【ゆっくり解説】ガッカリすぎる戦国時代の嘘!!
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- Опубліковано 15 вер 2024
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
特に信長なんかは情報戦にも長けてたらしいから
あえて誇張した情報を流すことで自国に逆らおうとする連中を減らそうとしてたのかも
ここで嘘とされている甲陽軍鑑は、最近、ある程度実際に有ったことを記録されていると言われています。川中島の戦いでも、1次史料として謙信が「自身太刀打の段」という手紙を貴族に送っていて一騎討ちかどうかわ分からないですが、信玄の本陣に謙信の部隊が突入した事は確かなようです。兜も大将はかぶらずとも置いていたと聞きましたが…
兜の飾りはアタッチメントで簡単に外せるって聞いた事がある。
人々の前を行軍して威厳を見せる時や式典の時ぐらいは付けてたと思う。
長篠の戦いの鉄砲三段撃ちとか、川中島の戦いの信玄と謙信の一騎打ちなどは創作だとわかっていても、時代劇では一番の見所になるので削除されることがないです。
嘘っていうかこうあって欲しいの想像が
多すぎ😅
そもそも長篠の戦いは梅雨の時期だし馬房柵の前に穴を掘って山を背にして戦おうって作戦で
敗走する勝頼の手紙にも「山城にやられた」って書いてますからね
当時の鉄砲も誰でも撃てないし弾を込めたら撃てる人に渡してた説もあります。
そもそもその当時「サラブレッド種」はいない
ポニーちゃんゴツくしたかんじで、信玄か勝頼の番組で、仮面ライダーが餌をやって戯れておったの〜。
川中島の勝敗は以下の通り
第一合戦 上杉の勝利 信濃衆の領土取り戻す
第二次 引き分け
第三次 引き分け
第四次 引き分け
第5次、6次 武田の判定勝ち 上杉が信濃奪還を諦める
戦国時代劇天と地の合戦シーンでも槍で突くのでなく叩いていた
槍がメインの武器で、刀は観賞用とか芸術品、みたいな話はテレビで学者が言ってましたね。
それはどうだろう。メイン武器ではないがトドメ用とかだと思うよ
三段撃ちってちょっと考えても作業効率悪いよね
仮に三人一組の分業制にするとしたら
1.射手
2.装填手
3.1と2にそれぞれ鉄砲を受け渡しする人
の三段にしてそれぞれの仕事は固定にすると思う
撃ったら後ろに下がって弾込めしてまた前に出て・・・なんてあたふたしたことやってたらどの仕事も集中出来ないし周りを見てるヒマもなくなる
のちの戦列歩兵の時代だとそれが普通だったけど火縄銃だと逆に危険だと聞く
徳川幕府の鉄砲百人同心の根来組が得意とした根来撃ちは3人一組で3丁の銃を運用し一番射撃の上手い者が射撃に専念しあとの2人は装填に専念する事で早合と併用することで10秒に一発という単発の先込め銃としては驚異的な発射速度を得ることが出来た。明治維新で大鳥圭介に従う一部の幕臣が抵抗した館山の戦いでは天候が雨に変わるまでは装備の近代化が遅れた旧鉄砲百人組同心は明治政府軍を足止めする事ができた。
動画にもあるけど、火縄銃の再装填には時間がかかる。三段といっても実際は2発打つ間に準備しなきゃならない。
明らかに時間が足りない
前立てのある甲冑が全て江戸時代って、あまりに出鱈目すぎる。
ほんとそれ多分甲冑の変遷や歴史に興味がないか調べてないね
上杉軍は"車懸り"という珍戦法を用いたので武田軍を翻弄・混乱させたので、武田軍の周囲の護衛が引き剝がされて、一騎討ちになった可能性はあるかもしれませんね。但し"車懸り"は味方の損耗も激しいので、死傷者数は上杉軍の方が多かったとか。タイムトンネル(古~い!)が有ればみんな解決するのにね。
「車懸り」なんて甲陽軍艦にしか出てこないし、
甲陽軍鑑は当時の歴史小説みたいなもんだよ?
