日本人の究極の思想とは?吉田松陰や坂本龍馬は何者なのか!?浜崎洋介さん

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    1983年、京都生まれ。大阪府立大学 社会福祉学部卒業。普通の高校生として過ごしていた15歳のある日「北極老人(ほっきょくろうじん)」に出会い、占いの道に入る。
    9つの流派を極め5万件以上の鑑定歴を持つ北極老人から「北極流」を受け継ぎ、高校生ながら生年月日、手相、風水、方位、姓名判断などの様々な占いをマスター。
    また同時に、日本各地の神社の秘密や女神になる秘訣を口伝によって、のべ数千時間にわたって学ぶ。
    神秘体験は数知れず。 大学生時代から本格的に、人生相談(出会い、恋愛、結婚、夫婦関係、命名、子育て、就職、転職、人間関係、引っ越し、お金…、などの悩み)に乗り、3000人以上を開運へと導く。
    著書:「出会いの教科書」「書けば叶う」「龍の神様と出会うたった一つの方法」「神社ノート」「たった1日の参拝で人生が変わる! 六龍が導く神社ガイド」「開運秘伝 神社の秘密 出雲大社編」「なぜ日本人が世界を変えていくのか?」
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    #羽賀ヒカル #浜崎洋介 #保守 #思想 #政治 #右翼 #左翼

КОМЕНТАРІ • 191

  • @user-pg8ke4wl5m
    @user-pg8ke4wl5m 10 місяців тому +44

    今日の浜崎先生とひかるさんのお陰で、何故日本人が保守に辿り着くのかの本質が分かって来ました。
    まだまだ謎の多い日本人の根源的な人格形成には、何が影響してるのか❓に興味深々になりました。
    今日も再度学びたい内容でしたね。

  • @user-rm8nt4ze9x
    @user-rm8nt4ze9x 10 місяців тому +16

    私は難しい人物名とかは全然わかりませんですけど、ああー爽やかでとってもいいお話でした。こんな素晴らしい人達が居てくれるんですから日本は大丈夫です。皆んなが気がつくようにそして発心なるように、お世話をお掛け致します。宜しくお願い致します。石井弘子

  • @caseyc3276
    @caseyc3276 10 місяців тому +19

    この時代に最も必要とする内容で素晴らしいです👍ありがとうございます😊

  • @user-pp7te7qi9p
    @user-pp7te7qi9p 10 місяців тому +14

    本日も貴重な学び🪷有難うございます🌎盛り上がりますね~🌻🌸🌞

  • @icebluesolar2741
    @icebluesolar2741 10 місяців тому +51

    頭良すぎてびっくりです。今までのゲストと異次元

  • @user-me9nk6vc3r
    @user-me9nk6vc3r 10 місяців тому +19

    保守思想というものが何なのか分かりやすかったです。

  • @user-mi8he4sg9i
    @user-mi8he4sg9i 10 місяців тому +22

    そら、自分や自分の家族を守るのは当然の権利だというのが保守だからね。
    人間の自然に叶っている。

    • @espi1ritu4542eses
      @espi1ritu4542eses 10 місяців тому +10

      それらが守られる為に社会が安定的で平和的でなくてはならないでしょうしね。ということは私利私欲ではないし、自己犠牲でもないわけで、まぁつまり普通の至極健全な人類が育んできた在り方そのものだと思うんですよね。
      何なんですかね、あの破壊、混乱、混沌を生み出す気味の悪いあれらは。

    • @R5-622
      @R5-622 10 місяців тому

      @@espi1ritu4542eses 「私利私欲ではない」という言葉をみてふと思ったのですが、西洋映画とかスピとか(自分はスピ好きですw)で「私はすでに(みんなに、神に)愛されていた」というセリフをよく見るのですが、すごく奇妙に感じます。
      個人主義の行きつく先は「私利私欲」だと感じているから、いちいち「(誰かに)愛されている」と気づかないといけないのかなと思いました。
      道端で困っている人いたら普通に助けようと思う人が、私の知る限り、多いと思います。
      いちいち困っている人助けるのに、「あっこの人を自分は愛してる」と感じる人いないと思います。
      むしろちょっとした人助けは当たり前、お互い様的な。ちょっとした人助けして「自己犠牲」だと感じる人いるんかいな??
      最近、国家、家族を含む組織、社会システムについて考えているのですが、会社と会社員の関係が、共依存で、支配者と被支配者っぽくとらえられているのが、普通の人助けの心境に「自己犠牲」「何得?」という感覚を持ち込んでいるのかなと感じます。組織学ってあるのかな?

  • @rock69dynamite
    @rock69dynamite 10 місяців тому +29

    配信、感謝します。 ウヨクと国家主義者は違いますからね。

    • @gwdapwd16766
      @gwdapwd16766 4 місяці тому

      そこは同じじゃね?

  • @bintanglaut1467
    @bintanglaut1467 10 місяців тому +36

    ものすごい深いお話 めちゃくちゃ楽しかったです!
    浜崎さんとひかるさん、お年が近いのもあって
    やっぱりオッサンくささがないのがいい(・∀・)
    ここを解読して未来に繋げたい、という明るい保守思想の掘り下げ、日本人が元来持っていた哲学の体系を考えていこうという明るさがとてもいいです(*´ω`*)

  • @user-bz8tx5sq8k
    @user-bz8tx5sq8k 10 місяців тому +10

    情報と分析に感謝🇯🇵
    保守とリベラルは 相対して呼ばれます。
    しかし、多くの人は、古の教えを敬いながら、未来を求める立場ではないでしょうか?
    大きな差が出るのは、母国が好きか 嫌いか。つまり、愛国者か否かが大きいかと思っています。

  • @R5-622
    @R5-622 2 місяці тому +2

    羽賀さんと浜崎さんの組み合わせ好きだな❤すごく勉強になります。ありがとうございます😊

  • @user-oj8tz1uk7w
    @user-oj8tz1uk7w 10 місяців тому +11

    左翼と右翼の定義もまた、視点や立脚点で変わるからね。
    左翼と右翼という言葉は、あまり意味がないように思える。

  • @chako6450
    @chako6450 10 місяців тому +27

    明治維新はいろんな角度から見て深堀りして語って欲しいです。歴史の教科書には出てこない旧幕府軍、会津藩士こそ伝統的武士道、保守なのではと思います。

    • @gwdapwd16766
      @gwdapwd16766 4 місяці тому +1

      わたしは幕末に関しては公武合体派で佐幕派だからそれすごいわかる。
      明治維新は天皇の名の下におこなわれた革命みたいなもんだからね。

  • @user-pp7te7qi9p
    @user-pp7te7qi9p 10 місяців тому +13

    本日も、ありがとうございます🍊
    高度なお話に、勉強が必要だ、ということを、改めて学ばせて頂きました🙏
    お名前はお聞きしたことがありますが、お恥ずかしながら詳しいことは、、、と、話についていかれない内容ばかりでしたので、坂本龍馬さま、勝海舟さま、西郷隆盛さま、あたりの方々から、深めてまいりたく存じます✨
    吉田松陰さまとも関係があるとされる、信濃国松代藩士の佐久間象山さまは、どんな立ち位置でいらしたか、機会がございましたら、ご教示くださいませ🌍🍎
    日本のために、みなさま、感謝申し上げます🇯🇵⛩🌞

  • @keitokusk
    @keitokusk 9 місяців тому +3

    浜崎先生のお話しはいつも腑に落ちる

  • @user-ge2wx6tc5t
    @user-ge2wx6tc5t 10 місяців тому +8

    思考、思慮、勉強は楽しい。私達大人の日本人は全く勉強してないそうです。残念ですね…

  • @user-qk8lo7jw4x
    @user-qk8lo7jw4x 10 місяців тому +7

    青山議員は「”歴史に学べ”は”本を読め”」と語ってたが、浜崎さんはまんまの人やな

    • @his7776
      @his7776 6 місяців тому

      あの自称国士さんは、虚言癖ですのでお気を付けを。

  • @user-qv9kg3ez6z
    @user-qv9kg3ez6z 10 місяців тому +17

    ロマンス→左翼→右翼→「天」 自分の人生と当てはまってて笑ってしまった。わたしもこの順序だった。そして大都会を抜け出して畑耕してますね。カルチャーしてる( ´∀` ) 著書読ませて頂きたくなりました。羽賀さんもすごく楽しそう。

  • @yoshikohayashi2946
    @yoshikohayashi2946 10 місяців тому +5

    とても参考になりました。ありがとうございました。

  • @kainahomma4721
    @kainahomma4721 2 місяці тому +1

    🌷とても面白かったです🌷
    歴史と思想の流れが立体的に認識できました。
    本を読むだけではなく対談するっていい事だと改めて感じました‼️

  • @SA-ql8nl
    @SA-ql8nl 10 місяців тому +6

    信長のルーツは、確か神官では?(福井の劔神社)
    カオスではなく、信仰があって天下統一を目指したと私は思います。

  • @KPPUSD
    @KPPUSD 9 місяців тому +7

    こうゆう対談にひきこまれるのがTouTube の価値だね。

  • @user-hb7gt4zc2s
    @user-hb7gt4zc2s 2 місяці тому +1

    浜崎さんの意見は、他の方から聞けない見方で、凄く面白い!! 理解できる人が少ないのが、勿体ない! 賢い中学せい、高校生には聞かせたい!!聞かせてくれお父さんお母さん! 日本にはこんな意見の大人がいる事を知ってほしいんや!

  • @crossroad719
    @crossroad719 10 місяців тому +31

    統一教会と統一教会系議員が自称保守と言ってるの見たら笑いしかない。

  • @user-dx9ff4ku9k
    @user-dx9ff4ku9k 10 місяців тому +5

    保守の定義をされていますが 自分で考えて生きる このことが保守と思います

  • @user-xh6ye4yn8n
    @user-xh6ye4yn8n 3 місяці тому +3

    話し方って大事
    かつてのテレビで聴く日本人の日本語・話し方は美しかった
    抑揚・イントネーション・言葉使い ... 方言が悪いとは言わないが
    おかしな話し方はとても聞いていられない

  • @gamov1479
    @gamov1479 10 місяців тому +2

    面白かったです!
    全然関係ないけど羽賀さん、なんとなく麻生副総理に似てるような気がします

  • @toshmizu6227
    @toshmizu6227 10 місяців тому +4

    日本人の誇りを蘇らす動画(ペンキ画家ショウゲン あなたが日本人に生まれた理由 虫の音 虫の知らせ)と羽賀さんとのコラボが観たいです。子供達でもわかると思います。

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +2

    ・朱子学
    (しゅしがく)とは、南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。
    北宋・南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである[1]。また、陸王心学と同じく「理」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。
    成立の背景
    「宋明理学」および「道統」も参照
    唐・宋の時代に入り、徐々に士大夫層が社会に進出した。彼らは科挙を通過するべく儒教経典の知識を身に着けた人々であり、特に宋に入ると学術尊重の気風が強まった[2]。そのような状況下で、仏教・道教への対抗、またはその受容、儒教の中の正統と異端の分別が盛んになり、士大夫の中から新たな思想・学問が生まれてきた。これが「宋学」であり、その中から朱子学が生まれた[3]。
    ・陽明学
    (ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。西洋では朱子学とともに新儒学(英: Neo-Confucianism)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた[1]。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想とする[1]。
    ・水戸学
    (みとがく)は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)において形成された学風、学問である。第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成された。やがて第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。水戸学という呼称が生まれたのは天保期であり[1]、「天保学」とも呼ばれる[1]。
    儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある。
    概要

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
    出典検索?: "水戸学" - ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年7月)
    前期水戸学
    明暦3年(1657年)、水戸藩世子の徳川光圀は江戸駒込別邸内に史局を開設し、紀伝体の日本通史(のちの「大日本史」)の編纂事業を開始した[1]。藩主就任後の寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とした。
    当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かった。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。
    編纂過程においては、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、佐々宗淳、丸山可澄(活堂)、安積澹泊、栗山潜鋒、打越直正(撲斎)、森尚謙、三宅観瀾らがいる[1]。
    「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える(南北朝正閏論)。ただし、光圀においては北朝及び武家政権の確立を異端視するものではく、それらを名分論のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった。
    光圀死後も編纂事業は継続されたが、元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は50年間ほど中断状態となった。
    後期水戸学
    「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心として再開される[1]。
    この頃、藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感が強まっていた一方、水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まることなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革を目指した。翠軒の弟子には小宮山楓軒、青山延于らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷は対立を深める[1]。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。幽谷の門下、会沢正志斎、藤田東湖、豊田天功らが、その後の水戸学派の中心となる[1]。
    文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる(大津浜事件)。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。
    天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが『弘道館記』であり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・藤田東湖であり、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。
    徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近である改革派の家臣たちも同様に謹慎を言い渡された。
    この謹慎中に藤田東湖が執筆したのが『弘道館記』の解説書である『弘道館記述義』である。この中で、東湖は本居宣長の国学を大幅に採用し、儒学の立場から会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化とともに広範な民衆動員を図る思想[要出典]は弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えた。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」は、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。
    嘉永6年(1853年)のペリー来航は水戸藩改革派の復権をもたらし、斉昭は幕政参与に就任、東湖らも斉昭側近に登用され、農兵の編成などの軍事改革が進められる。しかし、安政の大地震で東湖は死亡し、安政の大獄で斉昭が再度処罰されるに至って、水戸藩は政治的・思想的な混迷を深めていくことになる。
    水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

  • @user-qk7zz3vr5r
    @user-qk7zz3vr5r 10 місяців тому +3

    天は直感、そして、信仰、祈り。コレは腑におちる。だけど理屈で証明できない。禅とか?直感なんだけと。その辺りは?どうでしょう?老師とかのとの関係性はいかが?

  • @user-uh1vy4dp6o
    @user-uh1vy4dp6o 2 місяці тому +1

    最近きずいたが
    浜崎先生は石原慎太郎について語りませんね。

  • @user-mr1dm9rn1k
    @user-mr1dm9rn1k 10 місяців тому +1

    武士の背中を押すために天という存在が必要であった。そのような状況の中で陽明学が広まっていった。明治維新になり、維新の志士たちは西洋に続けというリアリティに目覚めて海外に留学して西洋を学んだ。陽明学とは歴史の扉を開けるために必要であった。ただ、その思想は維新とともに消える運命でもあった。というところでしょうか?新たな時代を迎えるために我々は何を必要とするのだろうか?という考えに行き着きますね。

  • @taihan5971
    @taihan5971 10 місяців тому +5

    司馬遼太郎の小説に翻弄してはなりません。
    江戸時代の寺子屋教育を戻さないと日本は崩壊するのだと私は、そう思います。

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

    小林 秀雄
    (こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月11日[注釈 1] - 1983年〈昭和58年〉3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。
    人物
    日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。[要出典]アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。[要出典]
    妹の高見沢潤子[注釈 2]は、作家・随筆家。夫は『のらくろ』で知られる漫画家の田河水泡。
    長女・明子の夫は、白洲次郎・正子の次男・兼正。従弟は英文学者の西村孝次、西洋史学者の西村貞二。文藝評論家の平野謙は又従弟[注釈 3]。
    経歴
    1902年(明治35年)4月11日、東京市神田区(現在の東京都千代田区)猿楽町に小林豊造、精子の長男として生まれた。本籍地は兵庫県出石郡出石町鉄砲町。父豊造は[注釈 4]、ベルギーアントワープ市でダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術と機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった[1]。また日本で最初に蓄音機用のルビー針を作るなど、数々の技術を開発している。1915年(大正4年)3月、白金尋常小学校を卒業。同年4月、東京府立第一中学校入学。同期に迫水久常、西竹一ら、一期上には富永太郎、蔵原惟人、河上徹太郎(神戸一中から編入)らが在学していた。1920年(大正9年)3月、府立一中卒業。第一高等学校受験、不合格。1921年(大正10年)3月、父豊造没。同年4月、第一高等学校文科丙類入学。
    1925年(大正14年)4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同級生に今日出海、中島健蔵、三好達治らがいた。同月富永太郎を通じて中原中也を識る。同年11月、長谷川泰子と同棲。1928年(昭和3年)2月、富永の弟次郎を通じて大岡昇平を識る[注釈 5]。同年3月、東京帝国大学卒業。同年5月、単身家を出て大阪に行く。後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。長谷川泰子との同棲関係は解消。1929年(昭和4年)9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論第二等入選作として発表された。なお一等は宮本顕治『「敗北」の文学』であった[注釈 6]。1930年(昭和5年)4月、『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。1932年(昭和7年)4月、明治大学に文芸科が創設され、講師に就任し、日本文化史、ドストエフスキー作品論などを講じた。
    1933年(昭和8年)10月、文化公論社より宇野浩二、武田麟太郎、林房雄、川端康成らと『文學界』を創刊。1935年(昭和10年)1月、『文學界』の編輯責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。
    1938年(昭和13年)3月、「文藝春秋」特派員として中国大陸に渡り、上海を経て27日、杭州で火野葦平に第六回芥川賞を渡す。小林秀雄は6月に明治大学文芸科教授に昇格した[3]。
    1940年(昭和15年)4月、『文學界』の編輯委員を辞任する。
    1946年(昭和21年)2月、 「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」[注釈 7]。同月『無常といふ事』を創元社より刊行。同年5月、母精子没。同年8月、明治大学教授辞任。同年12月、青山二郎・石原龍一と『創元』を編集、「第一輯 梅原龍三郎特集」で『モオツアルト』を、「第二輯 幸田露伴特集」で『「罪と罰」について』を発表。1948年(昭和23年)4月 - 創元社取締役就任。1951年(昭和26年)3月、第一次『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞[4]。1953年(昭和28年)1月、『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。1958年(昭和33年)12月、『近代絵画』により野間文芸賞受賞。1959年(昭和34年)12月、日本芸術院会員となる。1961年(昭和36年)10月、創元社取締役辞任。1963年(昭和38年)11月、文化功労者に顕彰。1965年(昭和40年)6月、『本居宣長』を「新潮」に連載開始(1976年(昭和51年)まで)。1967年(昭和42年)11月、文化勲章を受章。1978年(昭和53年)6月、『本居宣長』により日本文学大賞受賞。
    1982年(昭和57年)3月、尿道痛と血尿のため川崎市立川崎病院に入院。膀胱腫瘍と診断される。7月、慶應義塾大学病院で膀胱全摘出手術を受ける。9月末、退院し自宅静養。1983年(昭和58年)1月、腎不全を起こしたと見られる。慶應義塾大学病院に再入院したが2月末に容体が悪化し、1983年(昭和58年)3月1日午前1時40分、腎不全による尿毒症と呼吸循環不全のため慶応義塾大学病院で死去[5]。
    逸話等
    小林の批評は個性的な文体と詩的な表現を持ち、さまざまな分野の評論家、知識人に影響を与えた。小林がもたらした新時代の批評形式に対して、創造的批評、という評語が文学界に現れた[注釈 50][46][47][48]。文学の批評に留まらず、西洋絵画の評論も手がけ、ランボー、アラン、アンドレ・ジッド、サント・ブーヴ、ジャック・リヴィエール等の翻訳も行った[49]。酒癖は悪く、深酔いすると周囲の人にからみ始め、相手が泣き出すか怒り出すまでやめなかったという。日本語の通じないアメリカ兵まで泣かせたという伝説が周囲で囁かれていた[50]。鎌倉市に在住[注釈 51]し、文化遺産や風致地区の保存運動にも影響力をもっていた。
    系譜
    小林家の祖先は信州上田である。1705年(宝永2年)信州上田藩から仙石政明が但馬出石藩に入部し、1871年(明治4年)の廃藩置県まで出石藩は仙石氏が支配した。小林家はその仙石氏の家臣だった。小林秀雄の父豊造は兵庫県出石町の在、資母村東里の農家清水家に生まれ、7代目小林友右衛門、富子夫妻の養嗣子となった。
    - 郡司勝義[注釈 52]『小林秀雄の思ひ出 その世界をめぐって』(文藝春秋、1993年(平成5年))、107 - 108頁

