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この時代の山陰線は長距離客車列車の宝庫ですね。
このだいせん5号、全車指定席だったが、米子からは自由席になったので、米子駅で泊まり、周遊券で乗り込んだことがあります。いい思い出です。
山陰出張時に度々利用した。🚅ひかり&伯備線[やくも]で行き,夜行で帰るパターン。20系💺は冷房車で快適でした地元の人は[いずも]東京夜行,[だいせん]大阪夜行,[山陰]京都夜行と呼んでいた🌃
社蓄の出張?鉄ならご褒美
20系客車やっぱりかっこいい!だいせんの停車時間帯ありがたいな!
20系を使用した山陰の夜行急行と言えば米子~博多の「さんべ」もありましたね。こっちは12系+20系でしたが
一度撮りに行きましたが、その時はケツがナハネフ23でした。
だいせん5号 子供の頃、乗りました。福知山で長い停車の間、ホームに積もった雪を発車しないか、ドキドキしながら取りにいった思い出。とても寝るなんてことは出来ずひたすら起きてました。
その福知山では夜間に業者がリヤカーで駅弁を運び売っていたらしい。「だいせん」だけでなく、夜行普通「山陰」もターゲットだったとか…現在は駅弁屋も撤退し、ブルートレイン「出雲」も銀河のかなたへ…
オハ21の指定席は本当に快適でした。4人掛けでも向かいの人と膝がぶつかることなく、ゆったりとしていました。座席のモケットもA寝台のままで乗り得でした。😊
なんつーか、583系普通車みたいな感覚でしょうか?当然「アレ」は固定されて、引きずり出せなかった…?
@@雅夫大場同じ感じです。上段の寝台設備は撤去。下段もストッパーで固定されていて引き出し不可でした。583より幅がやや狭いですが、足元が広く、シートの深さや背もたれの角度もよく快適でした。ちなみに、大阪富山の夜行立山の583の普通車は下段引き出し可能でした。閑散期は引き出してごろ寝してても車掌さんも黙認と言う感じです。
ナハ21は、一度乗ってみたかった!
オハ21は施工工場により仕上がりに差が生じていた。所詮は格下げであり雑な仕上げになることが多かったが、存廃に揺れていた高砂工場にて改造された車両は工場が持つ技術を本社へアピールするために、酷使された車両をレストアし床にはリノリウムを張り直した。コスト意識が低くメンツを重んじた国鉄ならではのエピソードである。
1971年~1974年の夏季シーズンには、大阪~米子で臨時の夜行の急行だいせんに急行おきのしま(大阪~境港)が併結していました。又1973年シーズンには、播但線経由の急行だいせん・おきのしま(大阪行のみ)が設定されていました。
1984年の8月か9月頃に大阪から大社まで、5号にフル乗車したことがあります。B寝台で夜を過ごしたのですが、朝になって寝台が狭苦しく感じて(三段の下段でした)、当時は米子から普通(快速)列車となって指定席が自由席になるので、座席に移動して大社まで乗った記憶があります。その座席車はA寝台の上段を撤去したものらしく、ゆったりしたボックスシートだったと記憶しています。何やら前年に九州旅行をした時に「にちりん」の583系普通車に乗った時と似た感覚が残っています。
両者ともにルーツはプルマン式寝台ですからね
「エーデル」編成の【だいせん】のパノラマ席に乗ると、ある意味楽しすぎて寝るヒマがない。
Yes.しかしながら「検査」等で一般車になる事もあったらしい。ソレで落胆した「鉄」もいたらしい。
いつも通勤に使う駅で見守ってた懐かしい編成です。稀にハズレ?編成の時があってショボーンとした顔の人が載ってたのを覚えています多分乗り鉄さんでしょうね^^;
失礼。一般車というより「一般『顔』」といった方が妥当ですか…山陰と云うと「ムーンライトやえがき」にはお世話になりました。その列車にはBネが連結されてましたが、青春18は使えず別途乗車券が必須な為にトラブルが絶えず、早々に普通車のみになったようですな。「だいせん」には乗った事はありませんが、仰るような経験はあります。「ムーンライト九州」に乗った2005年夏、新大阪からわくわく気分で乗車し、最後尾に向かうと…なんでも、連日の酒盛り→「吐く」など汚された為に一般顔になったようで…
エーデル用キハ65はシート下に暖房器具が無いので爪先が伸ばせてありがたい存在だった当時の福知山線での特急車両ではシート下にある電熱用カバー邪魔で脚が伸ばせない構造だった
85年当時出雲に住んでいて大阪に出かけるのに何度か利用しました。一度だけ奮発して寝台に乗りましたが、基本金が無いので自由席でしたが、ボックス席だった記憶があります。20系の改造車だったと思います。殆どガラガラで4席占領出来ました。
