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諸説ありすぎて弘安は特に難しかったけど、とにかくご先祖様達が奮闘したのは確かで、それを思うと胸が熱くなるというか泣きそうになるというか・・・日本のど根性ってのを多少なりとも知ってもらえたら幸いです。さて今回でモンゴルシリーズは一度終了です。またいずれ他のモンゴル帝国戦史も予定してるのでお楽しみに~。てか元寇の別の説を紹介するのも良いかも。とにかく次からまた別の戦史シリーズ始まるのでどしどしチャンネル登録、評価、コメよろです~
もしここで日本が元に支配されてたら、太平洋に元が進出してアメリカまで到着したんじゃないかと思う歴史の浪漫…
@@越後旅斗 太平洋横断はルート長すぎて草
歴史の節目節目に外国人をドン引きさせる日本人戦後に諸外国がキッチリ牙抜きしようと、色々と手を打ったのも頷ける。
@@従五位下加賀守 日本から船でっというのは難しいかもしれませんがカムチャッカからアメリカに渡ったかもしれませんね。実際にのちの時代にはコサック兵がアメリカまで到達したそうですから。
これって結局本州からの援軍って間に合わなかったんだよね?九州の武士だけで倒したって話聞いたけど。本州の武士と九州の武士ってどっちが強いんだろ。
神風で勝ったと習ったけど、子供ながらに何で陸で圧倒してたのに船に戻ったのかと不思議に思ってました実際は上陸もままならず、夏の海上に2か月も押し留められてたら そりゃあ台風も来るよねっていう日本軍の勝利は奇跡でも何でもなく、鎌倉武士の強さによる必然だった事がよく分かる解説でした
子供の頃、なぜ攻撃側が船に籠城しているのか本当に意味不明な戦だと思いましたが、謎が解けました。そのかわりに、なぜ初日から籠城側が攻撃しているかという新たな謎が生まれました。
鎌倉武士だからだよ!(解決)
上陸なんかさせるわけない笑元軍も想定外の弓の嵐やら辛うじて上陸出来ても日本の重装騎馬隊に追っかけ回されては、出来る事は何もなかったと(苦笑)あとどこから出てくるかも分からない九州地方の山族やら野武士の血も涙もない攻撃で弱ってくのも可哀想やなって
元軍に、あいつらマジキチと言わせた鎌倉武士好き。
日本人から見ても笑けるくらい狂ってる
古い歴史観だと日本は神風で運良く勝ってそれが戦前の失敗につながったって言われるけど、ここ最近鎌倉武士の奮闘が正しく伝わるようになった気がする。
俺も運要素が強いもんだと習ったから、こういうネタ新鮮
元寇以降の歴史を描くのに天皇の地位向上の為 神が日本を救ったとのストーリーに仕立て上げております。
@@gbrkura4467 当時、日本中の寺社が外敵退散の祈祷を行っていたので「我々のおかげで神風が吹いたのだ」と全国で宣伝しまくったせいもある
天皇の権威証明に使われたのは近代に入ってからで、当時の幕府が神風を推したのは、国内の統一戦や征討と違って防衛戦だったため土地やモノを奪えなかった→武士に恩賞を与えられないので天の恩寵によるものだと広めたかったというのがありますね。なおこの後恩賞を貰えなかった武士のために徳政令出したり云々かんぬんしちゃった影響で幕府は失脚していきます。
あの時代は何気に日本刀が一番凄い切れ味を誇ってた時代。その上鎌倉時代の武士は鹿とか猪の肉を普通に食って、一日五食を基本に農業と武の鍛錬に明け暮れて、結果180cm超えの巨漢がわんさか居たそうです。鎌倉武士は室町時代とか戦国時代の武士よりも栄養状態が良いらしい。
守れなかったらどうなっていたことやら😅命を賭して守ってくれた先祖の方々に感謝です
😢😢😢😢😮😮😮の
良いね
北条時宗はこのためだけに生まれたような利発で勇気ある執権でしたね。日本歴史の功労者です。本当にありがとう。貴方の努力で日本国が守られました。
鳩山由紀夫や菅直人は何のために生まれたのか
@@rokuemu114 それを言ってはいけません…
自民が勝ち続けるため
幕末の長州藩士・周布政之助の詠んだ詩に敷島の大和心を人問わば、蒙古の使い切りし時宗というのがある。蒙古に対して断固徹底抗戦を決めた時宗、素晴らしいよ。聖徳太子以来の日本の国是、つまり、中国の属国には絶対ならない、を貫いた時宗・・素晴らしい日本男子だったと思う。
@@snowsnow7930 そうそう 植民地になれという内容で二人使いが来て、一人だけ残してもう一人の首を持って帰らせたんだよね 合理的 通訳もクソもない明確な返答だと思う 使い何回も来てたみたいだけど 次来る人イヤだったろうね
日本を守っていただいた先祖の方々に感謝しかありません
立ち向かった戦士たちがいたから、今の日本がある。感謝。
今の日本の戦士達は国を守れるだろうか?
@@こてっちゃんねる-q2s 今求められるのは、憲法を変えられる戦士(政治家)ですね
いざとなったら自衛隊に加わって戦闘する心意気だけはある。ゴジラでも超大型巨人にでも
人間案外単純な生き物なのでコロナで人の意識が変わったように有事になれば人の意識は簡単に変わるよね。
元側の記録にも「あいつら勇敢過ぎる❗全然死を恐れてない…(涙目」というような一文があるそうですね。鎌倉武士の奮闘に感謝‼️
元に降参して支配下になった高麗軍の日本攻撃船を作ったのは現在の文在寅が高麗に生まれていたのです。天照大神の神風に2回共壊滅状態にされた脆い船だったことでフビライから叱られたようです。参考書籍「文在寅の守護霊霊言」
昭和の小学校と中学校で神風のおかげで2回も助かったと習った。命がけで国を守ってくれた祖先に怒られるぞ。今は毎日あったかい家でご飯が食べられる。感謝しなあかん
反日教師のおかげでいま公安系
@@hikohiko8625 分かる。
ガキの頃から神風で元寇終わったとか、ずっと疑って生きてました。学校の歴史狂育 嘘ばっかり
GHQのせいですよねジパングという漫画で、『現代の日本人は日本人ではなく、アメリカに育てられた日本人』と聞いてハッとしました。
昭和五十年代、学研の六年の学習付録の小冊子にのっていたムロタニツネ象先生の漫画では、ちゃんと北条時宗の鎌倉幕府や御家人たちが奮戦したおかげでもある事が描かれていましたよ!
あの時に戦って死んでいった名もなき多くの武士たちに感謝。神風なんかじゃ無くあなた方の活躍によって今の私たちはあるのです!
小舟で敵の大群が多数乗っかる軍船に挑んでいって暴れ回るって相当な士気の高さよね…彼ら自身がカミカゼだ…
先人の勇気と愛国心に感謝します!日本に生まれて本当に良かった。
戦は天の時、地の利、人の和という。地の利(ホームグラウンドである日本本土)と天の時(神風)だけで勝ったのではない。天の時まで執拗に粘った人の和(当時の人々の団結と敢闘精神)こそが勝因と言える。
いいこと言いますね、その通りだと思います。逆に元軍は引く時をあやまってしまいましたよね・・・
4400隻の大船団とか世界史全体で見ても類を見ない恐ろしい数。こんな圧倒的数を見て怖がるな言う方が無理だし、それでも臆さず戦い抜いて日本を守った鎌倉幕府と武士の頑張りはもっとちゃんと学校で教えて欲しいなぁ・・・。この時の北条時宗は大陸にスパイを送り込んでたり、決して神風で勝った戦いではない。
それから1000年近く経った後に行われた『ノルマンディー上陸作戦』までは、”世界史上最大の上陸作戦“だったわけですしね…。
ゴーストオブ対馬の船が海を覆っている…ってのは比喩とかじゃなくてガチだったんかね
鷹島の元艦隊の停泊地を専用アプリのカメラでかざすと艦隊が画面上に再現される演出があります。そう広い海ではないのでここにおびただしい船がいたと思うと恐ろしく感じました。
@@okotarou1464 豊臣秀吉の朝鮮出兵も14万人くらいの兵力を渡海させていたぞ。元寇の時の大陸軍と同じくらいの兵力。日本の古代でも10万人以上の兵力を動員したことはあっただろうし、日本で無理な兵力ではない。大陸全域から兵力を集めれば百万人超えるだろうけど、日本相手だけに、それだけの兵力をぶつけていたら、広大な国土の大半が手薄になって守り切れない。だから、元寇の時の大陸軍は14万人くらいが限度だった。
@@usa7006 朝鮮出兵ではもっと小規模の部隊を上陸させて橋頭保を築いた後に本隊を上陸させたんじゃないかな?流石に上陸部隊と内陸侵攻部隊を同一のモノとして進軍することは少ないし(´・ω・`)あと日本の内戦(戦国時代等)は世界史的に見ても大規模な戦闘が多いよ一国の中に数十万の軍が居るって考えると普通にヤバい
長門にもちゃんと準備してたのがすごい。これは本当にすごい
元軍は室津に上陸して石畑峠を越え瀬戸内海に出る作戦だった、そうすれば危険な関門海峡を通らず、瀬戸内沿岸に侵入出来る、しかし敗れた😅
名もなき英雄たちに感謝彼らの血が我々にも流れてると思うと何か熱くなってくるわ
この動画を小学生たちに見せるべきだわこんなん日本人として誇りに思うしかないしこの動画の中に日本人が外国に対する上で必要なことが詰まってるやん
詳しすぎワロタ語り方も良いけどこんなに再現できるほど記録が残ってる事にも感心する
自分らは中学時代に「やあやあー我こそはー」と名乗ってるところに「てつはうドッカーン」…とやられたマヌケな鎌倉武士…と教わったんだけどね。左巻き教育腹立つわ。鎌倉武士に感謝!
そうそう。そうやって教わった。とにかく日本を矮小化させる歴史教育。
むしろ今はロストテクノロジーと化した鎌倉時代の刀を装備した武士相手に近接戦闘で戦えるのかとしかも元軍の兵士の大半が投降したばかりの南宋の兵だし
@@山田太郎-o3b2l >戦後教育なんてそんなもんですよね!良識ある人を公職追放して 入れ替わりにアホ左翼が教育界を乗っ取ったんですからね。返す返す残念です。
自分も授業で聞いたそれ。教科書に書いてあるわけでもないのに、日本全国いつの時代も同じ事を先生が言うって、日教組恐るべし。
@@kaocaochin さん日教組じゃなくて、文科省の教育指導要綱に書いてある通りに全国の学校教師が教室でロボットよろしく同じことをしゃべっているのだよ。教育指導要綱をかいた犯人は文科省教科書検定委員会である。はっきり言えば東大卒官僚上級国家公務員だよ、そこらの社長より高給取りの税金泥棒のクズ野郎どもさw
ほんと見てて楽しい。学校の授業もノート書くだけじゃなくてこんだけわかりやすく聞いてて楽しい解説をしてくれたらなって思う。
対馬と壱岐で虐殺があったことはあまり知られていない
元がこの後日本の報復を恐れて、自国の海沿いに対日本の防備を固めるとか凄いよね。鷹島沖海戦とか鎌倉武士が昼夜問わず一日中襲い掛かってくるとか怖すぎる。
しかも艦隊に向かって小舟で向かってくるからな
鎌倉武士「敵攻めてくるから防衛しよう」←分かる鎌倉武士「敵が後退した。このままだと報酬貰えないかもしれないから夜襲したろ」←頭おかしい
@@サイコルヴィク 基本給だけじゃ満足できないから残業するのとおんなじ感じかな。今も昔も日本人の考え方は変わってないのかもw
@@サイコルヴィク 敵が退いたら攻めるのは常道でない?
@@わわわー-s4h なんかワロタ
南宋兵の捕虜はその後開放したが、高麗兵の捕虜は全員処刑したそうですね。高麗兵は対馬や壱岐の住民を虐殺したからでしょう。
高麗兵が全員処刑はその通りですが、南宋兵の捕虜はその後解放されておらず日本側の奴隷にさせられましたね。鷹島掃討戦を戦った兵でその後故郷の地を踏めたのはわずか4人だったといわれています。
@@hiyoneco 私が読んだ本には”開放”と書いてあったのですが、もっとその他の本をたくさん読めば良かったです。失礼しました。しかし、侵略しようとした側も残虐行為を行ったわけで、当時ならそうなるのが必然ですね。
大和民族日本人舐めたらあかんわ!
まさにその通りでそもそも南宋人は元々日本と仲良かったし、特に南宋仕込みの技術者は寧ろ普通に助けて全国の神社仏閣の改築改修に人材活用したそうです。
南宋兵は、元々、元に侵略されて滅ぼされており元に恨みを持つ者も多い。嫌々日本侵攻に動員されてるだけ、かつクワなどを持たされ、現地(日本)を開拓せよというある種の棄民政策なので戦闘士気は非常に低かった。それを見抜いた日本兵は、投降する南宋人は許し、敵を仲間にしていった、と。ただしモンゴル兵と朝鮮兵は許さない。高麗は元に完全に征服されており高麗王がひざまずき、元王朝と婚姻関係を結び高麗王自ら日本侵攻を持ちかけるほど昵懇。色んな国に寝返る外交手法は今も健在です。大陸から逃げてくる人を受け入れるとか、当時の多国間関係は現在にも共通する面が多々あり、考えさせられます。
ありがとうございます!高校レベルの歴史だと、神風が来て元軍は撤退したくらいしか勉強しないけど、軍事的観点から文永弘安の役を学習できて、大変意義深いです。
まあ夏になれば台風は来るわけで、そのおかげで勝ったのではなく(江南軍の司令官の病気という幸運はあったにせよ)その時期まで上陸を許さず奮戦したから勝てたということだね。現場の頑張りも長門まで防衛させてた幕府上層部の手腕もどちらも見事。
日露戦争時のバルチック艦隊の動向を伝えた漁船のように住民含めて総動員の意識があったのかも
@丈実 まあ概ね同感ですが有事と平時はまた別だと思います
台風だって偶然じゃなくて毎年来るわけですから、当然作戦の内ですね。
@@shinto2600 台風は来ない年もある。台風がたまたま来る年であっただけで、自力で勝つつもりではなかっただろうかと思います。鎌倉武士「台風なんぞに頼る気持ちが負けにつながる。自力よ。自力。来たら運がいいくらいに思っとけ」
上陸を許しちゃったらその時点で負け戦ですからねノルマンディー上陸作戦といい、仁川上陸作戦といい
国も英国のダンケルク撤退作戦みたいにもっと英雄たちを称えて欲しいわ。神風で済ませちゃいかん。
全くそのとおり、防人も称えるべき。日本全国で護ったんだからちゃんと理解してほしいよね。
結果的に護国の英雄だけど護ると言うより手柄を獲りに来てる首狩り族の集団だから神風神話にせよ勇敢な漢の英雄浪漫譚にせよ大人になってからこの話聞いたらどうしてもヤベー、日本の武士はバーサーカー!って笑ってそうwww
国っていうかガンは文科省です。あれの酷さは貧困調査員前川みたいなのがトップやってたんだからお察しです。敢闘精神と軍事的防備で勝ったって教えたくないです。日本から軍事基地や武術を消し去ろうとしてる連中ですから
この時代の武士達のおかげで今の日本があると思うと涙が出てきました。やはりもっと称賛されるべきですね。
「夜討・朝駆け武士の習い」とはよく言ったもんだ。さすが鎌倉武士!天晴れ!
