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涙が出そうな程の動画です。アップをありがとうございます。私は三笠市の隣町、岩見沢市に住んでいます。高校は今は無き三笠高美高校の卒業生です。幾春別地区に幾春別小と奔別小が隣り合わせに有ったとは改めて驚きです。 児童数は東洋一の規模と聞いています。それぞれの炭鉱会社の系列の学校や商店、病院、映画館が軒を連ねていたんですね。本当に今では信じられないです。
ご視聴ありがとうございます。岩見沢にお住まいなのですね!三笠のあたりを散策していると岩見沢がいかに主要都市であったか良く分かります。三笠地区で廃駅となりながらも現在も保存されている駅、「唐松駅」の待合室にはいくつか広告看板が残されているのですが岩見沢の病院などだったりして(しかも現在もある病院)、このあたりで街へ出るとなるととにかく岩見沢だったんだなというのが実感としてわいてきます。岩見沢は主要都市として歴史が長いので、明らかに歴史あるたてものがぽんと街中に普通に建っていたりして魅力が深いですね。散歩して行きたいです。話をもどして幾春別地区、今では人とすれ違うことも難しいこの地区で小学校が二つ並び、どちらもマンモス校、おっしゃる通り東洋一の小学校と言われた時期もあったとは、本当に炭鉱の栄え方というのはすごかったのですねコメントありがとうございました
何度も繰り返し拝見させていただきました!住んでいた新町に幾春別小学校の所は特に繰り返し見てしまいます、あまりに変わりすぎて当時の新町のどの辺に出来たかもわからないですね😅自分が住んでいた頃には小学校に向かう道の真ん中ぐらいに川(水路)が横切ってました、確かちんぷん川とかって呼んでて川幅は10mぐらい、炭鉱の廃液流してたので真っ黒けのとても汚い川でした、ただ日曜日だけは川がキレイだったのを覚えてます、道沿いに有った本間病院も無くなってましたね、続けて1~4も見てみたいと思います、動画本当にありがとうございます😃
ご視聴、コメント誠にありがとうございます。この度も貴重な情報の数々ありがとうございます。ちんぷん川のお話、とても惹かれました。ぼんやりしていたのか水路には気がつきませんでした。日曜日だけ川がきれいになるというのは炭鉱の休日だからということでしょうか、以前は週休2日制ではありませんでしたものね。実際住んでいらっしゃった方々しか知り得ない情報でたいへん勉強になりました。本間病院は、こんな立派な病院が廃屋となっているんだなと私も気になりましたが、どうやら本間病院→三笠の杜病院→南そらち記念病院 と現在たいへん大きな病院+福祉複合施設となり別の場所で続いているようです。本間病院跡もまだ使えそうなくらい立派で新しいように見えますが、住人が少なくなり交通の便を考えての移転という感じでしょうかね。
一回帰って歩いて回りたいのですが、大阪からは遠くて中々…😅なので今の幾春別の動画は大変有難いです😊返信で本間病院が名前を変えて続けているというのを知ってとても嬉しく安堵しました(とても世話になりました)、今後も幾春別を遠くから見守っていきます、よろしくお願いします🙇
川端町出身者でぽん別小学校、幾春別中学卒業です。懐かしいよりまだ有ったという感じでため息しか出ません。立坑はまだ頑張ってたってますね。昭和40年頭のあの坑内ガス大爆発が無ければ…亡くなった多くの方々に合掌です。
動画を見ていると当時の風景がよみがえります。 立坑の横にあったズリ山が無いような、もしかして石炭の山にも草木が生えて自然に返ったなのか、年月を感じます。ちなみに月見坂の名前の由来は当時の病院長があの場所から月がきれいに良く見えたので月見坂と名付けたそうです。あまりにもなつかしくグダグダ書いてしまいました。なにしろこの動画に感謝です。本当に思い出が溢れ出て来ます。
懐かしいです50年前まで住んでいました閉山してから新町に学校会ったのですね裏山にスキーしたのおぼえています
ご視聴ありがとうございます。そうなのです、学校はかなり人口が減った頃から新町の新校舎に移って(集約する目的もあったのかもしれませんが)、ちょっと不思議な感じもしますね。新校舎計画段階ではまだ閉山が決まっていなかったのかもしれません。たしか平成22年まで児童たちが通っていたようです。
思い出多い更科食堂行きたいけど周りが引止める。80近い爺が大阪からだと無謀か😢
