広島藩 浅野家のその後 薩長に並ぶ雄藩はなぜ明治以降姿を消した?
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- Опубліковано 21 січ 2022
- 豊臣政権の五奉行として活躍した浅野長政。
子孫は広島藩の藩主として活躍し、赤穂事件なども経て幕末には薩長と並ぶ倒幕勢力の一角として存在感を発揮しました。
しかし、広島藩は明治政府に人材を送り込むことができず、次第に歴史の表舞台から姿を消していきます。
一方、藩主の浅野長勲は最後の大名として昭和まで生き抜き、二・二六事件にも関与するなど活躍しています。
今回は、そんな広島藩浅野家が辿った道について紹介します。
#浅野長政 #日本史
「芸州」浅野家を題材にした動画なんて見たことありませんでした。なかなかマニアックでしたが勉強になりました。ありがとうございます😃。
淺野宗家は侯爵となり、現在の東京大学に淺野正門、淺野南門などがある理工系キャンパスが侯爵家の邸宅跡地になります。広大な敷地で悠々自適な生活を送りながら、侯爵家以上が入会できる政治同盟の火曜会に所属して、隠然たる権力を持ち続けていました。特に目立った活躍はありませんでしたが、政界には旧廣島藩士などが多く進出しており、彼等はどれだけの高官になったとしても旧藩主家である淺野家の上位に立つことは出来ず、逆に淺野家の家政を担ったりと、維新後も淺野家の為に尽くしてたのが事実です。
なかなか面白い内容。現在の日本で広島の存在は大きい。浅野の藩経営は見習うべきものがある。
うるさい音楽が無く、詳しい説明、かつ簡潔、写真なども豊富で大変勉強になります。欲を言えば、写真に何の写真かを、写真に一行入れてもらえると大変ありがたく思います。
9:06 字幕の改行が漏れていました。
江戸時代末期、浅野斉賢の子である浅野斉粛の時代になると、相次ぐ飢饉により広島藩の財政は再び悪化し、斉粛が11代将軍徳川家斉の娘を妻に迎えると、将軍の娘の輿入れとあって出費がかさみ、財政は火の車となってしまいました。
すみません
16:24辺りの「0歳を越えていた〜」の箇所もお願いします
100年なんてアッと言う間ですね。明治はそんなに昔の時代ではないことを日本人が気が付くべきですね。凝縮されたこの100年の流れはよく知る必要があります。まさに激動の明治、大正、昭和、そして令和ですね。先人の皆さん方に敬意と尊敬の念をもちましょう。
歴史にとって100年は遠い過去ではないですからね。
系譜も残っていることが多いですし、場合によっては生き証人もいますし。
広島浅野家は、大名家の中では、代数が非常に少ない。大名家の多くが、短命が続き、江戸中期ですでに8代、9代と重ねてる中で、幕末までに確か11代とか12代とか、少ない代数で続いてると記憶。代替わりが多いと、そのための出費、人事の入れ替えがあって、藩政に支障をきたすこともあろうと思うが、それが無かったのが幸い。
浅野長勲と私の母が同じ時代にいたことに改めて驚愕です。。
「鳥羽伏見の戦いで薩長と会津の私闘であると言って参戦しなかった。」この点は本質を突いていると思う。他藩が日和み主義から薩長へ靡くなか広島藩内でも藩論は二分したと思料されるますが広島藩は毅然とした態度を貫いたんだと初めて知りました。
よって、その後の明治政府では冷遇されてしまったんだろうが私は日和み主義より誇れる行動だったと思います。
芸州広島藩は薩長芸の討幕同盟を結んでおきながら土壇場になって参戦しなかったから薩長土肥の一角に加わることができなかった。
逆に土佐藩は藩主の父が出兵に反対する中で藩士の板垣退助などが独断で出兵したことによって薩長土肥の一角に加わることができた。
@@subuya428
山内家は関ヶ原での恩義がありますから
消極的になるのは仕方ないですね。
それにしても何故上士出身の板垣は
出兵にノリノリだったのでしょうか?