「山本勘助」という軍師も存在しないって・・・
@@おにぎり-e7g とにかく、自分の先祖は越後の国で上杉軍と戦って敗北し、能登の七尾城まで命からがら逃げて行ったそうなので、是非とも武田軍に大勝利して欲しかった。我が家の伝承です。その後、柴田勝家が手取川の戦いで下手くそな戦をしないでサッサと進軍すれば、七尾城を救援できたのに...残念。
兜は被らずに戦うことが多かったようで、ちゃんと被るよう注意されていたとか。長篠の戦いは攻城戦であったと、歴史に詳しい方の話を伺ったことがあります。武田に騎馬軍団などは存在せず、当時の馬は木曽馬でポニー種に近い小型でした。
その基準だと、欧州の騎士が乗ってた馬もポニーになりますよ
サラブレッドみたいな大きい馬は、18世紀に品種改良で生まれた種ですから
信長公記の長篠の合戦部分には「関東衆、馬上の巧者にて・・・」って書いてあるけどね。
戦国時代には使われなくなった「大鎧」は、平和な江戸時代に復古調としてリバイバルしました。江戸時代の大名には、「大鎧」を所有していたようです。
所有するだけなら戦国大名も所有しています。
甲斐武田氏の家宝で信玄も神器のような扱いをした楯無鎧が有名ですね。
@@じろうコマ-q7m
戦国時代の頃から使い分けてますよね
大鎧は正装の軍装という意味で江戸時代中期以降の大名がこぞってその時代風にアレンジしたものが作られるようになったね。
武田の平安後期から伝わる盾無は源氏の正当な後継者としての誇示と武運をもとめるために出陣のときには必ず飾るようにしてましたね。
大鎧の方がカッコいいから
信長の野望でなくて、信長の願望だったのか~。(笑)
これは戦国時代というより江戸時代の土木の話になるけど、利根川東遷事業も通説は家康がかなり神格化されちゃってるようで...
この事業は大正までかかったゆるやかなもので、明治にも足尾鉱毒が東京に被害を拡大させないように東遷が進んだとはね。
それでも謙信に限って、単独で敵陣に突っ込んでいったような気がしならない。
長篠については、百性が死体から鉛玉をほじくり出して、金に替えたと聞いたことがある。
戦が川原で行われたのも、河川が国境として判り易いのと、投石用の手頃な石が手に入り易かった説も有ります。
又、長竹で叩き合う秋田県の「六郷竹打ち祭り」が数百年前から続いており、これが実戦に近かったと言われてます。
主に軽装の足軽で投擲が上手い者が適度に硬く投げやすい物を常備携行し戦いの開始時集団で敵の先頭めがけて投げ付けた。三方ヶ原の戦いではまだ鉄砲の数も少なく連投出来る投石で武田軍を恐れる徳川軍が動揺し陣形が有ろう事か石で崩れる兆しを作った。しかし、この戦い以降急速に鉄砲の大量配備が進み投石隊が鉄砲隊に取って代った。その為、有名な川中島の戦いや桶狭間の戦い、北条軍の川越夜戦はまだ投石部隊が居ての戦いだった。幕末の戦いもそうだが、新兵器を効率よく使う研究工夫をした者が次の時代の覇者と成った。
現代でも主力は小銃、拳銃は補助。
騎馬武者は戦いの前に馬から降りて徒歩で戦っていた
だから武田騎馬武者みたいなのが騎乗したまま敵に突撃することはなかったらしい
(討ち死に覚悟で柵に突撃した設楽原はどうだかわかりませんが)
軍忠状を元にした負傷率の計算だけど、あれは鉄砲が普及してなかった時期も含めた戦国時代全期間を通しての累計だから。鉄砲と弓槍の比率を考えれば考えればかなりの多さ。
朝鮮出兵の記録なんか見てもほとんど鉄砲を主力に使ってるんで、数さえ揃えば鉄砲に勝てる兵種は無い。