20系に最初で最後に乗った列車がこの急行だいせんでした。高校の合宿旅行で乗ったのはおそらく最後の年だったようですね。めちゃくちゃ混んでて床に座ってた記憶しかありません笑
鳥取市の山陰本線沿線民だけど、昔の時刻表の深夜帯に急行だいせんの名前がハッキリ赤文字で書かれていたのを覚えている。
大社号廃止前に乗ろうと予約しましたが睡眠不足でキャンセルした覚えが有ります。その直後に廃止され、つくづく乗車すれば良かったと後悔しました。
急行だいせんの車両所属は大阪の宮原客車区に所属していました。1986年11月の国鉄最後の全国ダイヤ改正で3段式B寝台14系寝台客車+12系座席車に置き換えをした際に初めてイラストマークが採用されました。
木次線を乗った後に快速区間(宍道→米子)を18キップで乗ったのが唯一の機会だったかな…木次線はキハ52でだいせんは12系でした
寝台末期だいせんは 私の通勤時間と重なっていたので毎朝駅で通過見てましたわ ある意味一番懐かしい列車ですね
急行きたぐにが末端区間の、新津〜新潟間を快速として走った時は、寝台車として営業していた車両には乗れなかった。
下りきたぐに末端の快速区間ですと、「自由席4両だけ乗車できます」という注意書きが、大きい時刻表の編成表に記載されてましたね。
赤穂線は「あこうせん」です。
たしか、上野から男鹿まで走っていた、20系寝台急行「おが」も、秋田までは急行、秋田~男鹿まで普通列車で走っていた記憶ありますが?。
急行おが、懐かしい。私は季節列車になってから乗りましたが、ハネをそのまま座席車扱いでの運用でした。乗客は3人掛けの中席が空いている程度で宇都宮過ぎたところで隣の方に「私は上段に行くので、下段で横になっては?」と提案。向かいの方もそれは良いということで上段で爆睡したことを思い出しました。ただ、5時30分頃目覚めて、新庄近くかと思ったら、動いておらず降りてみると大雪で山形に止まってました。そのあとの行程はズタズタでしたが、いい体験でした。
鉄道ジャーナル過去誌によると、男鹿線直通の急行にも20系が入っていた写真も見かけたことあります。
常磐線経由の上野~青森間夜行急行[十和田]が20系化された際ナハ21が登場した。[だいせん]の20系化より前だった筈。尤も当初は改造が間に合わず、ナロネ21をそのまま座席車代用で繋いだ時もあったとか…大社行きの[だいせん]では座席車のみ開放だった由。
「夜間急行だいせん」、季節列車臨時のキハ58の「夜間急行だいせん」しか乗った事がなく、定期列車のDD51牽引の「急行だいせん」を指を加えて見てました。当時、キハ58臨時急行「だいせん」の座席で寝ていた客が多く、座れなかった記憶があります。
山陽新幹線ができるまでは、山陽本線を急行がバンバン走っていましたね。
国鉄最後の日に 一番最後に乗ったのが 「だいせん」でした。米子で40分停車だったので 駅の外のミスドで ドーナツ買ったのが思い出!
名古屋に行く時利用した事あります。なつかしいっす
急行きたぐにも、新潟行きの朝方は地域輸送の列車になっていましたね。
だいせんもJR北海道のようにキハ65系エーデル+寝台車のサンドイッチ編成にすれば1、2年長く生き残れたかもしれない
だいせんの出雲市から大社は普通車のみ開放でしたね。もちろん折り返し便も。ナハ21の乗り心地が良すぎて、普通車が12系になって落差が激し過ぎました。
『だいせん』は、鉄道専門誌でも紹介にページ半分も割かれない、はっきり言えば無視されているに等しいので、注目してくれる人がいると嬉しくなります。
懐かしい。大阪から山陰の旅行の時に乗ったな。1996年頃だったかな?
寝台特急出雲号は高いのでせめて急行だいせんに乗っておけば良かったと悔いが残る
20系寝台に“乗車券だけ”で乗れた…つくば万博での“エキスポライナー”も思い出してほしいぞ
その「エキスポライナー」の動画がコレです。ua-cam.com/video/bea6x0OS5aU/v-deo.html
客車時代は12系+20系での編成がありましたよね実際にだいせんに乗る機会はなかったのですが当時の時刻表でよく頭の中でプランを立ててました門司発福知山行きの824列車で福知山で日が変わる直前に着き2時間余りの待ち合わせで上りだいせんで早朝、大阪に帰阪するプランで。
それは「さんべ」等😉
中学生の頃、一回だけ乗ったな。ベッドが狭かった記憶がある。
中1で初めて一人旅で夜を過ごしたのがこのナハ21でした。大阪駅をあとに出発する最終の普通福知山行きに福知山で追いつかれるのも味わい深かったですね。
だいせん号のイラストマークは鳥取県の最高峰大山が描かれていました。大阪駅🚉ー出雲市駅🚉間全区間福知山運転所所属のDD51形ディーゼル機関車が牽引していました。
走るホテル乗ってみたい😅
