、武蔵野線?の西国分寺経由で武蔵境迄来て居ます。時の流れを感じます。
今は秋津の短絡線を使って行っているんですよね。
そういえば武蔵野線はずっとなかったわけですからね。
36年前は北口と南口が通り抜け出来なかったんだよ~
川越へ繋がるとは知りませんでした。昼間の時間帯は空いていますか?朝晩はやはり混むのですよねえ?
北口の再開発ってもう終わったんですかね・・・。まだ、これから始まるぞ、ってときに離れてしまったので気になります。
この冬に完成しましたよ!とっても開放的な北口ロータリーになりました!
多摩湖線の国分寺駅と萩山駅の間で開業当初から変わらない駅って青梅街道駅だけなんだよね
国分寺駅と萩山駅は位置が変わってるし、一橋学園駅は両端の駅を統合する形で新設された駅だしね
その他の駅はみんな廃止になっちゃった
あっ、八坂の立体交差だ。私も鉄道写真を撮りにあそこに行きました。
同時通過のシャッターチャンスを待つために通行人の人目を気にしてカメラを構えなければならないのが、つらかった。
多摩湖線の改札口近くにだんご屋があって当時よく食べてました
改札の近くに食べ物屋さんがあるとついつい買ってしまいますよね。
国策もありましたが、鉄道会社の離合集散は、いまだにその名残を留めてるんですね。
特に西武はその性質がよく表れていますよね。
松本清張の小説に出る国分寺は武蔵野そのもの。林と畑の中に木造家屋が点在する風景。私の記憶では北口にパチンコ店(2Fが喫茶店)があり長閑な街の印象だが朝ラッシュは今より酷かった
武蔵野の描写は本当にきれいですよね。上下両方のお客さんが一個の場所にいたわけですからね。
それどころか国分寺駅、改装前まで中央線と西武国分寺線は同ラッチ! 表口たる北口が1面一線の西武国分寺線、中央線は島ホーム1面2線と、「お前は乗り換え出来る高崎線の駅か!」状態だったw 間違いなく甲武&川越鉄道の名残りだし武蔵野線出来る前まではガンガン貨物連絡していたし・・今もホーム所在場所に面影ありますね。
1面2線で確か下河原線がここから分岐していたんですよね
0:25 多摩モノレールが省略されてて悲しくなりました
東村山市は面積が小さいのに駅が多いので、何故かと思っていましたが、
多摩湖の建設時に鉄道が引かれたからと昨日西武遊園地駅から多摩湖駅へと改称されたことで偶然知りました。
多摩湖線と言えば、風情のあった片開きの電車を思い出します。
また、東村山駅が当時は久米川駅であったことも、興味深かったです。
話しは結構長くなりますが
旧駅舎の当時の国鉄、1980年代に2年、国分寺線2年多摩湖線を利用していました
国分寺駅の北口・南口ともに国鉄・西武共用の改札口でどちらの切符でも
駅に中に入ることができました。
国分寺線が1番線扱い、中央線が2・3番線扱いで多摩湖線が0番線扱いで
多摩湖線のところだけ別に西武線の改札口があり駅員が鋏を入れていました。
逆に国分寺線のホームには乗り換え改札口はなく、そのまま乗ることが出来ました。
北口の旧駅舎が地上駅で改札口の目の前が国分寺線のホーム、中央線は乗り換え用の
橋を上がって島式ホームまでいきました。
その乗り換え用の橋が狭くてラッシュは激混みでした。
自由通路がなかったので北口と南口を移動するのにわざわざ国鉄の入場券を買って
入る人がいたり西武線の1駅区間の定期を買っていた猛者もいました。
多摩湖線の一橋学園から東村山まで通っていた時には直線距離は大したことはないのに
何度も乗り換えするのがイヤで国分寺まで戻ったことがありました
自由通路の無い扱いなどは現在の高尾駅によく似ていますね。
現在の国分寺は大分変ったのだなと実感できます。
はるか古の昔に、国分寺駅から狭山スキー場に行こうとした私は、
国分寺駅の構造に戸惑い、国鉄(当時)と国分寺線は並んでいるのに、多摩湖線のホームは何処にあるのか分からず。なぜこの様な構造なのか駅ホームで悩むこと暫しでありました🤔
まぁその時も西武の複雑合併は知っていたので、これは元は別会社なのだなとは気づいてたと思うのですけど。その時まで西武球場前までどう行くか、多摩湖線に乗り山口線に乗って行ってみるかと思っていたのですが、何処にも多摩湖線ホームは見えない。多摩湖線はこちらの表示も気づかず、これは訊かなきゃダメなのか? なんとも恥ずかしい。これじゃお上りさんじゃないかと当時だって鉄道は好き分かってるつもりと自尊心が働き、国分寺線で所沢乗り換えで素直に行ったわけなのでした😅 国分寺線は甲武鉄道の子会社とは知りませんでした。西武鉄道国分寺駅の謎スッキリしました。いま国分寺駅と検索しても、この駅構造を取り上げてるのは1987年の動画を出してる方だけのようですね。
昔の映像は何個か見てみたのですが、今とかなり違うところありつつもなんとなく今も変わっていないなというところもありますね。
当時、国鉄と西武国分寺線の連絡改札がどの様になっていたかも完全に記憶がないんです。
でもれうしいですね。当時の駅構造を何人もの方が返信解説していただいてるので、そうだったのかと関心しきりです。さすが浅川さんのチャンネルこの辺は視聴者が若い方だけじゃない良さがあると思います。私は全く役に立ってなかった😅
かつては川越鉄道に準じた本川越と国分寺の直通列車があったんですけどねえ。
東村山駅の高架化工事の影響で一昨年の三月で終わってしまったんですね。
高架化工事が終わったら復活するかどうか。
4線しかないからそうならないと足りない
国分寺線は西武沿線と全て直通と言う噂もありますが果たして。
@@ryuuji.asakawa 西武園と本川越と新所沢?
