呼吸法と寝禅 (昭和47年7月16日)

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 9 лют 2025
  • 禅がすばらしい人間完成な道である、ということにつきましては、すでに二千五百年の人類の尊き体験がありますので、ここに丁々(ちょうちょう)と、その説明をする必要もありませんけれども、ご承知のように、禅は難入(なんにゅう)、難解、すこぶる難行である。
    そうして長い間、精進、努力を重ねなければ、なかなかその効果を現すことができない。下根(げこん)の人には、なかなかこれが要領を会得(えとく)することができず、長い間の辛抱もできない、というような意味で、人間完成の方法として、まことによいけれども、未だに万人向きにならないというような、状態にありますけれども、これを、ごく平易な、誰にもできる、楽に、楽しくできる。
    そうして、その悟りの深さや、効果の早さは、今までの坐禅のおそらく五倍、十倍でもあろうかというような、新しい禅の方法をご紹介いたしましょう。
    それは宇宙時代の今日なればこそ、また、現代の文化が、これほど科学的に発達してきたという、合理的な時代。
    禅の本質を分析し、これを原理的に再編、再現する。人間を科学し、人間の基礎根本、本来の面目というところから、完全な人間たらしめようとして開発した、全く理想的な禅、禅という字が、完全の全、全き生き方、それは今まで精神的に禅を求めてきた、行じてきたのを、生理的に、精神の発生する前に、正しい感覚、すばらしい意識、それが人間精神と成っていくような、原因のうちに結果を求めるという方法。
    これが空即是色という般若心経の教える原理。
    逆に言えば、この色界にある、人間の意識をそのまま空にする。すなわち、色即是空禅、どちらから申しましても、般若心経禅と称するにふさわしいような、般若の智恵と能力を開発する、理想的な禅の方法なのであります。
    能書きがあまりにも大きい。大宇宙禅、大自然(禅)、完全(禅)、しかもそれが当然(禅)という禅なのであります。
    禅の話をする時に、よく月を指差しまして、「あれが月だ。あの月を物語るために、指差す指は、指にしかすぎない」などと申しますけれども、現代は、人間が月にまで行って来るという、この時代における、宇宙の真空地帯を通過する、無重力状態になれば、地球を九十分ほどの速さで一回りする。
    しかもそれにエネルギーが要らない。努力が要らない。自然に、軌道にさえ乗せれば、回転が自由であり、楽であり、その道は最初の計画通り、またそして方向転換をさせることもできる、というような時代に、人間の命、魂を、四段ロケットに乗せて、宇宙の軌道に乗せればいいという、あれで目的の月までも行けるのでありますから、この新しい禅の仕方が、理解もできるし、実践もできる。そこに、何の不思議もありません。
    このお互いの肉体を、一個の宇宙船として、天涯(外)に飛び立つのであります。まず、その方法から申しあげましょう。
    月に行くロケットは、一定の角度をもって、天に向かって発射いたしますけれども、この人間ロケットは、温かい、柔らかい、気持ちのいい、ベッドの上に仰向きに、まず体を横たえます。
    そして最初の準備、要領は、体全体を投げ出して、上向きに楽な姿勢をとる。手を垂れ、足を伸ばして、あくまでも自然、これが本当に、自然に成りきれれば、それでもう自然、禅に至る、というほどの体勢に成れるのです。
    そして、まず体の力を抜く。
    人間というものは、常に生きよう生きようとして、体の中に力を蓄えておくものであります。圧力がある。どんな人でも、常に圧力的でありますから、肉体の圧力というものを抜けるだけ、抜いてしまいます。
    肉体の圧力を抜く、などという話をしましても、聞いただけでは、なかなか分かりにくいかもしれませんけれども、いかにして生きている、という圧力を抜くか、もしそれを言葉で形容するならば、布団の上に仰向きに寝ているという、この姿が、もしこの布団が、天空に浮かんでいる雨雲の、あの白い綿のような雲の上に、自分が寝ていても、落ちることはない。雲の上にでも、仰向きに寝ていることができる、というほどの無重力状態、すなわち、重量のない、軽い、フワッとした、ただ体重もないほどの、静かな、自然な在り方、それには、体の重みを全部抜きさってしまう、ということが必要。
    物理的には、六十キロある人間は、どんな形をとろうとも、六十キロあるのですけれども、生きているとか、存在しているとかいうような気分を全く抜き取ってしまいますと、意識的にはゼロの状態になれる。静かな、身動きもしない、ソオーッとしていると、だんだん意識的には無重力状態になれる。無になれる。空になれる。
    この工夫で、しまいには意識を無くすることができる。結果的には禅定(ぜんじょう)に入っているのと同じような状態になる。
    しかし、これは言葉でそう言うだけで、そう簡単になれるものではありません。しかし、これは工夫しだいで、誰にでも成れる心境。
    この工夫をしてみていただきたい。これが一つ。
    それからまた、そうなるための工夫の二つには、布団の上に仰向きに体を投げ出しているという状況において、いつも人間は、生きているという状態にありますけれども、生かされているんだという、生かされているということに、本当に徹することができるならば、前に述べたような、真空状態になれるのです。