当時ジャーナル誌なんかで読んだが大社線の20系はなかなかシュールで面白かった。日豊線にも夜行の日南は宮崎辺りから西鹿児島までの通勤時間帯は普通列車だったが、20系や 25型の扉には鍵をかけていたような気がする。
日南号の25型時代は、両親の故郷の都城から神奈川に戻る際B寝台を小倉までよく使ったが、サッサと寝台で寝た記憶が在るので(山之口駅で車掌に検札して貰った)施錠は無かったはずです。だいせん号の寝台利用はありませんが、12系の新幹線リクライニング座席交換車はかなり乗りました。そのうちエーデル車に変わったので『なんだこれ?』と戸惑った事もあります。次回からは先頭展望車の指定を取るようにしましたが。
日南については、20系+12系時代に何度か、西鹿児島→小倉で利用しましたが、寝台は西鹿児島から利用可能でした。記憶が定かでなく切符もすぐに出てこないので曖昧ですが、寝台券は西鹿児島〜小倉、急行券は宮崎〜小倉で分けて発券されていたように思います。
80年代兵庫県北部に住んでいたので大阪でイベント、スポーツなんかがあった時は23時ぐらいまでに大阪駅に着けばだいせんに乗って日帰り可能だったのでゆっくり食事ができたので重宝した。
通学の高校生が乗ってきてびっくりしました
そもそも、大阪⇒出雲市(福知山線経由)は、戦後まもなくから昭和39年9月末迄は普通列車で、しかも全国で唯一「1等寝台車B」を連結した普通列車でした。往路:大阪21:58⇒浜田12:32・大社07:42復路:浜田17:23・大社19:40⇒大阪07:42往復共に1等寝台車は出雲市迄連結この普通列車が39年10月のダイヤ改正で「急行しまね」に格上げの上、1等寝台車Bと2等寝台車1両ずつ連結して運行。翌40年10月改正で「急行おき」に改称「しまね」は9月末まで京都⇒門司・門司⇒米子の山陰西部が夜行運転していた811-812列車を急行に格上げして寝台車連結の「急行しまね」となって運行しました。なので、夜行普通列車を一気に2つ消してしまった「急行しまね」も、43年10月改正で「急行さんべ」に改称したのです。急行だいせんも、京都⇒大社時代は東海道⇒山陽⇒赤穂⇒山陽⇒伯備⇒山陰⇒大社の7線経由したのが当時のクイズ番組に問題になった事もあったし、急行さつまと併結時代は13-17号車が割り当てられ、今でも17号車は最大の号車で語り継がれています。
一般型客車で運行されていた急行列車を20系客車で置き換える際にプルマン式を採用したA寝台車ナロネ21から改造された。この際に改造に携わっていた高砂工場は民営化に際しての統廃合と工場への出入りも兼ねている高砂線の存廃も絡んでいたので改造に躍起になっていた。他工場では簡易改造で済んでいるところを、高砂工場が持つ高い技術をアピールして存続に繋げようとして多額の費用を費やして新車並みの改造を施工した。この発想とコスト感覚がいかにも国鉄。
小学生の時に寝台急行大山は、時々見にいったなぁ。父のカメラを借りて写真も撮ったみたけど、失敗したのは悲しい思い出だ。
どうしたんだゆっくり、あこうせんだろ、赤穂線……。
ナハ21って、実はかなりの乗り得だったんですね。715系、419系も同様ですけど。
男鹿線を快速で走った夜行急行おがを思い出した。
廃止直前のエーデル編成に乗りました。ガラガラで始発の米子から大阪まで余裕で4席占領出来て快適だったのですけどね。
この列車に限らず、適度に空いているならともかく、度が過ぎると存続が懸念される。列車だけでなく、「路線」も該当する。
城崎温泉と聞けば、あの議員を思い出してしまう。
誰?😜
城崎温泉観光協会は、奴に感謝状の一枚も出してやればいいのに…野郎なら大泣きして喜ぶぜ‼️
城崎温泉観光協会様におかれましては、奴に感謝状の一枚でも贈呈してやればいいのに…野郎の事だから、大泣きして喜ぶぜ‼️
どちらかというとオマケは下り列車の方で、折り返し大社発出雲市行きがメインです。昼間は短編成の気動車で足りる路線でも流石にラッシュ時は編成を長くしなければならないけど高価な気動車を昼間遊ばせておくわけにはいかない。そこで維持費が安く済む客車の出番となるわけです。出雲市駅に丁度いい時間に着くだいせんの客車を大社まで持ってきて、大社線沿線住民の通勤通学需要に応えるのが主なミッションで、下りはまあどうせ大社まで行くんだから出雲大社に行く人が少しは乗ってくれればいいなって感じです。一方、夜行おがは割と早い時期から不定期列車で、自動的に男鹿線直通の普通列車も不定期。季節、臨時のおが号が走るということは他にもたくさん季節、臨時列車が出るわけで、昼間全く動かない夜行おがの客車を秋田に置いとくと邪魔だったから男鹿駅に逃してたんですね。
山陰夜行寝台と言えば鈍行「山陰」でしょう?