動画めっちゃおもろかったー戦闘狂の武士集団が国を守るために次々襲ってくるとかイカれてるなぁ。誇りに思うわ。やっぱ対馬と壱岐やられて怨み積もってたんやろなぁ。
大軍が攻めてくるんだから手柄首のバーゲンセール状態だったんだよ。元軍が大軍できてしまったのは妖怪首置いて一種類だけの百鬼夜行のテリトリーだからね。首がついてる限り追い回されますね。仕方ないね。
細川卓也さん怨恨みというよりも、婦女子を守る男児の本懐の万人共通の正義を破った相手に対する怒りでしょう。
防塁の近くに住む者として大変勉強になる動画でした!近所には防塁だけでなく慰霊碑も沢山残されています。自分の子供にも時期が来たら見せたい神動画でした!ありがとうございます!!
バス停防塁前、祖原山、百道浜。地元なのに、あんまり話題にならないのが残念です。
武士って「カッコいい」というよりも「恐ろしい」って感じが好き
鷹島って首除、首崎、血崎、血浦、死浦、地獄谷、遠矢の原とか物騒な地名がたくさん残ってるらしいね
@@不老不死のフリーザ-l5w 通知が来たからどんな返信が付いたんだろうと思ったら・・・。何でここに動画と全く関係ない長文コメを返信したのかは知らないですけど、複数の国が関わる歴史を学ぶとき、一つの国の言い分だけを鵜呑みにするのは危ないと思うので日本側の歴史も学ばれたらいいと思います。フリーザ様の主張にはあんまり興味がないのでこれ以上は返信しませんけど、頑張ってください。
逆に縁起の良い名前も過去に災難があった場合も多いよ。ちゃんと名前で残すのはそれだけ覚えておいてほしいのかもね。今も中国は危険だしw先人は賢いなぁ
地名の癖がスゴい!
犠牲になった兵士たちが哀れで丁寧に残虐な敵を祀った日本人の心が凄いし地名に残る凄まじい闘いはもっと語り継がれることが大切。今年は蒙古襲来から750年とか。
大きな敵の為に一致団結して怒涛の攻めで大敵を壊滅させる武士たち激熱すぎる
鎌倉武士強すぎてご先祖様に感謝長門の方にも元軍来てたなんて知らなかったなー。学校では習わなかった
山口は長門・周防の2か国にわかれますが、日本海側の長門は良港も多く、仙崎などの日本海交易の停泊地がありますからね。上陸しやすい沿岸地=港であり、交易路に沿って艦隊が進んでくることは想定されていたわけです。日本の中心地だった畿内につながる瀬戸内海の玄関・関門海峡の入り口にもあたりますから、長門を抑えると日本海交易路、瀬戸内海交易路、そして博多~朝鮮への退路も抑えることができるので、元が進撃する上で博多と同じくらいの重要な拠点になるわけです。そのため、鎌倉幕府も重要防衛ラインと考えて長門探題(ながとたんだい)という中国地方の司令長官職を設置して、執権・北条時宗の実弟・宗頼を鎌倉武士団をつけて赴任させて、中国地方の武士たちも動員して待ち構えてました。
鎌倉時代の刀剣の錬成方法がロストテクノロジーになっていますからねどこからあんなヤバい武器を手に入れたのだろうか
学校は日本の誇りを失うためにあるんだなぁ
チンピラやキチガイを撃退したらドン引きされ、おとなしく56されるのが行儀いいとされるのが現代社会なんすよね(;´д⊂)
まぁそうゆう世論を反日組織が作ろうとしてるだけだからね。これからの若い世代の意志が変わることを期待したい…
まあ元軍が誤算だと思うのは世界でも戦闘力と勇気士気で名高い侍のしかもその中でも頭がおかしいと言われるくらいの精強な侍である九州の侍の地元を襲ってるって事だよなwそりゃ普通に撃退されるわけだよw
元寇の頃って、鎌倉時代で武士が一番纏まってて強かった時代だと思う。3度目の元寇があったら武士が一丸となって死闘を繰り広げたかは疑問。偶然『神風』が吹いたことを奇跡と呼ぶなら、寧ろ武士が一枚岩となって最も強い時に襲われたことのが日本を守れた奇跡と呼ぶべきだと思う。
いや俺が頑張ったっていうのも日本を守れた理由だね
何自慢げに言ってんだよww
@@日韓海底トンネル反対シャンク まじでありがとう
@@日韓海底トンネル反対シャンク ゴーストオブツシマだろw
戦後、日本は神風(ラッキー)で守られているような印象を持つ歴史教育がなされていますが、本当は日本人が守って来たのですよね😄👍✨ 世界で一番長い歴史を持つ日本は、世界で一番自国を守ることに長けた人々の国なのかも知れないですね。なんせ戦闘員の国を守ろうというスピリットが凄すぎる!
九州男児の気質って絶対この頃の鎌倉武士の流れを汲んでるよね。
二の太刀要らずやからねぇというか九州一帯はこっから江戸まで戦闘民族よ…
島津氏もこの頃からですね。
薩英戦争ェ…
@@GEORGE-hh7vy あれは悪天候じゃなきゃ負けてた 運が良かったとはいえ奮戦できるほどの実力があるってのは事実だけどね
九州男児の気質とよく言われるけど、九州のおばちゃんたちはそれに勝るほど強い気質を持ってると思うのは、うちの親戚だけやろか。。
鷹島でとある武士が討ち取られて、その首が敵陣地に晒されてるのを見た郎党が突撃して元軍に少なからぬ損害与えて首取り返す逸話すき。
元「大将首見せたら士気下がるやろ」武士「大将の首晒されとるやないかい!死んでも取り替えせ!」元「どうやったら心折れてくれるの!?」
逆効果wwガチギレスイッチ押しちゃったよ
それが御恩と奉公です。
@@船に置いていかれた海賊 どうやったら心折れてくれるの!?ww笑った
@@showshika 当時最大の大軍→首が多いことに歓喜大将首を晒す→キレて突撃大軍が援軍で増える→増えて狂喜乱舞人質を盾に→人質が俺ごと殺れと煽る士気下げる要因→結果★爆★上★げ★どうやったら下がるの!?って思ったのは元軍とあと私もですね。
学校では教わらない大事な日本史。当時の人の勇気や知恵、一所懸命によって今がある。彼らの血と魂を僕らも引き継いでる。
いつも見ても思うけど学校でこんな授業があったら日本史・世界史がもっと好きになってたと思います。資料として子供達に見せてほしいw
12才の中学生です。凄く判りやすかったです。夏休みにお父さんと元寇防塁へ行きました。元寇資料館も行ったけどコロナの影響で今年いっぱい休館と受付のおばちゃんが言ってました。
@@不老不死のフリーザ-l5w こんなパヨクの妄想を信じちゃいけないよ。
歴史に興味があるのですね。これからも沢山勉強して下さい。そして正しい歴史を知った大人になって下さいね。資料館が休業だったのは残念でしたが機会があればまた行ってみたら良いですね😄
@@PS-gj8ms 社会は嫌いだったけど中学受験で色々教えてもらって好きになりましたww中国とか朝鮮が色々と捏造してる事は知ってます。お父さんや九州のじっちゃんが本当の日本の歴史を教えてくれます。元寇資料館行きたいけど、僕は愛知県なので夏休みしか行けませんww色々ありがとうございました。勉強頑張ります_(._.)_
@@だっしゅK 慰安婦?奴隷?の事はよくわからないけど、当時の南京で20万人殺したと言ってるけど、当時の人口が約20万人くらいで大虐殺が事実なら街を全滅させた事になるとお父さんが笑って教えてくれました。上の人が何で僕に言うのか?わかりませんが僕は大丈夫ですww
@@dr.ryusuke1918 さんお父さんの言うとおりですね。今では30万人でしたっけ?どんどん数が膨れ上がって捏造もいいとこです。要するに沢山と言いたいのだろうけど。写真とかも色々あるけど、あれも全て捏造だしね。本物が何一つない。正しい見識を12歳という若さでお持ちとは、こちらの頭が下がるます。
日本は昔から人口も多く兵も強かった。現代は謎の「軍隊持たない」とかいう思想でアメリカ軍に占領されて骨抜きに。すごい特殊な時代に生きてる。それどころか「「軍隊を持たない」をこれからも大事にしよう!」というさらに謎の勢力の声が大きいという始末。
@@菅原道真-r2y その後40年会社という兵役で草
まさにそうですね。さらに他国に守ってもらうという現状。鎌倉武士が現状を見たら腰抜かすでしょうね。
沖縄や九州を狙ってる中国狂産党の思惑っすかねえ
いざとなったら戦闘民族の血が騒ぐから大丈夫かも
神風があったからこそ勝っていた、という根強い風潮をずーっと信じ込まされてきましたが、日本人の底力と対抗しうる軍事力があったからこそだったのですねー!あっぱれ!
スパルタやジャンヌダルクの動画の時もそうでしたが、死を恐れない士気MAXのバーサーカー状態になることが重要だと思いました。今の山口県に襲来した元軍7000との戦いも気になりました
神風なんかなくても全然勝ててたわけですね。士気が違う。こういう素晴らしい先祖を持ったことを忘れてはいけないですね。
士気というか、殺る気が違う。
@@工藤和男-d7h 戦闘集団・武士!後の戦いでも、中国朝鮮兵を相手の剣ごと真っ二つにしてたって聞くもんなw
❌日本が助かったのは台風が来たから……⬅日本の教科書⭕日本が強固に守って押し返した。元兵は負けて逃げ帰る途中に台風に襲われた。
@@不老不死のフリーザ-l5w まあ、慰安婦も南京大虐殺も韓国人と中国人の妄想なんですけどねww慰安婦は当時の大臣クラスにメッチャ高給取りだったのが分ってるんで、奴隷ってそんなに給料貰えるもんなの?w南京は日本が占領して中国人野盗や軍閥から街を守ってたから、日本が占領してる間って南京の人口が増えてたんだぜ?大量虐殺してるのに、なんで方々から中国人が南京は暮らしやすいって集まってくんの?ww
そりゃ防人の時代から監視してて、遂にきやがるって状態だし、殺気立つよね。
夜討ち、抜け駆けしがちな武士達だが、裏を返せば小集団での自律した戦術的判断ができるということですね。日本の複雑地形で戦ってきた武士達だからこその戦い方で、だからこそ統率困難なはずの船団への夜襲でも戦果を挙げることができたのだろう。
小集団の散兵戦術がとれて、集団でも戦闘出来てで、モンゴル騎兵にも劣らなかったでしょうね(=^・・^=)武士こぇw。
騎兵頼りの軍って上陸戦が一番辛いと思うわ自慢の騎兵が十全に発揮できないし
一兵士としての白兵戦は当然できて、下士官として小部隊の指揮もでき家の子郎党率いて中級指揮官もできれば軍議で参謀級の戦術眼もある重装弓騎兵とか武士ってもうヤバすぎ
小集団では強いが、逆に個々の家の力が強すぎて大集団での統制した行動はできなかったと言われています。まあ、戦術的にどっちがいいかはケースバイケースではありますが…
@@コメント用-m4w やはり、副社長が陣形解説で言っていたように、環境による違いが軍事の方向性の違いになるということですね。また、遊牧民のいない大陸の端に行くほど封建社会が発達する傾向もありますしね
元軍「よし、長門へ絡め手を送って背後突くぞ」鎌倉軍「読んでるわい」
カッコよすぎ
因みにこの時の東路軍は山口県の長門にも来てるけど、こっちは単純に東路軍が現地の武士に返り討ちにされて一人残らず全滅してます。当時の現地の武士に「なんか蒙古がこっちにも来たよ」言う記録だけで戦いの様子は無いのが残念。
山口にも来てたのが初耳!