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +2

    ・藤原 惺窩
    (ふじわら せいか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原および籐(とう)を公称した。
    生涯
    永禄4年(1561年)、公家の冷泉為純の三男として下冷泉家の所領であった播磨国三木郡(美嚢郡)細川庄(現在の兵庫県三木市)で生まれた。
    長男でもなく、庶子であったため家は継がず、上洛し相国寺に入って禅僧となり、禅と朱子学を学んだ。儒学を学ぼうと明に渡ろうとするが失敗に終わった。その後朝鮮儒者・姜沆と交流し[2]、その助力を得て『四書五経倭訓』を著し、それまで五山僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学も受容するなど包摂力の大きさが特徴である。近世儒学の祖といわれ、門弟のなかでも特に林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の4人は惺門四天王と称された。和歌や日本の古典にも通じており、同時代の歌人木下長嘯子とは友人であったと言われる。豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じており、家康には仕官することを要請されたが辞退し、門弟の羅山を推挙した。主著に『寸鉄録』『千代もと草』『文章達徳綱領』がある。
    また、実家の下冷泉家は、播磨の所領において戦国大名の別所氏に攻められ当主が戦死し没落した。このため、惺窩が尽力し弟の為将を新たな当主に擁立することで下冷泉家を再興させた。惺窩自身は庶子でもあり、自ら下冷泉家の当主の座に就くことはなかったが、為将の死後、長男の為景が勅命により当主となった。
    元和5年(1619年)死去、享年59。
    人物
    個人の修養を重視し、朱子学に傾倒するも、仏教には寛容であった[3]。
    生誕地
    藤原惺窩の生まれた兵庫県三木市細川町に、「生誕の地」の石碑と銅像がある。
    門下
    林羅山
    那波活所
    松永尺五
    堀杏庵
    石川丈山
    片山良庵
    角倉素庵
    戸田為春
    木下勝俊
    石田三成
    石田正澄
    小早川秀秋
    関連項目
    正龍寺 (指宿市)
    ・林 羅山
    (はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる[注釈 2]。
    ・中江 藤樹
    (なかえ とうじゅ、1608年4月21日(慶長13年3月7日) - 1648年10月11日(慶安元年8月25日))は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した[注釈 1]。
    経歴
    高島郡小川村で農業を営む中江吉次の長男として誕生[注釈 2]。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。
    1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で私塾を開く。これが藤樹書院である。1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。
    やがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられた。
    1646年(正保3年)妻・久が死去。翌、1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。1648年(慶安元年)41歳で死去[注釈 3]。墓所は滋賀県高島市玉林寺。
    代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔などがいる。
    ・熊沢 蕃山
    (くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) - 元禄4年8月17日(1691年9月9日))は、江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後に助右衛門と改む、蕃山と号し、また息遊軒と号した。
    生涯
    生い立ち
    京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれる。幼名は左七郎。8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗ることとなった。
    藤樹門下
    寛永11年(1634年)池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で、輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕する。寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず、一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻る[1]。寛永19年(1642年)伊予国大洲藩を致仕し郷里の近江国小川村(現・滋賀県高島市)に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。
    ・石田 梅岩
    (いしだ ばいがん、貞享2年9月15日(1685年10月12日) - 延享元年9月24日(1744年10月29日))は江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の開祖。諱は興長。通称、勘平。丹波国生まれ。小栗了雲門下。
    略歴
    丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市東別院)に、父石田権右衛門、母たねの次男として生まれる[1][2]。1692年、8歳で京都の商家に丁稚奉公し、7ヶ月ほどで故郷に戻ったが、1707年には再び奉公に出て商家の黒柳家で働く[1]。1724年ごろ、石門心学と呼ばれる独自の哲学を樹立し、1727年には黒柳家を辞し、1729年(享保14年)45歳で自宅に講席を設け、生涯を布教に努めた[1]。梅岩の講義は受講に際して紹介が一切不要、かつ性別も問わない無料の講座であった[3]。
    梅岩の思想の要諦は、「心を尽くして性を知る」、すなわち人間を真の人間たらしめる「性」を「あるがまま」の姿において把握し、「あるべきよう」の行動規範を求めようとする点にある[1]。この点において、武士も庶民も異なるところはなく、士農工商の身分は人間価値による差別ではなく、職分や職域の相違に過ぎないとする[1]。梅岩自身は自らを儒者と称し、その学問を「性学」と表現することもあったが、手島堵庵などの門弟たちによって「心学」の語が普及した。1744年、60歳で死去。東山鳥辺野の延年寺[注釈 1]に埋葬される[4]。
    主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。大正6年(1917年)、正五位を追贈された[5]。
    人物・人柄
    生まれつき理屈者で、幼年のころより友に嫌われていたと語っており、そのため反骨心が強かったとされる[10]。
    在野(民間研究者)上がりの学者である石田を無学で文字に疎いと批判した者に対し、「文字がなかった昔に、忠孝はなく、聖人はいなかったとでもいうのか。聖人の学問は行いを本とし、文字は枝葉なることを知るべし」といい、自ら徳に至る道を実行せず、ただ文字の瑣末にのみ拘泥しているのは「文字芸者という者なり」と痛烈に反論した[11]。
    町人の遊芸には批判的であったが、「今にては、朋友の交わり(社交)も多く、謡・鼓・茶の湯なども心がけなくては、交わりは悪く候」と社交のための諸芸を認める発言はしている[12]。
    武家を「農工商の頭」として、封建制に関しては是認したが、「下々に生まるればとて人に変わりのあるべきや」と述べ、庶民間では互いに対等であると主張し、さらに(政治上ではなく)社会的な職人上では武家も商人も対等であるとした[13]。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

      佐藤 一斎
      (さとう いっさい、明和9年10月20日(1772年11月14日)[1]- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は、美濃国岩村藩出身の儒学者。諱は坦(たいら)[1]。通称は捨蔵[1]。字は大道[1]。号は一斎のほか、愛日楼[1]、老吾軒。
      儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため[1]、昌平黌の儒官(総長)を命じられ[1]、官学の総帥として重きをなした[1]。朱子学を専門としつつも、中井竹山の指導によって陽明学も修め、学問仲間から尊敬をこめて「陽朱陰王」と呼ばれた[1]。門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂、池田草庵、東沢瀉、吉村秋陽、安積艮斎、中村正直、林靏梁、大橋訥菴、河田藻海、竹村梅斎、河田迪斎、山室汲古、北條悔堂、森光厚、森光福など、いずれも幕末に活躍した英才が多数いる[1][2]。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。
      ・佐久間 象山
      (さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階は贈正四位(1889年)[1]。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。松代三山の一人。
      真理に忠実であろうとする象山の態度は、当時の体制および規範から見れば誤解を受ける要因ともなった。
      象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かすと、蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、さらには牛痘種の導入も企図していたという。嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた。ここに勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門している[16]。
      ・山田 方谷
      (やまだ ほうこく)は、幕末期の儒家・陽明学者、備中松山藩士。
      方谷は号。諱は球(きゅう)、字は琳卿(りんけい)、通称は安五郎。備中聖人、小蕃山と称された[1]。
      方谷は、王陽明の『伝習録』から自得するところのあった部分を抜き書きした『伝習録抜粋』(序文のみ現存)を作成し、その序文の中で朱子学と陽明学を比較して論じた[168]。
      朱子学の利点は、初心者でも学問の順を追って学べば深く学ぶことができる[169]。しかし、我が心の内を忘れて我が心が得心しているかは問わないという欠点があった。
      一方、陽明学の利点は、我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、十分な知識を得た人物が学べば道理をより正しく判別でき、事業において成果を出すことができる[169]。しかし、未熟な人物が学ぶと独善に走って努力を怠り、道理の判断を誤ることが多いという欠点があった[169]。
      方谷は弟子達から陽明学の教えを請われても安易に教えることはせず、まず朱子学を深く学ぶことを諭した[170]。これは、先述した陽明学の欠点を熟知していたことによる[171]。方谷は朱子学を十分に習得した上で、なお疑問を持って陽明学を学ぶことを希望した者にだけ陽明学を講義した[172]。
      至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。例えば、他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという[173]。のち至誠惻怛の精神は福西志計子らを通して石井十次、留岡幸助、山室軍平、中島重らに影響を与えていった。それはとりもなおさず、日本の福祉の歴史においても大きな影響を与えたことを意味する[174]。
      ・二宮 尊徳
      (にのみや そんとく)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎(きんじろう)と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い[1]。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している[2]。
      経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した

  • @user-ke9ci1gn4m
    @user-ke9ci1gn4m 2 місяці тому +1

    お二人には(特に浜崎先生には)招魂社を語ってほしい。
    坂本龍馬達が祀られた京都招魂社の東京支社が靖国神社の始まりと言っていいだろうが、これは何なのか。
    明治期の新興宗教だったのではないか。
    教祖は誰なのか?天皇?
    よくわからないまま、明治天皇制の象徴となった。
    これはお二人のいう「保守」なのか?
    「鎮魂」と「招魂」は似て非なる言葉だ。
    しかも坂本龍馬は東インド会社の活動家とも言われる(「竜馬」は私も好きだが)。
    その人物が祀られ、明治の社会OS書き換えの中心となっており、西郷隆盛達もそこに乗っている。
    お二人のお話をお待ちしています。

  • @cokebondscokebonds4157
    @cokebondscokebonds4157 2 місяці тому +1

    羽賀も浜崎も徳がないから、何もなせませんよ。

  • @youhei3700
    @youhei3700 10 місяців тому +6

    日本で一番の保守は、本居宣長だと思う。

  • @hogohogehage
    @hogohogehage 10 місяців тому +9

    ビジネス保守が幅利かせてて
    マンドクセーですな

    • @R5-622
      @R5-622 10 місяців тому +2

      それだね(´・ω・`)

  • @user-vy4ug8ru4c
    @user-vy4ug8ru4c 10 місяців тому +1

    現在から視て【北 一輝】や【大川 周明】の思想も議論して欲しいですね。
    ”革新右翼” と ”国家社会主義” の理念は日本人には合わないんですよね!

  • @user-xc6jx9eq6o
    @user-xc6jx9eq6o 2 місяці тому

    この人の話を要約すると、「今の日本人はダメだ」これしか言ってない。
    悪いが中身がない。

  • @eegge100
    @eegge100 8 місяців тому +1

    社会的存在である私達は歴史(伝統文化)を伝承する「保守的存在」であり、リベラルとか左派といったわけのわからない存在はありえないということになります。歴史の最先端に立つ私達だからこそ未来のあるべき方向に進むことができますが、自らが何処にいるのかわからないリベラルが何処に行くかを決められるわけがないのです。レベラルは「主体なき理性」であるといった三島由紀夫はさすがです。
    日本人の究極の思想は西田哲学以外にあり得ないと思います。欧米の人権・自由・民主主義は行き詰まってきました。それを打開するために、近い未来、必ず西田哲学が浮上すると思います。

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +5

    教養
    (きょうよう)とは、個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。
    概説
    一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す。
    「教養」に相当するギリシア語は“パイデイア”であり、意味は「子供が教育係に指導されて身についたもの」のことである。英語ではcultureで「粗野な状態から耕された、人の手を経たもの」、ドイツ語ではBildungであって「つくられたもの」のこと。それぞれに教養の捉え方に対する文化的な差がある。
    また、「教養」は、伝統的に、西欧の高等教育で扱われてきているリベラル・アーツに相当するものとしてもとらえられる。これもギリシア時代の自由人のための学問に起源を発する。しかし、現代の日本では「パンキョウ」(一“般教”養)という語に代表されるように、大学の専門課程よりも前の課程で習得されるべき広範な一般的基礎知識を指すに終始することが多い。
    「あの人は教養がある」というように口語的に用いられる場合は、人付き合いや社交の場において、洗練された会話や身のこなしができる能力を示すことが多い。これには多分に人間的評価の意味が含まれており、逆に、「教養がない」という表現で常識のない人間や品位や人格に問題のある人間をそしることがある。
    しかし、これらは必ずしも正確ではない。教養ある人間、すなわち、教養人が相応の尊敬を得るのは、単に知識が豊富な状態(博識)に留まらず、人間性という実を伴うためである。仮に、現状の知識が乏しいからといって、その状況は非難される性質ではない。知識を求めて学ぶことで品位と人格を高めようとする心構えが重要と考えられる。
    ほかには、教養を市民的器量およびそのための自律や自己形成だと定義するものもある[1]。
    教養の変遷
    教養の内容は時代・社会とともに変化する。また教養が成立するには社会の一定の範囲に共通の価値観が存在していることが必要である。以下に近代以前の伝統的な教養の例を挙げる。
    ヨーロッパの伝統的教養観は上流階級同士の社交界において洗練された振る舞いや会話を楽しむ能力、およびそれに必要な知識や文化的素養であった。バルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人』(it)がその規範とされている。
    中国では科挙の権威を軸として、四書五経を学ぶことや漢詩に通じることが教養とされていた。
    日本では古代中国の影響を強く受けるかたちで四書五経や漢詩は伝統的に重要視されてきた。やがて日本独特の諸文芸や和歌がこれらと並ぶようになった。文人画などの絵画を自ら描くことも教養の一部を担っている。
    上記のように、古典に通じ、ハイカルチャーを身につけることが伝統的な教養の重要な要素であったといえる。これらはいずれも人格向上の一助とされてきた。
    近代以降は出版技術の発達に始まり、大衆の地位・経済力向上などによる普通教育制度の確立、マスメディアなどの普及により大衆が教養を身につける機会は増加していった。
    日本近代の「教養」
    明治初期に学制が定められ近代的な教育体系が創出されていったが、そこでは欧米の文物(特に科学技術など)を学ぶことが最優先とされた。日本の伝統的な教養の中心であった漢学は軽視され、欧米の教養であるギリシャ・ローマの古典に対してもそれほど関心は寄せられなかった。
    日本で題名に「教養」と冠した書籍を探してみると、『国民の教養』(加藤咄堂、1901年)が古い例で『女子教育家庭教養法』(秋山七朗ほか、1902年)、『嬰児教養』(子女教養全書、下田歌子、1902年)、『人格と教養』(青年修養叢書、大原里靖、1907年)などの例がある。20世紀始めころに、子供を教え養う教育法という意味と、人格に結び付いた教養という意味と、両者の用法で使われていたことがうかがわれる。
    明治末から昭和戦前期の旧制高校では読書による人格形成を目標とする教養主義の傾向がみられた。西洋哲学が流行し、カントの『純粋理性批判』や西田幾多郎の『善の研究』などの哲学書、文芸書は当時の必読書であった。また、教養主義という学生文化の牽引には、総合雑誌が大きな役割を果たした。『中央公論』『改造』『経済往来(日本評論)』等の雑誌に載る論文が読まれた[2]。こうした総合雑誌や難解な哲学書をときには原書で読み、学生同士で夜を徹して議論をすることもあった。全国から学生が集まり、寮で共同生活を送る旧制高校においてお互いに見栄を張る要素もあったが、共通の会話を成立させ、互いの向上を図るものでもあった。
    夏目漱石は日本・中国・イギリスの古典、文芸に通じ、俳句や漢詩、書画もたしなむ教養人であった。漱石の周囲で育った阿部次郎、寺田寅彦らは個人の人格を重んじる立場で大正教養主義と呼ばれた。1938年、「現代人の現代的教養」を目的とした岩波新書が刊行されたが、岩波書店創業者の岩波茂雄も漱石門下であった。
    河合栄治郎は軍部が台頭する暗い世相の中で、学生を教養主義に生きるべく、『学生に与う』『学生叢書』を刊行した。『学生叢書』は昭和戦前期の教養主義のマニュアル本とされた[3]。
    第二次世界大戦後、旧制高校が廃止され、かわりに大学の教養課程(教養部)ができたが、一種の人格の修練場であったかつての旧制高校の雰囲気・傾向は1970年代ごろまで続いた[4]。『世界』『中央公論』『展望』『思想の科学』『朝日ジャーナル』『潮』などの総合雑誌を読むことが、学生の半数を超えるわけではないが(3割程度という)、規範文化という位置を持っていた[5][注釈 1]。やがて大学の教養課程の科目は、一般教育科目を中心に、俗にパンキョウと呼ばれ、専門課程を迎える前に消極的に履修する必修科目群という扱いを受けることが多くなった。
    1958-1960年に刊行された叢書『現代教養全集』(筑摩書房)から当時の教養観がうかがえる。全集の内容は、戦後の社会、戦争の記録、マスコミ、日本人論、友情・恋愛・結婚、文学、日本の近代、日本の文化、経済、教育、宇宙時代など諸般の事物におよぶ[注釈 2]。ここでは、日本・欧米の古典に通じるとともに、現代の政治・経済・社会に及ぶ諸問題に一家言を持つような人(丸山真男、林達夫、桑原武夫など)が「教養人」と考えられていたようである。
    1960年代ごろまで大学でみられたこうした教養主義は[7]、高等教育がマス段階になり大学が大衆化していった変化[注釈 3]、ビジネス技術学などが導入され始めた変化[9]、ホワイトカラー人口と農漁村人口が逆転した変化[注釈 4][注釈 5][注釈 6]とともに廃れていった。それにともなって、文化が持つ3つの作用「適応」(適合や実用性)、「超越」(理想主義)、「自省」(自身の妥当性・正当性・正統性を自問すること)のうち、適応が肥大化し、超越・自省が衰退していったという[13]。
    これからの教養
    大規模な対話型講義は哲学や倫理などの学問に向いており、大学や高校、中学でそれが広く行われることになれば、学生は「自分自身で考える」ことを学ぶことになり、それは哲学的思考が広がっていくことを意味し、現在軽んじられていく一般教養の復興につながり、それは新しい「知」が生まれる可能性の期待と、「美徳」の再生の期待をはらむという[14][注釈 7]。また大学がマス化していった結果、より高等な大学院・博士課程に教養を求める結果となっている。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

      リベラル・アーツ
      (英語: liberal arts, ラテン語: artēs līberālēs)は、『大学事典』で自由な知的探究のためのディシプリンの総称とされている[1]。(「ディシプリン」は規律・統制・学科などを指す[2]。) リベラル・アーツは「自由学芸」や「教養諸学」とも呼ばれており[1]、学術論文では自由人の諸技術とも表記される[3][4]。
      リベラル・アーツは「実用的な目的から離れた純粋な教養」や「一般教養」とも[5]、または人文学・芸術・自然科学・社会科学などの分野の基礎知識を横断的に学ぶプログラムともされる[6]。その由来は古代ギリシア・ローマ時代に誕生した「自由七科」であり、これは中世までヨーロッパで教えられていた[7]。
      現代のリベラル・アーツ教育
      「リベラル・アーツ・カレッジ」および「教養学部」も参照
      現代英語としてリベラル・アーツ(liberal arts)は「一般教養科目」や「学芸,文芸」や「人文科学」を指す[8]。『大学事典』によれば近代以降、リベラル・アーツは主に中等教育で扱われるようになり、大学では稀(まれ)だという[1]。アメリカ合衆国においてリベラル・アーツは、リベラル・アーツ・カレッジや伝統的な私立大学の理念として続いているが、20世紀中頃からはむしろ市民統合のための「ジェネラル・エデュケーション」(一般教育)が試みられている[1]。
      前掲書は自由人のたしなみか,それとも解放のための技芸かという,リベラルアーツがその起源から抱える問題は,現代においてもなお解決されてはいないと締めくくっている[1]。
      大学による定義
      国際基督教大学はリベラル・アーツについて、米国カレッジ・大学協会(AAC&U)による以下の定義を引用している[9]。
      個人の能力を開花させ、困難や多様性、変化へ対応する力を身につけさせ、科学や文化、社会などの幅広い知識とともに、より深い専門知識を習得させるための学習方法
      同協会元理事のレベッカ・チョップいわく、リベラル・アーツでは次の三要素の育成が重視されている[10]。
      クリティカル・シンキング:分析・探求・回答のための論理的意見の形成に必要であり、分野としては人文学・芸術・心理学・数学・科学など幅広い。
      道徳心・市民性:課外や地域社会での活動、キャンパスにおける他学生や教員との交流による人間性の育成。
      知識の汎用性:キャンパス内外での経験を統合し、授業で得た知識の汎用性を高め、多面的に諸問題を議論する。
      2023年の北コロラド大学とネブラスカ大学によれば、リベラル・アーツという分野が教育しているのは人文学、社会科学および「市場向きの技能」[11]や「仕事に活かせる必須の実用的技能」である[12][注釈 1][注釈 2]。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      その他
      一方で「StudyInTheUSA」と「ベネッセ海外進学・留学ラボ」によれば、リベラル・アーツとは、特定の職業に直結するような専門知識・スキルよりも「幅広い教養を身につけ、将来さまざまな分野で活躍できるような高い教養を有するバランスの取れた人間の育成[注釈 3]」に重点が置かれ、細かな専門分野を定めずに、さまざまな分野で幅広い選択肢を提供する学問領域である[13][14]。
      リベラル・アーツカレッジの学際性
      リベラル・アーツ・カレッジの場合、入学時に専攻を決める必要はなく、1年目・2年目は自分の好きな科目を履修し、様々な分野を学び、3年次までに専攻をするが、一度決定した後も、専攻は変更することが出来る。
      専攻を決定後も、引き続き、自分の好きな授業を履修できる点や、自分の専攻テーマに対する学際的なアプローチ(ビジネスを専攻した場合、ビジネス理論だけでなく歴史や科学などの視点からの考察も出来るなど)が可能になる点も特徴である。
      ダブルメジャー(まったく異なる2つの専攻を学ぶ)や、ダブルディグリー(2つの学位を取得できる)の制度を採用している学校もある[15] [16]。
      古代ギリシア・ローマ~現代までの歴史
      概史
      『大学事典』によると古代ギリシアの自由人は、「さまざまなアーツ(学芸)を学んでパイデイア(教養)を身につけようとした」[17]。それらアーツは「エンキュクリオス・パイデイア」(円環をなす教養)と呼ばれ、古代ローマではキケロやウァロによって「アルテス・リベラレス」(リベラル・アーツ=自由人に相応しい諸学芸)と呼ばれ、リベラル・アーツは西欧近代における人文学的教養の基盤となった[18]。
      「アーツ」、「テクネー(技術知)」、および「古代ギリシア・ローマ世界」も参照
      なお、ギリシア語の「テクネー」(technē)はラテン語の「アルス」(ars)に相当する[19](アルスは「アルテス」の単数形[20])。プラトン哲学やアリストテレス哲学では、技術(テクネー)は次のようにも言われている[21][22][23]。
      《本質についての理論的知識(ロゴス)を持つ働き》[21]
      《知識 エピステーメー》と同義[22][23]
      《真の理知(ロゴス)を伴う制作能力》[21]
      《学問的かつ経験的で普遍的かつ個別的な真理認識の能力》[21]
      アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、こう述べている[24]。
      実際、真に善き人や思慮深い人とは、あらゆる運不運に立派に耐え、与えられた状況のもとにそのつど最善のことを為す人だとわれわれは思っている。
      それはちょうど、すぐれた将軍がいまある軍隊をもっともうまく戦えるように用いたり、すぐれた革職人が与えられた革からもっともできの良い履き物を作ったりすることと同じである。そして、同じことがほかのあらゆる技術にも当てはまる。[24][注釈 4]
      デルフト工科大学の技術哲学者かつ元建築家であるジョン・R・デイカーズ[28]の著書は、アーツ、リベラル・アーツ、テクノロジーなどの歴史的経緯を次のようにまとめている[20][29][注釈 5]。
      リベラル・アーツの由来と近代化
      時代区分 用語や概念 伝統的な哲学の言説
      古代ギリシア
      テクネー(技術知)
      テクネーに関する言説
      古代ローマ
      アルス(技術知)/テクネー
      アルス/テクネーに関する言説
      アルテス・リベラレス(自由学芸)
      アルテス・メカニケー(機械学芸)
      中世~近世ヨーロッパ
      アート(学芸/技術/芸術)/アルス/テクネー
      アート/アルス/テクネーに関する言説
      アルテス・リベラレス/リベラル・アーツ(自由学芸)
      アルテス・メカニケー/メカニカル・アーツ(機械学芸)
      アーティフィシャル(人工的)
      アートフル(アーツ(リベラル・アーツ)に精通した/熟練した/芸術的な)[注釈 6]
      近代(19世紀)以降
      リベラル・アーツ(自由学芸)
      テクノロジー(技術学/科学技術)
      アーティフィシャル(人工的)
      アート(純粋芸術/ファインアート)
      アートフル(巧妙な/悪賢い/狡猾な/技巧的な)[注釈 7]
      縮小・終了
      (専門化・分業化による近代的な自然科学、社会科学、人文科学の誕生と拡大)