ナハ21が 最初に使われたのは上野青森間の急行十和田3号と4号(ゴサントウダイヤ改正までの上下の2号)です。最初のうちは座席車への改造が間に合わなかったので、ナロネ21を座席のままつ上がっていました。なお十和田号の20系には本物のナロネ21を連結していましたが、だいせんからは、A寝台がなくなりました。それから十和田号の下りの盛岡以北と上りの全区間は自由度でした。なおそれ以前にはナハ20や、ナハフ21がありヨンゴウトウまで特急ゆうづるに連結されていましたが、この座席車は回転クロスシートで、ナハ21とは全くの別物です。いずれも寝台車に改造されて、現存していません。
その座席車、なんでも初期の「あさかぜ」等の九州ブルトレにも連結されてたらしいですな。あの森田一義(タモリ)氏は’60年代の若かりし頃、「あさかぜ」で上京の際に利用したが、当時は金が無く普通座席車だったらしい。
当時の鉄道ジャーナルで特集が組まれていました(だいせん、銀河、阿蘇・くにさきの3特集だったと思います)。それによると下り大社行きのハネは急行延長の解釈で普通列車区間だけの利用はNG。折返しの出雲市行きはハネ利用もOKと書かれていました。なお、記憶が非常に薄いですが、たしかに当時の時刻表の大社行きには普通列車区間にも★マークが付いていたように思います。もっとも、20系編成に当時はスユニとマニだったかも付いていて、ハネ部分はホーム長の関係ではみ出していたようなので、乗る場合は不便だったとも書いてありました。
下り「だいせん」は、ちょうど米子あたりから通勤通学時間帯になるからね。寝台車まで開放したのは、当時、それなりに特に通学需要を賄う必要に迫られての「乗り得列車」でした。参考までに、私が子供の頃は ブルートレイン=特急の寝台専用列車 と定義されてしました。同じ寝台専用列車でも急行ではダメで、もちろん寝台車と座席車を混結した列車も同様でした。だから銀河や天の川は、ブルトレの本の中でも「おまけ」のページだったなぁ。
そうです!!👍客車引退前に短区間だけど快速になっただいせんに乗りました
初期のあさかぜや、さくらなどナハ20やらナロ20、ナハフ21等座席車があったので全車寝台で無くとも特急で指定席ならブルートレインでしょうね。
今はなき大社線区間を普通列車として運転する急行だいせんですね。旧大社駅も現在改修工事中で完成するのは再来年とか…私も一昨年に旧大社駅訪問したけどあの駅舎は見れなくて残念でした。
夜行だいせんの座席車はA寝台車を座席として使ってたからね夜行普通列車山陰が廃止されて、自由席2両になったけどもうちょっと座席車が多かったらちょっとは違ったんじゃないかな
大社線のローカル運用は、以前スーツさんが博多南線のレールスターの個室に乗った感じみたいですね。
ただし、博多南線では特定特急料金は必要なので厳密には少し違います。
サンライズの後継が無いと聞きました。登場から年月が経っているので、寝台車絶滅ということになりはしないかと心配です。寝台車は身体をフルフラットにできるし、走行中のジョイント音も風情があって好きです。ただ、深夜高速バスのSA立寄りのような購買イベントが無いのが不満ですね。車内販売が消える昨今、自販機でいいから増やして欲しいな。レトロ自販機を搭載した寝台だったら、今ならチケットにプレミアつきそうですが。
自販機は電源を落とす営業外での管理が大変なので忌避されてしまうのです
¥50,000以上取らないとJRは儲からないし、それだと鉄ヲタしか乗らない。だいたい、プレミア付くと逆にJRが叩かれるのでは?😜
東北には「おが」なんてのか、走ってたな
急行だいせんの思い出は国鉄末期、小学生の頃益田から松江に向かう朝乗ってた。当時は、地上駅時代の出雲市駅に20系客車が係留されてた。1992年高校3年時、阪神ファンだった私は、夏休みに松江を22時過ぎに出るだいせんで、大阪に行き、広島戦を観戦しその夜の下りのだいせんで往復した。上りのだいせんは12系3000番代の自由席乗車下りは、オハネ14の下段に乗り大阪出発前に、力尽き就寝起きたら、御来屋駅だった。鉄道での一番の思い出2004年のゴールデンウィーク米子から大阪までキハ65のだいせんに乗ったのが最後だった。
山陰(西日本)を駆け抜けた夜行列車、今やサンライズのみか…どうか、サンライズだけでも永久保存して昭和を走った先輩達を語り継いでほしいですね。
お前が保存しろ!😜
20系客車の集中電源で分割運用が生まれたさくら号電源車の無い編成側にどう給電するか…是非20系の佐世保編成迷電源車の紹介を
さくらの前にみずほだったんじゃないの?そして、さくらが分割するようになった時は、長崎編成側に簡易電源車がついたでしょ。
オイラが、乗車した時は、エーデル車だったんですよ。
99年10月からエーデル化されましたが、当時は「なぜ北海道みたく真ん中に寝台車を挟まなかった…」と思ったりしました。
急行だいせんは1986年11月の国鉄最後のダイヤ改正で20系寝台客車から12系座席車+14系14形寝台客車に置き換えられ、更に1994年12月のダイヤ改正で2段式B寝台の14系15形寝台客車+12系座席車に置き換えられました。1999年10月のダイヤ改正でエーデル型車両キハ65系気動車に置き換えられ2004年10月のダイヤ改正を最後に廃止されました。
あかほせんてどこよ?あこうせんやろ
20系へと置き換わった時に寝台利用した身だけれど……乗った時はおおよそ半分以下の乗車率だったけれど……? 人気があったと?
私は初めてだいせんを利用したのは、53年年末。その時は指定席、寝台とも満席。已む無く、救済臨の12系ハザで出雲市に行きました。後に閑散期に乗った時は、お書きの通り寝台車は50%くらい、座席車は60〜70%くらいでした。ですので、全体としては夜行急行としてはかなり需要があったのでは?と思います。まあ、郵便車と荷物車連結なので、採算的にはそちらでもカバーしてたと思いますが。
この時代の山陰線は長距離客車列車の宝庫ですね。
このだいせん5号、全車指定席だったが、米子からは自由席になったので、米子駅で泊まり、周遊券で乗り込んだことがあります。いい思い出です。
山陰出張時に度々利用した。🚅ひかり&伯備線[やくも]で行き,夜行で帰るパターン。
20系💺は冷房車で快適でした地元の人は[いずも]東京夜行,[だいせん]大阪夜行,[山陰]京都夜行と呼んでいた🌃
社蓄の出張?
