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今回の写真に限らず、若いふたりや親子の写真を見ると その後幸せな人生を歩んだのかなあ? などとへんな老婆心が沸き起こるるのはなんでだ! 自分が昔旅先で撮った写真にも 端っこにたまたま母子連れが映り込んでいたりすると妙に気になる!
ガンで死去してますよ。みんな死ぬのです
分かります〜😆同じことを思っていました。最初に写っていた写真の中のお二人はご夫婦でしょうか…デート中?😊この時私は10歳だったので…80代〜なのでしょうね。ご結婚したのかしら?お元気なのかな?と思いを馳せてしまいました。
私はここの場所来た事があります。それに川崎区内にも住んでいました。京急大師線沿い歩いていたら、この動画の場所に来ていた。今この動画を、見てたら急に懐かしくなって来ました。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo et bon week-end !
いつも有難う御座います。子供の頃、品川から京浜急行に乗って川崎大師の親戚の家に向かう時、多摩川を渡るとビクターの看板がありました。犬と蓄音機。いつの間にか無くなっていました。
日本コロムビアの音符のネオン看板ではないでしょうか
@@kumavich2010 日本コロムビアですね。思い出しました。有難う御座います。
@@中村たっちゃん 犬と蓄音機は新子安にありましたね(現JVC)
"港町十三番地"をヒットさせた美空ひばりさんは、この川崎区港町にあったコロムビアレコードの所属でした。
自分はまさにこの年に産まれました。57年前と今をありがとうございます😊❤
いつも有難う御座います。先日偶々視聴した時の音楽が気にいらず酷評するコメントを返信してしまい、今は酷く申し訳なく思い後悔しております。この何とも心優しいピアノの大ファンになりました。本当に御免なさい。
左内橋の開通(明7)から大正14年の六郷橋完成まで、「大田区史 下巻」によれば、橋の流失、仮橋仮設、仮橋流失といったトラブルが続いています。この間コンクリの橋になるまでずっと木橋で、「砂利運搬の馬車の進行にすら前後左右に揺れるありさま」(「第一京浜問わず語り」)だったとされ、近代的な架橋まで結構時間がかかっています。京浜間の発展からすれば、この道路整備の遅れは、ちょっと意外な感じもします。
六郷橋の親柱、いつも川崎から羽田方面に抜ける際に側道から見かけていたのですが、六郷橋にはこんな歴史があったのですね。
猛暑の中、一駅散歩お疲れ様です。。。熱中症にはお気を付け下さいませ。。。今の六郷橋、六郷大橋、左内橋時代から数えて6代目の橋と言うことになりますね。今の六郷橋は1984年に一部切り替えて供用開始の後、1997年に全ての工事が完了とのことです。それにしても1997年に片側3車線の橋になるまでずっと片側1車線の橋で東京と神奈川の大動脈を捌いていたとは驚きです。
この写真と同じ年 社会人一年生、外回りライトバンでこの橋を何度も渡りました。勿論鉄橋のアーチ式橋だった時代です。この国道名が第一京浜、国道15号線、一国と名称がバラバラで当初戸惑い、激しい渋滞と大型トラックに挟まれ疲れました。六郷橋まで来て鶴見を過ぎると右手に浅野山、浅野さんの銅像が見え 横浜が近いといつも思いましたね。道はなだまだ保土ヶ谷橋三叉路まで大渋滞が続きました。
「いちこく(国道1号)」は、もう少し上流にあります
@@JohnJohn-cj3pi そこは第二京浜国道、にこく、R1 です。
4:14親柱に照明が付いていたのですね。今でも残っていたら良かったのにと思いました。
右岸、鉄道橋のちょっと上流側には明治チョコレートの工場があって、いい匂いがしていました
そう国鉄で東京から川崎へ入ると明治の工場が見えました。当時叔母さんがそこで働いていて時々袋にたくさんのチョコ(製品化出来なかったもの)を持って帰りました。それだけが愉しみでしたね。
川崎駅…20年近く前の彼女を思い出すw
先代の六郷橋のアーチ部分は二重のアーチ部の内側を橋台で支える構造でしょうか?たぶん隅田川に掛かる白髭橋と同じ様な構造だと思います。あちらは川沿いの遊歩道から橋の全体を一望できて、非常に美しい橋だと思います。今の六郷橋はシンプル過ぎてちょっと寂しいですが仕方のない事ですね。現存する美しい構造物は大切に残して欲しいと思います。