大阪からは、とても遠いですよね😖大阪から岩見沢まではのんびりご旅行気分で移動なさることは可能かもしれませんがそれでもたいへんな長旅、そして岩見沢からバスでちょうど一時間なんですよね。一時間座りっぱなしもたいへんですが途中下車してしまうとなかなか次のバスが来なかったりするかもしれません。タクシーの方がバスより早く途中の休憩もスムーズかと思うのですが高いですよね💦
@@博愛竹原 もし岩見沢から一時間バスかタクシー平気なようでしたら、バス停まで着いてしまえば道を渡ってすぐなので一分ちょっとで到着です。あたたかい時期なら雪で滑る心配もありませんね🍀🌸ご自身の体調その他とご相談しながら、いつか行けたらのんびりと訪ねてみるのも素敵ですね☺
時間と共に老化が進むのであきらめました。皆さんの映像を楽しみに拝見しています。
五番目の動画を拝見してました。何度も何度も繰り返し見てました。感謝ですウルウルしてます。奔別方面は月見坂までが精々ですね、裏側からの新道で探ってくれましたが、形跡を捜すのは難しそうですね。実は中ノ沢は入学前頃にの、本沢町はその後の住まいでした。奔別神社も遊び場所でしたよ。
編集など稚拙な面も多かったと思いますのに、温かくうれしいお言葉ありがとうございます。こちらこそ感謝の気持ちでいっぱいです。
中ノ沢に、本沢町!それはなんとも申し訳ないことをしました。この動画で行った場所よりもう少し先でしたね…学校の場所ばかり気を取られて引き返してしまったのですがもう少し先まで行っておけばよかったと悔やまれます。また、奔別神社という貴重なワードも頂き、今後の散歩の参考にしていけたらと思います。奔別神社はたぶんあの道をもう少しいけば形跡が見られたはずなのに…なんだか申し訳ないです貴重な情報を色々ありがとうございます。本沢町というと広いですが、市街地側でしたでしょうか。その昔分校があった場所(五の沢?)などは今では本っ当に山深いところで、でも当時はあちらのほうまで炭鉱住宅があったということですものね。すごい繁栄でしたよね。
ここの炭住、現在でも住んでる人いるんですよね…先月観光で訪れた際、写真を撮ろうとしたら部屋の中から怒鳴り声が聞こえました。幽霊かと思ったら、声がした部屋だけ窓ガラスが新しくポストも付いており、自転車も停まってました。とてもまともとは思えません。
@@Unknown-pi6hj コメント誠にありがとうございます。おっしゃるとおり現在もお住まいの方々がおられます。それで取り壊されることなく現在までこの貴重な姿を残すことができたのでしょうね。
※以下炭住ご見学を検討されていらっしゃる方々への補足情報として※動画内及び三笠市公式サイトにも記載がありますがこちらの炭鉱住宅は現在も使用している住宅で、道からの見学は可能ですが敷地内(住宅周辺)に立ち入っての見学はできません。住宅と住宅の間の通路のような敷地も含みます。(その他、市のサイトでは迷惑にならないようにご配慮くださいとの記載がありますので人の気配があればカメラを向けない、言葉に気をつけるなど)。三笠市公式が写真付きで場所の紹介をしているので行くこと自体はOKなはずです(たしか野外博物館『ジオパーク』の26番として地図・写真付きで紹介されています)。奔別周辺などをみると、市営住宅として比較的新しい形で残ったもの以外は全て取り壊されていて辺りは山に還っていますが、こちらはお住いの方々がいてくださったから現在までこうして残すことができたのだろうかと思います。私個人としては当時の姿を今に伝えるこの炭住をたいへん美しいと思っているのですが、感情は個人差があるのでそうではない方々もおられるかもしれません、周辺は静かですのでふいに発した言葉がお住まいの方のご不快に繋がらないようどうかご配慮ください
リズミカルなバンジョウ?の響きが良いですね。
ありがとうございます。三笠(幾春別・奔別)好きなので好きな音楽をセレクトしているのでうれしいお言葉です🙇♀️
幾春別川周辺や弥生幌内、奔別幌内、どの炭鉱を見に行っても、その足元数百メートルという恐るべき深さの場所で仕事をしていた人々がいたことに驚愕します。そこで事故で命を落とした人が住んでいた炭鉱住宅からはすごいオーラも感じます。
60年前に、なるのかな⁉️母方の、叔母が、唐松町の、炭鉱住宅に、住んでいました。
コメントありがとうございます。唐松周辺は最近行けておりませんが唐松駅の様子は動画がございます。↓ua-cam.com/video/ToKwIiqlM7o/v-deo.htmlお時間ありましたらごゆっくりご覧ください
今、あの、一帯は、どうなっているのかな?
