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木内鶴彦さんも死亡体験中に信長の意識に入って分かったこととして、表さんと同じように信長も明智光秀も生きていたと話されていました。
表先生の史観はいつも壮大で夢があってとてもロマンがあって好きです。
楽しい😊もっとお話し聞きたいです声も好き🩷
腑に落ちるお話ありがとうございます!
おはようございます。有難うございました。
実家が桔梗紋なので興味深かったです もっと知りたい気持ちです、ありがとうございました。
本能寺の事件が終わった後、奥様とご長男さまがお城の裏口から逃げて砺波にいらしたと聞いています。なぜ砺波にいらしたのか納得出来ました。母親の実家は当時、砺波の100石の庄屋で初田と言います。大広間に薙刀が掛けてあります。今の市くらいの大きさだったと聞いています。 ご長男は母親の実家の娘と結婚したと聞いています。母親は明智光秀さんは御先祖さまと言っていました。跡取りのおじさんからもそう聞いています。
うわ〜めちゃめちゃおもろい!こうなってきますと、アメリカのマンハッタンが「マン・オブ・秦」からきてるという逸話も思い出されます。大坂の街の向きを変えたような江戸の街、それを模して北米大陸に作ったとも言われてますが、世界史を進めていく上で、君主制から共和国という次のフェイズに上がるために、なにやら壮大な何かを見越しての動きがあったのかな、と思いました。大坂も江戸も城下町という民の栄えのために大規模に作られたもの、その意図は今の都市に直結しているし、民主制は日本発なのでは?うまく言えませんけど。。。
実に面白いです
東北のとある山の麓に生まれた者です。50年前の記憶ですが、部落内で夜集まって呪文みたいなものを唱えるということがありました。場所は決まってなく当番みたいな家があったのでしょうか。5歳前後の子供に魂を入れるとのことで、対象の子供はその家の仏壇の前で先生という人に大きな口を開けてなにやら儀式的なことを受けてました。記憶にはないが自分も受けたことがあるそうで、月に二回しょうじんの日があってその日は肉魚はたべられませんでした。お盆正月の16日には儀式を受けた家に行ってお参りをするのが決まりでた。実家を離れてからは、全く無縁になりましたが、密教的なことで訳は知りませんでした。
ありがとうございました!
天海は?光秀では?と言う説もありますが、表考察が聞いてみたいです。
いつも楽しいお話ありがとうございます。臨死体験で有名な木内鶴彦さんが臨死体験で、信長と光秀が仲良く福井県から船に乗ってバチカンに天下を取りに行った光景を見たと語っておられました。それを聞いた時に私は、何で日本をほっぽりだしたのかよくわからなかったのですが、今日先生の地球儀の話を聞いてすごく納得しました。ただ疑問点がありまして、確かに信長の遺体は見つかっていませんが、光秀は捕まって処刑されているのです。また明智家は裏切り者の代名詞として、その後とても不名誉な扱いを受けました。子々孫々の影響を考えると、敢えて裏切り者の芝居を打ったとは考えにくいのではないでしょうか。コメント欄には知見富んだ方も多いことと思います。どなたか教えていただければ幸いです。
明智光秀は処刑されている、というのは小栗栖で土民の竹槍に刺されて、というのとは違うのですか?
@@general_goldfingers あ!そうでしたね。ごめんなさい。処刑のことに関しては石田三成とごっちゃになってました。処刑はされていないですね
大きかったという越の國 を三つに分けたのも地域的便宜、以外の意図もあったということでしょうかね…。
小名木先生も去年だったか、同じ話してましたね。家康や光秀と語らって信長はバチカンに移ったとかなんとか。元ネタは表先生だったのかな。
ジョルダーノブルーノ、織田信長。バチカン市国の図書館で確認したらわかりそうですね。
織田信長と明智光秀の共通点は闇バイトかと。
まず守護大名にはなってないでしょw尾張の守護は斯波氏でしょう。織田信長が海外に出たなら織田家(信孝は秀吉に下され切腹、信雄)はなんであんなに没落したわけ?秀吉時代は領地没収で御伽衆にまで身を落とし徳川時代は山形の方の小大名なのに?そんな事を信長が生きてたら出来る訳が無い。信長が海外に出たなら信忠に家督を譲ってたんだからそのまま支配してればいい話なのでは?身分の卑しい秀吉に譲る必要もない。偽宮を宮様と崇めたり会談したりなんか胡散臭いなぁ
信長と光秀は異母兄弟
木内鶴彦さんも死亡体験中に信長の意識に入って分かったこととして、
表さんと同じように信長も明智光秀も生きていたと話されていました。
表先生の史観はいつも壮大で夢があってとてもロマンがあって好きです。
楽しい😊もっとお話し聞きたいです声も好き🩷
腑に落ちるお話ありがとうございます!
