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いつも興味深い配信ありがとうございます。今回の「石のカラト古墳予習編」個人的にとても嬉しく拝見させていただきました。石のカラト古墳はド素人の妄想で穂積皇子か長皇子と思っております。長皇子は私の一推しの弓削皇子のお兄ちゃんなんですが、コレまたド素人妄想でキトラ古墳の被葬者に推してますので、私の中では穂積皇子で落ちついています🤭飛鳥のロミジュリこと穂積皇子と但馬皇女は弓削皇子と同じく私を飛鳥に誘ってくれた大恩人です。来村先生は以前の著書でキトラ古墳の被葬者を長皇子とされてました。石のカラト古墳をどう仰られるのか今から楽しみで楽しみで仕方ないです。
来村先生のお話が楽しみですね梅前さんは健脚ですねいつも楽しく見ています
コメントありがとうございます♪来村先生にはいつ御登壇いただくかまだ決まっていないのですが、いつか必ず石のカラト古墳についてお話をうかがいますので、楽しみにお待ちください(^-^)
ひっそりとして、とても良い場所ですね。いつか行ってみたいと思います。
石のカラト古墳は、知る人ぞ知る穴場スポットです♪ 上り坂ですけど、高の原駅からゆっくり歩くのにちょうどいい距離だと思います。ぜひ♪
大きさもこれぐらいが落ち着きますね。また、管理状態もよく整備されてて、気持いいです。(お墓に気持ちいいってのも変ですが・・・w)
いきなり鉄道ネタであれっと思いました 乗り鉄の自分ですが、先日 糸魚川のフォッサマグナミュージアムに翡翠を見に行きました 古墳の副葬品にも多く使われたのでは?と思いを馳せていました
糸魚川に行かれたんですね! おっしゃる通り、翡翠は糸魚川周辺から全国に運ばれています。縄文時代くらいには、貨幣的な価値もあったのではと個人的に考えています。フォッサマグナミュージアム、一度行ってみたいです!(≧▽≦)
駅から東へ向かうと、平城京の瓦を焼いた窯跡など点在していますが、この辺りは1つの遺跡が府県境を跨いでることが多いですね。埋葬施設ですが、沼津市の清水柳北遺跡の上円下方墳では、火葬骨を石櫃という容器に納めていたようです。やはり火葬にするならば従来の石室や石槨にはならないように思われ、そうすると石のカラト古墳は白鳳期まで遡れるのではないかと。
>埋葬施設ですが、沼津市の清水柳北遺跡の上円下方墳では、火葬骨を石櫃という容器に納めていたようです。やはり火葬にするならば従来の石室や石槨にはならないように思われ、そうすると石のカラト古墳は白鳳期まで遡れるのではないかと。貴重なご教示ありがとうございます。清水柳北遺跡では火葬骨が埋葬されていたんですね。となると、やはり上円下方墳は古墳としては最終末期のものになるんでしょうか。(石のカラト古墳は石室の形状からして火葬墓ではありませんよね)
藤原京シリーズかと思いきや、まさかの石のカラト古墳とは。上円下方墳なので被葬者は 皇族の方と思われますが、続編の来村先生の見解が気になります。高の原駅は奈良市に属していますが、駅前の商業施設は京都府木津川市に属しており、店内にも境界があるそうです。
>高の原駅は奈良市に属していますが、駅前の商業施設は京都府木津川市に属しており、店内にも境界があるそうです。そうなんですね! 店内に境界線が。税金はどちらに納めているんでしょう(笑)来村先生のご登壇はまだ予定が立っていないのですが、いつか必ず!と思っておりますので、その時をどうかお楽しみに♪
鉄道にもお詳しいんですね。被葬者予想。確かに平城京前の気がします。まさか弓削……。後なら穂積を捨てがたい……。楽しみです。
石のカラト古墳の被葬者、気になりますよね~(≧▽≦)あれこれと妄想するのが楽しくてなりません♪
奈良と京都の府県境は私が週に2回車で通過する道路があり、なじみのある地です。なかでも奈良市の「押熊」はドライブの途上よく目にする地名で、めずらしい名前だと思っていたら、今回の動画で、日本書紀の昔からある地名として紹介されていて驚きました。
コメントありがとうございます♪ ドライブの途中で押熊の地名を目にされるとのこと。確かな根拠はありませんが、忍熊皇子の時代にさかのぼる地名とされています。奈良や京都周辺はもちろんですが、全国に残る地名も、そうした由来を伝えるものなので、安易に変えてはいけないと思っております。押熊という地名を実際に身近に感じておられる方のお話を聞いて、とても嬉しく思いました♪