ほんの2日前の「多摩湖線の『果てにあるドラマを』皆さんはご存じですか?」の動画で、村山貯水地駅は西武遊園地駅の旧名称と言っており(7:43に表示)、武蔵大和駅寄りだったと語ってますが、この動画の8:39では、武蔵大和駅の旧名称が、村山貯水池駅と語っています。
どっちが間違ったんですかね?
申し訳ありません。該当箇所見直したんですけど、正しい流れでは武蔵大和の旧称が村山貯水池で、延伸した際の終点が村山貯水池として開業。そして、旧村山貯水池は武蔵大和に改名が正しい流れです。
旧動画が少し間違っています。
八坂駅って昔はホーム反対側だったよね?
いわれてみれば、そうだった気がする...
そうだったんですか。それは初めて知りました。
懐かしいですね。
間違いなく反対側に木造の旧駅舎ありました。
70年後半から2000年代まで見てきたし、利用もしていました。
生まれた病院がホームから見える緑風荘病院だし、親父の勤め先は少し離れたブリヂストンなど、大変縁の深い駅です。
ただ、実家の最寄り駅は武蔵大和なのですが。
西武国分寺線の成り立ちは、近鉄道明寺線の成り立ちと似ているようです。
調べてみたところかなり興味深いですね。
今現在恋ヶ窪から国分寺に向かっているからリコメンドで出てきたのかな?
オレがガキの頃は中央線と国分寺線の乗り換えは改札なすでフリーでしたw 0番線多摩湖線には改札あった気がする
中央線から国分寺線に乗り替えた人が国分寺線の電車で精算する姿を結構見かけました。
昭和58年、今から40年近く前になりますが、萩山~国分寺を走る赤電を乗るためだけに、友達と出掛けた事がありますよ🌈
今と声が違う!可愛い声(笑)
武蔵野鉄道多摩湖線は村山貯水池(初代=のちの多摩湖(初代)→現・西武遊園地)駅に延伸の際、旧西武鉄道村山線延伸予定地に当たる場所を交差する必要があり(八坂駅付近の国分寺線交差部とは別)、その調整が難航した事でやむなく現在の回田信号場付近に村山貯水池(仮)駅が昭和5年に開業。
昭和11年、その交差部の調整に目処がつき、村山貯水池駅の本開業と村山貯水池(仮)駅を交差部に完成した箱根ヶ崎架道橋の北側に移転・駅名改称による武蔵大和駅の設置による多摩湖線全通となりました。
ただ、村山貯水池駅が単式ホームでしていた事から相対2面2線だった事で武蔵大和駅で常時交換を行う事になります。そして、当時の多摩湖線は直流600V路線だった事で12m級車両での運行をしなければならなかったようで戦後も長らくその状況は続きます。
昭和33年に1500Vへ昇圧が行われた後、17m級国電を多く所有していた新宿線との直通に伴い、ホーム延伸が必要になったものの、武蔵大和駅の構造及び12m車2~3両編成で運行していた事でホーム有効趙が40m前後あれば足りた事やすぐ南側には前述した箱根ヶ崎架道橋があった事で
本線の有効長を80mまで延伸し副本線は現状維持とした事で17m車両の入線は可能としたものの本線側は4両編成、副本線側は2両編成の列車で交換をする事になったわけです。
当然、本線側の中程の位置に副本線への分岐器を設置せざる得なかった為、常に副本線に2両編成電車を入線・待避(本線に後着入線する4両編成を先発)させなければならず、運行上厄介になっていたのは言うまでもなく、昭和36年に多摩湖駅を現在地に移転させ2線化、武蔵大和駅の副本線を撤去、武蔵大和駅~八坂駅間に武蔵大和駅の交換機能を代替する施設として回田信号場を設置され、現在に至っているようです。
多摩湖線は結構地味に延伸繰り返していますよね。
またホーム統一して欲しいなぁ( ˇωˇ )
長くなるから少しずつ
[多摩湖線]
↑萩山
┃
国■\◆
分■ \◆
寺■
駅■
■■