鉄ならご褒美
20系客車やっぱりかっこいい!
だいせんの停車時間帯ありがたいな!
20系を使用した山陰の夜行急行と言えば米子~博多の「さんべ」もありましたね。
こっちは12系+20系でしたが
一度撮りに行きましたが、その時はケツがナハネフ23でした。
だいせん5号 子供の頃、乗りました。
福知山で長い停車の間、ホームに積もった雪を発車しないか、ドキドキしながら取りにいった思い出。
とても寝るなんてことは出来ずひたすら起きてました。
その福知山では夜間に業者がリヤカーで駅弁を運び売っていたらしい。
「だいせん」だけでなく、夜行普通「山陰」もターゲットだったとか…
現在は駅弁屋も撤退し、ブルートレイン「出雲」も銀河のかなたへ…
オハ21の指定席は本当に快適でした。
4人掛けでも向かいの人と膝がぶつかることなく、ゆったりとしていました。
座席のモケットもA寝台のままで乗り得でした。😊
なんつーか、583系普通車みたいな感覚でしょうか?
当然「アレ」は固定されて、引きずり出せなかった…?
@@雅夫大場
同じ感じです。
上段の寝台設備は撤去。下段もストッパーで固定されていて引き出し不可でした。
583より幅がやや狭いですが、足元が広く、シートの深さや背もたれの角度もよく快適でした。
ちなみに、大阪富山の夜行立山の583の普通車は下段引き出し可能でした。
閑散期は引き出してごろ寝してても車掌さんも黙認と言う感じです。
ナハ21は、一度乗ってみたかった!
オハ21は施工工場により仕上がりに差が生じていた。
所詮は格下げであり雑な仕上げになることが多かったが、
存廃に揺れていた高砂工場にて改造された車両は工場が持つ技術を本社へアピールするために、
酷使された車両をレストアし床にはリノリウムを張り直した。
コスト意識が低くメンツを重んじた国鉄ならではのエピソードである。
1971年~1974年の夏季シーズンには、大阪~米子で臨時の夜行の急行だいせんに急行おきのしま(大阪~境港)が併結していました。又1973年シーズンには、播但線経由の急行だいせん・おきのしま(大阪行のみ)が設定されていました。
1984年の8月か9月頃に大阪から大社まで、5号にフル乗車したことがあります。
B寝台で夜を過ごしたのですが、朝になって寝台が狭苦しく感じて(三段の下段でした)、当時は米子から普通(快速)列車となって指定席が自由席になるので、座席に移動して大社まで乗った記憶があります。その座席車はA寝台の上段を撤去したものらしく、ゆったりしたボックスシートだったと記憶しています。何やら前年に九州旅行をした時に「にちりん」の583系普通車に乗った時と似た感覚が残っています。
両者ともにルーツはプルマン式寝台ですからね
「エーデル」編成の【だいせん】のパノラマ席に乗ると、ある意味楽しすぎて寝るヒマがない。
Yes.
しかしながら「検査」等で一般車になる事もあったらしい。
ソレで落胆した「鉄」もいたらしい。
いつも通勤に使う駅で見守ってた懐かしい編成です。稀にハズレ?編成の時があってショボーンとした顔の人が載ってたのを覚えています
多分乗り鉄さんでしょうね^^;
失礼。一般車というより「一般『顔』」といった方が妥当ですか…
山陰と云うと「ムーンライトやえがき」にはお世話になりました。
その列車にはBネが連結されてましたが、青春18は使えず別途乗車券が必須な為にトラブルが絶えず、早々に普通車のみになったようですな。
「だいせん」には乗った事はありませんが、仰るような経験はあります。
「ムーンライト九州」に乗った2005年夏、新大阪からわくわく気分で乗車し、最後尾に向かうと…
なんでも、連日の酒盛り→「吐く」など汚された為に一般顔になったようで…
エーデル用キハ65はシート下に暖房器具が無いので爪先が伸ばせてありがたい存在だった
当時の福知山線での特急車両ではシート下にある電熱用カバー邪魔で脚が伸ばせない構造だった
85年当時出雲に住んでいて大阪に出かけるのに何度か利用しました。一度だけ奮発して寝台に乗りましたが、基本金が無いので自由席でしたが、ボックス席だった記憶があります。20系の改造車だったと思います。殆どガラガラで4席占領出来ました。
20系に最初で最後に乗った列車が
この急行だいせんでした。
高校の合宿旅行で乗ったのはおそらく最後の年だったようですね。
めちゃくちゃ混んでて床に座ってた記憶しかありません笑
鳥取市の山陰本線沿線民だけど、昔の時刻表の深夜帯に急行だいせんの名前がハッキリ赤文字で書かれていたのを覚えている。
大社号廃止前に乗ろうと予約しましたが睡眠不足でキャンセルした覚えが有ります。