@@user-sr3vo4pi6b 坂本龍馬と一緒に暗殺された土佐藩士中岡慎太郎が斡旋して結ばれた薩土密約に基づいて板垣は独断出兵しました。
板垣は土佐藩上士ではあるが元々尊王の心が熱い人物で、下士の尊王攘夷運動に内心少しシンパシーを感じていたところを中岡慎太郎に感化されて完全に倒幕派になったという経緯があります。
@@subuya428
思想は身分を超えるって訳ですか。
凄いですね。
板垣退助氏は、土佐の殿様への忠義の念はどうだつたのでしよう。とにかく、藩の兵馬の権を、実質的には、自分で差配する権限があつたのですね。
もともとの先祖は、戦国甲斐武田氏の重臣板垣氏とのことですから、脳裏には、長篠や天目山のこともあると思われます。
広島藩も財政改革をある程度はやったのだろうが、長州藩の村田清風、薩摩藩の調所広郷のような人物は現れず、薩長のように倒幕の兵を起こしたくても、財政の問題から起こせなかったのではないだろうか。
だから薩長に軍事行動を諌め、平和的解決を望んだのだと思う。
幕末のギリギリで平和路線に転換した姿勢が薩長首脳部に問題視され(特に西郷だと思いますが、明治新政府では完全に干された格好ですね。
確かに広島藩出身者で著名なのは日露戦争で活躍した海軍の加藤友三郎くらいでしょうか。
浅野長政が朝鮮侵略を断行しようとする秀吉を狐憑きとまで諌めた話が大好きでしたが、浅野家についてあまり知らなかったのでとても面白かったです。
伊達家との確執は、現代でも広島と仙台のライバル関係と通じるものを感じました。
忠臣蔵の裏方、大政奉還の早すぎた建言、神機隊、最後の大名など、興味深いエピソードは多いものの、全然知られてないのは惜しいことですね。
広島城の「ふるさと武将隊」はなぜか浅野家ではなく毛利家です。
福島正則の改易以来幕末までずっと広島藩を治めたのに。
芸州浅野家の事績にも、もっと光が当たるといいですね。
この動画でも、うっすらと判りますが、芸州浅野家は幕末にかなり活躍しています。しかし、芸州が出てこられては「薩長倒幕」が成り立たなくなるから、明治になって薩長閥が浅野家の歴史を葬り、広島人には毛利の歴史を教え込んだ結果が今に出てると思います。幕末の小御所会議にも出席していた浅野長勲です。そんな話しが表にでて、芸州藩が明治の御一新に関わったとなれば、薩長閥の面目が立ちません。
だから、浅野家を消す必要があったのです。その証拠が「江戸時代で広島のお殿様は?」の問いに、多く広島人は迷う事なく毛利と、答えますよね。
たまに福島正則ですが、浅野家と答える人は、県外から広島に来た人くらいでしょう。
消された広島の歴史を、これから掘り起こしていきましょう。
権力者の都合で移封された占領軍みたいなもんだから地元出身の毛利に親近感持つのは当然かと
毛利元就は 小学校の歴史の教科書に出てくるレベルの偉人だからね
@@geisyuhiroshima いやいやいや、わずかでも歴史に興味があれば江戸時代の芸州藩主=浅野家は常識ですわ。でも浅野家はしょせんは尾張出身の鉢植え大名ですからね。広島県が生んだ最大の武将が毛利元就なのは動かしようがないのでファンの厚みが違う。山梨県人が武田信玄を、新潟県人が上杉謙信を誇りに思うのと同じ事です
戦国屈指の強豪であるばかりでなく、鎌倉政権の基盤構築に多大な貢献を果たした大江広元に始まり、武士の世を終わらせた長州藩に繋がる輝かしい歴史の流れも付帯しています。
安芸南部の塩分の多い人口希薄なデルタ湿地を広島と名づけ、そこに新たな城と街を作り始めたのも毛利家。アイデンティティを毛利に求めるのは当然です。今日の広島市の基盤を長い年月をかけて整備したのは浅野家と言っても良いとは思いますが、パイオニアは常に偉大です
上田とか小田原もだよね
浅野家が広島藩でよかったです
😮浅野です。本年も宜しくお願いです‼️
戸籍の附票を遡ったらここに辿り着いた
加藤清正存命中は改易されていないし、福島正則は改易でなく大幅減封の上、移封ですね
肥後加藤家は清正の次の加藤忠広で改易ですし、
福島正則は広島藩から、信州高井野藩へ減転封ですしね (まあ50万石から4万石強への大幅ですが)。
浅野家は、あの忠臣蔵の浅野家の本家なんだそうですよ。
忠臣蔵で切腹した浅野内匠頭は豊臣五奉行の浅野長政から見ると玄孫ですね。
広島藩浅野幸長から見ると、弟 (浅野長重) のひ孫です。
前田家から奥方を貰いましたね😃
浅野長愛先生は、学習院中・高等科長(校長)も務められました。
なるほど昔から広島は中途半端だね。岸田総理を見れば分かる、そっくり!