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

      歴史
      人文学者の半田智久の学術論文によると、リベラル・アーツはしばしば、職業的な学びや教育とは異なる「実用性から自由になった学芸」と解釈されており、それとの比較で「技術知」(テクネー)は奴隷的技能ともされる[32]。しかしリベラル・アーツの誕生経緯を見れば、もとは様々な実学が「自由」な方法でリベラル・アーツに含まれていた様子がある、と半田は言う[32]。
      ソクラテスやプラトンも、靴作りの技術を数論・弁論と並べて語る等の「自由性」を見せていた[32][注釈 8]。奴隷的技能(技術知)に関しては、古代ローマの特徴として奴隷身分は解放される道筋があり、解放奴隷は哲学者や偉大な軍人や政治家となって後世に名を残したという「自由度」があった[32]。すなわち「ラテン的な実学を、知を愛し求める一線に連ねてしまう自由こそがもともとのリベラルアーツ」だったと半田は言う[32]。
      半田によると、「リベラル・アーツ」の語源は古代ローマ(共和制ローマ)のラテン語で、端的にはアルテス・リベラレス(artes liberales)である[36]。リベラル・アーツという語句について──厳密にはその語源に相当する「自由人にふさわしい諸学芸」(artes, quae sunt libero dignae)や「自由学問」(doctrina liberalis)について──最初に論じた古代ローマの学者としては、キケロ、ウァロ、ウィトルウィウスなどが居た[37]。彼らは同時代人であり、特に「ローマ最大の学者」と言われるウァロは医術や建築をもリベラル・アーツに含めていた[36]。建築家ウィトルウィウスは、建築家になるために子供の頃から学ぶ必要のある学科目として、次を挙げている[37]。
      文法[36]
      絵画[36]
      幾何[36]
      算術[36]
      歴史[36]
      哲学(アルキメデスの導水のように、自然学を含む哲学[36])
      音楽(優れた劇場建築[37]。投石機に応用されている弦楽器の弦の張り方など[37])
      医術(健康な空気・土地・水の利用[32])
      法律(建築発注者との契約[32])
      天文学(星[要曖昧さ回避]々の運行と季節変化による、建築に必要な方位についての理解[32]。時計(日時計)の建造[32])
      つまり古代ローマに生まれたリベラル・アーツは、工芸や美術をも含む広範な芸術と実学を併せ持つ「総合的な知の錬成」、「総合学術」であり、これがローマ帝国の象徴的な巨大建築を実現させた[32]。このようなリベラル・アーツは、ローマの繁栄と共にあった「自由さ」を、そしてその基礎であるパクス・コンソルティス(Pax Consortis 多国間協調による平和)を体現している、と半田は述べている[32]。
      トーマス・アクィナス大学の哲学博士マイケル・オーグロスは[38]、学術教育団体「アーツ・オブ・リバティー Arts of Liberty」で、《技芸・生産・理数系学問を兼ね備えたリベラル・アーツ》という概念について述べている[39]。
      幾何学と計算〔算術〕を「リベラル・アーツ」と呼ぶことは何を意味しているのか? 古代人たちの語彙では、「アート」(ラテン語でアルス、ギリシア語でテクネー)は科学と同様に、注意深く推論された知識を意味した。
      しかしそれに加えて、「アート」は何かを産み出すための知識を意味した。「生産品〔成果〕」が無ければ「アート」も無い。
      つまり、ある種の知識は「科学」ではあるが「アート」ではない、ということがあり得る。
      例えばアリストテレスは、神についての研究〔the study of god〕を「科学」と考えた。「科学」は、明白な原則を元に厳密に推論された知識の体系であったが、「アート」ではなかった。何故なら「科学」は神々〔gods〕を作る方法も、神〔god〕に関して何かする方法もわれわれに教えなかったからである。 …
      一方、幾何学は「アート」かつ「科学」であるのだ、これらの用語の古代的意味ではそうなる。
      幾何学が「科学」である理由は、幾何学が明白かつ必然的な真理から出発して、その論理的結果を推論するからだ。それでいて、幾何学は「アート」でもある。何故なら幾何学は、特定の事物や構造をどうやって作るかを教えてくれるからだ。
      われわれは、事物や構造を頭の中で形作る。それらを紙やコンピュータプログラムによって描き出すことは(一般的に便利だが)、必須ではない。にも関わらず、事物や構造はある種の精神的な「生産品」だ。 …
      つまり幾何学はアートであり、かつ最も厳密な(そして古代的な)用語の意味での「科学」でもある。[39]

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      日本におけるリベラル・アーツ
      「教養学部」および「国際教養学部」も参照
      数学者であり複数の大学で学長を務めた大口邦雄は著書『リベラル・アーツとは何か--その歴史的系譜』[66]で、東京大学教養学部と国際基督教大学 (ICU) 教養学部を日本におけるリベラル・アーツ教育機関の代表としてあげている[要ページ番号]。
      前者の東京大学は、第二次世界大戦前の旧制高等学校の伝統を受け継ぐものである。旧制高等学校は戦後になって4年制大学に改組されると、多くの大学において教養部(一般教育課程・教養課程)がリベラル・アーツ教育の役目を担ってきた。しかし東京大学においては、教養部ではなく教養学部を独立した学部として設置した点で特徴的である。
      後者のICUは米国のリベラル・アーツ・カレッジを範として戦後作られたものであり、人文科学・社会科学・自然科学の3領域を網羅し、専攻を自分で選ぶ教育を少人数で行う点、そして米国リベラル教育学会の認定を受けるなど世界基準の教育を行う点で、旧来の日本の大学とは一線を画すものとなった。リベラル・アーツ教育と国際性の2つを特徴とするICUの教育システムは、その後多くの大学にも引き継がれるようになる。
      また旧制高等学校からの歴史を持つ大学群に関して事例を挙げると、浦和高等学校を継ぐ埼玉大学は当初設置の文理学部を1965年に教養学部へと改組した[67]。このほかの旧制高等学校からの歴史を持つ大学はその教養部を学際系学部に改組してきている。京都大学総合人間学部(第三高等学校)、名古屋大学情報学部(第八高等学校)、広島大学総合科学部(広島高等学校)などをはじめ、学際系学部として独立している。
      加えて、師範学校を前身とする国立の教育大学はGHQの指示で米国のリベラル・アーツ・カレッジを範として戦後に設立された大学である。これらの大学は、人文科学、社会科学、自然科学および芸術の専攻からなる少人数教育を行なっており、1970年前後に国の方針で教育大学教育学部に改組する以前はリベラル・アーツの訳語である自由学芸から引いた学芸大学学芸学部という名称であった。なお東京学芸大学は教養系を、大阪教育大学は教養学科を設置し、現代的なリベラル・アーツ教育を行なっている。同様に、リベラル・アーツ・カレッジに範をとった津田塾大学は現在も学芸学部という名称を使用している。
      21世紀に入ってからは社会科学・人文科学専攻とその周辺の学際領域専攻やビジネス専攻に限定した国際教養学部等の設置が目立ち、その事例として早稲田大学での学部設置や、公立大学法人の国際教養大学の設立が挙げられる。本来は人文科学・社会科学・自然科学の3領域の基礎分野すべてを網羅するのが現代のリベラル・アーツの基本であるが、日本においては戦前の旧制高等学校の「文科と理科」及び戦後の高等学校の「文系と理系」の分類が先行し、「リベラル・アーツ」を掲げつつもいわゆる文系分野が主たる領域となって3領域すべてをカバーしない(例えば、ビジネス専攻と社会科学系・国際系の学際領域専攻のみに限定され、芸術学や宗教学や数学や物理学などの専攻ができず、また教育職員免許状は英語しか取得できない)など、専攻可能な分野に偏りがある場合もある。特に自然科学については専攻として一切設けられていないことが多い。
      上記のように、旧来の一般教育・教養課程を改組することでリベラル・アーツ教育(もしくはリベラルアーツと直接の関わりを必ずしも明示しない学際教育)を担う学部・プログラムを設置する大学が少なくない。その豊かな教員構成を活用して、これらから敷衍されうる分野も扱われるようになった。この他、全学での単位互換を行うといった制度への取り組みも挙げられる。
      なお一部で「教養学」という言葉を、学術の体系化されたいち分野として用いることがある[1][2][3]が、「教養学」という名称を「学術の一分野」として用いた学術団体は2012年時点で存在していない。例として2011年に設立された学術団体であるJAILA(日本国際教養学会)を挙げると、同会は会則で「学際的立場」を基礎としており、「学際的な学会」として研究活動を「哲学、歴史、社会科学、自然科学、芸術、教育、外国語、環境など」[4]の多方面に広げている点を示しているのみである。
      リベラルアーツ教育を行う大学
      教養学部にてリベラル・アーツ教育を行う大学
      東京大学(駒場キャンパス)
      国際基督教大学(ICU)
      埼玉大学(文理学部からの改組)
      東海大学
      東北学院大学
      放送大学(放送大学学園法に基づく特別な学校法人)
      都留文科大学(文学部初等教育学科及び社会学科からの改組)
      国際系学部等でリベラル・アーツ教育を行う大学
      早稲田大学国際教養学部
      国際教養大学国際教養学部(AIU)
      上智大学国際教養学部(比較文化学部を改組)
      千葉大学国際教養学部(2016年4月開設)
      法政大学グローバル教養学部
      獨協大学国際教養学部(また他学部でも「全学共通カリキュラム」として相当する教育が行われている)
      創価大学国際教養学部
      南山大学国際教養学部
      中京大学国際教養学部
      桃山学院大学国際教養学部
      帝塚山学院大学リベラルアーツ学部
      広島女学院大学国際教養学部
      宮崎国際大学国際教養学部(2005年の学部改組に伴い比較文化学部より変組)
      玉川大学リベラルアーツ学部
      桜美林大学リベラル・アーツ学群
      神田外語大学グローバル・リベラルアーツ学部[68](GLA)
      関西外国語大学英語キャリア学部、外国語学部、英語国際学部
      武蔵大学国際教養学部
      教育学部にてリベラル・アーツ教育を行う大学
      東京学芸大学教育学部教養系
      大阪教育大学教育学部教育協働学科(旧教養学科)
      理工系学部にてリベラル・アーツ教育を行う大学
      東京工業大学リベラルアーツ研究教育院
      大阪工業大学工学部リベラルアーツ教養課程
      リベラル・アーツ教育を主体とする女子大学
      お茶の水女子大学
      奈良女子大学
      福岡女子大学
      宮城学院女子大学
      津田塾大学
      東京女子大学
      学習院女子大学
      聖心女子大学
      相模女子大学
      同志社女子大学(英語表記はDoshisha Women's College of Liberal Arts)
      大阪樟蔭女子大学
      神戸女学院大学
      福岡女学院大学
      東洋英和女学院大学
      学際教育を行う学部を持つ大学
      群馬大学社会情報学部
      名古屋大学情報学部(旧教養部)
      京都大学総合人間学部(旧教養部)
      神戸大学国際人間科学部(2017年に国際文化学部(旧教養部)と発達科学部(旧教育学部)を再編統合)
      鳥取大学地域学部(旧教育学部)
      岡山大学グローバル・ディスカバリー・プログラム
      広島大学総合科学部(旧教養部)
      徳島大学総合科学部(旧教育学部)
      高知大学土佐さきがけプログラム
      九州大学共創学部(旧21世紀プログラムを発展的に改組)
      横浜市立大学国際教養学部
      宮崎公立大学人文学部
      慶應義塾大学総合政策学部・環境情報学部(SFC)
      成城大学文芸学部
      日本大学文理学部
      多摩大学グローバルスタディーズ学部
      札幌大学地域共創学群
      敬和学園大学人文学部
      名古屋文理大学情報メディア学部情報メディア学科
      名古屋芸術大学芸術学部芸術学科芸術教養領域リベラルアーツ・コース
      全学部横断型のリベラルアーツ教育プログラムを持つ大学
      東京経済・岡山・高知・九州の4大学のプログラムは独立した学部ではなく、全学部が協力して教育を行う特別なコースとなっている。学生には個別の学部ではなく、プログラム独自の学生証が発行される。
      リベラルアーツ教育を行う各種学校
      自由学園最高学部(学校教育法上の大学ではなく、制度上は各種学校となる)
      その他
      東京都八王子市にある大学セミナー・ハウスのシンボルマークは白地に緑の切り株であるが、それについている7枚の葉は自由七科を表している。

    • @R5-622
      @R5-622 10 місяців тому

      教養、思考、考察重要なんだけど、そこから行動することがさらに重要かなと思います。
      思考で間に合うときはいいと思うのですが、間に合わない。直感に従う。
      直感は教養より体使った方が養えるような気がします。エビデンスないけど(笑)

  • @user-cx5eq9ce8l
    @user-cx5eq9ce8l 10 місяців тому +18

    昨今、少しでも保守的な考えを表明すると
    「極右だ」と馬鹿にする方々がいて、とても嫌な気持ちになります。
    保守=ネトウヨ=右翼=国粋主義みたいな、極端なレッテル貼りをして封殺しようとするのはやめてほしいと思っています。