多摩湖線国分寺駅ホーム(■印)先端から、線路と反対側を見ると上図\のような空地が見えます。
これが移転前の国分寺線の跡です。
◆の建物が多摩湖線カーブ跡に沿って弧をえがいて並んでいるのが分かります(返信に続く)
続き
■\←急カーブ
■ \ 踏切
■ \↓
■ ┃□□ 北口
旧駅
──────────
国分寺線
JR中央線
\は急カーブ
そして踏切(┃)を越えて移転前の国分寺駅(□)
ホームが50m余しかなく、17mの旧型車3連(非冷房)か精一杯。
しかし東側は北口
西側は踏切のあと急カーブ
でどちらも延伸が不可能
輸送力拡大のために■にホームを移転して路線も直線化、20m車4連が入線可能にして新性能化・冷房化が図られました。
旧駅は現在の北口駅ビルの西側あたり。
ということは単に多摩湖線輸送力増強のための移設だけでなく、旧駅跡地を再開発して駅ビルにする計画の一環としての移設でもあったと考えられます。
すみません、もう一回続きます
橋上駅舎が出来る前
多摩湖線: 丨 北口
────丨 丨─↑─
西武国分丨跨丨寺線
JR中央丨線丨線
貨物側線丨橋丨
下河原線丨 丨
南口
南口から、跨線橋で下河原線(廃止)、貨物側線(下河原線が貨物輸送をしていたため)、中央線(1面2線)、西武国分寺線を渡り、多摩湖線へ。
多摩湖線は一段高い所にあったから跨線橋とは同じ高さで確か中間改札(:)がありました。
北口は西武国分寺線ホームと直結していて、国鉄(JR)との中間改札はなく、中央線からもここから北口へ出ました。
ただ、この方法では北口から南口へは改札を通らないと行かれない。
そこで地図の北口からまっすぐ南へ自由通路が出来、合わせて橋上駅舎になりました。
また下河原線とその貨物側線が廃止となり、跡地で中央線を2面4線化、残る跡地が南口駅ビルになりました。
では長文失礼しました。
詳しくありがとうございます。下河原線があったころはかなり別の駅と言う感じだったのでしょうね。
八坂駅って周辺施設用? 石橋工場か
八坂神社の参拝客用に設置されたのでは?
知らないけど。
多摩湖線は旧駅では0番線でした。これは国分寺駅の駅長室が北口側にあって国分寺線が1番線、
中央線が2,3番線、下川原線が4、5番線だったのですが、1番線より北に位置する多摩湖線は0番線になったそうです。
多摩湖線のホームは1面2線のころもありましたが末期は1線になっていました。
国分寺線は中央線との間に改札が無かったので行き来が自由でした。
一方多摩湖線は木製の改札があって、切符の確認を行っていました。
現在、国分寺駅は南口側から1番線から4番線が中央線、国分寺線は5番線。6番線が欠番で多摩湖線は7番線です。
6番線は国分寺線の2線化を想定してのことのようです。
ちなみに大昔に、京王が府中から国分寺までの路線を敷設して多摩湖線に乗り入れる計画もあったそうです。
観光資源に乏しかった京王が、花見などでにぎわう多摩湖まで伸延させたかったそうです。
今でも国分寺・府中のバス路線は頻繁に運転されているので鉄道化されていたらどうなっていたでしょうか?
やはり中間改札があったんですね。相当興味深い話ですよね。
かつてライバル会社の路線だったけど合併したというのは、東急大井町線と池上線も同様ですが、そちらは合併後に乗換駅(旗の台)ができました。
おそらく結局同じ国分寺駅に着くから乗換駅があってもあまり意味がない、ということでしょうね。
多摩湖線はワンマン運転
開業から97年後の3月13日西武遊園地が多摩湖駅へ改名するのか 疑問
世が世なら青梅線の代わりに国分寺線に中央線が乗り入れて川越特快(仮)が走ってたんですかねぇ
話は違いますが、ホント西武鉄道この辺りはカオスなので...