更科食堂は元気に営業しているのでしょうか?
営業されています。私の記憶では確かご主人(三代目?)がご体調を崩されて一時期休業されていましたが、継いでくれる方がみつかりご主人から味を引き継いだ方が現在営業されておられます。更科食堂の向かいにあったいろは食堂も、古い電話帳を追っていくとどうやらすくなくとも2007年までは営業されていたようで、行けなかったのが悔やまれます…
大変だと思いますが皆さんの協力で頑張って欲しい。
更科食堂は、土日は11時の開店前に行列ができますよ。
70年前に叔父と20円の盛りそばを食べた。30円のざるそばとの違いが未だに忘れられない。
@@博愛竹原 小学生の時ラーメン食べた記憶あります55年前かな
赤い屋根の炭鉱住宅、その前は黒いトタン屋根の長屋が密集して、中央に浴場があり、各煙突から上がる黒煙が空を覆っていた。露天掘りの安い豪州炭が輸入されるまで、炭鉱景気に湧いた短い時代だった。
貴重なお話本当にありがとうございます。いつもこういったお話を聞かせていただくにつけ、頭の中で当時の暮らしや活気を想像しております。そして自分まで懐かしいような、ちょっと涙腺が緩むような気持ちになったりもします。全国から一斉に人が集まり、そこで子どもたちが生まれ育ち、大人はほぼみな同じ職場(炭鉱)で働き、一気にいくつもの町が形成されていくというのは他にはなく、本当に貴重なご経験かと思います。勉強になります、ありがとうございました
幾春別は映画館、パチンコ屋、居酒屋があり、三笠で一番の繁華街だった。更科食堂は未来へ残して欲しい唯一の歴史遺産だ。70年前に食べた20円の盛りそばは、今でも記憶に残っている。
涙が出そうな程の動画です。
アップをありがとうございます。
私は三笠市の隣町、岩見沢市に住んでいます。
高校は今は無き三笠高美高校の卒業生です。
幾春別地区に幾春別小と奔別小が隣り合わせに有ったとは改めて驚きです。
児童数は東洋一の規模と聞いています。
それぞれの炭鉱会社の系列の学校や商店、病院、映画館が軒を連ねていたんですね。
本当に今では信じられないです。
ご視聴ありがとうございます。岩見沢にお住まいなのですね!三笠のあたりを散策していると岩見沢がいかに主要都市であったか良く分かります。三笠地区で廃駅となりながらも現在も保存されている駅、「唐松駅」の待合室にはいくつか広告看板が残されているのですが岩見沢の病院などだったりして(しかも現在もある病院)、このあたりで街へ出るとなるととにかく岩見沢だったんだなというのが実感としてわいてきます。
岩見沢は主要都市として歴史が長いので、明らかに歴史あるたてものがぽんと街中に普通に建っていたりして魅力が深いですね。散歩して行きたいです。
話をもどして幾春別地区、今では人とすれ違うことも難しいこの地区で小学校が二つ並び、どちらもマンモス校、おっしゃる通り東洋一の小学校と言われた時期もあったとは、本当に炭鉱の栄え方というのはすごかったのですね
コメントありがとうございました
何度も繰り返し拝見させていただきました!住んでいた新町に幾春別小学校の所は特に繰り返し見てしまいます、あまりに変わりすぎて当時の新町のどの辺に出来たかもわからないですね😅自分が住んでいた頃には小学校に向かう道の真ん中ぐらいに川(水路)が横切ってました、確かちんぷん川とかって呼んでて川幅は10mぐらい、炭鉱の廃液流してたので真っ黒けのとても汚い川でした、ただ日曜日だけは川がキレイだったのを覚えてます、道沿いに有った本間病院も無くなってましたね、続けて1~4も見てみたいと思います、動画本当にありがとうございます😃
ご視聴、コメント誠にありがとうございます。この度も貴重な情報の数々ありがとうございます。ちんぷん川のお話、とても惹かれました。ぼんやりしていたのか水路には気がつきませんでした。日曜日だけ川がきれいになるというのは炭鉱の休日だからということでしょうか、以前は週休2日制ではありませんでしたものね。実際住んでいらっしゃった方々しか知り得ない情報でたいへん勉強になりました。
本間病院は、こんな立派な病院が廃屋となっているんだなと私も気になりましたが、どうやら