こっちにも来たよって友達感覚で笑える
元軍の別動隊が来てるのに、『こっちにも来たよ』って軽い感じで終わってるのが面白い
山口県の防府に上陸したのは、東路軍(モンゴル・高麗軍)の内『高麗軍』。対する鎌倉武士団は、中国と四国の軍で総勢2万4千騎の組織で、本州と九州との海峡防備が任務。この防府にも『防塁』が築かれていた。上陸して山陽道を目指して行軍していた高麗兵は迎撃され全滅、軍船に残っていた兵と水夫は、東路軍と合流した。地元には記念碑(慰霊碑)もあるようです。
長門国萩市長門大井の鵜島には本格的な公的調査が入っていないため定かではありませんが元寇防塁跡と呼ばれる大規模な遺構があります。付近には元軍船の錨と称される大きな岩もありますがこちらは後世のものでないかと言われています。syakeassi.xsrv.jp/5721
死にものぐるいでご先祖様が戦ってくれたからこそ今の日本そして自分があるのだと感謝しております。
福岡出身なので防人に関する予備知識はあったものの、先祖が超超頑張って根性120%発揮して国難を乗り越えたことが改めて分かった。
素晴らしい解説、ありがとうございます。楽しく拝見しております。何処かのタイミングで南北戦争史も解説して頂ければと思っております。引き続き、制作を頑張って下さい。三人の中では副社長の解説が最も聞き易くて好きです。
この時の日本の総人口が500万人ほどと言われている中で14万人も攻めてくるとか本当に国難だったのがわかりますね。
日本の総人口500万人は少なすぎると思うよ。実際はどれくらいいたか分からない。NHKの磯田先生は1000万人ぐらいはいただろうという解釈だな。
@@usa7006 一応注釈をつけるなら500万人というのはお上に提出されている書類で「住民」として登録されている人数ですね。山賊・悪党・川に住んでる人々など「住民」と認められなかった人々は相当数居たと言われてますね。
しかも今回も鎌倉の坂東武者無しで撃退してる。宇都宮氏が六波羅探題から坂東武者の援軍を引き連れてきたけど、その時にはもう決着がついてしまってた。
山県昌景 川に住んでる人って穢多とかの賎民系?
律令制が崩壊してから戸籍は国有地以外であんまり意味ないからな。
私が中学生だった時は、「台風のおかげで元寇は去っていった」という事が強調されてました。鎌倉武士たちの優れた頭脳と高い士気のことは何も言わず、自分の国に誇りを持てない授業ばかりでうんざりしてしまいます。次の世代の若い人たちにはこのような授業を受けさせたいです。
日本万歳というわけじゃないけど、いくら国内で普段勢力争いしてても、国難に一致団結出来る民族性を持つ国って世界的にもあんまりないんじゃないかな。そこが近代の戦争でも生き残り、現代まで独立を保ち、大規模災害でも冷静さを保ち、特別な法が無くとも団結できるんだと思う。そこが日本の力
今や国際金融資本の工作員の菅、竹中、アトキンソングローバリズム政権により大阪は解体されそうで北海道はアイヌウポポイで国民分断工作を行っている。菅は女系天皇推進派とか日本の総理大臣として失格。水道民営化、中小企業改革、移民法、農協改革と次々と改革=国体破壊がロックフェラー系の国際金融資本によって侵攻中。戦後敗戦から日本はアメリカの植民地である。
だいたい異民族同士とか宗教の違いで分断されますからね、特にモンゴルはそういう分断工作に長けていたそうですから。
私が小学校の頃に、日教組の担任が日本は2度の台風のお陰で、まぐれの勝利だったと教壇で教えた記憶を思い出しました。戦後の教育は日本を卑しめる為に本当の歴史を捏造してたのではないのかと?。今でも疑問しか感じえません。
今の日本が失ってしまったものが、この頃の日本と日本人にはたくさんあったんですね・・・
@@田中総吉 さんTakeshima in Japan A1 週間前ww2で米軍を苦しめたのも事実です。日清・日露戦争に勝利しww1でも日本軍の活躍が無ければドイツが勝ってたのかもしれないというほどの奮闘ぶりだったのです。あと北京の籠城でも柴五郎や日本兵の活躍が絶賛されています。映画ではなぜか白人が柴役をやっていますが。豊岳正彦返信(何度直して投稿してもキャンセルされて反映されないw)ww2でも、昭和天皇が破廉恥な無条件降伏しなかったら、ベトナムでも勝てたアメリカ如きに日本が本土決戦で負けることなどありえなかったよ。もし米軍が愚かにも本土上陸侵攻決戦していれば元寇の時の元帝国以上に散々な目にあっただろう。沖縄で破廉恥極悪非道な婦女子虐殺していたからね米軍は。天皇以外の日本人は沖縄占領されて老若男女全員怒り心頭に達していたところにさらに原爆2発という破廉恥の極致な非人道鬼畜攻撃が加わって、8月15日までに日本人全老若男女の、対米帝国撃滅士気は歴史始まって以来空前絶後に高かったのである。玉音放送のせいで日本人全員が背後から虚を突かれて茫然自失大混乱に陥ったのも無理はない。これは今でも全く同じだ。母国本土防衛なら日本人文武両道大和魂は地球の歴史上常に群を抜いて宇宙最強である。つまり士農工商文武両道武士道大和魂日本人は誰もアメリカに負けていない。もともと渡来人の天皇が一人だけびびっておのれに負けてアメリカに無条件降伏のしっぽを振っただけである。戦後はそれをごまかすためにすべてのGHQ行政が行われた。極東軍事裁判という冤罪捏造裁判によって更なる反人道犯罪のGHQ焚書坑儒が大々的に行われた。そしてアメリカの反人道戦争犯罪をごまかすために最高裁奇形司法と放送法と日本学術会議法を作ったのである。我々のご先祖様武士道首相幣原喜重郎が作った戦争放棄第9条日本国憲法違反の。
3回目の元寇は前回の戦いで朝鮮半島がはげ山になるくらい船の材木に使ってしまい船が作れなかった話もあります。後、高麗王も高麗兵を出したがらなかったのも一因だと思います。
@丈実 そうどすよね、そもそも元のケツを掻いたのが高麗ですからね。
因みに後の文禄慶長の役前に交渉担当の日本の使者が、現地の李氏朝鮮の関係者と口論になった際に「お前ら元と一緒に攻めてきただろう!」言って相手が黙ったそうですw。
日本も高麗兵が虐殺したと教えないからいけないね
モンゴルと高麗との戦いの経緯も動画で見たいですね。ウィキペディアには1231年から1273年まで40年以上、断続的に戦われたとされているようなので、相当すごかったのでしょう。
反日に凝り固まった野蛮な「高麗」連中を成敗したくなったよ。
小学生の子供にも見せたい動画ばかりです。今回ではないですが、R指定にならないような番組作りに拘ってもらえると学校のホームルームとかでも補修とかでも使えそうです。学びの場をありがとうございます。歴史ですから奥が深く大変だと思いますが、ちびっこファンも多くいますので頑張ってください。
武士すごいw って笑いながら見ていたけれど、その人たちのおかげで、今こうやって笑いながら動画を見ていられるのかもですね。この動画のおかげで「学校の授業で聞いた話」と「今」が繋がったように感じました。
元軍の武器は大きくまた脆く破壊力はあるかもしれないが動作が鈍く日本刀のスピードの速さ攻撃の正確さ武器としても強度があり剣を交えても相手の武器が折れたと聞いてます。また弓も小ぶりで武士の使う大弓は身体に与えるダメージが大きかったとも聞いております。日本刀最強。
この頃の日本刀は今の日本刀の原型になったプロトタイプみたいなもんだけど、刀としての質(殺傷力・耐久性・破壊力)は段違いに良かったようです。後の時代に使われる護身用や首狩り用ではなくヤル為の刀だった。
この頃の太刀はロストテクノロジー化してて制作不可能だそうです。
@@rerepopo663 多分研究すれば生産は出来るだろうけど、銃刀法に引っ掛かる品になる筈芯の無い一枚板で出来た品らしいので、美術品定義の現代日本刀とは根幹が違うようです。
14:22 あれだけ残虐な事を対馬で行ったのだから、日本軍が大陸兵を許すわけ訳ないですね~
たしか中華思想だと日本は東夷だっけ、東夷は礼儀正しく統制取れていて戦時になったら容赦しないから手を出したらダメってやつだったと思うそんな国にて出したら手痛い反撃されるよね
戦死したモンゴル兵を供養する蒙古塚が志賀島には建てられている
モンゴル関係者からも感謝されているそうですね、敵軍を何百年たってもここまで丁重に扱う国ってないと思いますね。
侵略してきた敵であっても死ねば敵味方なく弔う。こんな人が祖先にいることに誇りが持てます。
略奪に来た相手を供養するなんて!
日本人のやさしい心意気素晴らしいです
この後北条時宗も戦死した日本側と元側両方の魂を追悼してますね。
元寇本当にかっこいいからみんなもっと知って欲しい
めちゃくちゃ面白い。知的興奮。こういうのをテレビの地上波でやればいいのに。高校の学習資料としても超一級。素晴らしいの一言です。
戦争は奇跡で勝てるほど甘いものではないねましてや当時最強と言われた元相手だ当時の指導者の采配と軍事力があってこその勝利だね
陸軍最強が海軍慌てて作っても最強ではなかった
待ってました! 副社長さんの語り大好きです!
こういう先生居たら毎回の授業楽しく聞けそう!
この様に外国軍を蹴散らした日本人だけど、その前後の宝治合戦や南北朝の動乱はそのバーサーカー同士の殺し合いだった訳だから、その様子を想像すると怖いな…
時期間違ってたらモンゴルに九州取られてたねえ
もしも、源平時代なら、、、
@@中段チェリ王 平安時代だったらヤバかった...
@@ガイマデン 貴族社会だったら😱
元寇は教科書でしか知らなかったんで、詳しい話が知れてよかったです。自分が日本人だからなのか、鎌倉武士の凄さには誇らしさを感じますね。
教科書では苦戦したけど運良く嵐で元軍壊滅して勝ったみたいに書かれていて腹立たしい。モンゴル撃退できたの日本とヴェトナムくらいしかいないからもっと称賛して然るべきだと思います。
日本の戦闘民族っぷりが凄いwww前回と合わせて解説見たら、神風での奇跡的な勝ちって説より全然インパクトも説得力もある時宗解説は期待したいです
ぴろすけさんの「戦闘狂」という表現はドンピシャだよね。日本の歴史全体見たら「和」の優先度低いと思う。
@@namuchiZDK 日本史で有名な部分とかいつかやるさんの解説を見てもほとんど【和】より【武】の側面強い感じ【和】のテイストが強くなったのは安土桃山後半~江戸時代にかけてって感じっすかね?
@@ジョージジョルノッブ 江戸時代で「和」が強くなって、日清・日露戦争でまた「武」が強くなったって感じかな。日本が「和」を重んじる国民だというイメージは戦後教育の影響であり、日本史全体をとらえた見方ではないと思う。
この時代の欧州の騎士も似たようなもんですよ。有名な十字軍遠征も常に闘志むんむんの騎士に、戦わせてストレス解消の場を与える意味も多かった。
最後の鷹島の戦いとか、相手は船を失い補給も無いのだから、海上封鎖し降伏するのを待つだけなのに、小舟で鷹島に乗り込んで突撃、そして敵の戦死者数7万~8万、戦闘狂と言っても過言じゃない状況ですね。ちょっとやり過ぎた凄惨な現場を見て、こいつら台風で死んだことにしようという意識が働いたかもしれませんねww
武士強すぎ。俺も気合い入れて清掃頑張るわ。
清掃(皆殺し)と
@@疋倉ヨバラ バーサーカーで草
自虐史観は本当に悲しいものだ。武士達の力で勝利を収めているのに、約800年後の未来ではラッキーパンチで辛勝したと子供達は教わるのだから。
56し合いで自国に誇りを持つなんてくだらないね。むしろ戦争による自虐史観は必要だ。
@@user-kz5uv6hx8d 事実をねじ曲げた自虐史観だけどね
@@user-kz5uv6hx8d 武士は日本を象徴する戦士だし、その武士が外国からの侵略を防いだんだし誇りに思っても良いのでは?
@@user-kz5uv6hx8d なるほど、中国は始皇帝に誇りを持つのはくだらない、中国は自国民を大量に47せてしまったことを自虐史として悔い改めろと言いたいわけか。習近平にも刺さる言葉だね、中国のSNSに国家主席を皮肉る発言として紹介してもいいかな?
@@user-kz5uv6hx8d それロシアの戦勝記念日に赤の広場でプラカード持って行ってみろよ
3回目の元寇を期待したのに来ないからって壁に元への呪いの言葉を書いて老衰で無事天寿を全うした人もいるぐらい頭イカれてた当時の侍
戦闘民族すぎる。
戦う事に生きがいを持つ民族なのかな?
侍=当時の軍
バーサーカーかな?
