No.648_城跡巡り 荒川城址(愛知県西尾市)

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  • Опубліковано 18 жов 2024
  • 2024年9月8日(日)
    荒川城(あらかわじょう)
    所 在:愛知県西尾市八ツ面町土井17-1
    34.8776226, 137.0740657
    駐車場:なし
    別 名:八ツ面城、八ツ面古城、八面村城
    ⚫︎荒川義広の居城。大永7年の築城。享禄2年、松平清康が攻城。現、八ツ面小学校西側が城址で土塁が残る
    (日本城郭大系9 322ページ)
    ⚫︎雲母の産出で有名な八面山の西麓に接している。境界は詳らかでないところもあるが、およそ三町六反余りあって、西尾-岡崎間の街道がその真中を貫通している。堀の残存しているところもあるが、境域は寺院、人家、小学校、畑等になっており、低地の水田とは崖で接しておる。この城は、戸ヶ崎氏が戸ヶ崎から移ってここに築き、荒川氏と称したが、七代で絶えた。吉良氏の東条左衛門尉持清の次男兵庫頭頼持が、荒川氏の家名を相続し、荒川甲斐守義広と改称してここにおり、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いののち、かろうじてこの地に逃げもどった。その年、長男義広が継ぎ、翌年松平元康の幕下となり、元康の異母妹と婚したが、6年の一向一揆に元康に反し、7年家康に攻められ、城を捨てて敗走し、荒川氏は滅んだ。家康はこの城を鳥居元忠に与えたが、のち廃城になった。
    (日本城郭全集7 211ページより)
    〇荒川城は西尾市立八ツ面小学校を含む、小学校の北東側一帯に築かれていました。
    遺構としては、土塁跡を確認することができます。この城は、戸ヶ崎氏が戸ヶ崎から移ってここに築き、荒川氏と称したのが始まりとされ、
    永禄6年の一向一揆の際は、松平元康に反し、一揆方に与したため、松平方に攻められ、荒川城は落城した。

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