その直後に廃止され、つくづく乗車すれば良かったと後悔しました。
急行だいせんの車両所属は大阪の宮原客車区に所属していました。1986年11月の国鉄最後の全国ダイヤ改正で3段式B寝台14系寝台客車+12系座席車に置き換えをした際に初めてイラストマークが採用されました。
木次線を乗った後に快速区間(宍道→米子)を18キップで乗ったのが唯一の機会だったかな…
木次線はキハ52でだいせんは12系でした
寝台末期だいせんは 私の通勤時間と重なっていたので毎朝駅で通過見てましたわ ある意味一番懐かしい列車ですね
急行きたぐにが末端区間の、新津〜新潟間を快速として走った時は、寝台車として営業していた車両には乗れなかった。
下りきたぐに末端の快速区間ですと、「自由席4両だけ乗車できます」という注意書きが、大きい時刻表の編成表に記載されてましたね。
赤穂線は「あこうせん」です。
たしか、上野から男鹿まで走っていた、20系寝台急行「おが」も、秋田までは急行、秋田~男鹿まで普通列車で走っていた記憶ありますが?。
急行おが、懐かしい。
私は季節列車になってから乗りましたが、ハネをそのまま座席車扱いでの運用でした。
乗客は3人掛けの中席が空いている程度で宇都宮過ぎたところで隣の方に「私は上段に行くので、下段で横になっては?」と提案。向かいの方もそれは良いということで上段で爆睡したことを思い出しました。
ただ、5時30分頃目覚めて、新庄近くかと思ったら、動いておらず降りてみると大雪で山形に止まってました。
そのあとの行程はズタズタでしたが、いい体験でした。
鉄道ジャーナル過去誌によると、男鹿線直通の急行にも20系が入っていた写真も見かけたことあります。
常磐線経由の上野~青森間夜行急行[十和田]が20系化された際ナハ21が登場した。[だいせん]の20系化より前だった筈。尤も当初は改造が間に合わず、ナロネ21をそのまま座席車代用で繋いだ時もあったとか…
大社行きの[だいせん]では座席車のみ開放だった由。
「夜間急行だいせん」、季節列車臨時のキハ58の「夜間急行だいせん」しか乗った事がなく、定期列車のDD51牽引の「急行だいせん」を指を加えて見てました。
当時、キハ58臨時急行「だいせん」の座席で寝ていた客が多く、座れなかった記憶があります。
山陽新幹線ができるまでは、山陽本線を急行がバンバン走っていましたね。
国鉄最後の日に 一番最後に乗ったのが 「だいせん」でした。
米子で40分停車だったので 駅の外のミスドで ドーナツ買ったのが思い出!
名古屋に行く時利用した事あります。なつかしいっす
急行きたぐにも、新潟行きの朝方は地域輸送の列車になっていましたね。
だいせんもJR北海道のようにキハ65系エーデル+寝台車のサンドイッチ編成にすれば1、2年長く生き残れたかもしれない
だいせんの出雲市から大社は普通車のみ開放でしたね。もちろん折り返し便も。
ナハ21の乗り心地が良すぎて、普通車が12系になって落差が激し過ぎました。
『だいせん』は、鉄道専門誌でも紹介にページ半分も割かれない、はっきり言えば無視されているに等しいので、注目してくれる人がいると嬉しくなります。
懐かしい。
大阪から山陰の旅行の時に乗ったな。1996年頃だったかな?
寝台特急出雲号は高いので
せめて急行だいせんに乗っておけば良かったと悔いが残る
20系寝台に“乗車券だけ”で乗れた…つくば万博での“エキスポライナー”も思い出してほしいぞ
その「エキスポライナー」の動画がコレです。
ua-cam.com/video/bea6x0OS5aU/v-deo.html
客車時代は12系+20系での編成がありましたよね
実際にだいせんに乗る機会はなかったのですが当時の時刻表でよく頭の中でプランを立ててました
門司発福知山行きの824列車で福知山で日が変わる直前に着き2時間余りの待ち合わせで上りだいせんで早朝、大阪に帰阪するプランで。
それは「さんべ」等😉
中学生の頃、一回だけ乗ったな。ベッドが狭かった記憶がある。
中1で初めて一人旅で夜を過ごしたのがこのナハ21でした。大阪駅をあとに出発する最終の普通福知山行きに福知山で追いつかれるのも味わい深かったですね。
だいせん号のイラストマークは鳥取県の最高峰大山が描かれていました。大阪駅🚉ー出雲市駅🚉間全区間福知山運転所所属のDD51形ディーゼル機関車が牽引していました。
走るホテル乗ってみたい😅
当時ジャーナル誌なんかで読んだが大社線の20系はなかなかシュールで面白かった。日豊線にも夜行の日南は宮崎辺りから西鹿児島までの通勤時間帯は普通列車だったが、20系や 25型の扉には鍵をかけていたような気がする。