洗脳教育によって骨抜きにされて自虐史観に染められた今の日本人は、この頃の熱い想いを思い出してほしい。
人間がまとまるのは共通の敵の認識なんですね。敵がいなくなった途端内部分裂で鎌倉が、、、。
報奨がねぇ。。。
↑で、1560年に『尾張❨おわり❩』で人生の『終わり』を迎えた
武士「がんばったから恩賞くれ」寺院「俺たちが祈祷したおかげ。恩賞くれ」神社「神兵が出現して協力した。恩賞くれ」幕府「防衛戦だから無いよ…」
イチコロOUT
内政がマズくなると他国を敵として吊し上げ、自国民の目をそむせさせる・・。現代でも頻繁にありますよね。お隣の国とか。
弘安の役で、日本側がこんなに素晴らしく戦ったと言うことを知り、とても感動しました。鎌倉武士の凄さをあらためて知り、日本の中世史を再度勉強したくなりました。ありがとうございます。
激戦区の祖原山で花見してたし、母校に防塁の跡が残ってるくらい地元の話で、歴史研究してた身としてかなり詳しく調べてるんですが、完ぺきな解説…めっちゃ面白かったです!しかし、鎌倉武士、九州の武士って超鼻息荒い戦闘民族ですよね。文献調べてると、どんだけ戦闘狂なんだってよって呆れちゃうくらいですが、神風の加護を除いても、幕府首脳陣の国内反乱分子の制圧に始まる一連の戦略は冴えわたってますね。熊本県南小国町には、兵站基地を設けてたはずです。もし上陸を許し、大野城~太宰府の防衛ラインまで抜かれた場合、筑後平野から肥後菊池の山間部に引き込んで持久戦で殲滅するつもりだったようです。
太宰府のラインで防衛する話は聞いていたんですがその先まで計画があったんですね🤭しかし菊池の山間部まで引き込む前に目の前に広がる筑後平野に元軍が展開し、得意のおびき寄せ作戦に乗ってしまっていたら大会戦が行われたかもしれなかったですね。実際ここでは約100年後に筑後川の戦いという大会戦が行われていますしね。
うわ、地元民だから母校も特定できそうw
考えられてるなあ。上陸されてても撃退してそう
@@okotarou1464 そうですね、南部は沼沢地も多かったのでゲリラ戦になったかもしれませんが、筑紫野~小郡付近の筑後平野北部では大軍を展開できますからね。騎馬は水を恐れるので、水上搬送が困難なことが文永の役では幸いしましたが、弘安の役で動員された大艦隊は前回の3倍規模。モンゴル本軍も含まれますから馬もいくらか連れてきていたかもしれません。筑後平野で体制を整えた元軍と鎌倉武士の弓馬術の戦いになっていたかもしれませんね。ただ、筑後平野は大規模な穀倉地帯でそれだけ人口も多いわけですから、飢えて疲弊した餓狼のごとき元軍が入ってきていたらと思うと、、、ゾッとします…。九州で打ち損じた場合、元軍は水軍規模を利用して上陸軍は九州制圧を、半数は艦隊でそのまま瀬戸内海に入って難波付近での上陸、つまり京都制圧を狙ったかもしれませんね。幕府が博多商人を通じて元と南宋・高麗の情報を得ていたように、元も情報収集してますから。そうなると、もう幕府は後手に回らざるを得ない。副社長が解説されているているとおり、博多湾を中心とした九州山口沿岸地域と戦略展開を集中させ、二段階目にはその後背地である北部九州内陸部で殲滅するために焦土作戦を準備していたかもしれません。福岡は焼け野原…。
@@naonao2593 この当時の日本人がどの程度日本人としての自覚があったのかわかりませんが、ちょくちょく内通者の記録も見聞きするのでもし有力御家人レベルが元軍に寝返ることがあればかなりまずい事態になっていたかもしれませんね。
あの元相手に武士が暴れまくるのか。すげー。守ってくれたのは感謝やな。
これ見た後のGhost of Tsushima マジ楽しすぎる。
我慢できずにかってに夜討ちしちゃう人たち好き
まぁ……鎌倉武士だし…
@@不老不死のフリーザ-l5w 完全否定するつもりはありませんが、韓国側が話を盛って石碑に刻んだという可能性だって全くないわけではないでしょう。南京での大虐殺だって、亡くなった住人の数が虐殺前の住人の数の数倍にも膨れ上がっているそうですし。
@@ゆっくり夜露 実は関東からの援軍は到着してなくて、九州の御家人の活躍が大きい
@@疾風-r3z 鎌倉時代の武士って意味じゃね?知らんけど
もうマヂ無理…夜討シヨ.......
武士に実力がなかったら早々に陸上拠点が作られてたはずだよね
対馬の人々は手に穴を開けられて奴隷として連れ去られて行ってしまった…元軍許すまじ
土地は取り返せても人は取り返せなかったと思うと無念
あいつら鬼畜で食べ○として対馬の方々を連れて来たとのこと。それで武士も許すまじとなった模様
元高麗連合許すまじ
そんな事は学校では教えてくれないなぜ自国のされた事を学ばせない?
@@gummad1702 えぐいからでは
奇襲でもなんでもなく小舟でくっそ士気の高いイカレタ武士が突っ込んできたら怖すぎるわ…
サムネ「 恐 ろ し す す ぎ る」恐ろしすぎるあまり言葉も驚愕してもうてる…
昔の授業で運よく台風が来て日本は勝ったのが勝因みたいなこと教えられたけどやはり根底に日本武士の勇猛さがあったからこそ勝利することができたんですね。そのルーツがあったからこそ大東亜戦争でペリリュー、硫黄島、沖縄の戦いのような壮絶な持久戦ができたと思います。日本を守ってくれた先人達に改めて感謝したいです。
防塁が今では断絶してしか存在していない一つの理由が、当たり前の話なんですが当時の海岸線に沿って構築されたからなんですね。このことについて調べたのが郷土の歴史についてハマった最初のきっかけでした。
福岡ですか?自分も生まれたのがそっちなので結構興味あったりします。他にも長崎や佐賀にも防塁があったそうで今住んでる山口にもそうじゃないかと言われてるものがあるので見ていただけると嬉しいです(長門大井のものは公的な調査が入っていないため定かではありませんが……)⬇syakeassi.xsrv.jp/5721
@@Hatomaru-l5s これはすごい石垣の遺構ですね。
@@Hatomaru-l5s 佐賀伊万里湾に浮かぶ元軍殲滅の地である鷹島を挟み込むように伊万里湾の両岸に残っているのが星賀の防塁と逃げの浦の防塁ですね。また地図とご紹介いただいたサイトで長門のものについて確認してみました。そうして考えてみましたが、これは敵軍の上陸予想ポイントに接した海岸線になるべく長大に構築するという防塁の特徴から考えると少し違和感がありましたね。自分はここをこれだけ厳重に防備する戦略的価値が見出せなかったのが一番の理由で違うかなと思いました。やっぱりここに至るまで山口県の海岸線で上陸出来そうなポイントはかなりあるのでそこに配置せずになぜここなのかという答えが出ないのでそう思いました。サイトさんでは古代山城の(いわゆる神籠石ではないか)という予想がされてましたが、自分はそれについては半々かなと思いました。それについては神籠石にだいたいある排水施設の特徴がまったくないという部分で疑問だなと思った次第です。基本的には神籠石は貯水機能を内側に持ちある程度の兵員を収容して長期間自給できる拠点として構築されているのでこの規模ではそれらが難しいと思います。しかし神籠石と考えると位置的には瀬戸内海側の石城山神籠石とちょうど真反対の日本海側に位置しているのでこの二つを結ぶラインで敵軍の侵攻を阻止したかったのか?(そうすると中国山地中央にも何かあるのかも)という合理的な理由も見つかることは見つかります。以上のことから総合的に判断すると古代山城神籠石説がやや有力でのちの時代にアーチ門などは付け加えたのかもしれません。
@@okotarou1464 丁寧な考察をしていただきありがとうございます。素人考えながら石垣の積み方があまり新しいものに見えず、また当地は古代において大変栄えており、かと言ってアーチ状の石門は沖縄のグスク以外に見た事がなかったもので判断に困っておりました。県教育委員会の資料を当っても元寇防塁跡(では無い可能性もある)と、地元の伝承による記載のみで特に調査が入っておらず大変気になっておりました。将来謎が解明される事を祈っております。ありがとうございました!
@@Hatomaru-l5s これだけのものがなぜ調査されていないのか疑問ですよね、そのぶんこれを実地調査されてサイトにまとめられた方は素晴らしいと思います。それと書き込んでから色々と考えが浮かんできたので書かせていただきますと、元寇防塁の可能性ですがもしかしたらかつては山口県の海岸線に防塁が点在していたのかもしれません。それが時と共に樹木や砂に埋もれたり天災による破壊により全く姿を見ることができなくなって結果的に鵜山のものが単体であるように見えるのかもしれません、伊万里湾岸の防塁がまさにそれに近いですから。色々考えましたが、かつて古代山城として構築された遺構に元寇を機に手を加えて室町期戦国期に改修されたが廃城となり今に至ったのでは?という一応の結論になりました。ただアーチ門は謎のままですね、アーチ門はおっしゃるように沖縄の城址にある特徴ですから沖縄に沖縄のこのタイプの城塞が築かれた時期に渡航した者や沖縄にもともといた者がこの地にやってきて組み上げたのか、あるいはそのルーツになった大陸の城門を知る大陸からの渡航者が構築したのか。後者の説をとると第一に元寇機以前の古代に流れ着いた者が構築した可能性ですね、実際この周辺にはいわゆる楊貴妃漂着伝説もあるくらいですからそれ自体が都市伝説レベルの話であったとしても漂着民が流れ着くことはあったのだと思います。そういう漂着民が住み着いて構築した説もう一つは元寇機以降に構築された説ですね、これはこの地に上陸した元軍が元々数がそう多くはなかったので砦を構築して日本軍の九州への援軍をこの地に誘引して妨害するという役割のもとにできたという説です。その時にもしかしたら古代城址の遺構を利用して砦を構築したのかもしれません。
大艦隊に切り込むとか武士勇気ありすぎ
面白くて10回以上この動画を繰り返し見てるのは多分私だけ。
河野通有は、石塁の前に陣を張って不退転の意思を示して、九州の武士からも尊敬されていたらしいですね。敵大将を生け捕りにしたりと武功も挙げていたみたいです。
何ヶ月もいつ攻めてくるか分からない状態で待ち構えてて、これだけの士気の高さ。鎌倉武士はヤバいですね。
むしろ待って待ってやっと来た!っていう感覚なのかもしれませんね。クリスマスを待ち望む子供みたいな。
志賀島が完全な陸続きになったのは昭和8年の志賀島大橋の建設以降橋脚に砂が溜なるようになってからです。それ以前は干潮に時のみ砂州で繋がる状態でした。他の元寇の記録でも陸続きの記載になっているけど鎌倉時代は現在より海面が高かったので浅瀬ではあったが単独の島だったと考えられます。
こういう風にちゃんと歴史見返しくれるの好き。日本は神風だけじゃ無いんだぞ!!ってのが分かって嬉しい
いつも楽しく拝見させて頂いてます準備に相当な時間をかけてますよね資料集め、その読み込み、分析それを短い時間にまとめて編集されてしかも見ていて物凄く楽しいし何よりわかりやすい!大学受験で世界史を先行して以来久しぶりにハマってますこれからも楽しみにしていますのでどうか無理されない範囲で頑張ってください!
何度見ても涙が出てくる。先人に感謝。
鷹島の昔からの地名が地獄谷とか首塚とか物騒な名前が多いって話あるよね…鷹島掃討戦、元軍の置いてけぼりにされた兵士数万~十万くらい武士に皆殺しか奴隷にされた説やべぇ。
14万の兵と4400の艦隊を動かしたのは第二次世界大戦までないんじゃないかな。日本人は文化なのか遺伝子なのか、兵は引かないからなあ。まあ大震災や津波、台風でもすぐに立ち直るし!
ですね!WW2で連合軍が行った『ノルマンディー上陸作戦』までは“世界史上最大の上陸作戦”でした
そういう面では日本人たふだねw
秀吉の朝鮮出兵がそれくらいの数動員してる気がする
自分の先祖も九州北部を拠点とした武士だったので、この元寇で多くのご先祖様が討ち死にしました。地元の武士団がよく戦ったと伝えて頂き、ありがとうございます。この時、半島などに連れ去られた日本人の女性・子供などを探し連れ戻す戦いが、後に語られる「倭寇」なのではないかと考えています。
まさに。
倭寇の時、足利義満が明に朝貢して臣下日本国王と名乗って、魏に朝貢して臣下になった卑弥呼の邪馬台国と同じく武士の誇りを傷つけていましたね。それが室町幕府の時全国で地上無敵武勇無双の誇り高い大和魂の武士が群雄割拠した一番の原因になったのでしょうね。邪馬台国が菊池彦に攻められてほろんだのもムー大陸時代から宇宙無双の武士の魂がなせる業だったのですね。皆さんのコメントを見て初めて分かりました。信長秀吉の世界制覇の野望も同じでしたか。命を捨てて婦女子を守り抜く日本男児ご先祖様は偉大の一言です。
本当に素晴らしいです!非常に分かりやすいご解説で、毎回勉強させていただいております。この短い時間の動画の為に費やした膨大な調査や苦労が理解出来ます。いつも動画を楽しみにしておりますので、今後も頑張ってください!
戦闘当時の状況がよく分かって面白いです。それにしてもよくこれだけ詳細に武士や元軍の動きが記録に残っているかと感心しました。
欧米&日本人「日本人は大人しいから」っていう言葉は戦後の欧米の願望でしょう。「日本人が一致団結して動いたら、日本がまた危険な存在になる」っていうのは嫌程知ってるからね。
武士階級と小市民は、同じ民族でありながら別種の民族くらい違う人種ですからねぇ。
元サッカー日本代表監督のトルシエは日本人の本質は守りではなく攻撃であるって言ってましたもんね。地味に泥臭く守りぬくのが日本人の本質だと思っていたので外国人監督のこの評価が意外に思ったものです。外国のひとは日本人を命知らずの攻撃的な民族だといまでも思っているのでしょうね。
あの頃へ 韓国人曰く日本人は普段は大人しいがアジア一のサイコパスらしいです
@@なるなる-p6c そんな事は無いでしょ。多分。知らんけど。
***流石に……監督ともなれば、物事の本質を見抜く事に長けていらっしゃる。***第二次世界大戦に於けるハワイのアメリカ陸軍・二世部隊#442部隊・志願兵士の ヨーロッパ・イタリア・ブランズの激戦地での果敢な闘いブリは、アメリカ戦史上最高記録として、アメリカ陸軍士官大学・ウエスト・ポイントで、現在も賞賛され展示されて居るそうです。🤔🤓
長大な防塁の後ろに布陣する武士たちの中で河野水軍だけが防塁の前方の砂浜に布陣した不退転の心意気を誇示するこの背水の陣は「河野の後築地」と称賛され島津を初めとした九州武士はこれを見て奮い立ち、バーサーカーたちの戦意はカンスト状態になった
伊予大三島日本総鎮守一之宮大山祇神社略誌に伊予源氏河野通有の弘安のいくさが詳しく記録されている。ついでに言うと日本海海戦の前に松山の秋山眞之海軍中将が伊予水軍の戦法を取り入れて実地訓練を重ねた丁字戦法(T字は戦後GHQにしっぽを振ったバカ国語教師が保身のためにマッカーサーに忖度して捏造したニセ日本語である)で、ロシアのバルチック無敵艦隊を半日で対馬の海に撃滅したのである。負傷したロシア兵を救って帰国できるまで治療看護し戦死したロシア将兵を慰霊供養し遺品をロシアの遺族へ送り届けた日本人伝統の武士道は古今不変万古不易である。
河野の後築地の逸話本当に好き
諸説ありすぎて弘安は特に難しかったけど、とにかくご先祖様達が奮闘したのは確かで、それを思うと胸が熱くなるというか泣きそうになるというか・・・日本のど根性ってのを多少なりとも知ってもらえたら幸いです。
さて今回でモンゴルシリーズは一度終了です。またいずれ他のモンゴル帝国戦史も予定してるのでお楽しみに~。てか元寇の別の説を紹介するのも良いかも。
とにかく次からまた別の戦史シリーズ始まるのでどしどしチャンネル登録、評価、コメよろです~
もしここで日本が元に支配されてたら、太平洋に元が進出してアメリカまで到着したんじゃないかと思う歴史の浪漫…
@@越後旅斗 太平洋横断はルート長すぎて草
歴史の節目節目に外国人をドン引きさせる日本人
戦後に諸外国がキッチリ牙抜きしようと、色々と手を打ったのも頷ける。
@@従五位下加賀守 日本から船でっというのは難しいかもしれませんがカムチャッカからアメリカに渡ったかもしれませんね。実際にのちの時代にはコサック兵がアメリカまで到達したそうですから。
これって結局本州からの援軍って間に合わなかったんだよね?