あと合戦の記録を見ても騎馬隊が騎馬突撃したって記述は散見されるんで、騎馬隊無かったなんてのも一時期言われてただけの都市伝説なんだね。
桶狭間の戦力差に関しても疑問視されてますね
正面突破での勝利説が濃厚なのも今川勢の戦力がそこまで大きく無かった可能性が高いと見られてます
桶狭間の戦いの戦力差はそこまで開いていなかったというのもあるな。当時の織田氏の領土の広がりから察するに、総兵力は1万はいたのではないかというのと、そこから周辺の守備隊を除いた即座に戦える者だけを選抜して3000、そして1000を佐久間信盛に預けて最精鋭が2000だった。それに対し今川軍は本隊5000だったが、その多くは農民からの徴発で、侍は1000ほどだったと。だからそこまでどうしようもない戦力差でもなかったのではないかと。
5000補給部隊で人夫が大多数だったと聴いたことあるし、護衛部隊1000人いたけど、みんな一目散に逃げて行って、身辺警護の旗本300人だけ奮戦して、嬲り殺しに近かったと聴いたことあるんだの〜。
正直、静岡の立地上二万人の軍勢も居ないでしょ。
鎧兜はどの大名も派手な鎧と地味な鎧最低でも二種類は持ってたって聞いた事があるぞ
普通の国はここ400年なんて混沌と争いの歴史だから創作なんてしてるヒマなかったんだけど、日本の江戸という内外にめちゃくちゃ平和な時代がきちゃったもんだからその時に創作文化が華ひらいちゃったんだよね。文化的にはよかったんだけど、歴史史料的には良い面だけではなかった。後世の人が嘘を嘘と見抜ければよかったんだけど、創作を真実だとおもって小説や漫画や大河ドラマになっちゃって、その嘘の歴史がはびこるのは現在も進行中っていう。さすがにここ20年ぐらいは新史料もたくさんでてきて昭和みたいな物語は少なくなってきているけど。ちなみにストーリーは創作だけど、戦国時代の戦を日本で一番正確に再現した映像史料はクレヨンしんちゃんだって言われてますね。自分もあれをみて槍って叩いてたんだなーって知ったのを覚えています。
三方ヶ原の戦いで徳川家康が命からがら浜松城に逃げ帰ったときの脱糞エピソードも創作kの可能性が高いらしい。
創作ね。
その創作に何の意味が?
脱糞って家康だから有名だけど普通に一般兵はありましたよ。信長公記をはじめ色々な一次資料とされているものに記載されています。
脱糞しちゃった部下「やべ!うんこ漏らした」
脱糞してない部下「おい、なんかうんこ臭くないか?」
脱糞しちゃってる部下一同「やべぇ…俺の事だ」
脱糞してないけど空気を察した家康「ああ、それワイや」
脱糞組一同「命捧げます(涙)」
三段撃ちは、スペインや明の資料にしっかり残ってるのになかったと言い切るのもどうかと思います。
当時の鉄砲は命中率が悪いので、部隊単位での一斉発射が基本戦術です。弾幕的な使い方ですね。
ただ、映画やドラマのような機関銃的な使い方ではなく、相手の攻撃の出鼻を1回転(3斉射)で挫いてしまうのが目的で、この後すぐ後ろに控えてた槍兵が前に出てきて近接戦闘に突入します。スペインのテルシオを扱った映像を見たことがありますが、こんな感じでした。
三段撃ちで3連射はできる。三段で回し撃ちは不可能って話
戦場での中心は槍だったので槍の名手は敵陣に単独で切り込んでいけた。代表的なのが上杉謙信、真柄直隆、そして本多忠勝。刀で斬りあえば至近距離なので傷を負いやすいが、槍は柄の部分が長ければ距離を保てるし重いので振り回すよりも叩き落す方が有利。だから謙信の強さは異常だったと思われます。ただ、謙信のGENDERには疑惑が…。