    • @his7776
      @his7776 6 місяців тому

      右翼が世間から反発されるのを恐れて「保守」と名乗るから、世間一般は保守=右翼と認識してしまうのはしゃーない。

  • @user-xq7et1zf4w
    @user-xq7et1zf4w 2 місяці тому +1

    人間って身体は、常に作り直しがされている。ただし、作り直しが出来難い。部署が有る。そこに老化現象が出る。歯とか目とか毛細血管に付くゴミなどがある。

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

    江戸の儒教教育の定着まで。
    ・徳川秀忠
    (とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍(在職:1605年 - 1623年)。元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っている。この間、およつ御寮人事件に関係した公家の配流、福島正則の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じた。京ではキリシタンの大規模な処刑を命じており[16]、方広寺門前の正面橋近辺で、彼らを方広寺大仏(京の大仏)に向かいあうように磔にし[17]、火あぶりで処刑した(京都の大殉教)。正面橋東詰には現在「元和キリシタン殉教の地」という碑が建てられている。聖母女子短期大学教授の三俣俊ニは、キリシタンを通常の刑場でなく、大仏門前で処刑したのは、彼らに対するせめてもの情けだったのではないかとしている[17]。
    ・徳川 家光
    (とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代征夷大将軍(在職:1623年 - 1651年)、乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。
    15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。
    寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。また、旗本を中心とする直轄軍の再編に着手した。同年5月には外様大名を招集し、藩内の内訌などを理由に、肥後熊本藩主・加藤忠広の改易を命じている。寛永10年(1633年)福岡藩における栗山大膳事件(黒田騒動)では自ら裁定を下し黒田忠之の藩側の主張を認めている。幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。同年9月には外祖父の浅井長政に権中納言を贈官した。[1] 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。
    対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していった。親政が始まった後、長崎奉行の竹中重義に改易と切腹を命じ、新しい長崎奉行を旗本2人から任命して、同時に寛永10年(1633年)から寛永13年(1636年)にかけて、長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(鎖国令)を発布した。寛永12年(1635年)の長崎奉行への職務規定(第三次鎖国令)では、日本人の東南アジア方面との往来が禁止されることになり、宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えた。同時に、朱印船の役割は外国人(オランダ人・ポルトガル人・中国人)が代行することになり、また、寛永12年(1635年)に九州各地の中国人は長崎のみに集住させられ、ポルトガル人は寛永13年(1636年)長崎の出島に隔離された。寛永14年(1637年)に起きた島原の乱を鎮圧した後、ポルトガルとの断交を決意し、寛永16年(1639年)に、オランダ商館長のフランソワ・カロンを通して、台湾経由でも中国産の生糸を確保できることを確認、そして、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた命令(第五次鎖国令)を発布した。寛永18年(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた(ただし、「鎖国」という概念や言葉が生まれるのは19世紀になってからである)。
    これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。前述のように長崎奉行(竹中重義)に切腹を命じたのも、島原の乱の責任を問うとして大名(松倉勝家)を切腹ではなく斬首に処したのも江戸時代で唯一の処置であり、改易でも50万石以上の大名(徳川忠長・加藤忠広)を改易に処した将軍は家光が最後であった。
    ・慶安の変
    (けいあんのへん)は、慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。由比正雪の乱、由井正雪の乱、慶安事件とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。
    経緯
    由井正雪と社会状況
    由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。
    この頃、江戸幕府では3代将軍・徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、鎖国政策によって山田長政のように日本国外で立身出世する道も断たれたため、巷には多くの浪人があふれていた。浪人の中には、武士として生きることをあきらめ、百姓・町人に転じるものも少なくなかった。しかし、浪人の多くは、自分たちを浪人の身に追い込んだ御政道(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。
    正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった。
    計画と露見
    そのような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子・徳川家綱が継ぐこととなった。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし[1]、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を人質に取る。それと同時に正雪が京の天皇を誘拐して政治の実権を奪い取る手筈であった。
    しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)7月23日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である7月22日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後、7月30日には正雪の死を知った金井半兵衛が大坂で自害、8月10日に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫した。
    事件後の影響
    御側・中根正盛は配下の与力(諜報員)を諸方に派遣して事件の背後(幕臣中の武功派勢力と正雪との関係)を徹底的に詮索し、特に紀州の動きを注視した[2]。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、表立った処罰は受けなかったものの、頼宣は武功派の盟主であったが為に、幕閣(信綱と正盛)の謀計によって幕政批判の首謀者とされ、10年間、紀州への帰国は許されず、江戸城内で暮らした。頼宣の失脚により武功派勢力は一掃された[3][4][5]。
    江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した承応の変[注 1]を教訓に、老中・阿部忠秋らを中心としてそれまでの政策を見直し[6]、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、奇しくも正雪らの掲げた理念に沿った世となるに至った。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ・徳川 綱吉
      (とくがわ つなよし)は、上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代征夷大将軍(在職:1680年 - 1709年)。第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。
      綱吉の治世の前半は、基本的には善政として天和の治と称えられている。
      しかし貞享元年(1684年)、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。
      中野犬小屋の図。元禄9年
      この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった(生類憐れみの令については、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとされる。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつある。詳しくは綱吉の#評価を参照のこと)。
      評価
      綱吉の行状については価値の低い史料による報告が誇張されて伝えられている部分もあり、近年では綱吉の政治に対する評価の再検討が行われている。
      綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、元禄4年(1691年)と同5年(1692年)に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている(ケンペル著『日本誌』)。ケンペルの綱吉観や両者の交流についてはベアトリス・M. ボダルト・ベイリー『ケンペルと徳川綱吉』(中公新書、1994年 ISBN 4-12-101168-6)に詳しい。
      綱吉の治世下は、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。
      深井雅海によれば、綱吉はその治世を通して46家の大名を改易もしくは減封し、1297名の旗本・御家人を処罰している[6]。旗本の5人に1人は何らかの処罰を受けたことになるが、処罰の理由として際だって多いのが「勤務不良」(408名)と「故ありて」(315名)である。深井は旗本の大量処罰を「封建官僚機構の整備」と評価している[6]。一方で、処罰された旗本の32パーセントは小姓や近習といった行政官僚ではない役職で、その理由の多くは仔細不明の「故ありて」に該当し、政治的な意図のない恣意的な人事も相当数行われたと考えられる[6]。『徳川実紀』附録巻下には、柳沢吉保が旗本の処罰があまりに厳しいことについて、家康以来の家臣である彼らを「扇子・鼻紙などのごとく」軽々しく扱ってはならない、と諫言したとある[6]。
      ・生類憐れみの令
      (しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代前期、江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉によって制定された「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称[1][2][注釈 1]。1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である[3]。
      保護する対象は、捨て子[注釈 2]や病人、高齢者、そして動物である[4]。対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚、貝、虫などにまで及んだ。
      漁師の漁は許容され、一般市民はそれを買うことが許されたとの説もある。
      政策開始の理由
      貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[5]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[6]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている[7]。
      根崎光男はまた、天和3年(1683年)に綱吉の子・徳松が5歳で病死しているが、この頃から死や血の穢れを意識した政策である服忌令の制定が進められており、子の死によって綱吉の思考に、生類憐れみの観念が助長されていったとみている[8]。
      かつては跡継ぎがないことを憂いた綱吉が、母桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めで発布したという説が知られていた。ただし、隆光を発端と見る説は近年後退しつつある[3]。この説は太宰春台が著者ともされる『三王外記』によるものであるが、隆光が知足院の住侍として江戸に滞在するようになった貞享3年(1686年)以前から、生類憐れみ政策は開始されている[9]。
      塚本学は綱吉個人の嗜好に帰すのではなく、当時の社会状況に対する一つの対策であったと指摘している[2]。
      評価
      生類憐れみの令は庶民の生活に大きな影響を与えたため、「天下の悪法」と評価されることが多く[1][19]、綱吉への評価を下げる原因となった。現在でも、極端な理想主義の法律・法案などに対する批判として、「現代の生類憐れみの令」のように揶揄の対象にもなる。
      綱吉死後の政権に関与した新井白石は、『折たく柴の記』などで生類憐れみ政策を批判している。また、戸田茂睡も『御当代記』において批判を行っている。これらの評価は生類憐れみの令に対する悪評を高めた。一方で白石は家宣を顕彰する目的で、茂睡は政権批判の立場から、事実を誇張しているという指摘も行われている[20]。
      しかし、1980年代以降の研究では、生類憐れみの令は儒教に基づく文治政治の一環であるとして、再評価がなされている[21][22][23]。また、生類憐れみの令の一環として出された「捨て子禁止令」(1690年)が綱吉の死後も続いたことから、生類憐れみの令は、子どもを遺棄することが許される社会から許されない社会への転換点となったとも評価される[4][24]。そして、子どもを遺棄する行為が悪と考えられるようになったことから、遺棄された子どもを保護する仕組みが構築されていったと指摘される。
      歴史教科書でも悪法という扱いであったが、1990年代末よりは社会の変革を意図した法であるという解説も多くつけられている[25]。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      藤原 惺窩
      (ふじわら せいか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原および籐(とう)を公称した。
      生涯
      永禄4年(1561年)、公家の冷泉為純の三男として下冷泉家の所領であった播磨国三木郡(美嚢郡)細川庄(現在の兵庫県三木市)で生まれた。
      長男でもなく、庶子であったため家は継がず、上洛し相国寺に入って禅僧となり、禅と朱子学を学んだ。儒学を学ぼうと明に渡ろうとするが失敗に終わった。その後朝鮮儒者・姜沆と交流し[2]、その助力を得て『四書五経倭訓』を著し、それまで五山僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学も受容するなど包摂力の大きさが特徴である。近世儒学の祖といわれ、門弟のなかでも特に林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の4人は惺門四天王と称された。和歌や日本の古典にも通じており、同時代の歌人木下長嘯子とは友人であったと言われる。豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じており、家康には仕官することを要請されたが辞退し、門弟の羅山を推挙した。主著に『寸鉄録』『千代もと草』『文章達徳綱領』がある。
      また、実家の下冷泉家は、播磨の所領において戦国大名の別所氏に攻められ当主が戦死し没落した。このため、惺窩が尽力し弟の為将を新たな当主に擁立することで下冷泉家を再興させた。惺窩自身は庶子でもあり、自ら下冷泉家の当主の座に就くことはなかったが、為将の死後、長男の為景が勅命により当主となった。
      元和5年(1619年)死去、享年59。
      人物
      個人の修養を重視し、朱子学に傾倒するも、仏教には寛容であった[3]。
      生誕地
      藤原惺窩の生まれた兵庫県三木市細川町に、「生誕の地」の石碑と銅像がある。
      ・林 羅山
      (はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる[注釈 2]。
      儒学者羅山
      林羅山の学問は、漢唐の旧注から陸象山・王陽明の学におよび、諸子百家から日本の古典にも通じたが、南宋の朱熹(朱子)の学問(朱子学)がその中心であり、特に師の藤原惺窩の没後は明確に朱熹の理気論(太極理気の論)の立場に立った[3][7]。羅山は、朱子学者として、万物は「理」と「気」から成るとする理気二元論を説き、理法が諸現象を支配するのと同様に理性が情欲を支配することを理想とした(『三徳抄』)。そして、天(理気未分の太極)を自然・人文のいっさいの事物に内在化し、かつ天は気によって万象を創造し、理によって万象を主宰するものであるとして、この天のはたらき、すなわち「天道」をたすけることこそが人道であって、この人道の実践・履行が「格物」より始まると説いた[3]。
      羅山の人間論は、人間は、天理を受け、その本性は善であるが、情欲のために覆い隠されているために充分に発揮できないとするもので、学問によって宇宙をつらぬく理をきわめ、修養によって情欲を取り去るべきことを主張した[8]。
      また、万象を貫く道徳的属性を考える立場に立って、幕藩体制下の身分秩序とそこにおける実践道徳を形而上学的に基礎づけた[7]。『春鑑抄』においては、宇宙の原理である理は、人間関係では身分として現れるとして上下定分の理を説いて士農工商の身分制度を正当化したが、これは、幕藩体制の根幹をなす身分秩序絶対化の理論であった[9]。羅山は、同書で、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)を保つため、「敬」(つつしみあざむかない心)と、その具体的な現れである「礼」(礼儀・法度)が重要視されるべきことを説き、持敬(心のなかに「敬」を持ち続けること)を強調している(存心持敬)。羅山は、宇宙の原理である理をきわめれば、内に敬、外には礼として現れると説き、敬と礼が人倫の基本であり、理と心の一体化を説いたのである(居敬窮理)[8][注釈 4]。
      羅山の朱子学は中国から直輸入したものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に流入した朝鮮朱子学を自覚的、選択的に摂取したものであるとされている[11]。なお、「羅山」の号も、朝鮮本の『延平問答』に由来するものである[12]。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ・山鹿 素行
      (やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)または高興(たかおき)、義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。長男に政実(まさざね)、次男に高基(たかもと)がいる。
      地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方説を否定している[21]。
      奇襲を否定している。桶狭間における織田信長の場合、定説は誤りで中島砦から直進して堂々と今川軍に当たったという説を採る(『戦略抄』)。後世に免許皆伝の井伊直弼が桜田門外で討たれたように、山鹿流は奇襲・冬の陣・夜討ち・数の暴力に為す術がない[22]。
      士は二君に仕えるべしとし「君、君たらずんば自ら去るべし」を素行自身も実行した。「凡そ君臣の間は他人と他人の出合にして、其の本に愛敬すべきゆゑんあらず」と主君の為に死ぬ(「君のために百年の命を截つ、夏虫の火に入りて死するにも同じ」)は愚行と主張する。命を大事にし、蛮勇に走ったりせず、正しく生きることが「士道」の天命であるとした(『山鹿語類』巻十三・君臣論)。
      寛永21年(1641年)、19歳の時すでに「素行軒」と号していた。「君子素其位而行、不願乎其外(君子は其の位に素して行ない、其の外を願はず)」(『中庸』第十四章)に由来するが(津軽正方『山鹿誌』)、異説もある[23]。
      キリスト教を嫌い、「耶蘇邪法をのべ、本朝の人民を害す」。また、一向宗徒についても「是を信ずること鬼の如し」と一念に憑りつかれた集団の危うさを指摘している(『山鹿語類』巻十一・信仰論)。
      「海豚魚を嘗む(味わう)」と日記にありイルカを食べている[24]。
      ・山崎 闇斎
      (やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた[注 1]。
      朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の一派である垂加神道の創始者としても知られる。
      概要
      朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。とりわけ、湯武放伐を否定して、暴君紂王に対してでも忠義を貫いた周文王のような態度を肯定したことに特徴がある[1][2][3]。
      「劉邦は秦の民であったし李淵は隋の臣であったのだから、彼らが天下を取ったのは反逆である。それは殷でも周でも他の王朝でも同じことで、創業の英主といわれていても皆道義に反しており、中国歴代の創業の君主で道義にかなっているのは後漢の光武帝ただ一人である」と述べて易姓革命を否定した[4]。
      またあるとき弟子たちに向かって「今、支那から孔子や孟子を大将として日本に攻めてきたらお前たちはどうするか」と問い、返答に窮した弟子たちに「そういう時は当然孔子や孟子と戦って、あるいは斬り、あるいは生け捕りにするのだ。それが孔子や孟子の教えだ」と説いた[5]。
      闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。(→垂加神道)
      以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた[6]。
      門人には、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎・植田艮背・遊佐木斎・谷秦山・正親町公通・出雲路信直・土御門泰福・安井算哲(渋川春海)らがおり、闇齋学の系統を「崎門学派」という。ただし、最終的に思想的衝突を生じて破門・絶縁した弟子も多く、政治の要請に対して主張を変えがちと揶揄された「林家」と対比する形で「林家の阿世、崎門の絶交」と言われた。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ・伊藤 仁斎
      (いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。
      諱は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。 『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。 初めは朱子学者であったが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。
      生涯
      寛永4年7月20日(1627年8月30日) 京都で誕生。
      1662年 京都の堀川に古義堂(堀川学校)を開く。堀川を隔てた対岸に、山崎闇斎の闇斎塾があった。
      宝永2年3月12日(1705年4月5日) 死没。
      学説と思想
      『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と称した。
      古義学(古学)を提唱し、主著に『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』『古学先生文集』などが挙げられるが、生前は講義と著述の整理・推敲に尽力し、著作を公刊することはなかった。
      仁斎の学問手法は、当時支配的だった朱子学的経典解釈を廃し、直接テクストを検討するというものである。朱子学は学問体系としては非常に整ってはいたが、その成立過程に流入した禅学や老荘思想といった非儒教的な思想のために経書の解釈において偏りがあった。仁斎はそのような要素を儒学にとって不純なものとみなし、いわば実証主義的な方法を用いた。このような傾向は同時代の儒学研究に共通にみられるものである。仁斎は朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけした。客観的でよそよそしい理屈よりも人間的で血液の通った心情を信頼している。四端の心や性善説を唱えた。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      荻生 徂徠
      (おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。
      名は雙松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む[2]。通称は惣右衛門(そうえもん)[2]。徂徠(そらい)と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、蘐園(けんえん)とも号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される[2]。本姓は物部氏で、「物徂徠(ぶっそらい)[1]」「物茂卿」とも号した[2]。
      父は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった荻生景明。弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓[3]。
      概要
      朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。古代の言語を全く知らないと朱熹を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した。ただし、仁斎の解釈への批判は、それに相当する記述が『論語古義』に見えない場合もある。
      ・新井 白石
      (あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家[3]・朱子学者。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。
      ポータル 文学
      一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
      皇室政策
      宮家の創設
      閑院宮は、皇統の断絶を危惧した白石の建言で創設された。東山天皇の第6皇子直仁親王が、幕府から1000石の所領を献上され、享保3年(1718年)祖父の霊元法皇から「閑院宮」の宮号を賜った。白石の危惧は現実のものとなり、第2代典仁親王第六王子祐宮は後嗣なく崩御した後桃園天皇の跡を継ぎ、安永8年(1779年)光格天皇となった。なお、先帝の傍系にあたる宮家から皇位を継承したのは光格天皇が最後であり、以後は皇太子が次代天皇に即位することで、皇統は現在の皇室に連なっている。

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

    江戸時代にいたる原型
    ・三河一向一揆
    (みかわいっこういっき)は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。松平家の支配下にはなく曹洞宗の勢力が強かった東三河は該当しない。
    概要
    現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓(蓮如の曾孫)が中心となって浄土真宗の本願寺門徒に檄を飛ばし、領主の松平(のちの徳川)家康と戦った。『三州一向宗乱記』に「当国碧海郡野寺村の本證寺と申すは、一向宗の小本寺にて、守護不入の道場、当国三箇寺の其の一箇寺なり」と記載されている。
    中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、三河守護家である吉良氏のほか、荒川氏、桜井松平氏、大草松平氏である。また安祥松平家の麾下にあった本多正信、蜂屋貞次、夏目吉信が参加した。これは松平宗家である岩津松平に代わり台頭した安祥松平家が安祥城に居城していた時代から、真宗門徒の地元勢力を支配下に収めたものであり、その最たるものは、本證寺門徒でもあった石川氏である。一族の間で門徒方と家康方に分裂するなど混乱を極めた。
    三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされる。 家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。
    大久保忠教の『三河物語』や『三州一向宗乱記』に概況が描かれている。
    ・足利 義教
    (あしかが よしのり、正字体:義敎)は、室町幕府の第6代征夷大将軍[3](在職:1429年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子。僧侶時代は義円(ぎえん、正字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。室町幕府の第3代将軍・足利義満の四男または五男で、第4代将軍・足利義持の同母弟にあたる。
    ・強訴
    (ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。
    特に日本の平安時代中期以後、寺社勢力が仏神の権威と武力を背景に、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す[1]。
    寺社勢力による強訴
    寺社勢力は朝廷や幕府に自らの要求を飲ませるため、武装した衆徒(僧兵など)や神人を集団で向かわせる実力行使を度々行っていた。
    自分たちの寺社に関わる何らかの問題が発生した場合、僧兵たちは裹頭(かとう)と呼ばれる覆面をつけ、声色を変えた上で提起を行い、賛成のものは「尤も尤も」、反対のものは「謂われなし」と声を上げ、ひとたび決した議決には異論を差し挟まず即座に行動に出た[2]。
    特に「南都北嶺」と並び称された奈良の興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び[3]、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる[4]。
    『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話(天下三不如意)があり、延暦寺の山法師(僧兵)による強訴は、氾濫を繰り返す鴨川(自然)やサイコロの目(確率)と同じく、天皇ですら制御できないものとして嘆いたものである。
    興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった[5]。
    また、伊勢神宮でも禰宜以下の神人が祭主などを無視して直接京都に訴え出ることが10世紀以降しばしば行われ、鎌倉時代には「神宮大訴」と呼ばれていたが、これも強訴・越訴の一種である[6]。
    強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。これ以降の日本では朝廷、武家、寺社勢力が権力を三分することになる。
    寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門の衰退と共に廃れていった。一方で武士にも仏教が浸透し、複雑な関係となった。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

      ・足利 義教
      (あしかが よしのり、正字体:義敎)は、室町幕府の第6代征夷大将軍[3](在職:1429年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子。僧侶時代は義円(ぎえん、正字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。室町幕府の第3代将軍・足利義満の四男または五男で、第4代将軍・足利義持の同母弟にあたる。
      義教は、鎌倉公方の足利持氏と通謀して自身を呪詛しているとして、比叡山延暦寺に攻勢を仕掛けてこれを抑え込み、永享の乱で足利持氏を敗死させるなど、強権的な手法で室町幕府の地位向上に努めた。また自身の肝いりの政策として、高さ四丈(約12m)の雲居寺大仏の再建を行った。将軍と同等もしくはそれ以上の勢威を持った勢力を一掃し、九州や関東にも幕府の影響力を増大させたが、「万人恐怖」とも称される、その強権的な手法は周囲の反感を呼び、最期は守護大名の赤松氏に暗殺された(嘉吉の乱)。以降足利将軍の権威は低下し、彼ほどの実権を持つ将軍は現れなかった。
      義教は従来、恐怖政治を敷いた暴君であると評されてきた。しかし近年、義教の各種政策は戦国三英傑のそれを先駆したものであったとして、再評価する機運も見られる。
      宗教政策
      (比叡山との抗争と雲居寺大仏の再建)
      もともと天台座主であった義教は、還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。
      だが、永享5年(1433年)7月19日に延暦寺山徒は幕府の山門奉行飯尾為種や、光聚院猷秀[注 9]らに不正があったとして十二か条からなる弾劾訴訟を行った。満済や管領・細川持之が融和策を唱えたため、閏7月7日に義教は為種や猷秀を配流することで事件を収めた。
      しかし、延暦寺山徒は勝訴の勢いにのり、8月12日には訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が起こる。義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲した。これをみて12月12日に延暦寺側は降伏し、一旦和睦が成立した。
      永享6年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。8月、義教はただちに近江の守護である京極持高・六角満綱に命じ、近江国内に多くあった延暦寺領を差し押さえさせ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。これに対し、8月23日及び10月4日に延暦寺は神輿を奉じて入洛したが、幕府の兵に撃退された。
      11月19日、義教は諸将を派遣し、26日には軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなった。
      12月6日、延暦寺側が降伏を申し入れ、管領・細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行ったが、義教はなかなか承諾しなかった。10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を再三行った。12日、義教はようやく折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引いた。18日には没収した寺領を延暦寺に返付している。
      しかし、義教は本心では許しておらず、先の4人を京に招いたが、彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。しかし、管領の誓紙が差し出されたため、永享7年(1435年)2月4日に4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、5日に抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。
      比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、明応8年(1499年)7月11日に細川政元が行った、比叡山延暦寺を焼き討ちした事件。
      明応の政変により細川政元によって将軍職を足利義澄(義高)に奪われた足利義稙(義尹)だが、なんとか京を脱出して越中に入ると、彼に味方していた河内・紀伊・越中守護畠山尚順の家臣である越中守護代神保長誠に迎えられた(越中公方)。そして加賀守護富樫泰高、越前守護朝倉貞景の支持をも受けると、その勢いで上洛の姿勢を見せた。それを見た延暦寺も義尹の支持に回ったため、細川政元は焦り、延暦寺と対立することとなる。
      明応8年7月に入っても様子を伺っていた政元だったが、ついに内衆の赤沢朝経と波々伯部宗量に延暦寺を焼き討ちするように命じた。2人が率いる軍勢は11日に一斉に比叡山に攻め上り、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍をことごとく焼いた。近江に進軍していた義尹と河内で挙兵した畠山尚順も細川軍に打ち破られ、政元は包囲の危機を脱した。
      ・比叡山焼き討ち
      (ひえいざんやきうち)は、明応8年(1499年)7月11日に細川政元が行った、比叡山延暦寺を焼き討ちした事件。
      明応の政変により細川政元によって将軍職を足利義澄(義高)に奪われた足利義稙(義尹)だが、なんとか京を脱出して越中に入ると、彼に味方していた河内・紀伊・越中守護畠山尚順の家臣である越中守護代神保長誠に迎えられた(越中公方)。そして加賀守護富樫泰高、越前守護朝倉貞景の支持をも受けると、その勢いで上洛の姿勢を見せた。それを見た延暦寺も義尹の支持に回ったため、細川政元は焦り、延暦寺と対立することとなる。
      明応8年7月に入っても様子を伺っていた政元だったが、ついに内衆の赤沢朝経と波々伯部宗量に延暦寺を焼き討ちするように命じた。2人が率いる軍勢は11日に一斉に比叡山に攻め上り、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍をことごとく焼いた。近江に進軍していた義尹と河内で挙兵した畠山尚順も細川軍に打ち破られ、政元は包囲の危機を脱した。
      ・法華一揆
      (ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における天文(てんぶん)年間に起きた宗教一揆である。「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説する。
      概要
      日本の戦国時代に起きた、京都における宗派間の紛争である。日蓮宗の立場からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などと呼ばれる。
      京都における日蓮宗の拡大
      日蓮没後、法華宗(日蓮宗)は京都以外の全国各地への勢力拡大に努めた。[1]
      永仁2年、日像が京入すると叡山の訴えを受けた朝廷によって幾度か京都を追い出されたり、許されたりを繰り返された。しかし、朝廷からの公認を得て、次第に人々の間で広がると、幕府にも認められ、宮廷へ接近するまでになった。[2]それに伴い、僧正僧都に任じられるものが多くなると、叡山の反発が起こった。[3]
      天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていた。天文元年(1532年)、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がった。天文元年から2年、日蓮宗都(法華宗)は将軍義晴の命によって、細川晴元と六角定頼と木澤長政と共に一向一揆と戦った。[4]
      当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺はこの焼き討ちで全焼した(山科本願寺の戦い)。このように、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺教団の寺院を焼き討ちした。
      この後、法華衆は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼ぶ。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