九州の武士だけで倒したって話聞いたけど。
本州の武士と九州の武士ってどっちが強いんだろ。
神風で勝ったと習ったけど、子供ながらに何で陸で圧倒してたのに船に戻ったのかと不思議に思ってました
実際は上陸もままならず、夏の海上に2か月も押し留められてたら そりゃあ台風も来るよねっていう
日本軍の勝利は奇跡でも何でもなく、鎌倉武士の強さによる必然だった事がよく分かる解説でした
子供の頃、なぜ攻撃側が船に籠城しているのか本当に意味不明な戦だと思いましたが、謎が解けました。
そのかわりに、なぜ初日から籠城側が攻撃しているかという新たな謎が生まれました。
鎌倉武士だからだよ!(解決)
上陸なんかさせるわけない笑
元軍も想定外の弓の嵐やら辛うじて上陸出来ても日本の重装騎馬隊に追っかけ回されては、出来る事は何もなかったと(苦笑)
あとどこから出てくるかも分からない九州地方の山族やら野武士の血も涙もない攻撃で弱ってくのも可哀想やなって
元軍に、あいつらマジキチと言わせた鎌倉武士好き。
日本人から見ても笑けるくらい狂ってる
古い歴史観だと日本は神風で運良く勝ってそれが戦前の失敗につながったって言われるけど、
ここ最近鎌倉武士の奮闘が正しく伝わるようになった気がする。
俺も運要素が強いもんだと習ったから、こういうネタ新鮮
元寇以降の歴史を描くのに天皇の地位向上の為 神が日本を救ったとのストーリーに仕立て上げております。
@@gbrkura4467
当時、日本中の寺社が外敵退散の祈祷を行っていたので
「我々のおかげで神風が吹いたのだ」と全国で宣伝しまくったせいもある
天皇の権威証明に使われたのは近代に入ってからで、当時の幕府が神風を推したのは、国内の統一戦や征討と違って防衛戦だったため土地やモノを奪えなかった→武士に恩賞を与えられないので天の恩寵によるものだと広めたかったというのがありますね。
なおこの後恩賞を貰えなかった武士のために徳政令出したり云々かんぬんしちゃった影響で幕府は失脚していきます。
あの時代は何気に日本刀が一番凄い切れ味を誇ってた時代。
その上鎌倉時代の武士は鹿とか猪の肉を普通に食って、一日五食を基本に
農業と武の鍛錬に明け暮れて、結果180cm超えの巨漢がわんさか居たそうです。
鎌倉武士は室町時代とか戦国時代の武士よりも栄養状態が良いらしい。
守れなかったらどうなっていたことやら😅
命を賭して守ってくれた先祖の方々に感謝です
😢😢😢😢😮😮😮の
良いね
北条時宗はこのためだけに生まれたような利発で勇気ある執権でしたね。日本歴史の功労者です。本当にありがとう。貴方の努力で日本国が守られました。
鳩山由紀夫や菅直人は何のために生まれたのか
@@rokuemu114 それを言ってはいけません…
自民が勝ち続けるため
幕末の長州藩士・周布政之助の詠んだ詩に
敷島の大和心を人問わば、蒙古の使い切りし時宗
というのがある。
蒙古に対して断固徹底抗戦を決めた時宗、素晴らしいよ。
聖徳太子以来の日本の国是、つまり、中国の属国には絶対ならない、を貫いた時宗・・素晴らしい日本男子だったと思う。
@@snowsnow7930 そうそう 植民地になれという内容で二人使いが来て、一人だけ残してもう一人の首を持って帰らせたんだよね 合理的 通訳もクソもない明確な返答だと思う 使い何回も来てたみたいだけど 次来る人イヤだったろうね
日本を守っていただいた先祖の方々に感謝しかありません
立ち向かった戦士たちがいたから、今の日本がある。感謝。
今の日本の戦士達は国を守れるだろうか?
@@こてっちゃんねる-q2s
今求められるのは、憲法を変えられる戦士(政治家)ですね
いざとなったら自衛隊に加わって戦闘する心意気だけはある。ゴジラでも超大型巨人にでも
人間案外単純な生き物なのでコロナで人の意識が変わったように有事になれば人の意識は簡単に変わるよね。
元側の記録にも「あいつら勇敢過ぎる❗全然死を恐れてない…(涙目」というような一文があるそうですね。
鎌倉武士の奮闘に感謝‼️
元に降参して支配下になった高麗軍の日本攻撃船を作ったのは現在の文在寅が高麗に生まれていたのです。天照大神の神風に2回共壊滅状態にされた脆い船だったことでフビライから叱られたようです。参考書籍「文在寅の守護霊霊言」
昭和の小学校と中学校で神風のおかげで2回も助かったと習った。
命がけで国を守ってくれた祖先に怒られるぞ。今は毎日あったかい家でご飯が食べられる。感謝しなあかん
反日教師のおかげでいま公安系
@@hikohiko8625 分かる。
ガキの頃から神風で元寇終わったとか、ずっと疑って生きてました。学校の歴史狂育 嘘ばっかり
GHQのせいですよね
ジパングという漫画で、『現代の日本人は日本人ではなく、アメリカに育てられた日本人』と聞いてハッとしました。
昭和五十年代、学研の六年の学習付録の小冊子にのっていたムロタニツネ象先生の漫画では、ちゃんと北条時宗の鎌倉幕府や御家人たちが奮戦したおかげでもある事が描かれていましたよ!
あの時に戦って死んでいった名もなき多くの武士たちに感謝。
神風なんかじゃ無くあなた方の活躍によって今の私たちはあるのです!
小舟で敵の大群が多数乗っかる軍船に挑んでいって暴れ回るって相当な士気の高さよね…
彼ら自身がカミカゼだ…
先人の勇気と愛国心に感謝します!
日本に生まれて本当に良かった。
戦は天の時、地の利、人の和という。
地の利(ホームグラウンドである日本本土)と天の時(神風)だけで勝ったのではない。
天の時まで執拗に粘った人の和(当時の人々の団結と敢闘精神)こそが勝因と言える。
いいこと言いますね、その通りだと思います。
逆に元軍は引く時をあやまってしまいましたよね・・・
4400隻の大船団とか世界史全体で見ても類を見ない恐ろしい数。
こんな圧倒的数を見て怖がるな言う方が無理だし、それでも臆さず戦い抜いて
日本を守った鎌倉幕府と武士の頑張りはもっとちゃんと学校で教えて欲しいなぁ・・・。
この時の北条時宗は大陸にスパイを送り込んでたり、決して神風で勝った戦いではない。
それから1000年近く経った後に行われた『ノルマンディー上陸作戦』までは、”世界史上最大の上陸作戦“だったわけですしね…。
ゴーストオブ対馬の船が海を覆っている…ってのは比喩とかじゃなくてガチだったんかね
鷹島の元艦隊の停泊地を専用アプリのカメラでかざすと艦隊が画面上に再現される演出があります。
そう広い海ではないのでここにおびただしい船がいたと思うと恐ろしく感じました。
@@okotarou1464 豊臣秀吉の朝鮮出兵も14万人くらいの兵力を渡海させていたぞ。元寇の時の大陸軍と同じくらいの兵力。日本の古代でも10万人以上の兵力を動員したことはあっただろうし、日本で無理な兵力ではない。大陸全域から兵力を集めれば百万人超えるだろうけど、日本相手だけに、それだけの兵力をぶつけていたら、広大な国土の大半が手薄になって守り切れない。だから、元寇の時の大陸軍は14万人くらいが限度だった。
@@usa7006
朝鮮出兵ではもっと小規模の部隊を上陸させて
橋頭保を築いた後に本隊を上陸させたんじゃないかな?
流石に上陸部隊と内陸侵攻部隊を同一のモノとして進軍することは少ないし(´・ω・`)
あと日本の内戦(戦国時代等)は世界史的に見ても大規模な戦闘が多いよ
一国の中に数十万の軍が居るって考えると普通にヤバい
長門にもちゃんと準備してたのがすごい。これは本当にすごい
元軍は室津に上陸して石畑峠を越え瀬戸内海に出る作戦だった、そうすれば危険な関門海峡を通らず、瀬戸内沿岸に侵入出来る、しかし敗れた😅
名もなき英雄たちに感謝
彼らの血が我々にも流れてると思うと何か熱くなってくるわ
この動画を小学生たちに見せるべきだわ
こんなん日本人として誇りに思うしかないし
この動画の中に日本人が外国に対する上で必要なことが詰まってるやん
詳しすぎワロタ
語り方も良いけどこんなに再現できるほど記録が残ってる事にも感心する
自分らは中学時代に「やあやあー我こそはー」と名乗ってるところに「てつはうドッカーン」…とやられたマヌケな鎌倉武士…と教わったんだけどね。左巻き教育腹立つわ。鎌倉武士に感謝!
そうそう。そうやって教わった。とにかく日本を矮小化させる歴史教育。
むしろ今はロストテクノロジーと化した鎌倉時代の刀を装備した武士相手に近接戦闘で戦えるのかと
しかも元軍の兵士の大半が投降したばかりの南宋の兵だし
@@山田太郎-o3b2l >戦後教育なんてそんなもんですよね!良識ある人を公職追放して 入れ替わりにアホ左翼が教育界を乗っ取ったんですからね。返す返す残念です。
自分も授業で聞いたそれ。教科書に書いてあるわけでもないのに、日本全国いつの時代も同じ事を先生が言うって、日教組恐るべし。
@@kaocaochin さん
日教組じゃなくて、文科省の教育指導要綱に書いてある通りに全国の学校教師が教室でロボットよろしく同じことをしゃべっているのだよ。
教育指導要綱をかいた犯人は文科省教科書検定委員会である。
はっきり言えば東大卒官僚上級国家公務員だよ、そこらの社長より高給取りの税金泥棒のクズ野郎どもさw
ほんと見てて楽しい。学校の授業もノート書くだけじゃなくてこんだけわかりやすく聞いてて楽しい解説をしてくれたらなって思う。
対馬と壱岐で虐殺があったことは
あまり知られていない
元がこの後日本の報復を恐れて、自国の海沿いに対日本の防備を固めるとか凄いよね。
鷹島沖海戦とか鎌倉武士が昼夜問わず一日中襲い掛かってくるとか怖すぎる。
しかも艦隊に向かって小舟で向かってくるからな
鎌倉武士「敵攻めてくるから防衛しよう」
←分かる
鎌倉武士「敵が後退した。このままだと報酬貰えないかもしれないから夜襲したろ」
←頭おかしい
@@サイコルヴィク 基本給だけじゃ満足できないから残業するのとおんなじ感じかな。今も昔も日本人の考え方は変わってないのかもw
@@サイコルヴィク
敵が退いたら攻めるのは常道でない?
@@わわわー-s4h なんかワロタ
南宋兵の捕虜はその後開放したが、高麗兵の捕虜は全員処刑したそうですね。
高麗兵は対馬や壱岐の住民を虐殺したからでしょう。
高麗兵が全員処刑はその通りですが、南宋兵の捕虜はその後解放されておらず日本側の奴隷にさせられましたね。
鷹島掃討戦を戦った兵でその後故郷の地を踏めたのはわずか4人だったといわれています。
@@hiyoneco 私が読んだ本には”開放”と書いてあったのですが、もっとその他の本をたくさん読めば良かったです。失礼しました。
しかし、侵略しようとした側も残虐行為を行ったわけで、当時ならそうなるのが必然ですね。
大和民族日本人舐めたらあかんわ!
まさにその通りでそもそも南宋人は元々日本と仲良かったし、特に南宋仕込みの技術者は寧ろ普通に助けて
全国の神社仏閣の改築改修に人材活用したそうです。
南宋兵は、元々、元に侵略されて滅ぼされており
元に恨みを持つ者も多い。
嫌々日本侵攻に動員されてるだけ、
かつクワなどを持たされ、現地(日本)を開拓せよ
というある種の棄民政策なので
戦闘士気は非常に低かった。
それを見抜いた日本兵は、投降する南宋人は許し、
敵を仲間にしていった、と。
ただしモンゴル兵と朝鮮兵は許さない。
高麗は元に完全に征服されており
高麗王がひざまずき、元王朝と婚姻関係を結び
高麗王自ら日本侵攻を持ちかけるほど昵懇。
色んな国に寝返る外交手法は今も健在です。
大陸から逃げてくる人を受け入れるとか、
当時の多国間関係は現在にも共通する面が
多々あり、考えさせられます。
ありがとうございます!高校レベルの歴史だと、神風が来て元軍は撤退したくらいしか勉強しないけど、軍事的観点から文永弘安の役を学習できて、大変意義深いです。
まあ夏になれば台風は来るわけで、そのおかげで勝ったのではなく(江南軍の司令官の病気という幸運はあったにせよ)その時期まで上陸を許さず奮戦したから勝てたということだね。
現場の頑張りも長門まで防衛させてた幕府上層部の手腕もどちらも見事。
日露戦争時のバルチック艦隊の動向を伝えた漁船のように住民含めて総動員の意識があったのかも
@丈実 まあ概ね同感ですが有事と平時はまた別だと思います
台風だって偶然じゃなくて毎年来るわけですから、当然作戦の内ですね。
@@shinto2600
台風は来ない年もある。
台風がたまたま来る年であっただけで、自力で勝つつもりではなかっただろうかと思います。
鎌倉武士「台風なんぞに頼る気持ちが負けにつながる。自力よ。自力。来たら運がいいくらいに思っとけ」
上陸を許しちゃったらその時点で負け戦ですからね
ノルマンディー上陸作戦といい、仁川上陸作戦といい
国も英国のダンケルク撤退作戦みたいにもっと英雄たちを称えて欲しいわ。
神風で済ませちゃいかん。
全くそのとおり、防人も称えるべき。日本全国で護ったんだからちゃんと理解してほしいよね。
結果的に護国の英雄だけど護ると言うより手柄を獲りに来てる首狩り族の集団だから神風神話にせよ勇敢な漢の英雄浪漫譚にせよ大人になってからこの話聞いたらどうしてもヤベー、日本の武士はバーサーカー!って笑ってそうwww
国っていうかガンは文科省です。あれの酷さは貧困調査員前川みたいなのがトップやってたんだからお察しです。敢闘精神と軍事的防備で勝ったって教えたくないです。日本から軍事基地や武術を消し去ろうとしてる連中ですから
この時代の武士達のおかげで今の日本があると思うと涙が出てきました。
やはりもっと称賛されるべきですね。
「夜討・朝駆け武士の習い」とはよく言ったもんだ。さすが鎌倉武士!天晴れ!