桶狭間については、奇襲の定義を明確にする必要があるな。
関ヶ原のように双方布陣を完了させて、会戦した、というわけではないんだろう。
なら、義元は準備が未完で信長と戦ったわけで、奇襲でもよいのではないかな。
雨の日用に皮を被せた火縄銃を、昔映画で見た記憶があります。
いやいや。戦国時代に作られた前立物ついた当世具足は普通に見つかってて重要文化財にもなってるから。
目立つと狙われやすいってのは狙撃技術の進歩した近代戦の発想だよね。当時の武将は目立ってなんぼだった。
『甲陽軍艦』『北越軍談』『信長記』『太閤記』『明智軍記』等々... 江戸時代に書かれた軍記物の多い事。
そう言えば、徳川幕府は『甲陽軍艦』に基づく甲州流軍学を採用したが、紀州徳川家は『北越軍談』に基づく越後流軍学を採用しています。紀州徳川家では、越後流の軍学者、宇佐美定祐を召し抱えました。この宇佐美定祐は上杉謙信の家臣、宇佐美定満の子孫と自称していましたが、どうも胡散臭いです。
しかしながら、この辺はまだ時代も近く、戦国時代に片足突っ込んでる人も多かったはずで、あからさまな嘘も書けなかったはずです。
現代学者の言うことのほうが、どうも胡散臭いです。
それ以前に、大日本史を作らせた徳川光圀からして偏った思考(南朝正統論)でしたし。
戦国時代の馬って、かなり小さかったと聞いたことがある
百歩譲って上杉謙信が武田陣に自ら入り込んだとしても、何で武田信玄の周りに1人も護衛がいないのよ・・
あり得ない話ですよね笑
戦国時代のエピソードのほとんどは江戸時代か戦前に作られた創作のイメージ
多少どころか、盛り捲ってとこは、有るかなぁ、特に現在に放送されてるドラマはね。鉄砲については、特に野戦では、役立たなかった見たい、桶狭間、正面攻撃だったらしいのと、義元君の、兵力、全て戦闘要員でも無かろうし、砦攻略にお出掛けしてた様ですし、戦闘兵力は、以外と同数だったりね。馬さんに乗れる兵は少ないし、馬さんは、兵糧の運搬に使われてる方が多いとは思うけれどね。
以前、鉄砲の種子島伝来説を否定していたが、他チャンネルだったかな?
当世具足が格好良くない?
戦国時代ファンの私としては大鎧よりカツコイイ
統計資料だけ見て判断するのもどうかと思います。
鉄砲隊や弓隊を有効活用するには、城壁や馬妨柵のような障壁や、野戦では槍兵隊で戦線を維持する必要性があります。スペインのテルシオや、スウェーデンの三兵戦術でも槍兵は随伴してるわけです。鉄砲隊だけで戦えるようになるのは、銃剣が発明されてからですね。
現代戦では、爆弾と砲弾の破片での死傷が7~8割くらいで、小銃弾に当たって死ぬ兵士なんかほぼいないわけですが、だからと言って、空軍と砲兵だけで軍隊を編成し、歩兵を廃止しようなんて話にはならないです。
そもそも論として、その統計に使われた資料とやらが曲者で、記載されている傷は生還者の自己申告、敗走側は記録を残せないため、戦勝側の内訳に片寄りがちという問題点がある。
統計に使われた資料がなんのために作成されたのか考慮していない人が多すぎる
大東亜戦争中のアメリカ軍、分隊や小隊は日本軍やドイツ軍に劣るが、連隊や師団単位では、圧倒的に火力が上回ると聴いてるんだの〜。大砲の方が鉄砲より先だと聞いたんだの〜、投石器の延長だとも聞いたんだの〜。