日南号の25型時代は、両親の故郷の都城から神奈川に戻る際B寝台を小倉までよく使ったが、サッサと寝台で寝た記憶が在るので(山之口駅で車掌に検札して貰った)施錠は無かったはずです。
だいせん号の寝台利用はありませんが、12系の新幹線リクライニング座席交換車はかなり乗りました。
そのうちエーデル車に変わったので『なんだこれ?』と戸惑った事もあります。次回からは先頭展望車の指定を取るようにしましたが。
日南については、20系+12系時代に何度か、西鹿児島→小倉で利用しましたが、寝台は西鹿児島から利用可能でした。
記憶が定かでなく切符もすぐに出てこないので曖昧ですが、寝台券は西鹿児島〜小倉、急行券は宮崎〜小倉で分けて発券されていたように思います。
80年代兵庫県北部に住んでいたので大阪でイベント、スポーツなんかがあった時は23時ぐらいまでに大阪駅に着けばだいせんに乗って日帰り可能だったのでゆっくり食事ができたので重宝した。
通学の高校生が乗ってきてびっくりしました
そもそも、大阪⇒出雲市(福知山線経由)は、戦後まもなくから昭和39年9月末迄は普通列車で、しかも全国で唯一「1等寝台車B」を連結した普通列車でした。
往路:大阪21:58⇒浜田12:32・大社07:42
復路:浜田17:23・大社19:40⇒大阪07:42
往復共に1等寝台車は出雲市迄連結
この普通列車が39年10月のダイヤ改正で「急行しまね」に格上げの上、1等寝台車Bと2等寝台車1両ずつ連結して運行。
翌40年10月改正で「急行おき」に改称
「しまね」は9月末まで京都⇒門司・門司⇒米子の山陰西部が夜行運転していた811-812列車を急行に格上げして寝台車連結の「急行しまね」となって運行しました。
なので、夜行普通列車を一気に2つ消してしまった「急行しまね」も、43年10月改正で「急行さんべ」に改称したのです。
急行だいせんも、京都⇒大社時代は東海道⇒山陽⇒赤穂⇒山陽⇒伯備⇒山陰⇒大社の7線経由したのが当時のクイズ番組に問題になった事もあったし、急行さつまと併結時代は13-17号車が割り当てられ、今でも17号車は最大の号車で語り継がれています。
一般型客車で運行されていた急行列車を20系客車で置き換える際にプルマン式を採用したA寝台車ナロネ21から改造された。
この際に改造に携わっていた高砂工場は民営化に際しての統廃合と工場への出入りも兼ねている高砂線の存廃も絡んでいたので改造に躍起になっていた。
他工場では簡易改造で済んでいるところを、高砂工場が持つ高い技術をアピールして存続に繋げようとして多額の費用を費やして新車並みの改造を施工した。
この発想とコスト感覚がいかにも国鉄。
小学生の時に寝台急行大山は、時々見にいったなぁ。
父のカメラを借りて写真も撮ったみたけど、
失敗したのは悲しい思い出だ。
どうしたんだゆっくり、あこうせんだろ、赤穂線……。
ナハ21って、実はかなりの乗り得だったんですね。715系、419系も同様ですけど。
男鹿線を快速で走った夜行急行おがを思い出した。
廃止直前のエーデル編成に乗りました。ガラガラで始発の米子から大阪まで余裕で4席占領出来て快適だったのですけどね。
この列車に限らず、適度に空いているならともかく、度が過ぎると存続が懸念される。
列車だけでなく、「路線」も該当する。
城崎温泉と聞けば、あの議員を思い出してしまう。
誰?😜
城崎温泉観光協会は、奴に感謝状の一枚も出してやればいいのに…
野郎なら大泣きして喜ぶぜ‼️
城崎温泉観光協会様におかれましては、奴に感謝状の一枚でも贈呈してやればいいのに…
野郎の事だから、大泣きして喜ぶぜ‼️
どちらかというとオマケは下り列車の方で、折り返し大社発出雲市行きがメインです。昼間は短編成の気動車で足りる路線でも流石にラッシュ時は編成を長くしなければならないけど高価な気動車を昼間遊ばせておくわけにはいかない。そこで維持費が安く済む客車の出番となるわけです。出雲市駅に丁度いい時間に着くだいせんの客車を大社まで持ってきて、大社線沿線住民の通勤通学需要に応えるのが主なミッションで、下りはまあどうせ大社まで行くんだから出雲大社に行く人が少しは乗ってくれればいいなって感じです。一方、夜行おがは割と早い時期から不定期列車で、自動的に男鹿線直通の普通列車も不定期。季節、臨時のおが号が走るということは他にもたくさん季節、臨時列車が出るわけで、昼間全く動かない夜行おがの客車を秋田に置いとくと邪魔だったから男鹿駅に逃してたんですね。
山陰夜行寝台と言えば
鈍行「山陰」でしょう?