動画めっちゃおもろかったー
戦闘狂の武士集団が国を守るために次々襲ってくるとかイカれてるなぁ。
誇りに思うわ。
やっぱ対馬と壱岐やられて怨み積もってたんやろなぁ。
大軍が攻めてくるんだから手柄首のバーゲンセール状態だったんだよ。
元軍が大軍できてしまったのは妖怪首置いて一種類だけの百鬼夜行のテリトリーだからね。首がついてる限り追い回されますね。仕方ないね。
細川卓也さん
怨恨みというよりも、
婦女子を守る男児の本懐の万人共通の正義を破った相手に対する怒りでしょう。
防塁の近くに住む者として大変勉強になる動画でした!近所には防塁だけでなく慰霊碑も沢山残されています。自分の子供にも時期が来たら見せたい神動画でした!ありがとうございます!!
バス停防塁前、祖原山、百道浜。地元なのに、あんまり話題にならないのが残念です。
武士って「カッコいい」というよりも「恐ろしい」って感じが好き
鷹島って首除、首崎、血崎、血浦、死浦、地獄谷、遠矢の原とか物騒な地名がたくさん残ってるらしいね
@@不老不死のフリーザ-l5w 通知が来たからどんな返信が付いたんだろうと思ったら・・・。
何でここに動画と全く関係ない長文コメを返信したのかは知らないですけど、複数の国が関わる歴史を学ぶとき、一つの国の言い分だけを鵜呑みにするのは危ないと思うので日本側の歴史も学ばれたらいいと思います。
フリーザ様の主張にはあんまり興味がないのでこれ以上は返信しませんけど、頑張ってください。
逆に縁起の良い名前も過去に災難があった場合も多いよ。ちゃんと名前で残すのはそれだけ覚えておいてほしいのかもね。今も中国は危険だしw先人は賢いなぁ
地名の癖がスゴい!
犠牲になった兵士たちが哀れで丁寧に残虐な敵を祀った日本人の心が凄いし地名に残る凄まじい闘いはもっと語り継がれることが大切。今年は蒙古襲来から750年とか。
大きな敵の為に一致団結して怒涛の攻めで大敵を壊滅させる武士たち激熱すぎる
鎌倉武士強すぎてご先祖様に感謝
長門の方にも元軍来てたなんて知らなかったなー。学校では習わなかった
山口は長門・周防の2か国にわかれますが、日本海側の長門は良港も多く、仙崎などの日本海交易の停泊地がありますからね。
上陸しやすい沿岸地=港であり、交易路に沿って艦隊が進んでくることは想定されていたわけです。
日本の中心地だった畿内につながる瀬戸内海の玄関・関門海峡の入り口にもあたりますから、
長門を抑えると日本海交易路、瀬戸内海交易路、そして博多~朝鮮への退路も抑えることができるので、元が進撃する上で
博多と同じくらいの重要な拠点になるわけです。
そのため、鎌倉幕府も重要防衛ラインと考えて長門探題(ながとたんだい)という中国地方の司令長官職を設置して、
執権・北条時宗の実弟・宗頼を鎌倉武士団をつけて赴任させて、中国地方の武士たちも動員して待ち構えてました。
鎌倉時代の刀剣の錬成方法がロストテクノロジーになっていますからね
どこからあんなヤバい武器を手に入れたのだろうか
学校は日本の誇りを失うためにあるんだなぁ
チンピラやキチガイを撃退したらドン引きされ、おとなしく56されるのが行儀いいとされるのが現代社会なんすよね(;´д⊂)
まぁそうゆう世論を反日組織が作ろうとしてるだけだからね。
これからの若い世代の意志が変わることを期待したい…
まあ元軍が誤算だと思うのは世界でも戦闘力と勇気士気で名高い侍の
しかもその中でも頭がおかしいと言われるくらいの精強な侍である九州の侍の地元を襲ってるって事だよなw
そりゃ普通に撃退されるわけだよw
元寇の頃って、鎌倉時代で武士が一番纏まってて強かった時代だと思う。3度目の元寇があったら武士が一丸となって死闘を繰り広げたかは疑問。
偶然『神風』が吹いたことを奇跡と呼ぶなら、寧ろ武士が一枚岩となって最も強い時に襲われたことのが日本を守れた奇跡と呼ぶべきだと思う。
いや俺が頑張ったっていうのも日本を守れた理由だね
何自慢げに言ってんだよww
@@日韓海底トンネル反対シャンク
まじでありがとう
@@日韓海底トンネル反対シャンク ゴーストオブツシマだろw
戦後、日本は神風(ラッキー)で守られているような印象を持つ歴史教育がなされていますが、本当は日本人が守って来たのですよね😄👍✨ 世界で一番長い歴史を持つ日本は、世界で一番自国を守ることに長けた人々の国なのかも知れないですね。なんせ戦闘員の国を守ろうというスピリットが凄すぎる!
九州男児の気質って絶対この頃の鎌倉武士の流れを汲んでるよね。
二の太刀要らずやからねぇ
というか九州一帯はこっから江戸まで戦闘民族よ…
島津氏もこの頃からですね。
薩英戦争ェ…
@@GEORGE-hh7vy あれは悪天候じゃなきゃ負けてた 運が良かったとはいえ奮戦できるほどの実力があるってのは事実だけどね
九州男児の気質とよく言われるけど、九州のおばちゃんたちはそれに勝るほど強い気質を持ってると思うのは、うちの親戚だけやろか。。
鷹島でとある武士が討ち取られて、その首が敵陣地に晒されてるのを見た郎党が突撃して元軍に少なからぬ損害与えて首取り返す逸話すき。
元「大将首見せたら士気下がるやろ」
武士「大将の首晒されとるやないかい!死んでも取り替えせ!」
元「どうやったら心折れてくれるの!?」
逆効果ww
ガチギレスイッチ押しちゃったよ
それが御恩と奉公です。
@@船に置いていかれた海賊 どうやったら心折れてくれるの!?ww笑った
@@showshika
当時最大の大軍→首が多いことに歓喜
大将首を晒す→キレて突撃
大軍が援軍で増える→増えて狂喜乱舞
人質を盾に→人質が俺ごと殺れと煽る
士気下げる要因→結果★爆★上★げ★
どうやったら下がるの!?って思ったのは元軍とあと私もですね。
学校では教わらない大事な日本史。
当時の人の勇気や知恵、一所懸命によって
今がある。彼らの血と魂を僕らも引き継いでる。
いつも見ても思うけど学校でこんな授業があったら日本史・世界史がもっと好きになってたと思います。
資料として子供達に見せてほしいw
12才の中学生です。凄く判りやすかったです。夏休みにお父さんと
元寇防塁へ行きました。元寇資料館も行ったけどコロナの影響で
今年いっぱい休館と受付のおばちゃんが言ってました。
@@不老不死のフリーザ-l5w
こんなパヨクの妄想を信じちゃいけないよ。
歴史に興味があるのですね。
これからも沢山勉強して下さい。
そして正しい歴史を知った大人になって下さいね。
資料館が休業だったのは残念でしたが機会があればまた行ってみたら良いですね😄
@@PS-gj8ms 社会は嫌いだったけど中学受験で色々教えてもらって
好きになりましたww中国とか朝鮮が色々と捏造してる事は知ってます。
お父さんや九州のじっちゃんが本当の日本の歴史を教えてくれます。
元寇資料館行きたいけど、僕は愛知県なので夏休みしか行けませんww
色々ありがとうございました。勉強頑張ります_(._.)_
@@だっしゅK 慰安婦?奴隷?の事はよくわからないけど、当時の南京で
20万人殺したと言ってるけど、当時の人口が約20万人くらいで大虐殺が
事実なら街を全滅させた事になるとお父さんが笑って教えてくれました。
上の人が何で僕に言うのか?わかりませんが僕は大丈夫ですww
@@dr.ryusuke1918 さん
お父さんの言うとおりですね。今では30万人でしたっけ?どんどん数が膨れ上がって捏造もいいとこです。要するに沢山と言いたいのだろうけど。写真とかも色々あるけど、あれも全て捏造だしね。本物が何一つない。正しい見識を12歳という若さでお持ちとは、こちらの頭が下がるます。
日本は昔から人口も多く兵も強かった。
現代は謎の「軍隊持たない」とかいう思想でアメリカ軍に占領されて骨抜きに。すごい特殊な時代に生きてる。それどころか「「軍隊を持たない」をこれからも大事にしよう!」というさらに謎の勢力の声が大きいという始末。
@@菅原道真-r2y その後40年会社という兵役で草
まさにそうですね。さらに他国に守ってもらうという現状。
鎌倉武士が現状を見たら腰抜かすでしょうね。
沖縄や九州を狙ってる中国狂産党の思惑っすかねえ
いざとなったら戦闘民族の血が騒ぐから大丈夫かも
神風があったからこそ勝っていた、という根強い風潮をずーっと信じ込まされてきましたが、日本人の底力と対抗しうる軍事力があったからこそだったのですねー!
あっぱれ!
スパルタやジャンヌダルクの動画の時もそうでしたが、死を恐れない士気MAXのバーサーカー状態になることが重要だと思いました。
今の山口県に襲来した元軍7000との戦いも気になりました
神風なんかなくても全然勝ててたわけですね。士気が違う。こういう素晴らしい先祖を持ったことを忘れてはいけないですね。
士気というか、殺る気が違う。
@@工藤和男-d7h 戦闘集団・武士!
後の戦いでも、中国朝鮮兵を相手の剣ごと真っ二つにしてたって聞くもんなw
❌日本が助かったのは台風が来たから……⬅日本の教科書
⭕日本が強固に守って押し返した。元兵は負けて逃げ帰る途中に台風に襲われた。
@@不老不死のフリーザ-l5w まあ、慰安婦も南京大虐殺も韓国人と中国人の妄想なんですけどねww
慰安婦は当時の大臣クラスにメッチャ高給取りだったのが分ってるんで、奴隷ってそんなに給料貰えるもんなの?w
南京は日本が占領して中国人野盗や軍閥から街を守ってたから、日本が占領してる間って南京の人口が増えてたんだぜ?
大量虐殺してるのに、なんで方々から中国人が南京は暮らしやすいって集まってくんの?ww
そりゃ防人の時代から監視してて、遂にきやがるって状態だし、殺気立つよね。
夜討ち、抜け駆けしがちな武士達だが、裏を返せば小集団での自律した戦術的判断ができるということですね。
日本の複雑地形で戦ってきた武士達だからこその戦い方で、だからこそ統率困難なはずの船団への夜襲でも戦果を挙げることができたのだろう。
小集団の散兵戦術がとれて、集団でも戦闘出来てで、モンゴル騎兵にも劣らなかったでしょうね(=^・・^=)武士こぇw。
騎兵頼りの軍って上陸戦が一番辛いと思うわ
自慢の騎兵が十全に発揮できないし
一兵士としての白兵戦は当然できて、下士官として小部隊の指揮もでき
家の子郎党率いて中級指揮官もできれば
軍議で参謀級の戦術眼もある重装弓騎兵とか武士ってもうヤバすぎ
小集団では強いが、逆に個々の家の力が強すぎて大集団での統制した行動はできなかったと言われています。
まあ、戦術的にどっちがいいかはケースバイケースではありますが…
@@コメント用-m4w
やはり、副社長が陣形解説で言っていたように、環境による違いが軍事の方向性の違いになるということですね。
また、遊牧民のいない大陸の端に行くほど封建社会が発達する傾向もありますしね
元軍「よし、長門へ絡め手を送って背後突くぞ」
鎌倉軍「読んでるわい」
カッコよすぎ
因みにこの時の東路軍は山口県の長門にも来てるけど、こっちは単純に東路軍が
現地の武士に返り討ちにされて一人残らず全滅してます。
当時の現地の武士に「なんか蒙古がこっちにも来たよ」言う記録だけで
戦いの様子は無いのが残念。
山口にも来てたのが初耳!