古代の古墳と言えば前方後円墳と思っていました。単純な頭の持ち主です。前後でなく立体的な上下の墳丘もあるんですね。上円下方墳。粋な名前。昔からこのような名称で呼ばれていたのでしょうか?それとも明治以降、考古学という学問分野が出来てからどなたかが名付けられたのでしょうか?「考古学」という学問は江戸時代以前から名前は違えど存在したのでしょうか?どなたが埋葬されていたのかも重要とは思いますが、そんな事に興味が湧いてきます。
上円下方墳がいつからその名称で呼ばれていたか。……なかなか難しい問題ですね。前方後円墳については「前方後円」という名称を初めて使ったのは江戸時代(19世紀)とされていますが、上円下方墳についてはそれ以降としか申し上げられません。スミマセン。
武蔵野陵も上円下方墳ですね。😌
おっしゃる通り、武蔵野陵にある昭和天皇や大正天皇、その皇后陛下たちの陵墓は上円下方墳ですね。古代においては大変珍しい墳形ですが、近代では標準(?)なようです。
被葬者については、怨霊信仰の観点からすると、怨霊となるような、いわゆる非業の死を遂げた人ではない?のでしょうか。ひとり離れた場所に葬られた孤独感を感じてしまう私です。キタムラさんの見解が楽しみです。
コメントありがとうございます。石のカラト古墳の被葬者について、まだ予定は立っていないのですが、いつか来村先生にご解説いただきたいと思っておりますので、その時をお楽しみに♪
梅前様は歴史学や考古学のみならず鉄道にも御詳しいんですね☺️
>鉄道にも御詳しいんですね今回はのっけから鉄分(?)多めな動画になってしまいました。あまり乗る機会がないのですが、鉄道は大好きで、鉄道系の動画をよく見ております♪
@umemaeSakiko そうだったんですね‼️然し、鉄分多目のスタートにも関わらず、脱線する事無くちゃんと軌道修正して被葬者についての興味深い御話まで聴かせて下さる所が流石です❗来村先生との回も楽しみにしてます‼️
この物件を気に入りました。お幾らでしょうか?(笑)
>この物件を気に入りました。お幾らでしょうか?(笑)駅から上り坂ですがよろしいでしょうか。金額につきましては被葬者と交渉の上お知らせいたします(笑)
@@umemaeSakiko ヨロシクお願いします(笑)乗りに感謝です✨
この辺りに奈良大学があり、下宿しておりました!
下宿先は押熊でした!
押熊に下宿されてたんですね! 由緒ある地名の土地で青春時代をお過ごしになったとは羨ましい(≧▽≦)
京都府相楽郡は、そうらくぐんです、サガラではありません。
被葬者さん気になりますね、きたむら先生の考察も聴きたいですね~
コメントありがとうございます♪来村先生のご登壇の予定はまだ立っていないのですが、いつか必ずご登場いただきたいと思っておりますので、楽しみにお待ちください♪
古墳というと被葬者が一番気になりますね。陵墓をあばくのは被葬者に対しての冒涜感もありますが、歴史ファンとしては気になりますね。
>陵墓をあばくのは被葬者に対しての冒涜感もありますが、おっしゃる通りです。古墳は「お墓」なんですよね。被葬者に対する思い、残された人々が彼(彼女)を送る思いを忘れてはいけないと、コメントを拝見してあらためて思いました。
石のカラト古墳の被葬者は第40代天武天皇の皇子の磯城親王です。 磯城親王は紀元663年に生まれ718年に56歳で崩御されました。
>石のカラト古墳の被葬者は第40代天武天皇の皇子の磯城親王です。 磯城親王は紀元663年に生まれ718年に56歳で崩御されました。磯城親王が被葬者である根拠と、663年生まれ718年薨去の根拠をお示しいただけたら幸いです。
結局は被葬者について言及されてますね。(絞り込んではいませんが、言及は言及です w)やはりそれが一番気になるので我慢出来ませんよね。
被葬者について、こらえきれずに言及しちゃいました(笑)さて、来村先生は誰を被葬者と考えておられるのか、いつか必ず御登壇いただきたいと思っておりますので、その時をお楽しみに♪
@@umemaeSakiko さま来村先生を私如きが批評するのはおこがましいんですが、拝見してて知的だけど気さくな方のようにお見受けします。他の方のチャンネルでやられている、あべのハルカスでの講座も見させてもらってますw (これは梅前様のチャンネルを見た波及効果です)