ちなみに私は広島人です。
去年の大河で渋沢成一郎が広島藩兵に追われて負傷して自害しましたね!😢
成一郎は自害してませんよ
すみません平九郎でした!😅🙏
薩長と並ぶ倒幕の原動力っていいますけど、薩摩は追い詰めたけど、長州は朝敵で朝廷工作に関与できず大政奉還に関与してないし、幕府は倒される前に政権返上してるし、色々おかしいよな。この表現。
浅野セメントとか 原爆についての関わりについて取り上げてくれると もっと良かった
浅野セメントと浅野家は関係ありませんよ。浅野セメントの創立者の浅野総一郎は富山県の医者家の出身です。
長愛氏は学研の教材の監修などもやっておられました。吉良氏と和解を成し遂げたのもこの時代です。現陛下の教師陣の一人だったような気もします。
以外だったなぁ?、明治維新時の広島藩、影が薄く成ったのも、明治維新時の内戦に積極的で無かったのも遠因かも知れないんだが?、
まぁ大名は武家、とにもかくにも幕府というか武家の見方をし戦わなければ武家の先は無いと言うことに気が付くべきでしたね?
広島県人ですが、三原の小早川隆景のことも、深くは知りませんね
1990年代に、『コーポレーション・アイデンティティ』で、野村証券が主幹管財人として、電通が関わっていたのを思い出す。
電通の浅野部長が、映画『駅馬車』の『ロー・ハイ・ドー』の曲に合わせて、語られてたのを思い出す。
『会社の沿革に対する話で、腑に落ちた!』
【余談】→(個人的な、勝手な意見!)
神奈川県の大学でも、『CI活動』をするのだと覚えてる。
日本放送の、『ラジオCM』で、聞いたり。
テレビ特撮番組の『宇宙猿人ゴリ』の『スペクトルマン』で、『ナレーション』されてる声優さんが、『電通』の企業CMで、専属に為っており。
『電通の浅野部長』の話から、『企業成長ランキング』分けされていることを覚させて、頂いた。
この話に似ているが、『幕府』や『倒幕』を『市場全体で考える』のが、面白かった。
『リップサービス』→(個人的な、勝手な妄想!)
『居酒屋』業界に於ける、『魚民』の存在!
初期に、関わられた『浅野氏』の『アドバイザー』としての采配が見えるだろう。
『魚民』に行くと、『電通の部長だった浅野氏の思想に合える』として、よく使わしてもらった。
機械と同じで、理念や思想や、考え方の手順や方法、サービスや流れを勉強させてもらった。
『白エビの塩辛』を見ながら、食のこだわりを見た。
『温故知新』
歴史とは、関係無い話に思えるが、情報素材を変えれば、昔と人の思想は変わらないのかも知れない?
時代によって、変わる部分と変わらない部分が存在する。
歴史と20年ほど前の、ロジックを付けてみた。
十年一昔なら、二昔前の話だ。
5年サイクルだと、5個~6個前の話になる。
3学年で考えると、7世代以上の話になる。
280年ぶりに和解…(笑)
「大阪方」に残念・・
芸って広島だったのか
うん、安芸から来るみたいよ。安ではなくて芸をとったわけだ。
浅野家は加藤清正、福島正則などの全くの成り上がり大名ではない。一宮に館があった土岐庶流の領主。
それで?
安芸広島というと福島政則のイメージが強いが浅野氏だったのかぁ
薩摩とは格が違う
広島城に行っても。浅野家のこと、印象にないですね。
やっぱり毛利がメインな感じですか?動画作成したくせに訪問したことがなく…
広島自体が毛利が作った都市ですしね
要約するとコウモリ藩であったため幕府にも信用されず薩長にも信用されなかったわけですね