1. 国分寺線は小川駅から東村山駅へ向かわずに、武蔵大和駅へ直通させて西武遊園地駅へ(こちらを西武遊園地線とする)。
2. 多摩湖線は国分寺→萩山から久米川駅へ抜けそのまま所沢駅まで(所沢線とする)
3. 八坂駅は久米川駅が近すぎるから廃止とする
4. 西武新宿駅から西武遊園地駅へは、小川駅近くにデルタ線を敷いて武蔵大和駅方面へシーズン毎に臨時列車で直通させる。
どうでしょう?地元の皆さん...
国分寺線は、国分寺→小川→東村山のラインを結ばないといけないので、そこがどうかと言ったところでしょうね。
東村山市民としては国分寺線来ないのは困るなぁ
国分寺線が東村山駅を通らない代わりに、多摩湖線が久米川駅を通って所沢駅までという案だったんですが…
やはり国分寺線東村山駅がキーワードですかね?w
二十年くらい前迄は西武新宿から拝島西武遊園地行きという電車があって、確か小平で分離して各方面へ向かっていました。
デルタ線なんて非現実的な方法取る必要はありません。
萩山から久米川駅?萩山駅でスイッチバックさせるのですか?
@@ichibanservicios 昔は特急レッドアローが通過していた東村山駅でしたが、市の要請で停車するようになった経緯がある位ですし、これも市の要請で現在駅の高架工事中です。
ホームは3面6線から2面4線に減りますが、利便性は向上する様です。
9:22 ブリヂストン??
ブリジストンではなく国の施設ですね。
京王線と西武多摩川線の乗り換えが不便なんで、解説して欲しい
まぁ、今の西武鉄道も武蔵野手に買収されて、旧西武鉄道社員が肩身の狭い思いをしないように西武鉄道を名乗ったという話も有るし
西武の配線はさすがにどうにかすべき
国分寺線は両端がほとんど単式ホームなのも面白いですね。
西武多摩川線とかいう、西武多摩湖線と間違えさせる気マンマンの路線名、マジで変更して欲しい。
俺明日校外学習でこの駅使うんだか、、
ちょいちょい209系が写る所が浅川さんのこだわり、と見たww
多摩湖線にもホームドアが設置されるらしいので見に行って見ようかと思う
(カシオペアの向谷実さんの会社が監修したらしい)
この209系は出世列車ですね。大抵の列車はデビュー当時は快速中心運用で古くなれば各駅停車中心の運用だけど、その逆バージョンですね。
準備は済んでいるのであとは稼働するだけといった状況でしたね。
箱根土地ライオンズ
西鉄→太平洋クラブ→クラウンター→西武(コクド・旧箱根土地)→西武(プリンスホテル)→西武(鉄道)ライオンズ
国分寺と言えば珍し屋 まだあるのかな
ua-cam.com/video/SRbTInrRI0M/v-deo.html
こちらの動画で昔の国分寺の様子がわかりますよ。
旧多摩湖線ホームの位置も確認できます。
ありがとうございます。じっくり見てますね。
どちらが止まってもお互いにバックアップ出来る体制と地域独占したい思惑、西武新宿線で中央線でさばけない住民を中央線に半ば寄生する形で吸収し、国分寺線と多摩湖線から吸い上げる
元々別々に発生したとしても、別々ではネットワーク化されないと発展性、拡張性がない
歴史的経緯はあるにしても、そうだろうな
にしても、中央線を西武の堤が握ってたらどうなってたんだろうな
相当ボロ儲けしてるだろ
ただ今でも横浜線があんな扱いなのは勿論当時の国鉄の意向はあっても、そもそも私鉄だった中央線の経緯もあるんじゃないのかな
あんな大都市の割には横浜線の貧相なのはおかしい
東急や相鉄、小田急あってもおかしく思える
東京と神奈川は明治時代にお互いに県境、市境が編入繰り返してる
吉祥寺だって神奈川県の時代もあるし、確か町田もそうだし
多摩湖線と多摩川線も初見だと勘違いしそう。😅
ふすぃぎやな
橋上駅舎になる前は駅の南北移動が不便でした。
今は北口が異世界。
あの辺の西武線の配線が気持ち悪いのがよく分かりました!
多摩湖線が無くなると地図が綺麗になるのにな〜とは思っています。バスもあるので廃線跡を利用してバス専用道でもありなのでは?と思ったり思わなかったり、、、