      ・山城国一揆
      (やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った事をいう。
      一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆というが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で惣国一揆ともいうことができる。
      経過
      山城国一揆の成立
      応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。南山城でも例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていた。本来、山城には名目上の守護しか置かれていなかったものの、文明10年(1478年)の畠山政長の任命後は本格的な領国化を目指す動きが盛んになっていた。その中で繰り広げられた両畠山氏の長年にわたる戦いで国人衆や農民は疲弊し、山城国一揆の土壌が整った。
      文明17年(1485年)、南山城の国人衆や農民らが宇治の平等院に集まり評定を持った。この評定で「国中掟法(くにじゆうおきて)」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により政治がおこなわれ、南山城は惣国とよばれる政治形態となった。
      幕府との関係
      当時の室町幕府では、応仁の乱とその後の混乱で失われた幕府の経済的基盤の再建に、お膝元である山城国の御料国化を進めていたため、同国が有力守護の支配下に入る事を望んでいなかった。このため、管領細川政元らは一揆に対して静観の姿勢を取った。また、「三十六人衆」の中には一揆以前より畠山氏と対抗する形で細川氏との被官関係を結んでいる者が含まれていたと言われている。
      文明18年5月26日(1486年6月27日)には、幕府政所執事伊勢貞宗の嫡男貞陸(後に執事職を継承)が守護に補任された。幕府及び伊勢氏は一揆側に一定の政治権限(検断権・半済権など)を認める一方、畠山氏が持っていた守護請の権限を継承した。また、必要に応じて守護役の徴収を国人達に求め、一揆側がこれに応じる場合もあった(『大乗院寺社雑事記』長享元年6月22日条・明応2年2月5日条)。
      当時の室町幕府は長享・延徳の乱や畠山基家討伐に見られるような兵力を動員できるだけの軍事力を依然として持っていたものの、幕府の本拠地である京都の目の前で発生した山城国一揆を鎮圧する姿勢を示さなかった。これは国人達が室町幕府や守護領国制自体を否定するために一揆を起こしたものではなく、両者の利害が直ちに対立するものではなかったからと考えられている。
      山城国一揆の崩壊
      国人衆による政治は、国人と農民の対立や国人同士の対立を生むことになり、惣国は崩壊の兆しを見せ始めた。特に明応の政変による幕府内部の混乱は幕府有力者達による山城国人衆への切り崩し工作となって現れた。これまでは半ば名目上の守護であった伊勢貞陸は京都から追放された前将軍足利義材の支持者の京都侵攻に対抗することを名目に山城全域の一円知行化を目指すようになり、国内の寺社本所領の接収を進めた(『後法興院記』明応2年閏4月27日条)。更に貞陸が大和の有力者で畠山基家の被官でもあった古市澄胤を綴喜郡・相楽郡の守護代に任じて支援を仰いだことで、伊勢・古市の支配を認めて従来の地位を維持しようとする国人達と「他国者」の古市の侵入を認めず細川氏などと結んでこれを排除しようとする国人の動きに分かれた。
      明応2年(1493年)、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになった。これに反対する一部の国人衆は稲屋妻城に立てこもって抵抗する。だが、義材追放の中心人物であった細川政元は、義材方勢力の反抗に対抗するという伊勢氏の主張を拒むことが出来ず、表だって一揆側を支援することが出来なかった。また、政元や畠山基家は古市澄胤に兵の引き上げを命じたが、守護伊勢貞陸の支援を受けていた古市はこれを拒否して国人衆の抵抗の鎮圧にあたった(『大乗院寺社雑事記』明応2年12月9日条)。翌年11月には古市軍によって一揆側は敗れ、ここに山城国一揆は完全に終結を見ることとなった。
      ・加賀一向一揆
      (かがいっこういっき)は、長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒(一向衆徒)が中心となった国人や農民による惣国一揆。
      概要
      蓮如上人の銅像
      蓮如は文明6年(1474年)〜文明7年(1475年)の間、吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在した。蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。文明5年(1473年)には富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した(文明の一揆)。
      蓮如はこれによって守護の保護を受ける事を期待していた[注釈 2]。が、逆に政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて文明7年に門徒の弾圧を開始、蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。
      ところが、今度は越中砺波郡の石黒光義が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、文明13年(1481年)に越中で一揆が発生し、光義が討ち取られる(越中一向一揆、田屋川原の戦い)。
      また、政親は加賀の一国支配の認知を目指して9代将軍足利義尚による六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。長享2年(1488年)には、代わりに富樫泰高を守護に擁立して、10万とも20万とも言われる軍勢で1万余の籠城兵を率い高尾城に籠もる政親を滅ぼした(長享の一揆)。
      足利義尚は一向一揆の討伐を検討したが、細川政元の反対と義尚の死により一向一揆討伐と六角高頼遠征は中止となった。以後、加賀に宗主代理の一門衆(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)が在住し、次第に国人層から本願寺による加賀支配に移行していった。
      ところが、永正3年(1506年)に一向一揆を抑圧する周辺諸国への進撃を行って失敗(九頭竜川の戦い・般若野の戦い)した頃から、一門衆による統治に動揺を来たし始める。
      続いて本願寺中央が一門衆を抑圧しようとした事から、享禄4年(1531年)には大小一揆と呼ばれる内紛に発展して多くの一門衆やこれに従った国人衆が粛清された(享禄錯乱)。
      天文15年(1546年)に尾山御坊(金沢御堂)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。弘治元年(1555年)、永禄7年(1564年)に朝倉氏と、1570年代前半は上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ・比叡山焼き討ち
      (ひえいざんやきうち)は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の比叡山延暦寺を、織田信長の軍が攻めた戦い。この戦いで信長軍は延暦寺の伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている(後述)。
      当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕であった。比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。
      先の比叡山の攻防戦では、比叡山側は信長が横領した寺領の返還を約束する講和も拒絶し、浅井・朝倉連合軍を援けたりもしたので、信長側は軍事的拠点を完全に破却しようと考えたとされている[1]。信長包囲網で各勢力から包囲される中、近江の平定と比叡山の無力化が戦線打破の重要課題と考えられていた。比叡山の無力化とは、比叡山が信長方に属さない以上、軍事的役割の抹殺つまり比叡山の徹底的破壊を意味している。
      この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金300を、また堅田からは200を贈って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。
      元亀2年(1571年)9月12日、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に攻撃が始まった。『信長公記』にはこの時の様子が「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」(『信長公記』)
      と記されている。坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山北緯35度4分26.6秒 東経135度51分33.85秒に立て篭もったようだが、同所も焼かれた。この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『言継卿記』には3,000-4,000名と記されている。
      ・吉崎御坊
      (よしざきごぼう)は、かつて越前吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎。「史跡 吉崎御坊跡」[1]の石碑が立つ。
      起源
      文明3年(1471年)7月27日、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した[2][3][4]。吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であったが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若い頃に経覚の元で修行していたこと、また偶々吉崎の代官の地位にあったのが当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本覚寺の住持蓮光であったという関係もあって経覚が蓮如のために吉崎を譲ったのだといわれている。
      この地で蓮如は教義を民衆にわかりやすく説き、時には御文(「御文章(ごぶんしょう)」)を用いたり、「南無阿弥陀仏」の六字名号を下付したため、御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集った。また、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成した。
      ・越中一向一揆
      (えっちゅういっこういっき)は、文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、越中の瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一向一揆。地方豪族化し、上杉謙信に制圧された。本拠は御峰城(土山御坊)・瑞泉寺・勝興寺。
      概要
      明徳元年(1390年)、本願寺第5世法主・綽如が瑞泉寺を創建、越中の拠点を築いた。嘉吉2年(1442年)に綽如の孫娘・勝如尼の夫・如乗(第6世法主巧如の次男)が加賀本泉寺を創建、加賀にも本願寺が進出していった。
      加賀一向一揆の越中への侵入
      詳細は「加賀一向一揆」を参照
      文明7年(1475年)、加賀の富樫政親に弾圧された加賀一向一揆衆が越中に落ちのびる。(加賀一向一揆参照)
      文明7年(1475年)、加賀の富樫政親に弾圧された加賀一向一揆衆が越中に落ちのびる。(加賀一向一揆参照)
      越中一向一揆の地方豪族化
      「田屋川原の戦い」を参照
      文明13年(1481年)、加賀守護富樫政親に弾圧された加賀一向一揆衆は真宗大谷派井波別院瑞泉寺(南砺市)に逃げ込むが、脅威と感じた越中福光城主石黒光義が瑞泉寺を襲撃しようとして逆に討たれた。越中は砺波郡に瑞泉寺の勢力が浸透する。
      加賀守護が加賀一向一揆に討たれる
      長享2年(1488年)、加賀国守護の富樫政親が加賀一向一揆に討たれた。加賀は第8世法主蓮如の3人の息子(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・二俣本泉寺住持蓮悟)が統治した。
      蓮如の次男蓮乗は如乗・勝如尼夫妻の婿となって瑞泉寺(南砺市)と二俣本泉寺(石川県金沢市二俣町)を譲られた。蓮乗の弟・蓮誓も勝如尼から土山御坊を譲られ、越中の門徒指導にあたった。蓮誓は土山御坊を次男実玄に譲渡(光教寺は3男顕誓が相続)したが、永正16年(1519年)に焼失、移転して安養寺御坊(勝興寺)を築いた。瑞泉寺も蓮乗の死後は義弟蓮欽(勝如尼の甥、妹了如の夫)の子孫が、二俣本泉寺は弟の蓮悟が相続していった。
      般若野の戦い
      詳細は「般若野の戦い (戦国時代)」を参照
      永正3年(1506年)9月、長尾能景が畠山氏の要請を受けて越中に出兵するが、般若野の戦いで越中一向一揆・神保慶宗連合軍と戦って敗死した。このため、長尾能景の子・長尾為景は神保慶宗と永正17年(1520年)12月まで長期にわたる抗争を繰り返すようになる。
      加賀一向一揆と本願寺の対立
      詳細は「大小一揆」を参照
      享禄4年(1531年)、加賀一向一揆と本願寺が対立、大小一揆と呼ばれる内乱を起こすと勝興寺は本願寺側の大一揆に与した。結果、加賀は本願寺の直接統治下に入ったが、越中は勝興寺と瑞泉寺の支配下に入った。
      越中の戦国時代
      詳細は「越中の戦国時代」を参照
      その後は長年に渡って強大な勢力を維持し、能登守護畠山氏や越後守護代長尾氏、越中守護代遊佐氏等と敵対してきた。永禄年間から元亀年間を経て天正年間に至るまでは甲斐武田氏と組んで、上杉謙信と激しく係争。
      尻垂坂の戦い
      詳細は「尻垂坂の戦い」を参照
      元亀3年(1572年)9月初旬の尻垂坂の戦いで、加賀一向一揆・越中一向一揆は大敗し、越中一向一揆は壊滅。やがて上杉謙信との間に和睦が成立すると収束に向かった。
      上杉謙信が越中を平定
      天正4年(1576年)、上杉謙信が増山城、森寺城などを落城させ、越中を制圧。
      ・石山合戦
      (いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。
      概要
      広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から天正8年8月2日の顕如退去までの10年間を指すが、天正8年閏3月7日(1580年4月20日)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとすることもある。
      戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦の終結と同時に各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ・長島一向一揆
      (ながしまいっこういっき)は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こった。
      第一次長島侵攻
      長島一向一揆はこれまでの圧倒的物量で押し切る一揆とは違い、撤退路での伏兵といった作戦行動を取るなど、防衛能力の高さを織田家に知らしめた。また桑名方面から海路を使って雑賀衆らの人員や兵糧・鉄砲などの物資が補給されていた為、伊勢湾の制海権を得ることも長島攻略には欠かせない要素であり、信長は長島に対しての侵攻作戦内容の再考を余儀なくされた。
      第二次長島侵攻
      信長は北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻めさせて落城させると、10月25日には矢田城に滝川一益を入れ美濃へと帰陣を開始した。
      一揆勢の追撃
      退く最中、門徒側が多芸山で待ち伏せし、またもや弓・鉄砲で攻撃を仕掛けてきた。中には伊賀・甲賀の兵もいたという。信長は林通政を殿軍としたが、折悪く雨が降り出して火縄銃が使用不可となってしまい、白兵戦となった。林通政が討ち取られ、また正午過ぎからの風雨で人足がいくらか凍え死にするなどの損害を出したが、通政や毛屋猪介らの部隊の奮戦によって夜に信長は一揆勢を振り切って大垣城へと到着。10月26日には岐阜へと帰還した。
      湊の取り締まり
      大湊での船の調達が失敗した背景には織田家より長島に肩入れをする会合衆の姿勢にも要因があった。こうした中で大湊が長島の将、日根野弘就の要請に応じて足弱衆(女や子供)の運搬のため船を出していたことが判明した。
      この事実を知った信長は激怒し、「曲事であるので(日根野に与した)船主共を必ず成敗すること」を命じ、山田三方の福島親子が処刑された。信長は福島親子の処刑によって「長島に与すことは死罪に値する重罪である」と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員・物資補充の動きを強く牽制した。
      第三次長島侵攻
      1574年(天正2年)6月23日、信長は美濃から尾張国津島に移り三度目の長島攻めのため大動員令を発し、織田領の全域から兵を集め、7月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作戦が開始された。
      海陸、東西南北四方からの織田軍の猛攻を受けた諸砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込んだ。
      大鳥居城・篠橋城は、織田信雄・信孝らに大鉄砲で砲撃され、降伏を申し出てきたが、信長は断固として許さず兵糧攻めにしようとした。8月2日夜中、大鳥居城の者たちが城を抜け出したところを攻撃して男女1,000人ほどを討ち取り、大鳥居城は陥落した。
      8月12日、篠橋城の者たちが「長島城で織田に通じる」と約束してきた。この約束は偽りであり、兵糧が尽きた為、長島城へ移りたいが為の方便だったが、兵糧攻めを狙う織田方にしてみれば、攻略中の城が減り、長島城の人数が増えるのは好都合であった為、織田軍はその要求を受け入れ、篠橋城を出た一向宗たちを長島城へ追い入れた。この後も長島には何の動きも起こらず籠城戦が続いたが、人数が増えたせいで兵糧の減りが早まり、結果的に城中では多くの者が餓死した。
      兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月29日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。これに怒った一揆衆800余が、織田軍の手薄な箇所(織田一門衆の一部の隊等)へ、裸になって抜刀するという捨て身で反撃を仕掛けた。『日本史』によれば、これは伏兵だったという。これによって信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死し、700 - 800人(『信長公記』)または1,000人(『フロイス日本史』)ほどの被害が出た。ここで包囲を突破した者は、無人の陣小屋で仕度を整え、多芸山や北伊勢方面経由で大坂へと逃亡した。
      この失態を受けて、信長は、残る屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火攻めにした。城中の2万の男女が焼け死んだという。同日、信長は岐阜に向け帰陣した。
      こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ・天正伊賀の乱
      (てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。
      第一次天正伊賀の乱
      北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。
      すぐさま伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。
      翌天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で8,000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。信雄軍は重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる。また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。
      第二次天正伊賀の乱
      天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。
      そして再び織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。 伊賀衆は比自山城に3,500人(非戦闘員含め10,000人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に1,500人で籠城した。伊賀衆は河原(あるいは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ敗れた。筒井順慶隊にも夜襲を掛け、1000兵を討ち取られた。これに怒った氏郷は平楽寺を攻撃し、退けられるが滝川一益の援軍を得て陥落させた。続く比自山城は、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し、落とせなかった(比自山城の戦い、この時活躍した伊賀衆を比自山の七本槍という)。
      内応者が出た事もあり(伊賀衆は織田方の調略を受け、連携を欠いていた)、織田軍は各地で進撃し同月11日にはほぼ伊賀国を制圧した。村や寺院は焼き払われ、住民は殺害された(平楽寺では僧侶700人余りが斬首、伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)。
      奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が28日早朝に信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期を9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。
      この柏原城が開城した時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。残党は捕縛され殺されたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国した。
      乱後
      同年10月9日には信長自身が伊賀国に視察に訪れている。信長は阿拝郡、伊賀郡、名張郡を織田信雄に、山田郡を織田信包(信長公記では「上野介信兼」)にそれぞれ与えた。