いつも興味深い配信ありがとうございます。今回の「石のカラト古墳予習編」個人的にとても嬉しく拝見させていただきました。石のカラト古墳はド素人の妄想で穂積皇子か長皇子と思っております。長皇子は私の一推しの弓削皇子のお兄ちゃんなんですが、コレまたド素人妄想でキトラ古墳の被葬者に推してますので、私の中では穂積皇子で落ちついています🤭飛鳥のロミジュリこと穂積皇子と但馬皇女は弓削皇子と同じく私を飛鳥に誘ってくれた大恩人です。来村先生は以前の著書でキトラ古墳の被葬者を長皇子とされてました。石のカラト古墳をどう仰られるのか今から楽しみで楽しみで仕方ないです。
来村先生のお話が楽しみですね
梅前さんは健脚ですね
いつも楽しく見ています
コメントありがとうございます♪
来村先生にはいつ御登壇いただくかまだ決まっていないのですが、いつか必ず石のカラト古墳についてお話をうかがいますので、楽しみにお待ちください(^-^)
ひっそりとして、とても良い場所ですね。いつか行ってみたいと思います。
石のカラト古墳は、知る人ぞ知る穴場スポットです♪ 上り坂ですけど、高の原駅からゆっくり歩くのにちょうどいい距離だと思います。ぜひ♪
大きさもこれぐらいが落ち着きますね。
また、管理状態もよく整備されてて、気持いいです。(お墓に気持ちいいってのも変ですが・・・w)
いきなり鉄道ネタであれっと思いました 乗り鉄の自分ですが、先日 糸魚川のフォッサマグナミュージアムに翡翠を見に行きました 古墳の副葬品にも多く使われたのでは?と思いを馳せていました
糸魚川に行かれたんですね! おっしゃる通り、翡翠は糸魚川周辺から全国に運ばれています。縄文時代くらいには、貨幣的な価値もあったのではと個人的に考えています。フォッサマグナミュージアム、一度行ってみたいです!(≧▽≦)
駅から東へ向かうと、平城京の瓦を焼いた窯跡など点在していますが、この辺りは1つの遺跡が府県境を跨いでることが多いですね。
埋葬施設ですが、沼津市の清水柳北遺跡の上円下方墳では、火葬骨を石櫃という容器に納めていたようです。やはり火葬にするならば従来の石室や石槨にはならないように思われ、そうすると石のカラト古墳は白鳳期まで遡れるのではないかと。
>埋葬施設ですが、沼津市の清水柳北遺跡の上円下方墳では、火葬骨を石櫃という容器に納めていたようです。やはり火葬にするならば従来の石室や石槨にはならないように思われ、そうすると石のカラト古墳は白鳳期まで遡れるのではないかと。
貴重なご教示ありがとうございます。清水柳北遺跡では火葬骨が埋葬されていたんですね。となると、やはり上円下方墳は古墳としては最終末期のものになるんでしょうか。(石のカラト古墳は石室の形状からして火葬墓ではありませんよね)
藤原京シリーズかと思いきや、
まさかの石のカラト古墳とは。
上円下方墳なので被葬者は
皇族の方と思われますが、
続編の来村先生の見解が
気になります。
高の原駅は奈良市に属していますが、
駅前の商業施設は京都府木津川市に
属しており、店内にも境界が
あるそうです。
>高の原駅は奈良市に属していますが、
駅前の商業施設は京都府木津川市に
属しており、店内にも境界が
あるそうです。
そうなんですね! 店内に境界線が。税金はどちらに納めているんでしょう(笑)
来村先生のご登壇はまだ予定が立っていないのですが、いつか必ず!と思っておりますので、その時をどうかお楽しみに♪
鉄道にもお詳しいんですね。被葬者予想。確かに平城京前の気がします。まさか弓削……。後なら穂積を捨てがたい……。楽しみです。
石のカラト古墳の被葬者、気になりますよね~(≧▽≦)
あれこれと妄想するのが楽しくてなりません♪
奈良と京都の府県境は私が週に2回車で通過する道路があり、なじみのある地です。なかでも奈良市の「押熊」はドライブの途上よく目にする地名で、めずらしい名前だと思っていたら、今回の動画で、日本書紀の昔からある地名として紹介されていて驚きました。
コメントありがとうございます♪
ドライブの途中で押熊の地名を目にされるとのこと。確かな根拠はありませんが、忍熊皇子の時代にさかのぼる地名とされています。奈良や京都周辺はもちろんですが、全国に残る地名も、そうした由来を伝えるものなので、安易に変えてはいけないと思っております。
押熊という地名を実際に身近に感じておられる方のお話を聞いて、とても嬉しく思いました♪
古代の古墳と言えば前方後円墳と思っていました。
単純な頭の持ち主です。
前後でなく立体的な上下の墳丘もあるんですね。
上円下方墳。
粋な名前。
昔からこのような名称で呼ばれていたのでしょうか?