ナハ21が 最初に使われたのは上野青森間の急行十和田3号と4号(ゴサントウダイヤ改正までの上下の2号)です。最初のうちは座席車への改造が間に合わなかったので、ナロネ21を座席のままつ上がっていました。なお十和田号の20系には本物のナロネ21を連結していましたが、だいせんからは、A寝台がなくなりました。それから十和田号の下りの盛岡以北と上りの全区間は自由度でした。なおそれ以前にはナハ20や、ナハフ21がありヨンゴウトウまで特急ゆうづるに連結されていましたが、この座席車は回転クロスシートで、ナハ21とは全くの別物です。いずれも寝台車に改造されて、現存していません。
その座席車、なんでも初期の「あさかぜ」等の九州ブルトレにも連結されてたらしいですな。
あの森田一義(タモリ)氏は’60年代の若かりし頃、「あさかぜ」で上京の際に利用したが、当時は金が無く普通座席車だったらしい。
当時の鉄道ジャーナルで特集が組まれていました(だいせん、銀河、阿蘇・くにさきの3特集だったと思います)。
それによると下り大社行きのハネは急行延長の解釈で普通列車区間だけの利用はNG。折返しの出雲市行きはハネ利用もOKと書かれていました。
なお、記憶が非常に薄いですが、たしかに当時の時刻表の大社行きには普通列車区間にも★マークが付いていたように思います。
もっとも、20系編成に当時はスユニとマニだったかも付いていて、ハネ部分はホーム長の関係ではみ出していたようなので、乗る場合は不便だったとも書いてありました。
下り「だいせん」は、ちょうど米子あたりから通勤通学時間帯になるからね。寝台車まで開放したのは、当時、それなりに特に通学需要を賄う必要に迫られての「乗り得列車」でした。
参考までに、私が子供の頃は ブルートレイン=特急の寝台専用列車 と定義されてしました。同じ寝台専用列車でも急行ではダメで、もちろん寝台車と座席車を混結した列車も同様でした。だから銀河や天の川は、ブルトレの本の中でも「おまけ」のページだったなぁ。
そうです!!👍
客車引退前に短区間だけど快速になっただいせんに乗りました
初期のあさかぜや、さくらなどナハ20やらナロ20、ナハフ21等座席車があったので全車寝台で無くとも特急で指定席ならブルートレインでしょうね。
今はなき大社線区間を普通列車として運転する急行だいせんですね。旧大社駅も現在改修工事中で完成するのは再来年とか…私も一昨年に旧大社駅訪問したけどあの駅舎は見れなくて残念でした。
夜行だいせんの座席車はA寝台車を座席として使ってたからね
夜行普通列車山陰が廃止されて、自由席2両になったけど
もうちょっと座席車が多かったらちょっとは違ったんじゃないかな
大社線のローカル運用は、以前スーツさんが博多南線のレールスターの個室に乗った感じみたいですね。
ただし、博多南線では特定特急料金は必要なので厳密には少し違います。
サンライズの後継が無いと聞きました。登場から年月が経っているので、寝台車絶滅ということになりはしないかと心配です。
寝台車は身体をフルフラットにできるし、走行中のジョイント音も風情があって好きです。
ただ、深夜高速バスのSA立寄りのような購買イベントが無いのが不満ですね。車内販売が消える昨今、自販機でいいから増やして欲しいな。
レトロ自販機を搭載した寝台だったら、今ならチケットにプレミアつきそうですが。
自販機は電源を落とす営業外での管理が大変なので忌避されてしまうのです
¥50,000以上取らないとJRは儲からないし、それだと鉄ヲタしか乗らない。だいたい、プレミア付くと逆にJRが叩かれるのでは?😜
東北には
「おが」なんてのか、走ってたな
急行だいせんの思い出は
国鉄末期、小学生の頃益田から松江に向かう朝乗ってた。
当時は、地上駅時代の出雲市駅に
20系客車が係留されてた。
1992年高校3年時、阪神ファンだった
私は、夏休みに松江を22時過ぎに出る
だいせんで、大阪に行き、広島戦を
観戦しその夜の下りのだいせんで
往復した。上りのだいせんは
12系3000番代の自由席乗車
下りは、オハネ14の下段に乗り
大阪出発前に、力尽き就寝
起きたら、御来屋駅だった。
鉄道での一番の思い出
2004年のゴールデンウィーク
米子から大阪までキハ65の
だいせんに乗ったのが最後だった。
山陰(西日本)を駆け抜けた夜行列車、今やサンライズのみか…
どうか、サンライズだけでも永久保存して昭和を走った先輩達を語り継いでほしいですね。
お前が保存しろ!😜
20系客車の集中電源で
分割運用が生まれたさくら号
電源車の無い編成側に
どう給電するか…
是非20系の佐世保編成
迷電源車の紹介を
さくらの前にみずほだったんじゃないの?
そして、さくらが分割するようになった時は、長崎編成側に簡易電源車がついたでしょ。
オイラが、乗車した時は、エーデル車だったんですよ。
99年10月からエーデル化されましたが、当時は「なぜ北海道みたく真ん中に寝台車を挟まなかった…」と思ったりしました。
急行だいせんは1986年11月の国鉄最後のダイヤ改正で20系寝台客車から12系座席車+14系14形寝台客車に置き換えられ、更に1994年12月のダイヤ改正で2段式B寝台の14系15形寝台客車+12系座席車に置き換えられました。1999年10月のダイヤ改正でエーデル型車両キハ65系気動車に置き換えられ2004年10月のダイヤ改正を最後に廃止されました。
あかほせんてどこよ?あこうせんやろ
20系へと置き換わった時に寝台利用した身だけれど……乗った時はおおよそ半分以下の乗車率だったけれど……? 人気があったと?
私は初めてだいせんを利用したのは、53年年末。
その時は指定席、寝台とも満席。
已む無く、救済臨の12系ハザで出雲市に行きました。
後に閑散期に乗った時は、お書きの通り寝台車は50%くらい、座席車は60〜70%くらいでした。
ですので、全体としては夜行急行としてはかなり需要があったのでは?と思います。
まあ、郵便車と荷物車連結なので、採算的にはそちらでもカバーしてたと思いますが。