こっちにも来たよって友達感覚で笑える
元軍の別動隊が来てるのに、『こっちにも来たよ』って軽い感じで終わってるのが面白い
山口県の防府に上陸したのは、東路軍(モンゴル・高麗軍)の内『高麗軍』。対する鎌倉武士団は、中国と四国の軍で総勢2万4千騎の組織で、本州と九州との海峡防備が任務。この防府にも『防塁』が築かれていた。上陸して山陽道を目指して行軍していた高麗兵は迎撃され全滅、軍船に残っていた兵と水夫は、東路軍と合流した。地元には記念碑(慰霊碑)もあるようです。
長門国萩市長門大井の鵜島には本格的な公的調査が入っていないため定かではありませんが元寇防塁跡と呼ばれる大規模な遺構があります。付近には元軍船の錨と称される大きな岩もありますがこちらは後世のものでないかと言われています。
syakeassi.xsrv.jp/5721
死にものぐるいでご先祖様が戦ってくれたからこそ今の日本そして自分があるのだと感謝しております。
福岡出身なので防人に関する予備知識はあったものの、先祖が超超頑張って根性120%発揮して国難を乗り越えたことが改めて分かった。
素晴らしい解説、ありがとうございます。
楽しく拝見しております。
何処かのタイミングで南北戦争史も解説して頂ければと思っております。
引き続き、制作を頑張って下さい。
三人の中では副社長の解説が最も聞き易くて好きです。
この時の日本の総人口が500万人ほどと言われている中で14万人も攻めてくるとか本当に国難だったのがわかりますね。
日本の総人口500万人は少なすぎると思うよ。実際はどれくらいいたか分からない。NHKの磯田先生は1000万人ぐらいはいただろうという解釈だな。
@@usa7006
一応注釈をつけるなら500万人というのはお上に提出されている書類で「住民」として登録されている人数ですね。
山賊・悪党・川に住んでる人々など「住民」と認められなかった人々は相当数居たと言われてますね。
しかも今回も鎌倉の坂東武者無しで撃退してる。
宇都宮氏が六波羅探題から坂東武者の援軍を引き連れてきたけど、その時には
もう決着がついてしまってた。
山県昌景 川に住んでる人って穢多とかの賎民系?
律令制が崩壊してから戸籍は国有地以外であんまり意味ないからな。
私が中学生だった時は、「台風のおかげで元寇は去っていった」という事が強調されてました。
鎌倉武士たちの優れた頭脳と高い士気のことは何も言わず、自分の国に誇りを持てない授業ばかりでうんざりしてしまいます。
次の世代の若い人たちにはこのような授業を受けさせたいです。
日本万歳というわけじゃないけど、いくら国内で普段勢力争いしてても、国難に一致団結出来る民族性を持つ国って世界的にもあんまりないんじゃないかな。
そこが近代の戦争でも生き残り、現代まで独立を保ち、大規模災害でも冷静さを保ち、特別な法が無くとも団結できるんだと思う。そこが日本の力
今や国際金融資本の工作員の菅、竹中、アトキンソングローバリズム政権により大阪は解体されそうで北海道はアイヌウポポイで国民分断工作を行っている。菅は女系天皇推進派とか日本の総理大臣として失格。水道民営化、中小企業改革、移民法、農協改革と次々と改革=国体破壊がロックフェラー系の国際金融資本によって侵攻中。戦後敗戦から日本はアメリカの植民地である。
だいたい異民族同士とか宗教の違いで分断されますからね、特にモンゴルはそういう分断工作に長けていたそうですから。
私が小学校の頃に、日教組の担任が日本は2度の台風のお陰で、まぐれの勝利だったと教壇で教えた記憶を思い出しました。
戦後の教育は日本を卑しめる為に本当の歴史を捏造してたのではないのかと?。今でも疑問しか感じえません。
今の日本が失ってしまったものが、この頃の日本と日本人にはたくさんあったんですね・・・
@@田中総吉 さん
Takeshima in Japan A
1 週間前
ww2で米軍を苦しめたのも事実です。日清・日露戦争に勝利しww1でも日本軍の活躍が無ければドイツが勝ってたのかもしれないというほどの奮闘ぶりだったのです。
あと北京の籠城でも柴五郎や日本兵の活躍が絶賛されています。映画ではなぜか白人が柴役をやっていますが。
豊岳正彦返信(何度直して投稿してもキャンセルされて反映されないw)
ww2でも、昭和天皇が破廉恥な無条件降伏しなかったら、
ベトナムでも勝てたアメリカ如きに日本が本土決戦で負けることなどありえなかったよ。
もし米軍が愚かにも本土上陸侵攻決戦していれば元寇の時の元帝国以上に散々な目にあっただろう。
沖縄で破廉恥極悪非道な婦女子虐殺していたからね米軍は。
天皇以外の日本人は沖縄占領されて老若男女全員怒り心頭に達していたところにさらに原爆2発という破廉恥の極致な非人道鬼畜攻撃が加わって、
8月15日までに日本人全老若男女の、
対米帝国撃滅士気は歴史始まって以来空前絶後に高かったのである。
玉音放送のせいで日本人全員が背後から虚を突かれて茫然自失大混乱に陥ったのも無理はない。
これは今でも全く同じだ。
母国本土防衛なら日本人文武両道大和魂は地球の歴史上常に群を抜いて宇宙最強である。
つまり士農工商文武両道武士道大和魂日本人は誰もアメリカに負けていない。
もともと渡来人の天皇が一人だけびびっておのれに負けてアメリカに無条件降伏のしっぽを振っただけである。
戦後はそれをごまかすためにすべてのGHQ行政が行われた。
極東軍事裁判という冤罪捏造裁判によって更なる反人道犯罪のGHQ焚書坑儒が大々的に行われた。
そしてアメリカの反人道戦争犯罪をごまかすために最高裁奇形司法と放送法と日本学術会議法を作ったのである。
我々のご先祖様武士道首相幣原喜重郎が作った戦争放棄第9条日本国憲法違反の。
3回目の元寇は前回の戦いで朝鮮半島がはげ山になるくらい船の材木に使ってしまい船が作れなかった話もあります。
後、高麗王も高麗兵を出したがらなかったのも一因だと思います。
@丈実 そうどすよね、そもそも元のケツを掻いたのが高麗ですからね。
因みに後の文禄慶長の役前に交渉担当の日本の使者が、現地の李氏朝鮮の関係者と口論になった際に
「お前ら元と一緒に攻めてきただろう!」言って相手が黙ったそうですw。
日本も高麗兵が虐殺したと教えないからいけないね
モンゴルと高麗との戦いの経緯も動画で見たいですね。ウィキペディアには1231年から1273年まで40年以上、断続的に戦われたとされているようなので、相当すごかったのでしょう。
反日に凝り固まった野蛮な「高麗」連中を成敗したくなったよ。
小学生の子供にも見せたい動画ばかりです。今回ではないですが、R指定にならないような番組作りに拘ってもらえると学校のホームルームとかでも補修とかでも使えそうです。学びの場をありがとうございます。歴史ですから奥が深く大変だと思いますが、ちびっこファンも多くいますので頑張ってください。
武士すごいw って笑いながら見ていたけれど、その人たちのおかげで、今こうやって笑いながら動画を見ていられるのかもですね。この動画のおかげで「学校の授業で聞いた話」と「今」が繋がったように感じました。
元軍の武器は大きくまた脆く破壊力はあるかもしれないが動作が鈍く日本刀のスピードの速さ攻撃の正確さ
武器としても強度があり剣を交えても相手の武器が折れたと聞いてます。また弓も小ぶりで武士の使う大弓は身体に与えるダメージが大きかったとも聞いております。日本刀最強。
この頃の日本刀は今の日本刀の原型になったプロトタイプみたいなもんだけど、
刀としての質(殺傷力・耐久性・破壊力)は段違いに良かったようです。
後の時代に使われる護身用や首狩り用ではなくヤル為の刀だった。
この頃の太刀はロストテクノロジー化してて制作不可能だそうです。
@@rerepopo663 多分研究すれば生産は出来るだろうけど、銃刀法に引っ掛かる品になる筈
芯の無い一枚板で出来た品らしいので、美術品定義の現代日本刀とは根幹が違うようです。
14:22 あれだけ残虐な事を対馬で行ったのだから、日本軍が大陸兵を許すわけ訳ないですね~
たしか中華思想だと日本は東夷だっけ、東夷は礼儀正しく統制取れていて戦時になったら容赦しないから手を出したらダメってやつだったと思う
そんな国にて出したら手痛い反撃されるよね
戦死したモンゴル兵を供養する蒙古塚が志賀島には建てられている
モンゴル関係者からも感謝されているそうですね、敵軍を何百年たってもここまで丁重に扱う国ってないと思いますね。
侵略してきた敵であっても死ねば敵味方なく弔う。
こんな人が祖先にいることに誇りが持てます。
略奪に来た相手を供養するなんて!
日本人のやさしい心意気素晴らしいです
この後北条時宗も戦死した日本側と元側両方の魂を追悼してますね。
元寇本当にかっこいいからみんなもっと知って欲しい
めちゃくちゃ面白い。知的興奮。こういうのをテレビの地上波でやればいいのに。高校の学習資料としても超一級。
素晴らしいの一言です。
戦争は奇跡で勝てるほど甘いものではないね
ましてや当時最強と言われた元相手だ
当時の指導者の采配と軍事力があってこその勝利だね
陸軍最強が海軍慌てて作っても最強ではなかった
待ってました! 副社長さんの語り大好きです!
こういう先生居たら毎回の授業楽しく聞けそう!
この様に外国軍を蹴散らした日本人だけど、その前後の宝治合戦や南北朝の動乱はそのバーサーカー同士の殺し合いだった訳だから、その様子を想像すると怖いな…
時期間違ってたらモンゴルに九州取られてたねえ
もしも、源平時代なら、、、
@@中段チェリ王
平安時代だったらヤバかった...
@@ガイマデン 貴族社会だったら😱
元寇は教科書でしか知らなかったんで、詳しい話が知れてよかったです。
自分が日本人だからなのか、鎌倉武士の凄さには誇らしさを感じますね。
教科書では苦戦したけど運良く嵐で元軍壊滅して勝ったみたいに書かれていて腹立たしい。モンゴル撃退できたの日本とヴェトナムくらいしかいないからもっと称賛して然るべきだと思います。
日本の戦闘民族っぷりが凄いwww
前回と合わせて解説見たら、神風での奇跡的な勝ちって説より全然インパクトも説得力もある
時宗解説は期待したいです
ぴろすけさんの「戦闘狂」という表現はドンピシャだよね。日本の歴史全体見たら「和」の優先度低いと思う。
@@namuchiZDK 日本史で有名な部分とかいつかやるさんの解説を見てもほとんど【和】より【武】の側面強い感じ
【和】のテイストが強くなったのは安土桃山後半~江戸時代にかけてって感じっすかね?
@@ジョージジョルノッブ 江戸時代で「和」が強くなって、日清・日露戦争でまた「武」が強くなったって感じかな。日本が「和」を重んじる国民だというイメージは戦後教育の影響であり、日本史全体をとらえた見方ではないと思う。
この時代の欧州の騎士も似たようなもんですよ。
有名な十字軍遠征も常に闘志むんむんの騎士に、戦わせてストレス解消の場を与える
意味も多かった。
最後の鷹島の戦いとか、相手は船を失い補給も無いのだから、海上封鎖し降伏するのを待つだけなのに、小舟で鷹島に乗り込んで突撃、そして敵の戦死者数7万~8万、戦闘狂と言っても過言じゃない状況ですね。
ちょっとやり過ぎた凄惨な現場を見て、こいつら台風で死んだことにしようという意識が働いたかもしれませんねww
武士強すぎ。俺も気合い入れて清掃頑張るわ。
清掃(皆殺し)と
@@疋倉ヨバラ バーサーカーで草
自虐史観は本当に悲しいものだ。
武士達の力で勝利を収めているのに、約800年後の未来ではラッキーパンチで辛勝したと子供達は教わるのだから。
56し合いで自国に誇りを持つなんてくだらないね。
むしろ戦争による自虐史観は必要だ。
@@user-kz5uv6hx8d 事実をねじ曲げた自虐史観だけどね
@@user-kz5uv6hx8d 武士は日本を象徴する戦士だし、その武士が外国からの侵略を防いだんだし誇りに思っても良いのでは?
@@user-kz5uv6hx8d なるほど、中国は始皇帝に誇りを持つのはくだらない、中国は自国民を大量に47せてしまったことを自虐史として悔い改めろと言いたいわけか。習近平にも刺さる言葉だね、中国のSNSに国家主席を皮肉る発言として紹介してもいいかな?
@@user-kz5uv6hx8d それロシアの戦勝記念日に赤の広場でプラカード持って行ってみろよ
3回目の元寇を期待したのに来ないからって壁に元への呪いの言葉を書いて老衰で無事天寿を全うした人もいるぐらい頭イカれてた当時の侍
戦闘民族すぎる。
戦う事に生きがいを持つ民族なのかな?
侍=当時の軍
バーサーカーかな?
