【北条氏】北条五代100年に渡る栄華‐前編【日本史解説】【地図・地形図で日本史を見る】

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  • Опубліковано 23 гру 2024

КОМЕНТАРІ • 14

  • @ggome8169
    @ggome8169 Місяць тому +3

    また勉強になりました😊

    • @Nihonshi-Human-Drama
      @Nihonshi-Human-Drama  Місяць тому +1

      コメントありがとうございます!
      そして、いつもスーパサンクスありがとうございます!
      ものすごく励みになります!

  • @keji2205
    @keji2205 Місяць тому +4

    私が北条氏政なら、2万程度の兵を率いて、山中城での籠城戦で、死に物狂いの戦いをし、豊臣方の東海道の先陣を大いに叩いて、戦国大名「北条」の武名を高めたいところ。

    • @木場俊介-b9j
      @木場俊介-b9j 19 днів тому

      @@keji2205 さん
      島津がそれをやり、その結果、豊臣からも、徳川からも、島津はビビられる存在になりました。
      領民ファーストな北条には、これが出来なかった。小田原征伐はどう見ても、見せしめ。
      やっぱりどう考えても、北条氏政は、生まれた時代の都合で、ミソを付けられた殿様だと思います。
      無能では無いし、ポリシーがあった。

    • @木場俊介-b9j
      @木場俊介-b9j 18 днів тому

      @@keji2205 さん
      島津は、まさしく、豊臣を野戦で苦しめましたね。北条は、恐らく、領民ファーストでとりあえず領民や一族を小田原城に避難させた上で、被害を最小限に抑えて、籠城という形でせめてもの抵抗を示した、といったところ。
      最初から死ぬ気だったんでは。
      戦闘民族の島津と民政家の北条の性格の差でしょうね。
      豊臣も北条に対しては、主力部隊を投入しちゃってるので、言うなれば盛大なお葬式といった態で、敬意すら感じますね。

  • @木場俊介-b9j
    @木場俊介-b9j 20 днів тому +1

    家と領民を秤にかけて、領民の安寧を優先して関東を去った後北条氏。
    関東管領や鎌倉公方が成し遂げなかった関東の政情安定は、
    鎌倉幕府と、後北条氏にしか為せない事業だった。
    安土桃山になり、その意義は変わってしまったけど、
    北条五代がやってきたことは、近世に関東を去った事も含めて、正義だったと思います。
    徳川が内乱のない世を作ったので、後北条領内の政治的安定のインパクトは薄くなったけど、
    徳川がその制度を取り込んだ事もあるので、北条五代がおこなって来た事は無駄では無かった。

  • @野茂のものも飲も
    @野茂のものも飲も Місяць тому +5

    2:22 漢字が違うかな

    • @hiro-u3q2f
      @hiro-u3q2f Місяць тому

      鉢形で籠城してるはずの氏邦になっとる

    • @宇佐美省吾
      @宇佐美省吾 Місяць тому

      早雲庵 伊勢宗瑞だと思う。出来れば直して欲しいかな。

    • @hiro-u3q2f
      @hiro-u3q2f Місяць тому +1

      @@宇佐美省吾
      早雲?たぶんコメ主が言ってるのは氏規が氏邦表記になっていることを言ってると思うのですが

    • @宇佐美省吾
      @宇佐美省吾 Місяць тому

      ​@@hiro-u3q2fさん
      それもですが後北条氏の祖でもある伊勢宗瑞(新九郎)は直して欲しいと思ったので。

    • @Nihonshi-Human-Drama
      @Nihonshi-Human-Drama  Місяць тому

      コメントありがとうございます。漢字間違い、大変失礼いたしました。

  • @とらねこ-v3h
    @とらねこ-v3h Місяць тому +4

    もしかして、銀英伝のイメージでやってる?😂