  • @id5960
    @id5960 10 місяців тому +1

    こんな話を聞いた事があります。真の人間は左とか右とかじゃない。
    どちらにも動かないのが真の人間とか

    • @user-og2ef9mo1m
      @user-og2ef9mo1m 10 місяців тому

      もしくは揺れ動いて動的平衡とか

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +3

    福田 恆存
    (ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25日 - 1994年〈平成6年〉11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事[1]などを務めた。
    概要
    保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家[6]。
    また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ[7]。
    文藝春秋社「文藝春秋」、「諸君」、自由社「自由」などの保守派総合雑誌への寄稿でも知られる。産経新聞社の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎、小林秀雄等の提唱によって1973年(昭和48年)に創刊された。
    「レトリシャン」や「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった[8]。著書に『人間・この劇的なるもの』(1956年)、『私の英国史』(1980年)、戯曲『キティ颱風』(1970年)など。
    経歴
    出自と教育
    1912年(大正元年)8月25日、東京市本郷区駒込東片町にて、埼玉県大宮出身の東京電燈社員の父・幸四郎、伊豆出身の石工の子孫である母・まさの長男として中間階級の家庭に生まれる。「恆存」は石橋思案の命名で、『孟子』に由来する[1][9]。自然豊かな下町・神田で育ち、一家はしばしば劇場に通った。
    1919年(大正8年)、東京市立錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)に学区外入学。大正デモクラシー教育の先進校であった同校では自学自習、自由研究、自由画などが導入されており、福田はリベラルな先進的教育を受けるが、小学生ながらも「新教育理論」に陶酔する教師に対して違和感を抱いていた。また、1922年(大正11年)の関東大震災により下町の気風は消え、福田は「故郷喪失者」となった。[10]
    私には今の東京は勿論の事、戰前の東京も故鄕ではない。私の故鄕は關東大震災前の東京である。つまり、私は故鄕喪失者といふことになる。
    - 「ふるさとと旅」『旅』(1978年)
    1925年(大正14年)4月、第二東京市立中学校(現・東京都立上野高等学校)入学。高橋義孝と同級。同校でもリベラルな先進的教育を受けるが、校風の「自主の精神」には息苦しさを覚えた。当時の二中校長高藤太一郎により、優秀な教師が集められ、教師陣には英語の落合欽吾、岡倉由三郎、上田義雄、国語の横山藤吾、時枝誠記、西尾実、福永勝盛、東洋史の志田不動麿がいた。1929年(昭和4年)、四修で旧制浦和高等学校の受験に挑戦するが、落第した。[11]
    1930年(昭和5年)、旧制浦和高等学校文科甲類入学。当時の旧制学校は昭和恐慌もあり同盟休校が盛んに行われた「シュトゥルム・ウント・ドランク」(疾風怒濤)の時代だったが、福田自身は左翼的な学生運動には関わらなかった。小説から戯曲に関心を移し、高校時代に劇作家を志す。高校三年時に執筆した「我国新劇運動の過去と未来」では、小山内薫没後まもない演劇界の左翼・マルクス主義傾向を批判している。また同時期に、アドルフ・アッピア(舞台演出家)の"L'Oeuvre D'art Vivant"の第一章を英訳版から重訳している。1932年(昭和7年)開設の築地座に応募作品「或る人の街」を送り、佳作に選ばれた。[12]
    1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部英吉利文学科(英文科)入学。高校末期から大学初期にかけ執筆は劇作から批評に重きを置いた。これは小林秀雄の影響によるものだが、福田自身は小林の影響がこれ以上及ぶことを恐れ、『文藝評論』など僅かな作品にしか触れていない。[13]。
    戦前・戦中
    1936年(昭和11年)3月、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒業。卒業論文は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」、英題"Moral Problems in D. H. Lawrence")。同年、徴兵検査を受け、丙種合格兵役免除。東大卒業後は旧制中学教師、出版社、団体職員などで勤務した[1]。
    1937年(昭和12年)1月、同期の友人高橋義孝に誘われ第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、論壇デビュー作として「横光利一と『作家の秘密』」を発表した。同年4月、不況下で就職先がなく、東京帝国大学大学院入学。1938年(昭和13年)5月から静岡県立掛川中学校(現・静岡県立掛川西高等学校)で教鞭を執るが、校長との不和により翌年7月に退職した。
    1940年(昭和15年)には中学時代の恩師である西尾実の紹介により、雑誌『形成』編集者となる。このころ、神奈川県立湘南中学校(現・神奈川県立湘南高等学校)、浅野高等工学校(現・浅野工学専門学校)、日本大学医学部予科で教鞭を執る。1941年(昭和16年)、西尾の紹介で日本語教育振興会に参加し、雑誌『日本語』編集に関わった。翌1942年(昭和17年)には日本語教育振興会の命令により満州、モンゴル、中国を視察する。1944年(昭和19年)、日本語教育振興会退職。同年、太平洋協会研究員。
    1944年(昭和20年)1月、西尾の媒酌により西本敦江(西本直民長女)と結婚。空襲が激しさを増す中で恆存以外の家族は静岡県に疎開する。同年6月、東京女子大学講師。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      戦後
      福田と妻子(1948年)
      1946年(昭和21年)10月、月刊誌『展望』にて「民衆の心」を発表。同年3月、神奈川県中郡大磯町に移住し、一家を疎開先の静岡県から呼び寄せる。1947年(昭和22年)に『批評』同人となる。また、中村光夫、吉田健一と共に鉢の木会を結成する。1950年(昭和25年)に多摩美術大学教授。同年には岸田國士による「雲の会」創設に参加。1951年(昭和26年)、チャタレイ裁判に被告人側の特別弁護人として出廷し、小山書店社長小山久二郎の無罪を主張した。
      1969年(昭和44年)、京都産業大学教授。京都には在住せず、月に一度の集中講義を行った。1983年(昭和58年)、京都産業大学退職。1981年(昭和56年)より日本芸術院(第2部)会員。
      晩年
      1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)11月20日に、肺炎により東海大学医学部付属大磯病院で没した[1]。享年82。戒名は実相院恆存日信居士[14]。12月9日に青山葬儀所で本葬・告別式が行われた。葬儀委員長は作家阿川弘之で、林健太郎、久米明等が弔辞を述べた。墓所は神奈川県中郡大磯町妙大寺福田家之墓。
      主な業績は、前記の『全集』や『翻訳全集』にまとめられた。ただし自選により、短編の論文随想に加え唯一の新聞連載小説である『謎の女』(新潮社、1954年(昭和29年))をはじめ、生前刊行の全集・著作集には、未収録で知られざる論考著作も多い。2007年(平成19年)11月より、福田逸(次男・明治大学商学部教授で、演出家・翻訳家・財団法人「現代演劇協会」[15]理事長として演劇活動を継いだ)等の編集により、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会、カバー装丁)が刊行完結した(下記の全集・著作集を参照)。
      活動
      文芸評論
      『行動文学』の同人として、「横光利一と『作家の秘密』」などを発表し文芸評論を開始。文芸評論者としては嘉村礒多、芥川龍之介らに関する論考が、戦前や戦後間もない時期の主な作品である。また1947年(昭和22年)に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治と文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この作品を福田の代表作とみなす見解も多い。『群像』1948年6月-7月に「道化の文学―太宰治論」を発表。1949年(昭和24年)より日英交流のための団体「あるびよん・くらぶ」に参加[16]。
      昭和20年代後半より、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年(昭和25年)の『藝術とは何か』(要書房)や、芸術・演劇論から人間論にまで展開した1956年(昭和31年)の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。1950年、多摩美術大学で教授を務めた[17]。
      政治
      福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛の中での保守派の論争家としての活動であった。1954年(昭和29年)に『中央公論』12月号に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、当時全盛であった進歩派の平和論を真っ向から判した。
      福田は、「平和論の進め方についての疑問」以降、論壇から「保守反動」呼ばわりされ、「村八分」の処遇を受けたと述懐している[18]。『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)では、「平和論の進め方についての疑問」以降、言及が即座に無くなったわけではなく、1966年までは比較的言及されているが(言及数24)、しかし肯定的に取り上げられているのは17で31人中第28位となり、中野好夫(49)、小田実(40)、清水幾太郎(39)の半分以下となる[19]。さらに、否定的に取り上げられているのは7であり、否定的に取り上げられる割合は30・8%となり、31人中のトップとなる[19]。
      例えば都留重人は以下のように取り上げている[20]。
      ベトナム問題が論壇をにぎわしているのは、これで四ヶ月目だが、今月になって目立つことは、アメリカの政策を支持する論文の登場である。中でも、一番むきになってこの役をはたそうとしているのは、福田恒存の「アメリカを孤立させるな」(文芸春秋)であろう。福田はいろいろなことを、いわば文学者的特権で、証明なしに言っている(後略)
      - 『朝日新聞』論壇時評 1965年6月22日
      しかし1967年以降からは、肯定的・否定的に関わらず言及されなくなり、竹内洋は「『保守反動』評論家というレッテルが定着したのだろう」と述べている[19]。このように福田は論壇では否定、そして無視されていくようになる[21]。坪内祐三は、福田が『問ひ質したき事ども』(1981年)を刊行したころは保守論壇からも完全に孤立していた、と評している[22]。
      1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)には、フジテレビ系列の政治討論番組『福田恆存の世相を斬る』(世相を斬るシリーズにおいては第3代目)の司会進行でテレビ出演もしていた。この時期には韓国大統領朴正煕と親交があり、没時に回想記も発表した。
      右派の漫画家・小林よしのりは、『修身論』後半の一章[23]を使い、福田の「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」[24](「消費ブームを論ず」1961年 原文原題は本字体歴史的仮名遣い)を引用し、自身のスタッフに「福田恆存のこの言葉を噛みしめよ」と述べている。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      国語国字問題
      戦後の国語国字改革を批判し、1955年(昭和30年)から翌年にかけての金田一京助たちとの論争で(「国語改良論に再考をうながす」「知性」1955年10月号など)「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的仮名遣のすすめを説く『私の國語敎室』(新潮社、初版1960年(昭和35年)、読売文学賞受賞)である。著書全ては歴史的仮名遣で書かれたが、出版社の意向で文庫再刊等の一部は、現代かなづかいを用いている。
      翻訳
      翻訳家としての代表作は、シェイクスピア「四大悲劇」を初めとする主要戯曲、ヘミングウェイ『老人と海』、D・H・ローレンス最晩年の評論『アポカリプス論』(初版は邦題『現代人は愛しうるか』白水社、1951年(昭和26年)に初刊)、ワイルド『サロメ』、『ドリアン・グレイの肖像』である。
      堀内克明は、著書『誤訳パトロール』(1989年、大修館書店)で『恋する女たち』(新潮文庫)の福田のテキストから、「a long, slow look」を「遠いどんよりしたまなざし」としている語その他を「初歩を誤った」誤訳であると指摘している(堀内によれば、この表現は正しくは「ゆっくり、じっと」という、距離ではなく時間としてのlongとslowであるとする)。小川高義は、『老人と海』(光文社古典新訳文庫、2014年)訳者解説で、老人の「aloud」を福田が「叫ぶ、ののしる」など感情的に翻訳している点を批判、老人の性格描写および近現代の用法からその語は単に「口にした」程度のものである、と考察している。
      演劇人として
      劇作家、演出家でも活躍した。福田恆存(1912年生)は、1930年代の十代より評論、劇作を開始、『我国新劇運動の過去と現在』を発表するなど、新劇運動にも参画した。支持を表明する築地座(1932年結成)の戯曲公募にも応じ、処女作『或る街の人』が佳作に選ばれた事で、友田恭助らの面識を得る[25]。文壇へのデビュー後には、岸田國士が主宰する雲の会(1950年結成)に参加し[26]、文学座でのシェイクスピア悲劇『ハムレット』(1955年初演)の翻訳、演出を行った[27]。1963年からは、財団法人・現代演劇協会の理事長を務め、協会附属の劇団雲、劇団欅、更には劇団昴を主宰する[28]。
      やがて芥川と対立すると、協会内で新たに「劇団欅」を設立し、「劇団雲」から手を引いて芥川らと一線を画するようになった。1975年(昭和50年)に芥川、仲谷、岸田、中村伸郎ら「劇団雲」の大部分が現代演劇協会を離脱し、「演劇集団 円」を設立すると、「劇団雲」の残留派と「劇団欅」を統合し、「劇団昴」を結成した。
      1981年(昭和56年)に『演劇入門』(えんげきにゅうもん)[29]を刊行。没後の2020年(令和2年)に『演劇入門 増補版』(2020年8月、中央公論新社)が中公文庫で再刊された[30]。
      家族・親族
      父: 幸四郎
      母: まさ
      長弟: 二郎
      長妹: 悠由枝
      次妹: 妙子(俳優加藤和夫夫人)
      末妹: 伸子(洋画家勝呂忠夫人)
      長男: 適
      次男: 逸

  • @user-ge2wx6tc5t
    @user-ge2wx6tc5t 10 місяців тому +1

    文化はカルチャー、カルティベート耕すこと。浜崎さんは原発容認ですよね?福島の土地は耕せますか?

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

    ロマン主義
    (ロマンしゅぎ、英: Romanticism、仏: Romantisme、独: Romantik、伊: Romanticismo、西: Romanticismo、葡: Romantismo)は、主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで、その後にヨーロッパの影響を受けた諸地域で起こった精神運動のひとつである。それまでの理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であり、古典主義と対をなす。恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、近代国民国家形成を促進した。その動きは文芸・美術・音楽・演劇などさまざまな芸術分野に及んだ。のちに、その反動として写実主義・自然主義などをもたらした。
    概要
    ロマン主義は教条主義、古典主義の対概念としてとらえられるもので、アメリカの哲学者・アーサー・ラブジョイ(en:Arthur Oncken Lovejoy)は「ロマン主義の時代」を1780年から1830年としている[1]。また、ロマン主義は部分的には産業革命への反動であった[2]。その萌芽は既にベルナルダン・ド・サン=ピエールやディドロに見られ[3]、セナンクール、スタール夫人、バンジャマン・コンスタン、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンといった初期ロマン派作家によって、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の独自性を根本とした表現が特徴とされる。これらはナポレオン1世の第一帝政に対する文化的抵抗運動の中で文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、フランスのジャン=ジャック・ルソーの著作がドイツに伝えられたことで始まったドイツのロマン主義は、再びフランスに逆輸入される形でその花を開いた[4]。フランスのロマン主義運動はオノレ・ド・バルザック死を境に1850年代以降は勢いを失い、シャルル・クロスなどの小ロマン派を除いては[5]その座を写実主義、自然主義、高踏派などに譲ることになるが[6]、その影響はヨーロッパ全域に広まり、世紀末から20世紀初頭の後期ロマン主義にまで及んだ。ロマン主義を信奉する傾向や集団を指してロマン派 とも呼ばれる。
    ロマン主義の底流に流れているものは、古典主義や教条主義がしばしば無視した個人の、根本的独自性の重視、自我の欲求による実存的不安といった特性である。ロマン主義においては、古典主義において軽視されてきたエキゾチスム・オリエンタリズム・神秘主義・夢などといった題材が好まれた。また、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩・個人的愛情などを大きく扱った。また、古典主義はその技法上の制約によって芸術的自由を抑圧したと非難する主張や、古典主義の欠陥に対する反発から、ロマン主義は出発したとされる[7]。
    この特性および主張は、道徳やキリスト教的倫理から文学を解放し、やがて写実主義・自然主義へと継承された。
    「ロマン」の語源
    ローマ帝国時代のラテン語には、文語としての古典ラテン語と口語としての俗ラテン語が存在したが、その差はさほど大きくなかった。しかし、衰退期に入ると文語と口語の差は徐々に広がり、やがて、ひとつの言語の変種とは呼べないほどにその違いは大きくなり、文語は、古典ラテン語の知識のない庶民には理解困難なほどにまでなった。対して、その時代の口語のほうをロマンス語と呼んだ。ロマンス語で書かれた文学作品はロマンスと呼ばれるようになり、ギリシャ・ローマの古典文学の対立概念とされるようになった。ロマン主義(ロマンティシズム)の語源はここにある。したがってロマン主義の「ロマン」とは、「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味である。
    ロマンと浪漫
    ロマンを「浪漫」という当て字で表記したのは夏目漱石であり、1907年の講義録『文学論』にその存在が確認できる。
    表現の写実にして取材の浪漫なるものあり。取材の写実にして表現の浪漫なるものあり。
    - 夏目漱石、文学論
    また、1911年には長野県会議事堂での講演で、「自然派」と共に自身が「浪漫主義」と當てたと回答している。
    さて一方文学を攷察して見まするにこれを大別してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、後者のナチュラリズムは自然派と称しております。
    - 夏目漱石、『教育と文芸――明治四十四年六月十八日長野県会議事院において――』
    多くの和製漢語と共に中華圏で受容され、現在も中国語では「浪漫主義」の表現が用いられる。
    文学
    文学では「ロマンティック (romantique)」という言葉を現在、その言葉に含蓄されているような意味合いで初めて使ったといわれるフランスのルソー(『孤独な散歩者の夢想』)を嚆矢とし、多くの作家が挙げられる。
    18世紀末のベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー(英語版)』やディドロの『ラモーの甥(英語版)』あるいはルソーの『新エロイーズ(英語版)』、『告白』などにロマン主義の萌芽は見られた。19世紀に入ると、スタール夫人、バンジャマン・コンスタン、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、セナンクールといった初期ロマン派作家によって、現実認識および自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものは、それまでの教条主義では存在が否定され、啓蒙主義においてはその輝きの影に隠れたものであった。同時に、この自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。これらはナポレオン1世の第一帝政に対する文化的抵抗運動の中、文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、ヴィクトル・ユゴーやその兄アベル・ユゴー(フランス語版)が属した「文学保守(フランス語版)」誌、あるいは「グローブ(フランス語版)」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。1825年、ヴィクトル・ユゴーとシャトーブリアンが自由主義化することで、ロマン主義はより大きなうねりとなった。自由主義・個人主義・感情主義を柱とするロマン主義の確立は、それまでの教条主義・古典主義に対する個人の解放だけでなく、あらゆる専制に対する人間性の解放をも目指した。ユゴーは戯曲『エルナニ』の序文で「芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適ったすべての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。(中略)文学の自由は政治的自由の娘である」と書いている。1830年、この戯曲『エルナニ』の上演における混乱は「エルナニ事件(フランス語版)」と呼ばれ、フランス芸術界を覆ったロマン主義における一大事件となっている。
    19世紀前半の代表的なロマン主義詩人としてはアルフォンス・ド・ラマルティーヌ、アルフレッド・ド・ミュッセ、アルフレッド・ド・ヴィニー、ヴィクトル・ユゴー、ジェラール・ド・ネルヴァルらが、小説家としてはスタンダール、オノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユゴー、プロスペル・メリメ、ジョルジュ・サンドらが挙げられる。1848年の総選挙によるラマルティーヌの失敗と、1850年のバルザックの死、および1851年12月2日のルイ・ナポレオンのクーデタを通じ、ロマン主義は幻滅の中で写実主義・自然主義にその座を譲ることになる[8]。以降のロマン派はシャルル・ラッサイー(フランス語版)、シャルル・クロス、エリファス・レヴィらの小ロマン派と呼ばれる詩人・作家たちにパリの文芸サロン文化内で細々と継承され、やがて象徴主義にたどり着くことになる。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      日本
      島崎藤村
      日本では明治中期(1890年前後)以降、西欧のロマン主義文学の影響を受け、森鷗外の『舞姫』(1890年)によってロマン主義文学が始まり、「文学界」同人の島崎藤村・北村透谷らによって推進された。透谷は『内部生命論』(1893年)で「吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり」と主張した。また、写実主義に対する反動から泉鏡花の観念小説が書かれ、日清戦争後の社会不安から広津柳浪の悲惨小説(深刻小説)が書かれた。日本のロマン主義文学のおもな作品は、樋口一葉の短編小説『たけくらべ』(1895年)、島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、国木田独歩の随筆的小説『武蔵野』(1898年)、徳冨蘆花の社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年)、泉鏡花の幻想小説『高野聖』(1900年)、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年)、高山樗牛の評論『美的生活を論ず』(1901年)、伊藤左千夫の中篇小説『野菊の墓』(1906年)などである。国木田独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化していき、島崎藤村は『破戒』(1906年)により、ロマン主義から自然主義文学に完全に移行した。日本のロマン主義文学は、西欧のそれと比べて短命であった。また、夏目漱石は「浪漫」という漢字による当て字を考案した。
      大正ロマン
      日本におけるロマン主義は明治中期に始まり明治末には自然主義への移行で終わったが、「ロマン主義の終焉した大正時代」の文化世相を「大正ロマン(大正浪漫)」と呼ぶ。
      日本浪曼派
      1935年(昭和10年)になると新しいロマン主義を模索する保田與重郎をはじめとする日本浪曼派が登場し、同名の機関紙「日本浪曼派」が発刊された。日本浪曼派は、反近代主義と古代賛美の色を濃くし、国粋主義的傾向も強かったとされ、戦前末期の論壇や青年層に強い影響力を持った。「日本浪曼派」の同人には亀井勝一郎、檀一雄、太宰治等がいる。三島由紀夫は日本浪曼派から影響を受けた代表人物の一人である。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      フランス
      18世紀末のベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー(英語版)』やディドロの『ラモーの甥(英語版)』あるいはルソーの『新エロイーズ(英語版)』、『告白』などにロマン主義の萌芽は見られた。19世紀に入ると、スタール夫人、バンジャマン・コンスタン、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、セナンクールといった初期ロマン派作家によって、現実認識および自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものは、それまでの教条主義では存在が否定され、啓蒙主義においてはその輝きの影に隠れたものであった。同時に、この自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。これらはナポレオン1世の第一帝政に対する文化的抵抗運動の中、文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、ヴィクトル・ユゴーやその兄アベル・ユゴー(フランス語版)が属した「文学保守(フランス語版)」誌、あるいは「グローブ(フランス語版)」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。1825年、ヴィクトル・ユゴーとシャトーブリアンが自由主義化することで、ロマン主義はより大きなうねりとなった。自由主義・個人主義・感情主義を柱とするロマン主義の確立は、それまでの教条主義・古典主義に対する個人の解放だけでなく、あらゆる専制に対する人間性の解放をも目指した。ユゴーは戯曲『エルナニ』の序文で「芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適ったすべての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。(中略)文学の自由は政治的自由の娘である」と書いている。1830年、この戯曲『エルナニ』の上演における混乱は「エルナニ事件(フランス語版)」と呼ばれ、フランス芸術界を覆ったロマン主義における一大事件となっている。
      19世紀前半の代表的なロマン主義詩人としてはアルフォンス・ド・ラマルティーヌ、アルフレッド・ド・ミュッセ、アルフレッド・ド・ヴィニー、ヴィクトル・ユゴー、ジェラール・ド・ネルヴァルらが、小説家としてはスタンダール、オノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユゴー、プロスペル・メリメ、ジョルジュ・サンドらが挙げられる。1848年の総選挙によるラマルティーヌの失敗と、1850年のバルザックの死、および1851年12月2日のルイ・ナポレオンのクーデタを通じ、ロマン主義は幻滅の中で写実主義・自然主義にその座を譲ることになる[8]。以降のロマン派はシャルル・ラッサイー(フランス語版)、シャルル・クロス、エリファス・レヴィらの小ロマン派と呼ばれる詩人・作家たちにパリの文芸サロン文化内で細々と継承され、やがて象徴主義にたどり着くことになる。
      イギリス
      ジョージ・ゴードン・バイロン
      イギリスにおけるロマン主義は、ヨーロッパ啓蒙主義に強い影響を受け、ウィリアム・ブレイクの詩をその萌芽とし、ウィリアム・ワーズワースとサミュエル・テイラー・コールリッジの共著である詩集『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』(1798年)をもって本格的に始まる。さらにロバート・サウジーらが牽引した。ワーズワースやコールリッジらはフランス革命後保守化したが、ナポレオン戦争後ジョージ・ゴードン・バイロン、パーシー・ビッシュ・シェリー、ジョン・キーツらは先鋭化しイギリスを去ってスイスやイタリアなどに移り、理想主義を掲げた。そうした中、『穀物条例歌集』のように政治に深く関わる作品も著された。またバイロンはギリシャ独立戦争に従軍した。これらは産業革命や重商主義への反動として産業革命の浸透と時を同じく浸透していったが、やがて産業革命の所産である功利主義的な思想にとって代わられることとなった。バイロンの死去した1820年代以降、イギリスにおけるロマン主義は急速に後退していった。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ドイツ
      ドイツのロマン主義文学はゲーテの作品や疾風怒濤期の作品から理論の形成に大きな影響を受けたが、ゲーテ自身はロマン主義に批判的であった。ドイツ文学におけるロマン主義運動は北部のイエナを中心とした。イエナにはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の宰相でもあるゲーテの政策によって、国内を代表する学者たちが教授として招かれていた。ドイツの初期ロマン派(ドイツ・ロマン派、イエナ・ロマン派)の文学者には文学誌「アテネーウム」を主宰したシュレーゲル兄弟、ティーク、ノヴァーリスなどがいる。イエナのサークルにはゲーテ、シラー、シュライエルマッハー、フィヒテ、シェリングが関わった。またこのサークルには加わらなかったが、ヘルダーリンもイエナでフィヒテの講義を聴講している。この初期ロマン派は哲学への志向を持った。この傾向はシュレーゲルに強く近代の特徴的所産としてフランス革命・フィヒテの知識学・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』を挙げている。しかしこの文学者からの接近は哲学者からは必ずしも歓迎されなかった。シュレーゲルはイエナ大学で哲学の講義を行ったが、哲学界からは黙殺された。またヘーゲルやシェリングはシュレーゲルの思想を浅薄なものと非難している。しかしフィヒテの後期知識学や、シェリングの後期哲学(積極哲学)には明確にロマン主義の影響が認められる。これらのドイツ観念論とは異なる哲学的思索については、のちにヴァルター・ベンヤミンが芸術批評の思想として発掘し、カール・ハインツ・ボーラーなどにより積極的に評価された。哲学史的意味においてこの時期の古代ギリシア研究にアポロンと対置されたディオニュソス的な存在を見出した影響は大きく、ニーチェらがこの分類を用いたほか、世紀末芸術などにモチーフが受け継がれた。彼らのグループ「イェナロマンティカー」は各人の転居や死などにより1800年には解消した。のちにベルリンのアルニムらによるサロンを中心とする小説家群が輩出された。この文学者群を後期ロマン主義と呼び、グリム兄弟、シャミッソー、ホフマンらが挙げられる。シュレーゲルの友人であるスタール夫人により、ドイツのロマン主義はその源流であるフランスに紹介された。なお、2021年9月14日フランクフルト・アム・マインのゲーテハウスに隣接してドイツロマン主義博物館(Deutsches Romantik-Museum)が開館した[9]。
      ベルギー
      ヴィクトル・ユゴーの戯曲『エルナニ』の上演をめぐるエルナニ事件が起きた1830年に、ベルギーは臨時政府議会による独立承認が行われている。独立前の政治的混乱と産業革命の成功にともなうブルジョワ階級の功利主義の中でロマン主義の受容は遅れていたといわれ、また当時のフランス王党派色の強いロマン主義文学に対してオランダ王家(オラニエ=ナッサウ家)に対する独立運動を行っていたベルギー人の反応は薄かったといわれている[10]。フランス側からだけでなく、ドイツ側からも喧伝されたが、一部の貴族以外からの反響はなかった[10]。ベルギーがロマン主義の受容を始めるのは、自由主義とロマン主義を明確に掲げた「グローブ」紙が熱心に読まれ始める1820年代中盤、1826年にオーギュスト・バロン(英語版) (Auguste Baron) がパリからブリュッセルに移り、バロンの執筆した「ブリュッセル・ジャーナル」誌 (Le Journal de Bruxelles) と古典派の拠城とされる「歩哨」誌 (La Sentinelle) との間でロマン主義に関する論争が行われてからのことだった[10]。また、パリに対してその約半分だったブリュッセルの印刷費とフランス第二帝政の厳しい言論統制により、ブリュッセルでフランス向けの海賊出版物が数多く出版されている[10]。この海賊出版はバルザックの『19世紀フランスの作家たちへの書簡』で激しく非難されている[10]。この状態は1852年4月22日にフランス・ベルギー両政府間で「文学・芸術著作権に関する相互保護協定」が締結されるまで続いた[10]。この海賊出版をめぐる論争はフランスのロマン主義に対する攻撃にも発展した。1836年の『ベルギー評論』ではすでに「想像力のもとで良識を抑圧しようとするこの新しい文学は、風俗を廃れさせ、道徳を破壊し、悪徳と罪とに、金の小片を散りばめた真っ赤なマントを纏わせている」と非難されており、1846年には詩人ラウルの『ユゴーに反して』(L'Anti-Hugo) というロマン主義を激しく非難する小冊子が刊行され、ブリュッセルではその後次々とロマン主義を攻撃する風刺的小冊子が刊行された[10]。海賊出版論争の間にベルギー言論界はフランスの自由主義的ロマン主義と自らの矛盾を自覚してベルギー・ナショナリズムが萌芽し、ゲルマン的ロマン主義の模倣を経由しベルギー独自の幻想文学に至っている[10]。このロマン主義を受容した時期に書かれた小説としてヘンドリック・コンシャンス(英語版)(アンリ・コンシャンス)のロマン主義的歴史小説『フランデレンの獅子』(1839年)が挙げられる[10]。
      ポルトガル
      ポルトガルのロマン主義はフランスのそれの影響が強く[11]、ポルトガルにおいてロマン主義は、1825年に詩人のアルメイダ・ガレットが亡命先のフランスで発表した『カモンイス』(1825年)によって導入された。ガレットのほかに初期のポルトガル・ロマン主義の形成に大きな役割を果たした人物として、歴史家であり、詩人でもあるアレシャンドレ・エルクラーノの名を挙げることができる。写実主義の萌芽が見られるジュリオ・ディニスや、『破滅の恋』(1862年)のような恋愛小説を残したカミロ・カステロ・ブランコ のような第二世代に続いて保守的で形式的な超ロマン主義が文壇を支配し、こうした超ロマン主義に対して1865年に反ロマン主義者がその後進性を批判したコインブラ問題は、ポルトガルの後進性をめぐる文学論争に発展した。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ポーランド
      ポーランドのロマン主義(Romantyzm)は、ポーランド分割に参加したドイツの諸作家およびイギリスのバイロンの影響を強く受けた。1831年のポーランド蜂起から1863年の第2次ポーランド蜂起までが盛んな期間であった。
      ポーランドロマン主義三大詩人と呼ばれるアダム・ミツキェヴィチ、ユリウシュ・スウォバツキ、ジグムント・クラシンスキや、歴史小説で知られるユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキらが活躍した。ロマン主義隆盛のあと、ポーランド文学は19世紀後半の実証主義、自然主義に向かっていくことになる。
      キューバ
      キューバにおいてロマン主義は、スペインの植民地支配に対する抵抗の手段としての役割を果たした[12]。1830年代から1840年代にかけてキューバのロマン主義文学者はドミンゴ・デル・モンテが創刊した雑誌『レビスタ・ビメストレ・クバナ』(1831 - 1834)に集結し、その中から重要な批評家が現れた。その他にもキューバのロマン主義者として、反スペイン運動に参加した叙事詩人ホセ・ハシント・ミラネスのような人物の名を挙げることができる。
      アルゼンチン
      アルゼンチンにおいてロマン主義は、1829年から1852年までアルゼンチンを独裁的に支配したフアン・マヌエル・デ・ロサスとの関係の中で培われた。ロマン主義がラ・プラタ川流域に登場したのは、フランスのロマン主義に影響を受けたエステバン・エチェベリーアの『エルビア、もしくはエル・プラタの恋人』(1832年)によってであった[13]。エチェベリーアはその後『調べ』(1837年)などを著したあとに、ロサスと決定的に敵対したためにウルグアイに亡命し、亡命先でロサスの圧政から着想を得て暴力を描いた小説『エル・マタデーロ』(1840年)を著した。
      エチェベリーアがそうであったように、ロサスの反対者は「1837年の世代」と呼ばれるグループを結成し、亡命先からロサスと対立したが、そのような人物の中で特に優れていたのはチリに亡命していたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントだった。サルミエントはラ・リオハ州のカウディーリョ、フアン・ファクンド・キロガの生涯を描いた『ファクンド』(1845年)で、アルゼンチンにおける「野蛮」なガウチョやカウディーリョと、「文明」であるヨーロッパの文化との対立を描いている。
      ロサス失脚後のロマン主義に位置づけられる作家には、『アマリア』のホセ・マルモルや、ガウチョ文学(英語版)の大成者であり、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれる叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』(1872年)を著したホセ・エルナンデスの名が挙げられる。
      ブラジル
      ジョゼ・デ・アレンカール
      ブラジル帝国においてロマン主義は、ゴンサルヴェス・デ・マガリャンイスの『詩的吐息と感情』(1836年)によって導入された[14]。ブラジルのロマン主義はヨーロッパの形式の模倣に過ぎなかったが[15]、扱われた主題は新たな国民国家のアイデンティティに関するものだった[15]。ヨーロッパのロマン主義において英雄と見なされたのは中世の騎士だったが、中世を経験せず、騎士も存在しなかったブラジルにおいてその役割はインディオによって担わされることになり、インディアニズモと呼ばれる文学潮流が生まれた[15]。その中で目標とされたのは、「ブラジル語」の創造だった[15]。このように、ロマン主義文学者の想像上のインディオはインディアニズモの潮流の中で賞賛されたが、奴隷制に苦しむ黒人は少数の例外を除いてロマン主義文学者のテーマにはならず[16]、実際に存在するインディオに対しては無関心、または敵対的な政策がとられた。
      ブラジルロマン主義の文学者としては、詩においてインディアニズモを開拓したムラートのアントニオ・ゴンサルヴェス・ディアス[17]、インディアニズモ小説の『イラセマ』と『グアラニー』でブラジルロマン主義の頂点に立ったジョゼ・デ・アレンカール[14]、『ある在郷軍曹の回想録』(1852年)で帝都リオの風俗を描き、上流階級を揶揄したマヌエル・アントニオ・デ・アルメイダ[16]、ブラジルロマン主義に「笑い」をもたらし[14]『苦しめられし犠牲者たち』(1869年)で黒人に若干の偏見を持ちながらも黒人奴隷制を告発したジョアキン・マノエル・デ・マセード[16]、ヴィクトル・ユーゴーの人道主義に共感し、奴隷制廃止運動に携わった詩人カストロ・アルヴェス[16]、『奴隷女、イザウーラ』(1875年)で白人女性のような黒人女性を描いたベルナルド・ギマランエス[16]などの名が挙げられる。