おはようございます。有難うございました。
実家が桔梗紋なので興味深かったです もっと知りたい気持ちです、ありがとうございました。
本能寺の事件が終わった後、奥様とご長男さまがお城の裏口から逃げて砺波にいらしたと聞いています。
なぜ砺波にいらしたのか納得出来ました。
母親の実家は当時、砺波の100石の庄屋で初田と言います。大広間に薙刀が掛けてあります。今の市くらいの大きさだったと聞いています。
ご長男は母親の実家の娘と結婚したと聞いています。
母親は明智光秀さんは御先祖さまと言っていました。跡取りのおじさんからもそう聞いています。
うわ〜めちゃめちゃおもろい!
こうなってきますと、アメリカのマンハッタンが「マン・オブ・秦」からきてるという逸話も思い出されます。
大坂の街の向きを変えたような江戸の街、それを模して北米大陸に作ったとも言われてますが、世界史を進めていく上で、君主制から共和国という次のフェイズに上がるために、なにやら壮大な何かを見越しての動きがあったのかな、と思いました。
大坂も江戸も城下町という民の栄えのために大規模に作られたもの、その意図は今の都市に直結しているし、民主制は日本発なのでは?
うまく言えませんけど。。。
実に面白いです
東北のとある山の麓に生まれた者です。50年前の記憶ですが、部落内で夜集まって呪文みたいなものを唱えるということがありました。場所は決まってなく当番みたいな家があったのでしょうか。5歳前後の子供に魂を入れるとのことで、対象の子供はその家の仏壇の前で先生という人に大きな口を開けてなにやら儀式的なことを受けてました。記憶にはないが自分も受けたことがあるそうで、月に二回しょうじんの日があってその日は肉魚はたべられませんでした。お盆正月の16日には儀式を受けた家に行ってお参りをするのが決まりでた。実家を離れてからは、全く無縁になりましたが、密教的なことで訳は知りませんでした。
ありがとうございました!
天海は?光秀では?と言う説もありますが、表考察が聞いてみたいです。
いつも楽しいお話ありがとうございます。臨死体験で有名な木内鶴彦さんが臨死体験で、信長と光秀が仲良く福井県から船に乗ってバチカンに天下を取りに行った光景を見たと語っておられました。それを聞いた時に私は、何で日本をほっぽりだしたのかよくわからなかったのですが、今日先生の地球儀の話を聞いてすごく納得しました。ただ疑問点がありまして、確かに信長の遺体は見つかっていませんが、光秀は捕まって処刑されているのです。また明智家は裏切り者の代名詞として、その後とても不名誉な扱いを受けました。子々孫々の影響を考えると、敢えて裏切り者の芝居を打ったとは考えにくいのではないでしょうか。コメント欄には知見富んだ方も多いことと思います。どなたか教えていただければ幸いです。
明智光秀は処刑されている、というのは小栗栖で土民の竹槍に刺されて、というのとは違うのですか?
@@general_goldfingers あ!そうでしたね。ごめんなさい。処刑のことに関しては石田三成とごっちゃになってました。処刑はされていないですね
大きかったという越の國 を三つに分けたのも地域的便宜、以外の意図もあったということでしょうかね…。
小名木先生も去年だったか、同じ話してましたね。
家康や光秀と語らって信長はバチカンに移ったとかなんとか。
元ネタは表先生だったのかな。
ジョルダーノブルーノ、織田信長。バチカン市国の図書館で確認したらわかりそうですね。
織田信長と明智光秀の共通点は闇バイトかと。
まず守護大名にはなってないでしょw尾張の守護は斯波氏でしょう。織田信長が海外に出たなら織田家(信孝は秀吉に下され切腹、信雄)はなんであんなに没落したわけ?秀吉時代は領地没収で御伽衆にまで身を落とし徳川時代は山形の方の小大名なのに?そんな事を信長が生きてたら出来る訳が無い。信長が海外に出たなら信忠に家督を譲ってたんだからそのまま支配してればいい話なのでは?身分の卑しい秀吉に譲る必要もない。偽宮を宮様と崇めたり会談したりなんか胡散臭いなぁ
信長と光秀は異母兄弟