本間病院→三笠の杜病院→南そらち記念病院 と現在たいへん大きな病院+福祉複合施設となり別の場所で続いているようです。本間病院跡もまだ使えそうなくらい立派で新しいように見えますが、住人が少なくなり交通の便を考えての移転という感じでしょうかね。
一回帰って歩いて回りたいのですが、大阪からは遠くて中々…😅なので今の幾春別の動画は大変有難いです😊返信で本間病院が名前を変えて続けているというのを知ってとても嬉しく安堵しました(とても世話になりました)、今後も幾春別を遠くから見守っていきます、よろしくお願いします🙇
川端町出身者でぽん別小学校、幾春別中学卒業です。
懐かしいよりまだ有ったという感じでため息しか出ません。立坑はまだ頑張ってたってますね。昭和40年頭のあの坑内ガス大爆発が無ければ…
亡くなった多くの方々に合掌です。
動画を見ていると当時の風景がよみがえります。 立坑の横にあったズリ山が無いような、もしかして石炭の山にも草木が生えて自然に返ったなのか、年月を感じます。ちなみに月見坂の名前の由来は当時の病院長があの場所から月がきれいに良く見えたので月見坂と名付けたそうです。あまりにもなつかしくグダグダ書いてしまいました。なにしろこの動画に感謝です。本当に思い出が溢れ出て来ます。
懐かしいです50年前まで住んでいました閉山してから新町に学校会ったのですね裏山にスキーしたのおぼえています
ご視聴ありがとうございます。
そうなのです、学校はかなり人口が減った頃から新町の新校舎に移って(集約する目的もあったのかもしれませんが)、ちょっと不思議な感じもしますね。新校舎計画段階ではまだ閉山が決まっていなかったのかもしれません。たしか平成22年まで児童たちが通っていたようです。
思い出多い更科食堂行きたいけど周りが引止める。
80近い爺が大阪からだと無謀か😢
大阪からは、とても遠いですよね😖
大阪から岩見沢まではのんびりご旅行気分で移動なさることは可能かもしれませんがそれでもたいへんな長旅、そして岩見沢からバスでちょうど一時間なんですよね。
一時間座りっぱなしもたいへんですが途中下車してしまうとなかなか次のバスが来なかったりするかもしれません。タクシーの方がバスより早く途中の休憩もスムーズかと思うのですが高いですよね💦
@@博愛竹原 もし岩見沢から一時間バスかタクシー平気なようでしたら、バス停まで着いてしまえば道を渡ってすぐなので一分ちょっとで到着です。あたたかい時期なら雪で滑る心配もありませんね🍀🌸ご自身の体調その他とご相談しながら、いつか行けたらのんびりと訪ねてみるのも素敵ですね☺
時間と共に老化が進むのであきらめました。
皆さんの映像を楽しみに拝見しています。
五番目の動画を拝見してました。何度も何度も繰り返し見てました。感謝ですウルウルしてます。奔別方面は月見坂までが精々ですね、裏側からの新道で探ってくれましたが、形跡を捜すのは難しそうですね。実は中ノ沢は入学前頃にの、本沢町はその後の住まいでした。奔別神社も遊び場所でしたよ。
編集など稚拙な面も多かったと思いますのに、温かくうれしいお言葉ありがとうございます。こちらこそ感謝の気持ちでいっぱいです。
中ノ沢に、本沢町!それはなんとも申し訳ないことをしました。この動画で行った場所よりもう少し先でしたね…学校の場所ばかり気を取られて引き返してしまったのですがもう少し先まで行っておけばよかったと悔やまれます。
また、奔別神社という貴重なワードも頂き、今後の散歩の参考にしていけたらと思います。奔別神社はたぶんあの道をもう少しいけば形跡が見られたはずなのに…なんだか申し訳ないです
貴重な情報を色々ありがとうございます。
本沢町というと広いですが、市街地側でしたでしょうか。その昔分校があった場所(五の沢?)などは今では本っ当に山深いところで、でも当時はあちらのほうまで炭鉱住宅があったということですものね。すごい繁栄でしたよね。
ここの炭住、現在でも住んでる人いるんですよね…