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому +1

    右翼、右派
    (うよく、うは/英:right-wing, rightist, the Right)とは、保守主義・反動主義的な思想や運動、または急進・共産主義に対して漸進・反共産主義勢力や人物を指す。 左翼の対立概念である。
    左翼、左派
    (さよく、さは/英語: left-wing, the Left)とは、政治においては通常、「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」を指すとされる。 リベラル、共産主義、社会主義のほか、全体主義、急進的な自由主義、無政府主義などの様々な傾向がある。
    保守
    (ほしゅ)または保守主義(ほしゅしゅぎ、英: conservatism)とは、従来からの伝統・習慣・制度・考え方を維持し、社会的もしくは政治的な改革・革命・革新に反対する思想のこと。 過激な傾向を拒否し、穏健な立場を奉ずる人物・勢力・政党は保守主義者(英: conservative)と呼ぶ。
    主義
    (しゅぎ)は、人、団体や政府が主張や行動の指針にする原則や思想である。
    概要
    「主義」は中国の史記にも出現するほど古い言葉であり、「信じている一定の主張」を意味した。明治前期に英語「principle」の訳語として定着し、その後英語「-ism」の訳語としても使われるようになった。「principle」を「主義」と訳したのは福地源一郎(福地桜痴)だとする説もある。
    主義の一覧
    ここには「主義」で終わる言葉や、「イズム(-ism)」で終わり「主義」と訳しうる言葉を以下に集めた。
    タイトルに「主義」を含むページの一覧
    目次: あ い う え お か き く け こ さ し す せ そ た ち つ て と な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ ま み む め も や ゆ よ ら り る れ ろ わ

    愛国主義(あいこくしゅぎ)⇒愛国心
    悪魔主義(あくましゅぎ)
    アジア主義(-しゅぎ)
    アナキズム
    アナルコ・キャピタリズム
    アナルコサンディカリスム
    アメリカ第一主義
    アメリカ帝国主義(-ていこくしゅぎ)
    アラビア語帝国主義(-ごていこくしゅぎ)
    アルテルモンディアリスム
    アルピニズム
    アルミニウス主義(-しゅぎ)
    アンケート至上主義(-しじょうしゅぎ)
    アンチセミティズム
    アンチ・フェミニズム
    アーリア人至上主義