1960年代の中ごろ川崎側のふもと近くにに住んでいました。旧東海道の前でした。橋の入り口には交番があってその隣はプリンス自動車の販売店でした。ふもとには貸しボート屋さんがありましたが営業はしてませんでした。写真は東京側だと思います。
1984年の工事の時に沢山の方が亡くなりましたね・・・
桁が青い橋は増設で、それまでは現上り線を上下線通行でした。そのため、橋幅がやたら広いです。
ちなみに、5,6年前にも、台風で、ゴルフ練習場や野球上を含むこの河川敷全体が水没しました!ホームレスの小屋も流されました
3:02の写真は人力車がうつっているのでもう少し後の時代ではないでしょうか?明治前期から中期ごろ。
親父とちかくの温泉にいつたことがある 黒いお湯だっつたなあ
羽田空港側の方にあったって聞いたな~30年ほど前にテレビで見たかも。
草野球でよく来たけど、渡ることはなかった。橋に向かって打て! はあった。
警視庁と神奈川県警が取り締まりにシノギを削っている所です。
明治時代になっても江戸時代と大差無いような木造橋を造っていたとは、ちょっと驚きました。軍事優先だったためでしょうかね。
でも軍用車が通れないような橋じゃ自分たちが動けないし、守れない。現在でもそれは似たようなモンだがね。wだから貧弱な橋でも渡橋できるように軽くした戦車がヒトマル式でありヒトロク式。
現在のこの立派な橋を見て「将来の孫子へのツケだった」なんて当時の孫子である現在の私たちは思うか?インフラを整えず、緊縮財政の名の下で洪水で流されてしまうような橋を現在も使っていたなら現在の繁栄は無かったであろうよ。豊かなインフラが豊かな未来を孫子に残せるんだよ。「税金は国家財政の財源ではない」もういい加減私たちはこの事に気が付かなきゃダメだろ。「こんなものはムダ遣いだ」の煽りに騙されてバカを見ているのは自分達であり、私たちの孫子。ムダ遣いと言われるその支払先の末端に私たち庶民がいることを忘れてはいないか?タコが自分の足を喰って満腹になっているその末路は・・・・・この30年インフラ投資をギチギチ緊縮させてしまった30年後の孫子たちに申し訳なさばかりが残る。
今回の写真に限らず、若いふたりや親子の写真を見ると その後幸せな人生を歩んだのかなあ? などとへんな老婆心が沸き起こるるのはなんでだ!
自分が昔旅先で撮った写真にも 端っこにたまたま母子連れが映り込んでいたりすると妙に気になる!
ガンで死去してますよ。みんな死ぬのです
分かります〜😆
同じことを思っていました。
最初に写っていた写真の中のお二人はご夫婦でしょうか…デート中?😊
この時私は10歳だったので…80代〜なのでしょうね。
ご結婚したのかしら?お元気なのかな?と思いを馳せてしまいました。
私はここの場所来た事があります。それに川崎区内にも住んでいました。京急大師線沿い歩いていたら、この動画の場所に来ていた。今この動画を、見てたら急に懐かしくなって来ました。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo et bon week-end !
いつも有難う御座います。子供の頃、品川から京浜急行に乗って川崎大師の親戚の家に向かう時、多摩川を渡るとビクターの看板がありました。犬と蓄音機。いつの間にか無くなっていました。
日本コロムビアの音符のネオン看板ではないでしょうか
@@kumavich2010 日本コロムビアですね。思い出しました。有難う御座います。
@@中村たっちゃん 犬と蓄音機は新子安にありましたね(現JVC)
"港町十三番地"をヒットさせた美空ひばりさんは、この川崎区港町にあったコロムビアレコードの所属でした。
自分はまさにこの年に産まれました。57年前と今をありがとうございます😊❤
いつも有難う御座います。先日偶々視聴した時の音楽が気にいらず酷評するコメントを返信してしまい、今は酷く申し訳なく思い後悔しております。この何とも心優しいピアノの大ファンになりました。本当に御免なさい。
左内橋の開通(明7)から大正14年の六郷橋完成まで、「大田区史 下巻」によれば、橋の
流失、仮橋仮設、仮橋流失といったトラブルが続いています。この間コンクリの橋になるま
でずっと木橋で、「砂利運搬の馬車の進行にすら前後左右に揺れるありさま」(「第一京浜