    生かされている、生かされているということが本当に分かるか、分からないか。私たちは、存在している人間一個である。一人である。
    それは生かされているという状態においての存在。そこには、生きるというような、いきり立っている、自己意識のある、自我性の強い人間ではなくて、何の誰、某(それがし)というような、名前もなければ、歴史もなければ、意識もなければ、何にもない。
    一個の人間が、そこに存在しているだけ。
    生かされているとか、存在しているというようなことは、すべて宇宙的、自然的なものであるという、そうした在り方、考え方で、生かされているということには、肉体一個があるけれども、精神だの、心だの、思うの、考えるのという自己的な自我性はない。ただ、存在するんだ。ただ、生かされているのだ。ということに徹すること。
    これに成れれば、さっき言う、無重力状態、人間、自己が、そこにあるのか、ないのか分からないほど、徹底した、色即是空的な存在に成る。空即是色的な存在に成ることができるのです。
    これも、自分の気持ちしだいで、これが体験できるのです。これも、こう言葉で言うだけで、実際にこうした体験・方法によって、こう成りきれるか、きれないか。ということは、やってみねば分かりません。
    素直な人は、こうした純真な状態になることが、わりあいに早いから、こういう禅の仕方は、むしろたくさんの知識や意識を持たない人、理屈を言わない人、ただやってみる人、言われた通りにやってみるという、理屈や文句を言わない人に、早く到達できる境地かもしれません。
    この要領によっても、なおかつ、そうなれない人は、第三の要領があります。
    それは、朝、目の覚めた時とか、昼間、仕事で疲れた時などに、床の上に体を仰向きに投げ出して、体の力を抜く。生かされているという状態に、自分の体を全部放り出してしまう。
    そうして、その時に、静かに息を吐くのです。息を吐くというのは、実に簡単なことでありますけれども、本当に息を吐く、自然に息を吐く。実は息を吐くということは、たいへん楽なのです。体を楽にするためには、息を吐くのがよい。
    息を吸うというのは、なかなか大変ですけれども、息を吐くというのは、わりあいに簡単。そして楽でありますから、まず息を吐いてください。何回も、何回も息を吐いてみると、だんだん大きな、長い、深い息が吐けるようになります。
    いっぺんに深い息をしようとか、長い、大きな息を吐いてみよう、などと無理をせずに、自然に、吐いては吸い、吐いては吸い、また吐いては吸い、というように、だんだん息を吐くことを大きく、深く、自然に、強めていきますと、まもなく臍の下まで、腹いっぱいに息が吸い込めるようになります。
    こんなことを幾日か続けておりますと、いや、一日三分間、五分間ずつでも、こうした体験を重ねておりますと、やがて自然に、全身呼吸ができるようになる。全身で呼吸する。手の先、足の爪先まで、息が入るかのような、大きな息ができます。
    半年、一年と体験いたしますと、すぐ全身呼吸ができるような人になります。これは深い呼吸というよりも、真なる呼吸、真呼吸、宇宙呼吸、細胞呼吸、などとも言えるように、全身の細胞に行き渡り、染み渡るような、大きな、徹底した呼吸ができます。
    しかもこれは楽で、楽しくて、爽快無比、何と言葉に例えようもない、大きな呼吸法。
    こうした呼吸ができるようになりますと、天地と我と一体、宇宙と我とが、一つものだという気分になる。
    意識でそう思うのではありません。そういう全身の感覚が、そうしたことを皮膚で感ずるようになります。これは豪気なもの、すばらしいもの。
    何と言葉や筆で形容しようもない境地、境地などというよりも、気分、感覚、そして生かされておりながら、生きているのだ、ということが分かるのです。
    むろん、静かに息を吸い込み、息を吐く。息を吐いて、吐いて、吐き抜いて、吐いた帰りには、自然に息を吸い込むことができるという、この往復運動、呼吸作用でありますけれども、これは宇宙と自己との間に、大きな生命の循環作用、生かされており、生きているという、他力と自力が繋がっての、生命の循環作用でありますから、非常に気分がいい。気持ちがよくて、楽しいことなのであります。
    もう私だの、自分だのというような意識はありません。禅でよく言う真空(しんくう)妙(みょう)有(う)などという、無一物中(むいちぶつちゅう)無尽蔵(むじんぞう)などという、ああいう言葉がそのまま当てはまるような、大きな自己、宇宙的な自己であることが、よく分かります。
    感覚があり、意識がある。確かに意識はある。けれどもそれは、妄想意識ではありません。雑念など少しもありません。統制された、精神統一の見事にできた、本当の意識、どんな問題にぶつかっても、びくともするような意識ではありません。
    目は瞑(つむ)っておってもよい。最初は目を瞑ってやるのがよいでしょうけれども、目を開けていても、ちっとも差し支えはない。
    続きが気になる方は、ぜひ河野十全で検索、もしくは
    真理生活研究所・人間社へご連絡くださいませ。
    kounojyuzen.com/

КОМЕНТАРІ • 1

  • @宇郷正貴
    @宇郷正貴 4 місяці тому

    ありがとうございます。