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

    西欧の保守の原点、保守という言い方は西欧の物である。日本では独立農場地主とでもいえばよかろう。だが、それでも足りないが。
    ・ソロン
    (ソローン、古希: Σόλων, Solōn、紀元前639年頃 - 紀元前559年頃)は、古代アテナイの政治家、立法者、詩人、本名は不明。当時のアテナイにおいて、政治・経済・道徳の衰退を防ごうとして法の制定に努めたことで有名である。この一連の法制定はソロンの改革と呼ばれ、短期間のうちに失敗したが、アテナイの民主主義の基礎を築いたとして、しばしば高い評価を受けている[1][2][3][4]。
    ソロンについての史料は、紀元前6世紀前半のアテナイにおける文書や考古学的史料が不足しているため、あまり多くない[5][6]。愛国的なプロパガンダとして、そして、彼の政治的改革の弁護のために、彼は詩を残したが、彼の作品は、断片として残っているだけである。その断片についても、後の作家たちによって改ざんされ、断片が誤って彼の作とされた可能性が指摘されている(#改革者として、詩人としてを参照)。主な史料はヘロドトス、プルタルコスのような古代[注 1]の作家の著書であるが、彼らは、歴史学がまだ学問の一分野と見なされていない上に、ソロンの死からずいぶん経った時代に作品を著した。後の時代、アイスキネスのような紀元前4世紀頃の演説者は、アテナイの全ての法律をソロンの成果だと考えた[6][7]。
    哲学者プラトンとは遠縁にあたる。具体的な関係は、クリティアスの系図を参照。また、ギリシア七賢人の一人として知られている。
    ・ペイシストラトス
    (ギリシャ語: Πεισίστρατος, ラテン文字転写: Peisistratos、紀元前6世紀頃 - 紀元前527年)は、古代アテナイの貴族で僭主。七賢人の一人ソロンの友人であったが、政治思想では対立し、彼を亡命に追いやった。
    ・タレス
    (タレース、古希: Θαλής、羅: Thalēs、紀元前624年頃 - 紀元前546年頃)は、古代ギリシアの哲学者。タレスの定理の生みの親である。ミレトスのタレス(古希: Θαλής ὁ Μιλήσιος)とも呼ばれる。
    ・ヘロドトス
    (ヘーロドトス、古希: Ἡρόδοτος, Hēródotos、羅:Herodotus、紀元前484年頃 - 紀元前425年頃)は、古代ギリシアの歴史家である。歴史という概念の成立過程に大きな影響を残していることから、歴史学および史学史において非常に重要な人物の1人とされ、しばしば「歴史の父」とも呼ばれる。
    彼が記した『歴史』は、完本として現存している古典古代の歴史書の中では最古のものであり、ギリシアのみならずバビロニア、エジプト、アナトリア、クリミア、ペルシアなどの古代史研究における基本史料の1つである。
    生没年は不詳であり、生年は大雑把に前490年から前480年までの間とするのが定説である[1]。前484年説がしばしば採用されるが、明確な根拠を伴ったものではない[1][2]。没年は前430年以降であることは明白であるが、これも正確には不明である[3]。概ね前490年-前480年の間に生まれ、前430年から前420年の間に、60歳前後で死亡したとするのが一般的である[3]。
    ・リュクルゴス
    (リュクールゴス、古希: Λυκοῦργος、前11世紀から前8世紀の間ごろ[1])は、古代ギリシア・スパルタの伝説上の立法者・王族。「スパルタ教育」で知られるスパルタ独自の国制、通称「リュクルゴス体制」を創始した[2][注釈 1]。実在したか定かでない[5][6]。
    ・ミルティアデス(希: Μιλτιά
    δης、Miltiades、紀元前550年頃 - 紀元前489年)は、アテナイの軍人。ヘレスポントスのケルソネソスの僭主であったが、イオニアの反乱以後、アテナイに戻って将軍となり、マラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合軍を率いてペルシア軍を破った。
    ・テミストクレス(テミストクレース、希: Θεμιστοκλής、英: Themistocles、紀元前524年から520年頃 - 紀元前459年から455年頃)は、 アテナイの政治家・軍人[1]。紀元前493年から紀元前492年まで(諸説あり)、アテナイのエポニュモス・アルコーン(英語版)(執政官)を務め、アテナイをギリシア随一の海軍国に成長させ、ペルシア戦争の勝利を導いた。
    1955年からギリシャで発行されていた旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。
    ・ペリクレス
    (ペリクレース、古希: Περικλῆς、紀元前495年? - 紀元前429年)は、古代アテナイの政治家・将官であり、アテナイの最盛期を築き上げた重鎮として有名である。また、彼と愛人アスパシアとの間に生まれた庶子で、後に軍人になった小ペリクレス(英語版)と区別して大ペリクレスとも呼ばれる。
    ・プラトン
    (プラトーン、古代ギリシャ語: Πλάτων、Plátōn、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。
    プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた[注 1]。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする[1]。
    青年期はアテナイを代表するレスラーとしても活躍し、イストミア大祭に出場した他、プラトンという名前そのものがレスリングの師から付けられた仇名であると言われている[2]。
    ・アリストテレス
    (アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης[注釈 1]、羅: Aristotelēs、前384年 - 前322年[1])は、古代ギリシアの哲学者である。
    プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる[2]。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。様々な著書を残し、イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。
    アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア[注釈 2]と呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている[3]。
    名前の由来はギリシア語の「Ἀριστος」(最高の)と「τελος 」(目的)から [4]。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      レオニダス2世
      (希: Λεωνίδας Β'、ラテン文字転記:Leonidas II、紀元前315年 - 紀元前235年、在位:紀元前254年 - 紀元前240年/紀元前240年 - 紀元前235年)はアギス朝のスパルタ王である。
      略歴・人物
      レオニダス2世はクレオメネス2世の孫で、王にならなかったクレオニュモスの息子である。レオニダスは成人に達していなかったアレウス2世の後見人を務め、その死後には老齢にもかかわらずその王位を継いだ[1][2]。
      王位につく前、長らくセレウコス朝シリアのセレウコス2世に仕え、オリエント式の習俗を身につけていたレオニダスは質実剛健を旨とするリュクルゴス制度からの市民の逸脱を黙認し、富裕者の味方だった[3]。そして、彼は共同統治者のエウリュポン朝の王アギス4世の貧困にあえぐ市民のための改革に反対した。そこでアギス派の監督官であったリュサンドロスは、異国で育てられ、異国の妻を娶っていたレオニダスを「ヘラクレスの子孫たるスパルタ市民は異国の女との間に子を儲けるべからず、またスパルタより異国に移住したる者は殺害すべし」という古い法律、レオニダスが父の前でスパルタを破滅させるという誓いを立てたことを持ち出して弾劾した[4][5]。レオニダスはアテナ神殿に逃げ込んだものの、有罪判決を受けて王位を追われ、紀元前240年にアルカディアに亡命した[6]。王位にはレオニダス娘婿クレオンブロトス2世が登った。しかし、この時アギスはレオニダスの命を奪おうとはせず、これが後のアギスの破滅に繋がった。
      その後、監督官のアゲシラオスの助力によって帰国したレオニダスはアギスとクレオンブロトスへの復讐に取り掛かった。まず娘の懇願に負けて命は奪わなかったもののクレオンブロトスを追放し、アギスを捕らえてその祖母と母もろとも処刑し、自らは復位した[7]。また、アギスの妻アギアティスは多額の財産とずば抜けた美貌を誇っていたので、レオニダスは無理矢理自らの息子クレオメネス3世と結婚させた[8]。次代の王にはクレオメネス3世が就いた。
      ・リュサンドロス
      (ギリシャ語: Λύσανδρος, ラテン文字転写: Lysandros、英: Lysander、? - 紀元前395年)は特にペロポネソス戦争後期に活躍したスパルタの将軍・提督である。
      ペロポネソス戦争以前
      リュサンドロスはアリストクレイトスの子である。リュサンドロスの若い頃についてはあまり分かっていないが、彼はヘラクレス家の一員であったようであるが、家は貧しかった。彼は金銭や物品などの物質的富に対しては寡欲であったが、名誉に対する欲望は強かった[1]。
      ペロポネソス戦争
      リュサンドロスはペロポネソス戦争の後半にスパルタ艦隊を指揮した。彼は紀元前405年にペロポネソス戦争最後の海戦アイゴスポタモイの海戦でアテナイ艦隊と戦った。この海戦でリュサンドロスは敵を油断させた後に奇襲するという作戦でアテナイ艦隊を完膚なきまでに破り、アテナイの穀物輸送ルートを押さえた[2][3]。その後、アテナイはスパルタ軍に包囲され、翌紀元前404年に無条件降伏に追い込まれた。
      ・エパメイノンダス
      (古希: Επαμεινώνδας, 紀元前420年? - 紀元前362年)は、古代ギリシアのボイオーティア地方の都市テーバイの将軍・政治家である。エパミノンダス (Epaminondas) とも呼ばれる。レウクトラの戦いで、斜線陣を用い、神聖隊を率いて、最強と謳われたスパルタ軍を破った。
      現在のテーバイ改めティーヴァ市のメインストリートの一つにはエパメイノンダスの名が付けられており、その一角に彼の銅像が建てられている[1]。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ・トゥキュディデス(トゥーキュディデース、古希: Θουκυδίδης, Thukydides/Thucydides、紀元前460年頃 - 紀元前395年)は、古代アテナイの歴史家で、オロロス (Olorus) の子である。ツキジデスなどとも[1]。
      略歴
      代表作は、ペロポネソス戦争を実証的立場から著した『戦史(ペロポネソス戦争の歴史)』(Ιστορία του Πελοποννησιακού Πολέμου) である。トゥキュディデスは、この戦争に将軍として一時参加したが、紀元前422年のトラキア・アンフィポリス近郊での失敗により失脚、20年の追放刑に処された。このためスパルタの支配地にも逗留したことがあり、この時の経験によって双方を客観的に観察することができたとも言える。また、トゥキュディデスの罠などの概念を生み出したと伝えられる。
      なお、今もって理由は不明だが、トゥキュディデス『戦史』の記述は紀元前411年の記述で止まった(それ以降も彼は生き続けたので、少なくとも中断は死によるものではない)。後に哲人ソクラテスの弟子クセノポンが中断部分から筆を起こし、紀元前362年までを記録した『ギリシア史(ヘレニカ)』(Ἑλληνικά) を著し、ペロポネソス戦争の記録を完成させた。
      トゥキュディデスは先人の歴史家ヘロドトスの『歴史(ヒストリアイ)』(ἱστορίαι) と対比される。特徴として、同時代の歴史を扱った著作では、特定の国家を贔屓せず中立的な視点から著述していること、政治家・軍人の演説を随所に挿入して歴史上の人物に直接語らせるという手法を取っており、中には裏付けがあるとは思えない演説や対話も入っていることが挙げられる。演説では、開戦一年目の戦没者合同追悼式に際してのペリクレスによる演説が最も名高い。
      ・プルタルコス
      (希: Πλούταρχος、羅:Plutarchus、46年頃 - 119年以降)は、帝政ローマのギリシア人著述家。著作に『対比列伝』(英雄伝)などがある。英語名のプルターク(Plutarch [ˈpluːtɑrk])でも知られる。
      略歴
      ボイオティアにあるカイロネイアの名門出身。アテナイで数学と自然哲学を学び、ギリシャ本土と小アジアのサルディス、エジプトのアレクサンドリアに赴き、カイロネイアの使節としてローマにも度々滞在した。生涯を故郷で過ごし、市民と親しく付き合い、ローマからの客をもてなしたので、家は大いに賑わったとされる。一方では、デルフォイ神殿の神官と交流を持ち、神託を推奨した。
      思想的には、アカデメイア派または中期プラトン主義に属し、その他ストア派やペリパトス派の考え方も取り入れ、折衷主義、穏健な懐疑主義[1]の立場をとった。
      著作
      著作活動に熱心で、3世紀頃に編纂されたプルタルコス著作目録『ランプリアス・カタログ(wikidata)』には、『対比列伝』(英雄伝)をはじめ、227もの書物が挙げられている。
      『対比列伝』は1人の人物を記述した単独伝記4編と、古代ギリシアの人物と古代ローマの人物を対比した対比列伝22編からなる。対比列伝では、アテナイの王テセウスと王政ローマを建国したロムルス、スパルタの立法者リュクルゴスとローマの古王ヌマ、アレクサンドロス3世(大王)とカエサル、などが対比されている。
      この『対比列伝』は16世紀にジャック・アミヨによる仏訳がなされ、その仏語版から17世紀のサー・トマス・ノースが訳した英語版を参考にシェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ』、『コリオレイナス』などのローマ史劇を執筆したとされる[2]。
      『倫理論集(モラリア)(英語版)』は政治・宗教・哲学などについて論じた随想集であり、エッセーの起源であるとされる。のちにモンテーニュやラブレーなどのルネサンス期のフランス文学や、ラ・ロシュフーコーなど17、18世紀のフランスモラリストに、大いなる影響があった。
      日本語訳
      対比列伝
      『英雄伝』全6巻、柳沼重剛・城江良和訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2007年‐2021年[3]
      『プルターク英雄伝』全12巻、河野与一訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1952年-1956年。初の原典完訳(度々復刊)
      『プルタルコス英雄伝』全3巻、村川堅太郎編、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1996年
       抜粋版で元版は『世界古典文学全集23 プルタルコス』筑摩書房、1966年
      『プルターク英雄伝』全8巻、鶴見祐輔訳、潮出版社〈潮文庫〉、1971年-1972年、新版1984年。※英訳版からの重訳[4]、抜粋版は、潮文学ライブラリー(全1巻、2000年)
      『プリューターク英雄伝』 澤田謙訳[5]、講談社文芸文庫、2012年。訳者独自の視点での編訳本
      『新訳 アレクサンドロス大王伝』 森谷公俊訳・解説、河出書房新社、2017年
      倫理論集(モラリア)
      『モラリア』全14巻、戸塚七郎・松本仁助・伊藤照夫・瀬口昌久ほか訳
      京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1997年-2018年に刊行
      『倫理論集の話』(抜粋訳) 河野与一選訳、岩波書店、1964年、復刊1983年ほか
      『モラリア』抜粋版は以下。各・柳沼重剛訳(岩波文庫)
      『饒舌について 他五篇』(1985年)
      『愛をめぐる対話 他三篇』(1986年)
      『食卓歓談集』(1987年) - 「酒席で哲学論議をしてもよいか」など33編。
      『似て非なる友について 他三篇』(1988年)
      『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(1996年)
      『古代ホメロス論集』 内田次信訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2013年
      プルタルコス「ホメロスについて 1・2」/ヘラクレイトス「ホメロスの寓意」を収録
      研究
      『『英雄伝』の挑戦 新たなプルタルコス像に迫る』
      小池登・佐藤昇・木原志乃編、京都大学学術出版会、2019年
      ・ロームルス
      (Romulus、紀元前771年 - 紀元前717年7月5日)は、ローマの建国神話に登場するローマの建設者で、伝説上の王政ローマ建国の初代王である。レムスの双子の兄弟。ロムルスとも呼ばれる[1]。
      ラテン人貴族の子としてアルバ・ロンガに生まれ、大叔父アムーリウスを倒して祖父ヌミトルをアルバ王に復位させるなど、様々な冒険を経てローマを建国した。最初の国王として元老院や軍団(レギオー)、七つの丘の城壁など古代ローマの根幹となる概念を整備した。
      また勇敢な王として他のラテン都市やサビーニー都市を征服して国を豊かにしたが、同時に強権的な王として元老院とは対立したという。
      ・ヌマ・ポンピリウス
      (Numa Pompilius, 紀元前753年 - 紀元前673年)は、王政ローマにおける第2代の王(在位:紀元前715年- 紀元前673年)。この時代のローマは史料に乏しく、一般的には伝説上の存在だと考えられている人物である。戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王ロムルスとは異なり、42年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされている。後世皇帝アントニヌス・ピウスはヌマに比肩された[1]。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      ・ルキウス・ユニウス・ブルトゥス
      (ラテン語: Lucius Iunius Brutus)は、共和政ローマの実質的な設立者。紀元前509年、第7代ローマ王タルクィニウス・スペルブスを追放して共和政を布き、初代執政官(コンスル)に就任した。
      ・プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ(ラテン語: Publius Valerius Publicola ポプリコラ(Poplicola)とも、? - 紀元前503年)は、共和政ローマ初期の半伝説的な政治家である。ルキウス・ユニウス・ブルトゥスらと共に王を追放し、史上初の補充執政官に就任した後も更に3度執政官を務めた。「プブリコラ」とは「民衆の友」を意味する。
      ・マルクス・フリウス・カミッルス
      (ラテン語: Marcus Furius Camillus, 紀元前446年 - 紀元前365年)は、共和政ローマの軍人・政治家。独裁官に5回推薦された。ロムルスに次ぐローマ第二の創建者と謳われる。
      生涯
      プルタルコスによると、フリウス氏族はあまり有力な氏族ではなかったが、カミッルスは紀元前431年の独裁官アウルス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスの元で武勲を立て[注釈 1]、ケンソルに任じられた。ケンソルとしては、独身男と寡婦との結婚を推し進め、両親を亡くした人に課税するなどしたという[1]。
      紀元前396年、カミッルスはローマ軍を率いてローマから程近いウェイイというエトルリア人の町を攻略した。ローマ市民たちはローマよりも都市設備の整ったウェイイに首都を遷そうと言ったが、カミッルスは「ローマを捨てることはローマの神々を捨てることであり、ローマを離れれば我々はローマ市民ではなくなる」と言って真っ向からこれに反対した。そこで市民たちはカミッルスにあらぬ罪状をかけて追放しようとした。
      これを知ったカミッルスは友人たちに相談したが、友人たちは「君に課せられる罰金を集める手伝いは出来そうだが、追放に反対する票を集めることは出来そうにない」と言った。カミッルスは指揮官としては非常に有能であったが、強引で物事をはっきり言う男であった。ウェイイ攻略戦の際にはローマの有権者たちからなる軍団にローマ軍初と言われる冬営を強いており、ウェイイ攻略戦による凱旋式は派手に行いすぎ、別の戦役では兵士たちが略奪をしたがっている時に無血開城させてしまうなど、市民からの人気が非常に低かったのである。当時、自らローマを去った人間に対しては、その罪を問わないとする風習があったので、カミッルスはローマを去った。
      フランチェスコ・デ・ロッシ画、『カミッルスの凱旋式』(1545年)
      しかし紀元前387年、カミッルスがローマを去ってすぐに、ローマはブレンヌスに率いられたケルト人(ガリア人のセノネス族)の襲来をうけて滅亡寸前に追い込まれる(アッリアの戦い)。ローマ市民たちはこれを神の怒りであると考え、カミッルスの言った通りになったことを後悔した。カミッルスはケルト襲来を受けて散り散りになったローマ市民を取りまとめローマに向かって進軍する。 そのころローマの一角に立てこもった市民たちはケルト人の王に身代金と引き換えに兵を撤退させるように交渉をしていた。ケルト人は秤に細工してより儲けようと図ったが、それに気がついたローマ人がそれを指摘すると「敗者に災いあれ。」と答えた。そこに駆けつけたカミッルスは「ローマは金ではなく、剣でお返しする」と告げて戦闘が開始され、ケルト人を散々に打ち破った。
      この時のカミッルスの言葉はその後ローマの国防の指針となり、以後ドミティアヌス帝の時代に至るまでの約400年間、ローマが身代金と引き換えに捕虜の解放を要求した例はない。その後カミッルスは独裁官に任命されてローマ復興を任された。
      ローマがケルト人の襲来を受けて荒廃すると、ローマを中心とするラティウム同盟の結束にもひびが入り、各地でローマに叛旗を翻す部族・都市国家が続出したが、カミッルスは20年かけて周囲の反乱を全て鎮定し、4度もの凱旋式を挙げる名誉を受けた。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      アッピウス・クラウディウス・カエクス
      (ラテン語: Appius Claudius Caecus、 紀元前340年 - 紀元前273年)は、共和政ローマ期の政治家・軍人。クラウディウス氏族のパトリキ (貴族)系出身。二つ名の「カエクス」は「盲目」の意である。アッピア街道とアッピア水道の建設者として知られる。
      一族
      紀元前349年の執政官 (コンスル) アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシスの孫である[1]。クラウディウス氏族は初代アッピウス・クラウディウス・サビヌス・インレギッレンシスがローマに移住して以来、代々弁舌に優れ、プレブス (平民)の敵として描かれており、彼にもその側面が見て取れる。
      ローマ共和制偉人伝によると、アッピウス・クラウディウス・カウデクスはカエクスの弟であるという[2][注釈 1]。
      また、スエトニウスはティベリウス伝の中で、ティベリウスの先祖は父方母方共にカエクスの子であり、その名前をティベリウス・ネロとアッピウス・プルケルであるとしているが、その内容には矛盾があり、全幅の信頼は置けない[3]。
      略歴
      アッピア街道
      アッピア水道
      ケンソルとして
      アッピウスは、第二次サムニウム戦争中の紀元前312年、ガイウス・プラウティウス・ウェノックスと共にケンソルに就任した[4]。彼は下層階級の支持を得るために、いくつかの政策を打ち出した。まず、解放奴隷の息子をローマ市民とし、彼らが元老院に入れるようにした[5]。さらに、土地を所有しない無産市民をトリブス民会に割り振り投票権を与えた[6]。これらの政策は下層階級の不満を抑制し、戦争遂行のために必要な税金や労役を彼らに負担させることが可能になった。
      しかしながら、これらの改革はアッピウスがプレブスと戦う上で支持者を増やすためとの考察もある。スエトニウスのティベリウス伝では、ドルススがクラウディウス氏族でイタリアを支配しようと画策したとの記述があるが、これは紀元前450年と紀元前249年の出来事の間に置かれており[7]、ドルススではなくカエクスのケンスス(国勢調査)を指すものと考えられている[8]。ディオドロスは、アッピウスが全市民に望み通りのトリブスとケントゥリアにおけるクラシス(階級)への登録を許可したとしているが[9]、これに対する一般市民やパトリキの反感が相当のものであったことは、ディオドロスだけでなくリウィウスも記している[5]。
      リウィウスが「広場の徒党」と (苦々しく)呼ぶこれらの無産市民は、紀元前304年にケンソルを務めたファビウス・マクシムスによってローマ市内の4つの都市トリブスに押し込められる事になり、人々に非常に感謝されたファビウスはマクシムスの尊称を贈られたという[5]。恐らくアッピウスは、ローマ市内だけでなく農村部に居住し、資産を蓄えつつあった解放奴隷を取り込むことで彼らの支持を集め、トリブス民会での影響力を増したが、彼らがケントゥリア民会や軍務の上で重要な地位を占めることはなかったと考えられている[8]。
      更にアッピウスの業績としては、ローマ帝国における全ての街道の模範であり「街道の女王」と称された、アッピア街道の敷設が挙げられる[10]。加えて彼はローマ初の上水道であるアッピア水道をも建設しており、「インフラの父」と呼ばれるローマ人の中でも特筆されるべき偉大な人物といえる。ティトゥス・リウィウスによると、元老院議員の選出方法で恨まれたため同僚が辞職した後、一人で建設を成し遂げたという[4]。
      しかし、ユピテル神殿での儀式に欠かせない笛吹たちの権利を制限したため、彼らの怒りを買ってストライキに発展した事件も起こっている[11]。
      辞任拒否
      ケンソルの任期は、紀元前434年の独裁官アエミリウス・マメルキヌスの定めたアエミリウス法によって、従来の5年間から1年半に短縮され、長い間それが守られてきた。しかしアッピウスは任期が過ぎ同僚のプラウティウスが辞任しても、自らは辞任しようとせず、アエミリウス法はその当時のケンソルに対してのみ効力を持つものであり、その後のケンソルや自分には無効であると詭弁を弄し、護民官プブリウス・センプロニウスと対立した。センプロニウスは過去の様々な事例をひいて説得しようとしたが、無理とわかるとアッピウスの逮捕を命じた。しかし10人の護民官のうち3人がそれに反対したため、人々の反感のなかアッピウスはケンソルを務め続けたという[12]。
      更に彼はケンソル職にありながら執政官選挙にも立候補したため、護民官のルキウス・フリウスによって妨害されており、紀元前308年にファビウス・マクシムスのインペリウム延長 (プロコンスル就任)を元老院が決定した際には延長に反対している[13]。
      執政官 (紀元前307年)
      ケンソル辞任後の紀元前307年には執政官に当選する。同僚はウォルムニウス・ウィオレンスで、彼とプロコンスルのファビウス・マクシムスが外敵に当たる間、アッピウスは内政に専念したという[14]。
      オグルニウス法
      紀元前300年、護民官であったクィントゥスとグナエウスのオグルニウス兄弟によって、今までパトリキによって独占されていた神官とアウグルを増員し、プレブスをねじ込む法案が提案された。アッピウスはこれに反対し、支持派のデキウス・ムスと論争になった。デキウスはプレブス出身であり、同名の父は第二次ラティウム戦争においてローマの勝利のため我が身を生贄とした英雄である。彼は独裁官、騎兵長官、プラエトル、ケンソル、シビュラの書管理委員といった要職がプレブスに開放されてきた事実を並べて支持を訴え、一度は護民官の拒否権によって投票を妨害されたものの、オグルニウス法は成立した[15]。
      執政官 (紀元前296年)
      紀元前297年の末、サムニウム相手に勝利したその年の執政官ファビウス・マクシムスが続けて翌年の執政官に当選した。選挙に立候補していたアッピウスは、二人の執政官のうち片方をプレブスとするリキニウス・セクスティウス法を無視して自分も当選させるよう運動し[注釈 2]、ファビウスに圧力をかけた。しかしファビウスは自ら身を引くことで法を守り、翌紀元前296年の執政官はアッピウスと前回の同僚ウォルムニウス・ウィオレンスが務める事となった[16]。
      前年の執政官ファビウス・マクシムスとデキウス・ムスは更に半年間プロコンスルとしてサムニウム戦争を継続する事となり、ウォルムニウスもそれに加わった。しかしサムニウム人指揮官の扇動によってエトルリアに反ローマ陣営が集結しつつあり、アッピウスがこれに対処する事となった。ウォルムニウスはアッピウスの援軍要請によってサムニウム戦線からエトルリアへ駆けつけたが、当のアッピウスはそれを否定し同僚を追い返そうとした。これに慌てた将校たちが両者をとりなし、また兵たちもウォルムニウスを引き止めたため、共同して敵を倒した。リウィウスによると、アッピウスはこの戦いの最中、戦の女神ベローナに神殿の奉献を誓約して最前列で兵たちを督戦し、ローマ軍は7800人を倒し、捕虜も2120人に達したという[17]。
      この年、サムニウム人によって荒らされた地域の防衛強化のため、ミントゥルナエとシヌエッサへの入植が決定されたが、希望者が少なく、またエトルリア戦線のアッピウスから危機を知らせる報告が続々と届いたためウヤムヤとなり、翌年の政務官を決める選挙ではアッピウスはローマ不在のままプラエトルに選出された[18]。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e 10 місяців тому

      プラエトル (紀元前295年)
      プラエトルとして引き続きエトルリア戦線を担当したアッピウスは、二重の柵と堀によって堅固な陣営を築いていた。エトルリア担当となった執政官ファビウス・マクシムスが到着すると、兵たちが更に木材を調達しようとしていた。ファビウスはそれを咎め、柵を引き抜くように命令したところ、兵やアッピウスは恐怖に駆られたという。アッピウスはすぐにローマに召還された[19]。陣営を引き払い機動力を高めたファビウスの軍は、同僚執政官デキウス・ムス (彼とは三度目のコンビである)と共に、センティヌムの戦いに挑んだ。
      センティヌムでは苦戦したものの、父と同じく自らを生贄に捧げたデキウス・ムスによってローマ軍は勝利した。しかしサムニウム人はカンパニア北部を荒らしたため、デキウスの残存部隊を率いたアッピウスと当時プロコンスルだった以前の同僚ウォルムニウスがこれに対処した。今度は共同で事にあたった二人は激しい戦闘の末勝利し、敵側の損害は16000、捕虜2700人を得たのに対し、ローマ側の損害は2700という勝利を飾った。しかし、この年は疫病が流行り、アッピウスの兵士が何人も稲妻に打たれるなど不吉な予兆が続いたため、シビュラの書が紐解かれたという[20]
      逸話
      アッピウスの経歴が刻まれた碑文によると、歴任した官職はケンソル一回、執政官二回、独裁官一回、インテルレクス三回、プラエトル二回、アエディリス二回、クァエストル一回、トリブヌス・ミリトゥム三回と、堂々たる経歴である。
      このように故国に多大な貢献を果たしたアッピウスではあるが、反面、執政官を選出するインテルレクスとしては、プレブスを執政官職に就ける事に猛反対していたという[21]。
      晩年には、「カエクス」(盲目)という二つ名がつけられたが、これには長年の労苦からという説と、ヘラクレスの祭司を買収して秘儀を明らかにしようとしたため呪いを受けたからという説がある[21]。リウィウスによると、ケンソルを務めていた時、ヘラクレスの神官を代々務めていたポティティウス氏族から国家の奴隷に祭祀を引き継がせたところ、神の怒りかポティティウス氏族は絶滅し、アッピウスも盲目となったという[4]。ディオドロスはもっと辛辣で、アッピウスは自身の野心のために国家歳入をつぎ込んでインフラ整備を行い、さらには解放奴隷を入れることで元老院を汚したため、元老院の恨みを躱すために失明したフリをして自宅に引きこもったとしている[9]。
      ピュロス
      紀元前280年より始まったエペイロス王ピュロスとの戦争(ピュロス戦争)では、ヘラクレアの戦いやアスクルムの戦い (紀元前279年)などで負けはしたものの、ピュロスにも犠牲を強いていた。ローマはピュロスと捕虜交換交渉を行ったが、ピュロスもローマ兵が皆逃げずに戦う姿を見て、和平交渉のため副官シネアスを使者として派遣した。元老院で和平について議論されたが、眼病のためしばらく休んでいたカエクスが登院し、諦めないよう演説したという[22]。
      この後もローマは粘り強く戦い続け、最終的にベネウェントゥムの戦いでピュロスと引き分けに持ち込み、イタリア半島から撤退させた。奇しくもこのベネウェントゥムの戦いを指揮したのは、アッピウスがその執政官就任に強硬に反対していたプレブス出身のクリウス・デンタトゥスであった。
      この叱責のエピソードは、その後「講和は勝利した場合に行い、敗北した場合は結ばない」というローマの伝統の元になったというが、信憑性は低いという指摘もある。

  • @tysmk9847
    @tysmk9847 9 місяців тому

    「江戸幕府のまま文明開化できたのでは?」(18:40)の部分については、もうちょっと勉強して発言してほしい。そもそも、なぜ幕末の志士の間で「尊王攘夷」の考え方が沸騰してきたのかといえば、江戸幕府が天皇の勅許も得ず、勝手に「関税自主権」を持てなくしたり、「治外法権」を認めたりと不平等条約を結んだからではないのか?そのおかげで、日本(人)はどれだけ被害を被ったか?この不平等条約が完全に撤廃されたのは、なんと日露戦争が終わった後である。この一つとっても江戸幕府や倒されるべきものだったし、浜崎さんも言っておられるように、幕藩体制のままでは、あの時代を乗り切ることはできなかったのではないかと思う。

  • @tamakifujiwara5242
    @tamakifujiwara5242 10 місяців тому +2

    江戸幕府のままで云々という人は、もう少しだけ安政の大獄を勉強した方がいい。徳川慶勝と徳川斉昭、その家中の胸の内が抜け落ちすぎている。