洗脳教育によって骨抜きにされて自虐史観に染められた今の日本人は、この頃の熱い想いを思い出してほしい。
人間がまとまるのは共通の敵の認識なんですね。敵がいなくなった途端内部分裂で鎌倉が、、、。
報奨がねぇ。。。
↑で、1560年に
『尾張❨おわり❩』で
人生の
『終わり』を
迎えた
武士「がんばったから恩賞くれ」
寺院「俺たちが祈祷したおかげ。恩賞くれ」
神社「神兵が出現して協力した。恩賞くれ」
幕府「防衛戦だから無いよ…」
イチコロOUT
内政がマズくなると他国を敵として吊し上げ、自国民の目をそむせさせる・・。現代でも頻繁にありますよね。お隣の国とか。
弘安の役で、日本側がこんなに素晴らしく戦ったと言うことを知り、とても感動しました。鎌倉武士の凄さをあらためて知り、日本の中世史を再度勉強したくなりました。ありがとうございます。
激戦区の祖原山で花見してたし、母校に防塁の跡が残ってるくらい地元の話で、
歴史研究してた身としてかなり詳しく調べてるんですが、完ぺきな解説…
めっちゃ面白かったです!しかし、鎌倉武士、九州の武士って超鼻息荒い戦闘民族ですよね。
文献調べてると、どんだけ戦闘狂なんだってよって呆れちゃうくらいですが、
神風の加護を除いても、幕府首脳陣の国内反乱分子の制圧に始まる一連の戦略は冴えわたってますね。
熊本県南小国町には、兵站基地を設けてたはずです。もし上陸を許し、大野城~太宰府の防衛ラインまで抜かれた場合、筑後平野から肥後菊池の山間部に引き込んで持久戦で殲滅するつもりだったようです。
太宰府のラインで防衛する話は聞いていたんですがその先まで計画があったんですね🤭
しかし菊池の山間部まで引き込む前に目の前に広がる筑後平野に元軍が展開し、得意のおびき寄せ作戦に乗ってしまっていたら大会戦が行われたかもしれなかったですね。
実際ここでは約100年後に筑後川の戦いという大会戦が行われていますしね。
うわ、地元民だから母校も特定できそうw
考えられてるなあ。上陸されてても撃退してそう
@@okotarou1464
そうですね、南部は沼沢地も多かったのでゲリラ戦になったかもしれませんが、
筑紫野~小郡付近の筑後平野北部では大軍を展開できますからね。
騎馬は水を恐れるので、水上搬送が困難なことが文永の役では幸いしましたが、
弘安の役で動員された大艦隊は前回の3倍規模。モンゴル本軍も含まれますから
馬もいくらか連れてきていたかもしれません。筑後平野で体制を整えた元軍と
鎌倉武士の弓馬術の戦いになっていたかもしれませんね。
ただ、筑後平野は大規模な穀倉地帯でそれだけ人口も多いわけですから、
飢えて疲弊した餓狼のごとき元軍が入ってきていたらと思うと、、、ゾッとします…。
九州で打ち損じた場合、元軍は水軍規模を利用して上陸軍は九州制圧を、
半数は艦隊でそのまま瀬戸内海に入って難波付近での上陸、つまり京都制圧を狙ったかもしれませんね。
幕府が博多商人を通じて元と南宋・高麗の情報を得ていたように、元も情報収集してますから。
そうなると、もう幕府は後手に回らざるを得ない。
副社長が解説されているているとおり、博多湾を中心とした九州山口沿岸地域と戦略展開を集中させ、
二段階目にはその後背地である北部九州内陸部で殲滅するために焦土作戦を準備していたかもしれません。
福岡は焼け野原…。
@@naonao2593 この当時の日本人がどの程度日本人としての自覚があったのかわかりませんが、ちょくちょく内通者の記録も見聞きするのでもし有力御家人レベルが元軍に寝返ることがあればかなりまずい事態になっていたかもしれませんね。
あの元相手に武士が暴れまくるのか。すげー。守ってくれたのは感謝やな。
これ見た後のGhost of Tsushima マジ楽しすぎる。
我慢できずにかってに夜討ちしちゃう人たち好き
まぁ……鎌倉武士だし…
@@不老不死のフリーザ-l5w 完全否定するつもりはありませんが、韓国側が話を盛って石碑に刻んだという可能性だって全くないわけではないでしょう。南京での大虐殺だって、亡くなった住人の数が虐殺前の住人の数の数倍にも膨れ上がっているそうですし。
@@ゆっくり夜露 実は関東からの援軍は到着してなくて、九州の御家人の活躍が大きい
@@疾風-r3z 鎌倉時代の武士って意味じゃね?知らんけど
もうマヂ無理…夜討シヨ.......
武士に実力がなかったら早々に陸上拠点が作られてたはずだよね
対馬の人々は手に穴を開けられて奴隷として連れ去られて行ってしまった…
元軍許すまじ
土地は取り返せても人は取り返せなかったと思うと無念
あいつら鬼畜で食べ○として対馬の方々を連れて来たとのこと。
それで武士も許すまじとなった模様
元高麗連合許すまじ
そんな事は学校では教えてくれない
なぜ自国のされた事を学ばせない?
@@gummad1702 えぐいからでは
奇襲でもなんでもなく小舟でくっそ士気の高いイカレタ武士が突っ込んできたら怖すぎるわ…
サムネ
「 恐 ろ し す す ぎ る」
恐ろしすぎるあまり言葉も驚愕してもうてる…
昔の授業で運よく台風が来て日本は勝ったのが勝因みたいなこと教えられたけど
やはり根底に日本武士の勇猛さがあったからこそ勝利することができたんですね。
そのルーツがあったからこそ大東亜戦争でペリリュー、硫黄島、沖縄の戦いのような壮絶な持久戦ができたと思います。日本を守ってくれた先人達に改めて感謝したいです。
防塁が今では断絶してしか存在していない一つの理由が、当たり前の話なんですが当時の海岸線に沿って構築されたからなんですね。
このことについて調べたのが郷土の歴史についてハマった最初のきっかけでした。
福岡ですか?自分も生まれたのがそっちなので結構興味あったりします。他にも長崎や佐賀にも防塁があったそうで今住んでる山口にもそうじゃないかと言われてるものがあるので見ていただけると嬉しいです(長門大井のものは公的な調査が入っていないため定かではありませんが……)⬇
syakeassi.xsrv.jp/5721
@@Hatomaru-l5s
これはすごい石垣の遺構ですね。
@@Hatomaru-l5s 佐賀伊万里湾に浮かぶ元軍殲滅の地である鷹島を挟み込むように伊万里湾の両岸に残っているのが星賀の防塁と逃げの浦の防塁ですね。
また地図とご紹介いただいたサイトで長門のものについて確認してみました。
そうして考えてみましたが、これは敵軍の上陸予想ポイントに接した海岸線になるべく長大に構築するという防塁の特徴から考えると少し違和感がありましたね。
自分はここをこれだけ厳重に防備する戦略的価値が見出せなかったのが一番の理由で違うかなと思いました。
やっぱりここに至るまで山口県の海岸線で上陸出来そうなポイントはかなりあるのでそこに配置せずになぜここなのかという答えが出ないのでそう思いました。
サイトさんでは古代山城の(いわゆる神籠石ではないか)という予想がされてましたが、自分はそれについては半々かなと思いました。
それについては神籠石にだいたいある排水施設の特徴がまったくないという部分で疑問だなと思った次第です。
基本的には神籠石は貯水機能を内側に持ちある程度の兵員を収容して長期間自給できる拠点として構築されているのでこの規模ではそれらが難しいと思います。
しかし神籠石と考えると位置的には瀬戸内海側の石城山神籠石とちょうど真反対の日本海側に位置しているのでこの二つを結ぶラインで敵軍の侵攻を阻止したかったのか?(そうすると中国山地中央にも何かあるのかも)という合理的な理由も見つかることは見つかります。
以上のことから総合的に判断すると古代山城神籠石説がやや有力でのちの時代にアーチ門などは付け加えたのかもしれません。
@@okotarou1464 丁寧な考察をしていただきありがとうございます。素人考えながら石垣の積み方があまり新しいものに見えず、また当地は古代において大変栄えており、かと言ってアーチ状の石門は沖縄のグスク以外に見た事がなかったもので判断に困っておりました。県教育委員会の資料を当っても元寇防塁跡(では無い可能性もある)と、地元の伝承による記載のみで特に調査が入っておらず大変気になっておりました。将来謎が解明される事を祈っております。ありがとうございました!
@@Hatomaru-l5s これだけのものがなぜ調査されていないのか疑問ですよね、そのぶんこれを実地調査されてサイトにまとめられた方は素晴らしいと思います。
それと書き込んでから色々と考えが浮かんできたので書かせていただきますと、元寇防塁の可能性ですがもしかしたらかつては山口県の海岸線に防塁が点在していたのかもしれません。
それが時と共に樹木や砂に埋もれたり天災による破壊により全く姿を見ることができなくなって結果的に鵜山のものが単体であるように見えるのかもしれません、伊万里湾岸の防塁がまさにそれに近いですから。
色々考えましたが、かつて古代山城として構築された遺構に元寇を機に手を加えて室町期戦国期に改修されたが廃城となり今に至ったのでは?という一応の結論になりました。
ただアーチ門は謎のままですね、アーチ門はおっしゃるように沖縄の城址にある特徴ですから沖縄に沖縄のこのタイプの城塞が築かれた時期に渡航した者や沖縄にもともといた者がこの地にやってきて組み上げたのか、あるいはそのルーツになった大陸の城門を知る大陸からの渡航者が構築したのか。
後者の説をとると第一に元寇機以前の古代に流れ着いた者が構築した可能性ですね、実際この周辺にはいわゆる楊貴妃漂着伝説もあるくらいですからそれ自体が都市伝説レベルの話であったとしても漂着民が流れ着くことはあったのだと思います。
そういう漂着民が住み着いて構築した説
もう一つは元寇機以降に構築された説ですね、これはこの地に上陸した元軍が元々数がそう多くはなかったので砦を構築して日本軍の九州への援軍をこの地に誘引して妨害するという役割のもとにできたという説です。
その時にもしかしたら古代城址の遺構を利用して砦を構築したのかもしれません。
大艦隊に切り込むとか武士勇気ありすぎ
面白くて10回以上この動画を繰り返し見てるのは多分私だけ。
河野通有は、石塁の前に陣を張って不退転の意思を示して、九州の武士からも尊敬されていたらしいですね。敵大将を生け捕りにしたりと武功も挙げていたみたいです。
何ヶ月もいつ攻めてくるか分からない状態で待ち構えてて、これだけの士気の高さ。鎌倉武士はヤバいですね。
むしろ待って待ってやっと来た!っていう感覚なのかもしれませんね。
クリスマスを待ち望む子供みたいな。
志賀島が完全な陸続きになったのは昭和8年の志賀島大橋の建設以降橋脚に砂が溜なるようになってからです。それ以前は干潮に時のみ砂州で繋がる状態でした。他の元寇の記録でも陸続きの記載になっているけど鎌倉時代は現在より海面が高かったので浅瀬ではあったが単独の島だったと考えられます。
こういう風にちゃんと歴史見返しくれるの好き。日本は神風だけじゃ無いんだぞ!!ってのが分かって嬉しい
いつも楽しく拝見させて頂いてます
準備に相当な時間をかけてますよね
資料集め、その読み込み、分析
それを短い時間にまとめて編集されて
しかも見ていて物凄く楽しいし何よりわかりやすい!
大学受験で世界史を先行して以来久しぶりにハマってます
これからも楽しみにしていますので
どうか無理されない範囲で頑張ってください!
何度見ても涙が出てくる。先人に感謝。
鷹島の昔からの地名が地獄谷とか首塚とか物騒な名前が多いって話あるよね…
鷹島掃討戦、元軍の置いてけぼりにされた兵士数万~十万くらい武士に皆殺しか奴隷にされた説やべぇ。
14万の兵と4400の艦隊を動かしたのは第二次世界大戦までないんじゃないかな。
日本人は文化なのか遺伝子なのか、兵は引かないからなあ。まあ大震災や津波、台風でもすぐに立ち直るし!
ですね!
WW2で連合軍が行った『ノルマンディー上陸作戦』までは“世界史上最大の上陸作戦”でした
そういう面では日本人たふだねw
秀吉の朝鮮出兵がそれくらいの数動員してる気がする
自分の先祖も九州北部を拠点とした武士だったので、この元寇で多くのご先祖様が討ち死にしました。地元の武士団がよく戦ったと伝えて頂き、ありがとうございます。
この時、半島などに連れ去られた日本人の女性・子供などを探し連れ戻す戦いが、後に語られる「倭寇」なのではないかと考えています。
まさに。
倭寇の時、足利義満が明に朝貢して臣下日本国王と名乗って、魏に朝貢して臣下になった卑弥呼の邪馬台国と同じく武士の誇りを傷つけていましたね。
それが室町幕府の時全国で地上無敵武勇無双の誇り高い大和魂の武士が群雄割拠した一番の原因になったのでしょうね。邪馬台国が菊池彦に攻められてほろんだのもムー大陸時代から宇宙無双の武士の魂がなせる業だったのですね。皆さんのコメントを見て初めて分かりました。
信長秀吉の世界制覇の野望も同じでしたか。
命を捨てて婦女子を守り抜く日本男児ご先祖様は偉大の一言です。
本当に素晴らしいです!
非常に分かりやすいご解説で、毎回勉強させていただいております。
この短い時間の動画の為に費やした膨大な調査や苦労が理解出来ます。
いつも動画を楽しみにしておりますので、今後も頑張ってください!
戦闘当時の状況がよく分かって面白いです。それにしてもよくこれだけ詳細に武士や元軍の動きが
記録に残っているかと感心しました。
欧米&日本人「日本人は大人しいから」
っていう言葉は戦後の欧米の願望でしょう。
「日本人が一致団結して動いたら、日本がまた危険な存在になる」っていうのは嫌程知ってるからね。
武士階級と小市民は、同じ民族でありながら別種の民族くらい違う人種ですからねぇ。
元サッカー日本代表監督のトルシエは日本人の本質は守りではなく攻撃であるって言ってましたもんね。地味に泥臭く守りぬくのが日本人の本質だと思っていたので外国人監督のこの評価が意外に思ったものです。
外国のひとは日本人を命知らずの攻撃的な民族だといまでも思っているのでしょうね。
あの頃へ 韓国人曰く日本人は普段は大人しいがアジア一のサイコパスらしいです
@@なるなる-p6c そんな事は無いでしょ。多分。知らんけど。
***流石に……監督ともなれば、物事の本質を見抜く事に長けていらっしゃる。
***第二次世界大戦に於けるハワイのアメリカ陸軍・二世部隊#442部隊・志願兵士の ヨーロッパ・イタリア・ブランズの激戦地での果敢な闘いブリは、アメリカ戦史上最高記録として、アメリカ陸軍士官大学・ウエスト・ポイントで、現在も賞賛され展示されて居るそうです。🤔🤓
長大な防塁の後ろに布陣する武士たちの中で河野水軍だけが防塁の前方の砂浜に布陣した
不退転の心意気を誇示するこの背水の陣は「河野の後築地」と称賛され
島津を初めとした九州武士はこれを見て奮い立ち、バーサーカーたちの戦意はカンスト状態になった
伊予大三島日本総鎮守一之宮大山祇神社略誌に伊予源氏河野通有の弘安のいくさが詳しく記録されている。
ついでに言うと日本海海戦の前に松山の秋山眞之海軍中将が伊予水軍の戦法を取り入れて実地訓練を重ねた丁字戦法(T字は戦後GHQにしっぽを振ったバカ国語教師が保身のためにマッカーサーに忖度して捏造したニセ日本語である)で、
ロシアのバルチック無敵艦隊を半日で対馬の海に撃滅したのである。
負傷したロシア兵を救って帰国できるまで治療看護し戦死したロシア将兵を慰霊供養し遺品をロシアの遺族へ送り届けた日本人伝統の武士道は古今不変万古不易である。
河野の後築地の逸話本当に好き