先月観光で訪れた際、写真を撮ろうとしたら部屋の中から怒鳴り声が聞こえました。幽霊かと思ったら、声がした部屋だけ窓ガラスが新しくポストも付いており、自転車も停まってました。とてもまともとは思えません。
@@Unknown-pi6hj コメント誠にありがとうございます。おっしゃるとおり現在もお住まいの方々がおられます。それで取り壊されることなく現在までこの貴重な姿を残すことができたのでしょうね。
※以下炭住ご見学を検討されていらっしゃる方々への補足情報として※
動画内及び三笠市公式サイトにも記載がありますがこちらの炭鉱住宅は現在も使用している住宅で、道からの見学は可能ですが敷地内(住宅周辺)に立ち入っての見学はできません。住宅と住宅の間の通路のような敷地も含みます。(その他、市のサイトでは迷惑にならないようにご配慮くださいとの記載がありますので人の気配があればカメラを向けない、言葉に気をつけるなど)。
三笠市公式が写真付きで場所の紹介をしているので行くこと自体はOKなはずです(たしか野外博物館『ジオパーク』の26番として地図・写真付きで紹介されています)。
奔別周辺などをみると、市営住宅として比較的新しい形で残ったもの以外は全て取り壊されていて辺りは山に還っていますが、こちらはお住いの方々がいてくださったから現在までこうして残すことができたのだろうかと思います。
私個人としては当時の姿を今に伝えるこの炭住をたいへん美しいと思っているのですが、感情は個人差があるのでそうではない方々もおられるかもしれません、周辺は静かですのでふいに発した言葉がお住まいの方のご不快に繋がらないようどうかご配慮ください
リズミカルなバンジョウ?の響きが良いですね。
ありがとうございます。三笠(幾春別・奔別)好きなので好きな音楽をセレクトしているのでうれしいお言葉です🙇♀️
幾春別川周辺や弥生幌内、奔別幌内、どの炭鉱を見に行っても、その足元数百メートルという恐るべき深さの場所で仕事をしていた人々がいたことに驚愕します。そこで事故で命を落とした人が住んでいた炭鉱住宅からはすごいオーラも感じます。
60年前に、なるのかな⁉️
母方の、叔母が、唐松町の、炭鉱住宅に、住んでいました。
コメントありがとうございます。唐松周辺は最近行けておりませんが唐松駅の様子は動画がございます。↓
ua-cam.com/video/ToKwIiqlM7o/v-deo.html
お時間ありましたらごゆっくりご覧ください
今、あの、一帯は、どうなっているのかな?
更科食堂は元気に営業しているのでしょうか?
営業されています。私の記憶では確かご主人(三代目?)がご体調を崩されて一時期休業されていましたが、継いでくれる方がみつかりご主人から味を引き継いだ方が現在営業されておられます。
更科食堂の向かいにあったいろは食堂も、古い電話帳を追っていくとどうやらすくなくとも2007年までは営業されていたようで、行けなかったのが悔やまれます…
大変だと思いますが皆さんの協力で頑張って欲しい。
更科食堂は、土日は11時の開店前に行列ができますよ。
70年前に叔父と20円の盛りそばを食べた。
30円のざるそばとの違いが未だに忘れられない。
@@博愛竹原 小学生の時ラーメン食べた記憶あります55年前かな
赤い屋根の炭鉱住宅、その前は黒いトタン屋根の長屋が密集して、中央に浴場があり、各煙突から上がる黒煙が空を覆っていた。
露天掘りの安い豪州炭が輸入されるまで、炭鉱景気に湧いた短い時代だった。
貴重なお話本当にありがとうございます。
いつもこういったお話を聞かせていただくにつけ、頭の中で当時の暮らしや活気を想像しております。そして自分まで懐かしいような、ちょっと涙腺が緩むような気持ちになったりもします。全国から一斉に人が集まり、そこで子どもたちが生まれ育ち、大人はほぼみな同じ職場(炭鉱)で働き、一気にいくつもの町が形成されていくというのは他にはなく、本当に貴重なご経験かと思います。
勉強になります、ありがとうございました
幾春別は映画館、パチンコ屋、居酒屋があり、三笠で一番の繁華街だった。更科食堂は未来へ残して欲しい唯一の歴史遺産だ。70年前に食べた20円の盛りそばは、今でも記憶に残っている。