当世具足についてはめちゃくちゃだな鉄砲が使われるようになった時代に即して着られるようになったのが当世具足でまず時代が違う大鎧を持ってくるのがおかしい。当世具足でも陣中に坐する大将クラスは普通に各々の存在を誇示する今に伝わる前立ては戦場でつけてるし、実戦用に胴なんかが1枚板で打ったものに草摺りの数を減らして使用していたのに過ぎない(首無し鎧をググれ)足軽クラスも貸し出し用の銅と兜がちゃんと残ってるから調べろよ。雑兵のなかで鎧を着用しないものやより簡易なものを身に着けていた例を武将クラスも交えてごちゃ混ぜにするなよ。
当時は奇襲がメインだったらしけど…
不精な武将も居たかも
しれない。
姑息?な誇張が大いですかね。どうせなら軍勢を数万を数十、数百と増したりすれば良かったのに。
設楽原での武田騎馬隊の突撃はあり得ない。泥田は騎馬で進軍できないから射程外で下馬して竹束などで矢玉を避けて宛ら攻城戦であったはず。ただの突撃戦で6時間はかからない。 川中島合戦紀州本では川の中での遭遇戦として描かれている。本陣同士の偶然であれば考えられるかも。謙信が近衛前久から御自ら太刀打ちとの書状をもらったのは事実。 桶狭間の戦いは小勢の強襲で小高い丘を駆け上り今川本陣をなぜ撃破出来たか説明出来なければ奇襲強襲の結論は出せない。 当世具足は軽量化で幾分地味にはなったが派手な陣羽織をまとったり己の戦働きをアピールしていた。しかし馬上の派手さ故に狙われやすかったのも事実。
紀州本とは北越軍記のことでしょうか?
北越軍記を著した宇佐美定佑って人
上杉謙信の軍師だった宇佐美定行の子孫だったとされていますが
北越軍記そのものが創作、定行という人物も居らず
浪人した宇佐美定佑が紀州家に仕官するための方便。
紀州家も分かってて将軍家の武田流軍学に対抗して
上杉流軍学の軍師の子孫として招いた
という説もあります。
参戦した水野忠重の記録「敵は(柵を)乗り破らんとて五十騎、三十騎づつかけ来り柵に乗りかけて為方なく漂ふ所を引きつけ、鉄砲にて五騎、十騎づつ打ち落としければ…」
とある様に実際に騎馬突撃は行われています。
有名な合戦エピソードの大部分は創作である可能性はある
でもたてものが大きいのは手柄を知らせる為てトリビアの泉で言ってた。
大将のたてものも同じか言ってなかったけど。
桶狭間の戦いは今川軍が本陣があった場所が悪かったとあるが?。
まともに考えると武田の騎馬隊は無いですからねぇ。
今もいるようなポニーみたいな木曾馬サイズが当時の国産馬で、今のような騎馬術もないので鎧まで着てたら走らせるとまともにコントロール出来たのかも怪しいですw
あと子供の頃にミスリードされたのが「敵に塩を送る」のエピソードで、大河か時代劇かは忘れたけど武田が周辺国から塩の供給を止められて困窮したのを、上杉が緊急支援的なニュアンスで塩を無償供給したように描かれていて、実際は値上げしなかった程度で武田相手に定価の独占販売出来てオイシかったってのを勉強して知った時にはショックだったなぁ
在来馬でも比較的大型のもの例えば南部馬とか明治以降に絶滅しちゃったからね。よく木曽馬の例を出されるけどポニーと同じとかいうのは今の映画やドラマで映えるサラブレッドを使用していることを揶揄するために強調されたある種の流行の中の話であって、戦場で武将に選定される在来馬は全てが荷役用や観光で使われてる小型ポニーレベルだったととらえるのは安易だと思うよ。もっとも当時の150㎝台から160㎝台がほとんどだった日本人にとってはサラブレッドに比べて小さな在来馬で十分だったともいえる。伊達政宗の京での隊列を記録した当時の資料からまとめられた『貞山公治家記録』に身長160㎝の伊達政宗があの有名な鎧を着て馬上で行進する様子が子細に残されてるから。
馬術は小笠原流とか普通にあるけど。
かなりガッカリだぜ。