問わず語り」)だったとされ、近代的な架橋まで結構時間がかかっています。京浜間の発展
からすれば、この道路整備の遅れは、ちょっと意外な感じもします。
六郷橋の親柱、いつも川崎から羽田方面に抜ける際に側道から見かけていたのですが、六郷橋にはこんな歴史があったのですね。
猛暑の中、一駅散歩お疲れ様です。。。熱中症にはお気を付け下さいませ。。。
今の六郷橋、六郷大橋、左内橋時代から数えて6代目の橋と言うことになりますね。
今の六郷橋は1984年に一部切り替えて供用開始の後、1997年に全ての工事が完了とのことです。
それにしても1997年に片側3車線の橋になるまでずっと片側1車線の橋で東京と神奈川の大動脈を捌いていたとは驚きです。
この写真と同じ年 社会人一年生、外回りライトバンでこの橋を何度も渡りました。
勿論鉄橋のアーチ式橋だった時代です。この国道名が第一京浜、国道15号線、一国
と名称がバラバラで当初戸惑い、激しい渋滞と大型トラックに挟まれ疲れました。
六郷橋まで来て鶴見を過ぎると右手に浅野山、浅野さんの銅像が見え 横浜が近いと
いつも思いましたね。道はなだまだ保土ヶ谷橋三叉路まで大渋滞が続きました。
「いちこく(国道1号)」は、もう少し上流にあります
@@JohnJohn-cj3pi そこは第二京浜国道、にこく、R1 です。
4:14
親柱に照明が付いていたのですね。
今でも残っていたら良かったのにと思いました。
右岸、鉄道橋のちょっと上流側には明治チョコレートの工場があって、いい匂いがしていました
そう国鉄で東京から川崎へ入ると明治の工場が見えました。当時叔母さんがそこで働いていて時々袋にたくさんのチョコ(製品化出来なかったもの)を持って帰りました。それだけが愉しみでしたね。
川崎駅…20年近く前の彼女を思い出すw
先代の六郷橋のアーチ部分は二重のアーチ部の内側を橋台で支える構造でしょうか?
たぶん隅田川に掛かる白髭橋と同じ様な構造だと思います。
あちらは川沿いの遊歩道から橋の全体を一望できて、非常に美しい橋だと思います。
今の六郷橋はシンプル過ぎてちょっと寂しいですが仕方のない事ですね。
現存する美しい構造物は大切に残して欲しいと思います。
1960年代の中ごろ川崎側のふもと近くにに住んでいました。旧東海道の前でした。橋の入り口には交番があってその隣はプリンス自動車の販売店でした。
ふもとには貸しボート屋さんがありましたが営業はしてませんでした。写真は東京側だと思います。
1984年の工事の時に沢山の方が亡くなりましたね・・・
桁が青い橋は増設で、それまでは現上り線を上下線通行でした。そのため、橋幅がやたら広いです。
ちなみに、5,6年前にも、台風で、
ゴルフ練習場や野球上を含む
この河川敷全体が水没しました!ホームレスの小屋も流されました
3:02の写真は人力車がうつっているのでもう少し後の時代ではないでしょうか?明治前期から中期ごろ。
親父とちかくの温泉にいつたことがある 黒いお湯だっつたなあ
羽田空港側の方にあったって聞いたな~
30年ほど前にテレビで見たかも。
草野球でよく来たけど、渡ることはなかった。橋に向かって打て! はあった。
警視庁と神奈川県警が取り締まりにシノギを削っている所です。
明治時代になっても江戸時代と大差無いような木造橋を造っていたとは、ちょっと驚きました。軍事優先だったためでしょうかね。
でも軍用車が通れないような橋じゃ自分たちが動けないし、守れない。
現在でもそれは似たようなモンだがね。w
だから貧弱な橋でも渡橋できるように軽くした戦車がヒトマル式でありヒトロク式。
現在のこの立派な橋を見て「将来の孫子へのツケだった」なんて当時の孫子である現在の私たちは思うか?
インフラを整えず、緊縮財政の名の下で洪水で流されてしまうような橋を現在も使っていたなら現在の繁栄は無かったであろうよ。
豊かなインフラが豊かな未来を孫子に残せるんだよ。
「税金は国家財政の財源ではない」もういい加減私たちはこの事に気が付かなきゃダメだろ。
「こんなものはムダ遣いだ」の煽りに騙されてバカを見ているのは自分達であり、私たちの孫子。
ムダ遣いと言われるその支払先の末端に私たち庶民がいることを忘れてはいないか?
タコが自分の足を喰って満腹になっているその末路は・・・・・
この30年インフラ投資をギチギチ緊縮させてしまった30年後の孫子たちに申し訳なさばかりが残る。