それとも明治以降、考古学という学問分野が出来てからどなたかが名付けられたのでしょうか?
「考古学」という学問は江戸時代以前から名前は違えど存在したのでしょうか?
どなたが埋葬されていたのかも重要とは思いますが、そんな事に興味が湧いてきます。
上円下方墳がいつからその名称で呼ばれていたか。
……なかなか難しい問題ですね。前方後円墳については「前方後円」という名称を初めて使ったのは江戸時代(19世紀)とされていますが、上円下方墳についてはそれ以降としか申し上げられません。スミマセン。
武蔵野陵も上円下方墳ですね。😌
おっしゃる通り、武蔵野陵にある昭和天皇や大正天皇、その皇后陛下たちの陵墓は上円下方墳ですね。古代においては大変珍しい墳形ですが、近代では標準(?)なようです。
被葬者については、怨霊信仰の観点からすると、怨霊となるような、いわゆる非業の死を遂げた人ではない?のでしょうか。ひとり離れた場所に葬られた孤独感を感じてしまう私です。キタムラさんの見解が楽しみです。
コメントありがとうございます。
石のカラト古墳の被葬者について、まだ予定は立っていないのですが、いつか来村先生にご解説いただきたいと思っておりますので、その時をお楽しみに♪
梅前様は歴史学や考古学のみならず鉄道にも御詳しいんですね☺️
>鉄道にも御詳しいんですね
今回はのっけから鉄分(?)多めな動画になってしまいました。あまり乗る機会がないのですが、鉄道は大好きで、鉄道系の動画をよく見ております♪
@umemaeSakiko
そうだったんですね‼️
然し、鉄分多目のスタートにも関わらず、脱線する事無くちゃんと軌道修正して被葬者についての興味深い御話まで聴かせて下さる所が流石です❗
来村先生との回も楽しみにしてます‼️
この物件を気に入りました。お幾らでしょうか?(笑)
>この物件を気に入りました。お幾らでしょうか?(笑)
駅から上り坂ですがよろしいでしょうか。金額につきましては被葬者と交渉の上お知らせいたします(笑)
@@umemaeSakiko ヨロシクお願いします(笑)乗りに感謝です✨
この辺りに奈良大学があり、下宿しておりました!
下宿先は押熊でした!
押熊に下宿されてたんですね! 由緒ある地名の土地で青春時代をお過ごしになったとは羨ましい(≧▽≦)
京都府相楽郡は、そうらくぐんです、サガラではありません。
被葬者さん気になりますね
、きたむら先生の考察も聴きたいですね~
コメントありがとうございます♪
来村先生のご登壇の予定はまだ立っていないのですが、いつか必ずご登場いただきたいと思っておりますので、楽しみにお待ちください♪
古墳というと被葬者が一番気になりますね。
陵墓をあばくのは被葬者に対しての冒涜感もありますが、歴史ファンとしては気になりますね。
>陵墓をあばくのは被葬者に対しての冒涜感もありますが、
おっしゃる通りです。古墳は「お墓」なんですよね。被葬者に対する思い、残された人々が彼(彼女)を送る思いを忘れてはいけないと、コメントを拝見してあらためて思いました。
石の
カラト古墳の被葬者は第40代天武天皇の皇子の磯城親王です。
磯城親王は紀元663年に生まれ718年に56歳で崩御されました。
>石のカラト古墳の被葬者は第40代天武天皇の皇子の磯城親王です。 磯城親王は紀元663年に生まれ718年に56歳で崩御されました。
磯城親王が被葬者である根拠と、663年生まれ718年薨去の根拠をお示しいただけたら幸いです。
結局は被葬者について言及されてますね。(絞り込んではいませんが、言及は言及です w)
やはりそれが一番気になるので我慢出来ませんよね。
被葬者について、こらえきれずに言及しちゃいました(笑)
さて、来村先生は誰を被葬者と考えておられるのか、いつか必ず御登壇いただきたいと思っておりますので、その時をお楽しみに♪
@@umemaeSakiko さま
来村先生を私如きが批評するのはおこがましいんですが、拝見してて知的だけど気さくな方のようにお見受けします。
他の方のチャンネルでやられている、あべのハルカスでの講座も見させてもらってますw (これは梅前様のチャンネルを見た波及効果です)